ふろれた ① ② ー的、テーマ本位、写実的、アジ・プロ ( 扇算的解体をきたし、その分裂からプロレタリア 民文庫 ) ▽不破哲三著『科学的社会主義研 数者の合意による選挙と議会を経ての平和革命 ひょうばう 集団主義を標榜する「造型」が結成 ( 一九 = 五 ) 究』 ( 一九七六・新日本出版社 ) ▽中野徹三著動・宣伝 ) 的である。 の路線を追求してきた。そのうえ「プロレタリ ソビエト連邦においては、主としてロシア革され、一方、日本プロレタリア文芸連盟が結成 『マルクス主義の現代的探究』 ( 一九七九・青木書 アート独裁の典型」とされてきたロシア・ソビ された。 命直後の一時期に主張された。大衆運動と深く 店 ) エト社会の自由や民主主義の制限は広く知られ 昭和に入ると、一九二七年 ( 昭和一 D ロシア 結び付いていたため、示威運動でのプラカード るところとなり、「旧国家機構の粉砕」の暴力プロレタリア美術ーーびじゅっ美術も芸 革命イメージは、西欧共産党 ( いわゆるユーロ術の一部門としてプロレタリア階級に奉仕すべやちらし、あるいは祭典での建物装飾などをお革命一〇周年記念「新ロシャ美術展覧会」を契 きものであるとの立場から、政治的イデオロギもな発表舞台とした。しかし、その大部分は大機として、プロレタリア美術運動は急速な高ま コミュ一一ズム ) にとって新たな民主主義的社会 しつ - 一く ーを宣伝するために制作された美術。「。フルジ衆蒙の名の下に、安易なリアリズム美術の俗りをみせる。同年「造型」は拡大再組織されて 主義への道の桎梏と化していった。今日では、 造型美術家協会となり、翌二八年、全日本無産 化として現れ、今日ではほとんど評価されてい ョア美術」の対立概念。プロレタリアの思想と プロレタリアート独裁の概念は、ソ連・中国な 者芸術連盟 ( ナップ ) 創立、そして無産者美術 。もっとも、その一部にはロシア・アバ ど現存社会主義諸国やマルクス主義者の研究用感情を反映し、労働者・農民などの生活の種々ない 団体協議会が成立して、同年一一月には上野・ ン・ギャルド芸術と称せられ高く評価されてい 語として用いられているが、その政治用語とし相を描き、その闘争精神・希望・欲求・努力な 東京府美術館で同会主催の第一回プロレタリア ての使用価値は徐々に減退してきているといえどを表現するとともに、人間的権利回復の主張るものも含まれているが、現在ではプロレタリ 美術大展覧会が開かれた ( 第五回展まで毎年開 ア美術と区別されている。 よ , っ 〈加藤哲郎〉 として、支配者の圧制・虚偽・腐敗などを暴露 ソ連ではプロレタリア美術の衰退後に、いわ催 ) 。二九年一月にはナップ所属日本プロレタ 的に描き出す。絵画、彫刻、漫画、ポスター 回レーニン著、全集刊行委員会訳『プロレタリ リア美術家同盟 ( ャップ ) が結成されるが、三 ア革命と背教者カウッキー』 ( 大月書店・国挿絵など、その表現様式は一貫してイデオロギゆる社会主義リアリズム理論が主導権を握り、 五年のヤップ解散によって、組織的なプロレタ 今日に至っている。↓ロシア・ ソビエト美術 〈木村浩〉 リア美術連動に終止符が打たれた。 子て秀 本客私視 5 4 山 女れい 和 和 この第二次大戦前の日本のプロレタリア美術 〔日本のプロレタリア美術〕第 さな 者的服の カ出少 義義制 , た 一次世界大戦前後から一九二〇の展開は、いわば、ナッブ系の社会批判的形態 すやま ゃなせまさむ 年ルき数年主主は男っ モ描の 会然儀たあ 年代末期にかけて、意識的・組 ( 柳瀬正夢、木部正行、須山計一、松山文雄、 ソと膊四 社自葬けで , を。つの 鈴木賢一一ら ) と、造型美術家協会系の芸術批判 ムき美 織的なプロレタリア美術が多く ともえ とうき かきち た儀のをも コ生ア カ の国に発生、それらはおおむね的形態 ( 矢部友衛、岡本唐貴、山本嘉吉、岩松 葬れ葬もクい 、【′【 , は , 術丿。で生タ宣倒のたスし 各国の共産党機関誌を中心に展淳ら ) とが「プロレタリア・リアリズム」を命 マの ノ 4 しカレ・山 1 こ ) ・い 刃 9 描でも 題として結集した運動形態といえる。そして、 開された。 凶で部の 筆員プ男 1 告 x 「ワ」 の 1 現上も 『 6 な盟の その二面性をもった性格のまま「社会主義リア 日本では先駆的現象として、 9 表左 タ志確同本ニ リズム」に組み込まれ、第二次大戦後の民主主 一九〇三年 ( 明治三六 ) 創刊の レ貞的産日っ源ス実 ( で 写官か 共。一月 〈永井信一〉 『平民新聞』とその継続連動へ義美術運動へ継承されていった。 ロ寺彩強年るの大彩ロ。治的警な ひらふくひやくすい プ①油カ青い作②油テ旦観服の ーーぶんがく近代資本 の、平福百穂、 , 川竹プロレタリア文学 ほうあん 久夢二、小杉未醒 ( 放庵 ) らの主義の内面的矛盾が生んだ、労働者階級の階級 芸術家の参加がまずあげられ的自覚と要求に立脚した文学のこと。理論的に 会たの 覧めこ は早く、マルクス、エンゲルスらによって論じ る。第一回メーデーが開かれた 彩展求 油大をつ 一九二〇年 ( 大正九 ) には、未られていたが、それが世界的同時性において多 術材一の 美題のも来派芸術協会と社会主義同盟が発化したのは、一九一七年のロシア革命の成功 ア 和 と、それに続くコミンテルンの結成 ( 一九一九 ) 以 丿作い結成されるが、同年一〇月開催 - 一くよう やすお タ争た原 年レ働し復の、橋浦泰雄、望月らの黒燿後である。 祐ロ労功に 〔ロシア〕まず、ロシアだが、革命がもたらし 会第一回展が最初のプロレタリ 四プの成さ 回定にきア美術運動であった。翌二一年たもっとも重大な変化がプロレタリア文学の目 ばっ・一う たわま 2 特現大 画 第。表の 二月創刊の『種蒔く人』以降、覚ましい勃興だろう。概略すれば、「戦時共産 た衆分 復 4 化期」 ( 一九一七 ~ 一一 l) 、プロレタリア文化運動の中心 っ群半文学その他のプロレタリア文 撃召 運動の展開のなかで、その一翼機関になったのがプロレトクリト ( プロレタリ 日一一ウ - 年連ッ頼としての自覚形態を進展させア文化協会 ) で、プロレタリア文学運動は、プ 場 工 にナ憶る。二四年、アクション、末来ロレトクリトの運動の一部として生まれた。プ の ま後イ = = ロ ロレトクリトの目的は、プロレタリア階級の新 画会ダと派、マヴォ、などのアバ 議 原覧 , 書 展が葉ン・ギャルド派による三科会が精神文化を創造し、プロレタリアートをイデオ い絵結成されるが、翌年春の第一回ロギーの領域においても指導階級たらしめるこ 唐阯れなが とにあり、その階級文化の原則を集団主義と規 7 本入さは者展と秋の第二回展を通じて、こ せんじよう ろうまん 岡 2 品で作 ③ x 出のは れら新傾向急進美術運動の総決定したが、この時期は革命的浪漫詩と煽情詩 7 やまもと
ぶるがり 九年に皇太子夫妻がプルガリアを訪問した。現 2 。でス 院地ウ 在、双方の間に留学生の交換をしているが、少 畄日むキ の中ル 数で研究者も少ない。また、日本・ポーランド ラ的建オ リ化再ゲ 協会のような友好協会もできていないのが現状 る文の聖 である。 〈中村泰三〉 あ , 紀 ~ 下号こ に的世跡 回今岡十一郎著『。フルガリア』 ( 一九六一一・新紀元 キ宗 ~ の 社 ) ▽森安達也・今井淳子訳編『。フルガリ る代 一、部けは時 ア風土と歴史』 ( 一九ハ一・恒文社 ) ▽香山陽 、標お物マ 坪著『・フルガリア歴史の旅』 ( 一九全・新潮社 ) 中期。ロ ▽ソ連東欧貿易会編・刊『日本・東欧貿易要 ・を脈興るる 下ト を山再残残 覧ルーマニア・プルガリア篇』 ( 一九〈 l) ▽ ナのが - ニ化画庭 月川和男編著『海外ビジネスガイドソ連・ ラ文コ中 東欧』 ( 一九会・日本貿易振興会 ) ▽矢田俊隆 し・おデプアスの ・リ′レレ ラガフテ 編『世界各国史東欧史』新版 ( 一九耄・山 リルのホ 川出版社 ) ▽木戸蓊著『バルカン現代史』 〕プ紀の 戰€ffi の世ア ( 一九七七・山川出版社 ) ▽ OZ T) ・ジェラヴィ 紀イ 一た一産世にフ、 チ著、野原美代子訳『バルカン史』 ( 一九全・ 遺沼堂ソ 恒文社 ) ▽ギュゼーレフ他著、寺島憲治訳 下ジ 一 ' 文 1 ネ〔 ( 『プルガリア—』 ( 『世界の教科書Ⅱ歴史』一九 一〇万二五〇〇 ( 一九盒 / 会 ) である。宗教はフ、ニコラ・ギュゼレフなどが世界的に著名で 会・ほるぶ出版 ) ▽デイミトロフ他著、寺 る。公用語はプルガリア語である。 プルガリアの人口はここ二〇年間 ( 一九六 0 ~ 種々あるが、東方正教会の信者がもっとも多ある。また、合唱団も国際的に知られ、「グス 島憲治訳『プルガリアⅡ』 ( 『世界の教科書Ⅱ 含 ) に約一〇〇万人増えたが、自然増加率は く、そのほかではイスラム教とローマ・カトリ ラ」「カバル」などの合唱団がある。また、バ 歴史』一九会・ほるぶ出版 ) ▽守、ミ ックがおもなものである。 ルナの国際バレエ・コンクール、ソフィアの若 年々減少して、二〇年間に三分の一 ( 一九八〇 B ミ、 ( 1985 , Pergamon Press, Oxford) とうおうえいが 年〇・三四 % ) になっている。これは出生率の 医療は無料で、医療施設も充実しつつある。手オペラ歌手の国際コンクール、「太陽の海岸」プルガリア映画ーーえいが 0 東欧映画 とうおうえんげき 徐々の低下と死亡率の上昇によるものである。 ーーえんげき 0 東欧演劇 住民一〇〇〇人当り医師数は三・四 ( 一九会 ) での国際音楽フェスティバルなどが知られていプルガリア演劇 ーーごプルガリア人民共和 そして労働人口増加率も近年急速に低下し、労で、東ドイツより多く、べッド数は九である。 る。一九八四年の劇場数は六三、延べ観客数はプルガリア語 働力不足に悩まされていて、人口増に種々の対年金制度は定着し、年金受領者は約二〇〇万人五八〇万人であった。 国の言語。スラ。フ語派の南スラブ語群に属す 策がとられている。たとえば独身税とか児童手 に達している。病気、災害による就業不能時の 文学も復興期以降、盛んになり、当初はポテる。言語人口は約八〇〇万。文章語は一〇〇〇 わが国で翻訳された年を超える長い伝統をもち、その最古層は、一 当を第一子より第二、第三子と数が増えるほど補償も実施されている。また、サナトリウム、 フらの詩人が活躍したが、 くびき 高くしているなどの施策である。 休息の家などの保養施設とその利用者数も、こ イワン・バゾフの長編『軛の下で』などの優れ〇 ~ 一一世紀にプルガリアにおいて写本が作成 一人当り国民総生産や生活水準をみると、プこ二〇年間に約三倍に増えている。 た小説も現れ、第二次大戦後も多数の作家が活された古代教会スラブ語と一致する。一一一世紀 〔文化〕かって農民の国プルガリアといわれた躍し、デイミトル・ディモフの『タバコ』はわの文献にはすでにプルガリア語の言語体系にお ルガリアは東欧諸国のなかでは、ルーマニアと が国で翻訳されている。 この国の人々は、勤勉で質素という特性で知ら ける重大な変化 ( 分析的言語への傾向 ) が反映 ともに最下位に位置しているが、ルーマニアよ れていた。また、現実的なものの考え方をする これらの芸術活動の発展は、オスマン帝国の されており、一二 りは高いといわれている。食料が豊かなので、 ~ 一六世紀の中世プルガリア 生活は安定している。一人当り食肉消費量は七ので、宗教への関心が比較的薄いともいわれ支配下に始まった「チターリシチェ」とよばれ文語は古代教会スラブ語と区別される。一七 ~ 五キ。グラム ( 一九会 ) で、ソ連に比べて多い。近る。今日でもこの傾向はみられ、住民生活は質る読書クラブによるところが大きく、種々の文一八世紀には古い文語の伝統を離脱し、生きた 実である。 化、教育活動を組織し、現在一〇〇万人を超え民衆語やトルコ語法を取り入れた新しい文章語 年の都市への人口集中により、政府は各都市に バルカンの他の国と同じように、古代、中世る会員をもっている。なお、出版活動は盛んが形成された。近代的な文章語の規範は一九世 住宅団地を建設しているが、需要に追い付か に栄えたこの国はトルコの長年の支配下に文化 で、住民一人当りの書籍発行部数は六冊 ( 一九紀の初頭に探求され、。フルガリア北東方一一一一口を基 ず、ソフィアを第一に住宅難がみられる。 八 0 ) であった。↓プルガリア文学↓東欧映画 盤にしてロシア文語を手本とした現代。フルガリ 教育は八年の義務教育制で、近年その上の中的発展への道が閉ざされ、一九世紀後半のプル ↓東欧演劇 ア標準文語は一九世紀後半にその基礎が確立さ 等教育 ( 三年 ) に力を入れ、末来の労働者の質ガリア復興期以降、ふたたび芸術も盛んになっ の向上を目ざしている。また、保育所、幼稚園てくる。ただ、西欧文化の流入がこの時期以降〔日本との関係〕わが国から遠いバルカンの国れた。主要な一一 = ロ語的特徴は①名詞・形容詞の格 なので、日本人にはなじみが薄いが、プルガリ 変化形が消失し、格の関係が前置詞で表現され のほか、ピオネールの家や児童のための文学・ になるので、音楽などは古い民謡・民族舞踊が 芸術の家など学校以外の学習施設の充実にも努多数残り、今日、伝統文化として保存に力が入アは親日国である。一九五九年 ( 昭和三四 ) わること、②後置冠詞によって名詞が限定される れられている。一般に、。フルガリア人は歌が好が国と国交を回復し、七五年文化交流協定に調こと (KHHraT@ 「本」、 e3HK&T. 「言語」 ) 、動 力し、義務教育では寄宿制をとる学校も多い 、七〇年と七八年にプルガリアの元首 ( 国家詞不定形の消失、④古い過去時制の保持 職業学校、工科専門学校は多数あるが、高等教きで、オペラ、合唱の水準は高く、オペラ歌手 育機関は三つの総合大学を含めて三三、学生数ではニコライ・ギャウロフ、ニコラ・ニコロ評議会議長 ) ジフコフが来日、わが国からは七アオリスト (qeTOX 「私は読んだ」 ) 、未完了 をき 、、ト物 皿姚Ⅲ
ふるとす 〈長谷川博隆〉 り殺された。 ッセージを演奏する場合は、二つの子音る奏法 ) や、重音奏法などがある。またジャズけてカトー ( 小 ) とともにキプロスで活躍し、 ・を繰り返すダブル・タンギングや一一一では、のどで声を出したりハミングをしながら前五三年には財務官としてキリキアに赴いた。 古遠部鉱山ふるとおべこうざん秋田県北東 かづの 〈藤田隆則〉 つの子音・・ =) をひとまとめにして繰吹く奏法もある。 前四九年からの内乱においては、ポンペイウス部、鹿角郡小坂町にある黒鉱鉱山。一九六三年 ( 昭和三八 ) 一か月一万トン処理の選鉱場完成と 側についてカエサルと戦ったが、ファルサロス り返すトリプル・タンギングなども用いられ回・・クヴァンツ著、荒川直子訳『フルー みつびし る。また、タンギングのまとまりとフレージン ともに操業を開始し、七〇年三菱金属鉱業から ト奏法』 ( 一九七六・全音楽譜出版社 ) ▽奥田恵の戦い後許されて、その後はカエサルに重用さ グには密接な関係があるので、楽曲を歌わせる 二著『フルートの歴史』 ( 一九大・音楽之友社 ) れ、諸官職を歴任した。その間キケロとも親交古遠部鉱業に経営が移った。金銀の含有量が大 ためにタンギングは不可欠なものになってい きく、大黒沢鉱床の平均含有量は鉱石一トン当 ▽宮本明恭編『フルート講座ーーー入門者のたを結び、カトー ( 小 ) をたたえる「小カトー る。二〇世紀になると、・・・のよう り、金七・五、銀二三五。・ヘテヒチン鉱な めの』 ( 一久一・自由現代社 ) 論」で共和政的理念を鼓吹し、彼の娘をめとっ とう Pulau Buru インドネシ ^ 宮崎禮次郎〉 た ( 再婚、前四五 ) 。前四四年には法務官に任ぜど珍しい鉱物も産出する。 に舌を転がすことでトレモロを生むフラッタープル島 りくちゅうに 1 一りがわ 技法も生まれた。 ア東部、モルッカ諸島の島。バンダ海北部に位られたが、共和政の伝統護持のためカエサル除二万五千分の一地形図「陸中濁川」 次に、フルートの演奏では、微少なビ。フラー 置する。面積八八〇六平方キ。。サンゴ礁に囲ま去の決意を固め、前四四年三月一五日のカエサプルート日 がわ flpYTZPrut ソ連 トが音の厚みをつけるために要求される。腹筋れた山がちの島で、中央部に最高峰のトマフー ル暗殺には指導的な役割を果たした。しかしそとルーマニアの国境を流れる川で、ドナウ川の などを使って息をふるわせるのがおもな方法山 ( 一一四三 0 ) がそびえる。降水量が多く密林がの後はカッシウスとともにローマを追われて東支流。カルバティア山脈中のピエトロス山 ( 一三 で、それ以外にもあごを微動させたり、指を動広がるが、有用材も多い。木材のほか、アプ川 方に赴き、マケドニアで勢力を培った。ついで 0 五 ) 付近に発し、ソ連領内の山脈中に横谷を かすことによってこれをつけることができる つくって北上し、山中を出てからは東流し、ル 流域では樹脂、タバコ、サゴヤシ、コショウ、 カッシウスと結んでアントニウスーオクタウィ ーマニアのダラバニ付近からソ連 ( モルダビア が、過剰なビブラートは「山羊の鳴き声」と例コーヒー、カカオなどを産する。住民はアルトアヌス ( アウグストウス ) 連合軍とフィリッピ えられて嫌われる。 ール族である。中心都市は北東岸のナムレアで戦ったが、その第二回目の戦闘 ( 前四二年一共和国 ) とルーマニアの国境を南下し、ルーマ ニアのガラチ付近でドナウ川に注ぐ。全長約九 そのほかにも、現代では、倍音の出やすいフで、同国の政治犯の拘置所がある。〈上野福男〉 一月 ) に敗れて、自殺した。 0 フルトべングラー ストア理念の体認者である彼は、高潔な人柄五〇キロ、流域面積二万七五〇〇平方キ。。流域の ルートの構造を利用したハーモニクス ( 基音のフルトウエングラー 振動を意識的に押さえ、倍音をはっきり響かせ古道具屋ふるどうぐや使い古した道具類をで知られ、同時代人にも後世の人にも大きな影モルダビア台地の気候は大陸性で、モルダビア 売買する店。古物商。江戸初期に京都にでき、 響を与えた。第一級の雄弁家・文章家としても共和国首都キシニョフの一月の平均気温は零下 鉢れ , 種ベビ 〈長谷川博隆〉六度 0 に低下し、プルート川は冬季に凍結す 道具屋ともよばれた。やがて大坂・江戸にもみ知られる。 火らんど並期 〈三井嘉都夫〉 , がや盤具治ラ館られ、江戸中期から急増した。「こどうぐや」。フルートウス Decimus Junius B 「 utus る。 机す , 碁用明イ物 ともいい、家具類のほか陶磁品や掛軸なども取と binus ( 前ハ一ころ目 ー蔔四三 ) 古代ローマ、共和プルトコーフ K03bMa HPYTKOB/Koz'- はん盆 , 活。セ博 くず 一たこ箱生る一 り扱い、露天や夜店でも販売した。屑屋から集政末期の政治家、将軍。父親は紀元前七七年の ma Prutkov ロシアの架空の風刺作家。アレ 屋前 , ば重ないカイ クセイ・トルストイとジェムチュージュニコフ 具手鉢た , 多てリデ荷していたが、明治初期には仕切屋を通じ、古コンスル ( 執政官 ) 。ポストウミウス・アルビ 道先火に瓶雑れメポ 〈遠藤元男〉 道具と古着は別になった。 ヌスの養子となる。ガリア戦争で、カエサルのまeM工Yま三、 1KOB/Zhemchuzhnikov 兄弟 ( 兄 古店長奥花種らア ー一九 0 公弟ウラジミール天三 0 ー 忠実な武将、とくに艦隊司令として活躍し、内アレクセイ一全一 フルートウス Lucius lunius (Junius) 会 ) の共同のペンネーム。一九世紀五〇 ~ 六〇 Brutus ( ? ー前五 0 九こし古代ローマの最初の乱ではマッシリアの陣の海戦で功をあげたの ぐうわ コンスル ( 執政官 ) とされる人物。伝承によれち、ガリア・トランサルピナの長官に任ぜら年代に共同で詩、寓話、アフォリズム、喜劇、 ハロディーを書いて人気を博した。その風刺の ば、タルクイニウス・スペル・フス王の粛清を避れ、オクタウィアヌスに次ぐカエサルの後継者 けるために愚鈍 ( ラテン語で「プルートウ に定められたが、前四四年三月一五日のカエサ矛先は、自己満足的な俗悪さ、反動的な善意、 ス」 ) を装い、難を逃れたという。王子に暴行 ル暗殺に加担した。前四四年末からムティナで警察国家における生活の法規制、えせロマンチ シズム、「純粋芸術」、インチキ科学に向けら された人妻ルクレティアが自殺した、いわゆるアントニウスに包囲されたが、前四三年四月二 ルクレティア事件に際して市民軍を率いて蜂起一日救援され、マルクス・プルートウスと連絡れ、雑誌「現代人』『イスクラ』『娯楽』などに し、王を追放して共和政初代のコンスルに任命をとろうとしてマケドニアへの逃走の途中、一よって活躍し、作家の肖像画まで発表されたは され ( 前五 0 九 ) 、その後スペルプスの軍勢と戦ケルト人に捕らわれ、アントニウスの命令によどの人気で、死亡広告を出して存在を終えた 〈島田陽〉 、戦死したと伝えられている。彼の実在性を くつイ ~ くきかい 疑う説もあるが、伝承の中核は史実と考えられ プルドーサー 0 掘削機械 る。 〈平田隆一〉 美プルトス Plutos ギリシア神話の富の神。 女神デメテルが、英雄ィアシオンと「三度鋤き 。フルートウス Marcus lunius (Junius) 工 ジ返された畑」で交わって生まれた子であるとい Brutus ( 前会ー前四一 l) 英語ではブルータス。 はうじよう ス う。畑の中での交合は、豊穣を祈る農耕儀礼 古代ローマ共和政末期の政治家。カエサル暗殺 ウ の反映と考えられ、大地の女神デメテルと、彼 の首謀者。名門の出。カトー ( 小 ) の甥にあた 工 女に豊かな実りを与える畑の精霊であると同時 る。母セルウィリアはカエサルの愛人として有 ン 雨の神格でもあるイアシオンとの間に生ま 名。カトー ( 小 ) の下で教育を受け、ストア主 乢フれたプルトスは、したがって収穫の富と穀物の 7 義を信奉する。紀元前五八年から前五六年にか 1 ー おい ほうき
ンの後進国として、また、バルカンの農業国と の海底噴火で誕生し、その後の二噴火で本島に の年ロシア共和国首相、三八年国立銀行総裁兼ソ して知られてきた。しかし、第二次世界大戦 連副首相に昇進。独ソ戦が勃発すると前線で活接続した。この両火山間の入り江の海底から 後、社会主義国になって工業化が進み、著しい へんばう っ動して四二年中将、四四年国防次官。戦後、軍は、硫化水素、炭酸ガスなどが活発にわき出し 事相兼副首相、ソ連共産党中央委員会政治局ており、観光名所でもある。孤立型の激烈な火変貌を遂げている。今日、農・工業生産が着実 に増加し、民生は向上し、ソ連と緊密な友好関 員、元帥。五五年、マレンコフ首相とフルシチ山爆発を「ブルカノ式噴火」とよぶのはこの島 にちなむ。また、火山のことをポルケーノ vo 一・ 係にあるこの国は、東ヨーロッパの社会主義国 ョフ党第一書記の権力闘争で後者を支持し、マ のなかでも安定した国情を維持している。 cano ( 英語 ) 、。フルカン Vulkan ( ドイツ語 ) レンコフ解任を受けて首相に就任。以後三年間 国旗は白、緑、赤の三色旗で、それそれ平和 の在任中フルシチョフとのコンビで諸外国を歴などとよぶのはこの火山名に由来する。古代人 訪し、平和共存外交を推進した。しかし国内面はこの火山を火と技術の神。フルカン ( ギリシアと友好、農業と森林、軍隊の勇気と忍耐を表成 ではフルシチョフの進める経済政策、とくにエ神話の主神ゼウスの子 ) の溶鉱炉と考えた。島し、左上隅に紋章がある。国歌は一九六四年制 ロ男女 業再編成構想に批判的で、この問題を軸に五七は地味に貧しく、アメリカなど〈の移民が盛ん定の「ミラ・ロディノ』 Mila Rodino ( 愛する人口ロ ノチリア島のミラツツオからリバリ 祖国よ ) 。 年にいわゆる反党グループを形成した。そのたであった。、、 男年 〔自然〕国土の三分の二は、標高五〇〇以下 め翌年首相の地位をフルシチョフに奪われ、失諸島巡りの連絡船がある。夏季にはヨーロッパ 年 〈原暉之〉各国からのバカンス客でにぎわう。〈諏訪彰〉の地域で、山地は国土の約三分の一を占める。 脚した。 しゅうきよく とう Vulcano ヨーロッ フルーカラー blue-collar 個人の仕事の国の中央に東西に延びる第三紀の褶曲山脈ス プルカノ島 「 / 「 / -. 0 (. 0 L-n 【う ) ′ 4 / っ 0 つ」っこ 1 ー 1 ー タラ・プラニナ ( バルカン ) 山脈が、プルガリ ハの地中海中部、ティレニア海にあるイタリア種類を示す職業分類の用語。ホワイトカラーと アを南北二地域に分けている。平原はこの山脈 の対比で用いられ、雇用従業員のうち、直接に 領リバリ諸島南端の火山島。安山岩、流紋岩な どからなり、長径 ( 北西ー南東 ) 約八キ。、面積生産工程や現場作業に従事する現業系の人々をの北のドナウ平原 ( 国土の四分の一 ) と、南の さす。青い作業着を着用したことからこの語が上トラキア ( マリーツア ) 平原がある。スタラ・ 二一平方キ。余。シチリア島のメッシーナ県リ リ村に属し、人口約四五〇。複合成層火山で、生まれた。しかし最近は、技術革新の影響で、プラニナ山脈にはシプカ峠、トロヤン峠などの 南半部は古い火山 ( 四究 ) だが、北半部のプ現場作業に判断を主とする監視労働が増え、他多くの峠があり、南北の交通は比較的容易であ 象 ルカノ火山 ( 三九 0 、別名グラン・クラテーレ方、事務系の職場では単調な機械操作業務が増る。一方、南西部から南部にかけては、リラ・ Gran cratere) は紀元前五世紀から一八九〇えて、ホワイトカラーとの境界がかならずしもプラニナ山脈、ピリン・プラニナ山脈、ロドピの 山脈などの連なる山岳地帯で、バルカン半島のア 年までしきりに爆発型噴火を反復し、北端の半明確ではなくなりつつある。↓ホワイトカラー イ ↓職業 〈杉政孝〉最高峰ムサラ山 ( 一一九一一五 ) がある。また、西部 島状小丘ブルカネッロ ( 一一一三 ) は前一八三年 ソ のスタラ・プラニナ山脈と南西部の山地間にソ l-n ( し LO C) 【う ) CD 仄 O フィア盆地があり、スタラ・プラニナ山脈南斜 面とこれに並行して走る中部山脈北斜面の間に " フルカリア Bulgaria 年年ム 三区分、南を三 ~ 四地区に分ける。 多くの断層盆地があり、。フルガリアの特産バラ -8 - 〕 0 一フ 、 1 11 ス 北部はかって農業が中心の地域であったが、 油の産地がここにある。国土面積に比して多い 年 といわれる川は、ドナウ川をはじめ、イスクル ドナウ川の水運とコメコン加盟国に近いという ストルマⅡ マリーツア川、ヤントラ川な有利な条件をもっことから、第二次大戦後のエ ) 万万り フ ね・れ ~ い 、 1 、 1 レ -0 ノワ】 -0 業発展は著しい。とくに、ヒ 」東部の諸都市で輸 どで、水力発電、灌漑用水などに利用されてい 0 11 《 0 一三ロ 国心 る。 入原料をもとに、木材加工、化学、造船などの アア川 O ー / ワ朝ワ】 教 = 9 ノ 1 1 0 気候は弱い大陸性気候に属し、年平均気温は 諸工業が発展している。また黒海沿岸の保養地 イカカ -4 ・《 0 り フレ , 取一レ 一二度 0 である。北部のドナウ平原は、夏暑も活況を示している。バルナを中心として「プ 田出入方 -0 人 1 8 8 ソフフ 1 % 四輸輸東 、冬寒い大陸性気候であるが、南部は地中海ルガリアのリビエラ」とよばれる国際的な保養 ア叩 産 率 地帯が広がり、ズラトニ・ピャサツィ Zlatni 性気候への遷移地帯となり、ストルマ川 五ロ 度加 一三ロ カい ーツア川下流では地中海性気候である。年降水 Pyassatsi ( 「黄金の砂」の意 ) が著名で、多数 密増言 レ 内易教 。積ロロロ都要貨 量は六五〇ミリで概して降雨は夏季に多い。しかの外国人が訪れている。農業は中部地帯でとく 0 かんばっ 国い貿宗 フ z 梔面人人人首主通 し、しばしば干魃にみまわれ、農作物に被害をに盛んで、穀物 ( 小麦、トウモロコシ ) 、工業 もたらすので、灌漑設備を必要とする地域が多用作物 ( テンサイ、ヒマワリ ) のほか、野菜、 いる。東西約五二〇キ。、南北約一二三〇キ。の矩形 東ヨーロッパの社会主義国。正式名称はプル ブドウ栽培も発展し、ヤントラ川とその支流ロ 。森林面積は国土の約三〇 % で、その四分の ガリア人民共和国 Narodna Republika Bälgar- 状をしている。面積一一万〇九一一一平方キ。、人 シッア川流域の灌漑地は。フルガリア有数の菜園 三はカシ、。フナの広葉樹である。 ia0 国名は、アジアから来住した遊牧民族。フロ八九四万二九七六 ( 一九会 ) 。首都はソフィア。 地域である。また北西部は、農業のほか、ソ連 〔地誌〕ブルガリアはスタラ・プラニナ山脈に 古来、この地域は、地中海東部およびアジア ルガール人に由来する。バルカン半島の東部に と西部・中部ヨーロッパとを結ぶ交通の要地でより歴史的にも南北に二分され、そのおのおのからの輸入天然ガスをもとに、化学、セメント 位置し、北はルーマニア、西はユーゴスラビ ア、南はギリシアとトルコ、東は黒海に接してあった。ヨーロツ。ハにあるが、かってはバルカでいくつかの地域に細分される。一般に、北を工業が発展してきている。 3. ( 10.6 % ) 300 250 200 150 100 50 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 101112 月 ←→温年平均気温 10.2 ℃ 降水量年降水量 653. lmm 緯度 / 経度 42 。 42 ' N / 23 。 18 ' E 595m 1987 年版「理科年表」による 20 30 1984 年「世界人口年鑑」による 30 万人 678
ふりよき , ゴ 多くの文学者を育てる。これより先『両世界評 の死後も息子のローラン Laurent ( 一九一一五ー ) オンは盟約の将軍・将校の集めた軍を率い / 楼 鐘むは造た 論』の執筆者になり、のち主筆となる。同誌に によって刊行が続けられている。〈渡辺茂男〉 リの元老院で演説を行い、ジャコバン派テロリ っ望物築れ庁 建を建にさ市回矢川澄子訳『ぞうのノ ヾバール』 ( 一九七四・評論ストの不穏な動きを口実に、ヾ ノリ軍総司令官へ載せたエッセイの集成たる『自然主義小説』 Le に向い年築の へ部方白改式 社 ) の就任を認めさせ、五百人議院と元老院をバリ。きミき、ミ享 3 ( 一、 久三 ) で、批評家として ッ心東のに様 ュ中南前 ~ 紀クフリューベック・デ・プルゴス RafaeI 西郊のサン・クルーへ移転せしめる。同時に総の地位が確立する。ゾラをはじめとするいわゆ のら手祐世 四ン プ市か左 ) スペイン裁政府の首脳のバラス、ゴイエ、ムーランらをる自然主義作家たちの欠陥、観察の貧弱さ、文 Frübeck de Burgos ( 一九三三ー の指揮者。父はドイツ人。。フルゴス生まれ。ビ 強制もしくは買収して辞職させ、指揮権を奪い 体の粗雑さ、細部の理由なき誇張などを指摘す ルバオとマドリードの音楽院でバイオリンを学取る。翌一〇日、ナポレオンは五〇〇〇の兵をると同時に、彼らとはまったく無縁な、偉大な び、卒業後スペインの民族歌劇サルスエラやバ 連れて、サン・クルーの両院に乗り込む。反対る一七世紀を代表する古典派大作家たちの自然 ばせい レエ団の指揮者として活動。ミュンヘン音楽大派の議員は彼に罵声を浴びせ、とくに五百人議崇拝を見直して、それを「古典派の自然主義」 学で指揮法を学んで帰国、ビルバオ交響楽団を院では激しい抵抗を受けたが、 = = 議長を務める弟とよんだ。これらの作家の自然概念は、ゾラの 経て、一九六二 ~ 七八年スペイン国立管弦楽団 リュシアンの機転と軍の圧力により、反対派をそれとは異なり、人間的自然あるいは本性にほ 指揮者となり、アルヘンタ亡きあとのスペイン排除することに成功した。その夜開かれた元老かならないのである。プリュンチェールは一七 を代表する指揮者と目されるに至った。この間 院の議場で、総裁政府の廃止が正式に承認さ世紀の巨匠たちに文学の理想をみいだすととも 六六 ~ 七一年デュッセルドルフ歌劇場、七五 ~ れ、臨時の統領政府が成立。かき集められた五 、偉大なる説教家ポシュエに傾倒した。ポ 七八年モントリオール交響楽団の音楽監督を兼百人議院も続いて元老院に同調した。臨時の統 ュエの代表作『世界史序説』 ( 一天一 ) なくして、 任。七四年 ( 昭和四九 ) 初来日して読売日本交領にはナポレオンとシェイエスとデュコスが選プリュンチェールの『フランス文学史序説』 響楽団を指揮、以来、同楽団と密接な関係にあばれた。これが将軍ナポレオンの政界に進出し ( 天九七 ) は考えられない。そしてポシュエの る。鮮明な色彩感覚とリズム感に加え、構成カた最初の機縁となる。ときに彼は三〇歳であっ 「叙情性」の同質的延長なくしては『一九世紀 がしつかりしており、とくにスペイン音楽は秀た。 〈金澤誠〉 フランス叙情詩の進化』 ( 天九四 ) も構想されえ 逸である。 なかったであろう。そのほか『フランス文学史 〈岩井宏之〉。フリュローフ KaPJ1 IlaBJIOBHt1 bPK)J1 ・ に関する批評的研究一 ~ 九』 ( 一犬 0 ~ 一九一一五 ) 、 。フリューヘル K()HCT'dHTHH0- J10B/KarI Pavlovich BryuIIov ( 一七究ー天 FII) ロシアの画家。木彫師の子としてペテル 『文学におけるジャンルの進化』 ( 天九 0 ) 、『フラ BHtI bJIK)xep/Vasiliy Konstantinovich 。フルグ ( レニングラード ) に生まれ、ペテルプ Blyuher ( 一公九ー一九三 0 ソ連の軍人。ャロス ンス古典文学史一 ~ 四』 ( 一九 0 四 ~ 一七 ) 、晩年の小 ・バルザック』 ( 一九 0 六 ) など ラ。フリ県の農民の子として生まれる。一九一六 ルグ美術アカデミーにおいてイワーノフおよび傑作『オノレ・ド 〈松崎芳隆〉 年ロシア社会民主労働党入党。一七年の二月革エゴロフに師事した。一 八二三年から三五年ま がある。アカデミー会員。 命後、軍隊内での工作を担当し、十月革命後はでイタリアで研究、三五年に帰国してペテル、、フ回関根秀雄訳『仏蘭西文学史序説』 ( 岩波文庫 ) しせん 各地での反革命軍との戦闘を指揮、名声を博し ルグ美術アカデミーの教授となったが、五〇年浯陵ふりよう / フーリン中国、四川省南東 ようす・一う ~ 二二年、極東共和国最高総司令官兼にふたたびイタリアへ赴き、以来ローマ近郊の部にある市。揚子江南岸、烏江との合流点に位 陸軍大臣。二四 ~ 二七年にはガーリンの名で中マルチャノで死去するまで制作した。代表作の置する。浯陵地区の公署所在地。人口九六万四 しようかいせき 国広東政府の軍事顧問を務め、孫文、蒔介石一つ『ポンペイ最後の日』 ( 天一一七 ~ 三三、レニン八 〇〇 ( 一〈〈じ。漢代に枳県が置かれたが、 を助けた。二九年から特別極東軍総司令官としグラード、ロシア美術館 ) は、ロシア美術史上代に浯陵県と改め、さらに唐代に浯州を置き、 てソ連極東地域軍事力の総責任者となり、日本でも記念すべき歴史画の大作である。そこには 以来その州都となったので浯州の別称がある。 の関東軍などと対峙。この間、党中央委員候補時代の変革が生き生きと描かれ、新しい人間へ 一九一三年にふたたび浯陵県となり、八三年に ( 一九三四 ) 、ソ連軍最初の元帥の一人 ( 一九一一一五 ) となの賛歌が読み取れる。また、肖像画にも優れた市制を施行した。四川・貴州両省間の水運要地 で、貴州省内の産物が烏江によりここに運ばれ ったが、三八年粛清された。のちに名誉回復さ腕前を発揮して『クルイロフ』 ( 天三九 ) 、『・ ザーサイ れた。 〈藤本和貴夫〉ランチー』 ( 天五一 D 、『自画像』 ( 天四公いずれもる。薬材のほか四川名物の漬物、搾菜の産地で じゅ , つはち - にち一 モスクワ、トレチャコフ美術館 ) などが有名。 もある。なお、市内の烏江流域などには水銀が ブリュメール一八日 〈小野菊雄〉 Coup d'Etat de 18-Brumaire フランスあふれるばかりの才能をもちながら、故国ロシ産出される。 革命暦八年プリュメール ( 霧月 ) 一八日 ( 一七アで制作できなかったことは・フリュローフにと俘虜記ふりよき大岡昇平の小説。作者がミ 〈木村浩〉 九九年一一月九日 ) の、ナポレオン一世による っての不幸であった。 ンドロ島の戦場でアメリカ軍の捕虜となった状 軍事クーデターの開初日。ナポレオンは一七九フリュンチェール Ferdinand Brune- 況を描いた短編『俘虜記』 ( 『文学界』一九四 九年一〇月にエジプト遠征から単身帰国した tiére ( 天四九ー一九 0 六 ) フランスの文学史家、 八年二月号。のち『捉まるまで』と改題 ) がま 、リに出てルイ が、彼を迎えてシェイエス、タレーラン、ジュ批評家。トウーロン出身。 ず発表され、続いて捕虜生活中の体験を描いた エコール・ノルマル・シュペリュ ールダンらが密議を凝らし、総裁政府打倒の計 ル・グラン高等中学に学ぶ。高等師範学連作が、『俘虜記』 ( 一九哭・創元社 ) 、『続俘虜 画をめぐらした。ナポレオンも弟リュシアンと 校の入試に失敗したが、独学でフランス文学研記』 ( 一九四九・同 ) 、『新しき俘虜と古き俘虜』 ( 一九 9 五一・同 ) として刊行され、『合本俘虜記』 ( 一九 6 ともに策謀に加わる。一一月九日の朝、ナポレ究に打ち込み、のち同校教授となり ( 一会六 ) 、 1 カントン
われて、同盟員の動揺は強まった。小林多喜やもすれば文化遺産の継承を否定する傾向をみ教会史研究者、ロシア文化史研究者。八月二八 吊り鉢かプランター植えにして観賞するとよ けんじ ようえき 二、宮本顕治は地下に潜って運動を指導し、右せた。二〇年ごろからレーニンと党からの批判 日 ( ロシア暦 ) オデッサの司祭の子として生ま 花期は夏から秋と長く、各枝の葉腋ごとに 翼的傾向の克服に努めたが、三三年二月、小林を受けたことにより活動は下火になり、三二年れる。オデッサの大学の文科を卒業し大学講師多くの花を開く。花冠は淡紫色で下面は淡紫 が捕らえられて殺されるに及んで、動揺はいっ に終自 5 した。 〈中本信幸〉となるが、一九二〇年に亡命したのち、プラハ 色、径四 ~ 五弩。青、白色花の品種もある。繁 みしよう はしゅ そう強まり、その後、宮本も検挙されて、三四フローレンス Florence イタリア中部のでゲルツェンの歴史哲学に関する学位論文を提殖は実生により、四月上旬 ~ 中旬に播種し、フ 年二月、作家同盟はついに解散した。その後、都市フィレンツェの英語名。↓フィレンツェ 出。彼の世界観は思弁哲学ではなく、伝統的な レームで育苗する。温室栽培の場合は、二月播 旧同盟員たちは、解散前後から刊行され始めたフロレーンスキー AJ1erccaHApo- 神学にのっとっていた。一一六年。ハリの神学大学きで六月に開花する。排水がよく、腐植質に富 『文学評論』『文化集団』、さらには『文学界』、 1ü/Pavel Aleksandrovich の教父学担当教授となり、教父に関する二冊のむ用土を好み、種子は小粒なので、厚播きにな じゅばく 〈山口美智子〉 などの同人雑誌によって、政治主義の呪縛から Florenskiy ( 天公一 らないように注意する。 ー一九四三 ) ロシア・ソ連の本と主著『ロシア神学の道』、ミ、 c きざ 解放された文学の創造を目ざし、「文芸復興」宗教思想家。その論及した対象は、神学、哲 50 ~ 0 ロ 06 \ p ミ一き s 0 & 3 戔 ( 一九フロン flon 塩化フッ化炭化水素の総称。 かぎ の旗を掲げたりしたが、結局、戦争の波に飲み学、数学、物理学、文学、言語学、美学、歴史三七 ) を刊行。哲学と神学の相互関係を解く鍵は商品名としては、フレオン ( アメリカ・デュポ 込まれていった。戦後の民主主義文学連動は、 学、技術など文化全般にわたる。一九〇四年モ東方の教父のなかにみいだされるとして、ソロ ン社 ) 、ダイフロン ( ダイキン工業 ) などが知 この運動を受け継ぎ、発展させることを目ざしスクワ大学物理・数学部卒業後、モスクワ神学ビョフや。フルガーコフの説を退けた。四八年一一られる。フロンとフロンは電気冷蔵庫、ル たものである。↓戦旗↓文芸戦線↓民主主義大学に入学。〇八 ~ 一七年、神学大学で神学と哲ューヨークの神学校教授となり、のちハヾ ームクーラー、フロン出は大容量冷房の冷媒に 文学 〈伊豆利彦〉学史を講じた。一一年聖職者の資格を得る。革ド 大学などの教壇に立つ。七九年八月一一日プ用いられる。クロロホルム、四塩化炭素、六塩 回『日本プロレタリア文学大系』全八巻 ( 一九 命後は、科学者としてソ連国内の電化を中心的 リンストンにて死去。終始一貫して世界教会運化エタンなどをハロゲン化アンチモンなどの触 六九・三一書房 ) ▽『日本プロレタリア文学 に推進したり、『技術百科事典』を編集したり動 ( エキュメニカル連動 ) に積極的に参加。ロ媒でフッ化水素と反応させてつくる。 十 2HF 集』全二〇巻 ( 一九会 ~ 会・新日本出版社 ) したが、三三年に逮捕されて一〇年の流刑に処シア精神史を描いた前記の『道』は、革命前の CHC13 ロロ、、ト ▽山田清三郎著『プロレタリア文学史』上下せられ、四三年に極北の収容所で死亡した。主ロシアの宗教思想などの注目すべき分析を行 ー - ・ー↓ CHClF2 + 2HCl ( 一九五四・理論社 ) ▽飛鳥井雅道著『日本プロ著は『真理の柱石と証明』 ( 一九一四 ) 。ソロビョフ 、広範な文献紹介とともに、彼の学識と洞察 SbF3 + SbC15 7 ロ、 22 〈大竹由利子〉 レタリア文学史論』 ( 一九全・八木書店 ) ▽鹿を発展させ、ギリシア正教に基づく「具象的な力を示す不朽の大著である。 化学的に安定で、金属を腐食せず、無色無 けいじじよう 地亘著『自伝的な文学史』 ( 一九五九・三一書房 ) 形而上学」の構築を目ざした。 〈安井亮平〉フロワリア B きミミ s を c き Hook. 臭、不爆発、不燃性で毒性が低いため、噴霧 ▽平野謙著『文学運動の流れのなかから』フロロ BuIoIo 。ハプア・ニューギニア、ニナス科。コロンビア原産の半低木であるが、園剤、消化剤、溶媒、液体無水硫酸の希釈剤、ウ ( 一九六九・筑摩書房 ) ▽栗原幸夫著『プロレタ ューギニア島東部の都市。ラエから道路で一二 芸上は一年草として取り扱う。株は基部から分レタンフォームの発泡剤などに用いられ、フッ リア文学とその時代』 ( 一九七一・平凡社 ) ▽小 〇キ。南にある。人口六七三〇 ( 一九ハ 0 ) 。一九一一枝し、成長するにつれて倒れやすくなるので、素樹脂の原料にもなる。↓冷媒 田切秀雄著『現代文学史下』 ( 一九七五・集英〇年代から四〇年代にかけて、重要な金鉱町で なお、使用後大気中に 社 ) ▽岡沢秀虎著『ソヴェート文学概論』あった。現在は林業都市で、かっての金鉱会社 点 放出されると、化学的に ( しつ 0 -0- ( 一九四七・東京堂 ) ▽佐伯彰一著『アメリカ文も林業に進出している。製材・合板工場や林業 安定なため成層圏にまで 〈谷内達〉 学史』 ( 一九六九・筑摩書房 ) ▽福原麟太郎・西専門学校がある。 達し、紫外線によって塩 素原子に分解され、これ 川正身監修『英米文学史講座Ⅱ二十世紀プロローグ prologue 「序詞」「序幕」 Ⅱ』 ( 一九六一・研究社出版 ) ▽鈴木カ衛著『フ 「前口上」などと訳される。劇の開幕に先だっ がオゾン層を破壊すると ランス文学史』 ( 一九七一・明治書院 ) ▽大久保て口上役が登場して、当時の政治や社会への批 いわれ、一九八七年にそ 典夫著『物語現代文学史 1920 年代』 ( 一九評を絡ませたりしながら劇の大筋を説明する場 の生産・消費量を規制す 会・創林社 ) 合と、短い一場面を設けて、これから始まる劇 る「モントリオール議定 ぶんかだい の内容を暗一小する場合の二つの形がある。紀元 書」が採択され、段階的 プロレタリア文化大革命 ふんかだいかくめい かくめい 0 文化大革命 前四世紀のエウリピデスに始まるとされるが、 削減が決定した ( 現在の 一般化するのはルネサンス期で、エリザベス朝 。フロレトクリト flPOJ1eTKYJ1bT/Prolet- 年間約八〇万トンの生産・ 本′いも、つ kul't ソ連初期のプロレタリア文化の啓蒙団時代はコーラスの名でよばれた。とくに王政復 消費量を一〇年後には半 体およびその機関誌『プロレタリア文化』の略古期から一八世紀にかけてヨーロッパ各国の演 減しようとするもの ) 。 称。一九一七年九月、・ポグダーノフらによ 劇で盛んに用いられた。また、オペラ、バレ ↓オゾン層〈加治有恒〉 って結成され、一七 ~ 二〇年当時、約四〇万人工、音楽の独立した序の部分や、詩、小説の冒 のれオン四衛撮 の会員を擁した。理論機関誌『プロレタリア文頭部分をもさし、物事の始まりや発端を示す一 層現「ゾ工 化』 ( 一九天 ンらはオ。人よ成 ~ 一一四 ) を中心に『炉』『創造せよ ! 』般用語としても使用される。エピローグの対の ゾか分です , 号合 ( いずれもモスクワ ) 、『末来』 ( ベトログラー 用語。↓工。ヒローグ 〈高師昭南〉 オ年部」示月 7 を 11 ワ」ワ】 11 の田の穴をスの ん 11 1 人ワ 3 ド ) など約二〇の機関誌を出した。党と国家に フロローフスキー reoprldli BaCHJ1be- ン 空四クの壞のバも ン 名ンンン ン上。ン層破年ンた っ直接的に統制されない組織を全国にもち、労働 (bJ10POBCKH1i/Geo 「 giy vasil'evich ロ用ロロロロ ロ極化ビンのニし フ南変たゾ層 ~ 星影 ー一九七九 ) 長司祭、神学者、フ慣フフフフ 、ふ者以外の文化運動に対しては排他的であり、や F 一 0 「 ov 一 y ( 一〈〈 = 化学名 化学式 トリクロロフルオロメタン C C13F ジクロロジフルオロメタン CC12F2 クロロジフルオロメタン CHClF2 1 , 1 , 2 ートリクロロー 1 , 2 , CC12F ・ CCIF2 2 ートリフルオロエタン 点 一 0 囹 ー 111 ー 158 ー 160 ー 35 5 っ 198 198 1986 198 789
ふかしま 反応の一つで、ポリエ重合反応を継続させるが、一個の高分子鎖の成う。領土保全、不侵略は一般国際法上も国家の チレン、ポリ塩化ビ一一長はここで中断されるので分子量が低下する。義務と認められるが、条約の締結により、それ レ、ポリスチレンなど 付加重合反応におけるポリマーの分子量 ( 重合をいっそう具体化し、不安を除去する政治的意 がこの方法でつくられ度 ) は、開始、成長、停止、連鎖移動の四つの味をもつ。 ている。これらは、低素反応によって支配される。↓重合〈垣内弘〉 一九三九年八月二三日ドイツとソ連の間に結 例 の 分子化合物である単量不可触民ふかしよくみんインドで最下層のばれた不侵略・中立条約は、相互にいかなる侵 式 レ 体 ( モノマー ) に少量階層をいう。英語のアンタッチャプル un ・略行為や攻撃をも行わないこと、いすれか一方 の重合開始剤あるいは touchable の訳。インドの社会は古くから人を敵対目標とする連合に参加しないことを約束 ク ア 触媒を加えることによ種、職業、通婚、部族などの要因によって多く しあい、ドイツとしては二正面作戦を避け、ソ ク って重合反応を開始の身分集団 ( カースト ) を生み出したが、その連はドイツとの単独戦を避ける目的をいちおう ロ王 し、生成物である高分うちのもっとも不浄な身分とされ、上位カース達した。ドイツと防共協定を結んでいた日本の 子すなわち重合体 ( ポトから触れるべからざるものとして差別され平沼内閣は「複雑怪奇」のことばを残して総辞 器替 リマー ) を与える。こ た。彼らの職業は主として掃除、理髪、洗濯、職した。しかし、四一年に独ソ戦が始まった。 整切 とさっ したい の反応は反応機構から屠殺、皮革などにかかわり、死と屍体と汚物に 一九四一年 ( 昭和一六 ) 四月一三日、日ソ中 プ 圧 ッ ラジカル的に進行すれよる穢を本来的に備えている身分として賤視さ 立条約が結ばれ、その際の声明書で、ソ連は 中 プ ばラジカル付加重合、れた。 「満州国」の領土保全と不可侵尊重を声明した。 荷 イオン的に進行すれば インド独立の父マハトマ・ガンディーが彼ら しかし、四五年八月八日、ソ連はそれに反して 3 て 〈宮崎繁樹〉 イオン付加重合となをハリジャン ( 神の子 ) とよんで差別撤廃の運対日宣戦、攻撃を行った。 からにタップを移動する、⑥スイッチを閉り、さらにイオンはカチオンとアニオン重合と動を起こし、独立後の憲法も彼らの無権利状態付加税ふかぜい surtax 狭義には他の租 じる、の順で操作を行う。この場合③の状態で に分類される。付加重合は基本的には比較的ゅを廃止する条項を設けているが、現実生活の場税の税額を課税標準として課税する租税であ はタップ 3 と 4 のコイルが限流リアクトルを通っくりとした開始反応に続き、速い成長反応お面では差別が根強く残り、カースト間衝突の惨り、わが国の地方税の法人住民税の法人税割が して短絡状態になるが、限流リアクトルはこのよび停止反応の三つの素反応からなる連鎖反応事が絶えない。↓カースト 〈山折哲雄〉その典型的な例である。広義には他の租税の課 とき大きな短絡電流を流さないためのものであ ( 次々と連続しておこる反応 ) である。開始反不可侵権ふかしんけん inviolability 国際税標準と同じ課税標準に課税する租税をさす る。図はリアクトル式とよばれるもので、こ応は、反応性に富んだ中間体 ( ラジカルまたは法上、外国人は現に滞在する国家の管轄権に服 が、この場合には、地方税の事業税や個人住民 のほかに抵抗式がある。 イオン ) が、ラジカル反応開始剤またはイオンするのを原則とするが、例外的に、通常の管轄税所得割なども付加税として分類されることに なる。 負荷時電圧調整器は変圧器と組み合わせて使重合開始触媒の存在で単量体からっくられる。権行使以上に丁重に手厚い保護を受ける場合が われる場合が多い。このとき変圧器は負荷時電この単量体は有機の不飽和化合物で、重合しゃあり、これが権利として認められるのが不可侵 付加税はとりわけ地方自治の充実との関係で 圧調整装置付き変圧器とよばれるが、電力会社すいものである。成長反応はこの反応中間体権である。外交官の不可侵権は外交特権の一部 問題視され、独立税と比較すると、付加税の場 で使用される変圧器の大部分はこの型である。 ( 活性種、 * を付記する ) と単量体との反応でであり、外交使節は本国の威厳を代表するもの合には一般に地方自治体の自主性を制限すると 負荷時電圧調整器は電圧が階段的に変化する欠あり、停止反応はこの成長した活性種がなんらであり、とくに敬意をもって丁重に待遇するこ される。わが国においては、第二次世界大戦前 かの形で安定化する反応である。これらの反応とを要する。接受国は、その身体・名誉に関しの地方税制は付加税を中心としていたが、戦後 点がある。このため耐電圧試験を行う場合のよ うに滑らかな電圧調整を行う場合は誘導電圧調を図に示す。図の式で * がラジカルのときはラては一般の外国人以上に手厚い保護を与えなけのシャウブ勧告において付加税の廃止が提案さ 整器を用いる。↓誘導電圧調整器〈岡村正巳〉 ジカル付加重合、①のときはカチオン付加重ればならず、また、使節の館邸や文書はこれをれ、独立税主体の税制となった。↓地方税 みなみあまペ かま一え 侵してはならない。 したがって、使節の抑留、独立税 〈林正寿〉 深島ふかしま大分県南端、南海部郡蒲江合、 CD のときはアニオン付加重合という。重合 素反応のもう一つに連鎖移動反応がある。 町に属する島。面積一・一平方キ。。最高点九八 拘禁、侮辱などは許されず、接受国はその保護深瀬基寛ふかせもとひろ ( 天九五ー一九六六 ) 英 二島が砂州で結ばれたもの。蒲江港から九 蕊【 AM#+I + C ーー立 AMn+1 + C* にとくに留意し、侵害ある場合には侵害した者文学者、随筆家。高知県の生まれ。東京帝国大 、定期船は一九八〇年 ( 昭和五五 ) から就 この素反応で活性種 b が再生されて、これがをとくに重く処罰しなければならない。接受国学英文科卒業。長く京都大学教授を務める。 航。一日二便で四〇分を要する。一七一九年 の官憲は職務執行のためでも使節の館邸に立ち・アーノルドや・・エリオットを研究、 なおかわあかぎ ン ( 享保四 ) と四三年 ( 寛保三 ) に現直川村赤木 入ることはできす、令状の送達も原則として許のちに好著『エリオットの詩学』 ( 一九四九 ) や評 されない。 釈『エリオット』 ( 一九五四、読売文学賞 ) を著し から移住者があったが永住できず、一七九八年 ジた << 長 < ラま成 このはかに、外国にある国家元首、外務大 た。ウェイドレ、ドーソン、トインビー、スペ ( 寛政一〇 ) には佐伯藩の流人の島になってい 臣、軍艦、軍隊、軍用機、領事などにも、国際ンダーの格調高い翻訳のほか、『共通感覚』 ( 一九 た。現住者は一八七二年 ( 明治五 ) 以後の蒲江 慣習法または条約によって不可侵権が認められ五四 ) 、『日本の沙漠のなかに』 ( 一九五七 ) など風格 からの移住者の子孫が主で、一本釣り、巻網漁 る。 〈兼子俊一〉 〈広部和也〉あるエッセイによっても知られる。〈山中信夫〉 業に従事している。人口七四。 囮二万五千分の一地形図「深島」 不可侵条約ふかしんじようやく non-aggres ・回『深瀬基寛集』全二巻 ( 一九穴・筑摩書房 ) sion treaty 二国間または多数国間で、相互深田 ( 村 ) ふかだ ( むら ) 熊本県南部、球磨郡 付加重△ロふかじゅうごう addition poly ・ ひとよし に、領土権の尊重、不可侵を約束する条約をい にある村。村域の大半が人吉盆地に属し、阿蘇 merization 高分子合成のもっとも代表的な ロルー さいき つ」 ③ < 6 付加重合 開始反応 開始剤 または触媒 A* 十 M 単量 : 体 成長反応 AM * 十 M AM ″十 M 停止反応 AM?*I+I ポリマーラジカル またはイオン ⑤ 〃十 1 安定ポリマー けがれ せんし
ルなどがある。↓蛍光染料 〈飛田満彦〉哲学に移し『マルキシズムからイデアリズム 間の普遍的愚劣を暴露する。現実と幻想の交錯ながる鉄道は二六年に完成し、ローヌ川からラ フルオレン fluorene 縮環芳香族化合物へ』 ( 一九 0 三 ) を発表。ベルジャーエフとともにするなかで、キリスト教に根ざした深遠な思想イン川の谷に至る動脈がここを通過する。一一 〈前島郁雄〉 が展開されるこの長編は、二〇世紀文学の最高月から五月までは通行不能。 の一つ。強い紫色の蛍光を発する白色板状結雑誌を発行、『道標 ( べーヒ ) 』にも参加した。 晶。コールタール中に存在し、蒸留により分一九一〇年フローレンスキーと知り合い、し、こ た峰の一つに数えられている。 〈秋元里予〉フルカ・トンネル Furka TunneI ス イス、フルカ・オー ーアルプ鉄道がローヌ川 いに神秘主義哲学に傾き、ソフィャ論の研究に回安井侑子訳『悪魔とマルガリータ』 ( 一九六九・ たそがれ 最上流部とロイス川 ( ライン川支流 ) 流域との 新潮社 ) ▽水野忠夫訳『巨匠とマルガリー 1 画 没頭し、『黄昏ざる光』 C ミ H & 蹇きミミ \ ぶんすいれい 1 ワ」 分水嶺フルカ峠の下を貫く鉄道トンネル。最初 タ』 ( 『集英社版世界の文学 4 』所収・一九七七・ The U ミ d ぎトミ ( 一九一六 ) などを著す。彼 、ー 0 いい一つ 0 戸い一 11 0 ・ ) ン 9 ( し 11 11 ワ」 のソフィャ論は、ソロビョフ、フローレンスキ 集英社 ) ▽同訳『悪魔物語』 ( 一九七一・集英の線路はフルカ峠の険を一一〇 % の急勾配でア レ ーのそれを継承しつつも第四位格としての規定 社 ) ▽同訳『犬の心臓』 ( 一九七一・河出書房新プト式ラックレールを用いて登り、峠下の標高 オ 式量 レ 子子点点 がより明確で、救済原理の面も強い。一一三年国 社 ) 二一六〇付近に長さ一八七四の単線型トン フ 分分融沸 ネルが一九一五年に開通した。この区間は車窓 外追放され、二五年以降。ハリ正教神学校で教えプルガス Burgas 。フルガリア東部、プル 離、精製される。 9 位のメチレン基 -CH2- はる。 〈御子柴道夫〉ガス県の県都。黒海に臨む港湾、工業都市で、 からローヌ氷河を望むことができ、同鉄道が運 転する氷河急行列車のハイライトであったが、 反応性が大きく、塩基の存在下、アルデヒド類フルカーコフ MuxaHJ1 A(baHacbeBHq 保養地でもある。人口一八万三四七七 ( 一九盒 ) 。 なだれ やカルポン酸エステル類と縮合して、エチリデ bYJ1raKOB/Mihail Afanas'evich Bulgakov 中世都市ピルゴス Pyrgos の跡に、一八世紀豪雪と雪崩の事故を避けるため、毎年冬季は一 きょ - つりよう ン誘導体や 9 位のケトン誘導体を生成する。染 ( 天九一 ー一九四 0 ) ソ連の小説家、劇作家。キエフ に漁村として発足した。一九世紀のプルガリア部の橋梁を撤去して路線を運休していた。こ 料、薬品合成の原料となるほか、酸化してフル神学校教授である父の強い影響を受け、中世に 自治獲得後発展し、現在は同国有数の工業都市のため、長大トンネルによって分水嶺の下を貫 ぞうけい ろうまん オレノンの製造に用いられる。 〈向井利夫〉造詣が深い。ドイツ浪漫派、一九世紀ロシア文となっている。造船、鉄道車両、機械、ケープく新フルカ・トンネル ( 長さ一万五三八言 そうし フルカ〔古蚊〕 march flies 昆虫綱双翅学の伝統を二〇世紀においてもっとも忠実に受ル、石油化学、本材加工などが主要工業。市をスイス国内では最長 ) が建設され一九八二年六 月に開通し、峠越えの旧線は旧フルカ・トンネ 目糸角亜目原カ群フルカ科 Bibionidae の昆虫け継いでおり、とくにゴーゴリを崇拝する。キ含む黒海沿岸一帯は国際的な保養地として知ら の総称。従来はケバエ ( 毛蠅 ) とよばれたが、 エフ大学医学部卒業後、地方病院勤務。第一次れ、鉱泉もある。化学大学、国際観光・保養専ルとともに廃止された。新トンネルは単線型で 系統上の取扱いから改称された。小形から中形世界大戦中、赤十字に志願、前線で働く。一九 門学校、ドラマ劇場、人形劇場など、教育・文あるが、内部に列車交換のための信号場二か所 〈中村泰三〉 の力に似た昆虫であるが、性的二型の発現が顕二〇年、医者を辞めてカフカスに行き、三編の化施設も充実している。 がある。新トンネルはローヌ川側のオー やくせいしょ ルト ( 標高一三六六 ) とロイス川側のレアルプ 著であり、雌雄によって、頭部の形状や体の色戯曲を執筆。翌年モスクワ上京後、新聞に風刺プルガーター訳聖書 彩が異なる。雄では複眼は大きくて合眼的で、 。フルガーターとはラテン語の ( 標高一五一穴 ) を直結し、その開通は列車の通 作品を発表するかたわら、内戦の混乱と白衛軍 VuIgata 頭部全体は大きく球状であるが、雌では複眼はの崩壊を『黙示録』になぞらえて描いた自伝的 Vulgata Editio の略で、「一般の、共通の」を年運行を可能としたが、車窓からローヌ氷河の 小さく、離眼的であり、頭部全体は小さい。雄長編『白衛軍』を執筆。一三年から『ナカヌー 意味し、カトリック教会で公式に用いられるラ雄大な景観を鑑賞する機会は失われてしまっ 〈青木栄一〉 テン語訳聖書をさしている。これはヒェロニムた。 は黒色で、雌では赤褐色の種類がある。触角はネ ( 前夜に ) 』紙同人として活躍、ゴーゴリの しようイ一いしゅ 一六節、小腮鬚は四節。はねは透『死せる魂』のバロディー『チチコフの遍歴』スが三八二年教皇ダマスス一世 Damasus 一プルガーニン HHK()J1a1i AJleKcaHJtpo ・ すす めいりよう 明または煤色を帯び、縁紋は明瞭、亜前縁脈や、独特の象徴主義的手法による『赤い冠』な ( 在位三六六 ~ 三会 ) の要請によって始めた訳業で、 bYJ1raHHH/Nikolay Aleksandrovich は長くて一直線に伸び、前縁中央よりも外方でどを発表する。二五年、一個人の破滅を現実とそれまであった古ラテン訳を改めつつ、旧約の Bulganin ( 天九五ー一九七五 ) ソ連の政治家。一 けいぶんみやく 終わる。径分脈ははねのほば中央から分出し 幻想の境界のあいまい化、事物の象徴化によっ部は大部分自分の新しい訳によってつくりあ九一七年にポリシェビキ党に入党、十月革命後 でんかく て分岐せず、中脈は二本のみ。はねの臀角はよて描く『悪魔物語』、・・ウエルズの影響げ、四〇五年に完成した。このラテン語訳聖書の内戦期に出身地ニジニー・ノブゴロド ( 現ゴ リキー市 ) の反革命取締委員会で活動し、カ く発達するが、はねの基部後方の翅片などは発を受けた『運命の卵』ほか三編を収めた短は一五四六年のトリエント公会議においてロー あし たいせつ 達しない。脚は長く、腿節は太い。 脛節末端に編集を発刊。同じころ『犬の心臟』が書かれるマ・カトリック教会の公認聖書となったのであガノビチ、モロトフ、ミコャンらの知遇を得 きよきよく は距棘がある。成虫はしばしば群飛する習性 が、痛烈な政治批判からソ連国内ではいまもる。なお近年この新約の部の粗略さを批判改訂た。一三年に経済部門に転じ、二七年に全国有 がある。幼虫は有頭のウジで、気門は一〇対、発禁となっている。二六年『トウルビン家のした校訂版 (). Wordsworth, H. J. White 数のモスクワ電気工場の工場長となった。三一 ばってき 各節に短い突起がある。落葉の中やその下の土日々』が上演され、白軍賛美のレッテルを貼ら and H. F. D. Sparks 】 ~ 0 ~ ミき T ミきミ年にはモスクワ・ソビエト議長に抜擢され、地 中に生息する。 〈伊藤修四郎〉れる。続いて発表した喜劇が次々に上演禁止と D 。 Nostri le 0 こ 3 ミ ~ ミ , secundum 下鉄網の建設など首都の発展に尽力した。三七 なる。三〇年、スターリンの庇護によりモスク e 0 2 ききミ ~ ・、ミ一 ( 一会九 ~ 一九五四 ) ) が 。フルガーコフ cepreü HHKOJ1aeBHt1 bYJ1- 〈木下順治〉 ワ芸術座の演出助手に就任。『死せる魂』を戯出されている。 raKOB/Sergey Nik01aevich Bulgakov あつれき ノ とうげ Furkapaßスイスの ー一九四四 ) ロシアの神学者、経済学者。地曲化し ( 一九三 = ) 、芸術家と社会との軋轢を主題フルカ峠 方の司祭の子。少年時代唯物論に心酔し、モスとする悲劇『モリエール』 ( 一九三 0 ) 、『最後のウリ州ウルゼレン谷とバレー州ゴムス地方 ( ロ ーヌ川最上流 ) をつなぐ峠。標高二四三言 クワ大学で経済学を専攻。ドイツで『資本主義日々 ( プーシキン ) 』 ( 一九三六 ) を発表する。一九 ローマ時代からバレーとラエティアを結ぶ交通 と農業』 ( 天九 0 を発表。帰国後キエフ工科大二九年から死の直前まで書かれた『巨匠とマル 力学で経済学を教える。この時代 ( 一九 0 一 ~ 0 六 ) マガリータ』は同様の主題をもつ一方、タイムマ路がここを通っており、一九一五年にはプリー シンの介在により二つの時空間が平行的に描か クからグレッチュに通ずるフルカ・オー るルキシズムから自由主義に転向し、かたわらソ たんどく ロビョフの著作と聖書を耽読する。関心を宗教れる喜劇『イワン雷帝』 ( 一九三六 ) と同じく、人ルプ鉄道が開通し、さらにライン川の河谷につ ぶ けいせつ プルガーニン 677
ー一九ナチスの政権獲得後はソ連に亡命し、第二次大フリフー ル Fribourg スイス西部、フリ。フリマス Plymouth イギリス、イングラ 。フリニエ Charles Plisnier ( 天九六 ンド南西部、デポン県にある海港都市。人口一一 ブール州の州都。人口三万六四〇〇 ( 一九公 (l) 。 五 (l) フランス語で書いたベルギーの小説家。戦後東ドイツに帰って、兵士たちの報告を基に Tamar の河 モンスに生まれる。第一次世界大戦後共産党員したドキュメント小説『スターリングラード』 ドイツ語名フライプルク Freiburg0 町の創設四万三八九五 ( 一九ハ l) 。タマー 口にプリム川 Plym が流入する所に位置する。 ( 一九四五 ) を発表した。一九四七年に西ドイツに 以来、フランス語地域とドイツ語地域の境界が として政治活動に入るが、のち除名されキリス 〈松本道介〉この町を通り、市民の約四分の一はドイツ語をプリマス、ストーンハウス、デポンポートの三 ト教に接近していった。反抗者、革命家を好ん移住。 し、、フき一い 話す。サリーヌ川に臨む要塞都市として、すで市が一九一四年に合併、成立した。イギリス海 で描き、一九三七年長編小説『偽旅券』套プリピャチⅡ がわ flpH[IflTb/Pri- に一一五七年に立地し、スイスのなかでも古都峡の西端に臨み、天然の良港に恵まれるため、 PassPorts によって非フランス人として初めて pyat' ソ連西部を流れるドニエプル川の最大 のおもかげをよくとどめている町である。一 中世以来港町として栄えてきた。現在はポーツ ゴンクール賞受賞、同年ベルギー王立アカデミ の支流。べロルシア ( 白ロシア ) 共和国、コペ マスに次ぐイギリス第二の軍港で、両大戦時に リ市北西の標高一五一一地点を水源とし、ほば世紀からの醸造業に加えて、現在は食料品、ア ー会員となる。そのほか『結婚』 ( 一九三六 ) 、『醜 も重要な役割を演じた。また貿易港としても重 ルミ一一ウム、電気機器、写真化学、紙製品など 女の日記』 ( 一九五 l) などがある。 〈遠山博雄〉東流してウクライナ共和国に入り、ドニエプル かたさ BrinelI hard- 川をせき止めたキエフ貯水池に北西端から流入の工業が盛んである。この町は工業の中心以上要で、北アメリカ、西インド諸島、オーストラ プリネル硬さ リア、ニュージーランドなどとの貿易が盛んで ness 工業材料の硬さを表す尺度の一つで、する。延長七七五キ。、流域面積一一万四〇〇〇にカトリックの国内の中心であり、これと関係 ある。第二次世界大戦後、中心部の商店街、ビ 押込み硬さの一種。この硬さ試験法は一九〇〇平方キ。。縦断勾配はきわめて小さく、大部分がの深い総合大学 ( 一公九開設 ) の所在地で、とく にその神学部 ( 一五〈 0 創設 ) は世界的に有名であジネス地区などの再開発が行われて近代化が進 年にスウェーデンの技師プリネル Johann Au ・航行可能。一二月 ~ 三月に結氷し、春は雪解け はんらん さたい み、郊外には新たに軽工業団地も設けられてい gust Brinell ( 天四九ー一九一一五 ) によって提案され水で氾濫する。流域はマッ林と砂堆と湿地とがる。また、一二八三年に建設が始まったサン・ ニコラ大聖堂はゴシック様式の傑作として一見る。デポンポート地区の造船をはじめ、帆布、 たものであり、工業界で硬さ試験が広く行われ交互に続くボレシェ nonecbe/Poles'e とよ ロープ、精糖、製枌、肥料、化学製品などのエ ばれる景観をみせている。ドニエプル・プク運の価値がある。 る契機となった。プリネル硬さは、焼入れした フリプール州は面積一六七〇平方キ。、人口一業がある。港は漁業基地でもある。〈井内昇〉 鋼球を試料表面に一定の荷重で押し込み、圧子河でプク川 ( 西プク川 ) と、ドニエプル・ネマ ン運河でネマン川と結ばれ、後者はドニエプル九万四〇〇〇 ( 一九〈四 ) 。スイスの典型的な酪農〔歴史〕古くはサットン Sutton という名の を取り除いたあとにできる球分のくばみの直径 川が流入する黒海と北のバルト海とを結ぶ。中地域で、グリュイエールのチーズが有名であ漁村であったが、一四三九年へンリー六世から から表面積を算出し、荷重をこの面積で除した る。 〈前島郁雄〉特許状と現在の地名を与えられて自治都市にな 商で表す。すなわち鋼球圧子と試料の接触面の流には。ヒンスク、モジリなどの河港がある。 った。以後、イギリス海峡の入口を扼する地理 キエフ貯水池への流入点にチェルノ。フィリ ヾー free paper, free dis- 平均圧力を硬さとするもので、硬い材料ほど同 フリー・ペー 一荷重下でのくばみが小さいから接触圧力は大 qepH06blJlb/Chernobfl' ( 人口一万二五〇〇、 tributed publications 無料配布紙・誌。ア的位置から海軍の基地として発達し、一六世紀 にはホーキンズ父子、ギルバート、ドレークら メリカでは、中小都市、市町村など限定された きくなる。↓硬さ試験 〈林邦夫〉一九会 ) の町があり、その上流一五キ。 しりやく の探検航海者や私掠船長たちの根拠地となり、 六年四月に大事故を起こしたチェルノ。フィリ原地域の住民に情報を伝える有力メディアとなっ " フリハスパ一アイ Brhaspati 古代インド パーは通常二種類に分類一五八八年スペインのアルマダ ( 無敵艦隊 ) の の神。プラフマナスパティ Brahmapaspati と子力発電所がある。発電所の上流三キ。のプリピている。フリー きとう ャチ ( 人口四万九〇〇〇、一九会 ) はチェルノブ される。一つはショッヾ ノー shopper とよばれ来襲時にはイギリス艦隊が当市沖で待機し出撃 もよばれる。祈疇の語を神格化したものとさ れ、祈疇主と訳されている。インド最古の聖典ィリとともに原子力発電所労働者の住宅地区でるもので、広告を満載した紙面を限定した地域した。一六二〇年巡礼始祖 ( ピルグリム・ファ ーザーズ ) のメイフラワー号は当市からアメリ 『リグ・べーダ』の創造神話において、プラフあったが、事故により全住民が避難、以後少なの家庭に無料で配布するもの。広告掲載料を収 くとも八 ~ 一〇年間住宅建設が放棄された。チ入源とする商業目的で発行され、ほとんどが週力に出航し、上陸地の現マサチューセッツ州プ マナスパティは宇宙創造者とみなされていた。 リマスをはじめ、多くの同名の町が新大陸にで エルノ。フィリも二、三年間住宅は建設されな 刊紙・誌となっている。もう一つのカテゴリ 「プラフマン」は、後のウバニシャッド思想に まフリー・ きた。ビューリタン革命期には議会派につき、 コミュニティ・ニューズベー 〈津沢正晴〉 おいては宇宙の根本原理とみなされるが、『リ さん しよとう Pribilof ls- free community newspapers である。特定の南西イングランドの都市で唯一、国王派に属さ グ・べーダ』においては、聖なる祈疇の語、讃プリビロフ諸島 じよう寺 ) い コミュニテイや、限定された地域に、目的に応なかった。一六六六年海岸に城塞が設けられ、 歌を意味するものと解されている。このプラフ lands アメリカ合衆国、アラスカ州南西部の マンをつかさどる神がプラフマナスパティまた諸島。べーリング海東部に位置する、火山性のじさまざまな情報を伝えるもので、読者の過半海からの守りが強化された。その後もポーツマ スに次ぐ海軍基地として発達し、第二次大戦中 はプリハスパティであると考えられる。彼は鍛山がちな島々である。総面積四六八平方キ。。そ数に無料で配布され、紙面の四分の一以上に一 般ニュースを掲載しているもの。一九七八年時はドイツ軍の空襲でかなりの被害を受けた。一 冶工のように、この万物を鍛えて創造したとたのうち主要なものはセント・ポールとセント・ ーの数は六〇〇九四四年連合軍のヨーロッパ大陸への反攻時 ジョージの二島で、オットセイ、シロクマ、力点でアメリカのフリ たえられる。後代になると、プリハスパティ ワウソ、アオギッネ、海鳥類の繁殖地として知〇を超え、発行部数も三四〇〇万部を記録し ( ノルマンディー上陸作戦 ) には、アメリカ軍 は、神々の司祭、教師とみなされるようにな 〈松村赳〉 た。日本では、一九七〇年代に入り、日刊新聞の一部が当市から出撃。 3 し られ、とくにオットセイは世界の八〇 % が生息 り、処世論その他の論書の創始者と仰がれた。 社により、最初のフリー パーが発行されプリマス Plymouth アメリカ合衆国、マ また、プリハスパティの名は、木星と結び付けするといわれる。一九五七年以来、アメリカ、 サチューセッツ州南東部、プリマス港に臨む小 られた。↓プラフマン 〈上村勝彦〉 ソ連、カナダ、日本により捕獲は厳重な統制下た。その後、次々と創刊され、八七年 ( 昭和六 ・イングランド地方におけるヨー にある。一七六七年にロシアのシンドが発見一 l) 現在、『サンケイリビング』 ( 約七四〇万都市。ニュー 。フリービエ Theodor Plievier ( 天九 = ー パーがあり、総ロッパ移民の最初の定住地として知られ、ピル す・一九 ) ドイツの小説家。ベルリンの労働者のし、八六年にロシアの・プリビロフが探検し部 ) など約九〇のフリ グリム・ファーザーズによって建設された。人 ま家に生まれる。第一次世界大戦に水兵として従た。一八六七年アラスカ購入以来アメリカ合衆発行部数は三五〇〇万部に及ぶと推定される。 〈鈴木ケイ〉 ロ三万五九一三 ( 一九〈 0 ) 。漁業やクランペリー シール ( オットセ ↓新聞 り・軍。大戦末期に水兵の反乱に加わり、このとき国領となる。別名ファー きっすいせん ( ツルコケモモ ) 栽培などの小規模産業もある 6 イ ) 諸島ともいう。 〈鶴見英策〉フリーポードマーク 0 喫水線 、ふの体験からルポルタージュ文学に手を染めた。 め
おり、清の乾隆 ( 一当六 ~ 九五 ) 以後は方言で語めぐって米ソの対立は生じていたが、一九四七 〔占領下の日本〕この時期の日本の運動として心となって憲法擁護国民会議 ( 議長片山哲 ) も 結成された。 られ、地方的色彩をもつようになった。代表的年のトルーマン・ドクトリン、コミンフォルムは、さらに一九四五 ~ 五二年 ( 昭和二〇 ~ 二 ようしゅう そしゅう しせん とくに一九五四年三月、ビキニ環礁でのアメ なものに揚州評話、蘇州評話、四川評書、湖の結成、四八年の・ヘルリン封鎖、さらに四九年七 ) の、アメリカを中心とする連合軍の占領下 ぶきよう リカの水爆実験による第五福竜丸の被災以後 北評書などがあり、歴史物語、武侠小説の長編四月の北大西洋条約機構 (Z<+O) の結成なの時期と、五二年のサンフランシスコ講和条約 が多い 〈尾上兼英〉ど、東西の対立は一挙に表面化し、いわゆるの発効から六〇年の第一次安保闘争に至る時期は、原水爆禁止の運動が大規模に起こる。この 運動は超党派の国民的規模で展開され、三〇〇 「冷戦」が開始された。こうした状況下でさま との二つに分けられる。 平和維持舌動へいわいじかつどう peace ・ ざまな平和への動きが生まれたが、そのなかで 冷戦の激化とともに、日本でも、知識人や労〇万を超える原水爆禁止の署名が集まり、また keeping operation 略称 00 国際連合 で平和維持活動という場合、平和維持に関するもっとも影響力をもったのは、世界平和評議会働組合などによる反戦・反ファシズムの共同声五四年の原水爆禁止署名運動全国協議会の結成 明などが出されたが、 (WorId CounciI of peace 、議長フレデリッ 一九四九年の平和擁護世を経て、五五年には原水爆禁止日本協議会 ( 原 国連活動一般をさすのではなく、特別の意味に かおる 用いられている。すなわち、紛争や事態の悪ク・ジョリオ・キュリ ー ) の運動であった。四界大会の呼びかけにこたえ、組織的な運動が開水協、事務局長安井郁 ) が結成された。五五年 からは毎年八月に原水爆禁止世界大会が開かれ 化、拡大を防ぐため、国連が小規模の軍隊や軍九年四月にバリとプラハであわせて七二か国約始され、同年四月、東京で平和擁護日本大会が うちなだ 事監視団を関係国の同意のもとに現地に派遣し 二〇〇〇名が参加して世界平和擁護大会が開催開催された。大会は、軍事同盟への参加反対、ている。また、五三年の内灘 ( 石川県 ) 射爆場 て、事態の平穏化を図る活動をいう。国連憲章され、原子兵器の禁止、軍事。フロック反対、植平和産業の発展、講和条約促進などの平和綱領反対の運動をはじめ、五五 ~ 五六年の沖縄の土 上、この種の活動について規定はなく、実践の民地体制反対、日本・ドイツの再軍備反対などを採択するとともに、後の日本平和委員会の前地取り上げ反対闘争、東京都下砂川の基地拡張 いくお 過程で生まれた概念である。平和破壊国に対しを決議、常設機関として平和擁護世界大会委員身である日本平和を守る会 ( 会長大山郁夫 ) を反対闘争など、米軍基地への反対運動は、六〇 設立した。この運動は、占領下、米軍と日本政年の安保改定阻止の大運動へとつながってゆ 強制措置をとる集団的安全保障システムの体制会を設置した。これが、のち、五一年に改組さ ぎせつ 府による激しい弾圧を受けながら、ストックホく。↓原水爆禁止運動↓基地問題 が挫折したあと、紛争当事者に対して中立的でれて成立する世界平和評議会の前身である。 非強制的な性格をもつ「平和維持活動」が登場 この運動は、一九五〇年三月、原子兵器に反ルム、ベルリン両アピールの署名運動や朝鮮戦〔第ニ期〕〔運動の多様化とベトナム反戦運動〕 一九五七年八月、ソ連が— 0 の完成を発 したのであるが、さまざまな末解決の問題を抱対し、それを最初に使用した政府を人類に対す争反対の運動を展開した。しかし、この時期に は、占領政策によって広島・長崎の原爆被害の表、続いて一〇月に初の人工衛星の打上げに成 えながらも、国連の現状のもとでもっとも現実る犯罪人とみなすという、いわゆる「ストック 的な平和維持の方式であると評価される。↓国ホルム・アピール」署名運動を呼びかけ、全世実態はほとんど知られす、初期の運動にあって功し、アメリカの軍事力の一方的優位の幻想が 連車 〈香西茂〉界で五億余の署名 ( 日本で約六四五万 ) を集めは、広島などごく一部を除いて、核問題は十分崩れると、核戦争の現実的脅威が西欧の民衆を とらえ、イギリスの OZZ ( 核軍縮運動 ) やバ に視野に入っていなかった。 平和運動へいわうんどう現に行われているた。この運動をはじめ、その後の「・ヘルリン・ ートランド・ラッセルらによる百人委員会、ド もう一つの流れは、雑誌『世界』の執筆者を 戦争、あるいは戦争の準備に反対し、平和を要アピール」署名 ( 五一年二月。米・英・仏・ ソ・中の五大国の平和協定を要求 ) などの運動中心とする平和問題談話会 ( 議長知 ) のイツの原爆死反対運動、アメリカの 求する大衆運動。かなり広い概念で、そのなか には、さまざまな思想、方法、組織の運動が含を通じて、世界平和評議会の運動は世界に広ま動きである。この会は、一九五〇年に、日本の ( 健全な核政策のための運動 ) など、各国で世 まれる。第二次世界大戦後の平和運動 ( 戦前のり、各国に平和委員会が組織され、活発な活動方向として全面講和、基地提供反対、中立の路界平和評議会系以外の運動が多様に誕生した。 一方、社会主義陣営の内部対立は世界平和評議 線を提唱、のち、再軍備反対を加えて「平和四 運動については「反戦運動」「反ファシズム運を展開した。世界平和評議会は、五二年のウィ 動」の項を参照 ) は、その規模においても、参 ーン ( 八五か国一八八〇名 ) 、五五年のヘルシ原則」とした。これは、総評 ( 日本労働組合総会の運動内部にも持ち込まれ、各国の平和委員 加する人々の層においても、戦前のそれとは格ンキ ( 六八か国一八四一名 ) など、大規模な平評議会 ) や社会党の方針としても採用され、五会をはじめ、アジア・アフリカ連帯の運動など みそう も分岐・多様化し、六五年七月のヘルシンキで 段の相違がある。第二次大戦の犠牲が末曽有の和大会 ( 集会 ) もたびたび開催した。とりわ〇年代の運動に大きな影響を与えた。 の世界平和大会では、民族独立運動、アメリカ け、朝鮮戦争 ( 五〇年六月 ~ 五三年七月 ) への 〔講和条約と安保条約〕一九五一年九月のサン ものであり、一一度と戦争による惨禍を繰り返し たくないという強い願望が民衆の間に生まれ、反対、原水爆実験の禁止、第一次インドシナ停フランシスコ講和会議を前にしては、すべての政府の評価などをめぐって意見が対立した。 しかし、一九六五年、米車の北爆開始によっ 交戦国との「全面講和」か、ソ連、中国、イン また、民主主義、独立、平等、人権などの理念戦 ( 五四年七月 ) と四大国首脳会談によるジュ が、さらに普遍的なものになった。一方、国際ネープ協定の成立 ( 五五年七月 ) など、緊張緩ドなどを除いたアメリカを中心とする諸国だけて第二次ベトナム戦争が激化すると、各国の都 との「単独講和」かをめぐって国論は激しく対市で反戦の集会・デモが次々と組織され、また 和のための行動に力を注いだ。この運動は、思 的緊張は絶えず存在し、戦場の範囲こそ限定さ ラッセルらの呼びかけで、アメリカの戦争犯罪 れていたものの、大きな被害をもたらした戦争想・信条の違いを超えるものとして呼びかけら立し、平和委員会などは、全面講和を要求する を裁く「国際法廷」 ( 六七年二月 ) が開催され が各地で繰り返され、そのうえ、核兵器など大れたが、各国内では、共産党系活動家が中心と「講和投票」の署名運動などを行った。しかし、 この運動は成功せず、五二年四月、沖縄を分離るなど、国際的規模での大きな反戦運動、ベト 量破壊兵器と、その運搬手段の発達が極度に達なって動き、西側諸国政府は、これをソ連の し、大規模な戦争による人類滅亡の危機さえ予「平和攻勢」として退け、国内の運動への弾圧してアメリカの統治下に残して講和条約は発効ナム支援運動が生み出された。アメリカでは、 見されるようになっているからである。 を図った。また社会主義諸国政府は、この運動し、同時に日米安全保障条約が発効した。これワシントン、ニューヨークなどで数十万の大反 より先、占領下、朝鮮戦争の勃発とともに、ア戦デモが行われ、運動は黒人の解放闘争、兵士 戦後の平和運動は、大きく三つの時期に分類を強く支援した。したがって、ハンガリー事件 メリカの指令により自衛隊の前身である警察予の軍隊内地下反戦運動とも結んで、アメリカ政 されよう。第一期は一九四五年から五〇年代末 ( 一九五六 ) や、いわゆる中ソ対立の激化など、社 、フまで、第二期は六〇年代、そして第三期は七〇会主義諸国内部の矛盾・対立が表面化すると、備隊が設置され、日本の再車備が進行した。そ府の政策に大きな影響を与えた。また六八年の 。ハリ「五月革命」など、西欧資本主義諸国では 運動内部の対立が激化して、しだいに有効性をれ以後の運動は、再軍備反対と憲法擁護、各地 わ年代前半のベトナム戦争終了以後である。 の米軍基地に対する反対などの運動をめぐってベトナム反戦を契機とした学生層の急進化が目 し〔第一期〕〔冷戦と世界平和評議会〕すでに第失い、影響力は相対的に低下するに至った。↓ 展開され、五四年には、社会党、総評などが中だった。↓学生運動 二次大戦の最終期になると、戦後世界の支配をストックホルム・アピール↓世界平和評議会 しんけんりゅう ばつばっ 913