いう独特な経過をたどった。微生物学は、広義 4 かに支部を有し、政府間協定によらず創設されたせた複式顕微鏡が登場し、これによ 0 て拡大率 0 ている。また、微生物は、絶対寄生性のもの 常設的かっ安定的組織であり、その組織の目的は飛躍的に向上した。現在では、このような光を除いて、試験管内で純粋分離培養することが にはウイルス学、細菌学、菌類学、原生動物学 5 が国連の精神に合致していることが必要であ学顕微鏡だけでなく、電子顕微鏡が発明されてできる。一九世紀の後半、ドイツのコッホによ などといった広範な学問分野を含み、それそれ せ る。また、財源が特定国政府からの援助に偏っ透過型から走査型へと開発が進み、改良が加え って初めて細菌の純粋培養が行われた。これが に分類学、形態学、細胞学、生態学、遺伝学お び てはならない られ、有効拡大率の向上だけではなく、高い解端緒となって、他の微生物にもこの培養法は応よび生理・生化学の領域を包含している。ま 国連 ZCO は、国連経済社会理事会との協議像率や立体像が得られるようになった。 用された。こうした培養技術の発展は、微生物た、微生物学は、基礎微生物学、応用徴生物 利用の可能性を無限に広げたばかりではなく、 取決めによって三つの等級に分けられる。①理 〔生態系のなかでの微生物の役割〕微生物には 学、病原微生物学、植物病原微生物学などのジ 事会活動の大部分に関心を有する一般協議資格生産者、消費者、分解還元者 ( 還元者 ) の三者基礎生物学としての微生物学の発展の原動力と ャンルに区分されることもある。応用微生物学 団体。赤十字等。②理事会活動の一部にのみ関がある。一見、静止しているようにみえる水圏なった。↓微生物学〈曽根田正己・寺川博典〉 は人間の生活に役だっ微生物を対象とする科学 心を有する特別協議資格団体。アムネスティ・ であり、このなかには発酵微生物学や食用・薬 や地圏の中においても、海洋微生物群、淡水微微生物遺伝学びせいぶついでんがく micro ・ インターナショナル等。ロ ( 臨時的に協議資格を生物群、土壌微生物群が構成され、それそれ前 bial genetics 微生物を研究材料として用い 用微生物学がある。病原微生物学は人間や他の 有する登録団体。 〈香西茂〉出の三者の働きによって物質循環が行われてい る遺伝学の一分野。一九四一年にアメリカのビ動物に病原性を有する微生物を対象とするもの 一る。三者のうち、分解還元者として重要な働き ードルとテータムが、子嚢菌の一種であるアカで、このなかには人獣感染微生物学、細菌性食 微生物びせいぶつ microorganism(s) 般的には、顕徴鏡的微小生物を総称して微生物をしている微生物は、菌類 ( 細菌を含む ) であ バンカビを用いた生化学的突然変異の研究を発中毒の科学を中心とした衛生微生物学、伝染病 という。つまり、個体が微小で、肉眼では明 る。これらは生体分解還元者、死体分解還元者表してから急速に発展した。微生物種としては学などがあり、いずれも人間と密接な関係をも りよう 瞭に識別できない生物に対する一般用語であである。このほか、菌類は動物の腸管内や植物アカバンカビや酵母など菌類のほか、大腸菌、っている。植物病原微生物学は農作物、果樹や って、純生物学的な区分ではない。 この「個の根圏において、動物・植物が養分を吸収するサルモネラ菌、枯草菌など細菌類、バクテリオ樹木の病理学を中心とした科学であるが、栽培 体」の厳密な定義はむずかしいが、生活活動をのに重要な役割を果たしている。 ファージやタバコモザイクウイルスなどウイル植物に対する病原微生物学から発展して、自然 営む基本単位と考えるのが妥当である。 〔応用面での微生物〕農学のなかで取り扱われス類が多く用いられる。研究目的によっては、界の植物全体の病原微生物学へと研究が広がっ 微生物として取り扱われる範囲は、分類学的る微生物には、植物病原微生物、発酵微生物、ゾウリムシやテトラヒメナなど原生動物や、クている。このほか、最近注目されているものと に広い範囲にわたっているし、学者によっても腐敗微生物、食用微生物、薬用微生物がある。 ラミドモナスやミドリムシなど藻類が用いられして、土壌微生物学および海洋微生物学などの また、医学のなかでは、病原微生物や食中毒微ることもある。 〈曽根田正己〉 その範囲は異なる。しかし、広義に微生物とい 分野がある。 う場合には、次のような真核生物、原核生物が生物がある。このようにみると、微生物と人間 微生物は細胞一世代の期間が短く、一定の環微生物タンバクびせいぶつーー微生物体 含まれる。すなわち、原生動物、後生動物の一との関係がいかに密接であるかがわかる。とく 境条件下で、短時間に多数の細胞集団を得るこを構成するタンパク質をいう。微生物は速やか 部の微小動物、単細胞性の藻類 ( 植物性プラン に、病原微生物のなかには、宿主の生体内でのとができ、生化学的研究や突然変異研究が容易に生育するし、その体を構成する細胞中には高 クトンを含む ) 、真核菌類 ( 変形菌類、カビ、 み繁殖する絶対寄生性のものと、あるときは寄である。また、交雑によって得られる多数の子 いタンパク質を含有するうえ、安価な炭素源や らんそう 酵母、キノコ ) などの真核生物と、藍藻、放線生し、あるときは独立生活を営む条件的寄生性孫細胞を解析でき、各種の遺伝学的研究が精密窒素源を利用して培養することができる。この 菌や一般細菌、リケッチアやクラミジアなどののものとが区別される。また、発酵微生物と腐に行われる。このような利点から、微生物遺伝 ような特性を生かして工業的に生産された微生 原核生物である。また、キノコとウイルスを微敗微生物とは、物質分解を行う微生物という意学では、生化学的突然変異体を用いた酵素や核物タンパクは、おもに家畜の濃厚飼料として利 生物として取り扱うかどうかが論議の対象とな味からは、本質的には異なるものとはいえな酸などの作用機構の研究、遺伝子微細構造の研用することができる。工業的に生産される微生 ることがある。キノコの場合、微生物としない 事実、同種の微生物によって発酵もおこる究、遺伝子作用の研究、遺伝暗号の解読実験、物タンバクは、培養によって微生物の細胞素材 理由は、その子実体が大きいことであり、微生し、腐敗もおこる。いわば、人間からみて合目 調節機構の研究、組換え機構の研究、遺伝子工を廉価に得ることであるため、細胞収量を、で 物とする理由は、生活基本単位である菌糸が、的的に分解をおこす微生物が発酵微生物であ学実験など、遺伝学のほとんどすべての分野の きるだけ速やかに、そして最大にすることが要 カビの菌糸と同様に顕微鏡的に微小なことであり、人間にとって不本意な分解をおこす微生物研究が行われ、多くの成果が得られている。微求される。このためには、①微生物は、かなら る。ウイルスにおいては、ウイルスを絶対寄生が腐敗微生物であるといえる。食用微生物、薬生物遺伝学研究の多くは生化学的であり、分子ず強制通気の環境下で培養すること、②培養基 性の構造体と考えるか、生活活動を行う生物と用微生物とは、タンパク質、ビタミンなどの微レベルの研究を含むので、遺伝生化学や分子遺 に関しては、窒素源として硫酸アンモニアのよ して考えるかという本質的な問題にさかのばる量成分を体内に蓄積して保持する微生物であ伝学研究の多くと重複しているといえる。↓遺うな無機態窒素を使用し、同時に、できるだけ 伝学 のであって、その解決は将来に残されているり、人間はそれそれの目的に従って利用してい 〈石川辰夫〉廉価な炭素源を使用することである。したがっ はいとうみつ て、炭素源では精製。フドウ糖より安価な廃糖蜜 ( なお、ウイルスは電子顕微鏡的に微小であるる。酵母やクロレラ ( 緑藻類 ) などがこの例で微生物学びせいぶつがく microbiology ため、超微生物といわれることもある ) 。 ある。しかし、抗生物質、ホルモン、アミノ酸微生物についての科学をいう。微生物について ( 糖蜜精製時の副産物 ) 、亜硫酸バルプ廃液、石 〔微生物と顕微鏡〕微生物の発見は顕徴鏡が発その他の有機酸などを合成する微生物 ( 菌類 ) は、広義に解釈するものから、狭義に解釈する油 ( 〃ーパラフィン ) 、メタン、メチルアルコー 明されてから始まったものであり、その構造のは、それらを菌体外につくることが多いため、ものまでさまざまあり、その取り扱う範囲も研ルなどが、次々と開発され、利用されてきた。 改良によって、さらに多くの徴生物が発見さ発酵微生物として取り扱われる。 究者によって異なっている。微生物学の歴史的また、対象となる微生物として、これらの炭素 れ、確認されてきた。一七世紀の初めにオラン 微生物は他の生物に比して、生活環が短いう な発展をみると、まず、医学や農学など、人間 源を資化する ( 体内に取り入れて自分の体をつ ダのレーウエンフックによって発明された顕微えに人為的管理が比較的簡単であるため、遺伝 に密接な関係をもっ研究から出発し、次に、基 くる ) ことが可能で、タンパク質収量の高い酵 鏡は、レンズが一つだけの単式顕微鏡であった学的研究や生理・生化学的研究の実験材料とし礎的分野の研究へと移行して、理学的な掘り下母や細菌が使用されてきた。現在、廃糖蜜や亜 が、やがて接眼レンズと対物レンズを組み合わて使われ、基礎生物学的な諸現象の解明に役だ げが行われ、さらに、応用の領域に還元すると硫酸バルプ廃液を利用する微生物タンバクの生 、しの - っ
表現主義音楽ひょうげんしゅぎおんがくおベルリンに活躍の舞台を移した。特定の理論を的な時代を反映して、人間存在の深刻な内面のなり、一方の生物 ( この場合は微生物 ) が、他 第一方の生物の体制や機構を利用して生活するとい 問題を烈な色彩形態によって訴えたが、 もに新ウィーン楽派を中心に、二〇世紀初頭か基盤とするグループではなく、その名称は若い う関係である。寄生には、宿主から離れるとま 世代の美術家を広く結集する橋渡しの意味で命次世界大戦によってグループは四散し、以後は ら第一一次世界大戦前夜まで展開されたドイツ・ ったく生活することが不可能な場合と、寄生生 オーストリア文化圏における一音楽連動。絵画名された。フォービスムに近い強烈な色彩と形一人一派的な理念的追求を深め、ナチスによっ の分野でおこった表現主義運動が、シェーンべ態のデフォルメによる既成絵画への挑戦、感情て「退廃芸術」として弾圧されるまで、ドイツ活、自由生活ともに可能な場合とがある。前 の解放と自由への希求、若い生命力の燃焼にこ現代美術の主軸をなした。表現主義の孤独な探者を絶対寄生 ( 無条件寄生 obligate pa 「 asit ・ ルク、ウェーベルン、ベルクらの作曲家たちの 求者としては、ウォルプスウェーデの自然叙情 ism) 、後者を条件的寄生 ( 不完全寄生 faculta ・ のグループの特色がある。ドイツの伝統ともい 彼らはフランスの印 手により音楽に波及した。 , 象主義の絵画と音楽に対抗して、一九一〇年代える表現力の強い版画の復興はこのグループの派から出た女流画家モーダーゾーン・べッカ tive を「 asitism) とよぶ。このような寄生現象 ー、ベルリンの労働者街に働く医師の妻としてを宿主側からみると、入り込んでくる寄生生物 功績であり、とくに第一次世界大戦前夜の危機 から二〇年代にかけてこの音楽運動を繰り広げ せんべん の多くは有害生物であり、病原性をもっ徴生物 た。先鋭な音程進行、極端な高音域や低音域の感をはらんで大都市化するべルリンの街頭風景プロレタリア美術に先鞭をつけたケーテ・コル ウィッツ、北ドイツの風土的気質の奥に潜む激である場合が多い。これが、いわゆる病原体で 使用、自由な拍節やリズム、極端な強弱の交を描いたキルヒナーの諸作は出色である。 情を多彩な宗教画、風景画、幻想画、花の絵、ある。 一九〇九年、ミュンヘンにカンディンスキー 替、不協和音の頻出などをその特徴とする。と くに、カンディンスキー、ココシュカという表を中心として「新芸術家同盟」が誕生し、印象版画などにみごとに表現したノルデ、第一次大〔病原性〕病原性とは、病気をおこさせる能力 現主義の画家と親しかったシェーンベルクが重主義を奉ずる分離派の旧世代に対抗する勢力を戦の従軍体験によって写実からカ強い象徴表現を意味するが、この語には複雑な内容が含まれ ており、微生物が病原性をもっか否かの決定は への転換を遂げたべックマンらがいる 結集した。同様な動きはベルリンおよびケルン 要で、彼の「無調時代」とよばれる一九〇八 きょ 彫刻では、重厚な人間像のフォルムで宗教感容易なものではない。病原体が宿主体内で生育 にもおこっている。一二年、週刊の文化評論雑 一六年を中心に『浄められた夜』 ( 天究 ) 、『月 あらし していく能力は、とくに宿主環境からの生育促 に憑かれたピエロ』 ( 一九一一 l) 、『「架空庭園の書」誌『シュトルム ( 嵐 ) 』の主幹・ワルデンは、情を表現したバールラハがおり、建築ではベル ツイヒ、タウトらに表現主義思潮の影響が認め進因子と生育抑制因子とのバランスによって影 ~ 0 九 ) などに表現主同名の画廊を・ヘルリンに開設し、「橋」派を含 による一五の歌曲』 ( 一九只 られる。なお、ココシュカおよびバルラッハを響される。生育促進因子とは病原体の要求する 義的色彩が濃い。弟子のベルクの二つのオペラむこれらの若い運動に連帯感を鼓吹した。さら はじめとして前記の表現主義の美術家のほとん栄養素や病原体と宿主との親和性などであり、 にワルデンはシュトルム画廊で、「第一回ドイ 『ウォッェック』 ( 一九一七 ~ 一一 I) と『ルル』 ( 一九一一九 どが、造形作品と同時に詩、小説、戯曲、旅行生育抑制因子とは宿主免疫機構などの宿主防御 ッ秋のサロン展」を開催 (一九 llll) し、二〇世紀 ~ 三五、未完 ) は、それそれビュヒナー、ウェー 記、自叙伝などの文学的作品に筆を染めている機構などをいう。このような因子は、植物と動 デキントの戯曲を原作にし、表現主義的傾向の初頭のヨーロッパのあらゆる前衛美術運動を結 物ではかなりの相違があるほか、種によっても 〈細川周平〉集しようと意図した。表現主義の名称はこうしのは特筆される。図ドイツ美術 絶頂を極めた作品である。 さまざまである。したがって、病原微生物にお 〔表現主義美術の展開〕ドイツ国外では、ベル 表現主義美術ひょうげんしゅぎびじゅっ表たベルリンの文化的情況のなかで生まれ、ベル いては、一般に宿主ならびに組織に対して特異 リンに集まった美術家、詩人、文学者、進歩的ギー表現派を代表する画家ベルメック Con ・ 現主義の思潮は、二〇世紀初頭のドイツにおい stant Permeke ( 天〈六 ー一九五三 ) 、スイスの画家性が認められることが多い。このように、病原 てもっとも典型的な高揚をみた。最初絵画に始文化人らの合いことばとなり、普遍化された。 ー一九六 I) がおり、性も多くの場合、微生物の種の属性や特性とし まって造形芸術一般に及び、さらに文学、演「シュトルム」のサークルでは、ココシュカがアミエト Cuno Amiet ( 天穴 また広義にはフランスのルオー、グロメールをてみられることが多いが、これだけがすべてで 劇、音楽、映画などの諸分野に波及している。内面透視的な肖像画で名をあげた。 。オい。なぜなら、同種の微生物のなかにおい も表現主義とみなす立場もある。第二次大戦よよ 一九一一年ミュンヘンの「新芸術家同盟」か 美術では、ゴッホやゴーギャンの流れをくむ反 あお 後、コペンハーゲン、。フリュッセル、アムステても、その菌カ ( ビルレンス virulence) や毒 ら「。フラウェ・ライター ( 青騎士 ) 」が派生し、 自然主義、反印象主義の立場にたつが、このよ カ ( 病原カ ) には差があるし、病気そのものが ルダムの若い美術家が連帯して組織したグルー うな立場は、現象よりもその背後にあるものをカンディンスキーおよびマルクを中心としてマ ッケ、ファイニンガー、クレーらがこれに属しプ「コプラ」は表現主義の系譜を引くものと評病原体と宿主との相関関係 ( 微生物種対生物 探求しようとするゲルマン的造形者にあっては た。カンディンスキーは論文「芸術における精価されるが、なかでもデンマークの画家ヨルン種、微生物種対生物個体 ) によって成立するこ 伝統の気質であるといえる。したがってドイツ 表現主義の思潮は、ナビ派と接触のあったノル神的なもの」を発表して、精神的体験の表出を Asger Jorn ( 一九一四ー七一 (l) の即興的表現は「橋」とも多いからである。 ふうび 〔生体との反応〕病原体は宿主内で増殖・増生 ウェーの画家ムンクのような直接の先達以外にねらいとする抽象画を開拓し、マルク、マッケ派に近い。また一九五〇年代を風靡したアンフ ォルメルおよびアクション・ペインティングをし、病変をおこし、生物を発病させ、しばしば も、ドイツの郷土美術や、自然叙情派や、世紀およびファイニンガーは、ロべール・ドローネ ーとの接触を通じてキュビスム的な形態の分総称して「抽象表現主義」の呼称もあり、さら死に至らしめる。この場合、病原体によって侵 末のユーゲントシュティル運動のなかに多くの される細胞・組織・器官の様相は、病原体の種 先駆者をもち、また一五、六世紀にさかのばる析、再構成を推進した。このグループは、多分に七〇年代の末からドイツに「新野獣派」 Neue によってかなり特徴的であり、病変や病状もま にロマン主義的な意味合いにおいてではある Wilden とよばれる主観的絵画表現の動きもあ ドイツ美術の伝統からも豊かな栄養をくみとっ このような る。 〈野村太郎〉 た特徴的である場合が少なくない が、「諸芸術の統合」を理念として打ち出した ている。 〔ドイツの表現主義美術〕ドイツ表現主義の最集まりで、この意味では後のバウハウスの運動・ラトケ解説、遠山一行訳『現代の絵画生体との反応は、病原体の数量的増加と関係す るほか、生体内で生産される物質 ( 菌体外毒 ドイツ表現主義』 ( 一九七四・平凡社 ) 初の運動は、一九〇五年ドレスデンの高等工業を先取りしている。十二音音楽の創始者シェー びようげんたい pathogen 宿主に寄素、菌体内毒素、酵素など ) の作用からも直接 ンベルクはこのグループの展覧会に参加し、年病原体 学校建築科の学生によって結成された「プリュ ッケ ( 橋 ) 」であった。キルヒナー、ヘッケル、代記に寄稿している。一二年の第二回青騎士展生して、病気の原因となる微生物 ( 病原性微生的、間接的な影響を受ける。病原体は、宿主の フラマン物 ) をいう。自然界で二つの生物がかかわりを個体から直接的に、または間接的に新しい個体 には、国外からヒカソ、プラック、・ シュミット・ロットルフを創立メンバーとする でんば もちながら生活する場合、一般的には共生や寄へと伝播される。伝播のあと病原体が宿主内に へヒシュタイン、オク、ラリオノフ、マレービチらも出品した。 よこのグループは、ノルデ、。 、感染の結果、宿主 7 こうしてドイツ各地に高まった思潮は、危機生などの関係が考えられる。寄生は共生とは異定着することを感染といし ットー・ミュラーらをメンバーに加え、のちに び
しゅうもんにんべっちょう 宗門人別帳に書き上げられ、土地と人の村帰災害の多発と、農村への貨幣経済の流入によ 一〇 ~ 一一世紀の王朝国家のもとで、百姓はその意味で、今日の百姓Ⅱ農民という意味は、 ひやくせいらの 属が決定し、入会地などの区分が行われ、村のり、これら自給的な本百姓の経営は大きく変動 独自で、あるいは郡司とともに「郡司百姓等江戸時代に確立した。 みよう かせい 領域が決められた。村では、百姓は五人組や村し、有力農民と貧農への両極分解が展開する。 南北朝期以後、旧来の名体制の分解から生ま 解」などという訴状を提出し、国司の苛政を糾 弾し罷免を政府に要求するなどの動きを示しれた中小名主や作人層は、その後室町から戦国組などにより生活の共同と統制・監視を受けすなわち本来的に生活の豊かな一部有力農民 は、事実上の土地売買を通じて地主化し、なか た。また百姓は、中世と同じく村寄合を開き、 た。九八八年 ( 永延一 l) の尾張国郡司百姓等解時代にかけて、ん・地侍層を中心に、農村に そう 1 」う 文は有名である。 惣や郷などの組織をつくり、農村内で農作業を村の運営を協議し、村法を制定して、村での生には高利貸を営み、在郷商人化するものも出 いりあい しようえん 活規制を行ったが、兵農分離体制下では、中世た。一方、年貢の重圧に苦しみ、商品・貨幣経 ~ 一二世紀の荘園・公領制の成立とと共同で行い、用水・入会の利用を共同で行い、 よりあい もに、百姓は荘園・公領で年貢・公事を負担す祭礼などを共同で行うとともに、つねに寄合に よりも統制が強化され、年貢生産者としての百済の圧迫を受けた下層農民は、質地などで土地 る身分となった。ただし百姓は農民のみでな より農村を運営し、惣や郷の掟を決め、違反者姓の生産・生活の管理と村落による規制が強化を手放し、地主の下で小作人に転落するほか、 ひょうとり 農業を離れて、各種の雑業で日雇取化するは 、漁民やその他農業以外の産業に従事するの処罰を行い、また農村の代表者を公選で選ぶされた。 か、生活苦から農村を捨てて都市へ流出する者 人々も、年貢・公事を納める限り百姓であっ など、生活上の強い共同体をつくりだした。郷 しかも領主は、こうした村落の規制に加え、 た。手工業者など百姓の一部は、この年貢・公村制の成立であり、この組織が後の江戸時代のさまざまの法令を制定し、その統制を強化し が増加し、一部奉公人化する者もいるが、多く けいあんのおふれがき 事を免除され、技術でもって朝廷や貴族・寺社百姓の生活共同体の母体となった。しかも農民た。慶安御触書 ( 一六四九 ) で衣食住や生活の細部が都市浮浪人化していった。 しきにん に奉仕する職人として組織された。鎌倉幕府法は、村内の生活の共同のみならず、荘園領主やを統制し、また土地に対し田畑永代売買の禁 その結果、本百姓の自立経営を基盤とした農 四二条では、百姓は年貢・公事を納めている限守護大名との年貢・諸役の交渉や請負を行い、 令、分地制限令を出し、その移動を禁じ、勝手村は大きく変質するとともに、百姓間の対立も きよりゅう 作り禁令で作物の規制を行ったが、こうした法激化し、村内で中期以後に多くの村方騒動が引 り「去留」の自由を確保しているものとして交渉が不調のときには集団で土一揆を起こし、 うちこわし デにん き起こされるとともに、百姓一揆、打毀の激 規定され、売買・譲渡の客体となる下人と明確これに徳政令の要求や、宗教組織が結び付い 令は、そのほかにも多数出された。 きない に区別されている。百姓はまた村落共同体の成て、畿内を中心に多様な農民の一揆が展開し ではそうした規制下の農村での百姓の実態は発を招くなど、村落体制の変動が続いた。↓村 員として、その権利と義務をもっ住人という身た どうか。一般に江戸時代の百姓の中核は本百姓方騒動↓百姓一揆↓打毀 おうにん 分をもち、定住の期間が浅く、権利・義務があ 応仁の乱 ( 一四六七 ~ 七七 ) に始まる戦国の動乱をといい、領主の政策でもそれを基盤としたが、 さらにこうした本百姓経営の変動は、旧来そ まり認められていない間人や一時的居留や浮浪通じ、各地に生まれた戦国大名は、独自の分国実際には、そのほかに水呑百姓や名、下んなの経営よりの年貢収奪で成り立 0 ている領主経 して歩く浪人と区別されていた。 をつくり対抗するとともに、これら農村の動向ど、各地域別に各種の下層農民がいた。また本済を大きく変動させた。この時期以後に領主層 どみん・ヘっしよう 百姓は、貴族や武士などから土民と蔑称さ に対応し、一方で郷村制を認め農村の運営を彼百姓の資格は、一般に本田畑をもち年貢を納入が年貢以外の各種の収入増加策をとるととも に、都市流出民の帰郷、各種の施米・施金や経 れていたが、一四 ~ 一五世紀には、荘園領主のらに任せ、他方で検地・刀狩を行い、土一揆をする者というが、これにもその経営規模などで しようけ いっき 年貢・公事に反対する荘家の一揆、債務の破棄禁止した。また武士の城下町移住、国人・地侍 さまざまなものが存在した。ことに初期の各地営の助成、荒れ地の再開発と労働力の確保とい すなわち徳政を求める徳政一揆などを起こし、層の武士化、商工業者の城下町集住を図った。農村で村役人を勤めた階層には、中世の土豪的った本百姓経営の再建策をとったり、また村役 これらは在地の土民の一揆ということで土一揆 いわゆる兵農分離政策の開始である。そしてそ領主層が、兵農分離後でも農村に百姓身分とし人を中心とする村の機能の再編・強化を図った と称された。百姓のこのような運動の高まりの政策は、やがて織豊政権により全国に徹底て土着した者が多く、彼らは本百姓といってものはそのためであるが、これらの政策は、農村 おん たい - 一う む、らギり むら の変動の解決には役だたなかった。 は、一方で自らを「御百姓」と称し、結集するして行われ、太閤検地、刀狩、村切の実施と村多くの名子・下人を保有し、中世的大経営を行 やがて明治維新の改革で、旧来の村落支配体 動きを生み出していった。百姓の上層の土豪層請制の確立、武士・商工業者の都市への完全移うものが多く、村のなかでも村役人を勤めるほ みようしゅ じギ、むらい にんべっ は、名主とか地侍とよばれ、武士の家臣にな 制が崩壊し町村制に再編成され、地租改正など 住が進められ、身分法令の実施、全国的人別 か、用水・入会などに特権をもつ者が多かっ あらため で旧来の土地・租税制度が改革されると、農村 り、その軍事力の一端を担って百姓から離脱す改の実施により、農村での住民が農民に限定た。これらを初期本百姓ともいう。そのほか一 る者もあり、その傾向は戦国時代に入ると大名され、百姓身分として定着化された。 般の本百姓の実態も、地域と時期により実に多の体制も農民の経営にも、江戸時代とはかなり 変化がみられた。ただ百姓Ⅱ農民体制はその後 の軍事力拡大政策のなかで助長されていった。 さらにその後、江戸幕府がその体制をより完様であった。 も続き、江戸木期から生まれた地主・自作農・ 家臣が主君をないがしろにしたり、場合によっ成させ、全国的な兵農分離体制を確立し、士農 一般的に標準的な経営は、中世の名主経営か 小作農を中心とする農村が、その後の多くの変 ては打倒すること、あるいは、百姓が領主に抵工商の身分制で、全身分の権限、居住地、職業ら自立してきた小農民で、一町歩 ( 約九九 ) 抗すること、さらにこの百姓から武士に上昇しの地域的引き分けが完成し、農村には農民のみほどの土地をもち ( 分地制限令では一〇石を基動を伴いながらも今日まで続いてきている。そ ていくことなど含めて、当時下位にある者が上が百姓身分として固定化され、全国的に百姓Ⅱ 準とする ) 、田畑と屋敷を保有し、夫婦と子供して江戸時代の百姓の生活共同体であった村 げ一一くじよう は、近代以後も行政村の中の村落として残り続 に成り代わっていく社会状況は「下剋上」と農民の体制の確立をみたのである。 数人の単婚家族で、自立的小経営を維持してい よばれた。 〈峰岸純夫〉 そして江戸時代には、幕藩体制の基盤とし た。だからその経営は、多肥労働集約型小経営け、今日に至るも各地農村で、労働や生活の共 ところで本来百姓ということばは、農民のみて、領主が、この百姓の居住地Ⅱ農村を支配的が多く、稲とともに各種の畑作物をあわせた複同組織として機能し続けている。したがって江 をさすことばではなく、古代では広く庶民一般に編成し、そこでの百姓の生活を統制すること合経営を行ったと考えられる。前述の領主の支戸時代に確立した百姓Ⅱ農民の体制は、その背 をさし、中世でも、農村に武士や商人・職人が に努めた。そのため全国に約八万の農村が置か 配策では、そうした経営の維持を目標とし、諸景となった村落とともに今日も形を変えつつも 〈上杉允彦〉 し居住したので、百姓を農村に住む人と解してれ、すべて百姓はこのどこかに集住させられ、政策が行われたし、その後もその経営を維持す存続しているといえよう。 2 、も、その内容は多種多様であった。だが江戸時百姓から選ばれた村役人に、生産や生活を監視るため、その経営を百姓株として固定し、その回児玉幸多著『近世農民生活史』 ( 一九毫・吉川 され、年貢を徴収された。百姓はその持ち地を分割を制限することも行われた。 弘文館 ) ▽中村吉治編『 - 村落構造の史的分 9 や代では、百姓はすべて農民であり、農村に居住 ききん 析』 ( 一空 ~ ( ・日本評論社 ) ▽原田敏丸著『近 2 江戸時代中期以後、年貢の過重、飢饉などの ひする人々はすべて百姓という体制が実現した。すべて検地帳に書き上げられ、人は家族ごとに しよくほう おきて ほん
ひめはな ヒメハギ科 ヒメハギ ものもいる。寄主の体表に産卵し、孵化した幼生活している寄主を攻撃するものが多い。湖 日本にヒメハギ属、ヒナノカンザシ属の二属が 〈小林純子〉虫は、寄主の体を外から摂食する外部寄生性の沼、渓流などの水底で幼虫時代を送るトビケラ 分布する。 種類や、寄主の体内に産卵し、幼虫は体の中で類に寄生するミズバチのグループは、かっては ひめ始めひめはじめその年の物事の行い きっしょ 始めの一つとして、吉書始めなどと並んで江一尸成長する内部寄生性のものもいる。また、植物ミズバチ科 Agri0typidae として独立して扱 われていたが、現在ではヒメバチ科の一員と考 時代の暦の一月一日の箇所に記されている事の茎や葉などの上に産卵し、孵化した幼虫は、 〈桃井節也〉 えられている。 項。初期の暦の多くには、二日としている。意寄主がその場を通りかかるのを待っているとい 味には諸説あり、そのうちでは、秘事を始める うような生活をしている種類もいる。このようヒメハナタイ〔姫花鯛〕 T0 ききミ・ ~ ( ミ ギ 硬骨魚綱スズキ目ハタ科に属する海水魚。南日 日、夫婦・男女が初めて交わりをなす日だとすな生活では、成虫になるまでに死ぬ個体が多い メ ので、一頭当りの成虫が産む卵の量は、ほかの本、中国の沿岸に分布し、やや深い砂泥底にす る考えがもっとも人気のある説で、江戸時代の そくへん ヒ 文学作品にはこの意に解して取り上げているも種類に比べてかなり多い。ヒメバチには長い産む。全長二〇垰一に達し、体は細長く側扁する。 きよく 背びれ第三棘は延長し、尾びれは深く湾入し、 ある。丘陵に生え、北海道から沖縄、および中のが多いが、単なる俗説だとされている。これ卵管をもっている種類も数多いが、一般的にい ひめ に対して、飛馬始めと解して馬に乗り始めるえば、このような種類は、植物の組織の中、繭上下両葉は糸状に延長する。腹びれ第二軟条は 国に分布する。名は、花形がハギに似ている ひめ わおんじ が、より小さいことによる。古くは和遠志と称日、褊糠、すなわち強飯ではなく炊いた柔らかの中、あるいは小さなすきまなど隠れた場所で伸びる。胸びれの中部軟条は分枝しない。体色 ひめい 〈小林純子〉 い姫飯を食べ始める日、火水始めと解して火や し、薬用とした。 チ ーーか 8Polygalaceae 双水を使い始める日、女性が裁縫などの仕事を始 ヒメハギ科 ガ ナ 子葉植物、離弁花類。草木、低木または小高める日などの説があるが、いずれとも決しがた たくよう オ 〈田中宣一〉 木。葉は互生し、托葉はない。花は両性で左右 シ がくへん かわら ホ 相称。萼片は離生して五枚が瓦重ねに並び、内ヒメバショウ 0 カラテア オ オ 側の二枚は大きく、花弁状となる。花弁は三 ~ ヒメハゼ〔姫沙魚〕 nacked ・ headed go- る す 五枚、外側一一枚は離生または下側のものと合生 bY \ き b s きミ ~ 、硬骨魚綱 りんべん 産 し、上方二枚は離生して鱗片状または退化すスズキ目ハゼ科に属する海水魚。両眼は頭頂部 に並び、左右の腹びれは合して平たい吸盤形を る。雄しべは八本、ときに四、五本、通常なか ば以上までは合生し、上部は開く。葯は先が開なす。全長一〇拜一に達する。雄は雌より大きくな きじよう 孔する。果実は蒴果。世界に一三属八〇〇種、り、第一背びれの鰭条が糸状に伸びる。宮城県 いりおもて と山形県以南、南西諸島の西表島までと、朝 糸房珠 べ柱頭 花子胚鮮半島、中国に分布する。内湾の砂ないし砂泥 し花柱葯 底の干潟にある潮だまりでみられる。産卵期は 夏。二枚貝の殻を砂で埋め、その殻の内面に卵 つくだに 塊を産み付け、雄親魚がそれを守る。佃煮の材 し 料に混入することがある。図ハゼ〈道津喜衛〉 雄 まくしゅ・つすい ヒメバチ〔姫蜂〕昆虫綱膜翅目有錐類ヒ メバチ科 lchneumonidae に属する昆虫の総 称。日本全土で八〇〇種以上が知られており、 膜翅目のなかではもっとも大きなグループの一 つである。体長は大きい種類では一〇〇ミリ以上 に達し、最小では数ミリのものまであり、形や生 活の仕方も多岐にわたる。分類学的にはヒメバ チ上科に属し、コマュバチ科 Braconidae と はその形態や生態もよく似ている。 この科に属するハチは、すべてほかの昆虫や クモなどに寄生し、その体を食い尽くして成長 するので、農林業害虫の天敵として有用なもの も多い。寄主としては、クモ類の卵や成虫のほ りんし か、昆虫の脈翅目、毛翅目、鱗翅目、甲虫目、 さなぎ 膜翅目、双翅目などの幼虫や蛹が知られてい る。寄主として選ぶ範囲が広い広食性の種類が 多いが、特定の寄主や特定の環境と結び付いた 花弁 ノ「 ( 断面 ) 萼 こわめし ヒメバチ ハキヒメノヾチ キオビコシプトヒメバチ ムラサキウスアメバチ マイマイヒラタヒメバチキアシオナガトガリヒメバチ 3 チャイロッヤヒラタヒメバチ 689
含まない白。ハンを、二〇〇二年までに完成することを目標と 製バン法が、メディチ家のカザリン姫の結婚によってフランかった し、その消費増大が計画されている。 アメリカバンが日本に入ったのは第一次大戦後であった スに伝えられ、今日のヨーロッパ大陸系パンの基礎となっ 〔種類と製法〕日本では農林水産省基準に従ってパンの種類 た。さらに海路を経てイギリスにも伝えられた。今日のロンが、第二次大戦後、日本の飢餓を救うために配給されたコッ とその分類が分けられ ( 表 2 ) 、また原材料標準配合割合は、 ドンは古代ローマの植民地 ( 四世紀 ) として開発されておペ。ハンは津々浦々にまで広められた。これはアメリカの占領 り、ここに新しい系統のパンが定着し、良質の小麦の生産に政策として「日本人を米と魚から解放するには、よい。ハンを科学技術庁資源調査会によって指示されている ( 表 3 ・ 4 ) 。 じか・ね なかだね これらのパン類の生地製法には、直捏生地法、中種生地 よってよい発酵パンがつくられていった。このイギリスのバ 給することである」とし、日本人の食糧栄養構成の変革、ひ ちゅうめん ンが新大陸のアメリカに移されて、アングロ・アメリカ系の いては戦争から平和への民族的転換を目ざしたものである。法、中麺生地法、液種生地法、連続生地法、サワー生地法、 だね ーム生地法、ホップス種法、ファーメント法、麹種法が 。ハンが生まれるのである。 学校給食はパンを主食とする形で発足したが、今日では日本 型食生活への志向により、原則的に米食に戻す行政対策がとある。 このように古代エジプト、ギリシア、ローマのシンプルな ①直捏生地法 ( ストレート・ドウ法 ) 配合材料を全部同時 ハン ( 粉、イースト、食塩、水の基本材料のみでつくる ) られている。 こんねっ に混捏して生地をこね上げる方法。一度こね上げた生地は、 は、宗教と深く結び付いて中世から近世へと伝えられ、大陸〔バンと民族性〕ドイツの民族学者ハインリッヒ・エドワー 系のリーン lean なバン ( シンプルなパンにごく少量の砂 ド・ヤコ。フは、名著『六〇〇〇年の。ハン』 ( 一九五四刊 ) のなか温度や硬粘度の修正が困難であるため、製造工程の失敗が製 品に現れやすく製品の振れが大きいという難点があるが、比 糖、油脂などの副材を加える ) として発展し、アングロ・アで、「およそこの世には、宗教、政治、技法に関連しない。ハ メリカ系のリッチ rich なパン ( 副材を増してスキムミルクンは一切れもない」と述べているように、。ハンはそれそれの較的低温に仕込めば発酵安定が長いので、仕上げに長時間を なども加える ) はヨーロッパの伝統から脱して合理化、機械民族の歴史と生活のなかで発展してきた。イシスの発酵バン要する小規模べーカリーでは、この方法が多くとられてい 化を進め、とくに第一次、第二次両大戦を経て生産力の増大がヒューマニズムを生み、キリストはこれを受けて「わがる。直捏法でつくられたパンは、ほかの製法のパンに比べや ( 香味 ) に優れており、 をみるに至っている。 肉」にまで聖化し、中世ヨーロッパは宗教のなかに根強く広や固いが、食感を含めたフレー 〔日本〕日本に初めてパンが伝わったのは、一五四三年 ( 天め、ルネサンスはこの聖なる。ハンを大衆のものとして掘り起ストレート法、直捏法、じかポンともよばれる。またこの基 たねがしま 日本では本に近い製法に、ノー・ドウ・タイム法やレミックス・ドウ こした。日本にもキリスト教とともに伝来したが、 文一一 l) にポルトガル人が種子島に鉄砲をもたらしたときと いわれるが、実物を見たのは織田信長の時代に宣教師から、宗教との関連性はほとんどみられず、技法は単に形態をまね法などがあり、ヨーロツ。ハ大陸流の連続生地製法もこの系統 製法を知ったのは長崎貿易のオランダ商人からである。長崎るのみで、商品としての価値に重きが置かれ、近代化を欠い 居留地のパンは、鎖国令 ( 一六三九 ) が出てからはキリシタンのて工業化するに至った。 ヨーロッパでは、それそれの国が宗教と技法によって伝統 信仰との関係で製造禁止になったため、一般にバンがみられ るようになるのは一八五八年 ( 安政五 ) の日米修好通商条約的な独自のパンをもっており、政治的統合や経済共同体がで 以降である。これより先、一八四二年 ( 天保一三 ) には砲術 きてもパンを統一化することはむずかしい。たとえば、フラ ひでたっ の研究家江川英龍 ( 太郎左衛門 ) が軍用の携帯食糧として乾ンスとドイツは隣国でありながら、バンの本質と形態は著し なかがわやかへ く異なる。ドイツがフランスパンのパゲットを取り入れるに ハンを試作している。一 八六八年 ( 明治一 ) には中川屋嘉兵 え 衛の。ハンの広告が新聞にみられ、翌六九年には東京・芝の木は、ライ麦粉を五 % 程度は小麦粉に加えなければドイツ人の したや 村屋、下谷の文明軒などが開業、木村屋が七二年に創製した嗜好にあわないといわれる。がに経済統合が進ん もち あん あず でも域内のバンの統一には困難な問題が多いが、パンはクラ 餡パンは、日本伝統の餡餅の皮をパン生地に変えてこれに小 レ」 豆餡を包んで空焼きにしたヨーロッパのパンと和菓子とを組スト ( 外皮 ) とクラム ( 中身 ) からなるという共通概念を基 み合わせた日本独自のパンである。ヨーロッパのバン生地は として、合理化への道にのせようという傾向がみられる。 る トる アメリカのバンはヨーロッパの伝統を早くに脱して合理化 ビール系のサカロミセス・セレビシェを発酵源としている ン スよ が、餡パンでは日本酒系のサカロミセス・サケを用いて日本され、また栄養強化されて大衆保健の面で成果をあげた。パ ンど」 ン ン ンユ杦田ハきンサな 人愛好の味と香りにあわせ、また糖分を増してもよく発酵しン消費量の総力ロリー ン 、総購買価格、総タンパク質量は一九特 ム シ規ス焼 と 食べズン一ムツ省ン硬ルワ 膨らむことにくふうを凝らしている。明治の初期はもつばら六〇年代にはチーズと同位にあったので、さらに大豆タン。ハ 百 ( 「用一ッ ャニ部ラ風一口理 フランス系小型バンのクーべとファンデュが手本とされてい クやアミノ酸リジンを補って、チーズより安価な肉食の補完分分普コレ餡クジデ文フ欧ロク調 たが、やがてイギリス系の三斤棒型焼きパンが普及するよう食品を目ざして食糧構造のなかに位置づけてきた。しかし、 類 になった。一八八五年、海車は兵食にイギリスパンを採用し今日のアメリカは栄養過剰に陥り、栄養疫学的にパンの位置種 食の おうがい へい也 ↓′ィー んた。陸軍は、ドイツに留学した森鵰外によってバン食が否定を変えようとする新しい政策がとられるに至った。独立食的 校の 表 され、第一次大戦のシベリア出征まで兵食として採用されな食品として、脂肪やタン。ハク質などの動物性要素をまったく 種類 こノ、ン 特徴 角県焼き。一斤約 370g 自山大板焼き フルーップレッドの代表 糖分配合 10 % 以下 果子ノ、ン えきだね 糖分配合 10 % 以上 とくに規制はない こうじだね 237
ばふおま / くフォーマンス ①銀座 4 丁目交差点におけるパフォ ーマンス。 1969 年 9 月、西田圭介と 久民は , 赤 , 青 , 白 , 黄色のポスタ ・カラーの水溶液を銀座 4 丁目の 交差点の 4 か所にぶちまけた。そこ を通る自動車のタイヤがローラーの かわりをすることによって , 自動的 に各色が路上に広がって美しい模様 をつくりだし , その場所を非日常的 な空間に変えた。この写真は , 当日 西田圭介が 1 6 ミリフィルムで撮影し たもの 〈浮田典良〉 は神に依る生活をしなければならない、と説い ている。またにおいては「代々教祖が現 パフォス Paphos 古代ギリシアの伝説上 の人物。キプロス島の南西部にあってアフロデ れ、現存の教祖によって教えが説かれる」とい イテ崇拝で有名な都市バフォスの創建に関連す っている。七四年 ( 昭和四九 ) 現在のフルネー きゅう ムに改称。八三年二月一日、二代教祖の帰幽にるが、諸説が入り混じってはっきりしない。し たかひと 伴い、第三代教祖御木貴日止が教祖の地位を継かしいずれにしても、キプロスの王であり、 とんだばやし フォス市のアフロディテ崇拝の創始者とされる 承した。教団大本庁は大阪府富田林市にあり、 病院、学園などの付属施設を設置してキニラス Kinyras の母あるいは父とされてい いる。教会は国内に三九一、海外に一一三。会る。たとえば、パフォスはキプロス島のニンフ 員数約二五七万人 ( 『宗教年鑑』一九会 ) 。↓御で、アポロンと交わってキニラスを生んだと あけばの 〈川島通資〉か、ケファロスと曙の女神工オスの子がパフ 木徳近 回御木徳近著『私の履歴書』 ( 一九七九・日本経済オスで、。ハフォス市を創建し、その子または孫 〈伊藤照夫〉 にキニラスがいたともいう。 新聞社 ) ▽パーフェクト・リバティー教団 文教部編『信仰生活心得』 ( 一九七九・芸術 パフォーマンス performance 本来の 語義は「完全に遂行すること」であり、心理学 生活社 ) ▽川島通資著『処世訓入門』 用語としては、潜在的な心的諸能力が現実の場 ( 一九会・芸術生活社 ) パフェット buffet 航空機が飛行中に引面で発揮され、行為が「遂行」されるという意 き起こす振動の一つ。パフェッティング buf ・味で用いられ、言語学では言語能力に基づいて feting ともいう。この現象は低速時でも高速言語活動がなされる際の「言語連用」という意 飛行時でも生じ、原因は機体 ( あるいは翼 ) か味をもつ。しかし現在一般的な用法は、二〇世 ら気流がはがれることによる。低速度で大迎え紀の芸術において、諸ジャンルと横断的にかか わる独特の行為の芸術をさす。この場合、パフ 角の姿勢で飛行しているときのパフェットは、 翼が部分的に失速したり、翼と胴体との接合部オーマンス・アートとよばれることも多い。た だし既成の上演芸術 ( パフォーミング・アーツ 分など断面積が複雑に変化しているところから 気流がはがれ、渦を含んだ気流が水平尾翼に当 performing arts) とは異なる。すなわち、行 たって機体全体に生ずる振動である。逆に高速為が上演されるとはいえ、固有の演劇的世界の 飛行の場合は、飛行速度が音速に近づいて翼のなかで、ある人物に扮して演技が行われるので はなく、演技者自身が呈示されるし、劇的意味 表面に発生した衝撃波がしだいに強くなること により、翼の表面に沿う気流がはがれ、それがをもった行為ではなく、劇的形式をもたない、 尾翼に当たって振動を発生する。また、旋回飛独立した身体的動作のみが呈示される。したが 弓をな 一影る って劇的行為を含むオペラとも異なり、単に動 行を行うと迎え角を大きくしなければならない っジ投れ 張ロドわ 作を伴った音響生産行為が呈示されることも多 ので、低速・高速飛行とも水平直線飛行のとき ドーをノイ一号 しいすれの場合にも視覚・聴覚・運動感覚に よりもパフェットが発生しやすくなる。どちら ンフクラか 一テス詞 丿音 も失速の直前に発生するので、失速の警報とな同時に働きかける点に大きな特徴がある。した テの , 歌 がって、ポピュラー音楽の上演の際、単なる演 る。高速飛行で発生する翼の振動 ( フラッター 最た的 奏だけでなく、レーザー光線や照明、歌手や奏 flutter) とは発生の原因がまったく異なり、 えどて寓 > フェットは空カ特性が原因であるのに対し、フ者の舞台への登場の仕方や動作などが演出され 変なつる町 マロをくなす 〈落合一夫〉た場合もパフォーマンスとよばれる。ただし狭 ラッターは構造に原因がある。 オれてをう批供 がわ Havel 東ドイツ義には、歌や演奏に伴うものではなく、それ自 ーフェル川 ンよを提 用リる明真 写中部を流れる川。エルべ川の支流。ノイプラン体独立した形態として行われるものをさす。 の「をオ光文 〔概念の成立〕一九六〇年代に行われたハプニ デンプルク県南西部の湖水地方、ダムペッカー ン一ダイか代 ら現 コたひ ング happening やイベント event もパフォ 湖に源を発して南流し、西ベルリン西部を北か ダ。、ポけの ーマンスに包摂されるが、。ハフォーマンスとい ら南へ流れ、さらに西へ向かってハーフェルべ , つ手あ を。も に合流する。流うことば自体が包括概念として一般的に用いら ルクの約一〇キ。下流でエルべ川 たドる果 し六メ 長三四一キ。。多くの運河によって他の河川ともれるようになったのは、七〇年代末ごろからで をへて的 ッ気し覚 結ばれ、ベルリン付近における水上交通路網のある。しかしその先駆形態は、二〇世紀初頭に 田一磁使視 までさかのばることができる。一九一〇年代にあ 一環をなし、水運上、重要な役割を果たしてい ② ) いスで駆ど ふん
ばん 弋 っ四さ東のよ ト / に及ぶ献納宝物の金銅灌頂幡 ( 国宝、東京国 バノ Pan ギリシア神話の牧神。とくにア 4 しようむ る て 時 宝 立博物館 ) が名高く、正倉院にも聖武天皇一周ルカディア地方では山野の神、さらに牧畜の神 2 せ幡るつ日開雄 ・納 L う ) 人目」 ィーしー あ飛 わ大なに 忌法要が東大寺で営まれたとき使われた数百として古くから崇拝されていた。彼はヘルメス 館合 ら鐸月明岡幡 りゅう 幡物みハ蓋か風 不吉の旒の錦・羅の幡のはか、金銅幡四旒など多数の子とされているが、ほかにもいくつかの異説 の家製 い頂博組一夫飾の 灌法立を , 垂《 1 も尸。 6 念色布 が残っている。平安後期の遺品では岩手・中尊がある。また「すべての」を意味する形容詞バ かりようびんがもん 銅 E 国板で蓋中堂和記染た ン pan と彼の名を関連させ、後世にはさまぎ、 金京りの天寺金昭復 , れ寺金色院の幡頭二枚と、迦陵頻伽文を表した たん 東彫も , 隆と ( 修きさ 左 約透た幡法幡年と原幡身一坪の金銅幡がよく知られる。玉幡は広まな命名由来譚がつくられたが、語源的にはま ばん いつくしま 長宝銅つ、 月司た乳の復島・厳島神社の「平家納経」の安楽行品の見つたく無関係である。彼は上半身が人の姿で、 幡全国金く隅〔れ円院儀り ひげ やぎ 髭だらけの顔と山羊のような耳と角をもち、下 返しに描かれた絵によって平安時代の姿をうか ひづめ 半身は山羊の足に蹄がついている。また、杖を がい知ることができるが、当時の遺例はなく、 かんむり 金銅板製の幡足などに玉を用いた室町時代以降手にし、頭には松葉の冠をつけていた。陽気 いんとう 〈原田一敏〉ですこしばかり淫蕩な性質で、山野を自由に駆 のものがほとんどである。 バーン barn 原子核物理学において、原子け巡ってはニンフたちと戯れる。夏の真昼時に 核や素粒子が相互に衝突する場合の、各粒子のは木陰で眠るが、これを妨げられるとたちまち 衝突確率の断面積の単位。記号は barn また怒り、人間と家畜にバニック panic ( 恐慌 ) を ばくてき ちょうつがい しゅじ さまや すかし 幡、五色幡、仏像幡、菩薩幡、種子幡、三昧耶透彫り、線彫りを施した金銅板を蝶番、針金は原子核の半径は】 0 臺程度だから、そ送り込む。彼は牧笛 ( シリンクス ) を発明し 幡など各種ある。通常、舌をもっ三角形の幡頭でつなぎ合わせ、玉幡は各種の玉をつないだもの断面積は戛平方程度になる。入射原子た。パンに関する神話は少ないが、アレクサン ドリア時代以降になると、牧歌的趣味には不可 核が物質中を通過するとき、吸収、分裂、散乱 の下に、長方形の幡身、その両わきに幡手、幡のである。 あすか ーンはこの確率欠の存在となった。ローマでは、ファウヌス わが国では飛鳥・奈良時代に優品が多く、法などの原子核過程がおこる。 身の下に幡足をつける。幡身は三 ~ 四坪にくぎ しよっこうきん さお Faunus またはシルバヌス Silvanus と同一視 られるのが通例で、竿の先端につけた竜頭のロ隆寺伝世品には岡江錦で仕立てた聖徳太子ゅの目安となる単位である。この名称は一九四二 かんどう 〈伊藤照夫〉 かりの間道小幡 ( 国指定重要文化財 ) 、全長五年アメリカで初めて用いられた。〈小泉袈裟勝〉される。 3 しダフニス に吊金具でかけて用いることが多い。金銅幡は 食の食事構成はパン、ミルク、おかずを明確に基本としたか , っ ) と日本での「。ハン」がよく併合し , つるといえよ , つ。 バン「麺麭〕 päo ト 哺乳動物の一億五〇〇〇万年の進化に伴って、食性は昆虫らである。このように日本におけるパンの位置づけは明確で はんちゅう 歴史 / バンと民族性 / 種類と製法 / 栄養・添加剤 / 利食↓草食↓果実食↓肉食↓雑食と進み、ヒトは完全雑食の段はなく、広い範疇で考えなければならないであろう。 階に達したが、集団的にはバン食民族 ( 肉類を主要食糧とし〔歴史〕〔世界〕小麦の原産地 ( メソボタミア ) に近い地域 用 / バン産業の現状と将来 かゆしよく てパンを補完する ) と粥食民族 ( 穀類を主要食糧とする ) で小麦を粗粒につぶし薄焼きされ始めたのは、およそ紀元前 小麦粉、ライ麦粉、ライ小麦粉などパン用穀物の粉に、食とに分かれているのが現状である。日本人は米を主食とする七〇〇〇年ごろとみられている。オリエントでは古くから平 塩、水その他の材料を加えてこねた生地を蒸し焼き、空焼き粥食民族であるが、第二次世界大戦後、食糧管理統制により焼きパンが焼かれていた。一九七二年発見された。フルガリア かて にしたものの総称。転じて食糧、生活の糧を表す語として用米の代替食としてパンを取り入れたが、行政面での扱いがさの金彩文文化のバルナ遺跡 ( 前 8 ~ 前四 08 ) にもその跡が いられる。。ハンという日本語は、その初めをポルトガル語のまざまで一貫していない。総務庁の「日本商品分類表」によみられる。ユダヤ人もエジプトにきて発酵バンを知ったが、 れば、バン類は「穀類の製品」ではなく、野菜、糖類に続く旅を続ける民族には無発酵平焼きパンのほうが生活の支えに P 0 からとっている。ポルトガル語や、スペイン語の pan 、 「その他の食料品」に食パン、菓子バン、イースト・ドーナなり、今日でもユダヤ人は無発酵パンに信仰をもっている。 フランス語の pain はラテン語の panis と同系の語である。 小麦粉を発酵させてつくる今日のバンの祖型は古代エジプ ツ、調理バン、その他のパン類と類別されている。農林水産 ドイツ語の Brot は brauen ( 醸造する ) からきているが、 英語の bread は piece または loaf につながる語である。省と通商産業省は「生バン」を「食。ハン」に変えて標準分類トにあり、およそ前四〇〇〇年にさかのばる。エジプトの太 にあわせた。その結果、標準分類では「乾パン」は菓子類の陽・万物の神オシリスは穀物の神でもあった。当時のエジプ それぞれの民族がもっパンという語は、それそれの生活のな かから生まれ、変遷を重ねてきており、これらの歴史にはか焼き菓子に属してビスケット類の一種とされ、科学技術庁のト人は人肉を食べていたが、オシリスの妻イシスのつくった バンは、人肉よりもおいしいというヒューマニズムを生むに なり異なったものがある。これを地球的規模にみて、発祥の「日本食品標準成分表」にはパン類となっている。なお、「調 でんば 地から諸地域に、あるいは各国へと伝播した系統を示せば図理バン」は総務庁家計調査ではパン類から外食産業部門に移至った。エジ。フト学者が bread eater と評するほど古代工 のとおりである。穀物の加工食用形態の発展段階についてのしている。厚生省はバンを菓子の分類からはずし、特殊栄養ジプト人は。ハン好きであり、前二六〇〇年ごろから前一五〇 かしきよう 諸説を表 1 に示したが、六世紀中国の賈思と、二〇世紀初食としての表示を勧めたが、成功するには至らなかった。文〇年ごろまでにパン作りは大きな進歩を遂げた。前二五〇〇 頭のポーランドのマウリッチオの両説に共通したパンの通念部省の学校給食用パンにおいてのみ、欧米の肉食における補年ごろ、スイス湖上生活民族もバンをつくっていたと考証さ 完食としてのバンの位置づけがみられる。すなわち、学校給れているが、エジプト学における類型区分によると、古代工 がみられ、今日、中国での「麺麭」 ( 蒸してつくるまんじゅ つり ぜっ ミエン・ハオ 1 / ほにゆっ・ ら
にこの地方を覆った氷河の作用によるフィヨル 三 0 ) として国際的に活躍を続けた。三〇年代に的に投資し、「ヒューズ帝国」とよばれる一大べ ) 』 ( 一九耄 ) 、『ムアタウン』 ( 一九七九 ) などの詩 〈羽矢謙一〉 ドの一種である。湾には大型船が航行できる。 はフーバー大統領により合衆国最高裁判所長官企業組織をつくりあげた。しかし五〇歳過ぎご集がある。 湾岸にはエベレット、シアトル、タコマなどの ( 一九三 0 ~ 四 D に任命されたが、ニューディールろから人嫌いの奇癖が募り、外国のホテルで外回片瀬博子訳『テド・ヒューズ詩集』 ( 一九全・ 土曜美術社 ) ▽皆見昭訳『クロウーーー烏の 〈高橋章〉界から遮断された生活を送った。このため彼の に対しては保守的であった。 都市が発達し、同州の人口はここに集中してい 生活と歌から』 ( 一九天・英潮社事業出版 ) る。湾名は一七九二年にこの地を探検したジョ ヒューズ Richard Hughes ( 一九 00 ー七六 ) 晩年は謎に包まれた部分が多い。〈小林袈裟治〉 ハンクー 〈鶴見英策〉イギリスの小説家、詩人、劇作家。ウェールズ回ノア・ディートリッヒ著、広瀬順弘訳『ハワヒューズ fuse 電気回路に過大電流が流 バーが命名。 れたとき、自ら溶断して回路を開き ( 遮断し ) 、 ード・ヒューズ謎の大富豪』 ( 角川文庫 ) の名家に生まれ、オックスフォード大学に学 ヒュース Thomas Hughes ( 天 = = ー九六 ) イギリスの小説家、思想家。バークシャー生まぶ。寡作だが天才的な作家。『危険』 ( 一九一一四。邦ヒューズ Henry Stuart Hughes ( 一九一六機器を保護するもの。鉛、スズ、ビスマス、カ ドミウム、銀、銅などを組み合わせた合金で、 ) 現代アメリカの歴史学者、思想史家。 れ。ラグビー校に学び、オックスフォード大学訳『炭坑の中からしは最初の放送劇。西インド 。ハーバード大学で学組成の配合により、融点を七〇 ~ 一〇〇度 0 間 ニューヨークに生まれる 諸島からイギリスへ帰る子供たちと海賊との交 を卒業して、弁護士となる。 O ・キングズリー らと「キリスト教社会主義」の社会改革連動に渉を描いて、子供の非情さと社会の不条理を暴位取得後、第二次世界大戦前にヨーロッパに留の値にもたせることができる。数ポルトから数 いて意表をつく『ジャマイカの烈風』 ( 一九 = 九 ) 学した。戦争中はイタリア、ドイツなどで情報万ポルトの電気回路に使用され、一〇〇 ~ 二〇 走り、代議士となる ( 天六五 ~ 七四 ) 。現在は、 は古典的名作。現代史を扱う連作小説『人間の将校として活躍し、戦後は国務省ヨーロッパ研〇ポルトあるいはそれ以下の回路には、つめ付 説『トム・ブラウンの学校時代』 ( 一会七 ) の作 ト大学きヒューズや筒形ヒューズが多く使用される。 〈小野寺健〉究部門の部長を務めた。やがてハーバー 者として知られる。続編に『オックスフォード窮状』は第二巻までで末完。 大学のトム・。フラウン』 ( 一会一 ) がある。↓ト 回小野寺健訳『ジャマイカの烈風』 ( 一九七 0 ・筑助教授、スタンフォード大学教授を歴任し、一それ以上の回路には一般的な限流ヒューズのほ か、特別なものとして、真空ヒューズ、放出ヒ ート大学歴史学教授。 ム・・フラウンの学校時代 〈小松原茂雄〉 九五七年以後ハーバ、、 摩書房 ) ▽北山克彦訳『大あらし』 ( 一九七五・ ヨーロッパ史、アメリカ史関係の多数の論著ューズなどが使われることもある。 晶文社 ) ヒュース David Edward Hughes ( 一盒一 以上のヒューズはいずれも溶断することで役 があるが、『意識と社会』 ( 一九五 0 、『ふさがれた ー一九 00 ) イギリスの電気技術者。ロンドンに ヒュース Langstone Hughes ( 一九 0 = ー へんばう 目を果たすため、動作後は取り替えないと使用 道』 ( 一九六 0 、『大変貌』 ( 一九七五 ) という二〇世紀 生まれ、少年のころ両親とともにアメリカに移六七 ) アメリカの黒人詩人、小説家。ミズー これに対し、自己復旧型限流素子 ヨーロッパ社会思想史研究の三部作が彼の代表できない 州出身。コロンビア大学中退後、ホテルのポー 住した。ケンタッキー州のバーズタウン大学に 学び、一八五〇年、同大学の音楽教授になった イ、水夫など雑多な職を転々としながら詩作を作と目される。一八九〇年から一九三〇年に至 ( 永久ヒューズ ) とよばれるものがある。これ が、やがて音の伝達・拡大に関心をもち、五四続け、やがて > ・リンゼー、カール・バン・べる社会理論の知的革新の試みを扱った第一作のは金属ナトリウムを可溶体とするもので、過大 年教授を辞した。五五年、一分間に二五〇 ~ 一一一クテンらの助力もあって詩壇にデビューし、一あと、第二作では三〇年以降六〇年に至るフラ電流が流れると、可溶体自身の発熱によってガ ーレム・ルネサン ンスの社会思想、第三作では同年代の亡命によス化し、電気抵抗が高まる。抵抗が高まれば当 〇〇字が処理できる印刷電信機を発明、これは九二〇年代のいわゆる「ハ フランスなどで広く使用された。七八年には炭ス」の中心的存在として活躍した。黒人大衆とる知的変貌を描いて、現代ヨーロッパ思想史の然電流が制限され、直列に接続されているスイ ッチまたは小容量の遮断器によって回路は遮断 の連帯感のなかで黒人意識の高揚と黒人生活のみごとな。ハースペクテイプの提示に成功してい 素棒を一一つの炭素塊の間に緩く挟んだ接触抵抗 〈生松敬三〉 される。遮断後はガス化した可溶体をピストン 型送話器を発明した。これはエジソンの送話器哀歓を、伝統にとらわれない自由詩型でみごとる。 により圧縮すると、ふたたび固体化して電気抵 に歌い上げ、アメリカ黒人が生んだブルースの回生松敬三・荒川幾男訳『意識と社会』 ( 一九 の性能をもしのぐ「マイクロホン」としてベル 七 0 ・みすず書房 ) ▽同訳『ふさがれた道』抗が小さくなって電流が流れるようになり、再 電話会社に買い取られ、電話の原型となり、重気分を芸術にまで高めた。詩集は『もの憂いプ ^ 岡村正巳〉 ( 一九七 0 ・みすず書房 ) ▽同訳『大変貌』 ( 一九使用できる。↓遮断器 ルース』 ( 一九一一六 ) 以下、軽妙なタッチの『黒人 要な意義をもつものとなった。一八七七年から 大・みすず書房 ) ロンドンに戻って居住した。 〈山崎俊雄〉街のシェークス。ヒア』 ( 一九四一 I) 、叙情詩集『驚異 ヒュースケン Henry C. J. Heusken ー六一 ) 幕末、駐日アメリカ公使館通訳官 の野原』 ( 一九四七 ) など。はかに長編小説『笑い ヒューズ Ted Hughes (Edward James ヒュース CharIes Evans Hughes ( 天六 = 八三二年一月二〇日ア ) イギリスの詩人。ョを勤めたオランダ人。一 ー一九四 0 アメリカの法律家、政治家。コロンなきにあらず』 ( 一九三 0 ) 、短編集、戯曲、二冊の Hughes) ( 一九三 0 ー 〈斎藤忠利〉 ークシャー西部の山の町マイズアムロイドに生ムステルダムに生まれ、五三年アメリカに渡 ニューヨー 自伝などがある。 ビア大学で法学士となり ( 一公四 ) 、 り、五五年駐日総領事ハリスの随員に任命さ まれる。父は大工。ケンプリッジ大学べン。フル ク市で弁護士を開業。一一ユーヨーク州立法委員回斎藤忠利訳『驚異の野原』 ( 一九七七・国文社 ) ック・カレッジの英文学公開奨学金を獲得するれ、ペナンで総領事と合流、シャムとの通商条 ▽木島始編訳『黒人芸術家の立場』 ( 一九七七・ 会 ( アームストロング委員会 ) 顧問 ( 一九 0 五 ~ が、専攻を数学と考古学に切り替える。一九五約締結ののち、五六年八月二一日 ( 安政三年七 創樹社 ) ▽同訳「ヒューズ詩集』 ( 一九六九・思 0 六 ) として生命保険会社の調査で活躍し、つい しもだ 潮社 ) 四年卒業後、バラ園の園丁や夜警で暮らす。五月一三日 ) 下田に着任、オランダ語、英語、フ で共和党からニューヨーク州知事 ( 一九 0 七 ~ 一 0 ) 六年、ポストン生まれの女性詩人シルビア・プランス語に加えて日本語を修得、五八年日米修 に当選し、州政治の改革に努めた。アメリカ合ヒューズ Howard R0bard Hughes ( 一九 ラースと結婚し、一男一女をもうけるが、シル好通商条約締結に成功、ついで日英修好通商条 衆国最高裁判所判事 ( 一九一 0 ~ 一六 ) を経て、一九 0 五ー七六 ) アメリカの実業家、富豪。テキサス 州ヒューストンに生まれる。父親の創設したヒ ビアは六三年に自殺。シルビアとは生活面で苦約締結に協力、五九年六月 ( 和暦五月 ) に江戸 一六年共和党候補として大統領選挙に出馬した あざぶ ューズ・ツール社を引き継ぎ、同社の技術をい 労をともにし、作風面でも互いに影響しあっ麻布の善福寺に移り、六〇年 ( 安政七 ) プロシ がウイルソンに敗れた。第一次世界大戦後はハ ~ = 五 ) かして飛行機を作製、自ら。ハイロットとしてスた。七〇年キャロル・オーチャードと再婚。彼アとの印普修好通商条約締結にも協力したが、 ーディング大統領により国務長官 ( 一九一一一 の詩は自然をつき動かす力をとらえ、現代民主六一年一月一五日 ( 万延元年一二月五日 ) 夜、 に任命され、とくにワシントン会議を主宰してピード記録に挑戦し、一躍有名になった。一 す・九か国条約を結び ( 一〈 = 一 l) 、門戸開放主義を列方、映画事業では数々の名作と新人の発掘、著主義社会の状況のなかで、文明生活の矮小さ攘夷派の薩摩藩士伊牟田尚平らに襲撃され、 翌日死去した。幕府はその母に扶助料・慰謝料 3 ゅ 強に認めさせた。その後ハーグ仲裁裁判所判事名女優とのロマンスで世の注目を集めた。さらを鋭くつく。『雨の中の鷹』 ( 一九五七 ) 、『森の人』 からす ~ 三 0 ) 、常設国際司法裁判所判事 ( 一九一天 に不動産や航空事業のほか政府関係事業に積極 ( 一九六七 ) 、『烏』 ( 一九七 0 ) 、『ガウデテー ( 汝ら喜として一万トルを支払った。著書に『ご e をミ なんじ
ひょうせ そう 〈落合明〉 ラ気候 ( 気候 ) とし国・宋時代の表装の技術が将来され、室町時代される。 た。また、降水のすべ には書院造が完成して、それまで長押にかけら表層流ひょうそうりゅう surface current てが雪の形をとり、融れた掛物が床の間にかけられるようになると、海の表層の流れをいう。海洋学では海の表面 解、蒸発による積雪の舶載の貴重な裂などを使用した多様な形式が発 ( 海面 ) と表層 ( 海面から数十ないし二〇〇 ひょうほえ にぐらいまで ) を区別して使用するが、表層流 減少より、降雪による達した。茶道の流行とも深く結び付き、表情 しんどうほえぎよう りんほえそう 増加のほうが多い気候 ( 真 ) ・幢情 ( 行 ) ・輪情 ( 草 ) の形式分類も行はほとんど表面流 ( 海面流 ) と同義的に使用さ ちゅうまわし とも定義できる。そのわれるようになる。やがて、一文字や中回れている。表層流は流向・流速のほば恒常的な ちゅうべり ため陸上では年々積雪 ( 中縁 ) などの裂地や、各部分の寸法に依頼者海流と、流向・流速が周期的に変化する潮流と じゅ 称お緒木」題巻お緒 助「一先ぎ木が増加し、その圧力での好みが反映されるようになり、それらは、珠の合成である。外洋では海流が卓越し、沿岸域 くー田くー田〔く・田 - 一うよ、つじようお・つ りきゅう せきしゅう 名 3 掛示げ外 5 上巻 下層の雪は氷となり、光様、紹鵐様、利休様、石州様などとよばれや海峡部などでは潮流が卓越することが多く、 分 氷河や氷床となる。工た。真・行・草の分類のほかに、本紙の内容やこの点、注意が肝要である。世界の海の表層流 の の知見は、大航海時代からの多くの航海者によ スキモーなどが狩猟を用途などに由来する形式名として、本尊表具、 みんちょう やまと しているグリーンラン大和表具、見切表具、袋表具、明朝仕立、台る観察・経験の集積と、人工衛星や最新の航海 掛 えんそうはしらかくし ドや、各国が協力して表具、円窓、柱隠などがある。 〈松原茂〉計器・海洋測器による精密な観測結果の集大成 ひょうそうぎよ epipelagic fish 水である。日本近海の表層流資料として、「海流 学術観測をしている南表層魚 そこうお 表 極大陸が氷雪気候の地面近くで生活する魚類をいう。中層魚や底魚通報」 ( 海上保安庁水路部 ) 、「気象庁海況旬報」 「日本近海海流図ファックス放送」 ( 気象庁 ) が 使われた用語である。ドイツの精神病理学者ャ域である。南極は、地下資源や軍事基地などで ( 底生魚 ) 、深海魚に対して用いる語で、浮き魚 〈半澤正男〉 〈山下脩二〉 ともいう。海では二〇〇以浅で浮遊または遊ある。 スパースは、「著名な人間の生活記録であり、各国の関心が高まっている。 かのう 精神病理学的に興味のある精神生活を調べ、精ひょうそ〔瘰疽〕手足の指におこる化膿泳する魚をいう。サバやマグロ類のように水深平仄ひょうそく中国古典詩において、音 ひょうた 二〇〇ぐらいまで生活の場とするものもある律を整えるための作詩法上の規定。平他ともい 神的異常性が人間の創造性に対していかなる意性炎症で、指先の小さな傷から、おもに・フドウ りくちょう が、表層魚の多くは五〇以浅で生活する。 う。中国語に声調があることは、六朝に入っ 義を有するかを明らかにするもの」と定義して球菌などの化膿菌が感染しておこる。指が赤く しん 一生の間、表層で生活するものを完全表層魚て自覚され始め、五世紀の末、南斉時代に、沈 おり、また同じく精神病理学者のグルーレ H. 腫れて痛み、リンパ節も腫れる。炎症が皮膚だ しせいはちびようせつ ひょう 約らの「四声八病説」が出て定まった。平 Gruhle ( 一会 0 ー一九五 0 は、「ある傑出した人けにとどまるときは、まもなく中央に黄色い膿という。沿岸域ではイワシ、ニシン、多くのト じよう きょ しよう ビウオ、アジ、サバ、プリ、外洋ではサンマ、 声 ( たいら ) 、上声 ( 下から上がる ) 、去声 の異常な本質特徴とその発展を、生活と作品を疱をつくり痛みが和らぐが、解剖学的関係から こゅう ( 上から落ちる ) 、入声 ( 語尾が詰まる。「につ 基にして提出しようとする伝記の一形式」と定病変は深部組織に進みやすく、皮下組織、腱、サケ・マス、シイラ、カツオ・マグロ、カジ 義している。研究方法としては、ヤスパースら骨、関節に及ぶと、発熱や悪寒を伴い脈を打っキ、マンボウ、ハリセンポンなどが、その代表しよう」ともいう ) の四声である。当初は、五 えさば の現象学派、フロイトらの精神分析学派、ランような激しい痛みがあり、指が動かせなくなるである。これらの大部分は集団をつくって餌場言詩の初めの二句一〇字の構成に、これらの四 ゲ・アイヒバウム W. Lange-Eichbaum ( 天 ( 皮下瘰疽、骨瘰疽、関節瘰疽 ) 。爪の下にできを求めて、また産卵・越冬のために季節的に回声の配列を細かく規定したが ( 八病説 ) 、しだ うみ いに、たいら ( 平 ) と、たいらでない ( 仄 ) も 七五ー一九四九 ) らの社会学派、あるいはクレッチマると最初から痛みが強く、やがて爪の上から膿遊をする。とくに外洋にいる完全表層魚は太平 そうか が透けてみえるようになる ( 爪下瘰疽 ) 。爪の洋や大西洋を横断して大きな回遊をする。表層のの二種に分けて配列を問題にするようになっ ーらの体質生物学派などがそれぞれ独自の病跡 論を展開している。日本でも第二次世界大戦後生え際のものは、爪の周囲が赤く腫れて、爪とでは、太陽光線のエネルギーをよく吸収して光た。つまり、平声が平、上・去・入声が仄であ ようやく本格的な研究が現れ、一九六六年 ( 昭皮膚の間から膿が出る ( 爪囲炎 ) 。足の指の瘰合成が盛んであり、植物プランクトンや動物プる。唐になって近体詩が成立し、その平仄の配 ランクトンなどの生産量が多い。したがって、 列法も定まった。五言絶句に例をとれば、次の 和四一 ) 日本病跡学懇話会が発足し、現在の日疽では、ハイヒールや先の狭い靴の慢性刺激が 本病跡学会に発展して活発な研究活動を行って原因となり、慢性に再発することがある。治療餌生物が中層や深海に比して豊かであり、完全ようなことである ( 。印は平、・印は仄 ) 。 なんこう 〈春原千秋〉 は安静にし、抗生物質の内服、抗菌剤軟膏の外表層魚の資源は水産上もっとも重要である。 ばっそう 白日依山尽 0 これに対して、底魚または深海魚で一生の一 回野村章恒著『パトグラフィ研究』 ( 一一・金用、湿布などを行うが、切開や抜爪を必要とす 黄河入海流 ( 韻字 ) 〈野波英一郎〉時期にかならす表層で生活するものを一時的表 剛出版 ) ▽伊東高麗夫著『病跡学夜話』 ( 一九ることもある。 ちしぎよ 欲窮千里目 公一・金剛出版 ) ▽井村恒郎他編『異常心理表装ひょうそう書画の保存や鑑賞のため層魚という。とくに稚仔魚期に表層で生活し、 おうしかん 更上一層楼 ( 韻字 ) ( 王之渙「登鸛鵲楼」 ) ハトグラフィー』 ( 一九七三・みすず に、裂地や紙などを補って掛物 ( 掛幅・掛軸 ) 成長するにつれて中層や深海に移動するもの 学講座 9 ふすまついたて かんす びようぶ に、ハダカイワシ、エソ、アンコウ、キンメダ 第一句の二字目が仄であるものを仄起式、平 や巻物 ( 巻子 ) 、あるいは額、屏風、襖、衝立、 書房 ) 寺一つしじよう イ、ヒメジ、カサゴ、アイナメ、カジカ、ヒ一フであるものを平起式という。五言の場合、二字 氷雪気候ひょうせつきこう寒帯気候に属し、冊子、帖などに仕立てること。表具ともいう。 そ ) つ、 : っ せつ 目と四字目は平仄が反対にならなければいけな 奈良時代には、経巻の表装を装満 ( 「装」は截メ、クサウオなどがある。また、流れ藻や流氷 一年中氷雪に覆われ、地球上でもっとも寒冷な だん などについた沿岸魚または底魚が偶発的に外洋 ( 二四不同という ) 、また下の三字が平平 気候である。地表は永久凍土層をなし、永久凍断、「満」は染める ) とよんだ。掛物の表装は、 の表層で生活することもあり、これを外来性表平・仄仄仄となってはいけない ( 下三連とい 結気候ともいう。ケッペンの気候分類では平安時代には、本紙の上下に紙か裂地を足し、 下に軸木をつけた程度の簡単な形式 ( 『餓鬼草層魚という。 う ) 、仄平仄のように平字が仄字に挟まれては 気候といし 寒さのために樹木が生育できない - 一ひょ・つ いけない ( 孤平という ) などの禁忌がある。七 なお、淡水域では表層、中層、下層の区別が 気候を無樹木気候とし、さらに最暖月の平均気紙』東京国立博物館本などの画中に見られる ) 温〇度 O 以下を氷雪気候、〇度 0 以上をツンドであったらしいが、鎌倉時代に禅宗とともに中厳密でないので、淡水魚は浮き魚と底魚に大別言の場合は、六字目が二字目と同じ平仄になる 〔表〕 〔裏〕 、 . ( 帯露」回」字 い風 3 中以文 ( 本紙 ) ←柱 文回 地 ( 下 )
てるもと ばうちょう かさおか う。↓救貧法↓社会政策↓社会保障↓社会 笠岡諸島の白石島、北木島や塩飽諸島の六島な敗北した毛利輝元は、防長二州に移封され、義社会においては、資本主義的蓄積の結果、必 まさのりあき いんのしま 〈渡辺益男〉 然的に階級対立が呼び起こされ、一方で富が蓄 かわって福島正則が安芸、備後両国四十九万八 どに、西部は芸予諸島の弓削島、因島などに限 ひうち られ、南は燧灘に続く。水深は二〇内外であ千石の領主として広島城に入り、両国の近世化積される反面、他方では相対的過剰人口や被回江口英一著『現代の「低所得層」』上中下 きゅうじゅっ ( 一九七九 ~ 含・末来社 ) ▽同編著『社会福祉と るが、北部、東部、西部では深くえぐられた所を推し進めた。しかし無許可で広島城を修築し救恤的窮民が生み出されていく。とくに資本 貧困』 ( 一久一・法律文化社 ) ▽小沼正著『貧 もある。タイ、サワラ、タコ、イカ、エビなど たという理由で一六一九年 ( 元和五 ) 改易さ主義の初期においては、労働者階級の悲惨なま ながあきら 困』第二版 ( 一九含・東京大学出版会 ) の沿岸漁業や養殖漁業が行われている。沿岸にれ、かわって安芸国には浅野長晟が、備後国での貧困な生活状態が現出され、労働者の肉体 かつなり びんざいく口が小さく胴の膨らんだ に水野勝成が入封した。以後広島城主浅野氏は的能率を維持するための最低限以下の「絶対的瓶細工 は福山市などの瀬戸内工業地域の拠点都市があ り、主要交通ルートとして船舶の往来は激し安芸国と備後国北部を明治初年まで支配した。貧困」が焦点の問題であった。しかし、資本主ガラス瓶の中に、その大きさの口からは入りそ うもない大きさの造花や人形を特殊な技術で入 一方、西方の芸予諸島では本州四国連絡橋入封後、福山に城を構え備後国南部十万石を支義の発展の過程で、労働者階級内部に階層分化 〈北川建次〉 配してきた水野氏は、嗣なく一六九八年 ( 元が進むにつれ、諸階層間の生活水準の格差かられる細工。明治中期以降、ガラス製造の発達に が次々と完成している。 くる「相対的貧困」が問題とされるようにな伴っておこったもので、専用の丸型ガラス瓶が 備後国びんごのくに現在の広島県東部にあ禄一一 ) 改易され、この地は天領となる。翌年 は寺一み り、また、今日のように資本主義も高度な発展つくられている。中に物を入れるときは、鋏、 検地の結果、旧水野領は十五万石となり、さら たる旧国名。山陽道に属した。 たけばし かぎばう ただまさ しよくにほんぎ 小刀、針、竹製組立棒、竹箸、鉄製鉤棒、長い に翌年松平忠雅領 ( 福山藩 ) 十万石と天領五万を遂げると、一方では、賃金や社会保障給付の 〔古代〕『日本書紀』『続日本紀』によると、備 はなか一 じようげ きび ピンセットなどを用いる。籐製の花籠などは、 一定の改善の結果、貧困問題は解消しつつある 後国はもと吉備国に属していたが、六九七年石 ( 上下代官所支配。一七一七年うち二万石は みま一か びぜん 熱湯をかけ柔らかくしたものを形をゆがめて中 という見方も生じ、また他方では、一般大衆の ( 文武天皇一 ) ころまでに備前 ( 七一三年美作中津領となる ) に分割された。松平氏の転封に びっちゅう を分出 ) 、備中、備後に三分割されて成立してより一七一〇年 ( 宝永七 ) 以後、福山領十万石所得水準、消費水準の上昇に伴い生活様式の全に入れ、手早く形を整えてから乾かすのが基本 えんぎしき 〈秋山光男〉 いたと推察される。『延喜式』によると、国のは阿部領となり、一八五三年 ( 嘉永六 ) 一万石般にわたる変化がおこり、あらゆる階層にさま技法である。 岷山山脈びんざんさんみやく / ミンシャン中 等級は上国であり、都からの距離による区分で加増され、明治初年に至る。このように水野氏ざまな形の深刻な生活問題がおこるとともに、 かんしゆく わみようしよう 以後、備後国福山藩には代々譜代大名が配置さ都市問題、公害問題などが顕在化するに及ん国、四川省と甘粛省の境界にある山脈。西は は中国であった。国府の所在地は、『倭名鈔』 ん 3 りトっ まさひろ あしだ ふかわ には葦田郡と記され、現府中市府川町に比定されたが、なかでも阿部氏は正弘をはじめ多くので、これらの社会問題との関係で生ずる国民全黄河を隔ててアムネマチン山脈に、東は嘉陵 体の生活のバランスの失調状態を「現代的貧江を隔てて大凸山脈に続く。四川盆地の北を限 れるが、備後国が設置された当初の所在地とし老中を出した。↓広島藩↓福山藩 ふかやすかんなべ 物産としては砂鉄、藺草、畳表、綿、木綿困」あるいは「新しい貧困」と称して問題にすり北西から南東に連なるものと、南下するもの ては、現深安郡神辺町に比定する説もある。 やすな の二派に分かれる。平均標高四〇〇〇程度 る場合もある。 『倭名鈔』 ( 東急本 ) によると、備後国は安那、織、塩などが生産されたが、とくに綿、木綿織 めかめまくま ふかっかめし ) 。年降水量五〇〇 しかし、「国民的最低限」としての貧困は現で、主峰は雪宝頂 ( 五五公 深津、神石 ( のち、じんせき ) 、奴可、沼隈、や畳表は福山藩のもっとも重要な物産で藩の統 ようす まむち あしだこうめ みかみえ 、リの半乾燥気候に属する。揚子江と黄河の分水 に存在しているうえに、それは紛れもなく被保 治 ( のち、はんじ ) 、葦田、甲奴、三上、恵制を受けていた。またたびたび百姓一揆が起こ そ みつぎせら みたにみよし り、とくに一七一七 ~ 一八年 ( 享保二 ~ 三 ) 、護層やポーダーライン層あるいは不安定・低所嶺で、北東斜面から嘉陵江の支流白竜江が、南 蘇、御調、世羅、三谿、三次の一四郡からな 〈酒井敏明〉 西斜面から岷江が源を発する。 得層などの貧困諸階層の生活のうちに典型的に る。以後郡名は、明治の新郡編成まで存続し一七八六 ~ 八七年 ( 天明六 ~ 七 ) に起こった福 そう 品詞ひんし文法上の記述、体系化を目的 山藩の惣百姓一揆は有名である。山陽道が備後みられ、その層化と層としての長期的再生産の しまり かんちゃぎん しようえん かんなべじゅく 〔中世〕備後国には初期荘園を含めて志摩利国南部を通り、道中の神辺宿では、菅茶山が事実のなかに、また、それそれの社会階層内部として、あらゆる語を文法上の性質に基づいて しよう たぶさ たかとみ ふかっ よしづ れんじゅく じび における貧困層への転落や社会階層間の移動す分類した種別。語義、語形、職能 ( 文構成上の 庄・地砒庄・田総庄・・高富庄・深津庄・吉津廉塾 ( 特別史跡 ) を創設し多くの子弟を教育し っ ~ 、つ ながわ さんな おおた 役割 ) などの観点が基準となる。個々の語はい た。なお備後国には多くの遺跡があり、なかでなわち没落などの流動を通じておこる全般的な 庄・竓生庄・長和庄・山南庄・大田庄・杭庄・ たいしやくきよう きなし めた いんのしま 木梨庄・沼田庄・因島庄など多くの荘園が存在も備北には旧石器時代の帝釈峡遺跡、備南芦貧困化の事実のなかに貧困の実体は存するのでずれかの品詞に所属することとなる。 くさどせんげんちょう 品詞の名称は parts of speech ( 英語 ) 、 したが、なかでも一二世紀後期に成立した世羅田川河口には草戸千軒町遺跡があり、現在もあって、それは、「経済的不安定」として、経 郡の大田庄が有名である。備後国の守護に、一発掘が続けられている。↓広島 ( 県 ) 〈青野春水〉済構造、社会構造ならびに生活構造を貫く動的 parties du discours ( フランス語 ) などの西洋 じよ、つきゅう どいさねひら 一八四年 ( 元暦一 ) 土肥実平が、承久の乱後回後藤陽一著『広島県の歴史』 ( 一九七 = ・山川出なものとして構造的に組み込まれていること文典の術語の訳として成立したもの。江戸時代 おおえのひろもと ときひろ には、オランダ文法の訳語として、「詞品」「蘭 を、それゆえ、貧困問題はひとり貧困者あるい 版社 ) ▽『広島県史』全二七巻 ( 一九七一一 ~ は長井氏 ( 大江広元の子時広を始祖とする ) いまがわ ほそかわしぶかわ 広島県 ) ▽福尾猛市郎監修『広島ーー・歴史は貧困層だけの問題ではなく、労働者階級全体語九品」「九品の詞」のようなものがあった。 が、南北朝期には細川、渋川、今川の各氏が、 と文化』 ( 一九含・講談社 ) ▽『福山市史』全の問題であることを認識する必要がある。した語の分類意識としては、日本にも古くからあ 一三七九年 ( 天授五・康暦一 ) 以後は主として おう : ん り、「詞」「辞」「てにをは」「助け字」「休め字」 山名氏が、それそれ任ぜられた。応仁の乱 ( 一四 三巻 ( 一九六三 ~ 七三・福山市史編纂会 ) ▽『三原がって、貧困問題の解決のためには、救貧なら おおうち あま 1 一 びに防貧の対策としての社会保障制度の整備拡「名」などの名称のもとに語分類が行われてい 市史』全七巻 ( 一九七 0 ~ ・三原市 ) 六七 ~ 七七 ) 後は大内氏、尼子氏の勢力が入るが、 もうり キ一ゅ・つば、つほ、つ 一五六六年 ( 永禄九 ) ころから毛利氏が大内氏貧困化法則ひんこんかほうそく 0 窮乏化法充も重要ではあるが、とりわけ高齢化社会の進たが、「品詞」という場合は、一般に、西洋文 展、科学技術の急速な進歩、経済構造の転換、典の輸入によって新しく考えられた語の類別を にかわって備後を支配することとなった。また さす。品詞の種類、名称には、学説によって多 瀬戸内海では水上交通が発達、朝鮮や中国大陸貧困問題ひんこんもんだい貧困 poverty 円高不況などの今日的状況の進行のなかにあっ との交易も盛んに行われた。因島の村上氏は代とは、一般に低所得・低消費の生活状態であっては、それらはおのずから限界をもたざるをえ少の異同もあるが、現在普通に行われているも ないがゆえに、社会の全構造的関連性のなかでのは、名詞・数詞・代名詞・動詞・形容詞・形 し表的な海賊衆 ( 警固Ⅱ水軍、海商 ) で、因島をて、低所得のために生活必需品の欠之をきた し、物質的ならびに社会・文化的な一定の生活の貧困者自身ならびに国民それそれの主体的な容動詞・連体詞・副詞・接続詞・感動詞・助 3 ん拠点として室町時代活躍した。 ひ〔近世〕一六〇〇年 ( 慶長五 ) 関ヶ原の戦いで水準以下に陥っている生活状態をさす。資本主解決こそが志向されなければならないであろ詞・助動詞などである。これらのうちの数種の 8 やまな しわく なかっ ふたい いっき あし ぶんすい