はんしん 北工業地域、北東は京都、宇治、大津、草津な達していた銅の精錬、製油、皮革、造船業があ移動し、阪神工業地帯の区域はさらに広がっ冷部分には半深成岩と同じ組織をもっ岩石がみ かわ なだ したみ られるので、マグマが固まった位置だけに着目 どの京滋工業地域を含み、前二者には鉄鋼、造り、灘、伊丹、池田の醸造、堺の鉄砲鍛冶、河た。しかし、戦災により大打撃を受けた。 戦後、糸偏プームとよばれる繊維産業の好して半深成岩とよぶのは望ましくない。現在で 船、石油化学などの重化学工業、後者には、軽内・和泉の農家で織られていた木綿、染色、 電機、化学、食料品と比較的歴史の古い繊維工晒などとともに、全国的に知られていた。一況、朝鮮戦争による特需。フームによって立ち直は鉱物粒の大きさを基準にして、細粒 ( 一 方、近代的工場制機械工業の先駆けは、明治政りをみせたが、全国に対する相対的比率は低下〇・〇五、、リメートル ) の火成岩を半深成岩、粗 業などが発達している。 し、関西経済は地盤沈下をきたしている。その粒 ( 五ミリメートル以上 ) ~ 中粒 ( 五 ~ 一ミリメー 阪神工業地帯の発展には、江戸時代に天下の府の殖産興業政策によって一八六九年 ( 明治 トル ) のものを深成岩、微細粒 ( 〇・〇五 : リメ 一 I) に設立された堺紡績所 ( 最初は薩摩藩が設復興のため、大規模な埋立地を造成し、石油化 台所として全国の物資を集散し、その売買によ さくらのみや ートル以下 ) のものを火山岩とよんでいる。 り蓄えられていた商業資本、古くから開けた農立 ) 、大阪市桜宮に設けられた造幣寮 ( 天七一。学、鉄鋼のコンビナートが建設されたが、逆に 〈千葉とき子〉 村地帯に栄えていた手工業、京阪神の大都市を現在の造幣局 ) 、大砲製造所 ( 天七一一。後の陸軍地盤沈下や大気汚染、水質汚濁などの公害問題火成岩 しよう 控えた大消費市場がその経済的原動力となって造兵廠 ) 、兵庫造船局 ( 一会三 ) などの官営工場がおこり、その除去に努力が払われている。阪阪神電気鉄道 ( 株 ) はんしんでんきてつどう もとまち いる。加えて瀬戸内海や淀川を利用する舟運のである。とくに造幣局は、イギリス人技師の指神工業地帯は、戦後、日本経済の高度成長に支大阪市の梅田と神戸市の元町を結ぶ本線のほ むこがわ えられて発達してきたが、今後は、中小企業のか、西大阪線、武庫川線があり延長四〇・一キ 便と、東海道と山陽道を中心とする陸上交通の導のもとに、貨幣のほか硫酸やソーダ、ガスな どの化学工業の始めとなり、陸軍造兵廠は鋳生産性向上を図るとともに、依然として高い比 ( 一九 ) の路線を保有する民営鉄道。一九〇五 便、明治以降整備された国鉄、私鉄の発達とい った地理的位置と交通上の優位があげられる。物、機械工業の発達のロ火となっ・た。やがて民率を占める軽工業中心の体質からどのように脱年 ( 明治三八 ) に日本最初の都市間電車として また、大阪湾沿岸をはじめ内陸の旧河床を開発 間の紡績工場ができ始め、一 八三年には大阪皮するかが、大きな課題である。〈安井司〉開業し、三三年 ( 昭和八 ) から三九年にかけて さんのみや さんげんや はんしんこうそくどうろ大阪神戸の終点を三宮へ、さらに元町へと地下線で してつくられた新田が工場用地として安価に入府三軒家 ( 現大阪市大正区 ) に一万錘の蒸気力阪神一局速道路 びわ による近代的で大規模な大阪紡績会社が生まれ市、神戸市ならびにその周辺地域において、自延長するとともに大阪の起点も梅田の地下駅へ 手できたうえに、琵琶湖を水源とする淀川が豊 ろっこうさんろくみやみず 富な工業用水を提供し、六甲山麓の宮水とよば た。その後、民間の紡績会社が次々に設立さ動車交通を円滑に処理し、都市の機能を維持乗り入れた。第二次世界大戦後は高架化が進ん し、増進させることを目的としてつくられる平でいる。ほかに阪神国道の上を走る路面電車の れる地下水を醸造用の良水として利用できたこれ、大阪は東洋のマンチェスターとよばれた。 とが立地要因としてあげられる。大阪には、江このほか、マッチ、メリャス、洋傘などの雑貨面交差のない自動車専用道路。一九六二年 ( 昭国道線もあったが、一九七四年 ( 昭和四九 ) に につしん 和三七 ) に設立された阪神高速道路公団が建廃止された。旧国鉄、阪急電鉄との間で激しい 戸時代からすでに工場制手工業の段階にまで発工業も発達した。こうした近代工業は、日清・ 競争が繰り広げられている大阪ー神戸間の輸送 日露戦争を契機に飛躍を設・管理運営にあたっている。当初は約五二キ の路線を整備する予定であったが、八六年現について、阪神電気鉄道では「待たすに乗れ 遂げ、綿糸、綿織物、メ る」をキャッチフレーズに頻発連転サービスを リャスなどの繊維工業を在、約二二六キ。の路線の建設が予定されてい はじめ、肥料、紙、マッ る。その内容は、大阪市の中心部の環状線、環行ってきた。沿線は工業地帯として早くから発 チなど軽工業を中心とし状線から周辺地域へ放射状に延びる路線、大阪達した所であるが、旅客の誘致のために設けた て、日本一の生産をあげ市と神戸市をつなぐ路線、臨海部の埋立地をつ甲子園球場は春夏の高校野球大会やプロ野球の ろっこう のる 〈和久田康雄〉 なぐ湾岸線、六甲山の北側に位置する北神戸線興行で全国に知られている。 代すていた。第一次大戦を転 へんまひ 年地 はんしんふすい 0 片麻痺 機に、鉄鋼、伸銅などのなどの路線を網状に配置したものとなってい半身不随 凡申ム刪はんしんろん pantheism 材 pan ・ 金属工業、造船、紡績機る。一九六四年に大阪市内の一部区間一一 昭場 theismus panthéisme 冖存在するも , 工械などの機械器具工業、が最初に開通して以来、八六年現在、大阪市・ 衂の油脂、薬品などの化学工神戸市を中心に一三八・五キ。の区間が開通してのの総体 ( 世界・宇宙・自然 ) は一に帰着し、 にしのみや 地業 かっこの一者は神であるとする思想をいう。 業工業、セメント、ガラスのおり、このうち八一年の大阪西宮線の全通によ 工学 、ノ ) 」「梵我一 「一にして全 ( ヘン・カイ・ / 、 り大阪・神戸両都心が直結された。一日当りの 窯業などの重化学工業が 海化 利用台数は、八六年度には約七二万台であり、如」「神即自然」などが標語として用いられる。 重伸展し、総合工業地帯と 当泉な しての地位を確保した。 きわめて交通処理能力の大きい効率的な交通施世界そのものが神であるとするから、有神論の ・学 この間、大阪と神戸は、 設として、大阪・神戸地区の物資の輸送、都市ように世界の外にある神と被造的世界との絶対 めそれぞれ関連した工業が活動などに大きく役だっている。全線が有料道的対立を認めず、すべてのものは神の現象であ むこがわ 占 相互依存的に発達して広路で、武庫川ランプ付近を区界として二つの均り、あるいは神を内に含むとする点で、創造以 を鋼 部鉄 〈肥田木修〉後は神は被造物に干渉しないとする理神論と異 がり、大阪、神戸を中心 一料金圏制を採用している。 南 あしゃ のみ なる。神を世界を統一する普遍的原理、法則性 に尼崎、西宮、芦屋、堺半深成岩はんしんせいがん hypabyssalrock 帯進 として考える点で合理的側面をもつが、その反 地がの臨海地域と内陸部の布深成岩と火山岩の中間の組織 ( 深成岩ほど結晶 業成せ 工造施、守口、吹田、伊丹を粒が大きくなく、ガラスを含まない ) をもっ火面で自我の神への帰入、主観と客観との絶対的 地 包含する工場密集地域が成岩。脈岩ともいう。一九世紀にドイツの岩石合一を説いて神秘主義に至りやすい。神と世界 とについて明確な概念が形成された後で登場す 地埋形成された。第二次大戦学者が火成岩の産状に基づいて、地下の浅いと 工か中は工場疎開が行われ、 ころでできた岩脈やシルなどの岩石に対して用るのが普通である。ウ。ハニシャッド、古代ギリ 神半 いた。しかし深成岩体の急冷部分や火山岩の徐シアの一部に最初にみられる。西欧近世以降の 3 阪前重化学工業も周辺都市に 1 1 さつま ばんがいち
かんよ・つ 。作品では教会コンチェルト様式が重要。マ 間に閉じ込められた地下水は、涵養地域からの ち一義的思想などの影響が認められる。〈相澤照明〉革新的発展であるといえよう。なお、息子・ ントバ近郊ビアダーナに生まれ、マントバ大聖水圧によって加圧され、大気圧以上の圧力を有 3 ・ピアソンも父の後を継ぎ、計量生物学者と せ回 P 、 0 き、 00 一 T 、ぎミ . ・ミ守、「 04 = 0 、 = 〈米田桂三〉 している。被圧帯水層中に井戸を掘ると、その 堂楽長を経てファーノの教会楽長を務め、ベネ して活躍した。 あ ( さ 00 , H ミ 00u 「 ( ) ▽ ) 、、 0 、、 0 ミ〒 チアで活躍したが、ふたたびマントバに戻り、井戸の水位はその帯水層の上面よりはるか上ま ミ G 、ミ、 0 the Present . ・ S ぎミき s ・回平林初之輔訳『科学概論』 ( 一九三 0 ・春秋社 ) び で上昇するのが普通であり、場合によっては地 一六二七年五月二日グアルティエリで世を去っ 、 0 こ一 ( 196P Macmillan, New York) ピアソン Louis Valentine Pirsson ( 天 〈樋口隆一〉表面より上まで上昇する。この場合、その井戸 ている。 六 0 ー一九一九 ) アメリカの岩石学者。ニューヨー ビアセチル 0 ジアセチル を自噴井、自噴井の存在する地域を自噴帯とい ク市に生まれる。エール大学卒業後、同大学でピアチェンンア Piacenza イタリア北 ピアソ一フ Astor Piazz011a ( 一九一 = ー う。自噴帯は扇状地の扇端部、鑽井盆地の中央 岩石学を研究。一八九七年エール大学の物理地東部、エミリア・ロマーニヤ州ピアチェンツア アルゼンチンのバンドネオン奏者、作曲家。三 部、砂丘の周辺部、火山体の山麓、侵食谷の谷 歳のときニューヨークに移住。幼時からバンド質学教授。一九〇二年クロス Charles Whit- 県の県都。人口一〇万七〇〇六 ( 一究四 ) 。ポー 川右岸に位置し、エミリア街道の西端をなす古底などのような、地下水が地表へ流出する地域 ネオンを習うが、タンゴの奏法を本格的に学び man Cross ( 一会四ー一九四九 ) 、イディングズ JO- にみられる。しかし自噴井がすべて被圧地下水 くからの交通の要地。豊かな農業地帯の中心地 始めるのは一九三四年からである。三七年帰 seph Paxon lddings ( 一会七ー一九一一 0 ) 、・・ ワシントンとともに、火成岩の化学成分を標準で、さらに近年においては缶詰・瓶詰、ぶどうであるとは限らない。均質な地層からなる砂止 国、・トロイロの楽団の編曲者になり、四六 年に自身の楽団を組織。以後プエノス・アイレ鉱物の量に換算して表すいわゆるノルムと、そ酒の生産のほか、製粉、セメント、農業機械、や波丘状の地形では、地表面の標高が高い所は れに基づく火成岩の定量的分類法 (0 —分化学肥料、化学繊維、製紙などの工業が発達すど地下水面も高く、地下水面の起伏が大きいの ス八重奏団など、 いくつかの楽団も組織した。 ざんしん 斬新なスタイルによる演奏で知られ、モダン派類法、ノルム分類法 ) を提唱した。主著に『岩る。紀元前二一八年にローマの植民市として建で、加圧層が存在しなくても地形的な制約だけ 〈吉井敏尅〉設され、プラケンティア Placentia とよばれで不圧地下水が自噴することがある。したがっ タンゴの第一人者と評される。代表作に『プエ石と岩石鉱物』 ( 一九 00 がある。 〈堺憲一〉て自噴するかしないかは被圧地下水の本質にか ノス・アイレスの春・夏・秋・冬』 ( 四部作 ) 、ピアソン Lester B. Pearson ( 天九七ー一九た。 かわりはない。オーストラリアの大鑽井盆地、 七 = ) カナダの政治家。トロント、オックスフピアンエッタ Giovanni Battista Piaz ・ 『気違い男へのバラード』『アディオス・ノニー zetta ( 一六八三 ー一七五四 ) イタリア、ベネチア派の バリ盆地などは被圧地下水盆地の代表例で、関 ノ』など。このほか交響曲やオペラも作曲。近オード両大学で学んだのち、前者で歴史を教え 画家。二月一三日ベネチアに生まれ、一七五四東平野にも地下水開発の初期には多数の自噴井 年は『サンチャゴに雨が降る』 ( 一九七五 ) 、『タンた。外務省、駐米大使を経て一九四八年サン・ がみられた。 ローラン自由党内閣外相、四九年 Z<+O 創設年四月九日同地で没した。木彫家の父親ジャコ ゴ。ーーガルデルの亡命』 ( 一九会 ) などの映画音 日ノ Antonio 被圧地下水の地域的流動状態は被圧水頭面の 〈田井竜一〉 楽も手がける。 ( 議長 ) 、五〇年コロンポ会議、五一年対日講和モや画家アントニオ・モリナー 形から推定できる。被圧水頭面とは、ただ一か 会議に参加、五二 ~ 五三年国連総会議長。外務 Molinari ( 一六六五ー一七 = 七 ) のもとで修業したのち、 ピアソン Karl Pearson ( 天五七ー一九一一六 ) ポローニヤのクレスピ Giuseppe Maria Crespi 所にだけスクリーンを切り、水の漏れないよう イギリスの統計学者。ロンドンに生まれる。ケ ( 一五九七ー一六三 0 ) の門に入り、強い明暗の対比と に鉄パイプなどでケーシングした井戸の水位を ン。フリッジ大学を卒業後、ロンドン大学の応用 動的な構図を学んだ。一七一一年ベネチアの画連ねた面である。鉛直方向の水頭勾配がない場 数学および力学の教授となり、一九一一年から 家組合に登録。『聖ヤコプの殉教』 ( 一七一七、サ合には、地下水は被圧水頭面の傾斜の方向に流 は優生学の教授をも務めた。長年思想的に悩み ン・スタ工聖堂 ) 、『聖フィリッポ・ネリへの聖動している。自噴井や揚水井があると被圧水頭 抜いて到達した結論が一八九二年刊行の「科学 ン 母の御出現』 ( 一七一一五 ~ 一一七、サンタ・マリア・デ面の形は乱される。深さによって井戸の水位の の文法』 ( 邦訳書名『科学概論』 ) T 、ミ G 、、ミミミ、 ソ ア ッラ・フアバ聖堂 ) などの初期作品ののち、二異なる帯水層や帯水層群では、特定の面を明確 Science となって広く読まれ、当時大き にしない限り被圧水頭面を描いても意味をもた 七年に大作『聖ドメニコの勝利』 ( サンティ・ な反響をよんだ。その後・ゴールトン、・ ナ′ . し ジョバンニ・エ・バオロ聖堂 ) を描き、明るく ウエルドン両生物学者の協力により生物測定学 三次元の流動場をもっ地下水の流動方向を知 を創立し、今日も継承されている学術雑誌「計次官時代の一九四七年、パレスチナ分割 ( イス軽快な画風を確立した。四〇年代に円熟期を迎 ラエル建国 ) で国連安全保障委員会議長を務めえ、『女占い師』 ( 一七四 0 、ベネチア・アカデミアるには複数の被圧水頭面が必要である。不圧地 量生物学』をミ斗を一九〇一年に創刊し たことを振り出しに、紛争調停役が彼の身上と美術館 ) 、『井戸端のリべカ』 ( 一七四 0 ころ、。フレラ下水を揚水すると揚水量に応じて地下水面が低 て優生学の確立に努めた。またこの間に、重相 なる。そのハイライトは海外では五六年のスエ美術館 ) などには生き生きとした賦彩と堅固な下する。地下水面の低下は地下水貯留量の減少 関、ピアソン型分布関数、モーメント法、カイ ズ危機を国連監視車派遣で解決、翌年ノーベル構成とがみられ、ティエボロとともに一八世紀を示している。しかし被圧井の水位変化は地下 二乗 ( ) 分布などを統計学に導入した。彼は 先入観にとらわれず観測データに基づいて考え平和賞を受賞。国内では六三年首相就任後、英ベネチア絵画を代表する画家となった。五〇年水の圧力変化を示しており、地下水貯留量の変 にはアカデミアの初代院長になったが、作風は 化とは直接的な関係はない。被圧井の水位は揚 仏両系国民間の紛争融和対策に臨み、その結果 るべきことを力説し、大量観察データの分布に ちょうせき 〈篠塚二三男〉 水のほか気圧や潮汐の変化にも敏感に反応す は六八年首相引退の翌年、英仏二一一一一口語の公用語すでに衰えをみせていた。 微分方程式 Ⅱ ( 牟十 ) /(b 。十 b 十 b 製 ~ ) 化として実現。六九年には世界銀行の委嘱で国被圧地下水ひあっちかすい帯水層の上部おる。被圧地下水を自然の涵養量を超えて揚水す ると、粘土などからなる加圧層が圧密収縮して を当てはめて一三種の分布曲線のありうること際開発委員会を主宰、過去二〇年の発展途上国よび下部を水を通しにくい加圧層で挟まれた、 地下水面を有しない地下水。被圧地下水が地下地盤沈下が生じる。被圧地下水の流速は非常に を示し、正規分布にならないデータは誤りであ援助総括と将来への展望をピアソン報告書にま 〈越智道雄〉深部にある場合、深層地下水とよばれる。ただ遅く、その滞留時間は数十年ないし数万年であ るとの旧来の考えを正した。晩年、・・フとめた。 し深層は浅層に対する相対的な用語として用い り、大陸にはさらに古い地下水もある。一般に ィッシャーと激しい論争を行ったが、フィッシビアダーナ Lodovico Viadana ( 一五六 0 こ ー一六一一七 ) イタリアの作曲家。通奏低音の創始られており、浅層地下水と深層地下水を学問的古い被圧地下水ほど溶存物質の量が多く水質が ャーの小試料論による近代数理統計学は、ビア ↓、地下 ! 水 〈榧根勇〉 に区分することは困難である。二つの加圧層の悪い ソンが完成した記述的数理統計学を基盤とした者とされることが多いが、正しいとはいえな さんせい さんろく
はみると 動物は、ヒッジ、レイヨウ、オオカミ、小形 とよばれた。一六〇九年イギリス人の・ソマ回海老池俊治訳『パミラ』世界文学大系祐』面が残されている。③北西部はザマライスキー の齧歯類、ミャマガラス、ハゲタカ類など。西 山脈 ( またはトランス・アライ山脈 ) 、ピヨー 一九六六・筑摩書房 ) ーズに率いられた一隊が入植し、一六八四年以 トル一世山脈、アカデミー・ナウク山脈などか部にはヒグマ、ヒョウなどもいる。 permil 千分率、千分比ともい 後イギリスの直轄植民地となり、一九六八年内 ハミール高原は、古代から中央アジアの陸上 らなり、最高地点はコムニズム峰 ( 七四九五 ) 。 政についての自治権が与えられた。対外関係、われる。 % の記号で示し、〇・〇〇一を単位と ぶあい 交易ルート ( いわゆるシルク・ロード ) の最大 標高四〇〇〇付近で年降水量は約一〇〇〇、、リ 防衛、治安についてはイギリスの任命する総督して一 % とする歩合の表し方。 となるが、谷底は乾燥している。植生の垂直変の難所の一つで、現在でも地元の少数民族間で が権限をもつ。任命制の上院 ( 一一議席 ) と選 、 = 、レカレ . ヾルカス HamiIcar Bar ・ の国境を越えた交易が続いている。↓シルク・ 化は著しい。西に開けた河谷では、サクサウー 前一一一一九 ) カルタゴの部将。ハンニバ 挙制の下院 ( 四〇議席、任期五年 ) があり、下 cas ( ? 〈津沢正晴〉 ルの父。紀元前二四七年カルタゴ軍の指揮権をル ( アカザ科 ) やヨモギの生えた半砂漠、川岸ロード↓タジク 院の多数党の党首が総督の任命で首相となる。 ハミルトニアン Hamiltonian 粒子や場 ーミューダ党が政権を握受け継ぎ、第一次ポエニ戦争を戦う。シチリアや扇状地にはヤナギ、カンバ類の小林がみられ 議会発足以来、統一ヾ のシステムのエネルギーを座標と運動量で表現 に上陸してローマ軍を破り、イタリア半島沿岸る。二六〇〇ではステップ ( 短草草原 ) 、三 り、野党には進歩労働党、国民自由党がある。 したもの、および量子力学におけるエネルギー 八〇〇ではお花畑、四四〇〇で雪線とな 野菜、バナナ、柑橘類などの農業と漁業以外に部をクーマエまで略奪する。しかし本国から十 演算子をいう。後者はハミルトン演算子ともい はみるべき産業はなく、島の経済は観光収入と分な救援が得られず、前二四一年シチリアのアる。氷河はソ連領内で一〇八五条ある。 ハミール高原の地質は、東部 ~ 北西部はヘルわれる。ここで座標 4 は、対象としているシス タックス・ヘイプン政策による海外保険業からエガテス沖の海戦に敗れてローマと和を結ん たいせき だ。のち帰国し、敗戦による給料未払いのためシニア系を主体とした堆積岩、片麻岩、貫入岩テムの運動を表すことができる限り任意に選ん の収入で成り立っている。食糧、飲料、衣料な ようへい どは、すべてアメリカ、イギリス、カナダなど起こった傭兵の反乱を抑え、政敵ハンノと戦っ類などが、中部は古生代から中生代にかけてのでよいが、運動量力はこれに応じて定まってく 海成層が分布し、ヘルシニア造山運動、アルプる。このような座標と運動量が特別の関係を有 た。前二三七年新天地を求めて息子ハンニバ から輸入している。住民の三分の二は黒人また しゅうきよく ル、女婿ハスドルバルらとともにイベリア半島ス造山運動などによって複雑な褶曲構造をなすることをイギリスの・・ハミルトンがみ はムラート ( 混血 ) で、残りはイギリス系また いだした。この関係を正準共役、この場合の座 へ渡ってガデス ( 現力ディス ) からアンダルシしている。またこの地域では、山脈の内部構造 〈林晃史〉 はポルトガル系。公用語は英語。 0 、 ア地方を支配下に収め、勢力を拡大した。前一一を形成した前記造山運動とは別に、新生代新第標と運動量を正準共役な力学変数という。先に 、、、一フ Pamela, or Virtue Rewarded できし 二九年エルケーの攻囲から引き揚げる途中溺死三紀から始まった現在の山脈の起伏を形成した述べたハミルトニアンとは、正準共役な力学変 イギリスの小説家サムエル・リチャードソンの ハミール周辺は世界有数でエネルギーを表現したものをハミルトンの 〈田村孝〉地殻変動が続いており、 書簡体小説。一七四〇年刊。副題「美徳の報した。 名にちなんでよんでいるものである。したがっ こうげん flaMHP/Pa ・数の地震多発地帯となっている。 酬」が示すように、美しし ール高原 て単振動を行う質量川の質点のハミルトニアン その信仰と貞操を守る強い意志によって若主人 mir 中央アジア南東部の山脈 は ( 1 、、 2 ミ ) 、 + ( 1 、、 2 ) K はカの定数 ) であ の誘惑をはねつけ、ついに彼を改心させて地主群と高原からなる地域。ソ連タ しんきよう るが、これを ( ミ、 2 ) ( 、ミ t)2 + ( K 、、 2 ) と書 ジク共和国、中国新疆ウイグ 夫人となるという話。彼女が父親に書く手紙 けばハミルトニアンではない。 や、閉じ込められたときの日記という形式で物ル自治区、パキスタン北部、ア 〔量子力学のハミルトニアン〕量子力学では 4 語が進行する。飾り気のない文体で細かな描写フガニスタン北部にまたがる。 山 こんろん ーき のて と力とを演算子と考え、この間にーをⅡ が生きているが、貞操をなるべく高く売りつけ天山山脈、崑崙山脈、カラコル 右え —ihD 、、 Dq の関係が成り立っと考えている。トⅡ よという道徳を説くものとして、当時かなり激ム山脈、ヒンドウー・クシ山脈 を はこの関係の具体的な一つの表現である。この 〈岡照雄〉 などの大山脈の会合部にあり、 しく批判された。 、士結果、量子力学のハミルトニアンは古典力学の 平均標高は五〇〇〇に近い ハ富 ハミルトニアンの力を—ihö、、 Dq で置き換え ハミール高原は、地理・地形 で なガす た演算子〃となり、量子力学の運動状態、すなわ の面から三地域に大別できる。 シち量子的状態の時間的変化は D をミⅡお ①東部のカシュガル・パミ 一カ標 〈田中一〉 で与えられる。 は全域が中国に属し、最高地点 す湖 はコングル山 ( 七七一九 ) 。山脈 ハ、、、ルトノ Gavin HamiIton ( 一七一一三ー 九 0 スコットランドの画家、考古学者。グラ は北西ー南南東に弧を描いてお 区ラ 治カ スゴー大学で学んだのちローマに赴き、生涯を り、開析が進んだ起伏の大きな - 目 ほとんど同地で過ごした。メングスやウインケ ルの 地形を示している。山頂部には グ前 ルマンらとともにローマの新古典主義サークル 氷河が発達し、雪線高度は約五 ~ 一イ手 の主導的メンバーであり、一七六〇年代に、古 二〇〇。気候は寒冷で乾燥し 代彫刻やプサンから影響を受けて制作したホメ ており、植生は貧しい。②中部 国乃 中 ロス主題の歴史画は、その後の国際的な新古典 ハミール ( または狭義のバミー 山 原タ主義様式の展開に大きな影響を及ばした。考古 ル ) は、新生代以後の隆起量が ハミールのなかではもっとも大 ~ ルグ学者としてローマ近郊のいくつかの発掘に参加 したが、イギリス本国ではむしろ古代彫刻のデ きい地域で、山頂部や谷筋に沿 へいたん ム 〈谷田博幸〉 6 ィーラーとして知られた。 っては、平坦面あるいは小起伏 かんきっ 町餌鮏ー ーミューダ諸島バーミューダ島西岸にある首都ハミル トンの中心街。国際的観光保養地で自由港となっている へんま
を発揮する例としては、社会的名声によって選バプア・ニューギニア モ 年年 ばれる首長、長老、あるいは儀礼の交換や社会 ナ Papua New Guinea ス 的手腕で権威を獲得する「ビッグマン」とよば 年 推 〈豊田由貴夫〉 ポ ア れる有力者などがある。 0 、 フアダー puff adder/8Bitis ミ、ミジ -8 ビ五ロ はちゅ、つゆうりん 年万万 は 9 8 ス英一ル 爬虫綱有鱗目クサリへビ科のヘビ。同科クサリ レン ュ 0 ド 8 0 0 ア ヘビ亜科に属する有毒種で、アフリカ、アラビ ニ万 0- E 立思立思 -0 1 よ Z . g ピ ア半島に分布し、熱帯降雨林と砂漠を除く広い ス -8- CO 一語語フ億 7 出入 地域に生息する。全長九〇 ~ 一二〇、頭部は っ 00 ワ】 c-O ポ英ッハ 2 7 輸輸キ 幅広い三角形で、胴が太く尾は短いずんぐり形 産 率 をしている。地上性で体背面は灰褐色地に幅広 五ロ 度加 - 三ロ 当 い暗褐色の帯状斑紋が並び、サバンナなど生息 密増 内人易教 プ積ロロロ都要貨 。行動は鈍いが攻撃はすば 地では見分ナこく、 国い貿宗 どくが パ面人人人首主通 やく、被害が大きい。毒牙は長い管牙で、主成 気候は、高地を除いて国土の大部分が熱帯雨 南太平洋、メラネシア西部の国。南緯一 ~ ワ分の強い出血毒のはか神経毒も多く含まれ、き 林気候である。国土の大半が森林に覆われ、 二度、東経一四三 ~ 一五六度に位置し、ニュー わめて危険である。興奮すると胴を膨らませ、 ・プリテン島、ニュプア湾沿岸やセピク川河口付近はマングロープ シューツと音をたてて威嚇する。卵胎生で、平ギニア島東半部、ニュー 嶼のうち比較的大きな島の内陸部にその分布を 地帯となっている。海岸部の主要都市の気温は ・アイルランド島、プーゲンビル島などを領 示す。人種的にはメラネシア諸族と同様、オセ均二〇 ~ 四〇頭、多いものは八〇頭はどの子へ ビを産む。餌はネズミ、鳥、トカゲ、カエルな域とする。面積四六万二八四〇平方キ。、人口一一一年較差がきわめて小さく、年間を通じて日最高 アニア・ニグロに属するが、長期間にわたる混 気温が三〇度 O 前後、日最低気温が一一三度前 〈松井孝爾〉三二万八〇〇〇 ( 一九会推計 ) 。首都はポート・ 血の結果か、両者の差異は小さくなりつつあどである。 後で、ほば日本の関東以西の真夏程度である。 モレスビー る。パプアの意味が示すように髪は縮れ、肌は かぎ 〔自然〕ニューギニア島東半部は、地質・地形これに対して高地では温暖湿潤気候となり、森 暗褐色で、鉤鼻、厚い唇をもつ。メラネシア諸 の特色から、南西部、中央高地、北岸の三地域林のほかにかなりまとまった草原がみられる。 族がやや長身であるのに対し、中等位の身長を に分けられる。南西部は、地質的にはオースト高地の主要都市の気温も年較差が小さく、日最 示す。言語はきわめて多様であり、少なくとも ラリア大陸の延長にあたり、安定した古い基盤高気温が二五度 0 前後、日最低気温が一四度 O 数百種の言語が存在する。これらはバプア諸語 の上にフライ川などにより形成された沖積平野前後で、ほば日本の軽井沢や札幌の真夏程度で として一括されるが、インドネシア語やメラネ が広がっている。沿岸部および川沿いの低地で シア語を含むオーストロネシア語とは区別さ 0 0 0 CD E 月 4 ・つこっ乙 は沼沢地となっている。中央高地は第三紀以降 れ、非オーストロネシア諸語ともよばれる。従 の造山・造陸運動およびそれに伴う火山活動に 来、互いに系統関係がないと考えられていた しゅうきよく せきりよう よって形成された脊梁山脈で、断層、褶曲、 が、研究が進むにつれ、数種の系統に分類され ることがわかってきた。複雑な地勢と、比較的 一火山地形、氷食地形、カルスト地形がみられ、 複雑な地形となっている。この脊梁山脈は南東 孤立した生活のため、言語とともにその生活は の半島部 ( オーエン・スタンリー山脈 ) に延び きわめて多様である。生業は焼畑農耕と狩猟を ており、ダントルカストー諸島、ルイジアード 中心とするが、主要作物は地域によって異な 諸島に至っている。同国最高峰のウイルヘルム り、タロイモ、サツマイモ、ヤムイモ、バナナ 山 ( 四五 0 九 ) をはじめ三〇〇〇以上の高山が などのほか、海岸部ではサゴヤシからデンプン 連なるが、山間部にはかなり広い河谷平野が発象 をとる例も多い。狩猟の対象は有袋類や鳥類な 気 達している。北岸では、セピク川流域およびラ どであり、家畜としてイヌ、ニワトリの例があ るが、プタがもっとも重要であり、食料として ・マーカム川流域の地溝帯に沖積平野が発ア一 達し、セ。ヒク川の南側には広大な沼沢地が広が よりも、儀礼や交換の際に重要な役割を果た ス レ っている。その他の北岸の山地はおもに第三紀キ す。またビンロウジュの実を石灰と混ぜてか み、ロ中清涼剤とする風習が有名である。祖先 後半以降の火山活動により形成されたものであュ る。ニュー・・フリテン島などその他の主要な を共通にする集団で村をつくり、各村落が独立 島々も同様で、とくにニュー・・フリテン島でアホ 性を保ち、それ以上の単位に集結することはま は、火山活動が活発である。トロプリアンド諸プ あれである。父系的な部族が多く、ニューギニア 島など若干の島はサンゴ島であるが、その数は 、ふ島南部ではトーテミズムの存在が知られてい 少ない。 る。社会の階層的区分はほとんどなく、指導性 一こ アドミラレティ諸專 6 ント・マサイアス諸島 ー・ハノーパー島 安ランド島、 . パプア・ニューギニア 300km 0 1 2 ス 000 , 000 マタベ えき一 ピスマーク海 0 エウク ーし、こりゞ し . 力、ユミ パプア湾 7 シ はんもん 0 0 ノ : 16 ( ) 。 E フル島 エタ ア島 、にリアンド ントルカストー島 ルイツアード話專 ダルー トレラ、海峡 0 、 ソロン諸島 3 ポト・モレスヒー 10 。 S 145 。 150 。 9 0 き卩 ラ / ヾウノレ つ」 CO 〔し犬 4- つ」 1 ー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 1011 12 1 2 3 4 5 6 7 8 9 1011 12 月 = : 日 27.1 ℃ 年平均気温 26.8 ℃ - 降水量年降水量 1166.5mm 2088mm 緯度 / 経度 09 。 26 ' s / 147 。 13 ' E 04 。 13S / 152 。 11 ' E 9m 47m 1987 年版ご理科年ノ 0 による
〔生活〕ヒマラヤ山脈では、南のヒンドウー系、 8 や北に走るスライマン山脈、アラカン山脈などがダ・コート山は、一九三六年日本最初のヒマラで北上中のインド亜大陸のヒマラヤ・チベット 帯との激突および下方への潜り込みの結果と解イスラム系と、北のチベット系文化が、それそ 6 ャ遠征で登頂された記念すべき山である。 、らあって、地質構造上はこれらに接続している。 れ固有の文化圏をもち、高度によって重層的に ヒマラヤ山脈は大きくみると三つの山系に分〔パンジャーブ・ヒマラヤ〕サトレジ川とインダされている。 ヒマラヤ山脈の地形は、激しい谷氷河の侵食なっている。ネパールでは、標高二〇〇〇を ひかれている。最南部ヒンドスタン平野に臨む部ス川本流との間を占める区域。多くの犠牲者を 分は標高の低いシワリク丘陵で、その北に低出し「魔の山」とよばれるナンガ・パルバト山の結果で、谷頭には巨大なカール ( 圏谷 ) がみ境として、高所は牧畜 ( クロウシ、ヤク、ゾウ ーウシとヤクの雑種 ) の比重の高いチベット文 ( 小 ) ヒマラヤ山脈があり、主軸がグレート穴一一一六 ) のみが八〇〇〇峰で、ヌン山も有られる。カールが三あるいはそれ以上背中合わ せに発達すると、エベレスト山などのビラミッ 化圏で、大麦、小麦、ソバをつくる。これより ( 大 ) ・ヒマラヤ山脈で、ここに世界の最高峰が名である。 〔カラコルム〕インダス川の北方に位置し、地 ド山形ができる。しかし巨視的にみると、ヒマ低所は水稲、シコクビエ、トウモロコシを主と 集まっている。大ヒマラヤ山脈の北仰に。 したヒンドウー系文化圏に属し、耕作にはウシ ルンズアンポ江 ( プラマプトラ川上流部 ) の縦質構造上はチ・ヘット帯に属する。この名称は中ラヤ山脈の峰々の高度は、およそ定高性を示し 谷を隔ててトランス・ヒマラヤ山脈が並走す国とインドを結ぶカラコルム峠に由来し、「黒ている。このことは、侵食によって失われた分を使い乳用の水牛が飼育されている。近年、山 る。興味をひくことは、これらの大山脈をいく い岩」の意味がある。世界第二の高峰峰 だけ地殻が軽くなり、アイソスタシー ( 地殻均地内部での人口増加に伴い、山地斜面の開墾 つかの南流する峡谷が横切っていることで、プ ( 会二 ) 以下、八〇〇〇峰が四座あり、ま衡 ) によって補償的隆起が活発に行われているは、より上方高所へと拡張され、加えて薪炭不 ラマプトラ川、インダス川やエベレスト山群東た長大な谷氷河の存在でも知られる。登山家を結果とも考えられる。ヒマラヤ山脈の侵食によ足のための森林伐採も進み、ネパール国内の山 しゅんはう 方のアルン川などがそれである。河川の下方魅了した峻峰を数多くもっ点ではネパール・ る平均低下量は、一〇〇〇年につき平均一な村生活に限っても自然環境は以前に増して悪化 ↓カラコルム ( 谷底 ) 侵食が山の隆起を上回って水路を維持ヒマラヤに引けをとらない。 いしそれ以下だが、山が高くなるためには、そしてきた。ヒマラヤ登山、トレッキング人口の 〔地質〕ヒマラヤ山脈の地質は、三 ~ 四帯に区れを上回る隆起が必要である。ヒマラヤ山脈が増加が、自然の破壊に拍車をかけ憂慮されてい した結果であり、これを先行川という。 いまも生きていることは、山脈の下方で大小のる。一九二〇年代にイギリスのエベレスト遠征 〔山脈の区分〕長大なヒマラヤ山脈は、記述の分される。大ヒマラヤ山脈北半部は、地質上チ べット帯に属し、海生化石を豊富に含む。地質地震がおこることからも明らかである。 隊に人夫として採用されたネパールの住民のシ 便宜上、次のように区分するのが普通である。 なお谷氷河は、上流部の涵養域での降雪量の エルバは、現在、この地方の登山、旅行に欠く 〔アッサム・ヒマラヤ〕ヒマラヤ山脈最東部、時代上・下部はカンプリア紀、オルドビス紀に ことのできない存在となっている。〈金子史朗〉 プラマプトラ川の屈曲点から、西方はプータン属し、中生代から上部は第三紀始新世に及ぶ。変化、つまり気候の変化に支配され、前進ある 〔植生〕インド亜大陸とチベット高原を境する いは後退する。気候が温暖化すれば氷河は縮小 を含めた区域。夏の季節風の影響で多雨であ工べレスト山頂部では古生代後半の石灰岩、泥 さんろく し、谷氷河の末端は上流に向かって後退する。 ヒマラヤ山脈は全長二四〇〇キ。メートル、幅一 り、山麓は熱帯性雨林が覆う。最高峰ナムチ岩などからなり、北へ緩く傾く。聖山ガンディ ヤ . バルワ ( 七七六一一 ) のほか、い くつかの七〇セ山 ( 六七一四 ) は第三紀始新世の水平な地層が この逆の変化もあるわけで、その調査は長期的〇〇キロメートル、標高差六〇〇〇 ~ 八〇〇〇 〇〇峰が知られている : フータンは一九七四山頂部をつくり、基盤は花崗岩である。このよ な気候変化の指標となる。水資源の展望を得るで、ほば北西から南東へと連なる。標高に伴う 年まで外国人の入国が禁止されていた事情もあうにチベット帯は一般に変動を受けることが少ためにも、この種の研究が望まれ、実際ヒマ一フ大きな環境傾度をもっ山脈は、一般に生物分布 り、将来の有望な探検地帯といえる。 ヤでも調査が進められている。谷氷河は末踏の の障壁や経路となる。ヒマラヤ山脈も南北方向 〔シッキム・ヒマラヤ〕プータンとネパール間 大ヒマラヤ山脈南部は高ヒマラヤ帯とよば高峰へのよきルートであるが、表面はクレバスは巨大な分布の障壁となるため、熱帯性の生物 にあるヒマラヤ山脈の区分のうち、いちばん狭れ、ヒマラヤの基盤をつくる先カン。フリア時代とよばれる裂け目が縦横に発達し、アイスフォ にとっては北限、温帯性の生物にとっては南限 ひょうばく へんま い区域。チュンビ渓谷は古くからチベットへの の片麻岩からできている。これらの地質体は、 ール ( 氷瀑 ) やセラック ( 氷塔 ) は登山家泣となっている。一方、東西方向からは、東アジ 通路となっていたため、ヒマラヤのなかではも南側にある小ヒマラヤ帯をつくる変成岩 ( 先カかせでもある。 アの湿潤要素と南西アジアの乾性要素が複雑な っとも早くから知られていた。カンチェンジュ ンプリア時代ー古生界 ) の上に、北へ傾くスラ 〔気候〕ヒマラヤの気候を左右するのは、夏と 地形に伴って生じ、多様な生育立地をすみ分け ながら入り込んでいる。ヒマラヤにおいては、 ンガ山穴五九 0 しやジャヌー山 ( 七七一 ) などスト ( 衝上断層 ) を介して乗り上げ、一部では冬とで交代するモンスーンである。大陸内部に おうが が個性的な山として知られている。 巨大な横臥褶曲構造を生じている。南の小ヒマ低圧部ができる夏半年には、インド洋やアラビ これら熱寒、乾湿という地球の生物分布を支配 たいせき 〔ネパール・ヒマラヤ〕ネパール領内にある区ラヤ帯の変成した堆積岩は、南麓のシワリク丘ア海から湿った気流 ( 団 ) が北上する。これがする温度と水分の二つの環境傾度が交差し、地 域で、ヒマラヤ山脈のほば中央、その二分の一陵をつくる地層上へ、同じように北へ傾く衝上ヒマラヤの障壁に遮られて強制上昇する際、高球上でもっとも多様な生物要素がみられる地域 を占める。世界の最高峰工ペレスト山 ( 会哭断層で乗り上げている。ヒマラヤの地質構造の所では強風や激しい降雨、降雪となる。夏半年の一つとなっている。このことは、逆にいえ ) をはじめローツェ山、マカルー山、ダウラ特徴の一つは、南北方向の強圧を受け、北側のとくにその前半は雨期となるわけである。そのば、ヒマラヤには固有の生物が少ないというこ ギリ山、チョー・オュー山、マナスル山、アンより古期の岩類が、順次、衝上断層で南側に瓦開始は東部ヒマラヤでは六月初旬、西部ヒマラとになる。ヒマラヤから中国南西部に種分化の ナプルナ山など、八〇〇〇級高峰七座があ覆状に乗り上げていることである。その連動はヤでは一か月ほど遅れる。冬の季節風は風向き中心をもっシャクナゲ、サクラソウ類などのグ る。長い間ネパールは鎖国を敷いていたが、一おもに第三紀に行われ現在に及んでいる。このは反対で乾燥する。したがってヒマラヤ登山ループを除けば、ほとんどの植物は周辺地域に 九四九年の開国とともにヒマラヤ登山の黄金時ようなヒマラヤ造山運動を明らかにするうえは、季節風開始前のプレ・モンスーンの好天を本拠をもっ植物相に含まれ、ヒマラヤは、その 代を迎えた。一方、自然科学的にも人文系科学で、南縁のシワリク丘陵をつくる新第三紀 ( 数利用するか、季節風の終わったポスト・モンス重なり合いのなかにある。垂直分布帯でみる 的にも、この地域でもっとも調査が集中して進百万 ~ 二五〇〇万年前 ) の堆積相は興味深い ーンに選ばれる。このほか高度の増加による気と、ヒマラヤ北西部では全般に刺低木植生のほ れきがん められ、山岳研究のメッカとなった。 シワリク統の最上部は巨大な礫岩で、このこと温の減少 ( 一〇〇につき〇・五度 O 前後 ) が か、マッ林などの半乾燥性植生が卓越している 〔ガルワール・ヒマラヤ〕ネパール西部国境か はヒマラヤ山脈が第三紀のすえに隆起したことあり、山地斜面による日射量の違いも大きい が、ヒマラヤ南東部では湿潤条件下で高度によ ら、インダス川の支流サトレジ川の間の区域。を語っている。プレート・テクトニクスによれこれは土地利用、居住、作物栽培にいろいろなる植生帯の分化がより発達している。低地から ナンダ・デビ山 ( 大一六 ) が最高峰で、ナンば、ヒマラヤの地質構造は、現在年五の速度制約を与えている。 一〇〇〇付近までは熱帯性の常緑樹林、半常 ふく かんよう
ひがしみ ( 大正一一 l) 東上線が通じ、三九年 ( 昭和一四 ) エリザベト音楽大学の分校などがあり、広島大とき一時西フランク王をも兼ねたが、ノルマン首都。第二次世界大戦後、アメリカ、イギリ ス、フランス、ソ連の四国共同占領地区でソ連ディーゼル機器松山工場が招致されてから活気 学の統合移転計画が進行中である。また広島中人のバリ包囲に際し、屈辱的敗北を喫して廃位 くまがやかわごえ , 越方面にかけてエ の管理下にあったが、一九四九年一〇月、ドイを帯びた。今日では熊谷、 央テクノボリスの中心として、電子工業やエレ された。ついで甥のケルンテン辺境伯アルヌル 場が増加し、また東上線の複線化に伴い、しだ ッ民主共和国 ( 東ドイツ ) の首都となった。八 クトロニクスなど先端産業の誘致に努めてい フが東フランク王 ( 在位会七 ~ 八究 ) に選ばれ、 いにペッドタウン化している。丘陵地帯には史 る。現在、シャープや日本電気などの工場が立プラバントのレーウエン ( ルーフェン ) でノル区からなり、面積四〇三平方キ。 ( 旧ベルリンの 地している。このほか佐竹製作所の農機具は国マン人を破った。その子ルートウイヒ四世 ( 幼四五・六 % ) 、人口は一九四五年 ( 分割当時 ) 跡や名勝が多く、県立比企止陵自然公園に含ま ようせつ 内をはじめ東南アジアにも輸出されている。在児王、在位ハ究 ~ 九二 ) の夭折でカロリング家の約一一〇万、五〇年約一一九万、八五年一二〇れる。おもな史跡、観光地として、箭弓神社、 おおやかわらかま かもつる 〈佐々木博〉松山城跡、国指定史跡の大谷瓦窯跡などがあ 来工業としては酒造業が有名で、西条の賀茂鶴血統が断絶したため、東フランク貴族たちに選万二八九五。↓。ヘルリン 〈中山正民〉 East Bengal 南る。人口七万〇四二六。 など多くの銘酒があり、白壁造りの酒蔵がみら ばれてフランケン公コンラート 一世 ( 在位九一一東べンガルひがしーー ~ 会・東松 れる。松林が多く、マッタケの産地としても有 ~ 九一 0 が王位につき、東フランク王国が滅んアジア、インドとバングラデシュにまたがるべ回『東松山市の歴史』全八巻 ( 一一 みなが 山市 ) 名、三永水源池はフジの名所として名高い。高で、諸部族の連合体という形のドイツ王国が誕ンガル地方のうちバングラデシュ領の地域。↓ ↓バングラデシュ 〈平城照介〉 ・ヘンガル 囮二万五千分の一地形図「熊谷」「東松山」「川 屋地区の木原家住宅は江戸初期の豪商住宅で国生した。↓フランク王国 しもぎようからす ひがしはんがんじ京都市下京区烏 越北部」「武蔵小川」「越生」 の重要文化財に指定されている。人口八万四七東フリジア諸島ひがし ーしよとう 0 フ東本願寺 しよとう おおたに 〈北川建次〉 丿ジア諸島 丸通七条上ルにある真宗大谷派の本山。正称は東廻海運ひがしまわりかいうん東廻航路と さかた 回『西条町誌』 ( 一九七一・西条町 ) Ostpreußen 本願寺であるが、浄土真宗本願寺派の本山を通もいし 、日本海沿岸 ( 山形県酒田 ) から津軽海 東プロイセンひがしー しらいち たま 囮二万五千分の一地形図「乃美」「白市」「田万東ヨーロツ。ハのバルト海沿岸、ビスワ ( ワイク称西本願寺というのに対して、通称こうよばれ峡を経て太平洋沿岸を南下して江戸に達する航 あき しみず 路をさす。江戸時代、幕府直轄領の貢米、奥 里市」「三津」「井原市」「安芸西条」「清水セル ) 川からネマン ( メーメル ) 川に至る地方る。↓本願寺 くらまい かいそ、つ なかふかわ 原」「中深川」 羽・北国諸藩の蔵米を江戸に廻送するために開 の歴史的呼称。プロイセンの名はこの地の原住東松浦半島ひがしまつうらはんとう九州北 げんかいなだ きすいどう 東フランク王国ひがしーーおうこく Ost- 民バルト民族のプロイセン人に由来する。ドイ部、岐水道 ( 玄界灘 ) に突き出した、佐賀県かれた。 ちかぎき 当初は、仙台藩はじめ津軽藩、秋田藩など fränkisches Reich 九世紀のベルダン、メル ツ人の東方植民の過程で、一二三一 ~ 八三年こ 北西部の半島。北西突端の値賀崎に玄海原子力 ちょうし からっ なかみなと セン両条約によるフランク王国の分割の結果成の地はドイツ騎士団に征服され、騎士団はここ発電所がある。東に唐津湾を抱き、西には伊万は、那珂湊 ( 茨城県 ) ないし銚子 ( 千葉県 ) ま のだか とわ 立した王国。のちにドイツ王国に発展した。ル に騎士団長を支配者とするドイツ騎士団国を建里湾が深く入り込む。半島南部の野高山 ( 一一六 0 で海路をとり、あとは利根川の水運を利用して ) 付近を除けばだいたい標高二〇〇以下江戸に達するコースをとっていた。しかし一六 ートウイヒ二世 ( 在位翁一 ~ 〈七六 ) が初代国王と設した。この国は一四世紀に穀物貿易で栄えた うわば なり、王国を構成するフランケン、ザクセン、 が、一四一〇年タンネンベルクの戦いでポーラで、玄武岩の止陵性台地をなす。俗に上場台地七一年 ( 寛文一一 ) 、幕府は陸奥領の御城米を ンドに敗れてから勢力が衰えた。首都は最初マと称し、従来水利に恵まれず、果樹のほか、い 江戸へ廻送するため、河村瑞賢を起用して、従 アラマン、バイエルンなどの諸部族の独立性が ノ / 七 ) の 強かった。二代カール三世 ( 在位ノ ~ リエンプルク ( ポーランド語名マルポルク ) 、も類、葉タバコなどの畑作が目だったが、目下来の銚子入りからさらに房総半島を迂回して下 のちケーニヒスペルク ( ロシア語名カリーニン土地改良事業が進む。海岸は多くの入り江や田から江戸へ至る一貫した海上ルートの開発に 造良 , で酒酒 酒はれ業の グラード 岬、小半島の入り組むリアス式海岸で、漁港や成功した。この航路は江戸と結び付いて発達 の条ま造県古 亠条西恵酒も 一五二五年ホーエンツオレルン家出身の騎士タイ、真珠などの養殖場が立地する。古くは中し、一七二一年 ( 享保六 ) 奥羽・北国諸藩に対 まつら ~ 西区にら在で 団長アル。フレヒトのもとで宗教改革が行われ、世松浦党の根拠地として知られた。沖に馬渡し東廻利用を奨励した。しかし太平洋の荒波と 地米か現心 かから 市心や代中る 騎士団国は世俗のプロイセン公国となる。一六島、加唐島はか玄武岩の島々が浮かび、海岸一風待ち港に恵まれていなかったので、かならず 島中水時たの残 っしま 広のの戸え業が 一八年プロイセン公の男系断絶に際し、同族ホ帯は玄海国定公園。対馬暖流の洗う温和な風土しも航海安全が保証されず、西廻海連ほどには 東市質江栄造蔵 たかくし 〈柚木学〉 ーエンツオレルン家の。フランデンプルク選帝侯をなし、高串アコウ自生北限地帯は、海食洞の発達しなかった。↓西廻海運 ひがしみかわこうぎようちい がこの国を相続し、以後プロイセンはプランデ七ッ釜とともに国指定天然記念物。朝鮮半島に東三河工業地域 しんしろ とよかわ なごや き愛知県南部、三河港を中心に豊川市、新城 ン・フルクと結び付いて新しい発展の時代を迎え近く、特別史跡の名護屋城跡などがある。国道 る。一七〇一年フリードリヒ一世は神聖ローマ 市の内陸工業地区を含む農工共存の臨海工業地 二〇四号が通じ、呼子ー壱岐間にフェリーポー ト・、が「沖一 , つ。 〈川崎茂〉帯。一九六三年 ( 昭和三八 ) には工業整備特別 帝国の領域外にあったプロイセンについて王号 とよはしがまおり 地域に指定され、豊橋、蒲郡、西浦、田原四 を得、以後プランデン。フルク・プロイセン全体 2 二〇万分の一地勢図「唐津」 港をあわせて三河港とし、六四年に三河港は重 がプロイセン王国とよばれるようになるが、他東松山 ( 市 ) ひがしまつやま埼玉県中央部に ひき 方、元来のプロイセンは、一八世紀末のポーラある市。一九五四年 ( 昭和二九 ) 比企郡松山町要港湾に指定された。特別地域の範囲は、豊 おおおかからこたかさかのもと ンド分割で得られた西プロイセンと区別するた と大岡、唐子、高坂、野本の四村が合併、市制橋、蒲郡、豊川、新城の四市、宝飯郡の四町、 あつみ め、東プロイセンとよばれてプロイセン王国の施行。東武鉄道東上線、国道二五四号が通じ渥美郡の三町の計四市七町にわたる。三河港周 とき 一州となった。第二次世界大戦後、東プロイセる。南北に比企止陵、中央に都幾川の沖積平野辺には計画埋立て用地約三三〇〇タのうち約 ふとう 七〇 % が完成し、埠頭、工業地帯もでき、引き ンはその北部がソ連領に、南部はポーランド領 が広がる。中世松山城の城下町として発足し、 ・一うしよう になっている。↓プロイセン王国〈坂井栄八郎〉江戸時代は日光裏街道の宿場町で、五、一〇の続き進行中である。豊川市には旧海車工廠跡 いち Ost-Berlin 旧ド 日に市が立っ市場町も兼ねていた。明治以後は 東ベルリンひがしー 地に工業団地が完成し、新城市でも進行中であ 9 〈伊藤郷平〉 4 ィッの首都ベルリンの東半分で、現東ドイツの地方の一中心にすぎなかったが、一九二三年る。 3 おごせ やきゅう つがる
鞄工業に転じているが、ビ ′」円山川ではサケ、コイ、フナの放流が行われる。 兵庫県 / 略年表 ニル鞄の生産は全国の七〇 % , フ〔鉱業〕一九八二年の鉱区数は一〇八、試掘鉱区は二八ある。 縄文時代神戸市大歳山遺跡 ( 前期 ) 、村岡町タッが平遺 よ金、銀、ろう石などの生産が多少あるが、かって多田源氏のを占めている。 跡、姫路市辻井遺跡、高砂市日笠山目 ( 塚 ( 中 〔貿易〕一九八四年の神戸港 ひ財政を支えた川西市の多田銀山も鉱坑跡のみとなっている。 いくの 期 ) 、元住吉山遺跡 ( 後期 ) など 朝来郡生野町の生野鉱山は八〇七年 ( 大同一 l) に発見され、の貿易額は七兆一一三二二億円 弥生時代神戸市吉田遺跡 ( 前期 ) 、芦屋市会下山遺跡、 ぶぎよう とよとみ 織田・豊臣時代には奉行を、徳川時代には代官を置き開発をで横浜港に次いで全国第二 神戸市桜ヶ丘遺跡 ( 中期 ) 、尼崎市田能遺跡 ( 後 すず 期 ) など 進めた。錫、銅、亜鉛、銀、金、タングステンを産出したが、位。輸出が主体で合成繊維織 ゃぶ 古墳時代神戸市処女塚・五色塚、姫路市壇場山、城東像戸 鉱産物の枯渇などから一九七三年に閉山した。養父郡から朝物、機械機器 ( 一般機械、電 立神 あけのべ 町東塚、加西市玉丘などの古墳 音寺 来郡にわたる明延鉱山では全国の八〇 % の錫を産出、朝来町気機器、輸送用機械 ) 、金属 観文竜 ( 崇神朝 ) 丹波道主命、四道将軍となり丹波平定 みこばた 聖重大 の神子畑選鉱所で精鉱し、生野精錬所で粗錫とされる。 および同製品 ( 鉄鋼、非鉄金一 0 = ( 推古一一一一 ) 聖徳太子、推古天皇から与えられた水田一〇 はれ , ゅう 〇町を播磨斑鳩寺に納める 〔工業〕一九八四年の県の製造業事業所数は一万八七六九属、金属製品 ) 、化学工業生 一 = 一 ( 舒明 lll) 舒明天皇、鵲湯に赴く で、阪神工業地帯の神戸地区にその五分の一、阪神臨海地区産品、非金属鉱物製品などを 七四一天平一三播磨国分寺、淡路国分寺など設置 に約一〇分の一が集中し、鉄鋼、機械、食品、ゴムなどのエ輸出する。輸入は食料品 ( 肉 六天平勝宝〈摂津国猪名荘八五町余を東大寺に寄進 業が主体となっている。播磨工業地域のうち、東播地区は金類、酪製品、果実など ) 、織〈皂大同一一生野銀山発見 全 = 弘仁一一一摂津大輪田泊を改修 属、繊維、木材、家具、紙など、西播地区では皮革、機械、物用繊維 ( 羊毛、綿など ) 、 九七 0 天禄一摂津守源満仲、河辺郡に多田院を建立 鉄鋼、化学、食品、木材が主体となっている。一九八二年の金属鉱などである。↓神戸港 九会寛和一播磨守藤原李孝、書写山に法華堂を建立 県の製造品出荷額は一一兆三四五四億円で、食料品、金属製〔交通〕神戸港は一八六七年 一 00 一一長保四花山法皇、書写山に行幸 コム製品、皮革製品の順となっている。かっ ( 慶応三 ) に開港したが、当 品、一般機器、・ 三 = 天永三 播磨国鶴林寺法華堂 ( 太子堂 ) 建立 一一五六保元一平清盛、播磨守となる て阪神工業地帯の生産の主軸をなした鉄鋼は、第二次大戦後時は小規模な四つの波止場が 一一吉承安三平清盛、大輪田泊に経ヶ島を築造 設けられたにすぎなかった。 さらに発展を続けたが、一九七〇年代後半から新興工業国に 一天 0 治承四摂津福原に遷都、半年後京都に遷都 一九〇六年 ( 明治三九 ) から 押され、円高不況も影響し低迷状態にある。 一一会元暦一源範頼、義経、平氏を一ノ谷に破る 酒造工業は阪神海岸灘地域の伝統的な地場産業で、六甲山近代的港湾施設の建設が進 一一 = 九承久一摂津国長州荘ほかを東大寺南院領とする ゅうしゆっ なんろく 三承久の乱。のち太田昌明、但馬国守護となる 地南麓の扇状地末端部で湧出する水は良質の醸造用水となみ、以後、突堤の構築と海岸一 = = 一 延元一 赤松リ、 員オ足利尊氏にくみし播磨、摂津の守 り、また播州米、摂津米は酒造米に適し酒造業を推進させの埋立てなど、順次港湾を拡一 = = 六建武三 とうじ 護に任せらる。楠木正成、足利尊氏と戦い湊 。特殊な技術を伝える杜氏は丹波、但馬などから迎えられ大した。第二次大戦後は小野 まやふとう 日に敗死 正平一八 浜新港、摩耶埠頭などが建設 たが、現在は兵庫県杜氏大学講座により技術指導者が養成さ 山名時氏、丹波、丹後などの守護職を安堵 肖 ( 払二 れている。また蔵の近代化も進み、四季を通じて醸造が行わされ、一九八一年 ( 昭和五一四六七応仁一応仁の乱起こる 城群市 一セ天正五 月柴秀吉、中国征伐の途中姫路城に入る。の路守宝路 六 ) には全面埋立て方式によ れ、海外に支社が進出する例もある。 姫天国姫 ち但馬の岩淵城、竹田城を攻略 造船業は一九五六年以来世界一位の地位を保持し続け、神る人工島ポートアイランド みつびし 八秀吉、三木城の別所長治を討つ。秀吉、弟秀 タ ) が完工し、一一一 戸市の川崎重工、三菱重工、相生市の石川島播磨などの造船 ( 四三六 長に命して但馬を平定 ( 山名氏滅亡 ) ース、一六の 現在は下降状態にある。一般機械、電気機のコンテナー 所が知られたが、 一六 00 慶長五池田輝政、姫路に移封 ( 五十一一万石 ) 六池田輝政、播磨一国検地を開始。姫路城の築 ースがつくられ一六 0 一 器の工場は神戸、阪神地区に集中していたが、一九五〇年代ライナー 城に着工 ( 一六〇九年竣工 ) から広い敷地のある播磨地域へ移っている。また、交通の発た。現在、さらに六甲アイラ すもと いちのみやひがし 一六一「元和一徳島藩蜂須賀氏、淡路を加封される 達に伴い、豊富な労働力を求めて淡路島の洲本、一宮、東ンドの建設が進められてい 一七 0 一元禄一四赤穂藩主浅野長矩、江戸城内で吉良義央に刃 る。ポートアイランドと都心 浦などに機械工場の下請企業が分布するようになった。 傷。赤穂藩改易 IPOII 一五赤穂浪十四七人の討入り そのほか、在来の工業としては、神戸市のマッチ、加古は、自動操縦による日本最初 一吉九寛延一一姫路藩校好古堂設置 ー・小野市のそろばん、小野・三木市の刃物、西脇市の釣りの新交通システムのポートラ なんたん みんべい こんだ たちくい 天 0 九文化六赤穂藩、藩営で塩の専売制開始 針、今田町の立杭焼、南淡町の珉平焼、龍野市のしようゆやイナーによって結ばれてい 一会 0 天保一一魚崎の酒造家山邑太左衛門、宮水を発見 る。内国航路は四国、九州な そうめん、姫路市の皮革工業などが知られている。また、北 天六一一文久一一勝海舟、神戸に海軍操練所を建設 なじお 一衾七慶応一一神戸港開港。神戸に外国人居留地設置 摂の名塩和紙は手仕事による伝統産業である。豊岡では江戸どへフェリーポートの就航が きりゅう ゃなぎ′」うり 一〈交明治一兵庫裁判所を廃し、兵庫県 ( 第一次 ) 設置 時代に広い商圏をもった柳行李などの杞柳工業から現在は増えている。大阪国際空港は あイ」 1 一 あいおい かばん 一犬 0 館 立 市 戸 神 鐸丘 銅ケ宝 文桜国 襷市 裟戸土 袈神出 第物・を蓍を。 Ⅲ第に 鶴林寺本堂国宝加古川市 756
びるま すず る。南へ延びるテナセリム地区は背後にダウナ 川の下流平野は水田化されている。アラカン王ゴムも栽培する。錫、タングステンは各地に産 0 日〕 2 0 E LI.J E 山脈、ビラウ山脈など、タイ領のチャオプラヤ国の故地としてイラワディ川流域とは異なる歴する。北部の平野にはモン族が集中して居住 つ」 E I-O 川流域との分水嶺をなす低い山脈が走るた史をもち、西のべンガル地方との交渉が長かっ し、メルギー諸島のモーケン族は半漂泊的漁労 め、一般に山がちで平野は狭い。テナセリム南た。アラカン方言が話され、イスラム教信徒も民である。 部沖合いには、大小八〇〇の島々がほば三列を多い 〔歴史〕ビルマの歴史は一〇世紀以前について なして南北に並ぶメルギー諸島がある。北部の ⑦西部丘陵地域チン丘陵とアラカン山脈から は十分解明されていなし彳 、。記元麦数世紀にオー アラカン海岸にはチン丘陵から流れるカラダンなる山岳丘陵地域であり、森林が覆っている。 ストロネシア系のモン族がシッタン川河口地方 レムロ川河口に平野が広がるが、ほかに平断続する山脈、曲折する河谷によって多くの地 に、チベット・ビルマ系のビュー族がイラワデ 地は少なく、リアス式海岸の沖にラムレー島、区に分かれる。移動耕作や谷間で米作を行うチイ川中流域地方に定着し、水稲耕作に基づく社 チェドウバ島などの島々がある。 ン族がおもに居住する。 会を発展させ、小王国を建てる段階に入ってい 国土の大部分が亜熱帯に位置し、夏の季節風 ③北部地域亜熱帯・温帯森林が茂るカチン山た。バラモン教や仏教などインド的な文化が強 怩℃ E u-J E が発達するべンガルに臨むので、典型的な熱地やパトカイ山脈などの高地と、イラワディⅡ い影響を与えていたようである。ビルマ族は中 っ乙 0 亠っ′」 帯季節風気候が支配的である。一年中続く高温上流およびチンドウイン川がつくる沖積平野と国西部内陸から南下し、イラワディ川中流域に と夏に集中する大量の雨がその特徴である。最からなる。低地を占居するのは水稲耕作を行う 進出してその地のピュー族を同化、吸収し、八 北部山地とシャン高原では気候は温帯的であビルマ族、シャン族であるが、山地にはカチン四九年にバガンに首都を建設したという。アノ り、冬には雪や霜をみる。イラワディ川中流平族、リス族、ナガ族などが半閉鎖的な部族社会 ーヤター王 ( 在位一 0 四四 ~ 七七 ) のときに下ビルマ 野はアラカン山脈が夏の季節風を遮るために雨をつくっている。 のモン族を滅ばし、国家の制度を整えた。この そうりんてんてい が少なく、乾燥に耐える樹種の叢林が点綴する ④中部乾燥地域イラワディ川中流域の低地か 。ハガン朝歴代の王は仏教への尊崇の念厚く、寺 サバンナ的景観を示す。山地が背後に迫るアラ らなる。高温であり、湿潤な季節風は山に遮ら 院やパゴダ ( 仏塔 ) を盛んに建設した。バガン ため カン、テナセリムの海岸地帯では年降水量は五れて吹き込まないので、夏は乾燥が激しい。溜王国が元朝フビライの遠征軍によって攻撃され ℃ E LLJ E し冫鴛んい フー E ~. 0 ( 、 0 つ」っ O 「・ー 〇〇〇ミリに近く、その八〇 % が六月から九月ま池灌漑に基づく古くからの米作地であり、伝統 ( 一天七 ) 弱体化したあと、ビルマ、シャン、モ CO (. 0 でに降る。イラワディ・デルタで二〇〇〇 ~ 一一的ビルマ文化の故郷である。バガン、アバ、マ ンの各民族が対立抗争を繰り返す分裂時代が続 Z る 8 日皿 ト 6 五〇〇ミリ、海から遠いシャン高原で一二〇〇、、リ ンダレーなど、古跡や仏教文化遺産が多い。原 いたが、タウングー朝が成立して一六世紀中ご 7 気量 程度である。イラワディ川中流域は八〇〇ミリ以 油、石炭の埋蔵地がある。 ろに領土を拡大するなど勢力を伸ばした。しか 均水幻 平降 下、最小六二〇ミリの場所もあり、気温が高いの ⑤イラワディ川下流平野地域低湿な原始林は し一七五二年にモン族がこれを滅ばした。その 年年 度「で降水量の少ない地域は乾燥が厳しい 一九世紀後半から農業開発の舞台となり、輸出後一七五七年にアラウンパャー王が上ビルマと へんばう 乾期に落葉する雨緑林に生えるチーク、ピン向け米作地帯に変貌した。イラワディ・デルタ下ビルマを統一し、最後のビルマ族の王国コン 2 温水度高 7 気降緯標 カド ( インドテッポク ) などの堅木は用材とし には一望千里の水田が広がり、水路が四通八達 ハウン朝を建てた。ポルトガルやフランスの登 O CD C) O O O ℃ ) 4 ・ ( こフ」 て重要であり、タケは種類が豊富で多様に利用する。移住定着した人口と輸出貿易の発達によ場の後を受け、インドの支配者イギリスはビル される。海岸線はマングロープ林に縁どられるり、雑多な民族、人種が混住する先進的経済地マ王国に三度侵攻軍を送り、一八八五年にこれ 〇〇前後の褶曲山脈からできている。イラワ所が多い。野生動物は種類が多く、人里遠く離域となった。ラングーン、バセイン、プロームを滅ばし、インドに併合するという形で植民地 ディ川の支流およびべンガル湾に注ぐ諸河川 れた森林には、ゾウ、トラ、ヒョウ、ヤギュ など都市が多い 。ビルマ人の反イギリス独立運動は第一 が、樹枝状または格子状の複雑な谷を刻む。アウ、シカ、クマ、ヤマネコ、サル、サイなどが ⑥シッタン川下流平野地域米とサトウキビを次世界大戦中に始まり、世界大恐慌以後、若い はちゅう ラカン山脈の南端はネグレス岬で海に没する生息している。鳥、昆虫、爬虫類も各種いる。主作物とする農業が盛んである。歴史の古いペ知識層の間に広まった。ビルマは第二次大戦中 が、インド領のアンダマン諸島、ニコバル諸島毒蛇による被害は後を絶たず、長さ一七〇拜一にグー、タトン、タウングーなどの都市がある。 日本軍に占領されたが、各政治勢力は大同団結 はこの西部山地の延長とみなされている。 達するダボアイやキングコ。フラは猛毒で恐れら ⑦ペグー山脈地域森林に覆われる低山地域して反ファシスト人民自由連盟を結成、反攻し れている。 中央低地は南北約一一〇〇キロ、幅約一一〇〇キ。 で、少数のビルマ族とカレン族が住む。チークてきたイギリス・インド軍と協力して日本車を の大平野であり、イラワディ川とその第一の支〔地誌〕ビルマは、自然地理的には東部山地、材の産出がある。 撃退した。戦後ビルマはイギリスとの間に独立 ばくだい 流チンドウイン川がともに緩やかに流れ、莫大中央低地、西部山地に三区分され、歴史的、文 ⑧シャン高原地域六〇〇 ~ 八〇〇の河谷と協定を締結、一九四八年一月四日ビルマ連邦と な水量を運ぶ。河口には延長二五〇キ。、底辺一一化的にはイラワディ川中流平野を中心とする内盆地にはシャン族、交通不便な山奥にカレンして独立した。 〇〇キ。のデルタを形成し、排出される土砂によ 陸部を上ビルマ、イラワディ・デルタや沿岸地族、ワ族、パラウン族などが住む。米作、養 独立交渉の立役者アウンサンが独立直前に暗 って海岸線は毎年数十進出する。ペグー山脈方をあわせて下ビルマとよぶが、ここでは以下蚕、茶、果樹、ウシと水牛の飼養で知られる。 殺され、独立後政党間や民族集団どうしの対立 を挟んで東側を並行して流れるシッタン川は、 の九地域に分けて簡潔に述べる。 チーク材、ポードウインとマウチの鉱産があ抗争が激しくなり、国内各地に反政府武装集団 マルタバン湾に大きな三角江を開く。 ①アラカン海岸地域べンガル湾に面する細長り、サルウイン川水系は包蔵水力が大きい。 が割拠して内戦に突入した。政治・経済情勢が 一方、シャン高原中央部を南流するサルウィ いこの地域はチン丘陵とアラカン山脈によって ⑨テナセリム地域山地が海に迫って全般的に 混乱するなか、一九六二年三月軍総司令官ネ・ ン川はマルタバン湾に注ぐ河口に、ジャインほかの地域から分離されている。年降水量は夏平野は少ないが、モールメインを中心とするサウインがクーデターによって政権を掌握した。 アタラン川とともにデルタを形成してい に集中してきわめて多く、カラダン川、レムロ ルウイン川デルタは米作地であり、ココヤシや憲法は停止され、国会は解散し革命評議会が組 ビルマ各地の気象 マンダレー 工 シ ラング・一 - ン 1000 800 600 400 200 0
ばんしよ となった。またモリス商会のために、ステンド グラスやタベストリ ーの下絵を手がけ、モリス 創設の印刷所ケルムスコット・プレスの挿絵も 描いた。ロンドンに没。図し挿絵〈谷田博幸〉 半尻はんじり平安時代以降、公家男子が かりぎぬ 用いた狩衣の一種。普通の狩衣より後ろの裾 ( 尻 ) が短いため、半尻とよばれた。近世にな くぎようわらわ ると、親王、公卿家の童が儀式のときに用いる 装飾的な衣服となり、その地質は摂家以上の者 ふたえ が二重織物、清華家の者は浮織物を使うとさ きお しゃ れ、夏には生織りのもののほか、顕文紗が用い そでぐち よ ひも られた。その袖口に左右撚りの紐をさし通して と から毛抜形にしたり、あわび結びにして綴じ付 きくとじ 年 5 ギにが地衣んしで し CX) ズ 手ちら 、ゝレ」ロロ け、またその中に菊綴をつけたりした。半尻装 地である。二〇世紀前半における中国やエジプ ィ一しめき さいばりおおぐちばかま トをたかるく体作 〈斉藤孝〉 束には、指貫をはくか、前張の大口袴といっ尻 トなどがその典型とされる。 一器女天 よ・一いと おおせいごう ききん ョ 段 9 テ楽乙をては て、前側の生地に緯糸の太い大精好を用いて仕 ばんしょこう江戸時代、飢饉時の食 蕃藷考 なの段り方がの ざン一ま人階降きだ性 の 立てた張りの強い白い袴をはいた。〈高田倭男〉群は、カイガラムシ科、キジラミ科、コナジラ 糧不足に備えるためサツマイモ ( 蕃藷 ) の栽培 ン ドリざのと描的飾 こんようあつぶみ 彩ンラまっ金への典装る ミ科、アプラムシ科に代表される。植物に寄生 を奨励した小冊子。著者は青木昆陽 ( 敦書 ) 。 半翅類はんしるい昆虫綱半翅目 Hemiptera 黄 油ロヤさ持黄上服古てあ 一巻、補一巻、全一冊。本編一七三五年 ( 享保 に含まれる昆虫の総称。準新翅群に属し、不完し植物ウイルスを媒介する種もあり、作物や園 二〇 ) 、増補一七六九年 ( 明和六 ) 成立。本書学などの科学技術部門諸科が次々に開設され全変態をする。昆虫のなかでも大きな群の一つ 芸の重要害虫とされるものが多い。〈立川周二〉 では、サツマイモの形や味をはじめ栽培法・蔵た。構舎は初め江戸九段坂下にあったが、五九で、地球上の生物圏のあらゆる環境に広く生息 バンジロウ <> グアバ ほんぞう ひとつばし はんしんこうぎようちたい大 種法について中国の本草書である『農政全書』年 ( 安政六 ) に小川町へ、六二年に一橋門外へする。形態上のもっとも大きな特徴は、ロ器が阪神工業地帯 さつま こうふん ( 徐光啓著 ) などから抄出し、あわせて薩摩国移転した。蕃書調所は六二年に洋書調所、六一一一細長い管状をしたロ吻となり、そのなかに細い 阪、神戸の一一大都市を中心とする大阪湾の臨海 よど ロ針が収まることである。このロ器は、ロ針を地区と、それに続く内陸部の淀川沿岸および大 ( 鹿児島県 ) における栽培の実態なども述べて年に開成所と名称を変え、維新後は明治政府に じよあん いる。またのちに、松岡恕庵著『蕃藷録』を参移管され東京大学の前身校の一つとなった。↓ 食物の生物体に刺し込んで、相手の体液を吸収阪市東部、それに隣接する東大阪一帯の地域か にしのみや 〈宮崎ふみ子〉するのに適している。 考にして訂正増補したらしい。昆陽の建策は町開成所↓東京大学 らなる工業地帯。臨海地区は、神戸、西宮、 ぶぎよう ただすけ あまがさき このはな 奉行大岡忠相を通じて幕府の採用するところと回大久保利謙著『日本の大学』 ( 一九四三・創元社 ) 異翅類 ( 異翅亜目 ) Heteroptera は、同翅尼崎、大阪 ( 西淀川、此花、港、大正の各区 ) 寺一んルい なり、昆陽自ら責任者となってサツマイモの試 ▽沼田次郎著『幕末洋学史』 ( 一九五 0 ・刀江書類とともに、半翅類を二分する大きな群で、カから堺、泉北埋立地にかけて広がり、鉄鋼、金 作に成功し、全国へ普及する端緒を開いた。本 院 ) ▽同著『洋学伝来の歴史』 ( 一九六 0 ・至文メムシ類に代表される。前ばねの基部が厚い革属、機械、造船、電力、ガス、石油化学など重 さんじつぶく 書は『三十輻』第四巻に収める。なお、同名書 堂 ) 質、先端部は薄い膜質である。陸生のカメムシ化 学工業部門の大工場が集中しており、阪神工 たけのり ばんしょわ、けい、よ , つがかり 科、ヘリカメムシ科、ナガカメムシ科などの種業地帯の中核となっている。臨海地域の南に に池田武紀著と糸川某編とがある。〈馬場章〉蕃聿日和解御用掛 いずみおおっ 一一年 ( 文化八 ) 天類は植物体から吸汁するので、農作物の重要な は、泉大津、岸和田、貝塚、泉佐野を中心と 蕃書調所ばんしよしらべしょ江戸幕府の洋江戸幕府の翻訳機関。一八 ていゅうおおっきげんたく もんかた 学研究教育機関。一八五三年 ( 嘉永六 ) のペリ 文方に設置。高橋景保、馬場貞由、大槻玄沢、害虫とされることがある。サシガメ科などの種する繊維工業地帯がある。臨海地域の内側に りんそう ひがしなり ー来航を契機に幕府は外交・軍事面の充実を図青地林宗らがその中心。これを改組拡充したの類は他の昆虫を捕食するものが多く、天敵昆虫は、大阪市の東部三区 ( 城東、東成、生野 ) しらべしょ とされる。また、トコジラミ科のトコジラミ り、その一策として洋学を取り扱う機関の設置が洋学所 ( のち蕃書調所 ) である。↓蕃書調所 から大東、東大阪、八尾にかけての機械器具、 を計画した。五五年 ( 安政一 D 洋学所という仮 ( ナンキンムシ ) はヒトから吸血する。水生の繊維、雑貨などの工場群、淀川沿いの大阪市北 バーン . 一ンヨーンズ Si1 、 Edward CoIey と・つ」り みやこじま 称のもとに頭取古賀謹一郎を中心として準備が Burne-Jones ( 天三三ー九 0 イギリスの画家、コオイムシ科、タイコウチ科などの種類は水中東部 ( 福島、大淀、都島、淀川、東淀川の各 すいた 開始され、五六年蕃書調所という名で開業、五デザイナー ーミンガムに生まれ、聖職者をで生活し、他の動物を捕食している。半水生の区 ) から吹田にかけての地域の化学、薬品、繊 志してオックスフォードのエクセター・カレッ 七年一月授業も開始された。同所の任務には、 アメンポ科の種類は、水面上で活動し、落下し維、染色などの工場群がある。内陸地域の外縁 いばらきたかっき 洋書洋文の翻訳・研究、洋学教育、洋書・翻訳ジに入学。そこで生涯の友ウィリアム・モリスた昆虫などを捕食している。 部には、淀川右岸の茨木、高槻、左岸の守口、 かどまねやがわひらかた 書などの検閲、印刷・出版、一部の技術伝習が と出会う。その後、ロセッティの作品に強い感 同翅類 ( 同翅亜目 ) Homoptera は、前ばね 門真、寝屋川、枚方が含まれ、第二次世界大戦 みつくりげんば あり、これを担当する教授方には、箕作阮甫、銘を受け、画家になる決意を固めた。初期の作 が同質で膜質なのが特徴である。ロ吻が頭部後 後の技術革新やトラック輸送の発達により、旧 ぞうろく こうあん むねのり 1 い、か・れ 杉田成卿、松木弘安 ( 寺島宗則 ) 、村田蔵六 品にはその影響が強く表れているが、一八五九方下面から出ている頸吻群と、前脚の基節間か国鉄線や国道沿いに軽電機、機械、化学、食料 ( 大村益次郎 ) ら著名な洋学者が任ぜられた。年から数度にわたるイタリア旅行でポッテイチら出ている腹吻群に分けられる。頸吻群にはセ品などの大工場が進出している。阪神工業地帯 らんがく あか 当初、設置科目は蘭学一科であったが、六〇年ェッリやマンテーニヤの作品に傾倒。アーサー ミ科、アワフキムシ科、ヨコバイ科、ウンカ科を広義に解釈するときには、西は兵庫県の明 し あこう かこがわたかさごひめじあいおい ( 万延一 ) より六二年 ( 文久一 D にかけ、英・ 王伝説やギリシア神話に取材した夢幻的な作品 などが属し、いずれも植物体に寄生し吸汁する石、加古川、高砂、姫路、相生、赤穂などの せいれん ま 仏・独の外国語、および精煉・器械・物産・数を制作し、後期ラファエル前派の代表的な画家ので、農作物の害虫とされることがある。腹吻磨工業地域、南は和歌山、海南、有田などの紀 かげやす だいとう いくの 300
ぜんそく ラクレス』 ( 一七一一三 ) をはじめとする三曲のオペ ( ワキツレ ) と乳母 ( 前シテ ) にかくまわれて降る。気温は冬季は一五度 0 前後であるが、夏行を積むが、生まれつきの喘息のため親元から ラがローマで上演されているが、・・ゲッ には三五度 O を超える。南部の高原地域ではそ通う例外が許され、父のもとでのバイオリンの いる。狩りに出た豊成 ( ワキ ) は、姫を養うた め歌おもしろく花を売る女 ( 後シテ ) を乳母のれよりやや低く、降水量も多い。農業は平原地勉強も続けられたと考えられる。一七〇三年司ツィ描く有名な風刺画もこのころ描かれたもの 祭に叙されるが、父親譲りの髪の色のためにである。アルト歌手アンナ・ジローとの関係 侍従と知る。前非を悔いた父は姫 ( 子方 ) と再域が中心で、米作がとくに盛んである。ほかに も、このころ始まったと思われる。彼女は一七 「赤毛の司祭」とよばれた。父もまた・・ 小麦、豆類、サトウキビ、ジュートなどが栽培 会してめでたく終わる。中将姫を慈しむ乳母の 二四 ~ 四七年、ベネチアを中心に活躍したオペ 心情、舞を舞う情緒とともに、間狂言による鷹されるが、西部では、キビ類、小麦の比重が大口ッシ ( 赤毛 ) とよばれている。持病のためミ - か′れ一かい じようるりかぶき ラ歌手だが、ビバルディは司祭の身にもかかわ 狩の場面も変化がある。後世の浄瑠璃や歌舞伎きい。 ソン川下流部には大規模な灌漑水路が建サを司式することができなかったビバルディ にも影響を与え、『当麻中将姫』ほかの作品が設されている。南部の高原地域は畑作が一般的は、同年九月、ベネチアにあった孤児院兼音楽らず、彼女とその妹のパウリーネをつねに身近 ある。 〈増田正造〉で、キビ類、豆類が栽培されるが生産性は低学校オス。へダーレ・デッラ・ピエタ ( ピエタ養に置いたため、指弾を受けることになる。 じよ・つるり ~ 二八年、ビバルディはふたたびペ 育院 ) のバイオリン教師となる。「ピエタ」と インドでもっとも地下資源に恵まれた州 鵝山姫捨松ひばりやまひめすてまっ浄瑠璃 そうすけ 義太夫節。時代物。五段。並木宗輔作。一七四で、ジャーリア炭田をはじめシンプーム県の鉄の関係は断続的ではあるが結局死の前年の一七ネチアのサンタンジェロ劇場を中心に活躍する とよたけ が、器楽曲の出版も盛んである。すでに二五年 〇年 ( 元文五 ) 二月、大坂・豊竹座初演。謡曲鉱石、銅、パラマウ県のポーキサイトなどがあ四〇年まで続き、当時のヨーロッパに名声をと たえま ひばりやま には、『四季』を含む協奏曲集『和声と創意へ どろかせていたそこの女性オーケストラのた 『雲雀山』『当麻』や古浄瑠璃に扱われた中将姫る。こうした資源に支えられて、南部のチョ の伝説を原拠とした作で、通称「中将姫」。三タ・ナーグプル高原やダモダル川流域に重工業め、数多くの協奏曲、室内楽曲を作曲、上演しの試み』作品八がアムステルダムのル・セーヌ から出版されているはか、同社からは二七年に 段目「雪責め」のくだりが名高い。右大臣横萩地帯が形成されている。タタ財閥の製鉄所、機た。今日知られているもっとも古い作品はトリ いわね 豊成の後妻岩根御前は、王位をねらう長屋王子械工場のあるジャムシェドプル、機械・化学工オ・ソナタ集作品一 ( 一七 0 五 ) で、その後バイオは協奏曲集『ラ・チェトラ』作品九 ( 皇帝カー あらし リン・ソナタ集作品二 ( 一七 0 九 ) 、さらには出世ル六世に献呈 ) 、二八年ごろには『海の嵐』や に頼まれ、継子中将姫の預かる観世音の像を奪業のランチ、鉄鋼のポカロ、肥料のシンドリ、 せつかん 『ごしきひわ』を含むフルート協奏曲集作品一 、その罪を姫になすりつけ、雪中で折檻すセメント工業のカラリなどが代表的な鉱工業都作となった協奏曲集『調和の霊感』作品三 ( 一七 一二が出版 (l) をはじめ、一七一三年までは器楽曲ばかり〇、二九年には協奏曲集作品一一、 〈林正久〉 る。しかし、姫は忠節な侍女たちに助けられ、市である。 されている。 作曲していたようである。 父の慈悲で鷓山へ逃れる。美女を雪中で責めるビハール人ーーじん Bihari インドのビ かぶき 一七二九 ~ 三三年、ビバルディはプラハをは 一七一三年四月、「ピエタ」の楽長だったガ ハール州の住民のうち、インド・アーリア語系 サディスティックな美しさは、歌舞伎ではとく / リーニの病気退職に伴い、ビバルディは宗じめとして各地に旅行し、オペラを上演してい に顕著で、「責め場」の代表的なものになってのビハール語を話す約四〇〇〇万人の人々の総ス。、 るが、三三 ~ 三五年にはまたサンタンジェロ劇 〈松井俊諭〉称。ビハール語は、北部と東部のマイティリ方教音楽の作曲も始める。こうして有名な『グロ 場と、サン・サルートのグリマーニ劇場のため ーリア』をはじめとするミサ曲、詩篇、モテッ 言、中部のマガヒ方言、西部のポイプリ方言に ル B 一 h 三巴 ( 一五九五ー一六 ビハーリーラー にも数曲のオペラを書いている。ベネチアでの トなどが生まれるのである。オラトリオ『勝利 六三 ? ) インドのヒンディー語の詩人。中央イ分けられる。ビハール人の大多数はヒンドウー ンドのグワリオルに生まれる。ジャイプルの王教徒で、ごく一部がイスラム教徒である。主産のユデイタ』は一四年にベネチアで初演されてオペラ活動はこのころが最後で、以後はペロー しよう いる。一〇年代に、ビバルディはオペラの世界 の庇護を受け、宮廷詩人となった。一頌につき業は稲作を中心とした農業であるが、近年はさ に足を踏み入れる。一三年四月にビチェンツア まざまな近代産業に従事する者が多い。しか 金貨一枚の約束で詠んだ、ラーダーとクリシュ で初演された『離宮のオットー大帝』によって し、ほかのヒンドウー社会と同様、多数のカー ナをめぐる官能的な恋愛詩を集めた『ビハーリ サトサイー ー七百吟』 ( 一六六一 I) は、優れた修辞法を駆使しストに分かれ、それぞれが特定の職業と結び付初めて名声を得た彼は、ベネチアのサンタンジ 〈板橋作美〉 いている。 ェロ劇場の作曲家兼興行師として活躍すること て後代に大きな影響を与えた。一七、八世紀ご たんでん Bihar イン になる。この劇場の地主の一人だった・ヘネデッ ろの作詩法時代、恋愛詩時代の発端となり、多ビハール炭田 ト・マルチェロが書いた風刺的な著作『当世の 〈田中敏雄〉トヒノ 。、・、ーレ州、および一部オリッサ州にまた くの注釈書が書かれた。 =0 レしキ がって分布する炭田地区の総称。ラーニガン劇場』 ( 一七 = 0 ) は、当時のビバルディたちの仕 ビ、ール Bihar インド北東部のト . 」。 ジ、ジャーリア、ポカロ、カランプラアなどの事ぶりを生き生きと描写したものと考えられて ネパール、東は西べンガル州、西はウッタル・ いる。一四年の謝肉祭 ( 冬 ) のシーズンはビバ プラデシュ州とマディヤ・プラデシュ州、南は諸炭田がある。カルカッタの北西約一〇〇キ。に ルディのオペラ『狂気をよそおうオルランド』 オリッサ州と接する。面積一七万三八七六平方位置するラーニガンジ炭田は、インドのもっと で開幕され、一七年までにさらに二曲のオペラ 。人口は六九八二万三一五四 ( 一九〈 l) と全国も代表的炭田として知られている。また、ジャ リア炭田は粘結炭を産するため、重要視されが上演されており、一六 ~ 一七年にはサン・モ の州のなかで第二位、人口密度が高い。州都は イゼ劇場のためにも三曲のオペラを書いてい ている。この区域の総埋蔵炭量は約四七億トンと ガンジス川沿岸のパトナ。公用語はヒンディー 〈木下重教〉る。 いわれる。 語である。北部はガンジス川中流部にあたり、 一七一八年以後、ビバルディの活動は各地に ヒマラヤ山脈から流出するコシ川、ガンダク川ビバルディ Antoni0 Vivaldi ( 一六大 ひょく 四 l) イタリア盛期バロックを代表する作曲家、広がってゆく。その年の四月にマントバでオ。へ の扇状地をあわせて肥沃な平原地帯が広がり、 バイオリン奏者。独奏協奏曲様式の確立者。三 ラ『エジプト戦場のアルミーダ』を上演したの 」農業地域となっている。南部は開析の進んだチ るヨタ・ナーグプル高原が位置し、森林地帯が広月四日、サン・マルコ大聖堂付きバイオリン奏を皮切りに、二〇年までは同地で次々にオペラ 、ま ・バティスタ・ビバルディの長男を上演し、その後はローマで活躍している。二 がる。年降水量は、平原西部が一〇〇〇ミリ、東者ジョバンニ 三年と二四年の謝肉祭には『テルモドン川のヘ としてベネチアで生まれる。聖職者としての修 ひ部が一八〇〇ミリで、夏のモンスーン季に大半が ぎだゅう しへん ビバルディ〔右〕肖像ポロー ャ市立音楽資料博物館 〔上〕ゲッツイによるカリカチュア 645