党大会ではスターリンを批判し、内外に大きな ハイドイツにおける自由主義運動の重要な一翼 一ん責任を追及して大きな反響を巻き起こした。一 衝撃を与えた。五七年六月にはスターリン批判 6 じ八九四年アカデミー会員に選ばれた。この『弟を担った学生団体。若者仲間の意で、「学生組 に反対するマレンコフ、モロトフなどの反撃に 子』を転機としてフランス伝来の宗教、道徳を合」ともいう。一八一五年六月イエナ大学で、 る あい、失脚しそうになるが、巻き返して逆に反 重んじる伝統主義者となり、『宿駅』 ( 一九 0 一 D 、従来出身地別に構成されていた学生団体ラント フルシチョフ派を追放、五八年三月にはソ連首 マンシャフト Landmannschaft の分立主義を 『離婚』 ( 一九 0 四 ) 、『真昼の悪魔』 ( 一九一四 ) 、『死の 相も兼任、名実ともにソ連の最高指導者となっ 意味』 ( 一九一五 ) 、『われらの行為はわれらを追う』否定して、単一の組織として結成された。中心 ョ た。五九年アメリカを訪問し、アイゼンハワー となったのは、リュッオー義勇軍に属して対フ ( 一九一一七 ) などの小説を発表。彼は若き日にテー チ 大統領と会談、米ソ共存路線を推進したが、中 ランス解放戦争を戦った帰還学生で、その軍服 ヌの影響によって実証主義の洗礼を受けたが、 シ 国との関係は悪化した。また農業生産も停滞し にちなんで黒・赤・金旗を採用し、名誉・自 一九〇五年にはカトリックに改宗、思想的にも それを克服しようとして行った機構改革も失敗 右傾し「アクシオン・フランセーズ」の政治運由・祖国を標語としてドイツの自由と統一を主 した。六四年一〇月に主観主義と主意主義の誤 動に加わるようになった。↓弟子〈新庄嘉章〉張した。運動は急速に拡大し、一七年のワルトクライナに近いロシア南部のクルスク県カリノ りを犯したとして批判され、党第一書記と首相 フカ村の炭鉱夫の家庭に生まれる。少年時代か プルク祭を契機に翌年一〇月全ドイツ・プルシ 。フル一ノエバリスキー HHK()J1a1i MHxaü- エンシャフトが結成され、一四大学がこれに参ら牧童として働き、一五歳のときに父が働くドの地位から解任された。七一年九月一一日、年 OBH 工 IlpxeBaJ1bcKHü/Nikolay MihaY10- 金生活中に死去。胸像のついた墓がモスクワの 、 ) 中央アジ加してドイツ自由主義運動の最初の高揚期を形ネッ炭鉱に入る。一九一五年に最初の妻ガリ vich PrzhevaI'skiy ( 天三九ー分 ナと結婚、一六年に長女ューリア、一八年に長ノボジェービチー修道院の墓地にある。七〇年 アを探検した帝政ロシアの将校。一八六七 ~ 六成した。メッテルニヒは、急進派学生・・ 九年のウスリー川探検を手始めに、七〇 ~ 八五ザントによる劇作家コツツエプーの暗殺事件を男レオニードを得る。一八年に共産党に入党と七四年に西側で『フルシチョフ回想録』が出版 機に、一九年カールスパートの決議を連邦議会し、発足まもないソビエト政権擁護のために反されたが、フルシチョフ自身は生前その存在を 年の間に四回にわたって、モンゴル、チベッ 〈中西治〉 に行わせ、。フルシェンシャフトを禁止して運動革命軍と戦う。一一一年に復員後ドネッ炭鉱に戻公式には否定していた。 、東トルキスタンを探検旅行し、八八年、五 り、一三年から三年間ドネッ工業専門学校労働 E)> ・ラッシュ著、安田志郎訳『ニキタ・フル 回目の探検準備中にイシク・クリ湖畔で死亡しを厳しく弾圧した。しかし、以後も秘密結社に シチョフ』 ( 一九五九・時事通信社 ) ▽・ポッ た。当時まだ世界地図のうえで空白であったアよって運動は続けられ、三二年のハンバハ祭以者予備学部で学ぶ。この間に妻ガリーナを二一 ききん ファ著、石川善之助訳『スターリンからフル ジア内奥部は、彼の探検によってその多くが埋後は黒・赤・金旗はドイツ自由主義運動全体の年の飢饉で失い、二四年にニーナと再婚。ニー シチョフへ』『フルシチョフ時代ーー・続スタ められた。また同時に多数の動植物標本を採集象徴となった。四〇年代には「進歩主義運動」ナとの間に息子セルゲイ、娘ラーダとエレーナ ーリンからフルシチョフへ』 ( 一九六一、 四八年の革の三児を得る。同学部終了後ドネッ炭鉱とキエ して新種を発表した。なかでも彼がジュンガリを形成して大学民主化闘争を行い、 一書房 ) ▽・クランクショー著、高橋正 命には指導者の一母体として積極的に参加したフで党活動に専従、二九年にモスクワの工業大 アで発見した野生のモウコノウマは、プルジェ 訳『フルシチョフーーその政治的生涯』 ( 一九 学に入学、ここでスターリンの妻ナジェジュ リスキーウマ ( プシバルスキーウマ ) の名で知が、革命の敗北後政治的意味を失った。↓ワル 六七・弘文堂 ) ▽・タルポット編、佐藤亮 られている。彼の探検は後進のコズロフやスウトプルク祭↓カールスパートの決議〈岡崎勝世〉ダ・アリルーエワと知り合い、スターリンの知 一訳『フルシチョフ最後の遺言』上下 ( 一九 エン・ヘディンに大きな影響を与えた。一方、布留式土器ふるしきどき近畿地方の古墳己を得る。三一年にモスクワ市のバウーマン地 しつよう 七五・河出書房新社 ) ▽・メドベージェフ、 時代前半期を代表する土器様式。奈良県布留遺区党委員会書記となり、モスクワ市党委第一一書 イギリスは、彼が執拗にラサを目ざしたことに ・メドベージェフ著、下斗米伸夫訳『フ 神経をとがらせ、対抗上ャングハズバンドをチ跡で一九三八年 ( 昭和一三 ) に発見された一括記、同第一書記、モスクワ州党委第二書記を経 ルシチョフ権力の時代』 ( 一久 0 ・御茶の水 べットに派遣している。主著に『ウスリー紀土器をもって、小林行雄らが設定した。通常こて三五年にモスクワ市・州党委第一書記とな る。三四年にソ連党中央委員、三七年にソ連最 書房 ) 行』『ロプノール紀行』『キャフタから黄河源流れらは古・中・新の三段階に細分されるが、前 つば ごカシミールの へ』などがある。↓モウコノウマ〈林俊雄〉二者においては、有段ロ縁の壺、直ロ縁球形胴高会議代議員に選ばれ、中央政界に足場を築フルシャスキー語 かんはけめこん く。三八年一月にウクライナ党中央委第一書記 北西部、ギルギット地方のフンザ、ナギュール 回加藤九祚他訳『黄河源流からロプ湖へ』 ( 一九をもっ坩、刷毛目痕をもっ薄作りの甕、段をも きだい に転じ、四九年一二月までウクライナで活動、で三万前後の人に話されている一一一一口語。世界中の って大きく開く鉢、小形丸底坩、小形器台など 六七・白水社 ) どの言語とも関係が明らかにされていない文 がある。美しく磨かれた精製品は多いが、各種とくに対独戦と戦後復興に尽力した。この間 。フル一ンエバリスク [lpxeBaJ1bcK/Przhe- たた val'sk ソ連南部、キルギス共和国イシク・クの装飾は姿を消し、伝統的な叩き目もはとんど四七年三月から一二月まで第一書記を辞し、ウ字はなく、過去の文献は残されていない。文法 クライナ首相を務めたが、すぐに第一書記に戻上の特色としては、名詞が、男性の人間、女性 消滅する。古段階に成立をみた小形丸底坩、 丿州の州都。天山山脈中のテルスケイ・アラタ ふもと った。また、三八年にはソ連党中央委政治局員の人間、動物と一部の無生物、その他の無生 ウ山脈の麓、カラコール川に沿う標高一七七〇形器台などいわゆる小形精製土器は、驚くほど し大別されていること の画一さをもって九州から東北地方に至る広域候補、三九年には同政治局員となり、ソ連の最物、の四つのカテゴリーこ の高地にある。人口六万二〇〇〇 ( 一九ハ六 ) 。 に展開する。新段階に入ると小形器台がみられ高指導部の一員となった。四九年一二月にソ連があげられる。一〇〇〇までの大きな数は二〇 革命 ( 一九一七 ) 前は半家内工業があったにすぎな ヒール、乳製品、織なくなり、小形丸底坩も粗雑化するなど、小形党中央委書記兼モスクワ州党委第一書記としてと四〇の倍数として数えられる。〈国広哲弥〉 カたか、革命後は食品、。 すえき へんばう 精製土器が解体する。こうして、須恵器との入モスクワに帰り、五二年一〇月の第一九回党大フールジュ Elémir Bourges ( 一八五 = ー 物、履き物の近代的工業都市に変貌した。一八 八九年まで、および一九二一 ~ 三九年までカラれ替わりが始まることになる。↓土師器↓布会では党規約の改正について報告、スターリ一一五 ) フランスの小説家。マノスクの生まれ。 〈岩崎卓也〉 ン、マレンコフに次ぐ党内第三位の実力者であ一八七四年バリに出、八一年『秀作評論』を創 コール KapaKOJ1/Karakol と称したが、ロシ留遺跡 ることを示した。五三年三月のスターリンの死刊、また『ル・ゴーロア』紙、『両世界評論』 アの探検家プルジェバリスキーを記念して改称フルシチョフ HHKHTa CepreeBHt1 XPY- おの 後、党中央委書記の仕事に専念、同年九月に正などに寄稿。第一作は新聞小説『斧の下に』 〈山下脩二〉 IIIéB/Nikita Sergeevich Hrushchyov たそがれ 公三、初出は『斧に触るな』 ) 。『神々の黄昏』 ( 天九四ー一九七 D ソ連の政治家。四月一七日、ウ式に第一書記となった。五六年二月の第二〇回 ( 一 " フルシェンシャフト Burschenschaft かめ
地位を築きつつあったが、日蓮はそれらを激しく攻撃して、 る。比叡山に学ぶこと二〇年、のち法然に傾倒して、法然流 えちご 罪のとき越後国 ( 新潟県 ) に流され、赦免ののち長く東国でひたすら『法華経』の流布を図った。その意図は国の将来に 布教活動を行い、この間に『教行信証』を完成し、浄土真宗まで及んで、主著『立正安国論』が書かれたが、あまりにも の基礎を確立した。すでに肉食妻帯・非僧非俗を宣言し、信戦闘的なその態度のため、伊豆 ( 静岡県 ) に、また佐渡に流 どうば・つ されたはか、数々の法難を受けた。晩年はその態度も寛容に 者を同朋同行とよんで、一般の民衆とともに、ひたすら弥陀 みのぶさんこも に帰依し、これまでの称名を突き抜けて、弥陀への報恩にま変わり、甲斐 ( 山梨県 ) 身延山に籠って草庵を開いたが、や がて江戸池上本門寺で没した。門下に六老僧が名高く、関東 で高まる絶対他力の信を貫いた。その語録を弟子がまとめた たんにしよう だけでなく、まもなく京都にも進出して多くの信徒を得た 短編の『歎異抄』ほど、純粋で激しく深い仏教書はない。 じようけい このころ、南都奈良には、法相宗の貞慶、華厳宗の高弁が、本来の激しい態度からしばしば論争を生み、さまざまな しようしゅ、つ みようえ ( 明慧 ) が出て、念仏の流行が仏道修行や持戒の軽視につな分派が生じた。とくに法華宗や日蓮正宗などが、その有力 がることに反対し、厳しい道心による厳格な修行を自ら実践なものであり、また熱心な在家集団も多い 〔室町から明治の仏教〕鎌倉新仏教は人々の宗教的欲求にこ し、また弟子に教えた。 鎌倉仏教に新機軸を画したのは禅宗である。禅はすでに奈たえて、短時日の間に民衆のなかに広まった。 亠めーレんか ひご 臨済禅は足利幕府の庇護を受けて、京都と鎌倉の五山を中 良時代以来しばしば伝えられ、最澄も四宗の一つに数えてい 、えい、こい 心に栄え、五山文学を生み、また茶道、華道、絵画 ( とくに るが、日本に禅宗が確立したのは、栄西による。彼は二度も につそう 水墨画 ) 、芸能、造園、料理、建築など文化の諸方面に深い 入宋して禅のうちの臨済宗を学び、日本に伝えた。帰国後、 なんほしようみよう 影響を及ばした。この系統に、室町時代には南浦紹明 ( 大 『興禅護国論』を著し、鎌倉・京都などを巡って禅を広めた。 むそうそせき しゅ、つほ・つみようちょうだいとっ ざぜん 一時は比叡山の圧迫もあったが、厳正な坐禅の修行を実践し応国師 ) 、宗峰妙超 ( 大燈国師 ) 、夢窓疎石、関山慧玄、虎 しどうぶなん たくあんそうほう かんしれん て、新時代の新興勢力である武士の心を養い鍛えると同時関師錬など、江戸時代には沢庵宗彭、至道無難、臨済中興と ばんけいようたく に、しだいに文人にも浸透して、後の禅文化を導き出す端緒仰がれる白隠慧鶴、盤珪永琢などのはか、合理的精神により しよ、つさん 日常生活にその教えの実践を説いた鈴木正三が出る。 を開いた。 まんギ、んどうはく めんざんずいほう 曹洞宗には、江戸時代に卍山道白、面山瑞方などが現れて 栄西においてなお天台や密教との妥協がみられた禅宗は、 たいぐりようかん 道元によってまったく純粋な禅に結晶した。若くして入宋し教えを正しており、大愚良寛もこの宗に属する。 みん てんどうによじよう かのち なお、臨済禅の別派の黄檗宗が江戸時代に隠元によって明 た道元は、彼地にとどまること四年余、最後に天童如浄に 巡り会ってそのもとで修行し、印可を受けた。帰国後ただちから伝えられた。これには中国風の色彩が強く、この宗に出 ききん だいぞう てつげんどうこう ふかん に『普勧坐禅儀』を著して、坐禅の真義を明らかにし、そのた鉄眼道光は「大蔵経」の新刻を完成したほか、飢饉には難 えちぜん 実践を強調、京都深草と宇治に約一〇年、越前国 ( 福井県 ) 民を救って人々の敬慕を集めた。 しよ、つまうげんぞ、つ 浄土宗は、法然の没後、諸派に分かれたが、江戸時代には の永平寺に約一〇年住して、『正法眼蔵』の大著を書き続 ざが け、厳しい実践を休まず、行住坐臥すべて坐禅に連なること徳川氏の宗旨となって栄え、江戸増上寺と京都知恩院とがそ しかんたぎ を教えて、只管打坐を唱え、優れた弟子の養成に努めた。道の中心となった。 えじよ、つ れんによ そうとっ 浄土真宗は八代目の蓮如によって飛躍的に発展し、ついに 元の禅宗は曹洞宗とよばれ、道元の語録を高弟の懐弉が筆録 いっき けい、んじよ、つ ずいもん は日本最大の宗派となり、戦国時代にはしばしば一向一揆を した『正法眼蔵随聞記』が広く読まれている。のち瑩山紹 きん 瑾が出て『伝光録』を著し、総持寺をはじめ多くの寺を開起こして武将を脅かした。そのために、徳川幕府は本願寺を 東西に二分してその勢力を押さえた。 き、一般民衆にも禅を普及させた。 ちょう にちれん 天台宗には徳川家康の寵を受けた天海が出て、寛永寺を開 鎌倉仏教の最後に日蓮宗が現れる。これまでの宗祖・開祖 き、日光山を再興したほか、「大蔵経」を開板した。これが がすべて京都ないし京都以西の出身であるのに対し、日蓮だ けは関東の出身で、そこで活躍した。日蓮ははじめ真言密教日本の「大蔵経」完刻の最初である。 じうんおんこう しよ、つばうりつ 真一一一一口宗には、江戸時代に慈雲飲光が出て、正法律を唱え、ま よを学び、やがて比叡山に登り、天台を究めて『法華経』第一 ばんがくしんりよ、つ あわ キ、主義を固め、南都・高野山を巡ってのち故郷に帰り、安房たサンスクリット語を研究して大著『梵学津梁』を著した。 ふじゃく なむみようほうれんげきよう きょすみ また江戸時代には、仏典の文献学的研究もおこり、普寂、 っ ( 千葉県 ) 清澄山頂で「南無妙法蓮華経」を高唱して、立宗 ぶを宣言した。この時代にはすでに浄土・禅・密などの諸宗が贋潭、法幢、富永仲基、中井竹山、中井履軒などが知られる。 ししカみ おうばく そうあん かんえい 一一〈 0 治承四東大寺が平重衡により焼打ちされる 一一九一建久二栄西、臨済宗を伝える 三源頼朝、征夷大将軍となる 九栄西が『興褝護国論』を、法然が『選択本願 念仏集』を著す = 一 00 正治一一道元生まれる ( ー一一一五三 ) 一ニ 0 一建仁一親鸞、法然の門に入る 一ニ 0 セ承元一念仏停止が宣下され、法然・親鸞ともに流罪 一一三 = 貞応一日蓮生まれる ( ー三八一 I) = 三七安貞一道元、曹洞宗を伝える = = = 0 ごろ寛喜一一親鸞が『教行信証』を撰する 一ニ = 嘉禎一南浦紹明生まれる ( ー一一一気 ) 一ニ一一九延応一一遍生まれる ( ー一一一八九 ) 一ニ四 = 一寛元一道元、永平寺を開く 四宋僧の蘭渓道降来日。このころ道元が『正法 眼蔵』を著す = 一五 = 一建長五日蓮、日蓮宗の立宗を宣言 = 一穴文永五曹洞宗中興の瑩山紹瑾生まれる ( ー一三一一五 ) 八日蓮、佐渡へ流される 夢窓疎石生まれる ( ー一一一五一 ) 一遍、時宗を開く 一ニ大弘安一虎関師錬生まれる ( ー一三四六 ) 一 = = 〈誕応一一室町幕府開かれる 一 = 0 = 永一一幕府、五山十刹の制を定める = = 九七応永四金閣寺 ( 鹿苑寺 ) 建立 一三蓮如生まれる ( ー一四究 ) 一四七九文明二蓮如、山科に本願寺を造営 一き六永正三諸国に一向一揆起こる 一 0 元亀一石山本願寺、織田信長と争う ( ー一五八 0 ) 一一織田信長、比叡山を焼打ち 一五七』天正一沢庵宗彭生まれる ( ー一六四五 ) 一五七九 七鈴木正三生まれる ( ー一六五五 ) 一六 0 ニ慶長七本願寺、東西に分裂 八江戸幕府開かれる 一六 = 一 0 寛永七鉄眼道光生まれる ( ー一六八一 I) 九本山末寺制度が定められる 一六四〈慶安一『天海版大蔵経』成る 一四承応三明僧の隠元来日し、黄檗宗を伝える 一六〈一天和一『鉄眼版大蔵経』成る 三面山瑞方生まれる ( ー一七六九 ) 一六会貞享二白隠慧鶴生まれる ( ー一七六八 ) 一七正徳五富永仲基生まれる ( ー一七四六 ) 一七入享保三慈雲飲光生まれる ( ー一八 0 四 ) 亳五七宝暦七良寛生まれる ( ー一八三一 ) 一〈六〈慶応四明治維新。「神仏分離令」が公布され、廃仏棄 釈が行われる 一三「大日本帝国憲法」発布 一九 一九昭和一一 0 第二次世界大戦に敗戦 一三「日本国憲法」施行 一九 一九五一 一一六宗教法人法公布 373
筑後地域は県下一の農業地域で、その北部では稲作を中心 と少なく、主要産業とはなっていない 〔鉱業〕石炭業は明治以降県産業の中心をなし、第二次大戦 に、キュウリ、ホウレンソウ、ニンジン、タマネギ、キャベ 〔水産業〕漁獲総量は三二万〇四七一トン ( 一九会 ) と九州では前の最盛期には全国出炭量の三分の二余りを生産していた ためしまる が、エネルギー革命により一九六三年の石炭合理化政策決定 ツなどの野菜作が盛んで、田主丸を中心とした苗木栽培は、長崎県に次ぎ二位であるが、停滞傾向にある。生産の中心は あんぎよう いなぎわ たからづか 埼玉県川口市安行、愛知県稲沢市、兵庫県宝塚市山本と並博多、戸畑両漁港を基地とする遠洋漁業で、沖合、沿岸漁業以降、筑豊中心の大部分の炭鉱が閉山し、稼動しているのは ぶわが国四大産地の一つを形成している。南部の筑後川下流は筑前、有明、豊前の三海区に分かれる。筑前海区は対馬海三池炭鉱ぐらいである。ただ出炭量は四〇三万トン ( 一九会 ) 域では、農業経営規模は比較的小さいが、米、イグサ、野菜流の影響を受けてタイ、アジ、サバ、プリ、イカなどの好漁で、北海道に次ぎ全国二位である。県の北東部で産する石灰 はえなわ 岩は石炭と並ぶ主要鉱産物で、生産量は二二六九万トン ( 一九 栽培を中心に生産性が高い。八女地区はミカン、ブドウ、ナ場で、底引網、刺網、延縄や釣りなどの漁業が行われてい 会 ) と全国一であり、セメント原料として供給されている。 シ、カキなどの果実や電照ギク、茶の生産地として知られ、る。有明海区は干潟を利用してのノリ養殖が盛んで、アサリ などの採貝も多い。豊前海区は小型底引網漁業が中心である〔工業〕明治末より筑豊の石炭を基盤に鉄鋼を中心とする重 とくに茶は高級茶として有名である。 化学工業が発達し、四大工業地帯の一つを形成する全国有数 が、有明海区と同様ノリ養殖、採貝も盛んになってきてい 〔林業〕林野面積は一一二万二四七〇タ ( 一九含 ) で林野率は 高くない。私有化、人工林化がかなり進行しており、大分県る。博多漁港は背後に大消費地福岡、北九州両市をもつだけの工業県として発展したが、第二次大戦後の石炭業の衰退 ひた と、素材型工業への偏重という構造的弱点などにより地位低 日田に続く南部の英彦山周辺や奥八女を中心にスギ、ヒノキでなく、京阪神への中継基地として水揚げが急増しており、 下を起こし、対全国の工業生産額比率も戦前の九 % から二・ の植林が盛んであるが、用材生産量は三二万立方 ( 一九会 ) 全国有数の漁港になっている。 ワ 1 -8 《 0 - 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田 - 田 9 川市田米市市市市市市市市市市市市市野市城市府村郡月君田田田田田田田田郡町崎町村郡町町町町郡町町町町郡田 / 、岡名ル岡牟留方塚川 , 日田木女後川橋前間郡紫日野像宰町紫珂屋美栗免恵宮賀山屋像間屋海島賀屋巻垣賀手竹手田宮穂川築井墾穂波内田倉本倉輪須石珠島原丈摩 、か福市北福大久直飯田柳山甘八筑大行豊中小筑春大宗太郡筑那粕宇篠志須新古久粕宗福津玄大遠芦水岡遠鞍小鞍宮若嘉桂稲碓嘉筑穂庄頴朝杷朝三夜小宝糸前二志注 面積 市制施行日 (km2) 1963 ・ 2 ・ 10 480.61 1889 ・ 4 ・ 1 336.82 1917 ・ 3 ・ 1 80 . 55 1889 ・ 4 ・ 1 123.93 61.63 1931 ・ 1 ・ 1 1932 ・ 1 ・ 20 72 . 34 54 . 44 1943 ・ 11 ・ 3 37 . 96 1952 ・ 4 ・ 1 1954 ・ 4 ・ 1 21.75 1954 ・ 4 ・ 1 166.71 1954 ・ 4 ・ 1 39 . 20 1954 ・ 4 ・ 1 42 . 37 1954 ・ 4 ・ 1 33 . 49 1954 ・ 10 ・ 10 68 . 65 1955 ・ 4 ・ 10 110.05 1958 ・ 11 ・ 1 15 . 73 1972 ・ 4 ・ 1 46 . 02 1972 ・ 4 ・ 1 87 . 50 1972 ・ 4 ・ 1 14 . 26 1972 ・ 4 ・ 1 26 . 94 1981 ・ 4 ・ 1 76 . 65 1982 ・ 4 ・ 1 29 . 45 地図面積人口増減率 索引 ~ っ・ 0 っワ】ワ 0 ワ 1 ・・ 0 -4 行 / -4 LO 00 0 8 ・ 4 4 -4 LO 密 8 【 0 8 1 人「ー 00 4 11 行ー 00 8 -4 0 【 / ワ】ワ 8 行ー【 0 0 ロー八 1 ・ 4 行ー 0 、 1 0 1 ・っ朝 0 0 -4 9 、ワ 1- ーワ】【 0 ー 1 よ 1 1 0 ′っ 0 11 11 、 1 一 1 11 1 (km2) (km2) ( 人 ) 74 .17 30 869 0 - -0 ワ 0 ワ】 ーワ】 8 、 1 ワ」 1 人 -. 0 -8 8 4 0 8 1 0 1 ・月廾 / はー 4 ・月廾・な・・れ月廾 20 . 29 14 424 22 . 66 13 576 つ」 CO 「 / 00 ーー ワ】 1 人 -4 ・ 4 -4 1 人、 1 11 行 / 0 っ 一 -0 0 -8 行 / 8 LO 1 1 1 L-n 4 ・ 4 ・ 4 ・ 0 ) つ」 4 ・つ乙っ O 「 / っ 0 ▽▽▽▽▽ 0 -0 4 ・ 0 -4 -4 -4 -8 00 ワワ】ゥー 4 ー / -. 0 -4 t-—ワ -4 11 1 - -0 0 -4 8 00 -4 ー -. 0 -8 《 0 -8 11 1 よ - -0 8 っ 0 8 8 1 ー O っム 1 ー ▽▽▽ 8 っ 0 ・ 4 -. 0 11 ー っ・】 1 人 1 人 LO ^ 0 11 11 4 つん 8 ワ】 ^. 0 00 ワ】 1 ワ 4 ・月 4 ・月 O U CD っしま O O O O Q O ( し O O ( し 177
ふらんす 雇用者数による企業の規模別分類 ( 1983 年 1 月 ) 就業人口の業種別構成 雇用者数 第 1 次第 2 次第 3 次 年産業産業産業業種 43.0 製造業 ( 内訳 ) 農産加工・食品 エネルキ、一 49 . 7 中間財 50 . 6 資本財 51 . 9 消費財 53 . 0 53 . 9 計 54 . 9 55 . 7 56 . 4 57 . 3 58 . 3 59 . 2 60.1 ③ノルマンディー地方産業革命の発祥地であム ) 、ゴンフルビル Gonfreville ( 石油精製の た、採掘量でフランス最大を誇る炭田がアンザであり、ロンウィ Longwy 、エアンジュ Hay- 臨海基地 ) などである。また、ルーアンより上 るが、その担い手となった独立自営の家族的小 ン Anzin からパ・ド・カレー地方に広がって ange 、ティオンビル、オメクール Homécourt メス、ポンタ・ムーソン Pont-å-Mousson 、ナ経営が、中小零細企業として根強く生き残って流には毛織物の工業都市エル・フーフ Elbeuf おり、フランス石炭公社の有力な炭鉱やコーク いる。この特徴は、とくに金物と綿布の生産でとルービエ Louviers がある。ノルマンディ ンシーなど多数の著名な鉄鋼都市がド・バン ス工場、火力発電所が展開しているほか、バラ ーの西部では、カーンを中心に、鉄鋼、機械、 ンシェンヌ、ドウ工、ダンケルクなどに大規模デル社やシデロール社、ユジノール社系の大型みられる。工業地帯形成の起点になったのは、 な製鉄所が立地し、それをめぐって大小さまざ銑鋼一貫工場を中核にして形成されている。しフランスのランカシャーといわれ綿織物工業で家電器具の生産が行われている。 ④パリ地域パリは商業・金融の中心であるほ まの鉄加工業 ( 車両、造船、鋼管、製缶、機械かし、北フランスと異なり、鉄加工業の発達は富を築いたルーアンであり、ここからセーヌ川 みられない。アルザス地方では、ミュルーズがの河口にある工業港ル・アー。フルへかけて各種か、人口集中による豊富な労働力の集積があ など ) が発達している。 り、最新技術の研究・開発機関も多いので、冶 リールートウールコアンやルーアンと並んで綿の工業都市が連なっている。ャンビル Yainvil ・ ②東部フランスロレーヌはフランス第一の鉄 きん 鋼生産地 ( 銑鉄と鉄鋼の六〇 ~ 七〇 % を生産 ) 織物工業三大中心地の一つであり、とくに高級 le ( 火力発電と化学製品 ) 、グラン・クビリ Le 金・製鉄業を除き、すべての工業生産がパリと 捺染綿布の生産が著名である。ま G 「 and-Quevilly ( 造船 ) 、デュクレール Duc- 周辺の郊外地に立地している。製造業の就業人 数 -0- 《 0 - 血 - ー / / -8 一 -0 戸 0 00 ワ】月阡 ロは全体の二二 % をこの地域で占めており、フ た、ベルフォールとモンべリアルで lair ( 金物、ポルト、銅加工 ) 、ル・トレ Le ′ 0 4 っ / -0 ー t— 0 「 / 8 戸 0 ワ」 0 ・ ) ランス第一の工業地帯である。もっとも重要な ホール・ジェローム Port- Trait ( 造船 ) 、。、 は機械工業の展開を踏まえてプジョ 企合 6 、 1 00 っ 0 (. 0 1 人 シトロエン ) 、 Jéröme ( 石油精製、プラスチック、合成ゴ産業部門は、自動車 ( ルノー ー社が自動車を生産している。 ワ」 00 0 門 0 t—ワ朝 - -0 0 -8 ー 8 -4- 0- ・ ) 航空機 ( スネクマ ) 、および、電気 4 ワ -8 一 / 4- t-— 0 -8- -4 ・ 1 人 -4 1 ー 上 ワ】 00 っ 0 ( 0 00 11 ワ」 ワ」 ( 0 -0- 《 0 戸 0 -. 0 ー -0 0 こ 11 0 ・ ) っ 0 -4 っ 00 ワワ、 1 《 0 る ュ 1 門 0 ワ」 0 -4 0 【 0 ワ】 0 《 0 0- ・ ) 機械、電子機器、カメラ、工作機 年 11 1 よ 1 亠 -0 -8 ワ 0 ワ】《 0 ワ」 -4 ・戸 0 4 ー・ 11 、ー画 L-n つん 械、工具類などである。これらの生 年 ン 産工場は、大部分がパリを取り巻く 一フワ」戸 0 -0- t-•— -0- -. 0 -4 ・ - け - っ 0 8 衛星都市に立地しており、新たな人 戸 0 ワ 00 戸 0 -0- 《 0 《 0 ・ー・ (. 0 1 よイ 3 ・つ 0 一日っ 0 ワ 3 1 よっ 荷 2 年 ロ集中をもたらしている。たとえ 出 ば、パリ北部のサン・ドニ、オーベ の ス 菜ど ン 産 ルビリエ AuberviIIiers 、サントア 野な花 ラ 生 コウ フ ン Saint ・ Ouen 、アニエール Asni ・ 業物物・ 、ド木畜禽乳計 éres 、南西部のビャンクール ( プ 穀果タブ苗家家牛総注 農 ローニュ・ビャンクール ) 、イシー ワ】 8 尸 0 ワ】戸 0 《 .0 -4 00 、 1 つ」 ・ 4- っー -9 」 -8 《 .0 《 0 -4 ・つ 0 っ 1 よ《 0 1 ー lssy ・ les ・ Moulineaux 、南東部のイ 0 っ 1 よ -4 ・尸 0 ワ】 1 よ 1 人一 1 ー画 lvry-sur ・ Seine など。ルノ ーエ場はビャンクールにあり、従業 0 00 1 画 (. 0 -0- ワ】、 1 1 人 11 0- ) / ワ《 0 0 -8 -4 ワ】 -4 ・ワ」 -0 ・ ( 0 者数三万八〇〇〇人を擁する巨大企 00 -4 ・・ 4 ・ -8 14 っ 0 0- - -0 0 11 ・ 4 ・ 0 ) っ 0 つひ《 0 0- ) -4 ・ 11 業であるが、工具類などは五人前後 り朝 -0 4 ・ 0 ワ 0 戸 0 -8 、 1 C) -8 一 0 ワ」 -4 ・戸 0 《 0 -8 11 L-O L-(¯) の小企業であることが多い。化学製 -8 -4- 11 -0 《 0 0 ) -8 っ 0 L-O マ / -8 、ー・ 0 00 -4 ・つ 0 っ 0 00 ワ】 4 ー・ 品と医薬品の生産もフランス第一位 ワ」、 1 -4 ・ 0 ) 14 であり、化学工業では大企業のロー ヌ・プーランク社が南東部のビトリ -8 00 LO 0 0 ) -4 ワ】ーフー (X) / っ 0 1 ム尸 0 1 人・ 1 8 ワっ」 0 ・ ) 門 0 1 ー・、 1 、 1 00 ワ」 Vitry-sur ・ Seine に進出してし 1 人、ー人 る。また、伝統的産業では、生地加 -8 11 ーーっーワ ( 0 -8 ワ CÜ 11 -8 11 -0 0- っ -. 0 -0- -0- 「 / -0- / っ 1 / - -0 0 尸 0 0 8 フー 工、縫製、食品、印刷などが、ハリ ワ -0 1 ー・ / -. 0 0 11 - -0 -8 1 11 《 0 【 / 8 1 よ 1 よ、ー - / 0 ・ ) CO CO 尸 0 引る市内や周辺部で盛んである。 ワ 0 - -0 8 ワ -8 -0 1 画 -0 -4 ・ -8 フーに ⑤ローヌーアルプ地方リョン、サ 年 ンテティエンヌ、グルノー・フルの三 年 「 / 0 ) 《 0 LO CO 「ー 11 ワ 1 よ 4- 内は・ 8 っ 0 9 都市を拠点にする工業地帯である。 一九世紀のなかばごろから、リョン の絹織物とサンテティエンヌの石 ロⅢ原 具 統 材器品両 食資品 炭・鉄鋼とが二大推進力になり、各 ス 一工機気部車 ン 種の関連産業を急速に発展させた。 物工ギ源加品備電・係 産加ル資・製設用車関財他フ 現在、絹織物業は主要な生産地をリ 水産ネ物属学産庭動運費の計 農農工鉱金化生家自陸消そ総注 ョン地域から低ドフィーネや南ジュ 0 1 0 ー 49 4 425 1 334 24 347 39 155 114 250 1 753 2 928 3 361 9 641 21 399 20 159 6 496 2 750 19 554 18 602 13 383 4 713 42 896 68 945 34 195 12 272 135 998 123 740 土木・建築業 182 180 159 729 3 549 22 211 ・卸売業 382 649 253 582 29 700 4 564 運輸・通信業 55 334 23 929 6 336 1 672 サーピス業 555 302 372 061 34 004 6 924 レンタル・リース業 138 251 5 550 852 382 保険業 1 006 974 301 207 4 423 金融機関 3 480 866 402 1 455 143 943 045 1 28 465 29 972 合計 注 . * 企業所有者の個人直接経営 P. Burns & J. Dewhurst, eds. , " S 〃襯″召わ尾 E ″川ル ' : London ( 1986 年 ) による 経営規模別による農家戸数と農用地の分布 ( % ) 1975 年 1980 1983 経営規模 農家戸数農用地農家戸数農用地農家戸数農用地 5ha 20 . 6 19 . 6 20 . 5 5 ~ 10ha 14 . 5 13 . 6 15 . 3 10 ~ 20ha 20 . 5 11 . 2 13 . 6 21 . 1 22 . 7 31 . 8 37 . 1 20 ~ 50ha 38 . 1 30 . 4 29 . 8 50ha 以上 14 . 5 46 . 1 41 . 6 13 . 4 11 . 7 1 061 農家戸数総計 ( 千戸 ) 1 209 1 1 35 農用地総計 ( 千 ha ) 29 426 注 : 「フランス統計年鑑」 ( 1986 年 ) による 輸出入の推移 ( 単位 : 百万フラン ) 輸入 1972 38 . 8 1973 38 . 9 1974 38 . 7 1975 37 . 9 1976 37 . 3 1 977 36 . 6 1978 35 . 9 1979 35 . 3 1980 35 . 0 1981 34 . 2 1982 33 . 6 1 983 32 . 8 1984 32 . 0 注 : 「 ILO 労働統計年鑑」による っ -4 ワ 8 - -0 っ / -4 ・つん 0 ワ】、 1 0 -0 8 -8 -8 8 -8 行ー 1 ー 4 、ー - 1 ー 4 11 し 12 . 3 38 . 0 43 . 3 29 205 28 845 輸出入合計 輸出 1980 1977 9 474 1 800 ー 64 636 4 626 2 932 272 17 592 3 687 14 195 8 188 1 135 1 653 ー 34 657 2 935 8 741 ー 132 900 5 938 1 499 770 10 306 5 561 14 656 13 346 6 595 2 197 ー 101 084 583
われて、同盟員の動揺は強まった。小林多喜やもすれば文化遺産の継承を否定する傾向をみ教会史研究者、ロシア文化史研究者。八月二八 吊り鉢かプランター植えにして観賞するとよ けんじ ようえき 二、宮本顕治は地下に潜って運動を指導し、右せた。二〇年ごろからレーニンと党からの批判 日 ( ロシア暦 ) オデッサの司祭の子として生ま 花期は夏から秋と長く、各枝の葉腋ごとに 翼的傾向の克服に努めたが、三三年二月、小林を受けたことにより活動は下火になり、三二年れる。オデッサの大学の文科を卒業し大学講師多くの花を開く。花冠は淡紫色で下面は淡紫 が捕らえられて殺されるに及んで、動揺はいっ に終自 5 した。 〈中本信幸〉となるが、一九二〇年に亡命したのち、プラハ 色、径四 ~ 五弩。青、白色花の品種もある。繁 みしよう はしゅ そう強まり、その後、宮本も検挙されて、三四フローレンス Florence イタリア中部のでゲルツェンの歴史哲学に関する学位論文を提殖は実生により、四月上旬 ~ 中旬に播種し、フ 年二月、作家同盟はついに解散した。その後、都市フィレンツェの英語名。↓フィレンツェ 出。彼の世界観は思弁哲学ではなく、伝統的な レームで育苗する。温室栽培の場合は、二月播 旧同盟員たちは、解散前後から刊行され始めたフロレーンスキー AJ1erccaHApo- 神学にのっとっていた。一一六年。ハリの神学大学きで六月に開花する。排水がよく、腐植質に富 『文学評論』『文化集団』、さらには『文学界』、 1ü/Pavel Aleksandrovich の教父学担当教授となり、教父に関する二冊のむ用土を好み、種子は小粒なので、厚播きにな じゅばく 〈山口美智子〉 などの同人雑誌によって、政治主義の呪縛から Florenskiy ( 天公一 らないように注意する。 ー一九四三 ) ロシア・ソ連の本と主著『ロシア神学の道』、ミ、 c きざ 解放された文学の創造を目ざし、「文芸復興」宗教思想家。その論及した対象は、神学、哲 50 ~ 0 ロ 06 \ p ミ一き s 0 & 3 戔 ( 一九フロン flon 塩化フッ化炭化水素の総称。 かぎ の旗を掲げたりしたが、結局、戦争の波に飲み学、数学、物理学、文学、言語学、美学、歴史三七 ) を刊行。哲学と神学の相互関係を解く鍵は商品名としては、フレオン ( アメリカ・デュポ 込まれていった。戦後の民主主義文学連動は、 学、技術など文化全般にわたる。一九〇四年モ東方の教父のなかにみいだされるとして、ソロ ン社 ) 、ダイフロン ( ダイキン工業 ) などが知 この運動を受け継ぎ、発展させることを目ざしスクワ大学物理・数学部卒業後、モスクワ神学ビョフや。フルガーコフの説を退けた。四八年一一られる。フロンとフロンは電気冷蔵庫、ル たものである。↓戦旗↓文芸戦線↓民主主義大学に入学。〇八 ~ 一七年、神学大学で神学と哲ューヨークの神学校教授となり、のちハヾ ームクーラー、フロン出は大容量冷房の冷媒に 文学 〈伊豆利彦〉学史を講じた。一一年聖職者の資格を得る。革ド 大学などの教壇に立つ。七九年八月一一日プ用いられる。クロロホルム、四塩化炭素、六塩 回『日本プロレタリア文学大系』全八巻 ( 一九 命後は、科学者としてソ連国内の電化を中心的 リンストンにて死去。終始一貫して世界教会運化エタンなどをハロゲン化アンチモンなどの触 六九・三一書房 ) ▽『日本プロレタリア文学 に推進したり、『技術百科事典』を編集したり動 ( エキュメニカル連動 ) に積極的に参加。ロ媒でフッ化水素と反応させてつくる。 十 2HF 集』全二〇巻 ( 一九会 ~ 会・新日本出版社 ) したが、三三年に逮捕されて一〇年の流刑に処シア精神史を描いた前記の『道』は、革命前の CHC13 ロロ、、ト ▽山田清三郎著『プロレタリア文学史』上下せられ、四三年に極北の収容所で死亡した。主ロシアの宗教思想などの注目すべき分析を行 ー - ・ー↓ CHClF2 + 2HCl ( 一九五四・理論社 ) ▽飛鳥井雅道著『日本プロ著は『真理の柱石と証明』 ( 一九一四 ) 。ソロビョフ 、広範な文献紹介とともに、彼の学識と洞察 SbF3 + SbC15 7 ロ、 22 〈大竹由利子〉 レタリア文学史論』 ( 一九全・八木書店 ) ▽鹿を発展させ、ギリシア正教に基づく「具象的な力を示す不朽の大著である。 化学的に安定で、金属を腐食せず、無色無 けいじじよう 地亘著『自伝的な文学史』 ( 一九五九・三一書房 ) 形而上学」の構築を目ざした。 〈安井亮平〉フロワリア B きミミ s を c き Hook. 臭、不爆発、不燃性で毒性が低いため、噴霧 ▽平野謙著『文学運動の流れのなかから』フロロ BuIoIo 。ハプア・ニューギニア、ニナス科。コロンビア原産の半低木であるが、園剤、消化剤、溶媒、液体無水硫酸の希釈剤、ウ ( 一九六九・筑摩書房 ) ▽栗原幸夫著『プロレタ ューギニア島東部の都市。ラエから道路で一二 芸上は一年草として取り扱う。株は基部から分レタンフォームの発泡剤などに用いられ、フッ リア文学とその時代』 ( 一九七一・平凡社 ) ▽小 〇キ。南にある。人口六七三〇 ( 一九ハ 0 ) 。一九一一枝し、成長するにつれて倒れやすくなるので、素樹脂の原料にもなる。↓冷媒 田切秀雄著『現代文学史下』 ( 一九七五・集英〇年代から四〇年代にかけて、重要な金鉱町で なお、使用後大気中に 社 ) ▽岡沢秀虎著『ソヴェート文学概論』あった。現在は林業都市で、かっての金鉱会社 点 放出されると、化学的に ( しつ 0 -0- ( 一九四七・東京堂 ) ▽佐伯彰一著『アメリカ文も林業に進出している。製材・合板工場や林業 安定なため成層圏にまで 〈谷内達〉 学史』 ( 一九六九・筑摩書房 ) ▽福原麟太郎・西専門学校がある。 達し、紫外線によって塩 素原子に分解され、これ 川正身監修『英米文学史講座Ⅱ二十世紀プロローグ prologue 「序詞」「序幕」 Ⅱ』 ( 一九六一・研究社出版 ) ▽鈴木カ衛著『フ 「前口上」などと訳される。劇の開幕に先だっ がオゾン層を破壊すると ランス文学史』 ( 一九七一・明治書院 ) ▽大久保て口上役が登場して、当時の政治や社会への批 いわれ、一九八七年にそ 典夫著『物語現代文学史 1920 年代』 ( 一九評を絡ませたりしながら劇の大筋を説明する場 の生産・消費量を規制す 会・創林社 ) 合と、短い一場面を設けて、これから始まる劇 る「モントリオール議定 ぶんかだい の内容を暗一小する場合の二つの形がある。紀元 書」が採択され、段階的 プロレタリア文化大革命 ふんかだいかくめい かくめい 0 文化大革命 前四世紀のエウリピデスに始まるとされるが、 削減が決定した ( 現在の 一般化するのはルネサンス期で、エリザベス朝 。フロレトクリト flPOJ1eTKYJ1bT/Prolet- 年間約八〇万トンの生産・ 本′いも、つ kul't ソ連初期のプロレタリア文化の啓蒙団時代はコーラスの名でよばれた。とくに王政復 消費量を一〇年後には半 体およびその機関誌『プロレタリア文化』の略古期から一八世紀にかけてヨーロッパ各国の演 減しようとするもの ) 。 称。一九一七年九月、・ポグダーノフらによ 劇で盛んに用いられた。また、オペラ、バレ ↓オゾン層〈加治有恒〉 って結成され、一七 ~ 二〇年当時、約四〇万人工、音楽の独立した序の部分や、詩、小説の冒 のれオン四衛撮 の会員を擁した。理論機関誌『プロレタリア文頭部分をもさし、物事の始まりや発端を示す一 層現「ゾ工 化』 ( 一九天 ンらはオ。人よ成 ~ 一一四 ) を中心に『炉』『創造せよ ! 』般用語としても使用される。エピローグの対の ゾか分です , 号合 ( いずれもモスクワ ) 、『末来』 ( ベトログラー 用語。↓工。ヒローグ 〈高師昭南〉 オ年部」示月 7 を 11 ワ」ワ】 11 の田の穴をスの ん 11 1 人ワ 3 ド ) など約二〇の機関誌を出した。党と国家に フロローフスキー reoprldli BaCHJ1be- ン 空四クの壞のバも ン 名ンンン ン上。ン層破年ンた っ直接的に統制されない組織を全国にもち、労働 (bJ10POBCKH1i/Geo 「 giy vasil'evich ロ用ロロロロ ロ極化ビンのニし フ南変たゾ層 ~ 星影 ー一九七九 ) 長司祭、神学者、フ慣フフフフ 、ふ者以外の文化運動に対しては排他的であり、や F 一 0 「 ov 一 y ( 一〈〈 = 化学名 化学式 トリクロロフルオロメタン C C13F ジクロロジフルオロメタン CC12F2 クロロジフルオロメタン CHClF2 1 , 1 , 2 ートリクロロー 1 , 2 , CC12F ・ CCIF2 2 ートリフルオロエタン 点 一 0 囹 ー 111 ー 158 ー 160 ー 35 5 っ 198 198 1986 198 789
ぶつきよ ど ( らく かんのんかく ⑨独楽寺観音閣 ( 内部 ) 984 年間ロ 20.23 m , 高 22.5m の正殿で , 堂 内には遼代初期の観音 立像が安置される。 中国天津市薊県 かんの / 、 ( ⑩ ) ⑦寺四門塔 611 年中国現存最 ①アジャンタ石窟第 1 窟 ( ビハーラ窟 ) グプタ朝の造営で , 説話画 , 尊像画 , 装飾画が窟内の壁面 , 天井 , 柱をうずめつくしている。インドマハラシュトラ州 古の石塔で , 塔身は正方形 , 四面に入口 ②アジャンタ石窟第 26 窟 ( チャイトヤ窟 ) 馬蹄形の平面で , 内部は広大で天井 がある。全高 15m 中国山東省歴城県 せつはういん な人せ / 、 まぐら も高い。列柱も堂々とし , 奥に説法印を結ぶ本尊を浮彫りしたストゥーバが安 ⑧南褝寺大殿 782 年間ロ 11 . 62 m , 置されるインドマハラシュトラ州 奥行 9.67 m , 入母屋造の小建築。現存 くばら へいとう ③スワャンブナート寺の大塔。覆鉢の直径 18m , 高約 9m の仏塔で , 平頭の四 する中国最古の木造建築。 1974 年に復 面に大きな目を描く。アショカ王建立の伝説もある。ネパールカトマンズ 原工事がなされた。中国山西省五台県 ④トウバラマ大塔。 B. C. 3 世紀の建立といわれ , 覆鉢の基底径 17.7m , 高 19m ごくらくでん ⑩鳳唇寺極楽殿 13 世紀朝鮮木造建 の仏塔。周辺の石柱群は , 木造の大円蓋の支柱をなしたものと思われる。スリ 築の最古の遺構。 8 世紀後半ころの唐 ランカアヌラダブーラ ⑤アーナンダ寺 11 世紀バガン朝のチャンジッタ王が建立。舎は四方中央 様式を色濃く残している。韓国慶尚 こうはい に向拝を突出させたギリシア十字形で , 塔高が 52.4 m ある調和のとれた美しい 北道安東郡西後面 ⑩開心寺大羅殿 1484 年比較的狭い 建築。ビルマバガン きりづま ⑥ワート・チェッョット 1 3 世紀末インドのポードガャー ( ブッダガヤ ) のマ 敷地に建てられた , 単層で切妻屋根を ハボディー寺に倣った建物。外壁の周囲には , スタッコ ( 化粧しつくい ) の仏 もっ李朝初期の本殿。韓国忠清南道 坐篠や復天女の立像が並ぶ。タイチェンマイ 瑞山郡雲山面 376
アを風刺、一脈の文学性をみせた。今日でも上 った。とくにハミルトンの財政・金融政策は新し、一、二回戦敗者によるコンソレーションマ 念はあいまいとなった。また、死霊や精霊など かず一 ッチでは沢松和子の活躍で六回優勝している。演される。一方、劇場支配人も務め、だて男と 人格的な存在と結び付けて崇拝するのを霊物崇国家の基礎を確立したものとして有名。フェデ しても有名だったが、最後は狂死。〈岩瀬孝〉 拝、非人格的な力のために崇拝されるのを呪物ラリストは、第二代大統領としてジョン・アダ個人成績としては、シングルスでエバート・ロ ムズを当選させたが、その後リバ。フリカン ( 反イド ( アメリカ ) の二九勝無敗、ダブルスで回岩瀬孝訳『坊やに下剤を』 ( 『現代世界戯曲全 崇拝として区別される場合もあるが、通常はこ 集七』所収・一九一四・白水社 ) 八一六年の大統領選・キング ( アメリカ ) の二七勝無敗、最多勝 の両者を含めて呪物崇拝あるいはフェティシズ連邦派の自称 ) に敗れ、一 ムとよんでいる。ハッドンは、呪物をその本質挙に候補者を立てたのを最後に消滅した。のち数ではウェード ( イギリス ) のシングルス三六フェード・アウト fade out もともと に同党の支持層は全国共和党 National Repub- 勝、ダブルス三〇勝が頂点となっている。大会は映像や音響がしだいに消えうせていくことを 的特質からさまざまに分類し、呪物はそれが表 いうが、それから転じて、発展途上国に直接投 現する物に似せてかたどることがないのに対 lican と合流してホイッグ党 Whig Party を参加回数としてはウェードの一七回が最多であ る。会場地は各国持ち回りで、ドイツ開催が四資をした企業が、保有株式を漸進的、段階的に し、偶像は神の象徴であってさらに神の容器で結成し、これが現在の共和党 Republican Par ・ 〈島川雅史〉回で最多、日本は、八一年に東京の多摩川園一フ現地に移し、経営支配権を譲渡することを意味 ty の源流となった。 はないと判断して、フェティシズムと偶像崇拝 とよた する。先進国企業の途上国への直接投資は、資 とを区別した。しかしフェティシズムを厳密に回藤本一美著『アメリカ近代政党の形成』 ( 一九ケットクラ。フ、八五年に豊田市の名古屋グリ 〈三町正治〉金提供、技術移転、雇用創出などに役だっメリ ンテニスクラ。フで開催された。 全・御茶の水書房 ) ▽ハミルトン、ジェイ、 他の宗教上の概念 ( 自然崇拝、祖先崇拝、トー ットもあるが、一方、利潤の本国送金などをめ テミズム、偶像崇拝など ) と区別するのは困難 マデイソン著、斉藤真訳『ザ・フェデラリスフェート A(baHacHÜ1 A(baHacbeBHq (t)eT ぐって途上国の経済ナショナリズムと対立しゃ ト』 ( 『世界の名著』所収・一九七 0 ・中央公論 であり、このことからフェティシズムの用語は (LLIeHLIJHH)/Afanasiy Afanas'evich Fet 社 ) (Shenshin) ( 天一一 0 ー九一 D ロシアの詩人。地すい。そこで経済ナショナリズムが急激な国有 濫用ぎみに使用されるようになった。また、宗 イに結び付かないよう、あらかじめ進出企業と 教研究に物質的な面より信仰体系や儀礼の側面フェデリーコ ( 二世 ) Federico = ( 一一主貴族シェンシンが国外から連れてきた、ドイ 操業開始後ある一 ツ人官吏 ( 実父 ) の妻を母にシェンシンの領地現地側との利害調整を行い、 に重点が置かれるようになったこともあり、現九四ー一 = 吾 ) シチリア王、神聖ローマ皇帝。ド 在ではフェティシズムの概念は宗教学上、人類ィッ人皇帝ハインリヒ六世とシチリアのノルマで生まれた。一四歳で出生の秘密を知り、貴族定期間内 ( 普通一五 ~ 二〇年 ) に段階的に出資 の特権とシェンシン姓を奪われる。以来それを比率を引き下げて現地側に経営を移譲するが、 ン王朝の王女コスタンツアとの間に生まれる。 学上ではあまり使用されていない。 父の死後、幼くしてシチリア王位を継承し ( 一一回復するために、軍務、領地経営、侍従職の打この期間内では進出企業は完全あるいは過半数 以上の宗教学上の概念から発展し、マルクス 所有を認められ、利潤の本国送金もできるとい 経済学では「物神崇拝」あるいは「物神性」と九 0 、さらにドイツ王即位 (llllll) を経て一二算と虚栄に明け暮れる生の散文が営まれたが、 二〇年に帝冠を受ける。教皇に対抗して帝権の詩的世界は忌まわしい現実 ( ほかに母方の精神うものである。しかし、フェード・アウト規制 訳して経済学上の特定の意味に使用する場合が は多国籍企業の長期的な海外経営戦略とかなら ある。これは、貨幣や資本が人間の労働による拡大を図るために、シチリア王国内の中央集権病の形質に詩人はおびえた ) とは、およそかけ 化を強力に推し進め、絶対君主の先駆ともみな離れたところに成立した。詩才の開花は一八五すしも両立しないため、この条項をもっ途上国 価値を通じてではなく、それ自体に固有な神秘 へ直接投資をするのをためらうという事態もお される。また文化政策の面でも、学芸を積極的〇年代なかばからで、六〇年代には文壇主流の 的な力をもっと考えられて崇拝されることを示 〈秋山憲治〉 こっている。↓直接投資 社会学的文学に論争を挑み、純粋美を主張し に奨励して、パレルモの王宮を中心に宮廷文化 し、これが宗教学上のフェティシズムとの類似 た。フェートの詩の特徴は、つかのまの感覚、フェドチェンコ氷河ーーひょうが から使用されるに至っている。〈豊田由貴夫〉の育成に努めた。なかでも、イタリアの俗語に ほそく qeHKO J1eJLHHK/Fedchenko lednik ソ連、 回古野清人著『原始宗教の構造と機能』 ( 一九よる恋愛詩を開拓したいわゆるシチリア派詩人とらえがたい感情の捕捉に心を砕き、ことばに タジク共和国、パミール高原北東部にある世界 よって表せぬものを詩行の響きとリズムによっ たちの活動は重要であり、皇帝もその一員とし 七一・有隣堂 ) ▽吉田禎吾著『呪術』 ( 講談社 最大の谷氷河。面積一三五〇平方キロ。全長約七 て作品を残している。↓シチリア派〈林和宏〉て伝えようとするところにあり、シンポリズム 現代新書 ) に通ずる。代表作である一連の詩集『タベの七キ。。探検家フェドチェンコを記念して命名さ フェデラリスト Federalists アメリカフェデレーションカツ。フ Federation 三 ~ 九 l) にはショーベンハウアーの影れた。レポリュチャ峰 ( 六九七四 ) の北面に発 合衆国憲法草案の賛成者たちの自称。連邦派と Cup 一九六三年、国際テニス連盟創立五〇周灯』 ( 一公 〈島田陽〉し、西側に連なるアカデミア山脈やコムニズム もいう。独立革命後の新国家体制を規定した憲年を記念して創設された女子テ一一ス国別対抗戦響もうかがわれる。 峰 ( 七四九吾しなどから多くの支流をあわせなが フェードー Georges Feydeau ( 天六一一ー 法草案に対して、賛成者と、主権をもっ諸邦ので、デビスカップとともに同連盟が主催する二 連合を主張した反対者との間で論争がおこり、大行事の一つ。試合方法は二シングルス、一ダ一九一一一 ) フランスの喜劇作家。小説家エルネスら北流する。末端高度は約二九〇〇で、アム Ⅱに注ぐ。標高四二〇 ト・フェードー Ernest Feydeau ( 天一二ー七三 ) ダリヤ水系のムク・スー 憲法は一三邦中九邦の批准で発効することになプルスからなる三ポイント制で、トーナメント 。。ハリに生まれる。演劇に熱中し学業を〇の氷河上に気象観測所がある。〈小野有五〉 によって優勝を決定する。デビスカップとの違の息子 っていたため、各邦の批准会議で賛成者のフェ いは、世界各地から選ばれた三二か国が一つの中断。『貴婦人向け仕立屋』 T ミドミ、をミ、フェドートフ「 eop 「一、三 [leTPOBHq ・ デラリストと反対者の反連邦派との間で激論が AOTOB/Georgiy Petrovich Fed0tov ( 天 会場に集まり、一週間の会期をもって同時にプ dames ( 一七 ) で劇壇に進出。『ル・ダンドン』 交わされた。賛成者側はハミルトン、ジェイ、 ー一九五一 ) ロシアの思想家、宗教史家。サラ Le Dindon ( 天九六 ) 、『マキシムの貴婦人』 ( 天 レーすることである。第一回の大会はロンドン マデイソン共著『ザ・フェデラリスト』の刊行 トフ市の高級官僚の家庭に生まれる。ペテル。フ で行われ、二対一でアメリカがオーストラリア究。邦訳『クルべット天から舞いおりる』 ) な などによる宣伝に努め、憲法は発効し ( 一大 0 、 どの世界的成功で喜劇王といわれた。機械仕掛ルグの工芸専門学校に在学中、社会民主党の活 二代にわたってフェデラリスト中心の政権が続を破り優勝した。以後八七年 ( 二五回大会 ) ま いた。フェデラリストは、ワシントン政権の財での優勝回数は、アメリカの七連勝を含む一三けに例えられるほど計算されたせりふの案配と動に参加、のち歴史研究に向かい、ペテル。フル ~ 一 0 ) 、キリ と務長官ハミルトンなどを指導者とし主として商回、オーストラリア七回、チェコスロパキア四人物の出入りを、奇抜な着想 ( 『マキシムの貴グ大学で中世宗教史を学び ( 一九只 と工業的利益を代表し、反連邦派は、同じく国務回、南アフリカ一回となっている。日本の参加婦人』の麻酔椅子など ) でもつれさせ、爆笑をスト教に接近。革命後。へトログラードで非合法 は六四年 ( 昭和三九 ) から ( 途中六六 ~ 六九年招く技巧にたけている。後年『坊やに下剤を』の正教サークルを組織。一九二五年パリに亡 , ん長官ジェフアソンを中心に農業的利益を代表し 命、正教神学校で教えるかたわら宗教関係の雑 9 、かて相争い、この二派がアメリカ最初の政党とな不参加 ) で、二回戦止まりとな 0 ている。しか ( 一〈一 0 ) の代表する一連の一幕ものでブルジョ
ぶるせら 形成に不可欠なものであった。 郎・平井啓之訳『プルーストを求めて』 ( 一九 〈肱岡義人〉サロンに出入りして、社交生活が始まる。一年ント・プー。フに反駁する』没後一九五四刊 ) 。健康 間の志願兵役ののち、九〇年にパリ大学法学部 が悪化するなかで、〇九年秋、幾度かの試行錯 七一一・筑摩書房 ) ▽ペインター著、岩崎カ訳 。フルースト MarceI proust ( 天七一 きようえん 『マルセル・プルースト イ言』 ( 一九七一・筑 二 ) フランスの小説家。二〇世紀フランス文に入学。ふたたび同人誌『饗宴』 Le きミミ、誤を経て、ついに『失われた時を求めて』に着 摩書房 ) ▽井上究一郎・鈴木道彦・岩崎 学を代表する作家の一人で、一九世紀のバルザ ( 一翁一 ~ 九三 ) を発行するかたわら、象徴派の文手。翌年、騒音や外気を遮断するために部屋を ックに比すべき存在。彼を無視して二〇世紀の芸雑誌『ラ・ルビュ・・フランシュ』などにも作品 コルク張りにして小説に全力を注ぐ。一三年、 カ・保苅瑞穂他訳『プルースト全集』一七 月 = = 。語れないといわれるくらい後代への影響を発表。その大部分は処女作『楽しみと日々』出版社を求めて奔走するが、すべて徒労に終わ 巻・別巻一 ( 一九会 ~ ・筑摩書房 ) が大きく、カフカやジョイスらとともに現代文 ( 天九六 ) に収録された。この作品集はプルースる。やむなく第一巻『スワン家のほうへ』をグフ ルー・ストッキンク bluestocking 一いレっ 学の偉大な先駆者となった。 トの天分と後の大作のテーマを芽的に含んでラッセ書店から自費出版した。しかし第一次世青鞜。知的で文学趣味のある女性。一七五〇年 〔人と作品〕一八七一年七月一〇日、母がパ 。したが、世の注目をひくに至らなかった。 ごろモンタギュー夫人を中心とするロンドンの 界大戦のために続巻の刊行は一八年まで中断さ ・コミューンの動乱を避けて避難していたバ やがて彼は当時の社交界に君臨する貴族たれた。この間に小説は加筆訂正されて、全三巻社交夫人たちが遊興的な集いを知的なものにし リ郊外のオートウィュ ( 現在パリ一六区 ) の叔ち、とりわけロべール・ド・モンテスキウ伯爵の予定が全七編一五巻に膨れ上がった。一九年ようと意図し、講師の一人スティリングフリ 父の家で生まれる。父アドリアン・プルースト トが黒色のかわりに青色のストッキングをはい に『花咲く乙女たちのかガこ レし』かコンクール賞 きき、 e de Robert de Montesquiou ・ Fezensac はシャルトルに近いイリエ ( 現在はイリエ・コ ( 一会五ー一九一一一 ) を識り、閉ざされた貴族社会に を受賞し、彼の名声は一挙に高まる。また『フてバーティーに出席したことから、このグルー あ ンプレーと改称 ) の旧家の出身で、のちバリ大入り込んでいく。ここで観察されたおびただし ロべールの文体について』 ( 一九一一 0 ) 、『或る友にプの呼び名となった。これが女性の地位向上、 学衛生学教授。母ジャンヌはバリのユダヤ系株 い人間たちが複雑に絡み合って、小説の主要人 文体についての覚書』 ( 一九一一一 ) 、『ポードレ参政権運動の端緒となる。わが国では平塚らい 式仲買人の娘。高い教養と繊細な感受性の持ち物が創造されていく。 九五年、職業の選択を父 ールについて』 ( 一九一一一 ) を発表して、鋭い批評てうを中心とする婦人連動グループ「青鞜社」 〈船一尸英夫〉 主で、マルセルとの間に『母との書簡』を残す に迫られてマザリーヌ図書館の無給嘱託となる眼をも示した。 の誕生を促した。 ほか、小説に登場する母または祖母のモデルと が、病気を理由にただちに休職。一〇月、生涯 一九一三年一一月一八日、女中兼助手のセレプルゼニ Plzefi チェコスロパキア西部の しよくギ ~ い すい、一う ストに手伝わせて朝三時ごろまで作品を推敲し工業都市。西チェコ州の州都。ドイツ語名ピル なる。親殺しとその贖罪のための芸術創造との友人で作曲家のレーナルド・アーン Reyn- いう小説の倫理的テーマは母との関係から着想 aldo Hahn とプルターニュを旅行し、三人称ていたが、呼吸困難に陥り、弟のロべールにみゼン PiIsen0 人口一七万四〇〇〇 ( 一九会 ) 。プ された 体の長編小説『ジャン・サントウィュ』 ( 没後 とられて絶命。死後、作品は各国語に翻訳されルゼ一一盆地のムゼ川、ラド、、フザ川、ウグラバー ぜんそく 九歳のとき最初の喘息の発作。これは生まれ一九五四刊 ) を書き始める。この自伝的要素の濃い て世界的名声を博するに至った。なお彼には膨の合流点にあり、鉄道、道路の分岐点。一五世 つき病弱だった彼の生涯の持病となる。一、 紀に起源をもち、一五 ~ 一八世紀の建物が保存 小説は、記憶、恋愛心理の分析、社交界の風俗大な量の書簡があり、現在パリのプロン社から されている。一九世紀後半に兵器製造で知られ 二年コンドルセ高等中学に入学。同人誌を出し描写など、『失われた時を求めて』の主要テー 刊行中である。 て文才を示し始める。このころからほうばうの マを扱っているが、九九年末、完成をみずに放〔特質〕プルーストは、バルザックのように人たシュコダ社の工場が建設されてから工業都市 となった。第二次世界大戦後もシュコダ・コン 棄された。九七年、ドレフュス事件に強、 間の行動や筋の展開を描くことより、その背後 そ的とあ 関心を示し、熱心なドレフュス擁護派とな にある人間の内面生活の認識を小説の主たる内ビナートはチェコスロパキアの重機械生産の中 索 の やきん かいじゅうはんまく 思 名 心であり、エネルギー生産、鉱業、冶金工業用 る。また九〇年代後半には『晦渋に反絞容とした。その意味で彼の小説はフランスの心 レしると 設備、重工作機械、電気機関車などを製造して する』 ( 天九六 ) や、当時末発表のまま残さ理小説の伝統に連なるものであるが、そこに示 そけ いる。ビルゼン・ビールの生産で著名で、多く れた画家論 ( ワトー、シャルダン、レンプ された分析は他に類例をみない精密さをもって ポ目 レ ラント、モロー マネ ) が執筆された。 深層心理を解剖し、はとんどフロイト的な無意は外国へ輸出される。近郊に炭田と耐火粘土・ 思たプ れ 〈中村泰三〉 磁土の産地がある。 一九〇〇年、イギリスの美術批評家ジョ識の領域にまで及んでいる。他方、ここには、 物れ しよう brucellosis ヒト・ ト砌はさル部ン・ラスキンの美学に傾倒し、数編のラス彼独自の印象主義的なビジ「ンがとらえた風景プルセラ症 スまり評セ一 にも感染する獣疫 ( ウシやャギなどの草食動物 一引よばルのキン論を執筆。また自らその『アミアンのや外的対象ーー彼のいわゆる「印象」と化した 1 一まゆり いんゅ ) だうしマ紙 プ。面いば手聖書』と『胡麻と百合。を翻訳。五月には現実ーーの隠喩的表現が随所にみられる。そうおよびプタに多い感染症 ) の一種で、世界に広 のとし〔る 分布する。起炎菌はプルセラ属のグラム陰性 ラスキンの足跡を追ってベネチア、翌年は した描写は、従来の小説におけるように単なるく かんきん フランス各地の教会堂を訪ねる。〇三年に場面や背景の説明であることをやめて、対象をの短桿菌で、ヒトへの感染は畜産業や獣医師な まも ど病畜と接触する機会のある職業の人に多い 父が、〇五年に母が相次いで他界。母に護 認識しようと努める精神の活動の場となってい られて生きてきた彼は、母を失った悲しみる。つまり、精神の認識の対象となった外界動物ではおもに生殖器が侵され、流産や不妊症 のうよう の原因となるが、ときに関節炎や膿瘍形成がみ と絶望から一時サナトリウムに入院した。 は、初めて人間の内面と同等の価値をもって小 ひぞう られることもある。ヒトでは肝臓、脾臓、骨 「母を看病していた尼僧がいったとおり、 説の構成要素となったといえよう。↓失われた 〈保苅瑞穂〉髄、リンパ節などの細網内皮系がおもに侵され 私は母にはいつまでも四歳の小児だったの時を求めて けんたい です」。〇八年、著名な作家たちのみごと回鈴木道彦訳『囚われの女』 ( 『世界の文学』る。潜伏期は通常一四日で、不快、倦怠、衰弱 な文体模写を『ルモアーヌ事件』と題して 一九六六・中央公論社 ) ▽同訳『プルースト文などの症状が現れたのち、発熱、悪寒とともに とうつう 発表。この年から翌年にかけて、ネルバ 芸評論集』 ( 一九七七・筑摩書房 ) ▽保苅瑞穂訳発汗、頭痛、各部の疼痛を伴う。多くの例では ポードレール、バルザックについての 『逃げ去る女』世界文学全集』所収・一九体温の動きが特徴的で、日内変動は夕刻に高く て早朝に低い間欠的熱型を呈し、これが一 ~ 一一一 6 重要な論文を含む一連の評論を執筆 ( 『サ 天・講談社 ) ▽・モーロワ著、井上究一 0
ともひら た。具平親王 ( 村上帝皇子 ) 邸に出入りする儒 すこし冷めた態度で接している。〇七年 ( 承一兀 ら 一 ) の「最勝四天王院障子和歌」では、いった 者詩人の一人で、和歌もよくした。藤原道長の・ ) 与・う . に《 , 、や , 、と・の・気 ん定家が選んだ歌を院が改選するなど、感情的 じ専権後もしばしば詩歌の宴に列し、三井寺で出 ) ねとも あつれき な軋轢がみられる。〇九年定家は源実朝に詠歌 家 ( 一〇一六年四月 ) ののちも詠作を続けた くでん 喙龜不宝う ロ伝 ( 『遣送本近代秀歌』 ) 一巻を贈っている。 が、一八年一月以降没したらしい。その詩は きりつぎ れいそう 定家は『新古今集』完成後の切継期を経て、順 『本朝麗藻』 ( 一三首 ) 、『類聚句題抄』 ( 五首 ) だいり ちよくせん ごしゅうい ほかに収録され、『後拾遺集』以下の勅撰集に 院の内裏歌壇でも指導者的地位にあり、「建 ュ薈 4 つ、・「とのを」グしい 保三年 ( 三五 ) 内裏名所百首」に詠進する。一 〈伊藤博〉 四首の和歌をとられている。 へんさん 六年自撰家集の『拾遺愚草』を編纂している。 藤原為教ふじわらのためのり ( 一 = = 七ー七九 ) どうじよはっしんのう よりつな まは - 冖み 1 「建保五年内裏歌合」「建保六年道助法親王家五 鎌倉中期の歌人。為家の三男、母は宇都宮頼綱 うひょうえの むすめきよう 1 、く びしやもんどう 粤りいド、 十首和歌」にも詠進する。一九年 ( 承久一 ) 七 の女。京極、また毘沙門堂と称する。右兵衛 まいげつ きめがさいえよし しよくごせん かみじゅ 月『毎月抄』を衣笠家良に贈るか。翌年一一月内 督、従二位。『続後撰集』以下の勅撰歌人。兄 しよくしゅうい 裏和歌会の定家の詠歌が院に誤解されて勅勘を 為氏と不和で、その撰になる『続拾遺集』に じようきゅう につしゅう 被る。翌二一年五月承久の乱が起きて七月院 子女、為兼・為子の入集数が少ないのを不満 おき かめやま は隠岐に遷幸。 として亀山院に申状を奉ったが却下され、兄を 〔古典研究期〕定家はこのころより古典研究に 恨んで「限りある命を人にいそがれて見ぬ世の けんちゅうみつかん こうあん 意を注ぎ、二一年三月には『顕註密勘』 ( 『古 後をかねて知りぬる」と詠じ、弘安二年五月一一 今集』の注釈書 ) を著し、二三年 ( 貞応一 l) に 四日没。二条、京極両家の対立の原因をつくっ じようおう は『貞応本古今集』を、三六年 ( 嘉禎一 l) た人物である。歌風は後の京極派の萌芽を示 かてい は『嘉禎本古今集』を書写している。前年に 〈岩佐美代子〉 す。↓京極派 てんぶく なごり 『源氏物語』を、三四年 ( 天福一 l) には『天福 露ふかき庭の浅茅に風すぎて名残涼しきタ立 本伊勢物語』を、三五年 ( 文暦一 l) には『土佐 の空 にじようためよ 日記』を書写している ( 図要書 ) 。これらの古 藤原為世ふじわらのためよ 0 二条為世 ふじわらのつぐただ 一 ) 正二位、三二年 ( 貞永一 ) 七一歳で権中納の画期的な題詠の催しで、御子左家の新風と六典書写は、最良の本文を後世に伝えようと考え 藤原継縄 じようとうけ くぎようももぞの 奈良末・平安初期の公卿。桃園右大臣と称す。言に至ったが、同年一二月官を辞し、翌年の一一一条藤家の旧風が対決した。定家の恋歌は新生たからのようである。 とよなり みちのまひとやままろ 晩年の最大の業績は、第九番目の勅撰集、 藤原南家の右大臣豊成の子。母は路真人山麻呂三年 ( 天福一 ) 一〇月出家し、四一年 ( 仁治面を打ち出している。九六年の政変で詠歌の場 おむろ えんび きよう 1 」く むすめ の女。四〇歳で参議となり極官は右大臣。才識 (l) 八月二〇日八〇歳で没した。京極中納言を失ったが、九八年「御室五十首」では艶美な『新勅撰和歌集』を一二三五年に撰進したこと みようじよう で、平淡優雅で格調の高い歌風を特色とする。 は乏しく政績はあがらなかったが、ただ謙恭をと号し、法名を明静という。一八歳から七四秀歌を残す。 しようじ めいげつき 〔新古今期〕「正治二年 ( 一 = 00 ) 後鳥院初度この年の五月には「百人一首」 ( 原形 ) を選ん 守ったことで批難もされずに昇進できた。その歳までの日記に『明月記』がある。 まつらのみや ちょう かんむ 背景には夫人が桓武天皇の寵を受けたことがあ〔初学期〕歌人としての活動は、一一七八年百首」には俊成の努力によって追加で認められでいる。若いころの創作物語とされる『松浦宮 わけいかづちのやしろのうたあわせ ちゅうなごん た。このときの斬新な詠歌が院を深く感動させ物語』が定家の作ならば、散文にも挑戦したこ げられる。七八〇年 ( 宝亀一一 ) 中納言のとき ( 治承一 D 三月一七歳の「別雷社歌合」 じゅえい 上うわ じのあぎまろ が最初で、「養和元年 ( 一天一 ) 初学百首」「寿永内昇殿を許された。その後の歌壇が後鳥羽院主とになる。定家は、王朝和歌を革新的に継承 陸奥の伊治呰麻呂の乱に際して征東大使となっ 一はりか ~. わ し、和歌の叙情性を復活させて新古今歌風と称 たが、たび重なる督促にもかかわらず軍を進め元年 ( 一 l<ll) 堀河院百首」のころから本格的な催で御子左家系の新風を主力とするものになっ せんとう なかったため交替させられた。しかし桓武天皇詠歌習作期に入ったとみられる。「堀河院百首」てゆく機縁になった。院の主催する「仙洞十人される個性ある歌調を完遂させ、さらに新勅撰 しんぐう かねぎね によって、中世全体を貫く根幹歌風の平淡美を は、隆信、寂蓮、兼実らの周囲の賞賛を得た。歌合」「老若五十首歌合」「新宮歌合」に参加。 の信任は厚く、長岡京および平安京の遷都にも どころ ふたみがうら さいぎようかんじん へんさん しよくにまんぎ 八六年 ( 文治一 D 西行の勧進した「二見浦百一二〇一年 ( 建仁一 ) 七月に和歌所を設置する形成させた。↓近代秀歌↓拾遺愚草↓毎月抄 尽力した。『続日本紀』の後半部分の編纂を主 よりゅうど いんぶもんいんのたいふ 〈有吉保〉 ー↓ - 明一月印 宰したのは右大臣のときである。〈朧谷寿〉首」、八七年「殷富門院大輔百首」「閑居百首」と寄人になり、同一一月『新古今和歌集』撰 しゅう などの百首歌を次々に詠み新風の試作を示して修の撰者になる。〇二年末から翌年春ごろに回石田吉貞著『藤原定家の研究』 ( 一九五七・文雅 藤原定家ふじわらのていか せんぎい 堂 ) ▽安田章生著『藤原定家研究』増補版 いる。八八年に奏覧された『千載集』には八首結番された史上最大の歌合「千五百番歌合」の 鎌倉初期の歌人。正式には「さだいえ」だが音 しようさんみこうたいごうぐうのだい ( 一九七五・至文堂 ) ▽久保田淳著『王朝の歌人 詠者であり、秋四・冬一の判者となり、評者と 読されることが多い。父は正三位皇太后宮大も入集。翌年一〇月ごろに西行から依頼されて けんにん すぐ みやがわ ちかただむすめびふくもんいんか わかさのかみ ぶしゅんぜい 9 藤原定家』 ( 一九会・集英社 ) ▽赤羽淑著 しての優れた才能をみることができる。「建仁 いた「宮河歌合」の判を完成、感銘を受けた。 夫俊成。母は若狭守藤原親忠女の美福門院加 みなせ ぶんじ けんきゅう みつすえ 『藤原定家全歌集全句索引』 ( 一九七四・笠間書 二年八月十五夜水無瀬殿恋十五首歌合」では、 賀。幼名は光季、五歳で季光と改め、翌年定家〔新風模索期〕文治・建久期 ( 二会 ~ 究 ) は さごろも だるま なりいえ 院 ) と改名した。同母兄に成家、同母姉に建春門院新風模索期で、九条家歌壇のなかで達磨歌と非『源氏物語』や『狭衣物語』の世界を詠歌に導 しろたへそで たかのぶ じゃくれん ちゅうなごんけん ー一 000 ) 入し、「白妙の袖の別れに露落ちて身にしむ色藤原定子ふじわらのていし ( 九七六 中納言 ( 健御前 ) 、異父兄に隆信、歌人の寂蓮難されながらいちずに精進し、「一字百首」「一 みちたかむすめ たかしなのきし じよしやく しとこ は従兄。一一六六年 ( 仁安一 ) 叙爵、七五年句百首」「花月百首」「二夜百首」「十題百首」の秋風そ吹く」のような艶美の極致の世界を詠条天皇の皇后、藤原道隆の女。母は高階貴子。 によう 1 」 かすがしゃ げんきゅう ( 安一兀一 ) 侍従を経て一二一一年 ( 建暦一 ) 従など多くの作品を残した。九三年 ( 建久四 ) の出する。「元久元年 ( 一 = 0 四 ) 春日社歌合」や〇九九〇年 ( 正暦一 ) 二月女御、一〇月中宮とな かぎん しいかあわせ よしつね さんみ る。九九六年 ( 長徳一 D 兄伊周、隆家が花山法 三位、一四年 ( 建保一 I) 参議、二七年 ( 安貞良経主催の「六百番歌合」は四季・恋題各五〇六年の「元久詩歌合」での院の新企画に定家は あさぢ るいじゅ ( 七一一七ー七九六 ) じゅ ごん 藤原定家 〔上〕「俊成定家ー紙両筆懐紙」 1200 年 ( 正治 2 ) 秋 , 覆を弱院が 群臣に百首歌を詠進させた際 , それに先だって , 定家が自詠の 「鳥五首」に父俊成の批評を請う たもの。上方の小さな書き入れ と合点が俊成の筆。定家の書は 独特の風があり , 古筆として尊 重される東京永青文庫 〔左〕画像。定家の年忌である「黄 門影供」に掛けられるもの京 しぐれ 都冷泉家時雨亭文庫 ぎんしん みこひだり せん しゅうい これちか
) 俳 藤田嗣治ふじたつぐはる ( 天会ー一九六 0 洋 太夫となり、二世都太夫和中を襲名。一七五九係なかったが、明治初年以降の藤田組の急激な藤田湘子ふじたしようし ( 一九 = 六ー よしひさ 年 ( 宝暦九 ) 長唄唄方に転向、ふじ田吉次郎を成長が藩閥政府の官僚との癒着によっていたた人。神奈川県生まれ。本名良久。一九四三年画家。明治一九年一一月二七日東京生まれ。の つぐあきら あしび 名のる。六二年富士田吉次と改名、のち吉治とめ、おりからの自由民権運動のなかで政治問題 ( 昭和一八 ) 『馬酔木』に入会して活躍、編集もちに陸軍車医総監となる嗣章の次男で、四人 さないかおる ぶんご 〈加藤幸三郎〉 担当した。六四年 ( 昭和三九 ) 『鷹』を創刊主姉弟の末子。母方の従兄弟に月山内薫がいる。 なる。従来の長唄に、一中節、豊後節、義太夫 化したのである。↓藤田組 うたじようるり 一九一〇年 ( 明治四三 ) 東京美術学校西洋画科 節などの曲節を取り入れた唄浄瑠璃を創始し、 藤田小四郎ふじたこしろう ( 天四一一ー六五 ) 幕宰。句風は華麗で絵画的な構成から発したが、 おおぎつま また長唄と大薩摩の掛合いを行うなど、長唄史末期の志士。水戸藩士藤田東湖の四男。名はのち「ものとものとの思いがけない結合」を唱を卒業。白馬会展、東京勧業博覧会に出品し、 さぎむすめ あたかのまっ まことあ一なしりゅう 上、画期的な人物である。『鷺娘』『安宅松』 信、字は子立、通称小四郎、変名小野贇男。 え、「珠玉のような私小説俳句」を目ざす方向一三年 ( 大正一 D フランスに渡り、モディリア むすめななくさ よしわらすずめ じようい 「娘七種』「吉原雀』などの名曲を残している。尊王攘夷運動に参加、一八六四年 ( 元治一 ) 筑に入る。句集に『途上』 ( 一九五五 ) 、『雲の流域』ニ、スーチンらと知り合う。一七年と翌年パ てんぐ かりゅうど 〈鷹羽狩行〉 二世 ( 天四五ー一九一九 ) は六世富士田千蔵が一九〇波山に挙兵し、筑波天狗党の中心人物の一人と ( 一九六一 l) 、『狩人』 ( 一九七六 ) など。 のシェロン画廊で個展を開き、一九年サロン・ じようらく したた ん ~ り 四年 ( 明治三七 ) に襲名し、三世は ( ? ドートンヌに六点出品、その年のうちに会員に ー一九なる。各地に転戦するが利なく、上洛の途中、 雁ゆきてまたタ空を滴らす えちぜん しんま 五 0 ) 二世の娘、上松たねが襲名したが、その没越前国 ( 福井県 ) 新保で加賀藩に降伏、刑死し回『俳句シリ ーズ人と作品 9 』 ( 一九七三・桜楓推され、二一年には審査員となる。滑らかな乳 え つるが ときわ 〈渡辺尚子〉 後名跡は絶えている。 た。墓は敦賀市と水戸市常磐共有墓地にある。 社 ) 白色の画肌に面相筆で線描した裸体画などに、 ↓天狗党の乱 西洋人にはまねできない独創性を発揮し、輝か ふじたぐみ一八六九年 ( 明治一 l) 藤 藤田組 〈秋山高志〉藤田宀不兵衛ふじたそうべえ ( 一天 0 ー天四三 ) ・一うらいばし おうみこうか うった てんばう リの一員とな ふじたごろう ( 一九一五ー五 = ) 経済史江戸時代、天保期の義民。近江国甲賀郡宇田村しい名声を得てエコール・ド・ 田伝三郎が大阪高麗橋通二丁目に創設した組織藤田五郎 みなくち しようや に始まる。西南戦争で、軍靴、被服、糧米を売学者。広島市に生まれる。広島高等学校を経 ( 滋賀県水口町 ) の庄屋。一八四二年 ( 天保一る。二三年サロン・デ・チュイルリー会員、二 六年サロン・ナショナル・デ・ポザールの審査 買して巨利を博した典型的な政商で、七七年にて、一九三九年 ( 昭和一四 ) 東京帝国大学経済三 ) 幕府勘定方市野茂三郎が検地増徴をしよう しかたろう くはらしようざぶろう くりた は実兄藤田鹿太郎、久原庄三郎らと共同経営学部を卒業、四〇年に福島高等商業学校 ( のちとしたのを、野洲、甲賀、栗太三郡の百姓およ員となるほか、帝展にも作品を送り、審査員に はうき を試み、藤田伝三郎商社と改称、関西財界に台 福島大学経済学部 ) 助教授に就任、翌年教授にそ一万人が蜂起して阻止した ( 三上騒動、甲賀あげられた。二五年レジオン・ドヌール勲章を がんさっ 頭した。七九年にいわゆる藤田組贋札事件で、昇任し、商品学を講じた。福島市移住後、日本一揆 ) 。宗兵衛はその指導者の一人として逮捕受ける。二九年 ( 昭和四 ) 帰国し、東京で個展 しんだっ 幹部が検挙されたが、八一年一月には資本金六経済史に興味を抱き、信達・会津両地方の実証 され、江戸へ送られる途中病死した。野洲郡一一一を開き、翌年パリに戻る。この年ニューヨーク に渡り個展を開き、滞在。南米諸国、メキシ 万円の藤田組に改組した。八四年八月には秋田的研究に着手するとともに、日本の近代化を日上山中腹に、このときの犠牲者の徳をしのぶ大 〈横山十四男〉 コ、アメリカを巡遊して、三三年ふたたび帰国 県小坂鉱山の払下げを受け、以後、農林業や岡本社会の内部的発展の視点から理論的に追究し きな記念碑が建っている。 し、翌年二科会会員となった。 山県児島湾の干拓・開墾にも着手して事業を拡た。その結果、幕末における近代化の基軸的な藤田大五郎ふじただいごろう ( 一九ー いっそ・フ 一九三九年アメリカ経由でパリに戻るが、翌 担い手は「豪農」であると論証し、「豪農」の能楽師。一噌流笛方。江戸時代には加賀前田藩 大した。小坂鉱山は九七年の金本位制実施によ る銀価暴落や物価・労賃の上昇により危機にみ歴史的意義を究明して幕末・維新史の研究水準の笛方町役者だった藤田家の一〇世。八世藤田年戦火を避けて帰国。四一年には二科会を辞し まわれたが、自溶製錬法の導入でこの危機を克を高めた。一九四九年 ( 昭和二四 ) 広島大学教多賀蔵の長男として東京に生まれる。一九二七て帝国芸術院会員となり、戦争記録画制作のた 服、干拓事業も、日露戦争時には第一区工事総授へ転じたが、また福島大学へ復帰し、福島市年 ( 昭和一 D 『羽衣』で初舞台。七一年 ( 昭和めたびたび従軍。その業績により昭和一七年度 面積三七〇町歩の造成を完了した。一九〇五年で病没した。 〈寺谷武明〉四六 ) 能楽師としては異例の若さで重要無形文朝日文化賞を受ける。第二次世界大戦後、四九 ( 明治三八 ) 一二月、藤田組は伝三郎を中心と回『藤田五郎著作集』全五巻 ( 一九七 0 ~ 七一・御茶化財各個指定 ( 人間国宝 ) 認定。八六年日本芸年 ( 昭和二四 ) 離日し、ニューヨーク滞在のの の水書房 ) 術院会員。律動的な力強い奏法に、格調の高さち翌年パリに着く。ベトリデス画廊でたびたび する兄弟会社から、伝三郎父子の親子会社に経 ) 、次男に 個展を開き、五五年フランス国籍を得る。五八 営を転換させた。一七年 ( 大正六 ) には鉱業部藤田貞資ふじたさだすけ ( 一七三四ー一八 0 七 ) 江を加える。長男に朝太郎 ( 一九ー とうていけん ) がいる。 〈小林責〉年ベルギー王室アカデミー会員に推挙され、翌 門を藤田鉱業として独立させ、新たに機関銀行戸中期の数学者。定資とも書く。また滕定賢と次郎 ( 一九五三ー ) 童謡詩年カトリックに改宗してレオナール・フジタと 藤田銀行を設立して、藤田組は持株会社となっ署名することもある。通称は彦太夫、のちに権藤田圭雄ふじたたまお ( 一九 0 五ー たが、三七年 ( 昭和一一 l) には藤田鉱業を合併平、字は子證、号は雄山。武蔵国大里郡 ( 埼玉人、童話作家、児童文学研究家。東京に生まれ、早なる。晩年は宗教的主題の制作が多い。六六年 やまと せだ して株式会社藤田組となり、四五年 ( 昭和一一県 ) の本田家に生まれ、大和 ( 奈良県 ) の新荘稲田大学独文科卒業。童話雑誌『赤とんば』やランスにノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂が完 やまじぬしずみ 〇 ) 一一一月に同和鉱業株式会社と改称した。↓ 藩士藤田定之の養子となった。数学を山路主住 『少年少女』を編集。さらに『中央公論』『婦成、この設計からステンドグラス、フレスコ壁 くるめ ありま 〈加藤幸三郎〉 画を手がけた。昭和四三年一月二九日チューリ 藤田組贋札事件 に学び、山路の推挙で久留米 ( 福岡県 ) の有馬人公論』編集長となる。サトウ・ハチローと童 がん よりゆき ヒの病院で癌により死去。代表作は『巴里風 藩士となる。藩主有馬頼径の援助で名著『精要謡研究会「木曜会」をおこして児童文学の創作 藤田組贋札事件ふじたぐみがんさつじけん かおる 藤田組が長州藩出身の井上馨と結託して、贋札算法』 ( 一大一 ) を著し、世に知られる。また、 に入り、童謡集『ばくは海賊』、少年小説『山景』『我が室内』『五人の裸婦』『猫』『カフェに しんべきさんばう て』ほか。秋田市に大壁画『秋田の行事』をは を発行したとして嫌疑をかけられた事件。一、 算額の問題を集めて『神壁算法』 ( 一大九 ) をま が燃える日』 ( 一九六九 ) などを出す。 ひらのまさきち とめた。刊行されなかった著書に『変商』 ( 一七 その後、童謡の歴史的研究にもっとも力を入じめ、彼の作品を多数所蔵する平野政吉美術館 七八年 ( 明治一一 ) 一二月、府県からの地租な 〈小倉忠夫〉 会 ) 二冊を完がある。 どの貢納金のなかに贋札が発見され、藤田組に 七七 ) 、『異形同解』 ( 一大一 ) など多数がある。最れ、大作『日本童謡史』 ( 一九七一、 じよう あいだやすあき ノ八』 ( 一九大・日 も嫌疑がかかった。翌年九月には家宅捜索を受上流の会田安明が江戸・芝の愛宕神社に掲げ成。良識ある児童文学界の長老として、長く日回『藤田嗣治画集一九四九 ~ 六 ごいち 動出版部 ) ▽藤田嗣治著『地を泳ぐ』『腕 け、幹部の藤田伝三郎、中野梧一らが検挙された算額のことで論争となり、関流と最上流の間 本児童文学者協会会長、日本童謡協会理事長を 〈上笙一郎〉 ( ぶら ) 一本』 ( 一久四・講談社 ) ▽土門拳写 た。ドイツに滞在中の井上が藤田組の営業資金で二〇年以上もの間、激論が戦わされた。子息務める。 会・あかね書 じにしようとしてドイツで紙幣を偽造したと伝え の嘉言 ( 一七七一一 ー一全 0 も有馬家に仕え、親子一一回『日本童謡史』全二巻 ( 一九七一、 真、柳亮他文『猫と女とモンバルナス藤田 9 嗣治』 ( 一九穴・ノーベル書房 ) 房 ) 、かられたためである。事件そのものは藤田組に関代にわたり多くの子弟を養成した。〈下平和夫〉 あぎな あたご あやお たか