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検索対象: 日本大百科全書 19
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1. 日本大百科全書 19

はむ 方程式をハミルトンの正準方程式、それから出できるが、それはニュートンの運動方程式によ一続きの工業集積地域を形成している。発展の九世紀のイギリスを代表する政治家であるジョ 発する力学の形式をハミルトン形式とよぶ。そるものと同等である。後者は微分形式で時々原動力は、産業革命期に石炭と鉄鉱石に恵まれン・プライトやジョゼフ・チェンバレンも、 ーミンガムを基盤として政治活動を行った。チ の内容はニュートンの運動方程式と同等である刻々の運動をその直前の状態から因果的に決定たミッドランズ地方 ( とくにプラック・カント エンバレンは一八七三 ~ 七六年に市長となり、 ー ) がイギリス有数の製鉄・金属工業地帯と が、この形式では座標と運動量がともに独立変するのに対し、この原理は運動全体にわたる積 して成長したためである。ジェームズ・ワットスラムを一掃するなど近代的都市への改造に貢 数で、両者を含む適当な座標変換に対して正準分量に対して条件づけるので、あたかも運動が がマシュー・ポールトンの協力により最初の蒸献した。二〇世紀に入ってからも、都市計画や 方程式の形が変わらないようにできる。そのよ合目的的におこっているような表現になってい 一方通行道路の導入など、他の都市に先駆けて うな変換を正準変換という。 るのが特徴である。 気機関の製作に成功したのは、一七六二年バ ミンガムにおいてであった。 実験的試みが行われた。第二次大戦で空襲によ 正準方程式は量子力学のハイゼンベルク方程 力がポテンシャルから導かれる場合、運動の 式に対応するもので、古典力学から量子力学へ始まりと終わりの時刻の間の経路に沿ってラグ 急速な工業化、都市化に伴ってスラム街が増りかなりの被害を被ったものの、戦後は順調な 〈木畑洋一〉 加し環境悪化が進行したが、事態が劇的に改善復興を遂げた。 の移行に重要な役割を演じた。自由度 / の力学ランジュ関数の値が定まりその時間積分が得ら 系のハミルトン関数を〃、一般化座標とそれにれる。経路を仮想的に微少変化させるとこの積されたのは第二次世界大戦後である。すなわ 、、ニノグ humming Brummstimmen 鼻音唱法。口を軽く閉じて「 E 」「」 共役な運動量を (qi,Pi) 71 , 2 : ・、とす分値も変わる。ハミルトンの原理は、これらのち、大戦中、兵器産業があったためドイツ軍の 「」などの音でもって歌詞なしの旋律だけを ると、正準方程式はラグランジュ方程式を変形積分値が実現される運動に対して極値をとると爆撃で破壊されたが、戦後、被害地区を次々に することによって、次のような個の連立一階 いうことを述べた変分原理である。変分の際、再開発し、古く汚い市街地の大半が一掃され歌う。鼻歌は歌詞を伴うことがあるので、同義 語とは限らない。いすれにせよ、人が気分のよ 偏微分方程式として得られる。 独立な変分量のとり方によってラグランジュやた。今日、大企業の事務所が集まるビジネス いときに発声器官の筋肉を緩めて自然に歌うの ハミルトンの方程式を導くことができ、またカ街、ミッドランズ地方全体を商圏・サービス圏 dqt DH dPi 学以外の物理法則もこの形に書かれるものがあとする中心商店街や卸売市場、劇場、美術館、で、音量は小さく、他人に聴かせるのが目的で ↓解析力学 〈永田忍〉 り、包括的な定式化と考えられる。〈永田忍〉図書館、大学などが諸官庁とともに都心部を形はない。管楽器以外の旋律楽器を演奏するとき に、無意識にハミングで歌う人もときおりみか ーミンカム Birmingham イギリス、成する。都心からやや離れた地区に工場地帯が ハ、、、ルトンの原理ーーのげんり Hamil- ける。発声練習の一方法として行われるほか、 ton's principle イギリスの数学者・物理学イングランド中部、ウエスト・ミッドランズ県広がり、鉄鋼業は衰えたが、自動車、オートバ 者の・・ハミルトンが一八三四年に与えたの工業都市。人口九二万〇三八九 ( 一九〈一 ) 。首イ、自転車、電気機械、ガラス、金属、食品なその特殊な響きを利用して、オペラではベルデ ちょうちょう イの『リゴレット』やブッチーニの『蝶々夫 どの諸工場が立地する。市の工業発展の跡をた 力学の原理。力学系の実現される運動は、運都ロンドンに次ぐイギリス第二の大都市。ミッ ドランズ地方 The Midlands の中心都市でも どる資料に富む科学・工業博物館、優れた絵画人』の合唱に使われているのをはじめ、ジャ 動の経過全体に関するある量が極値になってい るという条件によって特徴づけられていることあり、北西の工業都市ウルバー ハンプトンとのを収めるセントラル博物・美術館、一八世紀建ズ・ポーカル、楽曲終止など、意識的にハミン ^ 山口修〉 を示した原理。この原理に基づいて運動を決定 間にプラック・カントリー ( 黒郷 ) とよばれる造の聖フィリップ教会などがある。〈久保田武〉グを導入している例も多い 0 ハチドリ 〔歴史〕バ ーミンガムは、市場を有した都市と ハ = 、ングバード めが カ して早くから形を整えていたが、中世から近代 たいス画ルス殿れ ー、、、ングハム Bi 「 mingham アメリカ 一カ神さた た多・一 初頭にかけては拡大が停滞していた。ところが合衆国、アラバマ州北部の工業都市。人口二八 けが一 いホ「ス築し ム受ルュ古 のク建館 一八世紀後半以降、製鉄・金属・機械工業を主万四四一三 ( 一 0 ) 。大都市圏人口八四万七四 ガをビニはるンマツに開 ン災なのにいウ一ルルに 軸に、イギリス産業革命の中心地の一つとして 八七 ( 一九ハ 0 ) 。アパラチア山脈の南端、ジョン ミ戦的部トてタロボデ年 一〕代心一つ〕代とモ ズ河谷に位置し、同州最大の都市であるととも 飛躍的な発展を遂げていった。一七世紀末に一 近中リ残〔古ルを に、合衆国南部の鉄鋼業の中心地でもある。製 豊ュ - 一万五〇〇〇であ 0 た人口が、一八世紀末には七 万に、二〇世紀初頭には五二万ヘと急増したこ鉄業に必要な鉄鉱石、石灰岩、石炭が近くで産 出され、製鉄業と金属加工業が発達した。この とに、その拡大ぶりがよく示されている。一 世紀からの工業化を推進したのは、グループほかにも輸送用機器、建設用資材、化学製品な どが生産される。商業、金融、保険、研究機関 「月の会」 Lunar Society をつくっていたジェ ームズ・ワット、マシュー・ポールトン、ジョ の活動も活発で、アラバマ州北部の経済中心地 ゼフ・プリーストリーなどをはじめとする非国である。一八七一年に製鉄の町として建設さ 教徒を中心とした知識人たちであった。工業生れ、製鉄、および鉄道網の発達とともに成長し 産に必要な原料や製品の大量輸送は、一七七一一てきた。現在、地元での鉄鉱石の採掘は減少 し、ほとんどの鉄鉱石は南アメリカから輸入さ 年に開通したバー ミンガム運河によって可能と れ、メキシコ湾からの運河で輸送される。アラ なり、さらに一九世紀に入ると鉄道もいち早く ハマ大学医学部やサンフォード大学、交響楽 敷設されて生産力の増大に大きく寄与した。 1 〔」一ゼ都市としての急速な拡大の陰で、政治的権利団、博物館、オペラ、日本庭園のある植物園な 〈菅野峰明〉 どをもち、文化都市でもある。 の伸長は遅れ、下院への議員選出権獲得は一八 三二年の第一次選挙法改正を待たなければなら ム Hamm 西ドイツ中西部、ノルトラ なかったが、政治的意識の高い市民は多く、一イン・ウエストファーレン州の鉱工業都市。人 6

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はんざん 藩札 ーーどうめい中世の北欧商業激化し、ハンザ商人が本国都市に援助を求めて第二次世界大戦後の「ドイツ連邦共和国」 ( 西 の形式をとっていたが、藩札が財政窮乏のため ハンサ同盟 ドイツ ) においても、ハンプルクとプレーメン きた事件を契機に、リューベックの提唱による 乱発されて、藩札会所における兌換準備金が不圏の覇権を握った北ドイツ中心の都市同盟。 の二都市は、他の七州 ( ラント ) と同格の連邦 足して不換紙幣化し、藩札の市中価格が暴落し ハンザ諸都市の会議が開かれて ( ハンザ総会の ンザ同盟とは俗称で、正式名称はドイツ・ハン ふだろか 〈平城照介〉 ハンザ Hanse 起源 ) 、「ドイツ・ハンザの諸都市」の名のもと構成員となっている。 て、札遣い経済が混乱状態に陥る場合もみられザ Deutsche Hanse (Hansa) 。 の語の原義は「集団」を意味し、外地における に対フランドル経済封鎖が宣言され、一三六六回増田四郎著『独逸中世史の研究』 ( 一九五一・勁 た。藩札の通用範囲は領内通用 ( 一藩内限り ) 草書房 ) ▽高村象平著『西欧中世都市の研 を原則としていたが、 商品流通の発展に伴っ商業権益を守るため団結した貿易商人の組合を年には、外地における商業特権の享受がドイ 究Ⅱハンザの経済史的研究』 ( 一久 0 ・筑摩 さすことばとして使われた。 ツ・ハンザ加盟都市の市民に限られることが確 て、近隣諸藩において領外通用した所も少なく ュな、かつ」。 書房 ) ▽高橋理著『ハンザ同盟』 ( 一九台・教 〔商人ハンサ〕ロンドンには、すでに一一世紀 認されて、ドイツ・ハンザの都市同盟としての 育社 ) 幕府は諸藩とは違って紙幣を発行しない方針中葉、ケルンの商人が組会の集会所をもってお性格が明確となった。 はんさようでんどうき三相同 を維持してきたが、幕末の一八六七年 ( 慶応り、一二世紀中葉にはハンプルクの商人、リュ 〔同盟形態〕ハンザ同盟内の結合は比較的緩反作用電動機 かん ーベックの商人も組合結成を認められ、これら 、加盟都市の代表で構成されるハンザ総会で期電動機の界磁巻線を除き、直流励磁なしで運 三 ) になって、江一尸横浜通用札、江戸および関 州通用札、兵庫開港札の三種類の金札を相次本国都市ごとの組合が合体して、ロンドンにお重要な決定がなされ、また、のちになると加盟転する型の同期電動機。交流側から電機子反作 いで発行したが、その直後に明治維新となりほ けるドイツ人ハンザが形成された。この種の商都市の分担金の制度がつくられたが、成文化さ用によって励磁するので、この名がある。回転 とんど流通しなかった。明治政府は一八七一年人ハンザの拠点はロンドンに限られなかった。 れた同盟規約も、恒常的執行機関も存在せず、子は鉄心だけあればよいが、一極当り一か所す ( 明治四 ) 七月廃藩置県の際、藩札回収令を発 リューベックの建設 ( 二五 0 に始まる東ドイツ 加盟都市の公式リストさえ一度も作成されなかっ、磁気抵抗の高い部分と低い部分とをもっ必 要がある。図は回転子鉄心構造の例で、凹部は 布し、藩札をその時点における現地相場で回収植民運動の進展の結果、バルト海沿岸に多数の ったので、加盟都市の範囲すらさだかでない。 し、政府が責任をもって新貨幣と交換する方針商業都市が建設され、バルト海を中心に北欧商同盟の中核となったのは約七〇の都市であり、 を明らかにした。当時の調査によると、藩札を業圏が形成されたが、それに伴い、ノブゴロ ほかに一三〇ほどの都市が緩い形でこれに加わ構 0000000 っていたといわれる。都市以外にドイツ騎士団 発行していたのは三百諸侯の約八〇 % にあたるト ・、ベルゲン、。フリュージュなどにも、商人ハ 鉄 子 も加盟していた。 二四四藩の多きに達しており、政府はその雑多ンザの重要拠点が設けられ、ハンザ商館 Kon ・ tor とよばれた。 な藩札を約八か年の歳月を費やして整理し、紙 〔消滅〕中世末・近世初頭、イギリスはじめ強転回泉 ロ 幣面における幣制改革を順調に進めた。↓貨幣 最初北欧商業圏の指導権を握ったのは、ゴト 力化し始めた国民国家が、重商主義的政策をと ↓紙幣 部 〈作道洋太郎〉 ランド島のビスビーを拠点に活躍したゴトランり始め、とくにオランダの商業資本がバルト海機、定 回大蔵省編、本庄栄治郎校訂『大日本貨幣史』ド商人であったが、一三世紀末よりリューへ 、、ツ貿易に進出し、指導権を奪った結果、ハンザ同動 全九巻 ( 一九六九 ~ 七 0 ・歴史図書社 ) ▽作道洋 クの商人がその地位を奪い、後のハンザ同盟の 盟は急速に衰退し、加盟都市も激減した。一六 00000000 用定 太郎著『近世日本貨幣史』 ( 一九夭・弘文堂 ) 盟主となる地歩を築いた。 六九年の最後のハンザ総会に出席したのは、リ 作固 フレーメンのほか反 ▽同著『日本貨幣金融史の研究ーー封建社会 〔都市ハンサ〕都市ハンザ、つまりハンザ商人ューベック、ハン。フルク、。 の信用通貨に関する基礎的研究』 ( 一九六一・未たちの本国都市間の同盟としてのハンザ同盟は、わずかに三都市 ( ケルン、プラウンシュワ磁気抵抗が大きく、凸部は磁気抵抗が小さいと いう差をつくる。この差があることによって同 来社 ) ▽山口和雄著『藩札史研究序説』 ( 一九は、この商人ハンザから生まれた。すでに一三イク、ダンツイヒ ) を数えるにすぎなかった。 六六・日本銀行調査局 ) ▽妺尾守雄著『藩 本世紀中葉より、 いくつかの都市間に個別的同盟 リューベック、ハンプルクおよびプレーメンは、期電動機となるので、リアクタンス ( 磁気抵 概要』 ( 一九六四・日本銀行調査局 ) ▽荒木豊一一一が結ばれる事態が認められたが、一三五六 ~ 五すでに一六三〇年以降緊密な相互援助同盟を結抗 ) モーターともよばれる。磁気抵抗の相違を つくるとき、回転子表面は円筒形とし、一極当 郎著『藩札』全二巻 ( 一九六五、六六・いそべ印刷 八年、プリュージュの商館を拠点とするハンザ成しており、ハンザ同盟消滅後も、一九世紀に り一か所すっ鉄心に中空部を設けるようにして 所 ) 商人と、フランドル地方の在地商人との争いが至るまで、ハンザ都市の伝統を維持し続けた。 もよい。反作用電動機は交流側から励磁するた 門林次はの年⑤ め、力率が悪く、重量当りの出力が少ないの 郎衛屋参札 ) 三左田る持藩 で、数百ワット以下の小型機にしか実例がな 清吉山あ手松・すた室 己れ幣 屋野 い。なお回転子表面近くに誘導機のかご形巻線 年をさ貨 原食真此 に似た巻線を配置し、自ら始動できるようにし 札姓化本 預の度標 / 匁所 てある。反作用電動機は単相のものもあるが、 場は元制行 四札 札れ替が銀 代 これは三相機よりさらに小型となり、同期速度 札元 ーレしーーし 銭こ ~ 引 で回転することが必要な場合に用いられる。 る目カ伯 匁衛 升 0 あく佐のい斗 〈磯部直吉〉 電動機 5 左銀札入 銀吉 , 米 . ノ銀と引欠・行と資 , 」を野発 , 律飯山 ( 町 ) はんざん ( ちょう ) 香川県中央部、 屋〔泉 あやうた 、 - 芸予、和、江 = 後候予次日札行銀 , 安伊 ( 燾覚再渡伊年に藩発士綾歌郡の町。讃岐平野の一部を占める。一九五 可 ( 行面 , の富 六年 ( 昭和三一 ) 坂本、法勲寺の二村が合併し さかいでまるがめ . 」は「「当藩郎田藩藩子藩発裏は のやま 、を ( 一」ま↑〔「三つ閨広小を彦衛田 半行 ~ 引東 て成立。町名」、北部 0 坂出・丸亀市 0 境界 = ①同②③右④第⑤大発① ( あり、讃岐富士ともよばれる飯野山 ( 四一一一一賢 ⑤ ④ さめき 0000 0 凸部 ~ % 0 0 0 〇 0 0 0 0 0 0 0 0000000 291

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80 。 82 。 」△ーに ヒマラヤ山脈 / おもな山群 ①カンケル・プンズム山群 ⑩カンジロバ山群 サセール・カンリ山群 ②チョモ・ラーリ山群 ⑩グルラ・マンダータ・フムラ山群 @サルトロ・カンリ山群 ③カンチェンジュンガ山群 ⑩アビ・サイバル山群 ④コンダス山群 ④クンプ ( ェペレスト ) 山群 ⑩バンチ・チュリ山群 ⑩ガッシャプルム山群 ⑤ロワールリン山群 ⑩ナンダ・デビ山群 @チョゴリザ山群 ⑥シシャ・バンマ山群 ⑩カメート山群 ⑩プロード・ビーク山群 3K2 山群 ⑦ジュガール・ランタン山群 ⑩バンダル・プンチ山群 ⑩ナンガ・バルバト山群 ⑧ガネッシュ・ヒマール山群 ⑩シービー山群 ⑩マッシャプルム山群 ⑨マナスル山群 ⑩ザンスカール山群 @ハラモシュ山群 ⑩アンナプルナ山群 @ヌン・クン山群 ラカボシ山群 ⑩ダウラギリ山群 2 崑崙山群 ヒマラヤ山脈 38 。、 リム壹地 イエチョン ' リ / マカン砂、莫 ミンフすン / ジュト・プな 8 △ 12 アル亠、 チキ、ガル 340 ンフー 、、アルコト 52 シッキム・ ヒマラヤ ト - - 第敬 4 テミもラ 0 、 ティン 0 アムクンジさ 400 200 92 ・オカ / ヤ アン / ラ デフ・ フ ンヤスターン 1 : 5 , 5 〇〇 , 000 200km 100 ・フ ンプ 、モラ タバ チュルー ロ 人口 200 万以上都市 ロ 人口 100 万以上都市 〇 ロ 50 万以上都市 ノ、 ロ 25 万以上都市 0 ロ 1 0 万以上都市 〇 ノ、 ロ 10 万未満都市 ロ・・首 独 立国界 係争・未定境界 トマン 5000 位置図 3000 クプレ ナウ・ ビトナガル ファイザ・ ア、を ム / 000 500 80 。

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音等の伝送路の妨害に強く、高品質な伝送が可へと発展している。鉄道、主要 「にれたジョンズ・ホプキンズ大学の外科教授とな す . り、生涯その地位にあ 0 た。完全な止血、完全能であり、また、最近の半導体によるディジタ道路も両河川の谷沿いに延びて いる。近代的設備の整った港を ル回路技術の発達により関連装置類の信頼性と な消毒、手術部位を確実に明視することをモッ る トーとして多くの弟子を養成し、アメリカを代経済性が図れるようになったため、今後とも大中心とする海岸部は重工業地帯 表する外科学派を築いた。手術時のゴム手袋の幅に利用されることが予想される。↓時分割多で、金属、自動車、航空機、電 〈坪井了〉 気機器、化学などの工業が立地 〈中川米造〉重通信↓パルス通信 使用は彼に始まる。 つうしん する。木綿や羊毛、人造の繊維工 ヾルス変調ーーへんちょう 0 パルス通信 ハルスアルファー Geo 「 g Philipp Hars ・ dörffer ( 一六 0 七ー五 0 ドイツの詩人、詩論家。 ノゼミ「春蝉〕 8TerPnosia ~ ミミ昆業や製紙工業は、リョブレガッ ト川の谷に立地している。工業 法学、哲学、歴史、言語学を修め、当時の先進虫綱半翅目同翅亜目セミ科 Cicadidae の昆虫。 四か国 ( イギリス、フランス、オランダ、イタ体長一三 ~ 三〇ミリのやや小形のセミで、雄では発展による急速な人口集中によ り、一九五三年に地域計画がた リア ) に五年遊学、故郷ニュルンベルクの判体全体が黒色、雌には多くの褐色紋がある。は 事、参事会員となった。国語と文学の純化を目ねは透明。雌の産卵管は腹端を越えて伸長すてられ、バルセロナ大都市圏が たる ざす「言語協会」で活躍、研究協会「ペーグ一一る。雄の腹部は大きく樽状で、中は空洞であ定められた。一九七四年には二 ツツの牧者と花の集い」を設立、聖俗の詩や逸る。本州、四国、九州に分布し、国外では中国七市町村を含む大都市圏自治体 話物語、百科全書『婦人会話手引』八巻 ( 一六四一から知られる。日本本土ではもっとも早く出現が設けられ、新しい地域編成が なされ、飽和状態にある工業地 ~ 四九 ) を書いた。文学論『ラテン語なしにドイするセミで、その名のとおり春季つまり五、六 ろうと おういん ッ詩学と押韻法を六時間で注入する文学漏斗』月に現れる。マッ林に限ってすみ、雄は横枝上帯の再開発、工業の地方分散が : と鳴く。合唱性が図られている。 ~ 五三 ) は詩文の速成を説き、「ニュルンべ に止まってムゼームゼー とらのまき 経済的・文化的繁栄を背景に ルクの漏斗」の元祖となった。 〈永野藤夫〉あり、仲間の声だけでなく、飛行機やオートバ イなどの音で合唱を始めることがしばしばあ固有の慣習法や公共制度などを ヾルス符△ロ亦夂調ーー・ふごうへんちょう pulse code modulation バルス通信におけるパルる。近縁種にエゾハルゼミ T. ミ斗 os が知擁し、とくに一三世紀には王権 られる。図セミ 〈林正美〉 ス変調方式の一つ。電話などのアナログ信号を に対する自治を確立していた バルセロナは、市民自治の伝 ディジタル的なバルス符号に変換して伝送し、 バルセロナ BarceIona スペイン北東部、 受信側ではまた元のアナログ信号に戻して通信カタルーニヤ地方バルセロナ県の県都。人口一統、固有の一一一一口語 ( カタルーニヤ 語 ) ・文化をもち、スペインの を行う変調方式。略してともいう。 七二万〇九九八 ( 一九全 ) は、首都マドリードに 具体的には、ある一定周期で信号の振幅値次いでスペイン第二位であるが、港湾の規模と先進地域の中心都市として発展 した。〈田辺裕・滝沢由美子〉 ( 標本値 ) を抽出し、これを整数的な振幅値に商工業活動では第一位の産業都市。大司教座所 近似 ( 量子化 ) し、さらに二進符号を示すバル在都市で、一四五〇年創立のバルセロナ大学も〔歴史〕紀元前三世紀にカルタ ゴが植民市を建設したことに始まる。カルタゴ ス列に変換 ( 符号化 ) して伝送する。受信側であり、カタルーニヤの宗教、文化の中心地でも は二進符号で伝送されてきた信号を逆の操作である。市街は地中海岸に沿い、ティビダボ山の名家バルカ家にちなんで、植民市はバルシノ ( 五一一三 ) を最高点とする丘陵に背後の三方を囲 Barcino とよばれた。古代ローマ、西ゴート 量子化レ・ヘルに変換 ( 復号化 ) し、これを元の まれる。旧市街は港を中心に半円形に展開し、族、イスラム教徒の支配を受けたのち、紀元後 連続したアナログ信号に復元する。 方式は一九三七年イギリスのリープス スペイン・ゴシック様式の大聖堂 ( 一三世紀 ) 八〇三年フランク王国がイスラムの手からこの A. H. Reeves によって発明された。アナログを中心とする一画はゴシック街とよばれる。こ 地を奪った。九世紀末にフランクから独立して 信号を伝送する方式では伝送路の途中で生じるの西側を南北に中心街ランプラス ( いくつかの バルセロナ伯領となり、一二世紀なかばにアラ ランプラ 波形のひずみが避けられないが、ではバ 大通りが連続する ) が走り、銀行、商社、高級ゴン王国と合併、そのもとで商工業が発展し、 ルスの有無さえ忠実に伝送されれば入力信号に専門店などが並ぶ。通りの南端、港に近いプエ 一二八三年に都市特権を得た。アラゴン王国の きわめて近い信号が再生でき、雑音の影響も受ルタ・デ・ラ・パス広場に、この地で死んだコ 対外進出に伴い、地中海のみならず大西洋側ョ けにくいという長所がある。また、方式ロン。フスの像が建つ。旧市街の外側を半円形に ーロッパ各地に商務館を設け、貿易圏を飛躍的 で符号化された各回線ごとのバルス列 ( ディジ囲むロンダスとよぶ大通りは、アラゴン王国の に拡大した。しかし、一五世紀に至って黒死病 まんえん タル信号 ) を時間的にずらせて並べることによ時代に築かれた城壁を一八六〇年に取り壊したの蔓延により人口が激減し、経済は衰退した。 り、一つの伝送路を用いて複数の回線の信号を跡である。これより外側は新市街で、格子状に 一四六三年から一〇年間にわたって反王権の都 伝送することも可能である。これを時分割多重整然と計画された広い道路が敷かれ、屈曲した市反乱が、さらに一六四〇年には財政負担強化 狭い道路の旧市街と対照的な景観をみせてい 方式 (+2>) という。 を図った王権に対して、フランスの支援を受け アナログ信号伝送でも周波数帯域を分割してる。 た独立反乱が起こった。また、一七〇一年に始 新市街は二〇世紀に入り、南西のリョ。フレガまったスペイン継承戦争ではハプスプルク家カ 行う多重化方式 ( 周波数分割多重方式、 ット川および北東のペソス川、さらにその東方 >) がとられているが、方式のほうが雑 ール大公を支持したため、プルポン家フェリペ はんし 4 2 パルセロナ 〔右〕ゴシック街。右が大 生堂。隣接して県議事堂 , 市役所などの古い建物が 建つ。遠くにガウディ作 のサグラダ・ファミリア せ人とう 聖堂の尖塔 4 本が見える 〔左〕港に復原されたコロ ンフスのサンタ・マリア 号が係留され、背後にプ 工ノレタ・デ・ラ・ノ、ス . 広 場のコロンプス像が屹立 する 0 4 166

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はみると たが、大きな成果は得られなかった。しかし彼れ、一九四五年市制を施行。ワイカト大学の所 ョ の研究した線に沿って多様な代数系への道が開在地。 〈浅黄谷剛寛〉 ュ かれ、多元数の理論などその後の代数学やその ハ、ニルトノ Hamilton カナダ、オンタリ 物理学の応用に大きな影響を残した。この分野オ州南東部の工業都市。人口三〇万六四三四 の著作に『四元法講義』ト e き、 s ミ Q ミ、 e ~ ・ ( 一九〈 I) 、大都市圏人口五四万二〇九五 ( 一九〈一 ) 。 館 ン ons ( 一会三 ) 、『四元法原理』 The 辷ミミ s 。、オンタリオ湖西岸のハミルトン湾南岸斜面上に Q ~ 、ミ e 、こを s ( 天六六 ) がある。詩を愛し、当時位置する。住民の五九 % がイギリス系で、残り い、公 〈藤村淳〉 の詩人らと多く交わった。 はイタリア系、ドイツ系などである。一七七八 年に最初の集落が建設されたが、一八 ハ = 、ルトン Edmond Hamilton ( 一九 0 四ー ジョージ ・ハミルトンの農場ができてから町と ついて述べられることば ) の量化を試みこれ七七 ) アメリカの作家。一九二六年からパ ハ、、、ルトン Alexander Hamilton ( 一七 五七ー天 0 四 ) アメリカの政治家。イギリス領西を論理学への大きな貢献と考えた。著書に『哲ルプ・マガジンを舞台に娯楽的な冒険を書して発展した。カナダ太平洋鉄道ならびにカナ ナいじじよう いて、古典的なスペース・オペラの発達と普及ダ国有鉄道が敷設されると、ナイアガラ、デキ インドのネイビス島出身。一七七二年に渡米学・文学論集』 ( 一会 D 、『形而上学・論理学講 に貢献した。外宇宙からの脅威が迫って地球な し、まもなく独立革命に参加、七七年にはワシ義』 ( 一会九 ~ 六 0 ) など。リードやスチュアート ュー両滝からの電力、近郊の天然ガスなどによ ひん 〈小池英光〉 ントン総司令官の参謀となる。早くから強力な の編者としても知られている。 り太陽系なりが絶滅の危機に瀕したとき、ヒー りエ業中心地となった。鉄鋼、電気、化学薬 ローが敢然と宇宙船を駆ってーーというのが基品、衣料、食品加工業が発達し、カナダの。ヒッ 中央集権政府の樹立を力説。戦後は弁護士業を ハ = 、ルトノ Si1 、 William Rowan HamiI ・ 勤め、八六年のアナポリス会議では州を代表し ton ( 天 0 五ー ~ 五 ) イギリスの数学者、理論物本的プロットで、彼はこうした作品を量産した ツバーグとよばれる。植物園、マクマスター大 ワールド・デストロイヤー ワーしド・セイノ て、 , ラデ ~ , ア連邦憲法会議開催 ( 宅理学者。幼時一ら天才をうたわれ、伯父 0 外国ために「世界破壊者」とか「世界救済者」と学 0 〈 0 創立 ) もあり、文化・商業 0 中心地で もある。 いう異名を奉られた。有名なシリーズものとし 〈山下脩二〉 ) の推進者となった。新連邦憲法の批准を確語教育を受けて一三歳のときにすでに十数か国 保するため、強力な一一一一口論戦を展開し、マデイソ語に熟達していたといわれる。「計算少年」とては四〇年代の『キャプテン・フューチャー』 ハ = 、ルトノ Hamilton アメリカ合衆国、 ンらと『フェデラリスト』八五編を著し ( 一大七 の競争を行ったことが契機となって数学に興味六〇年代の『スターウルフ』があり、独立したオハイオ州南西部、グレート・マイアミ川に臨 八 0 、批准の実現に多大の貢献をした。八九を抱き、ニュートン、ラグランジュ、ラブラス作品には『スター・キング』 ( 一九四七 ) 、『時果つむ都市。人口六万三一八九 ( 一九含 ) 。シンシナ 年、ワシントン大統領下の財務長官を務める。 らの著作を読み、大学に入学する以前に当時のるところ』 ( 一空一 ) 、また、短編集に『フェッセティの北四〇キ。に位置する工業の中心地で、製 商工業界を背景に、公債の額面償還、国立銀行数学をほとんどマスターし、また光学系に関すンデンの宇宙』 ( 一九七三 ) などがある。↓スタ 紙、機械、化学、自動車部品、モーターなど多 ・キング の設立、輸入税・消費税の新設などにより公信る理論のアイデアに到達した。一八二四年ダブ 〈厚木淳〉種工業の発達が目覚ましい。一七九一年に町が 用と歳入を確立し、新国家の財政基盤を整備し リン大学のトリニティ・カレッジに入学、二七回福島正実訳『キャプテン・フューチャー』建設され、一八〇三年オハイオ州の誕生を契機 た。フランス革命戦争下、親英的立場より中立年には、まだ在学中の一三歳の若さでありなが ( 一九七六・岩崎書店 ) ▽野田昌宏訳『時果つる に本格的な発展がみられ、一八八七年より市制 〈作野和世〉 政策を図り、国務長官ジェフアソンと決裂。九らカレッジの天文学教授に選ばれ、ダンシンク ところ』 ( 一九六九・早川書房 ) が施行された。 四年、「ウイスキー反乱」として知られる酒税天文台の台長を兼任した。 、 = 、ルトノ Hamilton イギリス領バー ハ、、、ルトノ Hamilton イギリス、スコッ 反対のための農民争乱を鎮圧、連邦政府の権力 一八二八年、彼の最初の論文『光線系の理トランド中部の都市。グラスゴー南東一七キ ューダ諸島の首都。北大西洋西部にあるバーミ を誇示した。九五年に辞職したが、野にあって論』き ry 、 S 」ミ e Rays の第一部をクライド川下流沿いに位置する。人口五万一五ューダ島西岸に位置する。人口一六六九 ( 一九 も国政に巨大な影響力を残した。一八〇四年、 公刊したが、これはいわゆるハミルトンの特性二九 ( 一九〈 D 。地名はスコットランド貴族ハミ 〈四 ) 。一七九〇年に建設され、一八一五年同諸 政敵バー A. Burr ( 一七五六ー 天三六 ) との決闘に関数の導入により光学系に対する一般的な代数ルトン家に由来する。付近のイースト・キルブ島の首都となった。町の中央にネオ・ゴシック ライド、ウィッショ より死亡した。 〈池本幸三〉的理論を建設したもので、幾何光学の基礎理論 マザーウエルなどの都式の大聖堂があり、その周辺に議会、最高裁判 回田島恵児著『ハミルトン体制研究序説ーー建となるとともに、後年の力学理論の発端ともな市とともにグラスゴーエ業地帯におけるコナベ所などの官庁がある。パラ・ウィュ公園内には えんすい 国初期アメリカ合衆国の経済史』 ( 一九会・勁った。ついで三二年に双軸結晶体の円錐屈折を ーション ( 連接都市域 ) を形成する。おもに商歴史博物館、図書館があり、北西部にビクトリ 草書房 ) 予言し、これはロイド Humphry Lloyd ( 一八業・住宅都市であるが、織物、食品加工、機械ア公園がある。一九五六年以来、貿易促進のた 00 ー (l) によりただちに実験的に証明された。 〈林晃史〉 などの工業も立地する。ハミルトン家の宮殿がめ自由港となっている。 ハ = 、ルトノ Sir William Hamilton ( 一七 ー一会六 ) イギリスの哲学者、論理学者。工 〈米田巖〉 このころから光学に導入した原理を力学の全分ある。 ハ、、、ルトン関数ーーかんすう Hamilton's ジンバラ、オックスフォード大学に学ぶ。エジ野に拡張する試みに着手し、特性関数を用いて ハ、、、ルトン Hamilton ニュージーランド function 座標と運動量の関数で、ある物理 でんば ンバラ大学教授。スコットランド学派に属す光の伝播と質点の運動を統一し、三四年変分原 北島中北部に位置する都市。北島第三の都市系の力学的特性を表しその運動を規定する量。 が、カントの強い影響を受ける。リードと同じ理としていわゆる「ハミルトンの原理」を提で、人口九万六七〇〇 ( 一九会 ) 。ワイカト川中イギリスの数学者・物理学者の・・ハミル 、知覚において対象は直接に知られると説出、さらに「ハミルトンの正準運動方程式」を流に広がる北島第一のワイカト平野にあって、 トンが導入 ( 天天 ・三 (l) 。保存力のみ働き拘 く。しかしその認識は、対象の表象ないし現象たてて力学を書き替え、解析力学の基礎を確立酪農、牧羊の中心地となっている。乳製品、食束条件が時間を含まない場合には、系の運動工 ↓ハミルトンの原理 を通してなされるものであり、媒介物や感覚器した。↓ハミルトン関数 ネルギーとポテンシャルエネルギーの和、すな 肉加工、木工、農機具などの工業が盛ん。一八 官による変容を受けるとして、相対主義的傾向 一方、「四元数」の着想を得て、この理論の七七年鉄道が開通し、農畜産物の集散地としてわち系の全エネルギーを表し、力学的エネルギ を示した。そこからカントの二律背反に近い議展開に努力し、理論物理学すべてを包括する有重要性を増した。一八六四年マオリ族との紛争 ー保存則はこの関数の値が時間的に変わらない ひんじ に用性を期待して晩年の一一〇年近い歳月を費やし に備えたワイカト義勇軍の屯田兵村として開か 論も展開する。論理学では賓辞 ( 命題の主辞 ことを意味する。ハミルトン関数に基づく運動 4 、 W. R. / 、ミルトン

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潮が引いた。いまも満潮時にいっとき急潮が収まることがあ 2 ま聞いて海賊が盗んで船で運ぶ途中、暴風にあい海に投げ捨てをひかれたが、帰京の命を受けて別離の涙を流した所とい せつつ した。長善寺の僧がそれを夢にみ、引き上げて寺に迎えたとい う。一説には、実定の後を追った内侍が摂津住吉の沖合いに り、「清盛の睨み潮」という。沼田川と西野川の間の沼地を いちきしまひめ じんごろう ろ う。安芸郡坂町の沖に「六字岩」とよばれる暗礁がある。大投身したとある。厳島神社の祭神「市杵島姫」は安産・子授干拓し潮止堤防を築くが波に壊される。人夫甚五郎が自ら進 ひ坂石山合戦のとき、本願寺方を支援した毛利勢の船が嵐にあけの神として信仰されているが、その一面嫉妬深くて、夫婦んで人柱になった。近くに甚五郎社があり、その霊を弔って しんらんしようにん さんけい なむあみだぶつ うが、親鸞上人から授けられた六字の名号 ( 南無阿弥陀仏 ) そろって参詣すると縁を切るといわれている。広島市の周辺植えた松は「甚五郎松」といって樹齢約三〇〇年の大樹にな きつね ふしみ っている。 には狐の伝説が多い。「江波のおさん狐」は京参りや伏見詣 〈武田静澄〉 を海中に投ずると、たちまち波が静まって無事に帰ることが ほ - : り できた。名号がひっかかった暗礁を六字岩の名でよぶようにでの旅をしたこともあるという。祠は丸子山不動院の境内に回『広島県史』全二七冊 ( 一九穴 ~ 八 三・広島県 ) ▽後藤陽一著 みたき いわかみいなり なったという。厳島神社のある宮島は古くから神の島としてある。広島市三滝町の岩上稲荷の主は白狐で、藩主池田公夫 『広島県の歴史』 ( 一九七一一・山川出版社 ) ▽『広島県大百科事 さ寺一 みせんさんき の信仰が厚い。主峰の弥山は三鬼が擁護する神山で、弘法大人に生き血を捧げてから厚い信仰を寄せられるようになった 典』上下 ( 一九全・中国新聞社 ) ▽『日本歴史地名大系広 おんど 師が開いた「三鬼堂」には、消えずの火が燃え続けている。 と伝える。音一尸ノ瀬一尸に架かる音戸大橋の下に「清盛塚」が 島県の地名』 ( 一九全・平凡社 ) ▽『日本地名大辞典広島 へんげ ようかい 信仰に怠りがあるときは、三鬼が変化や妖怪の姿を借りて現ある。平清盛は厳島神社の市杵島姫に思いを寄せて、姫の歓 県』 ( 一九ハ七・角川書店 ) ▽藤井昭著『日本の民俗広島』 なみだいわ 心を買うために音一尸ノ瀬一尸を一日で開削しようとした。工事 れて戒めると伝えている。宮島の浜に「涙岩」という岩が ( 一九七三・第一法規出版 ) ▽若杉慧・村岡浅夫著『広島の伝 もう さねさだ ある。厳島詣での徳大寺実定という公卿が、神社の内侍に、い なかばで満潮になったが、清盛がひとにらみするとたちまち 説』 ( 一九七七・角川書店 ) しらき 広島 ( 市 ) ひろしま広島県のやや西寄り、広野川町、高田郡白木町、七四年安芸郡安芸町と島県の県庁が置かれ、七二年には くまのあと ふなこし 島湾に面した市。県庁所在地。一九八〇年 ( 昭熊野跡村、七五年安芸郡船越、矢野の一一町をそ広島城内に広島鎮台 ( のち第五師 し せんださだ 和五五 ) 全国で第一〇番目の政令指定都市となれそれ編入。八〇年政令指定都市となり、中、団 ) が設置、八九年県知事千田貞 あき うじな り、中国地方の中心をなしている。 南、東、西、安芸、安佐南、安佐北の七区に分暁によって宇品港が完成するなど いっかいち 一八八九年 ( 明治一三 ) 市制施行。一九二九かれ、八六年佐伯郡五日市町を編入し佐伯区が近代都市としての歩みも始まっ あき , 、 - しま - やが 年 ( 昭和四 ) 安芸郡仁保島、矢賀、牛田の三成立。面積七三五・四八平方キ。。一九八五年のた。八四年山陽鉄道が兵庫から広 」えき ふるた あさ につしん 村、佐伯郡己斐、草津の二町と古田村、安佐郡人口一〇四万四一一八。なお、市制施行時の人島まで開通、同年日清戦争が起こ みさィ一 三篠村、五五年安芸郡戸坂村、五六年安芸郡中ロは八万三三八七、面積二七平方キ。であった。 ると、広島は対大陸向けの一大兵 いのくち めまた 山村、佐伯郡井口村、七一年安佐郡沼田、安佐〔自然〕北部は中国山地が広がり、市域の約七站基地となり、大本営が置かれ、 ぎおん 図 発よ の二町、七二年安佐郡可部、祇園の二町、七一一一〇 % は山地、丘陵地が占める。太田川が山地を第七回帝国議会が開かれた。以後 災 - 」うよう やすふるいちきとう せんにゆうだこう 議図 年安佐郡安古市、佐東、高陽の三町と安芸郡瀬穿入蛇行しながら東流し、県東部から西流し広島は軍都として発展し、日露戦被第 協付 策史 爆 てきた三篠川と合流して向きを南方向に転じ、争、第一次世界大戦、太平洋戦争 -9 ~ -0 00 《 0 ワ 0 ワ朝 原 数 域墾医 -0 LO -8 CO ワ】ワ】ワ 広島平野を形成して広島湾に注ぐ。市の中心街と戦乱のたびに拡大していった。 区障爆 帯 -8 ワ -0- 00 -4 ・ - ト - 11 ワ】 失爆原 世 こま t.n -4 ・《 0 《 0 0 00 ワ」っ 0 は太田川とその分流の六河川のデルタ上に形成これに伴い軍需工業をはじめ各種市 焼原島 島広 島 されている。なお、南部の広島湾に点在する島エ業がおこった。 ひを・ にのしま 広 しを効 ・ 4 ・ 4 ・ -. 0 ワ - -0 11 のうち似島などが市域に含まれる。気候は温暖 密 一方、一九〇二年 ( 明治三五 ) 2 至お、たけ な瀬戸内式気候である。 に広島高等師範が、大正から昭和 人人 9 3 6 4 1 〔歴史〕広島湾岸には縄文期の貝塚などが発掘 にかけて広島高等学校、広島文理大、広島エ ズ」の精神にのっとって、国際平和文化都市と されており、弥生期の遺跡は海岸沿いだけでな専、広島女専などの高等教育機関が設置され、しての歩みを続けている。↓原子爆弾投下 むね く太田川流域にもみられる。東区の木の宗山か文教都市ともなった。第二次大戦前、広島市は 〔産業〕広島市は工業都市的性格が強い。都市 どうたく らは銅剣・銅鐸 ( 国指定重要文化財 ) が発見さ 六大都市に次ぐ地位を占めていた。 化が進むなかで、市の北部の安佐北区、安佐南 れている。 一九四五年 ( 昭和二〇 ) 八月六日、史上最初区や佐伯区では野菜や花卉栽培が行われる。と もうりてるもと もとやす かわうち 一五八九年 ( 天正一七 ) 毛利輝元は太田川の の原子爆弾が太田川と元安川の分岐点に架かるくに安佐南区の川内は漬物の広島菜の産地とし しよう デルタの寒村であった五ケ庄の地に築城し、 相生橋を目標に落下、爆心地から半径二キ。以内て知られる。また広島湾一帯では古くからカ こおりやま 郡山城 ( 高田郡吉田町 ) から移り広島城下町は全壊全焼し、二〇万人余の死者を出した。戦キ、ノリの養殖が行われる。 を建設したが、関ヶ原の戦い ( 一六 00 ) に敗れ、後原子砂漠の焼土のなかから復興の歩みが始ま 第二次大戦中まで軍需工場が多かったが、戦 まさのり みつびし 広島城主は福島正則にかわった。続いて一六一り、一九四九年「広島平和都市記念建設法」が 後は三菱造船、自動車メーカーのマッダ、日本 ながあきら なかじま 九年 ( 元和五 ) 浅野長晟が紀州から入封し、 制定された。爆心地の中島地区は平和記念公園製鋼などによる機械工業が中心となっている。 以後一二代二五〇年間浅野氏広島藩の治下にあとなり、市街を東西に貫く幅員一〇〇の平和 このほか食品、木工家具、ゴム、製針工業など った。一八七一年 ( 明治四 ) の廃藩置県後、広大通りが建設された。以後「ノーモアヒロシマがあり、安芸区矢野では江戸時代から「かも 広島市 / 区一覧 面積人口 区名 (km2) ( 人 ) 中区 なか 135 883 14 . 74 東区 122 668 39 . 77 ひがし 南区 147 541 24 . 25 みなみ 西区 169 190 35 . 03 安佐南区あさみなみ 117 . 24 169 430 安佐北区あさきた 352.11 131 211 安芸区あき 93 . 98 68 169 佐伯区さえき 100 026 59 . 85 注 : 1987 年 10 月現在。人口は 1985 年国勢調査による へ一か 一 : つばっ やよい あいおい たん さんだん イ 工兵橋 神田橋 三篠物 令跡練兵場 ひうしま = 西練兵場き 心地 御幸橋 にら 至みー うじな 広島港 2km

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ばんぐら ロ第物 ノヾンクラテシュ ・イナ、プル ランカンジ北回帰線れ ( のタゴ ペンガル湾 200km 岬 0 1 : 13 , 0 〇 0 , 00 〇 主る のあ 内で 市車 むカ 中人 のる ナれ 岸使 フ対を るとシ ュれ場ウ民 市ョ ン流きプ農 を着コす 業キ カ舟の耕 ラ ツのてを のは 立田 部段 西手 / 都ガ街頭水 首ン市 2 て 南通 ①ガの②っ ③交 ゥー教徒の割合が六対四 ( 印・バ分離独立の際 は、もともとインドの西べンガル州およびアッ などの都市がある。中央部はおも ヘンガル族の居住するの両教徒の大量移動によって七対三に拡大 ) で に稲作とジュート ( 黄麻 ) の産地サム州の平野とともに、・ 一つの社会・文化圏を構成していた。この地方あったことによる。 で、首都ダッカを中、いに、マイメ しかし、インドを挟んで一六〇〇キロも離れた ンシン、タンガイル、バリサルな には、インドがイギリスの植民地となる以前は どの都市がある。またダッカ近郊封建的藩王が割拠し、チッタゴン付近はビルマ西パキスタンとは宗教以外共通なものはなく、 民族、言語、自然条件、生活習慣もまったく異 にはナラヤンガンジ、トウンギなのアラカン王朝に併合されていた時代もある。 どこの国最大の工業地帯が広が 一九〇五年にイギリスの分轄統治により、東べ質なものであった。そのうえ、独立後、西パキ ンガル ( 現在のバングラデシュ ) 、西べンガルスタンが政治、軍事、行政、経済のあらゆる面 る。南東部は稲作地帯と丘陵で、 チッタゴンを中心にコミラ、ノアおよびアッサムが行政的に分離され、それ以で優位にたち、東パキスタンは西パキスタンの カリなどの都市がある。チッタゴ後、東べンガルは独自の経済・社会圏を形成す植民地的性格を強いられた。ことに東パキスタ ぎゅうじ ンの経済の大半は西パキスタン財閥資本が牛耳 ン丘陵には唯一の水力発電所があるようになった。一九四七年のインドとパキス り、主産物で最大の輸出産業であるジュートの り、チッタゴン以南の沿岸部では タンの分離独立に際して、東べンガルはイスラ ム国家パキスタンの東。ハキスタン州となった。 加工や貿易も西パキスタン系企業で占められて 漁業が盛んである。 〔歴史・政治〕バングラデシュ これは、東べンガルではイスラム教徒とヒンド いた。こうした状况に対し、東パキスタンは格 Ⅲ川川 0 ④ダッカ南郊の工業都市ナラヤンガンジの映画館。 映画は数少ない娯楽の一つである 274

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はり 島な橋ポ前サバがど橋が岸ラ橋ス テ連ぶの手やむ , なの堂右テナルルる シが結古の , 含所院目聖ヌつのエマ一え コ見 地島を最橋獄を判病番大一建宮イ ドエが のイ岸リの監 , 裁立四ムセが一 祥ル両バ目 ( 堂 ( 市右ダ , 舎ョ塔 と庁イルン下校 発・のが番リ拝ス 丿冂′ ニュ礼イ庁くルも市ャエヤの学 オにシフシ塔官 サメ手。ジ テ視続トこ / らに一番 ) ルルス警が一ののツに , 士 工ペュに物ノ橋倶岸工岸 か方セ一新 空後と シャジ方築にのま右た左あル ヌ見でが一 上島りフンシ・後建と目 西む両あヌコ , 共も番一らんテ り公た四セか挟 南望 ①をるはンにンレあのの左 ( ②スを ( ミ を第をド ・ャ又 ( ③フォールム・デ・ア ル ( 中央市場広場 ) 。 セーメ右岸にあった中 央市場が郊外に移転し た跡地の再開発により , 1983 年に完成した。有 名プティック , 専門店 , レストラン , 映画館な どが , 地面を掘り下げ た地下 4 階建てのユニ ークな建築物に収まっ ている ④セーヌ左涬 , サン・ ジェルマン・デ・プレ の有名カフェー。サン ・ジェ丿レマン・テ、・プ レ修道院の界隈には , 文学者や実存主義哲学 者が好んだカフェーが ⑤オペラ座とオペラ座 通り。都心のセーヌ右 岸にある。通りは長さ 698m , 幅 30m で , 1862 ~ 75 年のオペラ座建設 にちなみ , 1873 年命名 された CA ド DE FLORE 第声ー - 済的発展と政治的影響力の全国浸透に大きな役 % しつくい 割を果たす。周囲の丘は、石材、漆食など建築 材料を提供して都市建設に役だった。 気候条件も、北緯五〇度に近いにもかかわら 、、ず、西に向か 0 て開いている盆地内にあ 0 て大 西洋とイギリス海峡からの影響を受けるおかげ でけっして厳しいものではない。平均気温は一 月の三・三度 0 、七月の一八 ・二度 0 、年降水 量は六一四・三ミリ、降雨日数一六九日。とくに 春に天候が不安定になる海洋性の温帯気候に属 している。 〔市街〕一九世紀なかばのパリ市街は、現在の 第一区から第一〇区までに相当する中心部、約 二五平方キロにすぎなかった。ついでその外側に 第一一区から第二〇区までの手工業を主とする 地区が発展、産業革命とともに、工業地帯が輸 送に便利なセーヌ下流に向かって延びる一方、 鉄道に沿って放射状に広がった。他方、一九世 紀よかばにはバリ周辺地区の森林を切り開く宅 地造成により、小さな庭をもった郊外個人住宅 地が現れ、第一次世界大戦後は大規模な宅地造 成が耕作地にも及ぶ。第二次大戦を機に、トラ ックによる貨物輸送の発展、自家用自動車の普 及などにより、工場、新都市の建設地選択はか なり自由となり、近郊に残っていた緑地の一部 も都市化された。かくしてパリ都市圏は、約一 世紀の間に、「小冠」 Petite Couronne ( また は都市域冠 Couronne Urbaine) に属するセ ヌ・サン・ドニ、バレ・ド・マルヌ、オー ド・セーヌ三県、「大冠」 Grande Couronne ( または副都市域冠 Couronne Suburbaine) に属するバル・ドアーズ、セーヌ・エ・マル ヌ、イプリーヌ、エソンヌ四県を抱擁して、面 積一万二〇一二平方キ。となり、人口は二〇〇万 強から約一〇〇〇万に膨張した。全国土の二 % にあたる土地にフランス全人口の一八・五 % が 集中していることになる。この約一世紀間の人 口増加は、郊外地区では約一五倍であるのに対 し、パリ市域では約五〇 % 増にすぎない。 行政上のバリ市 ( 二〇区内 ) は、現在も一、 四〇年の城壁跡の環状大通りの内側にとどまっ ている。その広がりは東西一二キロ、南北九キロ これに西側のプローニュの森八四六タと東側 のバンセンヌの森九九五タが加わり、面積は 約一〇五平方キ。、大国の首都としては小さい都 市である。この小さなバリ市は政府所在地とし て特別市を形成し、同時にパリ県をもなし、市

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リシュリューの下で、そして一七世紀後半から部から一掃されて第二帝政様式といわれる建物 と並んで市民代表にも支援を求め、最初の三部 起源をもつ。だがメロビング朝末期からカロリ ング朝時代には政治の中心から外され、カール会をパリに開いた。これは市民の財力の強さをのルイ一四世治下にも、区画整理や再開発は続が新築され、ユゴーの「レ・ミゼラブル』で有 行し、貴族など上流階層の住む西寄りの街区が名な下水道の整備も本格化する。一時コミュー 大帝はアーヘン ( 現、西ドイツ ) を首都とし意味するが、またこれ以後パリは国王の重税に ほ - っキ一 とくに整備されていった。ルイ一四世自身は反ン蜂起で中断されるが、第三共和政下にも改造 た。そして九世紀後半にノルマン人、いわゆる苦しむことにもなる。中世末の百年戦争に伴う は続行され、基本的に現代の姿をとった。ハリ バイキングがセーヌ河口からさかのばって襲来周辺農村の荒廃、食料不足と物価高騰、重税と抗的なバリを好まず、一六七七年には・ヘルサイ は、一九世紀末にはエッフェル塔や地下鉄など し、ガリア・ローマ時代からの都市周辺部は壊 いった経済的困難に、。 へスト流行による大量死ュに移り、八二年にそこを政府本拠としたが、 バリは商業はもとより、宗教や文化・文芸の都鉄と電気に示される工業文明によって、その変 の恐怖が加わった。 滅的な打撃を被る。 政治の改革を求めたパリは市長の・マルセとして全ヨーロッパに名が響く。約五〇万の人化を加速する。一九〇五年からは乗合自動車 〔中世都市として〕最終的にノルマン人の攻撃 ( バス ) も登場した。この産業化開始の時期に 口を抱える都市への物資受け入れロであるセー を退けることができたパリは、その声望を高めルの指揮下に一三五八年、大規模な反乱を起こ は、革命的サンディカリスムとして高揚した労 ヌ河港は、大いににぎわった。 こ。八八八年。ハリ伯ュードがフランク国王となすが、賢明なる王と称されたシャルル五世がこ 啓蒙主義のサロンに哲学者や文人たちが集ま働運動の中心地ともなった。↓バリ改造 り、その子孫ューグ・カペーが九八七年にカべれを鎮圧し、いったん平穏が戻る。彼は右岸の 二〇世紀に入って首都圏として発展し始めた った一八世紀に、町はさらに西に広がり、現在 ー朝を始めるころには、王国の中心としての位市壁を広げて商工業の発展への対応を用意し、 パリは、二度の大戦や人民戦線、一九六八年 シテ島の王宮には秩序と革新の象徴ともいえるのコンコルド広場やシャンゼリゼ大通りの原型 置は揺るぎないものになりつつあった。 ひのき もこの時代につくられた。膨張した都市の機能「五月革命」などのできごとで政治の檜舞台で 一二世紀前半、カペー朝のルイ六世のころか時計塔をつくらせた。 しかしシャルル五世死後また混迷が訪れ、一をよくするための区画整理、街頭照明、保健衛あり続けたばかりではなく、シュルレアリスム ら、周辺の農業生産の発展を背景に経済的にも 飛躍を示す。右岸にある現在の市庁舎前広場に 四世紀初めに二〇万といわれた人口は、同世紀生などへの配慮が強まり、警察機構もヨーロツで有名なように世界各地から前衛的芸術家を集 め、文学者をひきつける芸術の都でもあった。 ハ諸国のモデルにされた。 発展しだした市場は、のちに「パリの胃袋」と末には半減していた。しかもアルマニャック派 しかしこうした都市整備の試みも、流入する世界各地への多極化の動きは明確であるが、い よばれることになるレ・アル ( 中央市場 ) の場と。フルゴーニュ派に分裂して全国で争っていた 人口の多さや問題の山積に追い付かず、公衆衛までもパリはファッションの中心であり、また 所に移され、フィリップ二世のもとで一三世紀貴族のうち、一五世紀初めに一時バリはイギリ 初めには本格的に取引の中心になった。イングス軍と通じるプルゴーニュ派に支配されて荒廃生や貧民問題は解決されないまま、旧体制 ( ア学問研究や現代思想の新しい動きの震源地であ 〈福井憲彦〉 ンシャン・レジーム ) の全般的危機はフランスり続けている。 ランド王と争ってフランス王国の領土を拡張、と混迷を極め、市内にすらオオカミが出没する じゃっき / 林善彦・山路昭訳「バリ 革命を惹起した。 E)> ・ラヴァル著、ト 封建諸侯を抑えて国王の権勢を強め、尊厳なるほどだったといわれている。 の歴史』 ( 白水社・文庫クセジュ ) ▽・ド 王 ( オーギュスト ) とよばれたフィリップ二世〔アンシャン・レジーム期〕王権強化に腐心し〔大革命から現代へ〕一七八九年バスチーユ襲 ほせき ウ・ベルヴァル著、矢島翠編訳「パリ一九三 リの周囲を市壁で固め、街路に舗石を敷たフランソア一世は、一五二八年パリに本拠を撃に始まり、パリ市民とサン・キュロットが活 〇年代』 ( 岩波新書 ) ▽・・アッカーク き、セーヌ川には橋を架けさせた。中世の橋は定めた。市内にはルネサンス様式の建物が新築躍した大革命下に、。ハリはふたたび首都になっ 一七九 ネヒト著、館野之男訳「パリ病院 、ゝヾ丿こも及ぶ。・ビュ た。革命直前に約六五万から七〇万と推定され され、人文主義の風がノーし 木造で、橋上には家屋がしつらえられており、 四 ~ 一八四八』 ( 一九大・思索社 ) ▽堀井敏夫 デを指導者として一五三〇年、王立教授団が設る人口は、やがて一八四六年に約一〇五万、周 ときには火災で焼失もしたが、シテ島を中央に 著「パリ史の裏通り』 ( 一九会・白水社 ) ▽喜 辺町村合併後の六一年に約一七〇万、一九〇一 左右両岸が連結して発展の途につく。彼はまた置され、いまに続くコレージュ・ド・フランス 安朗著『バリの聖月曜日ーー一九世紀都市騒 シテ島の王宮と並んで右岸にループル宮を建の前身となり、商業も繁栄して人口はまた増加年には二七〇万余と急増する。その増加は大部 乱の舞台裏』 ( 一九 0 ・平凡社 ) ▽・サール した。しかし同時に下層民も多く流入し、狭い 分が労働階層であったが、都市整備は人口急増 て、商人ギルドに特権を付与して経済の活性化 マン著、小沢明訳「。ハリ大改造ーーオースマ し、し付かす、西の裕福な。フルジョア地区と、 を図った。左岸では、サント・ジュヌビエープ路地が入り組む街区には、フランソア・ビョン ンの業績』 ( 一九〈三・井上書院・ The Cities 日 北や東に多い下層労働者地区の落差は大きかっ の丘にかけてバリ大学の基礎が築かれ、やがてが詩に歌ったような怪しげな別世界が首都の下 たいせき New lllustrated Series) ▽玉村豊男著 中世末にはスコラ学の総本山として諸国から学層に張り付く。これ以後バリにとって、堆積すた。とくに一九世紀前半に労働階層は「危険な 『。ハリ旅の雑学ノート』 ( 新潮文庫 ) 階層」として支配階層に恐れられ、実際一八三 者をひきつけることになる。知的・文化的中心る下層民の問題は深刻なものであり続ける。 ー・にゆ - っ ・・ーけん pariah dog 唖乳綱食 としてのいわゆるカルチェ・ラタンの成立であ 一六世紀末の約三〇年間、宗教戦争はまたし〇年代からは労働運動や社会主義運動の中心に ハリア大 もなり始めた。一九世紀のパリは、三〇年の七肉目イヌ科の動物。東南アジア、インド、中近 る。すでに一二世紀なかばから、バリ司教座教ても首都を混乱に陥れ、カトリック勢力の支配 会としてノートル・ダム大聖堂の建築が始まっ下に、一五七二年にはサン・バルテルミーの虐月革命、四八年の二月革命と六月事件、七一年東、北アフリカなどの路上を半野生の状態で徘 ぎんし ノリ・コミューンをはじめ、フランス全体の徊しているいわゆる野良大で、腐肉や残滓の掃 ており、ゴシック建築の偉容が宗教的中心の地 殺が起こった。この宗教対立を収拾したアンリ しんかん 四世統治下から、近代都市への整備と脱皮が政治やヨーロッパ全体をも震撼させる社会運動除屋として暮らしている。ある目的をもって選 位を象徴することになる。 と・つた 択淘汰されているわけではないので、毛色は変 に揺れる激動の首都となる。 こうして中世都市としての姿を整えていった徐々に進みだす。現在も美しい姿をみせるポー 化に富み、耳も垂れ耳のものがいる。しかし、 パリが現在のもとになる姿をとるのは、第二 パリには、一三世紀の聖王ルイ九世のもとで高ジュ広場 ( 当時はロアイヤル広場 ) やドフィー ヌ広場は、その産物である。彼は工事中のポ帝政下に開始された「オスマン化」とよばれる中近東、北アフリカの。ハリア大は、中近東や南 等法院と会計院が置かれ、さらに商業の発展と 相まって人口も一〇万を超えたといわれる。カン・ヌフ ( 新橋 ) を完成させ、歩道を設け、道都市改造からである。周辺町村を合併して現在アジアのオオカミから派生したとみなされてい じんかい を蓄えた商人たちは都市としての自治権を王か路管理や塵芥処理、さらに都市生活の命綱であの面積になり、全体を二〇の行政区に、各区をて、典型的なものは立ち耳、垂れ尾、細い四肢、 こうふん 細長くとがったロ吻をもち、中形の体格で、淡 あら認められ、プレポとよばれる代表を市長としる上水道のための政策にも力を入れた。一六四四カルチェ ( 区 ) に分ける制度も一八六〇年か 八年のフロンドの乱でまたしてもパリは王権と らである。帝政の強権下に幅の広い大通りが旧黄褐色から赤褐色の毛色をし、ディンゴに似る 3 り・て選任するようになる。一三〇二年、教皇と対 そうりよ 。よ とされている。被毛は短毛である。 ^ 増井光子〉 立していた国王フィリップ四世は、僧侶・貴族衝突するが、その前のルイ一三世時代には宰相 街区を貫き、入り組んだ路地や古い建物が中心

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を中心としたとくに西部が整備され、第三期に ハリカネワラビ〔針金蕨〕 ely ミ e こ s ( 大正九 ) にはアメリカから電動式のものが輸 ハリカネムシ〔針金虫〕 hairworm 袋 、をぎ (Bak. ) Ching オシダ科の夏緑性入され始めた。現在ではコードレスの電動バ はオペラ座周辺の改造が大通り貫通とともに推形動物門線形虫綱ハリガネムシ目 Gordi0idea 〈坪内靖忠〉 進された。その結果、経済や政治の重要な建物の総称。体はその名のとおり針金のように細長シダ。葉身は二回羽状で六〇前後である。栗カンも普及している。 、体長数から数十、まれに一になるも色の葉柄を針金に見立ててこの名がついた。全 ハリ管弦楽団ーーかんげんがくだん ()rches ・ があり、また裕福な社会層の居住地区となった tre de Paris 一九六七年に設立されたフラ セーヌ川右岸の中央から西にかけては、都市とのもある。体色は白、黄、暗褐色など種類によ国の山地林下に普通にみられる。〈栗田子郎〉 パリ音楽院直属の ンスの代表的オーケストラ。 しての美化が進んだ。しかし、家賃が高騰した って異なる。雌雄異体で、雌は雄よりも大き針ヶ谷タ雲はりがやせきうん ( ? ー むじゅうしんけん せきうん パリ音楽院管弦楽団 ( 天天成立 ) が母体であっ 。世界中で約二五〇種が知られ、日本には約江戸初期の剣術家。無住心剣術 ( タ雲流、破 中心部に住めなくなった労働者や新規の参入者 そう たため、設立当初から第一級の楽団として演奏 たちは、整備がほとんど進まない北、・東、南部一〇種がいる。成虫は水中で自活生活をする想流 ) の創始者。その伝は明らかではないが、 リの周囲に が、食物をとらず、雄は体の後部を雌に絡ませ俗名五郎右衛門、上州 ( 群馬県 ) の出身と伝活動を続けている。音楽監督はミュンシュ ( 一九 の外れに排除されることになり、 そうでん おでりいちうん え、高弟小出切一雲の著『剣法タ雲先生相伝』六七 ~ 六 0 、カラヤン ( 音楽顧問、一九六九 ~ 七一 ) 、シ は「赤い帯」が取り巻いていると形容されるにて交尾し、繁殖期を終えるとやがて死ぬ。産卵 ふか 至った。実際、後の一八七一年のコミューン蜂は春から夏に行われ、水中で孵化した幼虫は直などによれば、弱冠より剣術諸流を学び、壮年ヨルティ ( 一九七一一 ~ 七五 ) 、バレンポイム ( 一九七五 ~ しんのしんかげ おがさわらげんしんさい ) 。バレンポイムは、独奏者としても優れた に及んで小笠原玄信斎の門に入って真新陰流 接宿主に食われるか、あるいは一度ュスリカや 起がそれを証明するであろう。 まず正確な測量に始まり、高みを削り、建物フタバカゲロウなどの幼虫に取り込まれ、そのを学び、ついにその秘伝を受け、同門屈指の名楽員との室内楽、小編成による演奏会シリーズ を壊し、大通りを貫通させて、新建造物を配置体内で小さな嚢に包まれ、これらの昆虫が羽化手となり、江戸・八丁堀に道場をもち、紀州侯を発足させ、七六年には合唱団を併設した。定 ないしようぶち たい - 一う していった作業は、上下水道などの地下工事と 後カマキリなどの宿主に食われて、その体腔内から内証扶持を得ていた。もともと無学の人期演奏会はシャンゼリゼ劇場などを経て現在は 、一はくおしよう ともに大事業であった。政府とバリ市、不動で寄生生活をしながら成長する。成長が終わるであったが、東福寺の虎白和尚に参禅して、初プレイエル・ホールで行っている。一九七〇年 の・ヘかわ ・一うもん 、〈美山良夫〉 産・建築業、銀行資本が密接に関与した大事業と、宿主の肛門近くの体節間に孔をあけ、虫体めて師玄信斎の秘伝とする八寸の延金も、つま ( 昭和四五 ) 初来日。 ちくしようしん ばりき horsepower 物を動かすか の先端をのそかせ、宿主が水のあるところへき りは虚構にすぎず、畜生心を離れ所作を捨て、馬力 も、政府、市には大幅な財政赤字をもたらし、 じしようほんねん たとき脱出する。脱出は夏から秋にかけてが多自性本然の受用のうちから勝理を自得すべし変形させる動力の大きさを表す単位の一種。動 オスマンはそれゆえに知事を解任された。パリ とした。ときにタ雲六十余歳、虎白はこれを評力の大きさは、加える力の大きさと移動または を産業型経済に対応した流通と消費の中心に仕 、越冬後産卵するが、なかには宿主に寄生し して無住心剣術と名づけたという。〈渡辺一郎〉変形する速度の積、つまり、単位時間にする仕 立てあげ、同時に首都としての政治的威信を表たまま越冬し、春から夏に脱出して産卵するも 現しようとするこの改造は、ポードレールをしのもある。ハリガネムシの宿主は昆虫類のカマ 、リカルナッソス Halikarnassos 小ア事 ( 仕事率 ) で表される。したがって、軽い物 ジアのカリア ( 現在のトルコ南西部 ) 沿岸の古を早く動かすのと、重い物をゆっくり動かすの て「古き。ハリはもはやない」と嘆かしめたものキリ、キリギリス、コオロギ、ゴミムシ、ゲン とが、仕事率では同じ場合がある。この比較を であるが、しかし一九世紀末以降も引き続き展ゴロウなどで、前述のユスリカやフタバカゲロ代都市。紀元前九〇〇年ごろドーリス人が建設 ウなどはこれらの宿主へ移行するための移動宿したギリシア都市ではあるが、土着のカリア人明確にする方法として、荷を運搬するのに多く 開され、都市改造の一つのモデルとなってい く。リョン、マルセイユ、ポルドーなどフラン主と考えられる。なお、まれに幼児から吐き出の要素が強かった。歴史家へロドトスの出生地使用された馬が何頭必要かで動力の大きさを一小 、バルセロナやされた例があるが、これはおそらく偶然飲み込である。前五世紀なかばにベルシアに臣従するす方法が考えられた。これは人間が物を運搬す スの地方大都市ばかりではなく 〈町田昌昭〉政権が倒れ、デロス同盟に加わり、アテネ海軍るときの感覚と一致している。 ストックホルムなど外国都市の改造にも影響すまれたものと考えられる。 蒸気機関を実用化したワットは、蒸気機関の の要港となった。前三六・二年ごろカリアの太守 〈福井憲彦〉 るところ少なくなかった。 マウソロスの都となり、古代の七不思議の一つ性能を表示するために動力を実測し、馬力を制 回河野健二編『フランス・プルジョア社会の成 「マウソロス陵墓」が建てられたが、遺跡はは定した。馬力を動力の単位にしたのは、当時蒸 立』 ( 一九七七・岩波書店 ) ▽・ベネヴォロ 〈篠崎三男〉気機関が進出した所で動力源として多く馬が使 とんど残っていない。 著、横山正訳『近代都市計画の起源』 ( 一九 式 七六・鹿島出版会 ) ▽・サールマン著、小沢 ね ハリカン毛髪刈り込み用の理容器具で、われていたためであろう。ワットは機械 ( 水汲 正しくはヘアクリッヾー。 フランスの製造会社みか製粉 ) の垂直な車軸に長さ一二フィート 明訳『パリ大改造』 ( 一九〈三・井上書院・ The 用 メしの腕木をつけ、その端に馬を バリカン・エ・マール Bariquant et Marre ( 約三・六六ト Cities Ⅱ New lllustrated Series) 期 片 せんざい 初 結び軸の周りを回らせた。馬の回る速さと腕木 が刈り込み用器具の日本での一般名称になっ 針金はりがね 0 線材 期大 た。日本では散髪脱刀令 ( 天七 D に伴い一八七の端にかかる力を実測したところ、一分間し ハリカネカズラ〔針金葛〕 C ミ e ミ s ひし ン ムロ 四年 ( 明治七 ) フランスから両手式のものを菱二・五回転で、カは一七五ポンド ( 約七九・四 ミミミ Torr. et Gray var. を、 0 こき (A. 明 キ。グラム ) であった。したがって一分間にする 屋 ( 現丸善 ) が輸入したのが最初である。国産 Gray) Makino ツッジ科の常緑小低木。茎 キ だえん 品は、八八年元鉄砲鍛冶の伊藤兼吉 ( 大阪 ) が仕事は三万三〇〇〇フィート・ポンドであり、 は細く針金状で地上をはう。葉は互生し、楕円 「ジャッキ」を試作、実用化した。関東では、毎杪五五〇フィート・ポンドとなる。これが馬 形で長さ〇・五 ~ 一、裏面に伏した剛毛があ ようえき 式ひ 手 横浜のマーヤ商会が輸入したフランスの片手用一頭の仕事率で、ワットはこれを一馬力とし る。六月、葉腋に小さな淡緑白色花を一個下向 つば た。馬以外の動力源は、人間でも蒸気機関で ばね式バリカンをモデルとして国産化に成功、 きに開く。花冠は壺形で先は四裂する。花期 も、馬力を実測したときと同じ仕事量を同じ機 後、萼は肥大して蒴果を包み、倒卵形で長さ五 和九〇年に東京・本郷の鉄砲鍛冶中村友太郎が初 こっしん めて国産片手バリカンを市販した。印清戦争械で測定することによって仕事率が求められ、 ~ 七ミリの液果状の偽果になり、白色に熟す。亜 カカ ( 天九四 ~ 九五 ) 中に丸刈りスタイルが定着、軍隊馬力で大きさを表すことができることになっ . り・高山帯針葉樹林内の益むした所に生え、中部地 などで広く使用されるようになり、一九二〇年た。たとえば人間は、成人で短時間なら〇・五 〈小林義雄〉 方以北の本州に分布する。 ふくろ あな 137