へいきん 台 技 均 平 の 用 ア 技 推 立兄 マ の 動 寿 運 台 平 の ポ を 国 要 を満たすようなが存在する。なお、この変形 をの平均値または期待値という。 主 が連続型の場合、すなわち、ある連続関数である以下のものも、すべて平均値の定理であ f( Ⅳ 0 があって、が 4 とわの間にある確率る。 寿 〔ロルの定理〕平均値の定理を証明するために P(a$X< b) が 均 平 は、普通その特別な場合である f(a)=f(b) の ( 歳 ) ケースを先に扱う。 f(a)=f(b) であるときを 次のように表される。「関 ロルの定理といし は、電子に量子力学を適用しフェルミーデイラ転、宙返りなど、基礎的なものから高度なものと表される場合には 数 f(x) が橋 x 橋 b で連続、 ^ ^ で微分 ック統計を用いる必要があるので、古典的な考まで実に多種多様である。女子体操競技で使用 可能で、 f(a)=f(b) であるならば、△ c ^ ・二、長さ五、幅一 えをそのまま使うことはできないが、適当な拡する平均台は、高さ一 でト ( 0 Ⅱ 0 を満たすようなが存在する」 張によって平均自由行程という考えを持ち込む〇誓・。自由演技の時間は一分一〇秒 ~ 一分三〇を * の平均値または期待値という。 一般的にいえば、確率変数に対して、その ( 図 ことができる。金属の場合はやはりの程度秒。演技の構成は、前述の運動要素をむだなく 〔有限増分の定理〕「関数 f(x) が橋暑で 〈小出昭一郎〉 組み合わせ、五の台上を最大限に使用しなけ分布関数を F(x) とするとき である。↓気体分子運動論 連続、 ^ 暑 ^ b で微分可能で、 lf'(x ) 一ミで へいきんじゅみよう life expectan ・ればならない。さらに演技はリズムに緩急の変 平均寿命 E(X) Ⅱ F ( も あるならば、 化をもたせ、しかも安定したフォームと動きが cy ある年の男女別にみた年齢別死亡率が将 橋△を b のとき 来もそのまま続くと仮定して、各年齢に達した要求される。技術の進歩により最近では「平均を * の平均値または期待値という。↓確率変数 〈古屋茂〉 人たちが、その後平均して何年生きられるかを台で行うゆか運動」とまでいわれるようになっ よめい へいきんちのていり関数である」。これを有限増分の定理という。これ 〈上迫忠夫〉平均値の定理 一小したものを平均余命 mean expectation of た。↓体操競技 life としし 、出生時、つまり〇歳時の平均余命平均値、いきんち mean 平均値は平均の f(x) がとわの間で微分可能であるとき、グは平均値の定理からただちに導かれるものだ が、この形では、 f(x) がべクトル値関数のと ラフの上でⅡ x=b に対応する点を結ぶ線 をとくに平均寿命という。わが国における平均値という意味に使われる場合と、確率変数 * の きにも適用できる。 分に平行な接線を有する点が 4 とわの間に少な 寿命は、一九八六年 ( 昭和六一 ) の簡易生命表平均値の意味で使われる場合がある。 〔積分に関する平均値の定理〕「 f( もが a$x くとも一つあることを主張する定理 ( 図 <)0 人のクラスで、あるテストの結果、各人の によると、男七五・二三年 ( 歳 ) 、女八〇・九 とすると、点数の和を微分積分法における諸定理を導く基礎になる重橋において連続ならば、 c b で、 三年 ( 歳 ) で、男女とも前年に比べ〇・四五年点数を 要な定理である。たとえば、平均値の定理から 人数で割ったもの、すなわち の延びをみせ、史上最高となった。ちなみに、 f(x)dx=f(c) (b—a) 次の二つの系が帰結できる。①ある区間で、つ 第二次世界大戦前に作成された最後の生命表で : 十洋 ) ねに、 0 ) Ⅱ 0 ならば、 f(x) はこの区間で定を満たすようなが存在する」。 ある第六回生命表 ( 一九三五 ~ 三六年調査 ) に 〔コーシーの平均値の定理〕「関数 f(x), 90 ) よると、男四六・九二年、女四九・六三年であがこのテストの点数の平均値である。身長や体数である。②ある区間で、つねにト 0 ) Ⅳ 0 な が。橋橋 b で連続、。△ b で微分可能であ らば、 f(x) はこの区間で単調増加である。 〈金子幸治〉重についても同様である。 った。↓寿命↓生命表 り、かっ 9 、 0 ) はけっして 0 にならないもの 平均値の定理を精密に述べると、次のように 次に、確率変数の平均値について説明す 平均台運動へいきんだいうんどう平均台を とする。そうすれば、 なる。関数 f(x) が、。橋 b で連続、 ^ △ る。が離散型の場合、すなわち、のとりう 使用して行う運動。女子体操競技種目の一つ。 : とし、がという値をと b で微分可能ならば、 a<c<b で、 支掌面の狭い台上で行うので、平衡感覚と身体る値をあ、あ、 a<c<b Ⅱ 1 ) とするとき 調整力の養成に役だっ。運動内容は、歩行かる確率をか 0 】 + ~ + : f'(c) Ⅱ を満たすようなが存在する」。 、】十ト 2 十・ ら、各種ステップ、跳躍、ターン、ポーズ、回 女 男 1 985 ノルウェー 1980 1975 1970 アイスランド 日本 フランス イギリス スウェーテン アメリカ 注 : アメリカは臼人 , イギリスはイングランドとウェールズの数字。 日本は厚生省統引・情報部「生命表」および「簡易生命表」、諸外国は UN , " 仇〃 log 川な朝。 " および各国資科による 1961 年 1965 500 0 1 1 880
, フ negligee ( 部屋着・寝間着 ) が昼の服として登場し、やがて常ともみえるこの髪型の変化は、そのまま享楽の感情のほと大きくなり、首には幅広いクラバットがあごを覆うように巻 き付けられた。キュロットは鹿の脚のようにタイトで、軽央 ばしりに終わりのなかった王朝貴族階級の心情の現れといえ 」それが流行の主流にのし上がる。ワトーのひだっき服 ( き ~ 2 、åトミミ、ミド watteau pleats gown) とかアドリエンヌよう。これに対するスカートの短縮は、行きすぎた貴族のおな躍動美が好まれ、二角帽 ( ビコルヌ b ぎ、ミ ) がかぶられ 、か ad こ 0 ミがそれで、これらはやがてロープ・ボラントき ~ ごりに嫌悪を抱く市民階級の心情と、それをはぐくんだルソ た。これに対する女性服は、初め革命直前のイギリス風シュ 、丁い、も、つ ーの啓蒙思想や新古典主義の反映とみられよう。この期の服 ミーズがフィシュぎ ( 薄地の三角ショール ) とともに着 きミ e ( ひらひらした固定しない服の意 ) と名をかえて定着 し、さらに、かってのファーズインゲールがパニエを e ) 、飾には明らかに両者の葛藤と矛盾をはらんだ、当時の人々のられたが、やがて白地薄物のローン、リネン、モスリンなど によるほっそりしたハイウエストのワンピースが、ショール とまどいがみられ、やがてそこからイギリスの自然主義的方 フープ hoops の名でふたたび登場するようになる。 、ニエは消えうせ、衣装はしなやギリシア風サンダルとともに着用された。革命の反動から 全盛期 ( 一七一一三 ~ 七四、ルイ一五世の親政期 ) 男性のジュ向に結論をみいだしていく。ノ しん ストコールは絹製の淡い色調で、裾は馬毛やゴムびき布を芯やかになって頭髪も単なるカールにかわる。こうして八〇年若者のなかには常軌を逸した風変わりな着衣によって人目を にして波状にひだづけされ、いっそう優美な外形を示すよう代には、ヒップで膨らんだバスル bustle スカートやルダンひくものも現れたが、そうした男性はアンクロワイヤ。フル 力いとう ぎ c きミ e ( 途方もない人の意 ) 、女性はメルべイユーズき e 、・ になる。こうして前開きのままで着られるようになると、べゴト、 & 、 e というイギリス風の丈長の外套が女性の門 にまで普及するようになる。こうしてルイ一六世の時代はフミミ euse ( 風変わりの意 ) とよばれている。 ストの役割はますます重要になり、みごとな刺しゅうを施し アンビール 帝政時代 ( 一七究 ~ 一 八一五 ) ここでは統領時代の五年間を たり、ジャポをつけたりした。キュロットとともに、これら 一フンス革命とともに終わりを告げる。 そろ 〔流行の世紀 ( 近代 ) 〕フランス革命によって華やかな宮廷含むナポレオン一世の時代をいう。男性は細身に仕立てた羅 一揃いの服はアビ・ア・ラ・フランセーズ、 ~ ・、å・ しゃ とよばれ、一八世紀の間着用された。相変わらず入念文化は終わりを告げ、自由・平等・博愛に象徴される市民の紗地のテール型上着にウエスト丈のジレをミ ( 短いチョッ なかつらが用いられ、トリコルヌ、、ぎ、ミという波状曲線時代が開けてくる。一方、一八世紀なかばに始まるイギリスキ ) を着、そしてなによりもバンタロンをミミを s ( 長ズボ ン ) を細身に着用するようになる。円筒形のシルクハットが の三角帽が男性にかぶられた。女性服もこの期ほど洗練されの産業革命は、工業的生産によって資本主義を助長し、社会 た美しさを発揮した時代はまれである。中心となったのは口構造上にも大きな変革をもたらす。こうして近代は二大革命かぶられるようになるのも、ほとんどそれと同時であった。 しわゆるダンディで知 こうした細身の洗練された男性服は、、 ープ・ボラントから発展したロー。フ・ア・ラ・フランセーズを基点に新しい展開をみせる。流行の主権はもはや、一握り られる当時のイギリスのポー・プランメンによって代表され きå洋で、胸元を大きく開き、胴をコルセットの王侯貴族の手から、広く市民階層へと移り、いやがうえに で細めて、スカートは逆に横広がりのパニエで強調し、前面も人々をその渦中に巻き込んだ。こうして一九世紀は「流行る。また、かって長ズボンは革命中の貧困市民層によっての を形に開いて優美さを保っている。かつらはこちんまりしの世紀」であるとともに「様式模倣の世紀」だともいわれてみはかれ、これらの人々はサン・キュロット s を s , ミ、 e とよばれたことは周知である。女性服では薄物の衣装が廃れ いる。とりわけ女性服では、西欧世界がこれまで体験した服 ているが白い髪粉で和らげられた。こうしてこの期のシック て、サテンやビロードなどに置き換わり、形は相変わらずハ 装の主様式がほとんど網羅的に、しかもみごとな周期を描い さと社交儀礼は以後西洋の手本として継承される。 そで 0 終末期 ( 一七七四 ~ / 、九、ルイ一六世の時代 ) 男性は引き続て登場するからである。これに対する男性の服装は、一八世イウエストの円筒形を保っていたものの、小さなパフ袖や膨 えんびふく きアビを着用したが、 やがて燕尾服型のフラック frac が現紀後半に導入されたイギリス風の簡素で実用的な服型を基本らみを何段にも仕切ったマムルーク mameluke 袖が流行 に、はるかにじみな展開をみせる。初めてファッション・。フし、裾には何段もの水平装飾がみられた。それらの上にはス れる。これには折り返しの襟がっき、それがしだいに高く持 ペンサー spencer とよぶ短い上着やカヌズーきミ 2 ミとい ち上がってくる。この服型はすでに一七七〇年代に登場するツクが現れるのは一七七〇年代であるが、普及をみるのは一 う一種の肩衣やショールが着られた。こうしてこの期の女性 が、当時は相変わらず絹製で、プリント地が縞の布地にかわ九世紀もなかばであり、ミシンの発明や化学染料の発見もこ 服は、洗練された簡潔さと装飾性をあわせもった、独自の様 った程度であった。かつらは美しくカールされ、波状曲線ののころである。 こうして近代は次の五期に区分できる。つまり①新古典主式を保っている。 三角帽は脇に挟んだり、手に持ち歩くことが多くなった。し ②ロマン主義時代 ( 一八 = 0 ~ 四 0 ) 革命と第一帝政時代を経て かし八〇年代に入ると、イギリス仕立てのウール製が多くな義時代、⑦ロマン主義時代、③クリノリン時代、④バスル時 ふたたびルイ一八世の王政復古を迎え、平静のときがよみが り、シルクハットがかぶられるようになる。こうして、じみ代、⑤ GO 字形時代である。 けんそう ~ 天一五 ) 芸術一般がそうであったえると、人々は世の中の喧噪や堅苦しい知性から遠ざかっ でじようぶな仕立てのイギリス風は、その後の男性服の定型①新古典主義時代 ( 一七九一一 となり、メンズモードにおけるイギリスの主導権は確立すように、フランス革命が終わると、うって変わって簡潔な服て、かってのみやびな風潮を追憶するようになる。つまり、 る。一方、女性服ははるかに多彩な展開をみせ、わけてもそ装になり、女性服はひたすら古代ギリシア・ローマ風を追求帝政時代の古典的堅苦しさから、感性的で個性的な表現を好 ネオグラシシズム する。このことからこの期を新古典主義とよんでいるが、こむようになるのである。新ロココ様式という別名もここから れは略装に著しい。ロー。フには、ロープ・ア・ラ・ポロネー ズ robe åを、 0 き、ロープ・ア・ラングレーズき ~ åれにはフランスの二つの時期が含まれる。総裁政府時代と帝おこった。女生服のウエストラインは自然の位置に戻る一 方、ふたたび細まって X 字形を追うようになる。一八二五年 をミミ se 、カラコ・ロープきき co き ~ などの各種が現れ政時代である。 ディレクトワール てスカートの長さも短くなるが、かわって髪型が途方もなく < 総裁政府時代 ( 一七九 = ~ 究 ) 革命期に比べると、男性服を過ぎると肩を覆うまでの幅広い襟がっき、なで肩になり、 ジゴ袖きを e åを、 ( 羊の脚形の袖 ) が流行する。一 膨らんで、それが流行変化のポイントになってくる。一種異には基本的な変化はみられないが、襟は高くラベルは法外に かっとう
ズム直系の高い教養と文化を身につけ、中世唯一の先進国と き、ミミ ) とフープランド (houppeland 、ウブランドミ、・ , フ女は、羊毛が房状に絡み合った毛皮服の一種カウナケス kau ・ 、。ヒサンティン文化の特質はギリシア的優雅さに 一を ) が現れる。コトハーディとは奇抜な表衣の意で、男 」 nakes の腰衣かショール付きスカートを着用した。前二千なってした。、、。 2 、年紀のバビロニア時代になると、上層の男性は全身を覆う袈東方の華美さを加え、キリスト教精神を通じて宮廷中心に開女とも上体にびったりあわせて仕立ててある。男性のコトハ 、か裟掛けのウールの衣服かカウナケスの螺旋状の巻衣を着、下花したところにある。この傾向は、服装上ではローマ的な巻 ーディは腰丈でローウエストであるが、これはやがてダブレ 層ではシャッ状のチュニックか短い腰衣が着用された。女性衣形式と北方的二部形式、および東方的装飾のみごとな結 ット (doublet 、プールボアンをミミ ) へと発展する。 はびったりした足首丈のチュニックが一般であった。前一千合となって現れている。男性は膝丈のチュニックにホーズ脚部にはタイツ状のホーズをはき、その結果として上部で過 年紀のアッシリア時代になると、男性は基本的には、びった hose をはきノノ 、ヾレダメントウム paludamentum とよぶマ重の外形になった。一方、女性のコトハーディは胴部がタイ りしたチュニックにフリンジ付きのショールを着るか、もしントを右肩にプローチで留めた。女性はくるぶし丈のチュ一一トなのに対して脚部は極端に緩く、しかも引き裾に仕立てら くはショール状の巻衣を着た。女性は、王妃の一例だけであックを着、その上からローマと同じバルラかまたはバルダメれている。襟ぐりは低く > 字形で胸当てがっき、ハイウエス すそ トを特徴としている。女生はヘンニン (hennin 、エナン るが、それによると彼女は綿密な刺しゅうを施したフリンジ ントウムを着た。チュニックの両肩と裾には男女ともはめ込 付きの螺旋状巻衣を着、鉢巻形の重厚な冠と腕輪と耳飾りをみ模様や刺しゅうを施し、上層の男性のパルダメントウムの ~ ~ ドミこことよぶ丈高いとんがり帽をかぶり、男女と つけている。↓チュニック 胸元には方形の装飾が、また上層女性のバルダメントウムのもクラコー (crakow 、プーレーヌをミミミ ) というとんが り靴を履いた姿はまさしくゴシック建築との類型を示してい 古代ギリシアの服装の特生は、総じて簡潔でしかも自然な肩と裾にはきらびやかな刺しゅうの飾りが施された。 わき ビサンティンも含めて全体としてみると、中世は強力な東る。一四世紀も後半になると、女性はその上に、両脇を窓状 垂れひだの美しさにあったといえるが、しかし、それに先だ にくりぬいた形の重ね着サイドレスサーコート ( sideless sur ・ っクレタ、ミケーネの服装には、一部まったく対立的で近代方文化との接触のなかで、キリスト教と古典文化を受け継い 、 c ミミミミ ) を着用した。 的外形の婦人の姿も見受けられる。これはむしろ異質で例外で大きく成長していく時期であり、近代に至るヨーロッパ文 coat 、シュールコトウべール 一二世紀 これに対するフープランドはハイネック、ローウエストのガ 的である。初期にはウール地の単純な円筒状に身体を包むべ化の土台を形成する時期であった。とりわけ一一 プロス peplos が着られた。この服は質実剛健の気風を重んのロマネスク時代は、キリスト教精神が全ヨーロッパの時代ウン形式で、広袖の縁にはダギング (dagging 、フェストン じたスパルタのドーリア人に踏襲されてきたところからドー 精神として、すべての文化のうえに反映し、特異な芸術様式ネ、を ) という独特の切り込み装飾が施され、シャプ ずきん ロン e きミという頭巾がかぶられた。 リア式キトン Doric chiton の別名がある。キトンとは元来を展開した。その特徴は水平線を強調した重厚な壁体とアー 〔窄衣の発展時代 ( 近世 ) 〕ゴシック時代に確立された窄衣 身体に直接まとう衣服で、英語のチュニックにあたる。古典チ型丸屋根構造のロマネスク建築に象徴的に表れている。こ 期になると、アテネを中心とするイオニア人は、東方より輸の特性は服装でも、全身を緩やかに覆い包む寛衣の形式に類の形式は、その後の西洋服飾を特徴づけたばかりか、基本的 にはそれが今日にまで及んでいる。というのも、体形にあわ 入した薄地リネンの優雅な服をまとうようになる。これをイ型的に表れている。代表的な衣服は男女ともカートル (kir- tle 、シェーンズ chainse) という麻製の下着にプリオー (bli- せて仕立てることへの人々の欲求とその技術の発見は、衣服 オニア式キトン lonic chiton とよんでいる。彼らはキトン の時代趣好や流行変化に即応した多様な外形変化を可能にし の上にヒマティオン himation という外衣をまとい、兵士 aut, b 守 ) という表着で、この上にサーコート (surcoat 、 力いとう や若者はもっと短く粗末なクラミュス chlamys という外套シュルコ s ミ 8 、 ) とよぶ袖なしの上っ張りかあるいはマンたからである。近世の服飾は、他の芸術と同様次の三つの様 トを着た。マントを除けばいずれも緩やかなワンピースで、式期に区分される。①は一五、一六世紀のルネサンス、②は をまとった。ともあれ、ペプロスは人間の衣服のなかでもっ 一七世紀のバロック、③は一八世紀のロココである。そし 男性は膝丈、女性は床丈で、べールや顎覆いをつけた。。フリ とも簡潔で美しい衣服の一つに数えられている。↓キトン 古代ローマの服装はおおむね古代ギリシアの踏襲ではあっオーはやがてコト (cote 、コットきミ ) という名称にかわて、この三つの様式の間には次のような特徴の推移がみられ ひも り、女性は背側で胴部を紐締めにしてしだいに身体に沿う外る。すなわち、ルネサンスの服飾は部分と部分の結合によっ たものの、いっそう形式化し、かっかさばったものになっ て変化に富んだ明確な外形線を描き、それだけに銅像のよう た。男性はトゥニカ tunica の上にトーガ toga を着、女性形になり、一方、男性は腰丈のプリオーにホーズの形式が一 な硬さと、静的な重厚さが特徴になっている。これに対する 般になる。 はストラ stola の上にパルラ palla を着た。ストラはギリ バロックの服飾は部分と部分の境目がはっきりせず、力強く 、。ハルラはギリシアのヒマティオンに こうした人間の枠の大きさを越えることのなかった袋のよ シアのキトンにあたり うな寛衣も、一三世紀から一五世紀にかけてのゴシック時代流動的に連続する。ロココの服飾はいっそう弱々しく女性的 あたる。初期のころは女性もトーガを着たが、共和政になっ になると、限界を越えた垂直線の強調と、輝くばかりの色彩で繊細優美なのが特色である。 てヘレニズムの影響を受けるとギリシア風に変わった。帝政 せんとう リプ・ポール ①ルネサンスの服飾 ( 一五 ~ 一七世紀初頭 ) 十字軍遠征の 時代になると、トゥニカはダルマティカ dalmatica というや装飾を伴った大胆なものに一変する。尖頭アーチと肋骨穹 寛衣にかわり、やがて一般ではただそれだけが着られるよ , っ窿構造のゴシック建築において、この特徴は象徴的に示され拠点となった北イタリアには都市が興り、商工業や経済の発 ばっ , う になる。こうしてダルマティカは中世服の基本型となって受ている。十字軍以来の商工業の発達や都市の勃興が、かって達につれて都市貴族が生まれ、思想や生活文化の面にも新し の封建性から解放して人々に新生活の気運をみなぎらせたかい動きが現れてくる。フィレンツェ、ベネチア、ミラノなど け継がれていく。↓トゥニカ はその中心であった。とりわけフィレンツェは一三世紀ごろ らである。初期には引き続いてサーコートが用いられたが、 〔寛衣から窄衣へ移る時代 ( 中世 ) 〕古代ローマの後継者と から毛織物工業で栄え、一四世紀には金融業の一大中心地と なった東ローマ帝国は、ビザンティオンを首都としてヘレニ 一四世紀になるとコトハーディ (cote ・ hardie 、コタルディ ひざ あご 216
① 精による飼育が実験的に行われ、一九六四年に 山口県で種苗生産が本格的に開始された。最初 は年間一〇万尾以下の生産量であったが、最近 環の では六〇万 ~ 七〇万尾の生産が可能となってい をも フ ウ 色る る。初夏に天然産卵場で親魚をとらえて採卵 ョ 体す ラモ し、孵化後はプランクトンや冷凍アミを餌とし しヒ、 クる マせ て飼育する。一尾の雌から二〇万 ~ 二〇〇万粒 れる タ似 の卵が得られる。孵化後約五〇日で体長三、四 隠ゅ にわグる色 になる。一年半ほど飼育したものが市場に出 物いフせ体 ン似に 荷され、一キ。五〇〇〇円から一万円で販売され ・「態引せヒ色樹ている。 ぢようちん 生休さる体の の調潜にゴ フグ類は食用とされるほか、フグ提灯に加 みやげ 類同いに肌ン 工されて各地で土産物にされている。テトロド クグに多少 ~ 岩サ フフ境が 0 、②③ トキシンは医薬品となり、神経痛、胃けいれん 〈松浦啓一〉 行われ、関門海峡はかって産卵場として知られあるかなど、フグ中毒防止のための基礎資料をドトキシンまたはその関連物質を産出する能力などに適用されている。 つだきようすけ があることが知られている。フグ中毒にかかる〔食品〕フグは各地の貝塚からその骨が出土す ていた。サバフグ、カラス、マフグなどはやや明らかにした。津田恭介らによって六二年に 沖合いで産卵する。フグ類の卵は、沈性粘着卵結晶テトロドトキシンが取り出され、その後のと、唇と舌がしびれ、呼吸困難をおこす。意識るところから、太古の時代からすでに食べられ は死の直前まで正常である。最終的には呼吸中ていたことがわかる。中毒死も当然多かったは が多く、直径一ミリ前後の球形をしている。産卵研究を経て分子式は C 】を二 08 イであることが まひ 期は春から夏で、ヒガンフグの産卵期がもっと 明らかになった。純粋なフグ毒は、無色、無枢の完全麻痺によって呼吸が停止し、死に至ずだが、その味のおいしさから食用をやめるよ ひがん うなことはなく、いまも食べられている。食用 る。フグ中毒にかかったら吐剤・下剤を与えて も早く、名前のように三月の彼岸ごろに産卵す味、無臭で微細なプリズム状結晶である。水と る。サバフグやショウサイフグは産卵期が遅い 有機溶媒には不溶、微酸性の水に可溶である。体内のフグ毒の除去に努め、強心剤を与えて回とされているのは、トラフグ、ヒガンフグ、マ フグ、サバフグなどの種類があるが、トラフグ ほうで六、七月に産卵する。フグ類は普通、背 ただし、これはフグ毒の結晶の溶解に関するこ復を図る。しかし、決定的な治療方法はない。 しり とで、フグ類の肝臓や卵巣などの組織からはテ近年でも、一年間に日本全国でおよそ七十数人がもっとも美味である。 びれと臀びれを波打たせてゆっくり泳ぎ、敵に フグの毒は、同じ種類のフグでも一匹ごとに トロドトキシンを容易に水で抽出できる。フグがフグ中毒にかかり、二十数人が死亡してい 襲われるとほかの魚と同様に尾びれを振って逃 げる。背びれと臀びれの動きは非常に巧みで、 毒は加熱してもほとんど変化しないが、弱酸性る。これらの大部分は、家庭でフグを調理した違い、また同じフグの毒でも部位、季節によっ しろうと ために生じている。素人のフグ調理は生命の危て異なる。このため、厚生省では一九八三年 ゆっくりと方向転換したり、後進することもで液やアルカリ性液中では分解し、毒性を失う。 険を伴うので、絶対に行ってはならない。山口 ( 昭和五八 ) 食品衛生法第四条に関し、フグを きる。フグ類の歯は強固なくちばし状の歯板に フグ毒には免疫効果はなく、毎日、中毒しない なっていて、体が触れ合うと激しくかみつく習程度の微量のフグ毒を摂取してもフグ毒に対す県や東京都などでは、フグ中毒事件の発生防止販売してもいい種類と部位についてはっきりさ せ、フグについての解釈を示した。またフグの 性がある。このため狭い水槽の中へトラフグをる抵抗性も免疫性も得られない。フグ毒は個体のため、フグ調理師免許制度を設けている。 調理師について特定の都府県では試験によりそ 多数入れておくと、互いに体の一部を食いちぎ差が著しく、同じ時期に同じ場所から漁獲され毒魚 の資格を与えている。 ってしまうほどである。クサフグの雄は、産卵 たものでも毒性が異なる。また、フグ毒は季節〔漁業〕おもな漁場は黄海と東シナ海である。 ひゅうがなだあまくき 肉は白身で、脂肪の含有量が〇・一 % とたい 場で雌の腹部にかみついて産卵を促す。フグ類的に強さが変化し、トラフグでは一二月から翌瀬戸内海西部や日向灘、天草諸島などは、かっ へん少ないため味は淡泊である。刺身、ちり鍋 はしばしば食物を吐き出す。釣り上げたり、飼年三月の間は毒力が強く、ほかの季節には弱くては有名な漁場であったが、近年ではわずかな なる。フグ毒は多くの種類で卵巣と肝臓に集中漁獲量を数えるのみに減少している。漁法は魚がもっとも多い食べ方である。てっさあるいは 育水槽の水質が悪化するなど条件が悪くなると はえなわ し、腸、皮膚、精巣、さらに肉にも毒をもっ種種によって異なり、トラフグは底延縄で、カラふぐ刺ともよぶ刺身は、フグの身を、盛り付け 胃から食物を吐き出す。 スは浮延縄で漁獲される。またサバフグ類は底る皿の模様が透けて見えるくらいごく薄く切 〔フグ毒〕フグ類が卵巣や肝臟に猛毒をもって類もいる。 フグが、なぜフグ毒をもっているかについて引網や籠網漁業によって漁獲されている。フグる。フグの肉には弾力があり、厚く切るとかみ いることは、「フグは食いたし命は惜しし」と い , っことばもあるよ , つに古くから知られてい は外因説と内因説の二つがある。外因説は、外漁は八月下旬に解禁され、春の彼岸ごろに終わ切りにくいためである。ポンスしようゆと、刻 しものせき た。フグ毒の研究が日本で本格的に行われたの界から食物を通じてフグ毒を取り込むという説る。下関には、トラフグ、カラス、マフグ、シんだワケギやアサッキ、もみじおろしで食べ しんのすけ る。刺身には、「とおとうみ」とよぶ皮下の組 マフグなどが昭和四〇年代には年間五〇〇〇ト一 で、内因説はフグが自らの体内でフグ毒をつく は、明治になってからである。松原新之助は、 も水揚げされていたが、その後、減少の一途を織を湯に通したものを添えることが多い。身皮 八三年 ( 明治一六 ) にフグ毒をイヌに与えりだすという説である。貝類のボウシュウボラ たはらよしずみ ( 三河 ) の隣にあるからとおとうみ ( 遠江 ) と たどり一九七九年 ( 昭和五四 ) には二〇〇〇トン がヒトデの一種モミジガイを食べ、それによっ てその結果を発表している。田原良純は一九一 二年 ( 大正一 ) に卵巣からフグ毒を抽出し、精てテトロドトキシンがボウシュウボラに摂取さを割った。一方、沿岸のサバフグ漁は西日本各しゃれたもので、この部分は湯に通すとゼラチ 製してテトロドトキシン tetrodotoxin と命名れることが判明したり、人工池で飼育したクサ地で盛んに行われ、年間五〇〇〇トンを超える漁ン化してぶりぶりしたロあたりになる。ちり鍋 たこいわお はふぐちり、てっちりとも、 しい、刺身をとった した。谷巌は四五年 ( 昭和二〇 ) に「日本産フグからはテトロドトキシンが検出されないな獲量がある。 〔養殖〕養殖は、価格の高いトラフグを対象とあとの骨や頭にシュンギク、豆腐などを取り合 フグの毒学的研究」を発表し、魚種による毒のど、外因説に有利な証拠が多い。ビブリオ属や して行われている。昭和三〇年代前半に人工受わせた鍋物である。刺身と同様、ポンスしよう 強弱、毒の季節的変化、体内のどの部分に毒がエロモーナス属に属する腸内細菌には、テトロ なべ
ナ . た。その回収のためチロール銀山のほかスペイを中心とする正四面体構造。水と激しく反応し 〃種の財貨に対する価格を総合した物価指数消費構成の変動をも考慮するものとして提示さ硯 て二酸化ケイ素とへキサフルオロケイ酸 ( フツを作成するとして、基準時点。および指数作成れたエッジワース算式 ンの騎士団領の収益がフッガーに委譲された。 化ケイ素酸 ) を生じる。湿気がまったくなけれ時点 ( 比較時点 ) ーにおける各財の価格をそれ このころ大商人の独占に対する非難が激しく、 っ をス。 + D ば、ガラス、水銀、グリースなどを侵さない それ PI 。も ・もきおよび Plt, を : 二三年帝国議会はフッガーを裁判にかけること 六フッ化二ケイ素は、六塩化二ケイ素をフッ 、ミとし、また、それそれに対応する取引高を を決めたが、彼は皇帝に詰問の手紙を送って裁 化亜鉛と熱するか、ケイ素に不活気体で薄め背 , 背 , ••'qnt と 判の中止と取引の保証を取り付けた。農民戦争 がある。さらに、指数算定のある合理的テスト では領主側に資金と武器を提供したが、ハンガたフッ素を低温で反応させて得られる無色の気する。ここで、ウェイトとして基準時点の取引 に適合するものとして '-* ・フィッシャーは、ラ 〈守永健一〉 高を用いる算式はラスパイレス式 ( ラス式 ) と ーでは民族的反抗にあって鉱山の放棄を決意体。 かーーーそさん fluorosl- よばれ、ウェイトとして逆に比較時点の取引高ス式とパー式とを幾何平均した算式 し、心労のなかで二五年六六歳で死去した。 フッ化ケイ素酸 彼は、兄から引き継いだ財産を一〇倍に増や licic acid 正しくはヘキサフルオロケイ酸とを用いる算式はパーシェ式 ( パー式 ) とよばれ E をミ 3 をミ 3 EPi0Qit いう。ケイフッ化水素酸、フルオロケイ酸ともる。すなわち、ラス式物価指数れは、 し、二〇以上の支店、六〇の町の代理商と駐在 を「理想算式」として提一小したが、算式の意味 いう。化学式 HSiF6 、式量一四四・一。四フ 員を使って国際的な商業と金融業を営んだ。一 EPitqto が不明確なこともあり、今日では指数時系列の ッ化ケイ素を水と反応させると、コロイド状の 五〇七年以後領地を購入し、一四年に伯爵に叙 接合の際などに用いられるにとどまっている。 せられたが、自らは称号を使わず商人で通しケイ酸とともに生じる。 E をミ 3 これらの指数算式のうち、意味の明確さ、毎 ーー↓ 2H2SiF6 + H2Si03 3SiF4 十 3H ~ 0 た。学芸を保護し、寄付や慈善を続け、一四年 年次における算出の容易さなどから、今日では これにフッ化水素酸を加えてケイ酸を溶かすとであり、パー式物価指数わは、 には低家賃住宅フゲライを建てた。 ラスパイレス算式がもっとも広く用いられてい 多量に得られる。純粋なものは、ヘキサフルオ ついで、彼の甥のアントン Anton ( 一四九三ー る。↓卸売物価指数↓消費者物価指数↓ラス ロケイ酸バリウム BaSiF6 と硫酸との熱分解 一五六 0 ) の代に、資産は最大になったが、返済の パイレス指数 ↓バーシェ指数↓ェッジワース 保証のない債権が増加し、事業はスペイン王室で得られる。濃水溶液を冷却すると二水和物 〈高島忠〉 指数↓フィッシャー指数 H2SiF6 ・ 2H20 が析出する。二水和物は無色の への貸付けとアントワープでの投機に傾いた。 結晶。融点一九度 O 。水溶液は硫酸と同程度のとして算出される。一フス式物価指数れは、基物価水準ぶつかすいじゅん price level 商 そのためスペイン王室の支払い停止 ( 一五五七、一五 品・サービスの個々の価格を総合して、社会全 七五、一六 0 七 ) とアントワープの陥落 ( 一夭五 ) で痛強い二塩基酸。電離度 ( 二五度 0 ) は、一規定準時点で購入していた財の組合せ ( バスケッ ト ) と同じものを比較時点で買ったとしたらど体の一般物価を示すように作成された単一の数 では五三 % 、〇・一規定では七六 % 。水溶液は 手を受け、一七世紀には商業から退いた。 値のこと。物価指数として表される。経済社会 わずかに 2HF と SiF 、に解離する。防腐剤、れだけの金額になるかを比較したもの、 フッガー家は、土地貴族として現在まで続い の全体的な物価の高さ ( 水準 ) を表すに際し、 えると、物価水準 ( 個々の財貨の価格 ) が変化 ており、アントンの代から集めた多数の史料が製紙工業に用いられる。また、鉛の電解精製の しているなかで、基準時点で得ていたと同水準個々の商品やサービスの価格・料金を単純に平 ディリンゲンのフッガー文庫に収蔵されてい 電解液となる。ナトリウム塩は、氷晶石やフッ る。 〈諸田實〉化ナトリウムの製造、うわぐすり、ガラス、陶の満足を比較時点で得るためにはどれだけの支均したのでは、一般物価としての全体的な動き 回諸田實著『ヤコプ・フッガー』 ( 松田智雄編磁器の乳白剤などに用いられる。〈守永健一〉出を要するかを比較するものである。これに対を表すことにはならない。たとえば、わすかの してパー式物価指数わは、比較時点で購入し量しか取引されない商品の価格が大幅に上昇し ぶつかしす , っ price index, index 『巨富への道』所収・一九五五・中央公論社 ) ▽ 物価指数 ているものと同じものを基準時点で買ったと仮たとしても、他の多量に取引される商品の価格 同著『ドイツ初期資本主義研究』 ( 一九六七・有 number of prices ある経済活動分野につい が不変であれば、社会全体の一般的な物価とし ての総合的な物価水準を、ある年次 ( 基準時定した場合にいくらになるかの比率を示すも 斐閣 ) ーし か。ーーそ silicon flu- しいかえると、比較時点におけるのと同水ては、それほど上昇したことにはならない 点 ) のものを一〇〇とした指数によって表したの、 フッ化ケイ素 たがって、この物価水準を表すためには、各商 準の満足を得るためには基準時点ではどれだけ もの。物価の動きを時系列的に観察し、あるい oride ケイ素とフッ素の化合物。四フッ化ケイ の支出が必要であったかの比率を示すものであ品・サービスの価格・料金をそれらが取引され は地域的に比較するための指標であり、いろい 素、六フッ化二ケイ素 Si2F6 などが知られる。 る割合に応じて加重して平均する。そして、あ ろな政策立案のため、または種々の経済指標をる。 O O ラス式ではウェイトを基準年次のものに固定る基準年次における値を一〇〇とした指数に作 実質化する際のデフレーター ( 価格修正因子 ) イ 6 ケ -0- 11 1 ー亠 して毎年次の価格のみの調査で算出できるため成する。この物価指数の時間的経過や地域的相 としての用途などに重要である。わが国におい ケヒ ては現在、指数算出の対象の相違によって、卸便宜であるのに対し、パー式では指数算定年次違をみることによって、物価水準の時間的変動 ン 2 ッフ量点点カ量点点 / 売物価指数、消費者物価指数、ごとにウェイトを置き換えて算出せねばならなや地域的格差の比較をすることが可能になる。 売物価指数、ト 式融沸 式融沸六 〈高島忠〉 ↓物価↓物価指数 い不便がある。また、比較時点における真の物 輸出入物価指数、工業製品物価指数、農村物価 価指数 / を、 フッ化水素ーーかすいそ hydrogen fluor ・ 四フッ化ケイ素は、ケイ素にフッ素を直接作用指数、料金指数、市街地価格指数などが作成さ ide 水素とフッ素の化合物。フッ化水素カリ させるか、二酸化ケイ素、ケイ酸塩にフッ化水れている。 ほたるいし ほたるいし ウム KHF を熱するか、蛍石 CaF2 に濃硫酸 物価指数は、各商品・サービスについての価 素酸を作用させる。蛍石 CaF2 と二酸化ケイ 、んまを加えて執 . する。常温で無色発煙性の液体。式 素の混合物に濃硫酸を作用させてもよい。純粋格系列を、基凖時点を一〇〇として表した価格とするならば、消費者行動の理論より / 。 / の上限となり、わは / の下限となることが量が小さいのに融点や沸点が高いのは、水素結 指数を基礎として作成されるが、主として加重 なものはヘキサフルオロケイ酸バリウム BaSi 合により分子が会合しているためである。気体 F6 の熱分解によって得られる。無色、刺激臭平均の仕方の相違によっていくつかの異なる算示される。 の蒸気密度は、九〇度 0 以上で HF 、三二度 O 以上のラス式、バー式のほかに、両時点間の の強い不燃性の気体。 SiF 、分子はケイ素原子式がある。
は粒子相互作用でその形を保持し外力に対してかれた環境と粉体の基本的性質 ( 粒径および粒ので、平仮名をおもに用い、当時の話しことばを形式に従いながら作家が独自な文体を実現して いることは、その種の多くの作品によって証し も強く抵抗する点では固体的であるが、一方、度分布、真比重、空隙率、安息角、粉体の堆基調にして書かれたと推測され、人々の連綿と たてられているとおりである。 容易に変形・流動するという点では流体的で、積、付着性など ) をよく調べることがたいせっした思いが反映したと考えられる文体である。 文体は、直接的にはもつばら文章そのものに 固体、流体とは独立の物質形態として取り扱わである。このような粉体の物性・応用技術を研雅文体は、鎌倉時代以降、とくに江戸時代の国 れることが多い かかわってつくりだされた個性的特色だが、そ 究するのが粉体工学 powder technology で学者を中心に、平安時代の和文体を模して書か 工業的に固体原料を粉体として取り扱う利点ある。 〈早川豊彦〉れたもの。後世の言い回しが交ざり、平安時代れが可能になるためには作家による個性的な判 は、均一な混合、異種成分の分離、流動性など回久保輝一郎他編『枌体ーーー理論と応用』改訂の和文のままではない。候文体は、相手への敬断、感覚、思考がなければならす、作家の思想 や文学傾向やそれらの活気やによるところが大 の機械的取扱いが容易であり、また比表面積 意を「候」で表すことが多い点に特徴がある。 二版 ( 一九七九・丸善 ) ていきんおうらい きい。措辞法や文構成法についての職人的な修 StiI 文構成室町時代初めの書簡作法書『庭訓往来』にこの ( 粒子の単位面積当りの表面積 ) が大きいため、文体ぶんたい style , = 練で、ある程度はまかなえても、すこし大きな の様式。多く、それぞれの一一一一口語表現に認められ文体がとられるなど書簡文の主流となった。 反応、物質移動速度が大きく、焼結、溶解を行 作品ではたちまちそれは実体を露呈してしま うのに都合がよいことである。 る、独自な文構成の様式をいう。文体には個人 ロ語体の文体は、その時代の話しことばに限 〔粉体の性質〕粉体は生成過程、粒度、粒度分的特徴を示すものと社会習慣的なものとがありなく近い語法に従って書かれ、文末に「でう。文体の個性的な活気は、その作家の思想、 布、形状、周囲の状況などでその性質が著しくる。言語表現には表現者の考え方が反映する。す、ます」といったていねいの意を添える語を文学的傾向そのものの活気によることが多い 異なってくる。したがって具体的なある特定条表現者が、独自の考え方を有していれば表現に用いる敬体 ( です・ます体 ) と、それを用いな文体論がただちに作品論、作家論になってしま , っことが多いのも、こ , つい , っところに根拠があ い常体 ( だ・である体 ) とに分けられ、前者は 件の下においてのみその性質を述べることがで反映し、独自の文体が成り立っことになる。作 きるが、一般的性質といえるものを流体、固体家が、それそれ自分の文体をもっということ読み手を強く意識したもので、後者よりも話しる。なお、文体には、文法との関係でさまざま 〈山口明穂〉 に効果的でありうる品詞の自由な使い方、ま が、その点から考えられることになる。逆に ことば的である。 と比較すると次のとおりである。①不連続性 〔文学における文体〕作者の個性または思想た、語の順序から句・節・文の構成の仕方のこ 流体、固体は完全な連続体であるが、粉体は 独自な文体をもっことが重視されることにもな 個々の独立した粒子の集合体であるため不連続る。社会習慣的な文体は、文章の歴史のなかでが、文章を構成する語句やその組み立て方に現と、音韻の組合せへの配慮、そのほか細かい具 いつおう このためホッパ 形成されたもので、表現者は、表現の場面・内れて、全体として一つの特色をなしているも体的な問題がいろいろとあり、さらにはまた、 性が著しい ーの閉塞、溢汪、 の。ただし、ギリシア以降ルネサンス期まで文体を徹底的に分析していくことによって、作 凝集などが突発的に生ずる。⑦比表面積が大 容等から文体の選択を行うことになる。 後者の文体は、次のように分類できる。①文は、文体の問題は形式上の整備の問題として文者自身さえ意識していなかった作品の内部構造 反応、物質移動速度が大きい。吸湿、粘着、粉 あずまかがみ せんみよう や思考のさまざまな傾斜などの解明に至る、と 塵爆発などを生ずる。③粒子形状の不規則性 語体漢文体、記録体 ( 東鑑体 ) 、宣命体、章の統一と強化が目ざされたが、一八世紀に - 一ん - ごっ そうろう じゅうてん く・つげき い , っこともある。 分散状態や充填状態でも単に重量、空隙率な 和漢混淆体、和文体、雅文体、候文体、②ロ「文は人なり」というフランスの博物学者ビュ フォンのことばが広く知られ、同じころから近〔文体論〕文体研究は古典ギリシアの時代か どを指定しただけでは変形、流動状態、透過率語体敬体、常体。漢文体は漢字だけを用い などは変動しやすい。粉体に関する現象は、粉漢文の語序に従って記されたもの。奈良・平安代文学の発展が始まるとともに、文体を個性のら行われ、現在では普通「文体論」 stylistics イギ、 フラ、 Stilistik とい , っ形を stylistique ンス 体の不連続性と形状の不規則性のため著しく大時代を通じ、公的な文章に用いられていた。記表現とみる見方が一般化した。 〔文体と作家の個性〕作品での表現効果を高めとっている。古代から修辞学の一部として文体 きな変動をもつ。④流動性粒度がある程度以録体は漢字だけで、多くは漢文の語法に従って 上に細かいと、流体を吹き込むことにより流動書かれたもので、漢文体の一種といえるが、正式るために、ことばを選びこれを巧みに組み立て論があり、詩文体、小説文体、劇文体のそれそ 化して流体のように流動する性質がある。 の漢文にはない日本語の語法に基づく表現が入ていくこと、それを意識的に行うなかで個性的れについての形式主義的な論から、近代に入る な表現をつくりだしていく場合もあるが、作家とともにしだいに作家の個性的な文体について 〔粉体に関する現象〕これを系統的に分類するり込んで、純粋な漢文とは異なる言い回しの混 と次のようになる。①静力学的現象粉体の堆じたものをいう。和習漢文、変体漢文などとも としての何ものかを表現するために全力を傾注の論に移行し、実証的または理論的に精密化す せき 積、充填、空隙率、粉体内部の圧力分布、安息 いわれる文である。表現者がこの文体を意図的しているときに、その作家の個性的特色がおのるとともに、精神史や文芸思潮史等とのかかわ りや人格、伝記等とのかかわりなどをも追求の に選択したというよりも、漢文を書こうとしたずとそこに強烈に現れてこすにはいない、とい 可、内部摩擦角、塑性すべり、圧縮変形、固結 対象とするようになっている。日本では一九三 う経過で個性的な文章が生まれることもある。 強度、粉砕などの諸問題がある。⑦動力学的現ものが結果としてこの文体になったというべき 象サイクロンや遠心沈降機内の粒子の運動、である。この文体は『古事記』をはじめ、日本なお、そういう個性的な特色は、作者が時代の〇年代末から文体論が専門的に研究されるよう になり、その専門家たちによって日本文体協会 空気輸送、小孔よりの枌体の流出、流動層やエ人の書いた漢文にはままみられるが、とりわけ子、階級・階層の子であることに伴って、おの くぎよう 〈小田切秀雄〉 ずと ( または意識的に ) 時代的特色または階級が組織されている。 アスライドなどと、両者の中間にあたる濾過や平安時代の公卿の漢文日記はこの文体が多く、 固定層の透過度のような現象で、粒子ー流体鎌倉幕府の公式記録である『東鑑 ( 吾妻鏡 ) 』的・階層的な特色を強く表現することになり、回西尾光雄著『文体論』 ( 一九六三・塙書房 ) ▽波 多野完治著『現代文章心理学』 ( 一九五 0 ・新潮 に顕著であるので「東鑑体」ともいう。宣命体時代文体、階級文体、階層文体等の代表的なも 間、粒子相互間などの相関関係で運動状態が決 しよくにまんぎ 社 ) ▽日本文体論協会編『文体論入門』 ( 一九 定されるものである。③界面物理現象粉体のは『続日本紀』中の宣命の記録に顕著で、漢字のとなる。これは、作者にとっていわば外部か 六六・三省堂 ) だけを大字、小字を取り交ぜて用い、読みの便 らの規制となる和文体、漢文体、漢文読み下し 界面を通じ、あるいは界面においておこる物理 みんじよし ぶんたいめいべん中国、明の徐師 現象で、伝熱、電気伝導、摩擦帯電や光、音、 を図った文である。和漢混淆体は、多く鎌倉時体、洋文体、または書簡体、日記体、記録体、文体明弁 > 波などの界面散乱現象などがある。④界面化学代以降の軍記物にみられ、和文体を基調に漢文論議体等の諸文体とはまた別のことで、時代文曽 ( 一五五三年の進士 ) の編纂したもので、詩 オ現象吸着、吸湿、乾燥、粉塵爆発、晶析、溶訓読調が交ざったもので、和文のみやびと漢文体、階級文体等の特色は作者の内部からのもの文の用途 ( 使用目的 ) 別に、その体裁の源流を 明らかにし、例文をあげて、制作の基準となる 9 のリズミカルな簡潔さの双方のよさが生かされでなければ強力なものになることができない ん解、焼結、結晶成長、固体反応などである。 か粉体を扱う場合は、枌体の生成過程、その置る。和文体は平安時代の文学作品に確立したもその和文体等または書簡体等の場合でも、その法式を示している。徐師曽より約一〇〇年前の 8 じん ふん へんさん あか
紅富士 11 月静岡県富士宮市 かみいで 上井出。大沢崩れを正面に深く 刻む男性的な一面 , 雄大な景観 を見せてくれる。おりからのタ 日を受け , 真っ白い富士山が一 瞬にして紅色に染まった。荘厳 な美 , 光が駆け足で登っていく 富士山と霧氷 1 月山梨県忍 さんろく 野村。真冬 , 富士山麓の幻想的 な景観に忍野村の霧氷の世界が ある。厳寒の夜半 , 零下 1 5 ℃前 かつら 後の日が数日続いた朝 , 桂川に 沿った枯れ木立は , みごとに冬 の花 , 霧氷を咲かせた 富士山とつるし雲 5 月山梨 県富士吉田市。この雲は富士山 からすこし離れた同じ高さの北 東側に多く現れる。このときは , 長時問にわたって宇宙船に , 空 飛ぶ円盤に , またイモムシのよ うにと絶えず形を変えて現れた 紅富士倒映 2 月山梨県山中 湖。寒気の氷上は火鉢を抱えた ワカサギ釣りでにぎやかだ。 歩外れると考えられないような 静けさだ。無風の穏やかな早朝 , 真紅に染まった雄姿が湖面に映 る情景は絶品である 駿河湾の富士 12 月静岡県修 だるま せんじ 善寺町達磨山。変化に富む伊豆 で , 達磨山からの富士山の眺望 は格別。洗い出されたような壮 するが 大な富士が , 駿河湾を隔てて , くっきりと浮かんで見えた。大 気が澄む冬がとくにすはらしい 山頂火口 8 月吉田口側の久 けんみね 須志岳付近より剣ヶ峰を望む。 火口の直径はおよそ 500 深さ 170 m 。大きく口をあける火口の 荒々しい姿は , 麓から見る美し い富士山からは想像もつかない 富士山と笠雲 4 月静岡県富 じのみや 士宮市猪之頭。富士山独特の雲 である竪雲には , ニ十数種の名 前がある。季節の変わり目 , 「乱れ笠雲」と富士が早春の朝 光に繊細に彩られて浮かび上が った すその はうえい 宝永火口 10 月静岡県裾野市水ヶ塚。宝永の噴火 ( 1707 年 ) で , 富士の 中腹に出現した爆裂火口。古い火山の古富士火山の地層も見られる ふしと 写真 , 文 : 飯島志津夫
り、洞内の炎症による分泌物は排出されにく 嚢腫でもっとも多いのは粘液嚢腫で、副鼻腔開 年帰国。一一一年、太田黒元雄らと写真芸術社をて結実する。さらにシェークスピア、ジョンソ へいそくきようさく ン、ラムなどにも親しみ、『チャールズ・ラムく、やがて細菌の感染 ( 化膿性副鼻腔炎 ) をおロ部の閉塞や狭窄などに原因する。ついで歯 設立し、機関誌『写真芸術』を創刊この年か けんたい ろほう せつな 伝』 ( 一九五九 ~ 六三 ) ではふたたび読売文学賞を受こし、治癒が長引く。症状は発熱、倦怠感、感起原の歯根嚢腫、濾胞性嚢腫で、まれには先天 ら、写真は刹那の芸術であり、俳諧の道に通じ とうつう るとして独自の日本的芸術写真を唱導し、アマけた。ほかに『叡智の文学』 ( 一九四 0 ) 、『英文学の染した副鼻腔がある骨の疼痛ないし頭痛で、上性嚢腫もある。いずれの嚢腫も徐々に拡大し、 とうつう はお 特質』 ( 一九五四 ) などや、『われ愚人を愛す』 ( 一九顎洞炎、篩骨洞炎、前頭洞炎では頬、鼻根部、感染がおこらない限り疼痛はない。嚢腫の発生 チュア写真界の中心的存在となる。代表作に きよう - 一う力い しゅちょう そのかいちょう 部位の関係から、頬部、前頭部、ロ蓋の腫脹、 五一 l) 、『野方閑居の記』 ( 一九六四 ) など、味わい深い 前頭洞部に圧痛と浮腫を認めることがある。 『巴里とセイヌ』 ( 一九一一 (l) 、『光と其諧調』 ( 一九 一一三 ) 、『松江風景』 ( 一九三五 ) 、『市哇風景』 ( 一九三七 ) 随筆集もある。六四年芸術院会員。〈山中信夫〉児では症状がより著明で、生後三か月以内の乳複視、眼球突出などがしだいにおこる。治療 は、完全な手術的除去が必要である。 児の上顎洞炎は上顎洞の発育が未発達のため、 など。また二四年には日本写真会を、二八年回『福原麟太郎著作集』全一二巻 ( 一九天 ~ 六九・ やすそう 嚢腫に次いで多いのは乳頭腫で、ときに悪性 上顎骨骨髄炎の型となる。症状は突然の高熱、 ( 昭和三 ) には野島康三らと国画会写真部を設 研究社出版 ) きようぶ ふくびきくじ引きによって品物を頬部腫脹、結膜浮腫、眼球突出などで、これ化することもある。通常、五〇歳以上の男性に 立した。 〈重森弘淹〉福弓 じようがくどう フクバラハップ Hukbalahap 日本占領人々に分け与えること。歴史的には、奈良時代を新生児上顎洞炎とよぶ。歯性上顎洞炎では悪発生し、好発部位は鼻腔側壁、上顎洞および しこっ しようむ てんびよう 時代フィリピンで結成された抗日人民軍 Huk ・聖武天皇の天平二年 ( 七三 0 ) 正月、座興とし臭のある鼻漏がみられる。治療は、全身的な抗篩骨洞である。鼻閉 ( 鼻づまり ) が初発症状 bo ng Bayan Laban sa Hapon の略称。日本て、仁・義・礼・智・信の一文字を書いた短冊生物質の投与、鼻内へ血管収縮剤などの塗布、で、腫瘍は完全に除去するのがよい。また、と きに骨腫が青年期にみられ、症状は比較的少な ではフク団ともよばれる。一九四二年三月二九を引かせ、その文字によって綿布などを賜った冷罨法、疼痛に対する鎮痛剤の投与が主とな いが、頭痛や目の変位などがおこることもあ 日、ルソン島中央部の森林の中で結成された。 のが記録に残る最初のものといわれる。また一一る。新生児上顎洞炎では手術が行われ、歯性上 せんしゅ もち る。そのほか、腺腫、線維腫、歯性の腫瘍、血 顎洞炎では歯の治療が必要である。 ルソン島中央部はフィリピンでもっとも小作率人が向き合って餅を引き合い、取り分の多少に が高い地域で、三〇年代には社会党・共産党系よってその年の吉凶を占う、主として正月の縁〔慢性副鼻腟炎〕急性副鼻腔炎が完全に治癒せ管腫、軟骨腫などがある。 がん ほうび 〔副鼻腟悪性腫瘍〕癌がもっとも多く、そのは の農民運動が盛んであった。フクバラハップは起遊びであった。江戸時代になると、宝引きとず慢性化したものが多いため、細菌感染による いう名で、数本の縄の先に景品を結び、それを化膿性副鼻腔炎が多くみられる。洞内に膿が貯か肉腫、黒色腫、悪性リン。ハ腫などがある。通 これらの農民運動を中核に、マニラの労働者、 ちょうけい 進歩的知識人、中国人らが参加して結成され、引き当てる正月の子供の遊びが路上で行われ留しているので、蓄膿症と俗称されることがあ常、上顎洞や篩骨洞に生じ、まれに蝶形骨洞 た。この形が、現在の商店での客寄せのためのる。ときに洞の中がチーズ様の物質で充満されや前頭洞にみられる。ときには鼻腔側壁や鼻中 日本軍への抵抗と地主制の打倒を目ざした。ル かんらく 隔に生じることもある。症状は片側性鼻閉、鼻 イス・タルクに率いられたその闘争力は抗日ゲ福引に発展したといえる。その後は正月に限らていること ( 乾酪性副鼻腔炎 ) があり、老人に のう リラ中最強で、四五年一月アメリカ軍がルソンず目的に応じて行われ、宴会の余興には見立多くみられ、真菌感染による。症状は鼻漏、後漏、ときに歯痛で始まることが多い。鼻漏は膿 くじとり 島再占領を開始したときには、ルソン島中央部て、籤取、茶番福引などさまざまなくふうが凝鼻漏、鼻閉、頭重感、頭痛、罹患した副鼻腔上性で、しだいに悪臭をもち、汚い膿血性にな らされた。 〈稲垣史生〉 の鈍痛、嗅覚脱失などで、その程度や性質はる。やがて片側の頬部やロ蓋の腫脹、複視、眼 はほとんど彼らの手で解放されていた。しかし 種々ある。治療は、鼻内へ血管収縮剤などの塗球突出などがおこり、ついには顔面皮膚やロ蓋 フィリピンの地主勢力に味方するアメリカ軍副鼻腟ふくびくう鼻腔を囲む周囲の骨内に し じようがく は、マニラ占領と同時にフクバラハップの武装みられる空気の腔所で、上顎洞、前頭洞、篩布、洞または鼻の洗浄、局所または全身的な抗内へ自潰する。転移は頸部リンバ節が主で、他 ちょうけいこっ 骨洞、蝶形骨洞がある。これらはいずれも鼻生物質や抗炎症剤の投与を行うが、鼻茸があるの臓器には比較的少ない。最後は頭蓋内に浸潤 解除を命じ弾圧に乗り出した。 第二次世界大戦後、フクバラハップは人民解腔に通じている。とくに上顎洞は副鼻腔炎をお場合はその摘出を行ってから治療するのがよをおこして死亡することが多い。放射線治療、 〈嶋井和世〉 。ときには根治的手術が必要なこともある。抗癌剤の投与および手術の三者を併用した治療 放軍 n) と名称を改め、地主階級を基盤こす箇所となる。↓鼻 小児の慢性副鼻腔炎は予後がよく、思春期までがよく、早期治療によって治癒した例が増えて とする反共親米政権に武力抵抗を続けたが、一 副鼻腟炎ふくびくうえん副鼻腔の炎症性病 きている。 〈河村正三〉 に五〇 % は自然治癒する。 九五〇年秋マグサイサイ国防大臣が登場して以変の総称。副鼻腔は鼻腔を上から両外側を取り どう じようカく ふくぶんかい double decomposi ・ 〈池端雪浦〉巻くように存在する骨の中の洞で、上顎洞、 後衰勢に向かった。 〔気圧性副鼻腟炎〕外界の気圧と副鼻腔内圧が複分解 ちょうけいこっ し - 」っ は」 - っ挈とっ tion 二種の塩類が互いに成分イオンを交換し 回ルイス・タルク著、安岡正美訳『フィリピン篩骨洞 ( 篩骨洞蜂巣 ) と、前頭洞、蝶形骨洞異なることが原因で、飛行や潜水で気圧が急に の四つからなり、それぞれ鼻腔と狭い管または変化したときに副鼻腔の自然孔が炎症や鼻茸なて新しい塩類を生じる反応。たとえば、塩化ナ 民族解放闘争史』 ( 一九五三・三一書房 ) ▽・ トリウムと硝酸銀から、硝酸ナトリウムと塩化 ・ポメロイ著、木谷優梨子訳『比島フク団孔 ( 自然孔 ) で交通している。これらの洞の炎どで閉鎖しているためにおこる。鼻かぜをひい のたたかい密林のゲリラ部隊』 ( 一九六七・理症性病変が副鼻腔炎であり、単一の洞に限られているときに航空機に乗って罹患する例が多銀の生じる反応である。 りかん NaCI 十 AgN03 ーー、 NaN03 + AgCl い。航空機が降下または上昇する際に前頭部や ることもあるし、いくつかの洞がともに濯患す 論社 ) 福原麟太郎ふくはらりんたろう ( 天ー一九ることもある。それそれ罹患した洞の名称でよ頬部に激しい疼痛を感じ、その疼痛が残存す一般に AB + CD ー↓ AD + CB の形式をと る反応を複分解というので、有機化学における ばれるが、ときにはすべての洞が侵され、これる。治療は、鼻内へ血管収縮剤などを塗布し、 ハ一 ) 英文学者、随筆家。広島県の生まれ。東京 はん 高等師範学校英語科卒業。東京高師、東京文理を汎副鼻腔炎という。大きく急性、慢性、気圧副鼻腔の自然孔を開放する。予防として、鼻かエステル化、あるいはエステル交換反応までを ぜや上気道炎症、とくに鼻茸のある場合は飛行含めることもあるが、通常は無機塩類にのみ限 科大学、東京教育大学、共立女子大学などの教性の副鼻腔炎に分類される。 られる。生成物質の一つが沈殿となって除かれ 〔急性副鼻腟炎〕鼻かぜやアレルギー性鼻炎のを避ける。治癒が長引くと、細菌感染をおこし 授を務める。また学生時代から『英語青年』に 〈河村正三〉 る場合には反応の進行が容易となる。ソルペー ん執筆、のちには編集にも携わ 0 た。一九二九年合併症として始まることが多い。炎症は自然孔て化膿性副鼻腔炎に移行する。 か ( 昭和四 ) ロンドン大学、ケンプリッジ大学にを経て副鼻腔へ波及する。歯の炎症によ 0 て上副鼻腟腫瘍ふくびくうしゅよう副鼻腔に発法における重炭酸アンモニウムと塩化ナトリウ ムからの炭酸水素ナトリウム ( 重曹 ) の合成な 9 顎洞炎がおこること ( 歯性上顎洞炎 ) もある。生する腫瘍で、良性と悪性に分けられる。 / 、留学、トマス・グレイを研究、これはのちに『ト のうしゅ しゅちょう ど、まさに複分解の利用である。〈山崎昶〉 2 〔副鼻腟良性腫瘍〕嚢腫以外はむしろ少ない。 炎症による粘膜腫脹のために自然孔は狭くな 、かマス・グレイ抄』 ( 一突 0 、読売文学賞 ) とな 0 あな あんばう きゅうかく かのう はなたけ
ふくろも くみひも のう 用いられたものは組紐で、その結び方にも、 できる。育児嚢は字形で、内部に四個の乳頭 ろいろのくふうが凝らされた。皮革類の場合 がある。体毛は柔らかく絹状で、ほば灰色で下 2 は、その特色があまりみられない。腰提げの場面は白い。 森林に生息し、昼間は木のうろにつ げ 合は根付けが唐木や牙でつくられ、りつばなエ くった巣で休息し、夜活動して、木の実、果 しやくどう しぶ る 芸品となっている。また金、銀、赤銅、四分実、芽、花、花蜜、昆虫類などを食べる。一回 する せいち くちがね 空す 一を使っての精緻な作品、明治以降はロ金に の滑空距離は四五に達するといわれる。妊娠 種々のくふうが行われ、わが国独自の落ち着い 期間は約三週間で、普通一回に二頭の子を産 広 た、しっとりとしたものがつくられ、今日に至む。子は、生後二か月ぐらい育児嚢で育てられ ガ膜息 っている。これとは反対に、山村・農村・漁村る。飼育するとよくなれ、魅力的なペットにな わら ン飛休 の袋物は、身辺にある藁、樹皮、木綿、麻などる。寿命は七 ~ 一〇年ほどである。〈中里竜二〉 モのは ふくろう モ側問 の材料を使い、なかにはこれに刺し物を加え梟山伏ふくろやまぶし 0 梟 ロ体昼 ひしぎし ク フクロリス 0 フクロギッネ 「て、こぎん、菱刺にしたり、ねじ袋仕立てにし フ たいけい て用いた。 〈遠藤武〉フクロワムシ〔袋輪虫〕袋形動物門輪毛 かばん 存、整理するのに用いられ、皮革、紙、布、合 象を示し、性的な機能を失ってしまう。 〔現代の袋物〕実用と装飾を兼ねた鞄、ハンド虫綱フクロワムシ目 Asplanchnoida の総称。 日本近海では、ヨッハモガニやイッカクガ一一成繊維などでつくられている。袋物は人類の発 バッグ、装飾性の強いポーチ類をはじめ、実用狭義にはフクロワムシ属ゝも一きの総称、 に寄生するケハダフクロムシ S ミ c 斗きト s ミ・生とともに発達し、その生活の変化によって、的なものには、各種の用具袋、道具袋、運搬袋またはそのなかの一種。この類は、外形は透明 - 一うもん せんか ( カメラバッグ、スポーツバッグ、アタッシェ やイソガニ、ヒライソガニなどに寄生するさまざまな変化を遂げている。袋物の形態は、 な袋状、腸と肛門を欠き、卵胎生。卵黄腺と火 はにわ えん ウンモンフクロムシ S. きミ、。きがごく普通わが国では古墳時代の人物埴輪のなかに、腰提ケース、ナッブザック、トートバッグなど ) と焔球茎の数、そしやく器の型などによりアスプ で、ともに長径約一、短径約五ミリである。カげ物として登場してくるのがもっとも古く、お保存袋 ( ガーメントバッグ、アクセサリーケー 一フンクナ c ぎとアスプランクネラ s ・ ニの腹部に抱かれた状態で収まり、肉眼的にはそらく発火器としての火打石の袋であろう。 スなど ) がある。今日的なものとして、軽量でミの二亜属に区別され、前者は貧栄 滑らかであるが、拡大すると前種には短毛があ 袋物を用途別に大きく分けると、保存用の物使い捨て自在の紙袋、紙やビニル製のショッピ養水域、後者は富栄養水域に多産する。脚腺の うわざし り、後種には雲紋模様がある。イソカニダマシとしては、衣服類を入れる上刺袋と、宮中に仕ングバッグ、携行の便宜を図って底に脚輪をつ有無、そしやく器の形状、卵黄腺の核数などに とのい との に寄生するイタフクロムシト e こミ 0 ミ s ミ s や えている人たちが宿直をする際に用いた殿居けたキャスターバッグ、防虫・防湿のはか脱酸より前者には六種、後者には四種が区別されて dai は扁平、ホンヤドカリに寄生するナガフク ( 宿直 ) 袋、また食料を入れる餌袋、楽器を入素作用のある特殊フィルム製の毛皮用保管収納 たち 〈平野裕子〉 ロムシ s 、 e 、をは細長く、ともにれる楽器袋、武器を収める太刀袋、あるいは茶袋などが注目される。 和名フクロワムシミミト 0d きは、 きん いんろうきんちゃく 宿主の体形に対する適応である。各種のカニや道具を収める仕覆がある。携行する袋には、巾袋物屋ふくろものや印籠、巾着、紙入れな世界各地の湖沼に生息し、体長一・五ミリ末満。 ちゃく しらかば 〈鈴木実〉 ど袋物を生産販売または仕入れ販売する店。一白樺湖には亜種が生息する。 ェビ、シャコなどにつくップフクロムシ 0 ・着、火打袋、財布、紙入れ、たばこ入れ、胴 ミ s ミを、ミぎは一つの宿主に一〇〇以上乱、守り袋、匂い袋、香袋、背負い袋などが古七世紀には、それぞれを生産する印籠師、巾着腹話術ふくわじゅっ口を動かさすにしゃべ たはい も付着することがあり、これは一種の多胚現象 くからあった。欧米文化が輸入されてからは、師、紙入師といった職人がいた。販売もしたる話術。英語では、べントリロキズム ventril- oquism とい , つが、一フテンの venter ( 腹部 ) と考えられる。 〈武田正倫〉手提げ袋、買い物袋、ショルダー類が盛んに用が、多くは問屋に集荷されていた。一八世紀に いられることとなった。また懐中袋として発生なると、たばこ入れや鼻紙入れをつくる袋物師と loquor ( 話す ) に由来する。古代エジプト フクロモグ一フ marsupial mole, pouched ようじゅっ きんとく は一せ - 」 は」にゆ、つ した鼻紙袋が、のち三徳、箱迫となり、また財が現れ、袋物問屋がおこった。一般的にはこれやギリシアなどで宗教や妖術と結び付いて存 mo 一 e \ ~ ミ 0 c 0 、ミ 0 、 s 哺乳綱有袋目 き ) んとく はやみち フクロモグラ科の動物。オーストラリアの南布より使いやすい早道という銭入れが考案されらを袋物屋とよんだ。紙入れの三徳や武家女性在、今日でもアフリカやニュージーランドの原 かけまもり は - 」せ、」 た。また守り袋は平安時代以来懸守という首の箱迫などもっくった。袋物屋は小間物も多く 住民の間に残されているが、今日一般に知られ 部・中央部に分布する。頭胴長一五 ~ 一 よせ 尾長二・一 ~ ・六、体重七〇前後。外形 にかけて用いたものが、後世になると腰提げ物取り扱った。一九世紀後半以後はそれまでの袋ているのは寄席演芸としてのそれで、演者が抱 かばん いた人形と対話するようにみせかけるものであ は食虫目のモグラに似ている。吻は堅い角質板へと変わった。 物にかわって西洋風の手提げ鞄やハンドバッグ こんせき これらの袋物には、皮革に始まって、布帛が主流となったが、箱迫などは婚礼や七五三のる。人形の話す部分に裏声を用い、ロ唇を動か で覆われ、目は退化し痕跡的。耳介はない。四 さずに発音する方法をとる。一九三六年、アメ 肢は短く、前後足ともに五指である。雌には育類、高級な織物類が材料として用いられた。皮ときの女性用として残っている。〈遠藤元男〉 のう リカのコメディアン、エドガー・バ ーゲンがチ 児嚢があり、後方に開口し、中に乳頭が二個あ革は鹿のなめし革が多い。高級織物は中国からフクロモモンカ sugar glider, lesser きんらんどんすにしき めいぶつぎれ ャーリー ・マッカーシーと名づけた人形を使っ る。毛は長く柔らかく、銀色に光る白色から黄もたらされた金襴、緞子、錦類の名物裂、それ flying phalanger/ P ミミ、ミ s brevicePs ら ほ冖」ゅ、つ てラジオの公開放送で演じたのが評判となり、 色まで変化が多い。地上生で、半砂漠地帯およを模して京都西陣でつくった織物、のちには羅哺乳綱有袋目クスクス科の動物。オーストラリ しゃ 紗に吉祥模様を五彩の糸で刺したもの、あるい ア東部、ニューギニア島および付近の島、タス映画にも出演、世界的に広まった。日本では三 び砂漠に単独で生活する。普通のモグラと同じ ろぎし 、尾九年 ( 昭和一四 ) ごろから流行、専門の腹話術 ように絶えず穴を掘って動いていて非常にエネはアップリケにしたり、絽刺、佐賀錦などでもマニア島に分布する。頭胴長一四 ~ 一 せりふ ルギーを使うので、昆虫、ミミズ、ジムシを大つくられた。明治以降、ワニ、トカゲ、ビー 、体重九〇 ~ 一三〇等。外形はモモン師が輩出した。人形の台詞にマ行音およびハ行 〈中里竜二〉 量に食べる。 ズ、スパングル、ミノムシの蓑、さらに人造。月 、吊ガによく似ていて、体側にある飛膜は前足の長の濁音・半濁音を用いることを避け、また付け しろうと ひげ い第五指から発達している。後足の第一指につ髭でロの動きを隠すなどのくふうを施せば素人 袋物ふくろもの袋の形をした物入れの総糸、人造皮革など化学合成物も利用される。 にも比較的容易に会得できる演芸である。人形 称。品物を袋の中に収めたり、携行したり、保 また袋物の特色はその留具にある。古くからめがなく、ほかの指に対向し、物を握ることが へんべい ー、セン、 みの ふはく みつ
はんびしたがさねあこめひとえうえのはかま びら 束帯は、冠、袍、半臂、下襲、袙、単、表袴、袴、石子の区別が、着用する時節によって使い分けられ、さらに麻次世界大戦後に生活改善の合理化運動が起こり、関東大震災 たい ぎよたい ひらおしとうずくっしやくたとうがみ めのこ のしめ 帯、魚袋、平緒、襪、履、笏、帖紙などから構成され、の小袖は布子ともいわれた。武家の晴れ着は熨斗目小袖で家と一九三二年 ( 昭和七 ) の白木屋大火災 ( 現東急百貨店日本 くろはぶたえ 袍・下襲などは身分によって色がわかり、下襲の裾にも長短紋をつけ黒羽二重が式正であった。民間では黒羽二重の紋付橋店 ) によって、女性の洋装化が急速に高まった。さらに満 ふとおりとうギ」んしま の区別ができた。束帯は日中の行事に用いたところから昼のが晴れ着で、日常は太織・唐桟・縞木綿を用いた。帯は最上 州事変、日支事変が第二次大戦と進展するにつれて、和服は しようぞく はかた - ) うしゅう 装束といわれたが、 夜の装束つまり宿直 ( 殿居 ) の場合は、 が献上博多で、まがい物が甲州博多で、このほか魚子、琥第二義的なものとなり、洋装が日本服装界の王座を占めるこ さしめき 石帯、下襲、表袴、笏などが略されて、指貫、腰帯、扇を持珀などでつくり、これを貝のロに結んだ。羽織は元来、武家ととなり、第二次大戦終結を境にこの方面での流行がファッ のうし ちりよ っことになった。日常着として直衣があり、さらに簡略されの道中の塵除けとして用いたものが近世に入って防寒着とし ションとよばれて今日の盛況をみせている。 〈遠藤武〉 まいと、つ たのが狩猟衣に源をもっ狩衣で、中流以下の人たちには水て用いられ、年齢と時の流行によって長短の差を生じ、保刀〔西洋服装の歴史〕西洋服装の歴史的流れは、大きくは一般 かんひたたれ ぶつ、き 干、直垂が用いられた。↓束帯 する武家には背割羽織が着用された。足軽、中間、職人の間 史上での時代三区分に見合う形をとっている。つまり、古代 はんてんかんばん 鎌倉時代になると武家は簡素な生活をモットーとしたから から羽織にかわって半纏、看板 ( 武家の中間や小者が着る定は巻衣の時代、中世は寛衣から窄衣へと移行する時代、そし はっぴ 一三世紀には狩衣、水干は儀式用となり、直垂の地位が高ま紋のついた上衣 ) 、法被などが用いられた。↓羽織 て近世以降は総じて窄衣の発展時代として位置づけられる。 そでぐち って袖ロ・袴の変化、さらに材料・色彩・文様が実用よりも 女子の服装は、袴の着脱に不便なところから、小袖・帯が巻衣とは、一枚の布地を身体に巻いたり懸けたり垂らしたり うちかけ 華麗さを尊ぶようになり一五世紀に入ると礼服化するに至っ 登場するようになり、これを礼服化するために打掛 ( 裲襠 ) することで成り立っ衣服で、脱ぐとふたたび元の一枚の布地 た。直垂の礼服化に伴って形態上まったく同じの大紋という が用いられ、これには地白、地赤、地黒の三種があり、桃、 に戻ってしまう性質の衣服である。温暖な気候の地中海周辺 すおう もえぎ あいぎ 家紋をつけたものが公服化し、さらに素襖も一六世紀から公萌黄、紫などは間着として用いられた。武家の婦女は、夏のに発達した西洋古代文明世界では、こうした巻衣形式の衣服 服化した。素襖も直垂・大紋と形態は同じであるが、菊綴が正装には腰巻姿で、宝尽くしゃ松竹梅を総縫いにした黒紅色がほとんどであった。ところが中世に入ると、これらの衣服 ともぎれ さげおび 革緒であるのと、袴の紐が共裂であるのが特色である。素襖 ( 紅に鉄漿を加えてつくった濃い茶 ) の小袖を腰に巻き提帯は男女とも縫い合わせた緩やかなワンピースの衣服つまり寛 かたぎめ めいれき の両袖を取り去ったのが肩衣で、最初戦陣における礼服であで留めた。民間の服装も明暦の江戸大火以後しだいに華美と衣に転化する。中世も後期のゴシック時代になると衣服は身 げんろく ったのが、しだいにその地位を高めて礼服化していった。↓ なり、ことに一兀禄時代 ( 一六分 ~ 一七 0 四 ) には豪商の間では衣装体にあわせて仕立てたびったりしたものにかわる。これが窄 直垂↓大紋↓素襖 競べが行われたほどで、幕府は町人衣服が華美になることを衣である。西洋の服装はその後、この服型の延長線上におい からぎめ もののぐ 女子の晴装束は、女房装束あるいは唐衣・裳、物具といわ恐れて衣服禁止令を再三再四と出したがその効果はなかって、時代に応じたさまざまな変化を展開していくのであり、 うちぎぬきめ かきえ ごっりん れるもので、その構成は唐衣、裳、表着、打衣、衣、単、た。有名絵師による描絵小袖 ( 例、尾形光琳筆秋草模様 ) や総じて窄衣の発展時代と名づけられたのもこのためである。 ひおうぎたとうがみしとうずくっ かんぶん 袴、檜扇、帖紙、襪、履などであり、盛装の際にはこれに 宮崎友禅斎による友禅染めがおこり、模様配置も寛文模様、 〔巻衣の時代 ( 古代 ) 〕巻衣の典型は地中海域を中心とする ひれ くたい 比礼・裙帯をつけた。衣は五枚、八枚、一〇枚、一二枚、と三段模様、二段模様、腰高模様、裾模様、裏模様、江戸褄模亜熱帯地域に発達したエジプトやギリシア・ローマにみられ きには二〇枚を重ねることもあり、鎌倉時代に入ると女房装様、島原褄模様などいろいろのものができ、帯の発達につれる。古代エジプトでは前三千年紀の中王国時代まで、男性は 束を十二単と俗称するようになるが、一般には衣は五枚重ねて女の後ろ姿が着物姿を代表するようになった。女に羽織が王に至るまでロインクロス (loincloth 腰衣。フランス語で うすようかさねいろめ を普通とした。たくさん重ねる衣には匂い、 薄様、襲色目用いられたのは江戸時代末期で、それにかわる防寒着としては、シェンティミミ、パ 一一ユトミなどという。以下イ かつば ひふ という特殊な名称がつけられ、着用者の好みに応じて四季の合羽より転じた着物仕立の被布が愛用された。また衽のない タリック文字はフランス語 ) を用い、後代もそれが盛装とし 草木名を用いた。この服装も一三世紀以降になって宮中儀式羽織を半纏と称したり窮屈羽織とよんで下層の庶民に着用さて継承された。これに対して女性は吊り紐形式のスカートや の衰退に伴って簡略化され、そればかりか、袴の着脱が日常れた。↓小袖↓打掛↓友禅 びったりしたチュニック tunic が一般であった。前一五〇 ゅまき 生活のうえで不便なため、袴にかわって湯巻が用いられ、衣〔西洋模倣の服装 ( 一九世紀以降 ) 〕外国船の来航によって〇年ごろの新王国時代になると、細かくひだづけした薄地リ にかわって小袖を着用する機会が多くなっていった。このた 鎖国の夢が破れ、わずかながら西洋模倣が軍人や貿易商の間 ネンのカラシリス kalasiris やロープ (robe 寛衣 ) が着ら たもと め、無垢の小袖に模様ができるようになり、筒袖に袂を生から広がり、文明開化とともに一八七二年 ( 明治五 ) 礼服をれ、装飾も豊かになった。清潔を重んじた彼らは男女とも頭 つばしようぞく いちめがさきめかづき だじようかん じ、外出には壺装束といわれた市女笠に衣被衣姿から、し洋服に改めることが決まり、陸海両軍、太政官服その他が髪を短く刈ってかつらをかぶり、鮮やかな色彩の襟輪や胸飾 小袖被衣とかわっていった。↓女房装束↓十二単 洋装化した。断髪令とともに帽子が普及した。女の洋装化は りをつけ、上層人はサンダルを履いて男性は付けひげをつけ おうにん ろくめいかん 〔日本独自の服装〕戦乱に明け暮れた応仁の乱 ( 一四六七 ~ 七七 ) 男より遅れて鹿鳴館時代になってからである。そればかりか、 る習わしであった。ナイル河畔には亜麻が豊かに繁茂したと 以後、混乱の時世を迎えたため服装界もこれに伴って混乱従来の女性の髪は不衛生、不経済、安眠がとれないところか ころから、織物はリネン中心で、動物性繊維は、皮革または ろちょう し、男の世界では被り物は廃されて露頂の風がおこった。武ら結髪改良運動が起こり、さらに衣服改良運動にまで発展し神官の毛皮を別にすればほとんど用いられていない。 そ家服装界の中心であった直垂・大紋にかわって素襖が一般化 た。洋服を最初に取り入れたのは東京・お茶の水女子師範を 三〇〇〇年以上にもわたって平静な文明を持続した古代工 かみしも し、同時に肩衣・袴 ( 裃 ) も礼服化して、近世に入るとま皮切りに、宇都宮と秋田の女子師範であった。東京の大呉服 ジプトとは対照的に、メソボタミアではきわめて変化の激し しきしよう あわせひとえかた ったく式正の服にまで向上した。小袖も小袖、袷、単、帷店でも女子の洋装部がつくられたが、大正年代に入って第一 い動的な文明を特徴とした。前三千年紀の初期王朝時代の男 2 かぶ かりぎぬ とのい だいもん きくとじ せき かね おくみ ななこ づま まきい かんい ) く ひも