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検索対象: 日本大百科全書 20
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1. 日本大百科全書 20

る。ズアオアトリの chafinch 、カワラヒワの 、フアのユダヤ人大迫害ののち、彼はユダヤ人の政フィン人ーーじんフィン語 ( フィンラン ド語 ) を話すフィンランド共和国の大多数を占 greenfinch 、キンカチョウの zebrafinch 、セ ん治的権利を弁護するために、使節団長として口 ーマのカリグラ帝のもとに派遣された。著作のめる民族。フィンランド人に同じ。ただし、国 イコウチョウの parrotfinch などがその例で ぐうい ア ある。また、飼い鳥としては、べニスズメ、キ 、か大部分はモーセ五書の注解であり、寓意的方法籍的な意味でのフィンランド人には、スウ = ー フ を用いて文字の背後にある哲学的意味を探ろう デン語を日常母語として通常「フィンランドの ン。ハラのように安価なものを並フィンチ、ヒノ ン とした。プラトンのイデア論、ストア哲学のロ スウェーデン人」とよばれる人口の六 % ほどの マルチョウ、コウギョクチョウなど高価なもの タ ゴス論の多大な影響を受けたが、彼の思想の基少数派民族が含まれる。国外では、アメリカ合 をさして高級フィンチなどとよぶことばもあ ン イ る。 本はユダヤ教信仰である。人間の至福は魂が神衆国に約二〇万人、カナダに約六万人、オース 〈坂根干〉 フ をみることにあるが、神の一方的な恵みだけが トラリアに約一万五〇〇〇人のフィンランド系 フィンランディア Finlandia シ。ヘリウ それを可能にすると説いた。彼のロゴス ( 神と移民がいる。また、毎年一万人前後がスウェー 開、五八年地下潜行。六〇年南ベトナム解放民ス作曲の交響詩 ( 作品一一六 ) 。帝政ロシアの支 世界との媒介者 ) の思想はキリスト教教父に大デンに移住し、同時に数千人が帰国している族戦線結成に際し副議長、六四年書記長。六九 配下にあったフィンランドで、愛国独立運動の きな影響を与えた。 〈梅本直人〉が、おもに出稼ぎ的性格のものである。フィン年臨時革命政府樹立とともに首相に就任。七六 一環として一八九九年に上演された民族史劇に フィン・ウゴル語派 ーーごはフィン語人の人類学的特徴としては、長身で色白、人口年統一ベトナム中央政府副首相兼国家建設委員つけた音楽がその原型となっている。この劇音 派とウゴル語派の総称。北欧、東欧、ソ連で話の約八割が金髪あるいは亜麻色の髪をもち、目長。八一年国家評議会副議長、八三年ベトナム楽からおもな部分を編出し、翌一九〇〇年にま されるウラル語族の一語派。↓ウラル語族 は青あるいはグレーで典型的北欧人であるが、 〈黒柳米司〉 祖国戦線議長。 とめられたのが『フィンランディア』で、同年 リの万国博で初演された。侵略に苦しむ民衆 フィンカーホウル finger bowl 食事中フィンランド語は、ハンガリー語や東北ロシアフィンチ finch 鳥綱スズメ目の小鳥のう に指先を洗うために用いる小さい容器。西洋料からシベリア一帯に広がるフィン・ウゴル諸語ち種子食、穀食に都合よく進化した、じようぶが闘争を通じて勝利を手にするまでを描いたこ えんすい くちばし 理では一般にステンレス、銀、銀めつきなどのと親族関係にある。現在、ソ連内のカレリア自 な円錐形の嘴をもつアトリ科、カエデチョウの作品は、不穏当であるとして当時のロシア官 金属製の小さいボウルを用いる。少量の水を入治共和国にはフィン人と同系のカレリア人が約科の鳥に共通して用いられる英名。アトリ科で憲がその演奏を禁止するほど国民の愛国心に強 れ、デザートの果物を食べるときに出す。西ア九万人居住する。↓フィンランド語〈玉生謙一〉 はアトリ属、ヒワ属、マシコ属、ウソ属、カエ く訴えた。シベリウスの作品のなかでももっと デチョウ科ではクロキンバラ属、コウギョクチもポピュラーなもので、中間部に置かれた平和 ジアなど手で直接食物をつまんで食べる地域でフィンスターアールホルン山ーーさん ガラス器なども用いられ、食事中にずっと Finsteraarhorn スイス南西部、アルプス中ョウ属、キンセイチョウ属、セイコウチョウを象徴する賛歌は合唱曲としても広く親しまれ 出されている。香料やレモンの薄切り、花など部、ベルナー・オー している ーラントにある峰。標高属、アサヒスズメ属などに多く使用されて、 〈三宅幸夫〉 で水に香りをつけることもある。〈河野友美〉四二七四シュレックホルン、フィッシャー フィンカー・レークス Finger Lakes ホルンなどとともにフィンスターアールホルン アメリカ合衆国、ニューヨーク州中西部の氷河山群を形成する。フィンスターアール氷河などフィンランド Finland 年年ト 湖群。いずれも南北に細長く、指を広げたよう多くの氷河に囲まれる。ベルン州グリンデルワ 0 五ロ な形に配列している。一般にはセネカ湖、カュ ルトに近い美しい峰で、早くから登山家の興味 ス ン 、′レル一丁 ーガ湖などの七つの湖をさすが、さらに西側のをひき、一 八一二年スイスのマイヤーが登山し デ , ク 3 年 年年 ド」「ロ教 . 四つの小湖を加えることもある。いずれも冬季たが果たせず、同行のスイス人ガイド < ・アプ 年囲万万プ正 工マ 0 ) -4 ・ ア 〈徳久球雄〉 結氷しない 。この地域は風光明媚なことでも知ビュールら三人が初登頂した。 7 2 、冫ン 11 ー / 《 0 「 / レ ストー 0- ・ ( ノ亠じ立じノ ロ 人 2 られる。 〈永井信夫〉フィンセン NieIs Ryberg Finsen ( 天 英 テ ワワ」 キン レ 国 ア′ -0 ・《 0 戸 0 LO 【 / フィンク Eugen Fink ( 一九 0 五ー七五 ) ド六 0 ー一九 0 四 ) デンマークの医学者。フェロー諸 和 凵 0 人。シン ル % 立 4 11 ) 0 ー / ィッの哲学者。フライ・フルク大学教授。フッサ島のトールスハウン生まれ。一八九〇年コペン 1-0 ノ . イ引万出入音 へフ日フ 1 1 輸輸福 00 4 ・ 1 人 0- ールの最晩年の助手を務めてその現象学を受け ーゲン大学医学部を卒業、解剖学教室助手と ン— 率 継ぎ、創造的な解釈を通して新たな可能性を切なる。生活体に及ばす光線の影響を研究し、九 ラ てんねんとう 五ロ 度加 ニ = ロ 」り・開ノ v' と一とも - に、、 ノイデッガーやニーチェ、初三年天然痘の赤外線療法に関する論文を発表。 公心、 密増言 イ 。積ロロロ都要貨 内易教 期ギリシア哲学者の影響のもとでその現象学に九六年光線研究所を創設して研究し、その結 ろうそう フ面人人人首主通 国い貿宗 批判を加え、独自の現象学的存在論を唱えた。果、皮膚結核 ( 尋常性狼瘡 ) に対する特殊光線 彼は、世界ないし宇宙に開かれた人間の存在の の治療効果を確認した。この業績で一九〇三年 ヨーロッパ北部、スカンジナビア半島の付け 候は寒冷であるが農林業は盛んである。面積三 もつ意味を、自己の実存の内的証言から問い求ノーベル生理学医学賞を受けた。〈大鳥蘭三郎〉 根に位置する共和国。フィンランド語の正称は三万八一四五平方キ。。うち三万三五二二平方キロ スオミ共和国 Suomen Tasavalta 、スウェ めていった。そして人間存在の意味を、具体的フィン・タン・ファト Huynh Tan が内水面で、森と湖の国といわれ、正称「スオ ) ベトナムの政治家。メコ な人間学的根本現象とされる労働、支配と闘 Phat ( 一九一三ー デン語名 Republiken Finland 。北緯六〇度ミ」の suo は湖沼を意味する。人口四九一万 争、愛、遊び、死の交錯と緊張のなかで、世界ン・デルタのミト生まれ。ハノイ大学在学中か から七〇度にわたり、南北に細長い。南はフィ〇七〇〇 ( 一九会 ) 。首都はヘルシンキ。 と世界内部的なものとの「宇宙・人間学的差ら民主運動に投じ、一九四一年ベトナム独立同ンランド湾、西はポスニア湾に面し、東はソ 国旗は白地に青十字で、雪の白、湖の青、キ 異」に注目しつつ分析した。 〈千田義光〉盟 ( ベトミン ) に参加。五四年サイゴンで建築連、北はノルウェー、北西はスウェーデンと国 リスト教の十字を象徴する。国歌は・・ル ご 0 フィンランド語 事務所を営みつつ反ゴ・ジン・ジェム活動を展境を接する。国土の三分の一弱が北極圏で、気 ーネベルク作詞、・。ハシウス作曲の RMaam- フィン語 0

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ぶつぞう あみだ しやか によら、 る。一〇 ~ 一二世紀に至って他の文化と同様に仏像にも和風ているが、実際に造像されるのは、如来では釈迦、阿弥陀な 様、朝鮮半島の仏像彫刻もしだいに衰えていく。 ほうおうあみだによらいぎぞう 化傾向がおこり、平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像のような典麗ど数尊にすぎず、菩薩以下を含めても三十尊程度である。そ 仏教の日本公伝は五三八年 ( 欽明天皇四 ) とされるが、仏 しんしよう みようおうてんぶ じようちょ、つ あすか な定朝様式が流行した。鎌倉時代の一三世紀には天平復古れらの仏像を大別すると、如来、菩薩、明王、天部、神将 像が日本で本格的につくられるようになったのは飛鳥時代も びくぎよう が唱えられたが、 実際には天平の理想化された写実とは異質などで、これに比止形などを加える場合もある。 七世紀に近くなってからで、最初は法隆寺釈迦三尊像のよう ' 、お、つ 〔如来〕如来とは梵語の tathägata の漢訳で、真理の体得 の、東大寺南大門の仁王像のような現実的なものへの追求が な中国北魏の様式を受けた象徴的な作風が主流であったが、 かんのん 別に法隆寺百済観音像や中宮寺菩薩判跏像のような優美な系みられる。やがてこの写実主義も形式化し、南北朝の一四世者、悟りを開いた者の意である。仏という語は。フッダ ( 仏陀 しやくそん 統や、朝鮮の直模のような像もみられる。七世紀後半になる紀ごろから造像量は多くなるものの、しだいに衰退してその Buddha) をさし、原始仏教では釈尊、つまり釈迦だけが如 来であったが、のちには意味を拡大して、多くの像が加わっ と、唐風の写実的で豊満な表現になり、やがて八世紀の天平後は息を吹き返すことなく、今日に至っている。 て、釈尊と同列の神格を与えられた如来全般をさすようにな 彫刻の黄金時代を迎えると、写実的傾向はさらに強くなり、 仏像の種類と特徴 り、系列化された。 生き生きした彫刻性が発揮された。↓天平彫刻 ぶつばさっ 如来の姿は人間の形を基本とし、これに三十二相八十種好 経典には非常に多くの仏菩薩が説かれ、密教における世界 平安時代に入り、九世紀には密教の輸入、木彫の流行によ ずいぎようごう りようかいまんだら って仏像の性格が一変し、威力と神秘性を備えるようにな観を表現した「両界曼荼羅図」にも二千体近い像が描かれ ( 随形好 ) と称する、人間とは違った宗教上の理想的な特色 第〕岩期ら」る 砂タか以槃す フ段石涅属 トグ下「」付一 一部輪が ナ館央法 ル物中転変 初神 ン彫道城 末イ浮成衛 紀の舎谷 世タ図「降「 」戸工当卩気み ッ - 5 ツ」仏「」は カ仏生に ノ相カれ迦両 か】切 (. 0 、 4 丿 . 「し【釈つに表 ③高に上を 岩マ′陀 少期〕仏 初の , 〉 ~ 第亠ウ館最 物土 マ博本 、期考ン 一《朝ノ ・を 2 マ型 う像 5 の 、坐っ・一仏 一フ ②高ウ 仏像 / 起源と展開 ①菩蒔立像 2 ~ 3 世紀ガンダーラ片岩 , ' ・デリー博物館ギリシア 高 92 .6cm 彫刻の影響を受け , きわめて写実的に彫出さ れた典型的なガンダーラ仏である ↓、第を・きー ~ ミ 3 ④第第 つんこうせ - ④大仏立像 465 年ころ雲岡石窟第 18 洞砂岩高 15 .6m 曇曜五窟とよはれる最初期石窟の大仏の一つ。法衣のひだ に添って千仏がびっしりと彫られている。中国山西省大同 市郊外 ⑤如意輪観音坐像 8 世紀ないし 9 世紀木造素地切金 像高 17.9cm 重文奈良法隆寺やや下膨れの面長の顔 , 胸や手の甲など厚みのある肉づけがされた六臂の像で , 密 教像や檀像に類例が求められる。中国唐代の作 ⑥如来立像 8 世紀銅製鍍金韓国慶尚北道善山郡高牙 面鳳漢ニ洞出土像高 40.3cm ソウル国立中央博物館 典型的な新羅仏で , 統一新薙初期の制作と思われる。 1967 年に 2 体の観音菩薩立像とともに出土した ⑦如来立像 8 世紀銅製鍍金像高 38.2cm 重文長崎 海神神社地理的に朝鮮半島に近い対馬に残る朝鮮来仏 の一つ。統一新羅時代の作で , 前記善山出土の如来像とし はしは比較される ⑧釈迦如来坐像 623 年 ( 推古天皇 31 ) 主利仏師作銅製鍍金 像高 86.4cm 国宝奈良法隆寺金堂に安置される釈迦 三尊像の中尊。中国北魏様式の流れをくむ典型的な仏像 395 しゅごう

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、れるので、与える刺激の種類や量には注意が必 兎、狸、鹿、羊、馬などれる。中国や日本では書の筆も絵筆もほとんど が普通だが、 苗、鼬、が毛筆であるが、西洋では、絵画用の毛筆と筆 4 な要である。すなわち、生体反応をおこす最低の てんわずみおおかみ りす 貂、鼠、狼、栗鼠、記用の硬筆 ( ペン ) とは、はっきり分かれて発 きつね っ刺激量から始め、一回量や反復回数および間隔 称 などは個人差を考慮して決める。普通、いくっ 狐、猿、水牛、熊、豚、達した。 名 となかい てん かの物理療法を組み合わせて行う場合が多いの 馴鹿なども使われ、とき 〔西洋画の筆〕大別して豚毛の剛毛筆と貂、 筆鋒 ( 穂 ) 筆部 いたち で、とくに刺激が過大にならないようにする。 には胎髪筆もある。兎の鼬に代表される柔毛筆があり、今日ではナイ 物理療法は理学療法ともよばれ、それそれ物が現在判明している最古のものといわれる。蒙毛は紫毫ともよばれて、非常に古くから文献に ロン製の剛毛筆もある。獣毛は毛先の形をその きょえん けん′一う 療、理療と略称されるが、リハビリテーション恬将軍の筆に近い形とみられるものに「居延みえる。また「兼毫」というのは二種以上の原まま生かして筆の穂先にし、古くは鳥の羽根の 医学の進歩とともに、現在では主として物療は筆」がある。これは一九三〇 ~ 三一年に西北科毛を混ぜ合わせたもののことで、七紫三羊、五羽管 ( 軸 ) が毛をまとめるロ金がわりに使われ 内科領域、理療はリハビリテーションや整形外学考査団がエチナ川上流の居延地区 ( 内モンゴ紫五羊などは兎の毛と羊の毛を混用した例であたが、いまでは貂などの高級で小さな特殊なも 科領域で用いられる。この場合の理学療法の内ル自治区 ) で多くの木簡とともに発掘したものるが、現在の日本ではほとんど得られず、もっ の以外は、ほとんど金属製である。大きさは通 容は、運動療法を主体として補助的にその他ので、木簡から推定して紀元前八〇 ~ 前七五年ご ばら中国でつくられる。獣毛は冬毛が珍重され常〇号から一二号まであるが、ごく細いものや 物理療法を用いる治療体系となっており、医療ろと考えられる。また一九三一一年には漢代 ( 前 るが、鹿毛だけは夏毛も喜ばれている。変わっ 幅広のもの、あるいは穂先の長いものもある。 らくろう おうぎし らんていじよ 法では理学診療科という診療科名が認められて二 ~ 後三世紀 ) の楽浪の遺跡、貞里一二一号たところでは、王羲之が『蘭亭序』を書くのに ①豚毛の剛毛筆豚の背毛の一部を用いてつく もっかく そしゅひっ いる。その専門従事者として理学療法士および木槨古墳からも毛筆が出土している。長沙筆は鼠のひげを集めた鼠鬚筆を使ったという伝説が られた油彩用のもっとも標準的な筆。一九世紀 作業療法士がある。↓理学療法↓作業療法 管の長さ約一六・六、直径約〇・六、のある。 中葉まではほとんど丸筆だけであったが、今日 なお、物療内科というのは東京大学医学部に長さ約二・五垰一、居延筆は木軸を四つ割りにし〔製法〕製法上からは、穂先をふのりで固めたでは大別して次の四種の型の筆がつくられてい ある診療科名で、内科学教室において物理療法た一端に穂を挿し込んで麻糸で縛り、根元を漆「水筆」、固めずにばらばらのままにした「捌きる。①伝統的な丸筆、②平筆 ( 長さが幅の一一・ しんちゅう うわ 学の講座が設けられ、内科学第一・第二・第三・ で固めてあり、管の長さ約一一一垰一、直径約〇・ 筆」、古い形態として心柱を紙で巻いた上に上五倍 ) 、③プライト型 ( 平筆の一種で、通常の しん げ まきふで こわ 第四とは別に内科物理療法学科が独立し、物療七、鋒の長さ約一・四純ンで、剛毛の芯の周囲毛をかけた「巻筆」に大別される。水筆を例に平筆より穂先が短く、毛が薄くて剛い ) 、④フ 内科として診療にあたっている。〈小嶋碩夫〉 に羊毛らしい上被がかけられている。「楽浪筆」製法の概要を述べると、まず原毛の癖直し、脱イルバート 型 ( 丸筆を平たくした形 ) 。 ・一しがや け′一しら ていた 脂のあと、「毛拵え」した毛を手板でそろえ、 柔毛の筆柔らかくしなやかな獣毛製の筆 物類称呼ぶつるいしようこ方言集。越谷は時代も製法も居延筆に近い ごぎん いのちげ ( 埼玉県 ) 出身の俳人越谷吾山 ( 一七一七ー ) 著。 遺品からみた筆の歴史は以上のとおりである「水固め」をして命毛 ( 穂の芯になる長い毛 ) は、水彩画やテンペラ画のみならず、古典的な きっこう 一七七五年 ( 安永四 ) 刊。全五巻を巻一「天が、殷代 ( 前一六 ~ 前一三世紀 ) の亀甲獣骨文を出す。その周りに薄く毛を巻き「のどづけ」油彩画にも用いられた。なかでもコリンスキー はたげ 地・人倫」、巻二「動物」、巻三「草木 ( 生とともに発掘された白色土器に、毛筆でなけれをして心柱をつくる。心柱の上に畑毛を添えてとよばれる最高級品は、シベリア産の赤貂 ( レ しんた 植 ) 」、巻四「衣食・器財 ( 器用 ) 」、巻五「言 ば描けないと思われる文様があったり、甲骨文「真立て」をしたものに「上毛かけ」をしてッド・セープル ) の毛だけでできており、腰の 語」のように分類し、計五五〇の見出し語の下のなかには銅刀で文字を刻み込む前に毛筆で下「苧締め」をし、軸に「すげ込み」をする。軸強さと弾力 ( 復原カ ) の兼ね合いに優れ、穂先 にそれにあたる各地の方言を記す。その数約五書きしたと思われるものもある。またさらに古の「面取り」「くり込み」をし、漆や接着剤な ; 繊細で鋭いという特徴がある。これは、中間 ぎようしよう りゅうぎん 〇〇〇。ときに古書を引き、詳しい解説を付 い新石器時代末期の竜山期や仰韶期の彩陶のどで穂をすげ、さらにふのり、みようばんの液で太くなり、先端で鋭くとがっている独特の毛 さや す。序文には、簡単な日本方言の概観もあり、文様も筆で描かれたと推定され、これによれば中に浸して絞る。そのうえで軸に銘を彫り、鞘の形によって生ずる効果である。ほかに白鼬、 あなぐま りす また辺境の地に古語の残ることなども記されて毛筆の起源は前二五〇〇年以前にまでさかのばをして仕上げとなる。 穴熊、栗鼠 ( 「らくだ毛」とよばれているもの ることになる。 いる。わが国最初の全国方言集で、質量ともに 新しい筆を下ろすときは、形を整えるために は栗鼠の尾の毛 ) などの毛も使われている。ま 優れ、明治・大正のころまで本書をしのぐもの 日本の筆は中国、朝鮮から伝えられ、五世紀つけたふのりは洗い落とさなければならない た牛の耳からとる牛毛は、セープルより剛くて せん よゝっこ。 〈坂梨隆三〉 ごろにはすでに使われていたものと推察されるまた筆の良否を見分けるのには、尖 ( 穂先が鋭弾力に富み、セー。フルと混ぜて水彩筆用に使わ くだらわ くて乱れのないこと ) 、斉 ( 穂先を広げたときれる。 筆ふで文字や絵をかく道具で、一般には穂 ( 『日本書紀』に四世紀末来朝の百済の王仁が えん にきれいにそろっていること ) 、円 ( 穂に水や ③ナイロン筆アクリル絵の具などのポリマー に獣毛を用いる。筆記具としての筆は、鉛筆、『論語』一〇巻、『千字文』一巻を進貢したとみ けん 万年筆などもあるため、とくに毛筆とよぶことえる ) が、七世紀初頭、高麗僧により紙墨の製墨を含ませたとき円満な姿であること ) 、健樹脂絵の具のためにつくられたナイロン製の剛 はたん も多い。また「花の木」の異称もある。 法がもたらされていることから、製筆法もほば ( 充実した線が破綻なく書けること ) の四条件毛筆。アクリル絵の具は速乾性なので、水に浸 しん を参考にするとよい。さらに、保存するとき 〔歴史〕毛筆の創始は文献上では中国の秦 ( 前同じころ招来されたものと思われる。 して筆の凝固を防がなければならないため、水 おおふでちゅうふで もうてん 一一一二 ~ 前一一 0 六 ) の蒙恬将軍とされ、その功績によ 〔種類〕大きさから分けると「大筆」「中筆」は、穂の虫害を防ぐため防虫剤を用いることが に強い材料でつくる必要がある。 ていと こふでほそふで かんじよう 〈植村和堂〉 り管城に任ぜられたことから、筆には「管城」「小筆 ( 細筆 ) 」となる。大筆のなかには「提斗望ましい 〔日本画の筆〕江戸末期ごろまでは書の筆とと の異名が伝えられるほどであるが、一九五四年筆」とよばれる超大筆もある。穂の形からは 〔絵画用の筆〕絵筆の歴史はほとんど絵画の起 くに異ならなかったが、明治になって西洋絵画 ↓っし・う一 ちト - うほう めんそう じゃくとう すずめ に中国湖南省長沙市左家公山の第一五号墓から「長鋒筆」「短鋒筆」「面相筆」「雀頭筆」 ( 雀源と同時代にまでさかのばるが、木の枝や草の技法の影響と、新しい日本画の復興運動からさ てんびんちくかん ゃなぎば 発掘された竹製の行李のなかに、天秤、竹簡、の頭のような形の短鋒の筆 ) 、「柳葉筆」「捌き茎をささら状にしたものが原型と考えられ、古まざまな絵筆が考案された。材料には山羊、鹿、 すいひっ 銅刀などとともに、筆筒に入れた筆が発見され筆」「水筆」などの別があり、また穂先の素材代エジプトでは葦の繊維をほぐして束ねたもの兎、鼬、貂、狸などが使われ、それそれの毛 わらふで むくげ た。この墓は秦に滅ばされた楚の国の墓である によって「毛筆」「藁筆」「草筆」「木筆」「槿が使用されていた。今日のような獣毛も、おその性質を生かし、各種組み合わせることで用に と ) 一うう一ぎ ちょうさ ところから、この兎毫 ( 兎の毛 ) の「長沙筆」筆」などに分けられる。毛筆に使われる獣毛は らく先史時代から利用されていたものと推測さ かなった筆がつくられ、用途別の名称がある。 掛け紐 すげ込み ( 軸入 ) 腰腹のど ひっう 命毛 あし ためきしか ゼロ

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ンの商品名でかってはよく使用されたものであプロメテウス prometheus ギリシア神 よプロムナード・コンサート prome ・ 話のテイタン神族の一人。アトラスやエピメテ nade concert 大衆的な軽い音楽の演奏会。るが、現在では新しい薬剤にかわり、ほとんど む プロムナードは散歩とか遊歩場の意で、その名使用されなくなった。催眠作用のほか、鎮痛作ウスの兄弟にあたる。テイタン神族とオリンポ ろ のとおり、一七世紀後半に「ガーデン」とよば用と緩和な鎮静作用もあり、日本薬局方の製剤ス神族が覇権を争ったとき、プロメテウスは世 にはフエナセチン・ワレリル尿素散、ジフェン界の支配権がゼウスに帰することを予見して彼 れる会場で行われた演奏を、聴衆が散歩をしな に味方した。そのため敗れたテイタンたちが大 がら、あるいは立ったままで聞くような音楽会ヒドラミン・ワレリル尿素散がある。通常、不 をさした。のちには劇場などで催されるワルツ眠には〇・五 ~ 〇・八を就寝前に一回服用す地の奥底タルタロスに投げ込まれても、彼だけ は神々や人間たちと自由に往来することを許さ ~ 一を三回に や序曲、ポビュラーな曲目を中心にした演奏会る。鎮静の目的では一日〇・六 もこの名でよぶようになった。この種の演奏会分けて経ロ投与する。プロムワレリル尿素は無れた。しかし、やがて悲惨な状態にある人間に 深く同清するようになったプロメテウスは、人 の最初は、フランスでミュザール Philippe 色または白色の結晶あるいは結晶性粉末で、に 間に対して容赦のないゼウスと対立するように おいはなく、味はわずかに苦い。劇薬で、極量 Musard ( 一七九三 ー天五九 ) が主宰するポ。ヒュラー 〈幸保文治〉 なる。犠牲の牛を神々と人間で分け合う方法を は一回二 一日三である。 音楽の演奏会に刺激されて、一 八三八年ロンド ンのライショーム劇場で開催された「ミュザープロメチウム promethium 周期表第決めるときも、またプロメテウスが天上の火を 苦描のド館 まをノマ術 ル風のプロムナード・コンサート」であるとさ族、希土類元素に属するランタノイドの一つ。盗み出して人間に与えたときも、ゼウスは痛い ま姿一。美 たるア』ド れている。一八四〇年にはミュザール自身渡英人工放射性核種の一つでもある。六一番元素をめにあった。当時の人間は火をもたず、したが くらやみ ラ スれけイ し、この種の演奏会を行い好評を博した。以来、探す試みは多くの化学者によって行われ、発見つて夜は暗闍のなかで野獣を恐れ、火を用いて ウが続ツ一プ テなけイ メ したという報告が一九二六年ごろ五件も提出さ食物を料理することも知らなかったので、彼は 世界各地でこの名が使われているが、今日では メっ受テ 口にをた一 「ポストン・ポップス」の名で親しまれているれたが、いずれも裏づけができず公認されなか大茴香の茎の中に天上の火を隠して地上へも プ鎖痛 った。サイクロトロンを用いて放射性元素を得たらしたという。さらにプロメテウスは、人間 ポストン交響楽団のプロムナード・コンサート の特質が余すところなく生かされている。↓縛 る試みもなされたが、最終的に一九四七年、アが生きていくために必要な知恵と技術を教え、 が一八八五年からの歴史をもつ。〈寺崎裕則〉 ^ 上島建吉〉 られたプロメテウス まさしく人類の文化の因 5 人であった。が、ここ メリカのマリンスキー Jacob A. Marinsky 。フロムフィールド Louis BromfieId に至ってついにゼウスはプロメテウスと人間に回石川重俊訳『縛を解かれたプロミーシュー ) らにより初めて存在が確認された。 ー一九五六 ) アメリカの小説家。オハイオ州 ( 天九六 ス』 ( 岩波文庫 ) 対して仕返しをする。つまり、人間の最初の女 に生まれ、第一次世界大戦に従軍後、新聞記者第二の火といわれるウランの核分裂生成物中に 、ロゲン化 ハンドラをつくってエピメテウスのもとへ連れフロモエタン bromoethane ノ としてフランスに長く滞在した。処女作『緑の発見されたことから、ギリシア神話の火の神プ げつけいじゅ 月桂樹』 ( 一九 = 五 ) に始まる四部作『脱出』はアロメテウス prometheus にちなんで名づけらてゆき、人間にあらゆる災いをもたらすとともアルキルの一つ。臭化エチル、エチルプロミド に、プロメテウスを遠いコーカサスの岩山に鎖ともよぶ。エタンの水素原子一個を臭素原子で メリカ中西部の家庭生活を描き、そのうちのれた。質量数一四〇から一五二までと、一五四 おおわし の同位体が知られている。もっとも半減期が長でつないで大鷲に彼の肝臓を食わせ、夜の間に置換したもの。無色の液体。水に難溶、エタノ 『初秋』 ( 一九一一六 ) で。ヒュリツツアー賞を受けた。 いのはプロメチウム一四五 ( 一七・七年 ) であふたたび肝臟が元どおりに回復するという絶え イ品は多いが、異国情緒豊かな『雨季来る』 ( 一九三七 ) 、『ポンべイの夜』 ( 一九四 0 ) や、農場経営るが、核燃料の再処理でもっとも多量にプロメることのない苦痛を与えた。長い年月ののち、 度肥 1 の記録『マラバー農場』 ( 一九四 0 などが知られチウム一四七 ( 二・六年 ) が得られるので、こ旅の途中のヘラクレスが大鷲を射落としてプロ ワ 3 bC O ン 0 5 定 7 〈井上謙治〉れから化合物や金属がつくられた。酸化数Ⅲのメテウスを救い出し、やがてゼウスとプロメテ ている。 2 、 6- 1 亠 & 」測〃 0 ・小 0 一 〈伊藤照夫〉 〈守永健一〉ウスは和解する。 プロムリー Bromley イギリスの首都大化合物をつくる。 工 1 ・刀し モ プロメテウス解縛 ロンドンの区の一つ。面積一五一・八平方キ。 率度 毖式量 ロ o 子子点点重折解 ばく Prometheus Unbound 人口二九万四四五一 ( 一九八一 ) 。一九六五年に旧 プ 9 ⅱ 0 3 5 ー 8 分分融沸ヒ 上屈溶 イギリスの詩人シェリーの詩劇。 二区とケントの一部を併合して成立した。ロン ヘンゼンなどの有 ール ( エチルアルコール ) 、・ 讐四幕。一八二〇年刊。アイスキロ ドン南東端にあり、グリーンベルト ( 市街地の スの『縛られたプロメテウス』に機溶媒に可溶。経ロ・吸入ともに有毒 ( 許容濃 拡大を防ぐ緑の地域 ) に接するが、ロンドン中 基づいているが、この人類の擁護度二〇〇 ) 。エタノールに臭化水素酸と 心部への交通の便に恵まれ、居住環境のよい住 Ⅱ 3 N 4 8 日 9 7 9 少量の硫酸を加えて蒸留すれば得られる。 2 0 4 7 者が原作のように妥協をせす、ど 宅地域として発展した。区内にはショッビン 2 、 4 7 こまでも秘密を明かさないため、 グ・センターや事務所地区のほかに、製紙、電 度 ならく CH3CH20H + HBr , 。ー↓ CH3CH2Br + H20 、ロ田 x ゞ ついに圧制者ゼウスは奈落に落 気機器などの工場もある。一八五一年のロンド E 3 2 4 7 0 方 5 っ 0 5 ち、地上に愛と自由の理想郷が実アルカリと加熱すればエチレンを生じる。有機 ン大博覧会の象徴である水晶宮がここに移築さ Ⅶ 2 4 7 O O 合成でエチル化剤として利用される。また、麻 現するというテーマ。社会改革の 〈井内昇〉 れたが、一九三六年焼失した。 ム E 1 凵ⅱ ・固 〈加治有恒〉 理想がプロメテウス神話という絶酔剤としても用いられる。 にようそ brom- ウ プロムワレリル尿素 かざん Gunung Bromo 好の媒体を得て、宇宙論的な広がプロモ火山 valerylurea 催眠・鎮静薬で、一九〇八年ド メ記番量 インドネシア、ジャワ島東部のテンゲル山地の りと奥行をもっ壮大な叙事詩に結 4 1 2 3 5 8 ィッのクノール社でプロムラールの商品名で初 ク .7 チー ロ素子子点点重晶 5 7 「ン ~ ク ~ 晶したもので、シェリーの想像力カルデラ内にある火山。玄武岩と安山岩の噴石 めて発売され、日本では。フロバリンやカルモチプ元原原融沸比結 ( 一九天 おおういきよう 776

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1 500 1 800 1 200 ミぎ当ぎを社 蒸気船 18 世紀の末ころか ら蒸気機関によって船を推 進させる研究がイギリス , アメリカなどの諸国で行わ れ , アメリカのフルトンが 実用化した。クラーモント 号 1807 年 北欧型コグ船船の前後に船首楼 , 船尾楼をもつ 1 枚横帆 方式。軍用 , 商用の両用に発達していった 1 4 世紀 キャラック船 1 5 世紀の地中海沿岸における 典型的な帆装形式。舷側が高く , 前方へ突出 した船首楼 , 船体のわりに大きい船尾楼を備 えているのが特徴である 1 6 世紀 ガレオン船軍 船 , 貿易船とし て用いられた大 型帆船。ミズン マストに縦帆を もち , 船首楼を 低くして風上に 切り上げやすく した 1 7 世紀 レバント ( 地中海東部 沿岸 ) 地方の漁船逆 風でも船が風上に進め る三角縦帆を用いてい 1300 年ころ ーイ・日 T 「い町 ロトウンダ式キャラベル船横帆を装 備したマスト 2 本と三角帆を装備した マスト 1 本をもつ 1 5 世紀 前二〇〇 ~ 紀元後三〇〇年にかけてローマが覇権を握った。 船紀 帆世 その間に発達した軍船がガレー船で、追い風のときにのみ 横帆を揚げ、主として櫂によって漕ぐ方式の軍船であった。 用れ 」」一一海らその櫂を上下に二段にした二段櫂船、さらに三段にした三段 洋用櫂船へと発達し、速力を競った。また船体を細長くして舷側 しょ・つかく 二大が ら帆 を低くし、船首には衝角という突出物をつけ、敵船に向か か角 入口 って突き進んで、水線下に穴をあけて沈めるという方法をと っていた。後代になると五段櫂船なども現れたが、実用上は ルマ 三段櫂船までが限度だったと思われる。ガレー船の漕ぎ手 ラ 3 は、普通二〇人程度、特別のものでも五〇人程度であった。 キた ↓ガレー船 式し ン達 商船については、ローマの穀物船の記録が参考になる。単 テ発 純な一枚の横帆をメインマスト ( 主帆柱 ) に張って主帆と し、船首にフォアマスト ( 前帆柱 ) をもち、これに小さな横 そうだ 帆をかけて操舵の助けとした。しかしこのような穀物船は、 船の積載量のみを増したこと、舵は櫂によっていたことなど から、操縦性は非常に悪かったといえる。 中世初期のヨーロツ。ハは、聖書の誤った解釈のために科学 の衰微期であった。そのなかで、 ~ 一〇世紀のノルマン人 のバイキング船の活躍のみは、目を見張るものがあった。彼 らは、荒れ狂う北洋の航海を主としたために、船を、地中海 の航海にとどまっていたものよりもはるかに頑強にしなけれ かんげん ばならなかった。バイキング船は、漕ぎやすいように乾舷 ( 船の横側で水面上に出ている部分 ) を低くした比較的小型 の船であった。その一形式であるゴッグスタット船を例にと れば、長さ三〇、幅四、乾舷はわずか一 弱の船体で、 キール ( 竜骨 ) を平らにすることで浅瀬や引き潮時に強く、 斜紀 傾世 船首は非常に高くあがっていた。また船尾も、暴風や波浪に 耐えられるように船首に似た形にしてあり、船体はすべてオ ーク材でつくられていた。漕ぎ手は三二人で、一枚の四角な 首置 船を横帆は追い風にのみ使用され、通常一日に一五〇海里 ( 約二 し重七八キ。 ) は進むことができた。↓バイキング 細速 しかし、中世ヨーロッパにおける船の発達が計画的に行わ を高 れて成功し始めるのは、ポルトガルのエンリケ航海王子の功 績による。彼は、追い風のときにだけ横帆を開くバイキング 帆き 船 ( 北方型船 ) と、逆風に対しても船を風上へ切り上げるこ 洋大 とのできる東地中海レバント地方の三角帆を張る漁船 ( 南方 速限 型船 ) とを組み合わせて、追い風にでも逆風にでも帆の力だ ム月 一を けでいかなる方向へも進むことのできる船をつくったのであ る。漕ぐ必要がなくなったために、船を小さくしておく必要 ク帆 はなくなり、この時点からヨーロッパの船は急速の進歩を遂 4

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しゅよう の。経済活動別財貨・サービス産出表のこと。 武韋の禍ぶいのか中国、唐の第三代皇帝 3 きを含む腫瘍を発見し、感染経路を追究 一般の産業連関表における表示形式の基本原則 の高宗の皇后武氏 ( 則天武后 ) と、次の中宗の皇した結果、ゴキプリを中間宿主とする寄生虫に よることが判明した。そこで彼はゴキプリを健 は、一経済活動につき一商品の産出額を表示す 、后韋氏とが、権力を握って政治を乱した事件。 るものであるが、この表においては、各産業の 二代続けて女性が政治に関与した事件として、康なラットに食べさせる実験を繰り返して、胃 産出する主要商品のほかに、」 唐代の女禍の最たるものとして知られる。武氏の中に同様な腫瘍の発育を促すことに成功し、 部産物、副次生産 物をも同時に表示する形式をとっている。ま は才略に富んで野心があり、皇后のときから病一三年にその結果を発表した。ウイルヒョーの テ た、経済活動別財貨・サービス投入表である 弱な高宗にかわって権力を振るった。六八三年癌発生刺激説を実験的に証明したこととなり、 ヒ えいそう イ 一一六年ノーベル生理学医学賞が授与された。後 表とともに、独立の産業連関表との間の統計的 高宗の没後に即位した中宗を翌年に廃し、睿宗 接合が図られている。↓国民経済計算↓産業 をたてて実権を握った。六九〇年睿宗を廃して年、彼の業績はいろいろな批判を受けたが、各 〈高島忠〉 自ら皇帝となり、国号を周と改めた。武后は性国で人工癌の研究が進められる端緒となった事立てられる。「知識学」は、端的に確実な知識、連関表↓表 かんげん 残忍で政敵を弾圧したが、諫言をよく聞き、人実は否定できない。 〈古川明〉すなわち「私は存在する」という自我意識に立プイピン AJ1eKcaH1tp HHKOJlaeBHq FIbl- 材を登用して治政にも努めた。七〇五年武后がフイヒテ Johann GottIieb Fichte ( 一七脚する。自我とは自由に行為することにおいて flHH/AIeksandr NikoIaevich Pipin ( 天三三 ー天一四 ) ドイツ観念論を創始した哲学者。 端的に存在する実践的な主体である。これを ー一九 0 四 ) ロシアの文学史家。アカデミー会員。 退位して中宗が復位すると、韋后は武后をまね六一一 あんじゃく ロシア文学のみならず、スラブ文学、思想史、 て闇弱な中宗にかわって権力を振るい、武后 〔生涯〕五月一九日、ザクセン地方の寒村ラン「事行」 ( タートハンドルンク ) とよぶ。自我・ フォークロア おいぶさんし らんかん メナウに生まれる。麻織り職人の子として絶望事行は、学問およびあらゆる知識の基盤である古文書学、民俗学、民間伝承の分野においても の甥武三思と通じ、濫官政策を行って政治を乱 した。七一〇年、野心家の娘安楽公主と中宗を的な貧窮のなかで、一七八〇年よりイエナおよ諸事実の根底に存し、それを成立させる根源的多くの優れた業績を残した。文芸学の領域では ちゅうさっ 毒殺したが、睿宗の子李隆基 ( 玄宗 ) に誅殺びライブツイヒ大学において、神学、哲学、法な活動である。つまり、主観的、客観的を問わ文学を文化全体との関連のなかでとらえようと された。なお、安楽公主やのちに玄宗と対立し学等を学ぶ。八九年のフランス革命に感激し、ず、およそいっさいの事実は、実践的な自我・ した文化史学派の第一人者。『ロシア文学史』 いんせき 偶然カント哲学に接して感銘を受ける。九一年事行の活動の所産なのである。「知識学」は、 『ロシア民俗学史』ほか著書多数。〈藤家壮一〉 て倒される太平公主も武氏と姻戚関係にあり、 きよう きよう 0 イスラム教 一連の政治事件に武氏一族が関与していることケーニヒスペルクにカントを訪問、翌年カント こうした自我・事行のあり方を体系化することフィフィ教 けっしよう は注目される。↓則天武后↓韋后〈金子修一〉 の助力によって『あらゆる啓示の批判の試み』 によって、すべての学問の、さらには知識一般フィフリノ丨ケン fibrinogen 血漿タ ば、っせい 紙プイピーアイし紙に気化性の防錆 ) ミ導ミ、 K 斗。ミ、 0 洋こミ、ミが出の根拠づけを行うのである。しかし、この「知ンパク質の一つで、繊 ( 線 ) 維素原ともいう。 せきつい 剤を加工した防錆紙の一商品名。 vapor phase 版され、一躍名声を博す。九四年イエナ大学に識学」は、著しく宗教的な傾向を強める彼の後脊椎動物の血液凝固系の第—因子として中心的 しようへい 役割を果たしている。おもに肝臟でつくられ、 inhibitor paper の略。鉄または銅などの非鉄招聘され、ここで『全知識学の基礎』等の主期思想において、やがてその立脚点を自我から 金属は保存中に化学変化をおこし、酸化物、水要著作を公にする。その後、無神論のかどで非 絶対者へと移す。フイヒテは、一八〇一年、〇ヒト血漿一中に二 ~ 六含まれる。妊娠、炎 さび すい - 」う 酸化物や有害な物質、いわゆる錆を生ずるが、難されて九九年イエナを去り、主としてベルリ 六年、一〇年、一二年と推敲を重ねることにお症、感染性疾患などで増加し、赤血球沈降速度 それを防ぐ効果を有する気化性の物質 ( 防錆ンに在住する。一八〇〇年『人間の使命』を出 いて、すべての学問・知識、それに自我の究極 ( 血沈 ) が促進する。分子量は三四万で、その 剤 ) をバインダーなどを用いて加工原紙に塗布版、翌年には「知識学」の新たな構想を披瀝、的な根拠が絶対者、神に存することを明確にすうちの一万は糖である。三種のポリペプチド鎖 しんし るのである。フイヒテの哲学とは主として前期二本ずつからなり、フィブリノーゲン一分子は するか、溶剤で溶かしたものに浸漬して得られこのころを境に宗教的・民族的傾向を深め、 みさらし る加工紙。加工原紙としては通常、末晒のク一フわゆる後期思想へと変転する。〇六年『浄福な知識学をさすが、この後期知識学も近来、存在 ( A を Bß・ r)2 で表される。分子の大きさは直 径九ナノメートル、長さ四六ナノメートルで、両端 フト紙が、一部では晒クラフト紙が使われる。生への指教』公刊。〇七年、ナポレオンに敗れ論的観点から独自の意義を認識され始めてい る。↓ドイツ国民に告ぐ 〈高山守〉 気化性の防錆剤としては、①ジシクロへキシル た占領下のベルリンで、有名な『ドイツ国民に と中央部に節のある棒状を呈する。 血管壁が傷つけられると血小板からトロンポ アンモニウムナイトレイト、②ジイソプロピル告ぐ』 ( 天 00 を講演し、ドイツの民族独立と回岩崎武雄訳『世界の名著・続 9 フイヒテ他 アンモニウムカプリレート、③べンゾトリアゾ文化の再建を説いた。一〇年ベルリン大学創設 集』 ( 一九七四・中央公論社 ) ▽木村素衛訳『全キナーゼが遊離し、プロトロンビンをトロンビ 知識学の基礎』 ( 岩波文庫 ) ▽大津康訳『ド ールなどが用いられる。気化性の防錆紙は包装とともに教授就任、翌年初代総長となる。一四 ンへと活性化する。プロテアーゼの一種である ィッ国民に告ぐ』 ( 岩波文庫 ) ▽南原繁著 トロンビンによってフィ。フリノーゲンは限定的 に際し金属製品に密着しなくても防錆効果があ年一月二七日、傷病兵の看護に従事していた妻 からチフスに感染し、死去。 『フイヒテの政治哲学』 ( 一九五九・岩波書店 ) な分解を受け、フィ。フリノベプチド << および るが、その金属に適しない防錆紙を用いたり、 また共存に適しない二種以上の防錆紙で金属の 〔思想〕一七九〇年代、カントの哲学はドイツ ▽隈元忠敬著『フイヒテ知識学の研究』 ( 一九を遊離してフィブリンモノマー ) ~ とな 包装に用いたりすると、かえって金属に悪影響の思想、文学、学問の諸領域にあまねく浸透 七 0 ・協同出版 ) ▽大峯顕著『フイヒテ研究』る。モノマーは会合してポリマーとなり、さら を与えるので、それぞれの防錆紙の適用範囲は し、評価、受容、批判の渦を巻き起こした。こ ( 一九七五・創文社 ) ▽ヘーゲル著、戸田洋樹訳に架橋されて網目構造になる。↓血液凝固 『フイヒテとシェリングの差異』 ( 一九含・公論 比較的狭く、現在製造されている防錆紙の種類のなかからフイヒテは、カントにも匹敵するほ なお、フィブリノーゲンは一六八六年マルピ ま多、。 〈御田昭雄〉どの内実をもって登場した。彼は、「実践理性 社 ) ▽同著、山口裕弘訳『理性の復権』 ( 一九 ーギによって発見され、一八四七年ウイルヒョ 盒・アンヴィエル ) の優位」というカントの観点を引き継ぎ、これ ーがフィ。フリノーゲンと命名した。一八七九年 フィビケル Johannes Andreas Grib Fi- biger ( 天六七ー一九 = 0 デンマークの病理学を徹底する。それによって、理論的、実践的な表プイひょう V-matrix 国民経済計算スウェーデンの化学者ハマーステン 9 望 Ham ・ 体系に組み込まれている産業連関表を構成する marsten ( 天四一 者。シルケポーに生まれた。一九〇〇年コペン諸学のいっさいの究極的な成立根拠を明らかに ー一九三一 D が高純度のものを調製 ーゲン大学病理学教授となり、〇七年ラット しようとした。ここにフイヒテが生涯を通じて 一つの計数表であり、一年間にどの産業がどのし、一九七九年にヒトのフィブリノーゲンの全 がっこうちゅう 〈野村晃司〉 の胃に顎ロ虫科の寄生虫 G ミ、。ミき。ミ・ その体系構築に精力を傾けた「知識学」が打ちょうな商品をどれだけすっ産出したかを示すもアミノ酸配列が決定された。 がん ひれき

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ンティーレ・ディ・ニッコロというが、中部イ 6 を通じてもっとも有力な氏族の一つであった ージナル音楽が重要。イングランド南西 ん タリアの出身地にちなんでジェンティーレ・ ; 、彼はコンスル ( 統領 ) に五回就任した。ハ ごうりやく の部コーンウォール州のトルーロに生まれ、おそ ダ・フア。フリアーノ、あるいは単にフア。フリア ンニバルがイタリアを劫掠したときには、紀 らく若くしてロンドンに出て教育を受けた。そ あ ーノと呼び習わされている。故郷で画業を修め 元前二一七年にディクタトル ( 独裁官 ) とな の後オックスフォード大学に学び、一五九二年 り、決戦を避けて遷延戦術をとったので「遷延たと思われるが、初期の活動についての詳細は には音楽学士の学位を受けている。エリザベス 家」 ( クンクタトル ) と称された。晩年には元不明。一三九〇年ころから北部および中部イタ 一世時代のロンドンで指物師として登録されて 老院首席として権勢を振るったが、若い大スキリアの各地で活躍するようになり、生涯転々と いるため、ヾ。 ーシナル製作者として活躍してい ア 〈吉村忠典〉各地で制作を続け、ローマで世を去る。「国際 ビオと対立した。 たとも推定される。一六四〇年一一月二五日ロ フ ゴシック様式」とよばれる、一四世紀木から一 フアビオラ FabioIa ( ? ー三究 ) カトリ ンドンで埋葬された。五〇曲以上のバージナル 五世紀中葉にかけてヨーロッパ中に流布した宮 ックの聖女。ローマの貴婦人で絶世の美女とい 曲が『フィッツウィリアム ジナルブッ 教育を受けたのちアメリカに留学する。一九五 三年初代文相に就任し、近代的な教育制度の導われたが、離婚後キリスト教徒となり、巨額の廷的で、装飾的、幻想的、かっ優美な美術のイ ク』に収められている。さらに二〇曲のカンツ しへん オネッタ ( ロンドン、一五九 0 、四声の『詩篇』、入に努めた。第三代国王ファイサルの信望が厚財産を投じて貧民と苦労をともにしながら病人タリアにおける代表者と目されている。残念な く、六二 ~ 七五年に内相として国内治安をつかを看護した。三九〇年ローマに巡礼者のためのがら、各地で制作された壁画や祭壇画の多くが モテットもある。息子リチャード Richard F. さどった。六八年第二副首相となる。七五年一一一救護所を設立、これはキリスト教徒の手になる失われてしまい、たとえば、ベネチアのパラッ ( 一五九四こ ー ? ) も作曲家で、いくつかのバージ 月ファイサル国王の暗殺によりハリド国王が誕ヨーロッパ最初のものといわれる。彼女の活動ツオ・ドウカーレに描かれた海戦図のような後 〈樋口隆一〉 ナル曲が残っている。 フアノン Frantz Fanon ( 一九 = 五ー六一 ) フ生すると、新国王のもとで皇太子に指名され、はローマの貴婦人に大きな影響を与え、救療活世に大きな影響を与えた作品が、一六世紀の火 ランス領西インド諸島のマルティニーク島出身第一副首相を兼任した。親米的な近代化推進論動が愛の精神の最上のものであることを教え災で焼失したのはいかにも惜しまれる。現存す 〈山根信子〉る作品のなかでは、フィレンツェのウフィッイ の黒人精神科医、思想家。フランスで精神医学者である。八二年六月ハリド国王の逝去に伴た。 とう Huahiné南太平美術館の『三王礼拝』がとくに名高い。彼は一 、第五代国王に即位した。 〈木村喜博〉ファヒネ島 を修め医師となるが、白人社会における黒人の ー ? ) 日本人洋、フランス領ポリネシアのソシェテ諸島にあ五世紀初めにはイタリアでもっとも著名で重要 フアビアン Fabian ( 一五六五 矛盾に満ちた立場を分析した『黒い皮膚、白い やましろ イエズス会修道士。山城国 ( 京都府 ) に生まれる島。北側のファヒネ・ヌイ (Nui Ⅱ大 ) と南な画家の一人であり、その芸術性と歴史的意義 仮面』 ( 一九五一 D で世に出た。ついでアルジェリ えちご ) の二つの部は大いに評価されてよい。図膨マギ〈石鍋真澄〉 側のファヒネ・イティ ( 三Ⅱ小 アの病院に勤務したが、アルジェリア独立運動る。一説に加賀もしくは越後の人ともいう。京 うんきょ えしゅん に共鳴して一九五六年病院を辞しアルジェリア都の禅寺に入り、恵俊 ( 恵春 ) また雲居とも称分が、干潮時に約一〇〇の砂州でつながるフアブリオー fabliaux フランス中世の 民族解放戦線 ( ) に参加し、その指導的理した。一五八三年 ( 天正一一 ) ごろ一九歳でキが、橋も架けられている。最高峰は、ファヒ主として一三世紀に、北フランス ( ことにピカ ルディ、アルトア地方 ) で流行した韻文小話約 リシタンとなり、フアビアンの洗礼名を得、不ネ・ヌイではトウリ Turi 山 ( 穴 0 ) 、ファ 論家となった。アルジェリア独立をみることな かんさいはびあん く六一年病気療養先のアメリカで客死するが、干斎巴鼻庵と名のった。八六年イエズス会へ入ヒネ・イティではモウフェネ Moufene 山一五〇編の総称。『狐物語』と並んで、新興市 ちょ、つしよ、つ ひょく のろ 民階級の嘲笑的、風刺的な精神を代表し、近 その著作とくに『地に呪われたる者』 ( 一九六一 ) り、長崎のコレジオ ( 大神学校 ) にて神学を学 ( 四五七 ) 。全島、肥沃な土壌でココヤシが茂る。 は単に植民地体制を暴力そのものであると告発び、九三年 ( 文禄一 l) ごろイルマン ( 修道士 ) 人口三一四〇 ( 一九八 0 ) 。中心地はファレ・ヌ代短編小説の祖先とみなされる。 ぞうけい 作中人物は町民、騎士、司祭、修道僧、百姓 となった。文学に秀で、また宗教に造詣が深イ・アテア Fare ・ nui ・ atea 、通常、ファレと略 した反植民地主義の理論の書であるばかりでな 〈大島襄二〉 などで、彼らの生活風俗や気質が会話を中心に 称する。 く、九二年末天草 ( 熊本県 ) で出版されたロー く、ヨーロッパ文明に対する根源的批判の書と ー一九した簡潔な叙述のうちに活写されているため、 して第三世界の民族連動やアメリカの黒人解放マ字版『平家物語』を編んだ。一六〇五年 ( 慶ファーフィ Joseph FurphY ( 天四三 みよう 〈平瀬徹也〉長一〇 ) にはキリシタンの護教的教義書『妙 lll) オーストラリアの作家。ビクトリア州ャ中世社会の実態をうかがううえでの貴重な資料 運動に大きな影響を与えた。 そうりよ ていもんどう ともなりうる。まぬけな亭主や偽善的な僧侶が ラ・グレン生まれ。奥地で学校がなく、母から 回『フランツ・フアノン著作集』全四巻 ( 一九六九貞問答』を著したが、翌年外人長上者に対する 悪ふざけの犠牲者となるような筋の単なる笑い 反感から棄教した。二〇年 ( 元和六 ) 逆に反キ聖書とシェークスピア劇の二書だけを教材に学 ~ 七 0 ・みすず書房 ) はでいうす 話が多いが、なかには教訓的な意図をもつもの リシタン書『破提宇子』を著し、キリシタンをんだが、七歳でよく暗記できたという。開拓、 Edna Ferber ( 一会七ー一九六 0 ファーバ アメリカの女流小説家。ミシガン州に生まれ批判した。その後の消息は不明である。↓妙貞牛荷車運送、鍛冶仕事など、職業も住所も転々もある。名の伝わらぬ吟遊詩人・学僧の作『コ ンピエーニュの三人盲』『百姓医者』『毛布分 とかわった。この間『フリティン』読しトム・ 〈宮崎賢太郎〉 る。新聞記者として出発し、一人の女の生涯を ・ビッグ』 ( 一九 = 四 ) でピュリツツア回海老沢有道訳『妙貞問答』 ( 平凡社・東洋文コリンズ Tom C011ins の筆名で論説や詩を寄け』などのほか、著名な詩人リュトプーフの作 佃ノ、『ソー . 庫 ) ▽同校注『日本思想大系破提宇子』稿した。その縁で一八九七年、独創的な古典名『ロバの遺一一 = ロ』などもある。民間伝承としての ー賞を受賞。以後、オペレッタにもなった三代 ごと ( 一九七 0 ・岩波書店 ) ▽『ころびイルマン不干作といわれる『人生斯くの如し』 ( 一九 0 三 ) をア起源は太古の闇に隠れているが、文学形態とし の女を描く『ショー・ポート』 ( 一九一一六 ) 、作者を ほうふつ ーチボルト編集長に託す。一一二五ページに及てはラテン喜劇の影響が認められる。一方、一 斎ハビャンと其著作』 ( 『姉崎正治著作集第四 彷彿させる女主人公を描く『サラトガ本線』 ~ 一三世紀の新興市民社会の成立という背景 巻切支丹迫害史中の人物事蹟』所収・一九ぶ大作のため、『リグビイのロマンス』 ( 新聞連二 ( 一九四 l) など多数の作品を発表。芝居好きで、 ことどり 〈山田〉 とも関連づけられる。↓狐物語 七六・国書刊行会 ) ▽山本七平著『受容と排載一九 0 五、一九四六刊 ) 、『琴鳥』 ( 一九四 0 との三部に 大衆的劇作家ジョージ・カウフマン ( 一犬九ー一九 分けて発表された。ほかに『詩集』 ( 一九一六 ) もフアブリカ Fabrica べサリウスが著した 〈武田千枝子〉 除の軌跡』 ( 一九大・主婦の友社 ) 六一 ) との合作戯曲もある。 〈平松幹夫〉解剖書。正しくは『人体の構造に関する七つの フアハド Fahd bn. 'Abd al-'Aziz al- フアビウス Quintus Fabius Maximus ある。 本』 De 、ミミき 0 s b ュ、き、 ~ ・ septem ー前 = 0 三 ) 古代フアフリアーノ Gentile da Fabriano Sa'üd ( 一九一三ー ) サウジアラビアの第五代 Verrucosus Cunctator ( ? という。初版は一五四三年六月にバーゼルのオ ー一四 = 七 ) イタリアの画家。本名をジェ ) 。リヤドに生まれ、王室ローマの軍人。フアビウス氏はローマ共和政期 ( 一三七 0 ころ 国王 ( 在位一九全 ~ やみ きつね

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りおうてい おうぎし こうていけんちょうもうふ ってライブツイヒ大学の教授 ( 天七五 ~ 一九一七 ) を 全 ) 中国、 李応禎に学ぶも、王羲之、黄庭堅、趙孟頬の式にはドイツ・。フンデスパンクと、 しい、ドイツ文天祥ぶんてんしよう ( 一 = 三六ー なんそう きっすい 長所をよくとり、評判高かった。彼に唐寅、祝連邦銀行ともよばれる。本店はフランクフル南宋末の政治家。吉水 ( 江西省吉水県 ) の人。務めた。ハイデルベルク大学では、大生理学者 允明、徐禎卿をあわせて「呉中四才子」とよ ト・アム・マインに置かれている。プンデスパ 二〇歳で進士に第一位で及第。一二五九年モンであるヘルム・ホルツの助手を務めたこともあ えしんしゅう しせん ぶ。詩文を呉寛に学ぶ。画は沈周の影響を受ンクは、一九五七年八月一日に従来のドイツ・ ゴル軍が四川に侵入し、遷都説が強まると、一る。 プントが現代心理学の祖といわれる第一の理 けたがさらに独自に発展させ、淡彩・淡墨によ レンダーバンク Deutsche Länder Bank を改地方官にすぎなかった彼は強くこれに反対し、 ん ~ ドレ / につ ぶん る細やかで秀麗な画風をつくりあげた。子の文組して発足した。前身であるレンダーバンク官を追われた。のち復職したが賈似道と対立し由は、心理学を直接経験の科学 ( 物理学は間接 ぶんか 彭 ( 一四 ー一五七三 ) 、文嘉 ( 一四究ー一夭一 I) も書画は、第二次世界大戦後のドイツの東西分割のて辞職。七六年元車が首都臨安に迫ると、義勇経験の科学 ) と定義して、少なくとも単純な精 をよくした。画の代表作に『春深高樹図』 ( 上際、連邦制を採用した西ドイツの中央銀行とし軍一万人を率いて奮戦したがかなわず、宋は一兀神現象 ( たとえば感覚 ) を実験室の中で実際に じようしよう 海博物館 ) がある。 〈近藤秀実〉て設立されたものであるが、各州に一つずつ法 に降服した。講和のため元の丞相バヤンと会生起させ、それを研究する方法をとったからで 文鎮ぶんちん文房具の一つで、文書や紙的に独立した形で設けられた州中央銀行の中央見、口論して拘留されたが脱走、福州で益王をある。そのため、現代心理学の始めは、ライプ ツイヒ大学に世界最初の心理学実験室ができた 類が動かぬように置く道具の総称。鎮紙ともい 機関としての性格をもつものであった。つま奉じ、宋の残兵を集めて転戦した。ふたたび元 しょちん わかんさんさいずえ けいき一ん 、古くは書鎮 ( 『和漢三才図会』 ) 、卦算 ( 界り、二段階中央銀行制度がとられていたのであ に捕らえられ、毒を仰いだが果たせず、大都一八七九年である、と考えられている。彼の心 にほんしやくみよう ベキン ( 北京 ) に送られた。元への仕官を切望された理学は、イギリスおよびドイツの哲学、また彼 算とも。『日本釈名』 ) ともいった。一般に流るが、この制度はきわめて地方分権の強いもの 布するものには、棒状でつまみのある金属製のであり、その機能的限界が経済復興や経済規模が拒否し、獄中にあること三年、「正気の歌」が専攻した生理学の影響を受け、その著『生理 〈柳田節子〉学的心理学原論』全三巻 ( 天七三 ~ 七四 ) にみられ ものが多いが、重さがあれば小物でも用を足すの拡大に伴って無理となったことから、中央集を残して刑死した。 るように、フェヒナーの精神物理学を母体とす ため、古来多種多様の器物が利用された。鉄・ 権的な性格をもっプンデスパンクが設立される回梅原郁著『文天祥』 ( 一九六七・人物往来社 ) そうげぎよくしたん こととなったのである。 銅などの金属をはじめ、石、象牙、玉、紫檀、 分電盤ぶんでんばん分岐過電流遮断器を基る生理学的心理学であり、その目的は内観法に プンデスパンクは、銀行券発行の独占権をも板に集合して取り付けたものをいう。分岐開閉よって意識内容を感覚、心像、感情の三要素に 黒檀、陶磁、ガラスなど材質も豊富で、形状も けんざん つばや さまざまである。硯山、印材、古銅印、鐔、矢っと同時に金融政策の最高責任者としての権限器、主過電流遮断器、主開閉器、需給用計器お分析し、それらの要素の結合の法則を発見する たて 立などの転用品も多い 〈神崎充晴〉をあわせもち、西ドイツの通貨の管理者としてよび電流制限器などを含めたものもある。分岐ことであった。内観を行うのは観察者すなわち なうけにん 過電流遮断器とは、幹線と分岐回路との分岐点被験者であるから、心理学の研究者になるため 分付ぶんづけ検地帳の名請人が「何々分」の機能を果たすものとされている。ブンデスパ には研究法や実験器具の使用法を修得するほか と肩書きされた場合の記載様式または身分関 ンクには、政策決定機構として中央銀行理事会から負荷側に取り付ける、電源側からみて最初 、観察者としての訓練が必要であった。 係。戦国時代以降の検地帳のうちには、まれに が、執行機関として役員会および州中央銀行役の開閉器で、過電流の遮断能力のあるものであ 彼の研究室には世界各地から多くの研究者が 「何々分」と肩書きされた名請人がみられる。員会が設けられている。中央銀行理事会は、公る。分電盤を収納している箱をキャビネットと ぶんらけめし いうが、広い意味ではキャビネットを含めて分集まり、なかでもキュルべ、・ ()n ・ホール、 この場合、何々分の何々を分付主、名請人を分定歩合、公開市場操作、支払準備率および連 ーグ、クレベリン 付百姓とよび、後者は前者の分家か下人などで邦・州の公金の同銀行への集中に関する政策を電盤ということもある。施設方式による区分でテイチナー、ミュンスター らが有名である。もっとも多く研究されたのは は露出型、埋込み型、半埋込み型、防雨型およ 隷属関係にある。また田畑一筆の名請人が分決定するとともに、その執行責任を負ってい うまっ 作となっている場合も、が分付主、が分る。役員会は全国的業務や中央銀行理事会決定び防沫型がある。「電気設備に関する技術基感覚や知覚であるが、連想、記憶、注意などの 付百姓で同様の隷属関係にある。この分付関係事項の執行機関であり、州中央銀行役員会は州 準」 ( 通商産業省令 ) では分電盤およびキャビ研究もあり、それらは機関誌『哲学研究』 ( の ちには『、い理学研究』と改題 ) に発表された は年代とともに減少し、消滅する傾向にあっ単位業務の執行機関である。プンデスパンクネットを「分岐回路用配電盤」と定義してい 〈越野一二〉 この実験室に倣って開設された世界中の実験室 た。なお他村に耕地をもっ場合、分付関係で表は、他の先進諸国の中央銀行と比較して連邦政る。 は、一九〇〇年までに七〇余に達し、そのうち 一小されることもある。 〈宮川満〉府に対して中立性が強いという特色をもってい。フント Wilhelm Wundt ( 天三一一 ドイツの心理学者。現代心理学の土台を築いたアメリカのものが四〇を占めていた。 ー前一五七 ) 中国、前 る。たとえば、政府は中央銀行理事会に出席し 文帝ぶんてい ( 前一一 0 = ・フントは、思考など高次の精神活動は ーデンに生まれる。ベル 一人。八月一六日、 漢の第五代皇帝 ( 在位前一八 0 ~ 前一五七 ) 。姓名は提案はできるが、議決権はなく、その決定を一一 りゅうこうびよう′うたいそ・つ りゆ・つほっ はくたい ) 」う リン大学で生理学の父といわれる晩年の・ミ実験室では研究できないと考えており、別に 劉恒。廟号は太宗。高祖劉邦と薄太后との週間 ( 次の理事会まで ) 延ばすことができるに りよ ュラーに学ぶ。ハイデルベルク大学で医学の学『民族心理学』全一〇巻 ( 一九 8 ~ 一一 0 ) を書いて、 子。高祖の死後政権を掌握した呂氏一族が鎮定すぎない。プンデスパンクの政策は、伝統的に 民族の言語、神話、宗教、芸術など社会心理学 された時期に、代王から皇帝となった。治世一一通貨価値の維持に重点を置き、西ドイツ経済の位をとり、翌年生理学の私講師 ( 一会七 ~ 六四 ) 、 かちょうそ 〈原司郎〉同教授 ( 天六四 ~ 七四 ) となる。その後長年にわたの領域でも大きな貢献を残した。しがし、彼が 一一年間は、賈誼、贔錯らの法家官僚を擁し、勧安定的成長に寄与してきた。 創始してテイチナーに受け継がれた構成心理学 農政策、田柤の廃止、肉刑の廃止などの諸政策プンデルカンド Bundelkhand インド は、要素主義、連合主義、内観主義などの点 を実行した。次代の帝とあわせて文景の治と中部、ウッタル・プラデシュ州南部のジャムナ で、全体主義の心理学、ゲシュタルト心理学、 川の沖積平野と、マディヤ・プラデシュ州北部 して仁政とうたわれている。しかし一方では、 行動主義の激しい攻撃を受けて姿を消したが、 豪族と一般農民との階層分化の激化という新たのビンジャ山脈北の丘陵地帯の総称。イギリス その後の心理学史にはプント再評価の動きがあ 〈鶴間和幸〉の植民地時代はナウゴン Nowgong に政庁が な社会不安がみえ始めていた。 る。大正期までの日本の心理学は、プント心理 置かれ、同一行政地区になっていた。小麦、キ 文帝 ( 魏 ) ぶんてい 0 曹丕 学の強い影響を受けていた。一九二〇年八月三 ビ、豆類を産する農業地帯である。現在は鉄道の と文帝 ( 隋 ) ぶんてい 0 楊囀 一日、ライブツイヒ近郊で没。↓心理学内 んプンデスパンク Deutsche Bundesbank 結節点のあるジャーンシが中心地。〈林正久〉 〈宇津木保〉 8 観↓生理学的心理学 か西ドイツ ( ドイツ連邦共和国 ) の中央銀行。正文展ぶんてん 0 官展 1 、かん ちんし シャン W. プント

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コボル しまう動作を代入 as ・ 語である。事務処理用としてはが広の法学者により相当部分改変されたものであた。これをさす呼称で、「進歩的ジャズ」とい 、ら変数 va 「 iable といい、 く使われている。初心者用に設計された る。プロクルスは法学校の教師として活躍し、 う意味。ストラビンスキーやシェーンベルクな signment という。計算を書き表した単位を式 *O は現在ではパ ーソナルコンピュータで広く二大学派の一つプロクルス学派の頭目としてサどの影響もみられて興味深いジャズではある サっ exp 「 0 , , 一 on という。変数と式とを指定して、 、ふ代入操作を表した単位を代入文 m 。 = ( 使われるようにな 0 ている。システム作成用のビヌス学派と対抗し、個々の法律問題の論争をが、大きな成果は得られず、このスタイルは消 〈青木啓〉 statement ) い , つ。 通じて精緻な古典法学をつくりあげるのに寄与えてしまった。 一一 = ロ語としては、 O 一一 = ロ語や < が有名である。 ー哭五ころ ) 古 代入文を書き並べることで、その順に実行す これに対して、違う考え方にたつものがあした。両派の対立はその後約一世紀の間続いプロクロス proclos ( 四一一こ るよう指示する。これに加えて、無条件でまたる。プログラムでの処理は、与えられたデータ 〈佐藤篤士〉代ローマ末期、ギリシアの新プラトン学派の哲 は条件付きで、次に実行する代入文を積極的に から望む結果のデータを得ることにあるから、プログレシビズム progressivism 革学者。リキアのクサントスの人。アテネのプル 指定する to 文を設ければ、どんなプログ数学でいう関数にあたる。そこで、関数を組み新主義と訳され、二〇世紀初頭の一九〇〇年代タルコスの弟子で、アカデメイアの学頭。プロ ラムも書くことができる。次の文の指定には、 合わせて新しい関数をつくりだすことを基本に から一〇年代にアメリカに展開した広範な政ティノスの体系を、いっそう細密化し図式化し 文につけた番号や名前を使う。これを文の名札 とったプログラム一 = ロ語が考えられた。これを関治・社会改革運動をさす。一九世紀後半からのて体系化することによって、古代多神教に哲学 アメリカの急速な変化が、多くの旧来の政治・ 的な基礎づけを与えた。プラトン著作への注 label という。代入文と goto 文だけで書かれ数的 functional プログラム一一 = ロ語という。記号 たプログラムは平板的になり、その構造がわか処理用として設計されたは現在に至る社会機構を混乱させ、この運動を生起せしめ釈、ユークリッド『原理』への注釈のほか、 りにくくなりがちである。人間にとっては、場まで人工知能の研究などに幅広く使われてきてた。改革の内容はきわめて多様であり、社会的『プラトンの神学』『神学綱要』などの著作が残 いる。関数的プログラム一一一口語の先輩格である。 には、産業・工場生産の大規模化に伴う労資関る。偽ディオニシオスへの影響、および彼の『神 合分けや繰り返しなどの構造がプログラムのう えではっきりとわかる書き方を設けるのがよ 与えられたデータと望む結果のデータとはあ係の調整、都市化・移民の大量流入をめぐる社学綱要』に基づいてつくられた『原因論』ト守、 条件に応じた動作を指一小する構造を条件文る決まった関係にある。物事の関係は論理で押会集団関係の改善、また政治的には、行政需要斗きを通じて、中世のキリスト教神学体 conditional statement といい、繰り返しを指 さえることができる。そこで、論理を組み立ての増加に伴う市政改革・州政治改革、さらには系の構成に大きな影響を及ばした。〈加藤信朗〉 示する構造を繰り返し文 repetitive statement ることを基本にとったプログラム一一 = 〕語が考えら全国的な大企業の出現に伴う連邦政治レベルでプロークン・ヒル Broken Hill オー の企業規制の運動などがあった。改革を担ったストラリア南東部、ニュー・サウス・ウェール という。対象が違うだけの、同じ動作や計算をれた。これを論理 logic プログラム言語と、 プロロ エービーエル 何度も書くのはわずらわしい。そこで、まとめう。はその代表格である。 社会層も多様であったが、彼らに共通していたズ州西部の鉱業都市。人口二万六九一三 ( 一九 て一度だけ書き、それに名前をつけ、以後はそはコンピュータの内部論理まで記述することがのは、この間の急速な工業化、それに伴う社会 (I)O 同国有数の非鉄金属鉱山があり、鉛、亜 の名前を書けばすむようにする。そうしたまとできる。 変動を基本的には是認し、その全体的な活動を鉛、銀鉱石を採掘し、西のポート・ピリーおよ 関数的プログラム言語や論理プログラム一 = ロ語より包括的な、国家規模の新しい合理的な秩序び東の一一ユーカッスルへ鉄道輸送する。鉛、亜 まりを手続 procedure とか関数 function と ひぎすう 、カ・ AJ しし ) は、次の世代のコンピュータのあり方を考える によって整合していこうとする、機能的・統合鉛の産出量はともに全国の約六割を占める。都 その対象を引数 argument とか。ハ うえでの手掛りを与えるものとして注目を集め的社会への指向であった。この間の改革を通し市運営における鉱山労働者の組合の影響力が強 ラメーター parameter とかとい , つまた、具 いことで知られる。一 八三年鉱床発見、一九 〈筧捷彦〉て、女性・児童労働の保護、労災保障法などの 体的に対象を指定して使うことを呼出し call ている。↓コンビュータ を ) い , っ ーーどけいあらかじめ設労働立法が実現し、市委員会制などの導入によ〇七年市制施行。名称は原住民語地名の英訳で プログラム時計 〈谷内達〉 プログラムでは、数や文字などをばらばらに定した時間間隔で操作、制御を行う、一つまたる市政の構造改革がみられ、ダイレクト・プラある。 扱うだけではなく、それらを複合してできるデはいくつかのスイッチ開閉装置を備えた測時イマリー ( 直接予備選 ) 、イニシアティ・フ ( 人プロークン・ヒル Broken Hill アフ リカ中南部、ザンビア中央部の都市カプウェの ータも書き表したり、変数にしまったりもす機。タイムスイッチともいう。時刻を表示する民発議権 ) 、レファレンダム ( 法案投票権 ) な る。このため、・ テータにもさまざまな構造を許文字盤があって通常の時計の機能をもつものどの新しい州政治システムが定着し、連邦政治 旧称。↓力。フウェ している。これをデータ構造 data structure (programable time keeping instrument) においても連邦上院議員の直接選挙などが実現プロゲステロン progesterone 黄体ホ という。典型的なものに、同じ種類のデータをと、その機能のないタイムカウンター (pro- ルモン作用をもつ物質 ( ゲスタゲン ) のうち、 他方、独占規制の面では、一九一三年から一天然型の黄体ホルモンで、ステロイドの一つ。 番号づけして並べた配列 array がある。デー gramable time counter) とに分かれる。交通 タ構造のそれぞれの種類をデータの型 type 信号、街灯、産業用機械、冷・暖房装置、炊飯四年のウイルソン政権期に、連邦準備制度の成一九三四年、。フーテナントらによって黄体から とい , っ 器、ラジオ・テレビ・ビデオの自動スイッチな立のはか、連邦取引委員会とクレートン法が生抽出され、化学構造が明らかにされるととも ど、あらゆるところで使われている。同じ動作 まれ、資本主義と大企業の活動を規制するとと に、合成にも成功した。↓黄体ホルモン プログラムでは、変数、手続、関数、型など あや に名前をつけて使う。それそれの名前は、使うを繰り返し行うもの、指定の月日・時刻が自由もに、より広く合理化する新しい国家機構が確プロケード brocade 平織・綾織、また しゆす えめき 〈紀平英作〉 にプログラムできるものなど各種があり、さら立した。 は朱子織の地に、多彩色の絵緯、ときには金銀 前に使途をはっきりさせておかなければならな に、光、温度や湿度、圧力などの検知器と組み回関西アメリカ史研究会編著『アメリカ革新主糸を使い、豪華な草花や風景などの模様を織り これを名則の宣一言 declaration とい , っ 義史論』 ( 一九七三・」 / 川出版 ) 合わされて、生活の近代化に貢献している。 出した絹織物、あるいは類似した化合繊の織物 〔プログラム言語の種類〕代入の繰り返しとい タイムスイッチ の総称。プロケードの地の組織と模様の組織方 う考え方に基づいてつくられている多くのプロ 〈元持邦之〉プログレッシプ・ジャズ progressive グラム一一一一〕語は、手続的 procedural プログラムプロクルス Sempronius Proculus 一世 jazz 一九四〇年代後半から五〇年代初めにか法に多くの種類があり、限定した組織をさして いないのは、通称名として使われているためで 紀中ごろのローマの法学者。彼の名は後代の法けて、白人のスタン・ケントンやポイド・レイ 一言語とよばれる。 O << Z 、 0 ーン楽団などが、近代音楽および現代音楽のある。用途は、ドレス、スーツ、室内装飾な はもっとも古く、数値計算を目的として設計学者の引用から知られるだけである。著作とし スカル ^ 角山幸洋〉 された。はの発展型言て『書簡集』 E を s ミが伝えられるが、後世手法とジャズを融合させた新しい試みを行っ アルゴル 754

10. 日本大百科全書 20

ヘビとされる。ニカラグアからコロンビア、。フ絶えず離合集散を繰り返しながら、水、食物を仏所が乱立の状態を呈し、室町時代には、仏師人間の共同的関係が物の性質のように倒錯視さ 一フ。ンレ、。ヘレー、 トリニダード・トパゴなどに求めて移動生活を行う。一か所の滞在期間は数は僧籍をもっというそれまでの伝統は破られれたり、人間と人間との共同的な関係が物と物 との関係であるかのように倒錯視される現象を て、完全な俗人の仏所までがつくられるように 分布し、全長約三、最大は三・七に達す日から一か月程度で、簡単な半球状の草葺き小 〈佐藤昭夫〉 問題にした。人間と人間の関係といっても、そ なった。↓仏師 る。頭部は大きいが極端な三角形ではない。低屋をつくって住む。この社会には首長はなく、 地から山地に至る降雨林の比較的涼しい場所に 職業や身分、地位の分化もみられない。社会の仏性ぶっしよう仏教用語。サンスクリッれは人間的対象活動における協労関係であり、 ト語の。フッダダートウ buddhadhätu の漢訳。それがある屈折を経て物の性質や物と物との関 生息し、個体数はあまり多くない 。しかし、夜全構成員は対等な関係にある。主婦が得る植物 どくが 係であるかのように仮現する事態をさす。この 行性で長大な毒牙と多量の強い出血毒をもち、 性食物は各家族ごとに消費されるが、頻繁に得「仏の本性」あるいは「仏となるべき因 ( も えさ しゅじよっ 現地では恐れられる。餌はネズミ類などの小動ることのできない狩りの獲物は同居集団内で平と・要素 ) 」の意で、衆生の有している仏と同ような事態がなぜ、またはいかにして生するか こよらいぞう についてを歴史の法則性として把握するのがマ 物である。卵生で、雌が抱卵して守る。飼育は等に分配される。父の兄弟は父、母の姉妺は母じ本性をさす。「来蔵」と同じ。ただ、如来 ばんのう ルクスの物象化論である。↓資本論↓疎外 〈松井孝爾〉 条件がむずかしい とよばれる類別的な親族名称をもち、性と世代蔵のように、煩悩にまつわれて隠れている、と ねはんぎよう 〈似田貝香門〉 ↓物神性 いう意味は表さなし 、。『涅槃経』が『如来蔵 によって二分される親族の体系をもつが、出自 ブッシュマン Bushman アフリカ南部 いっさい のカラハリ砂漠に住む採集狩猟民族。人口は約集団は形成されない。天上の創造神と、病気や経』の主張を受けながら、新たに、「一切衆生、 fäW ・マルクス著、向坂逸郎訳『資本論』 ( 岩 波文庫 ) ▽廣松渉著『物象化論の構図』 ( 一九 五万五〇〇〇。ホッテントットとともにコイサ死の原因となる悪霊の存在を信するが、体糸だ悉有仏性」と表現したのに始まる。仏性はま 八三・岩波書店 ) ン語族 ( コイン語族 ) に属し、その一一 = ロ語は吸打った宗教はもたず、きわめて現実主義的な生活た、仏となるべき能力を生まれつきのものとみ しゅしよう 音音韻 ( 吸着音、クリック ) を頻繁に用いるこ態度を一小す。冠婚葬祭、成人式などの通過儀礼 る点で、「仏の種姓」 ( サンスクリット語でプ仏生山ぶ。しようざん香川県高松市南部の ばだい 〈田中二郎〉 ツダゴートラ buddhagotra) を意味する。そ一地区。旧仏生山町。高松藩主松平家の菩提寺 とに特徴がある。平均身長は男子で約一五五もきわめて簡単である。 れがすべての衆生にあると主張するのが如来蔵法然寺の門前町で、高松市街から通じる仏生山 、頭髪は縮毛であるが、黄褐色の皮膚、突出回田中二郎著『。フッシュマン』第二版 ( 一九七六・ ほおばね 彳道に沿って集落が発達した。そうめん、渋団 思索社 ) 思想で、その根拠に仏の一乗の教えをあげる。 した頬骨をもつなどモンゴロイド的特質をもっ わ ばさっ しよごポッワナこれに対し、種姓は三乗で異なるとし、菩薩と扇、日傘の製造が盛んであったが、現在は高松 ている。血清学的にはネグロイドに近似しておブッシュマン諸語 などアフリカ南部に住むブッシュマンによって不定種姓のものにだけ仏となる可能性を認める漆器の下請工場がある。住宅地として発展、新 り、アフリカの最古の住民であることは間違い 、一とひら ゆいしき ない。。フッシュマンは古くは南部アフリカに広話される諸一一一一口語。北部のク諸語、トウア語、南唯識説が対立した。『涅槃経』も「一闡提」 ( 謗しい市街が高松琴平電気鉄道琴平線仏生山駅近 ほうふしん 〈新見治〉 くに形成された。↓高松 ( 市 ) く分布していたが、白人およびバントウー族の部のタア諸語、トウィ諸語などがそのおもなも法不信の徒 ) を無仏性のように扱う。中国・日 本では仏性の有無をめぐり、天台・華厳などの囮二万五千分の一地形図「高松南部」 圧迫により大半は絶滅し、現在はカラハリ砂漠のである。サン諸語ともよばれ、ホッテントッ め、いドレっ ほっそう いちぶんふじよう ぶつじようせいきゅうけん 0 物権 にのみ残存する。男の狩猟、女の植物採集によ ト諸語、タンザニアのサンダウ工、ハツアの両皆成説と、法相宗の一分不成説の間で論争が物上明求権 ′一んだいじよ・つ てキ一せいきゅ・つけん って生計を得ている。狩猟はキリン、オオカモ一一一一口語とともに、コイサン語族 ( コイン語族 ) をな展開し、後者は前者によって「権大乗」と貶的請求権 シカなど大形動物が弓矢により、小形のカモシすとする説が有力であるが、個別言語の研究、称された。 〈高崎直道〉物上代位ぶつじようだいい担保物件の目的 力、キツネなどが罠によって狩られる。親族関比較研究ともにきわめて不十分である。吸着音回常盤大定著『仏性の研究』再刊 ( 一九七三・国書物が売却・賃貸・滅失・毀損されたことによ り、その所有者が金銭その他の物を受ける場合 刊行会 ) 係に基づく数家族 ( 四、五十人 ) 単位の集団が ( クリック ) とよばれる音を普通の子音と同様に に、担保権者がそれらの物のうえに優先弁済を 用いることで有名。↓コイン語族〈湯川恭敏〉物象化ぶ 0 しようか Versachlichung ぶっしょ仏像を制作する組織。造仏人間の形成する社会関係およびそこに参与する受ける権利を行使すること。たとえば、担保の 仏所 目的物が売却された場合に、担保権者は優先弁 所の略称で、単に仏所といった場合、奈良時代主体が、ある一定のメカニズムを介してあたか の官営の造仏所や、平安時代初期に大寺院がそもモノのように立ち現れてくる現象を表す用済を受ける権利を売買代金に対して行使するこ とができる。しかし、そのためには担保権者 業れぞれ仏師を抱えていたものとは意を異にす語。一般に、物化 Verdinglichung オし と - つりよう る。平安中期以降は仏師の棟梁である大仏師物象化とよばれているものは、およそ次の三つは、支払いがなされる前に、売買代金請求権を 解 のレベルに整理できる。 差し押さえなければならない。同様に、担保の 、同時にその大仏師の の家や工房をム所と、 の ①人間そのものの物化。これは人間が奴隷商目的物が他人の不法行為で滅失した場合には、 指揮下にある仏師の集団とその系統をも意味す 品とか機械体系の一部として繰り込まれている損害賠償請求権に物上代位することができる。 るようになった。日本の職業的仏師の最初とい じよ、っちょう ような事態をさす。人間行動の物化。諸個人先取特権・質権・抵当権はこの効力をもっ ( 民 われる定朝やその子や弟子が、各自こうした ム の自由意志ではどうにもできなくなっている人法三〇四条・三五〇条・三七二条 ) 。これらの 仏所をつくっている。定朝の子覚助に始まり、 ゲ 、つ , ル↓丿い 担保物権にこのような効力が認められるのは、 鎌倉時代に運・快慶をはじめ多くの名工を生の流れとか、群集化された人の動きとか、行動 物 これらの担保物権が目的物それ自体を目的とす 、新 . , 獲んだ七条仏所 ( 派 ) 、弟子の長勢から出た一一一様式の習慣的固定化のように、自己の行動が えんば め 条仏所 ( 円派 ) 、覚助の子院助に発する七条大個々の人間ではコントロールできないという意るのではなく、その交換価値を把握するものだ レ」 からである。すなわち、かりに、目的物が滅失 宮仏所 ( 完派 ) などがあり、いずれも仏所の所味で物とみられる。③人間の能力の物化。人間 よ したとしても、その交換価値を表すものが残っ ン在地に由来した命名である。こうした呼称は鎌の精神を物的に定在化させたものとして考えら マ 倉時代後半以降で、当初はそれそれの大仏師のれている芸術作品や、投下労働価値説でいう商ている場合には、そのうえに担保物権は存続す ュ る。したがって、交換価値の把握を目的としな ・一一シ名を冠してよんだものとみられる。鎌倉時代な 品価値などがこれにあたる。 プ い担保物権、すなわち目的物を留置することに ・マルクスは『資本論』において、人間と かば以後になると、これらの仏所から分かれた 1 わな を一ド いっせんだい け′ん きそん ぶつけん 391