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検索対象: 日本大百科全書 20
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1. 日本大百科全書 20

おう 世紀は古典主義の時代といわれているが、古典たちの古代崇拝を批判し、ボアロー一派を相手主義の芽ともみられるような、ア・ヘ・プレポ詩・叙事詩・風刺詩などあらゆる詩の分野に旺 ーの『マノン・レスコー』があり、後半にはル盛な想像力を発揮した国民詩人のユゴーなどが に「新旧論争」といわれる大論戦を展開した。 主義の文学が確立されたのは、この世紀中葉の その代表者であった。↓ロマン主義 ソーの影響を受けたベルナルダン・ド・サン・ ルイ一四世の親政以後のことである。もちろんこの論争は一八世紀になって再燃し、近代派の ピエールの『ポールとビルジニー』が、自然美 劇の世界では、この世紀に入っても擬古典主 世紀の初めにも、整然とした詩形や純化された主張が急速に一般に認められるようになった。 に対する新しい感覚と美しい描写で、異国趣味義が頑強に最後の抵抗を試みていたが、一八 用語の必要を説いて、古典主義美学の端緒をつ近代派の主張は、デカルト的合理主義のいっそ くったマレル。フのような詩人もいた。しかし世うの徹底、人間の自然性の尊重、諸科学の発達文学流行のきっかけをつくった。またラクロの〇年にユゴーの『エルナニ』が上演されてから 紀の初期はまだ動乱の前世紀の延長で、文学が による相対主義的世界観の重視というものであ『危険な関係』は、発表当時は好色的な背徳的は、ロマン主義の勝利が決定的なものとなっ 栄えるに好適な社会環境は十分に整備されては った。一八世紀前半の啓蒙主義の代表者はモン作品として非難を受けたが、二〇世紀に入ってた。ミュッセもシェークスピア劇の影響を受け いなかった。ルイ一四世は一六六・一年に親政をテスキューであり、中ごろと後半の代表者はビ からは異色の心理解剖小説として再評価されるて、喜劇、風刺劇、悲劇などあらゆるジャンル の要素を混ぜ合わせた独特の劇を書き、なかで 開始するとともに、封建諸侯の権力を弱めて中ュフォン、デイドロ、ルソーである。そして前 に至った。劇の分野では、マリポーが恋愛心 央集権の実をあげた。政情が安定するととも半・後半を通じて活躍したのはポルテールであ理、とくに女性の恋愛心理の分析に独特の天分も『ロレンザッチョ』トミき 0 ( 天三四 ) は に、文学も整理と純化の方向に向かい、やがてる。モンテスキューは法律、政治、社会、歴史をみせて、一九世紀のミュッセに少なからぬ影ロマン派演劇の傑作である。ビニーは、不遇の うちに一八歳で服毒自殺したイギリス・ロマン 秩序と調和と平衡を特徴とする、いわゆる古典など広い分野にわたる文明批評家として大きな響を与えた。ポーマルシェは陽気で軽妙な喜劇 主義文学の時代が到来した。なかでもコルネイ啓蒙的役割を果たした。、、 ヒュフォンは博物学者の底に、強烈な社会批判をみせ、『フィガロの派の天才詩人を扱った名作『チャタートン』 ュによって確立され、ラシーヌによって完成さ としてその知識をわかりやすく表現し、その大結婚』では、主人公が大革命直前の貴族階級の C ぎミミミ ~ ( 天三五 ) を書いた。 フランスのロマン主義はまず詩の世界で開花 れた古典悲劇は、「三一致の法則 ( 三単一の法衆化を図った。デイドロは、ダランべールをは横暴に挑戦している。 したが、小説の世界で結実したといえよう。し 則 ) 」、優雅な一言語という厳しい制限を、自律的じめ多くの文学者、思想家、科学者の協力を得 一八世紀には詩の収穫は少なかった。優れた な規則に変えて、意志の力と運命的な情念とのて、途中刊行禁止の命令を受けながらも、膨大詩人としてはわずかに、大革命のおり穏健派のかし小説家を代表する一一人の大立て者バルザッ アンンクロペディ ・かっレ」 - っ クとスタンダールはすでに次の新しい世界への 心理的葛藤をみごとに表現した。喜劇もモリエな『百科全書』を完成した。ルネサンス以来発ゆえをもって断頭台に送られたシェニエだけと こよってロマン派先達となっていた。バルザックは、二〇〇〇人 いっていい。彼は叙清的な詩し ールによってフランス喜劇の伝統が確実に築か達した諸科学の目録をつくり、あわせてその発 詩人の先駆者ともいえ、ユゴーなど多くのロマを超える人物が登場する膨大な『人間喜劇』を れたが、彼もまた同時代の古典主義者と同じよ展を期すというのが編集目的であったため、い きおい既存の宗教、政治、文学などに鋭い批判 ン派の詩人たちに影響を与えた。しかしまた、書いたが、各種の情熱の権化ともいうべき人物 うに、理性と良識を重んじ、それらから外れた 自然らしからぬものは、笑いと風刺の制裁を受を加えることになり、ポルテールやルソーの著新しい思想を古い詩句で歌おうとした古典派のをみごとに活写した点において、まさにロマン けねばならないと考えた。↓古典主義 作とともに、後の大革命の重要な思想的原動力最後の詩人でもあり、後の高踏派 ( パルナシア派の大作家といえる。だが作品の背景には、大 となった。 革命直後から二月革命直前に至るまでの約五〇 ン ) の詩人たちに大きな影響を与えた。 そのほか、フランスの心理分析小説の祖とい しやだっ われるラファイエット夫人、軽妙洒脱な寓話作 ポルテールは風刺詩人として、また劇詩人と〔一九世紀前半ーーロマン主義の勝利小説の年間の政治、経済、風俗が克明に描かれている 家ラ・フォンテーヌ、格調高い雄弁で有名な説して、当時の文壇に大きな地位を占めていた時代〕文学におけるロマン主義は、感情や想像点において、次の時代の写実的な現実主義の要 教家ポシュエ、古典主義の理論家ボアロー、モが、この領域においては結局擬古典主義者の域力を理性より優位に置いて、自我の解放、個人素を多分にもった作家といえよう。またスタン ダールも、不朽の名作『赤と黒』『バルムの僧 ンテーニュの流れをくんだモラリストのラ・ロを出ることはなかった。しかしイギリスに滞在主義の勝利を歌ったもので、一八世紀にすでに シュフコーとラ・プリュイエール、書簡文学のして、議会政治をはじめ、社会、文化などを研その萌芽はあったが、一九世紀に入ってみごと院』のなかにロマンチックな情熱をたぎらせて いるが、同時に、感傷におばれることなく、透 に開花した。その気連を助けたものの一つに、 セビニエ夫人など多くの文学者が輩出した。こ 究し、これまでのフランス社会の封建的性格に 徹した目で人間の心理を分析し、社会を描写し 外国文学の移入がある。大革命と、それに続く う列挙してみると、一七世紀は、古代芸術のも不満を抱き、自由思想のために戦った。ルソー しよ、つけ、 っている美に対する憧憬と、真実を求める近の『社会契約論』に説かれた人民主権説はロべナポレオンの専制政治は、多数の人々を外国にている。ただ彼は時代に先んじたがために、当 スピエールはじめフランス革命の指導者たちの亡命させ、その結果ドイツやイギリスの文学が時はバルザックほどの人気はかちえなかった。 代的理念とがみごとに均衡調和を保った文学の 黄金時代といえよう。 思想を支えるものとなった。文学に対する彼の移入されることになった。これらの文学は、す詩人のミュッセはサンドとの悲恋を材料として でに衰退していた古典文学に飽き足らぬフラン長編小説『世紀児の告白』を書いたが、これは 哲学者であり思想家であるデカルト、バスカ貢献はこれに劣らぬものがあり、『新エロイー ルも文学の世界と無縁の人とみることはできなズ』をはじめとする文学的作品は、一八世紀文スの文学界に大きなショックを与えた。ロマン現実に対する幻滅から生じる憂愁、不安に悩む 当時の世紀病を描いている。ほかにこの時期、 。デカルトの理論が古典主義の理念の形成に 学の主流であった合理主義思想を排し、自然へ主義文学の父はシャトー。フリアン、母はスター おうか ル夫人といわれている。シャトー。フリアンは世活躍した作家にサンドとメリメがある。サンド 役だったか否かについては論議の余地があるの復帰、自我の解放、感性の謳歌などを説い が、一八世紀以後の文学や思想に影響を及ばして、一九世紀のロマン主義文学への道を開く先紀の初頭にすでに、豊かな想像力と詩情、それはロマンチックな恋愛を賛美して女性の自由な に華麗な文体でロマン派の先駆者となった。ス情熱の権利を主張したり、民主主義的な田園小 たことは否定できない。パスカルは理性に対す駆的作品となった。また彼の影響はフランスだ 説を書いたりして、ロマン主義の作家といえ タール夫人は『ドイツ論』 ( 天一 0 ) で、これま る不信と強力な想像力とによって、この世紀のけではなく、外国にも広く行き渡った。 一八世紀は思想文学が主流を占めていた世紀でフランスではほとんど知られていなかったドる。メリメはしばしば情熱的な性格を描いてい 古典主義者たちとは一線を画しているが、とく ィッのロマンチック文学を紹介した。その結果る点でロマン主義的なところもあるが、自我の す・に一九世紀の多くの文学者に深い影響を与えてではあるが、そのほかに問題とすべき作家・作 めいそう 品がないわけではない。むしろ多種多様の文学多くのロマン派詩人が輩出したが、瞑想的な美露出を嫌い、正確な観察と簡潔な表現を重んじ んいる。 が発生し始めた世紀といっていい。世紀の前半しい叙情詩のラマルチーヌ、恋愛の苦悩を歌うている点、むしろ写実的な作家といえよう。 、ら〔一八世紀ーー啓蒙時代思想文学の台頭〕一 なお一九世紀の小説を語る場合に忘れてはな 、か七世紀の終わりに、詩人のペローが古典主義者にはすでに、人間の本能尊重を主張するロマン悲歌詩人ミ、ツセ、孤独の詩人ビニー、叙情 4 ′いも・つ 621

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らは年鑑を発行して、旧版所有者にも便宜を図『文学百科辞典』編集長などの要職につく。主 しリスの直轄植民地になってからは、奴隷貿易禁各地でローマ的都市の建設も進み、それらを結 、、こ止を監視するイギリス海軍の基地となり、大西ぶ道路も整備され、農村でもローマの制度を取った。第一五版 ( 三〇巻 ) は七四年に刊行され著には『ヨーロッパ文学発達史概論』 ( 一九 00 、 洋上で解放された奴隷の安住の地として発展し り入れた私有大領地経営が進められた。穀物、たが、書名も The ~ ミ導 cyc 一ミ d B 、ミ・同書改訂第三版 ( 一九一一七 ) 、『西欧モダニズムの根 きとなり、旧版は全面的に改められた。これ本モティーフ』 ( 一九 0 九 ) 、『フロイト学説と芸術』 、ふた。解放奴隷の子孫はクレオールとよばれ、の毛織物のほか、鉱産資源も豊かであ 0 た。ロー ちにフリータウン市政の中心グループを形成しマ以前にはケルト族の宗教ドルイド教が行われは、総論・索引編ともいうべきプロペディア ( 一九 = 五 ) 、『芸術社会学』 ( 一九 = 六 ) 、『芸術学の諸問 〈箕浦達二〉 た。一八二七年西アフリカ最初の高等教育機関ていたが、それ以後はローマの主神ュピテル Propaedia ( 一巻、一万五〇〇〇項目 ) 、小項題』 ( 一九三 0 ) などがある。 フーラーベイ・カレッジ ( 現シェラレオネ大 ( ジュピター ) 信仰やキリスト教も入り、四世目編のマイクロペディア Micropaedia ( 一〇回昇曙夢訳『芸術社会学』 ( 創元文庫 ) 〈中村弘光〉 学 ) が設置された。 紀には三人の司教がいた。四、五世紀からスコ巻、一〇万二二一四項目 ) 、マクロペディアプリチェット Si1 、 VictorSawdon pritch ・ かわせ ) イギリスの小説家、批評家。 ット人、アングロ・サクソン人の侵入が激化し Macropaedia ( 一九巻、四二〇七項目 ) の三部 ett ( 一九 00 ー 振出しふりだし約束手形、為替手形、小切 ロンドンのアレンズ・スクールを出て働くう 門からなり、有機的・体系的に把握できるよう 手を発行する行為を振出しという。商法上の他てローマが撤退したのち、各地にプリトン人の になっている。なお、この版の翻訳に新原稿をち、『クリスチャン・サイエンス・モニター』 結集とプリトン文化の復活をみた。〈富沢霊岸〉 の有価証券については、株券が「発行」という ひやっかじてん 加えたものが『プリタニカ国際大百科事典』紙の通信員となり、一九二六年より『ニュー ほか ( 商法一三六条 ) 、貨物引換証 ( 商法五七フリタニカ百科事典 あずかり ステーツマン』誌に寄稿を始め、同誌の看板批 一条 ) 、預証券・質入証券 ( 商法五九八条 ) や Encyclopaedia Britanica 国際的な英語の百 ( 二八巻、一九七 = ~ 七五 ) として、わが国でも発行 〈彌吉光長〉評家となり今日に至る。初期の・コンラッド 船荷証券 ( 商法七六七条 ) については「交付」科事典。最初はイギリスで、のちアメリカで発された。↓百科事典 ) を思わせる南米の奥地探検者の物語『死者にひ という。手形や小切手は、この振出しによっ 行されている。一七六八 ~ 七一年にエジンバラフリーダン Betty Friedan ( 一九 = 一ー アメリカのウーマン・リプの運動に火をつけた かれて』 ( 一九三七 ) 、敬愛するデイケンズの作品中 て、記載された金額を請求することができる証の銅版画家の・ヘル Andrew Bell ( 一七一一六ー天 0 九 ) の楽天家ミコー ー的な人物を中、いに、ロンド 券となる。この手形や小切手を振り出す行為が印刷業者のマックファーカー Collin Mac- 女運動の指導者。ユダヤ系で、カリフォルニ ン郊外の下層中産階級の生活を描いた『ミスタ ア大学の大学院で心理学を学び、ニューヨーク は、証券 ( 手形用紙、小切手用紙 ) に必要事項 pharcker と共同で、一〇〇分冊各冊六ペンス ・べランクル』 ( 一九五一 ) が代表的小説。一方、 を記入し、署名することと、その手形や小切手で百科事典を発行したのが始まりである。こので記者となったが二人目の子供の出産で退職。 を相手方 ( 受取人という ) に交付することから時代のイギリスは、ちょうどプルジョアジーの第二次世界大戦後の、女性を家庭の主婦とい , っ短編小説では、庶民の日常的な生活から特異な ばっ一一う 印象的事象を浮かび上がらせる冴えた筆と、コ 成り立っている。しかし、この必要事項の記載勃興期にあったため、この事典は紳士の教養を型にはめようとする社会的圧力を分析して『女 ミカルな味を特徴とし、短編の名手とされる。 があらかじめなされずに振り出される場合もあ要求する階層に支持されて成功し、完成後は一一らしさの神話』ご 2 き ~ こミ、ミ ( 一九 しらじ 小説批評はイギリス、ロシア、フランスなど古 六三。邦題『新しい女性の創造』 ) を書き、これ る ( 白地手形という ) 。また、相手方に交付さ 二〇〇ページを三巻に製本して初版とした。一 今東西に及び、『生きている小説』 ( 新版一九六六 ) 、 がベストセラーとなって各地で女性運動が起こ 流学者の四四論文と単行本からの抜粋からなっ れないうちに、手形や小切手が流通に回って、 った。一九六六年に全米女性機構 ZO> (Na- 『活躍中の作家』 ( 一九六五 ) 、『伝記バルザック』 善意者 ( 交付されないで流通に回ったことを知たものである。その後、第九版は東洋学者スミ らない人 ) が取得すると、やはり手形や小切手ス William Robertson Smith ( 天四六ー九四 ) の tional ()rganization for Women) をつくり七 ( 一九七三 ) など、鋭い鑑賞眼に基づく柔軟な批評 〈佐野晃〉 による請求が認められることになる場合もあ編集で外国人学者にも寄稿させて有名になり、〇年まで会長、七〇年の「平等を目ざす全米女で名高い る。 八九 ) は本巻二四巻に索引と補性のストライキ」にはその指導者となった。国。フリチャード Katharine Susannah prich- 〈永井和之〉第一〇版 ( 天七五 ~ プリタニア Britannia イギリスの古称。遺一一巻をつけた全三五巻として刊行され、ビ際的にも影響力をもったが、その後保守化して ard ( 一会四ー一九六九 ) オーストラリアの女流作 いる。七一年に全米女性政治会議を設立、七一一家。本名ューゴ・スロッセル夫人 Mrs. Hugo クトリア女王時代を代表する百科事典となっ とくに古代ローマの州があったグレート・プリ Throssell 。フィジー島生まれ。一 八八六年新 た。これは、丸善によって日本にも輸入され、年以後いくつかの大学の客員教授などを務め、 テン島南部のローマ ( ラテン語 ) 名。「プリト 聞記者の父・・プリチャードとタスマニア 八〇年 ( 昭和五五 ) に来日し講演などを行っ ン人の国」の意味で、当時グレート・。フリテン『大英百科全書』として広くわが国の学者に知 に移住。一一歳で短編小説を発表、以来最後の 島南部に住んでいたプリトン人に由来する。旧れ渡った。第一一版はケンプリッジ大学出版局た。ほかに『セカンド・ステージ』 ( 一九〈 D な ほのお 〈白井堯子〉長編『かすかな焔』 ( 一九六七 ) まで、終始労働者 が引き受けて二九巻とし、初めてインディアどの著がある。 石器時代より狩猟の跡がみられるが、早くから を題材に社会意識に基づくリアリストの手法 ノーに印刷し、一九一〇 ~ 一一年に発行回三浦冨美子訳『新しい女性の創造』 ( 一九七 0 ・ 北西ヨーロッパのケルト族が優れた青銅器文明 大和書房 ) ▽国際女性学会編『家庭の構造』で、数多くの長・短編小説を書いた。一九一一一 した。この版も第九版とともに各国学者の執筆 をもたらし、紀元前四世紀にはラ・テーヌ文化 一六年新聞記者としてロンドンに滞在中、 ( 一九〈一・研究所 ) ▽下村満子訳『セカ の影響下に鉄器文明が発展した。前七五年ベル協力を得ており、その水準の高さで世界的に有 『開拓者たち』 ( 一九一五 ) がイギリスの出版社の文 ンド・ステージ』 ( 一九会・集英社 ) ガ工人がプリテン島南部に来てベルガ工人の王名になった。 〔第一ニ版以後〕第一二版からはアメリカにあフリーチェ BJ1aAHMHP MaKCHMOBHt1 学賞を受賞。帰国後一九年、スロッセル大尉と 国を建設、前五五 ~ 前五四年ガリア遠征中のカ 結婚。西オーストラリアに住み、長編『黒オパ エサルの攻撃を招いた。紀元後四三年ローマ皇るシアーズ・ロー バック株式会社の出資を仰 (I)pHqe/Vladimir Maksimovich Friche ール』 ( 一九一一 I) 、『働く雄牛ら』 ( 一九一一六 ) 、『クーナ 帝クラウデイウス一世の遠征で、プリタニアはぎ、一九二八年には同社の経営に移って、シカ ( 天七 0 ー一九 = 九 ) ソ連の文芸学者、芸術学者。一 ードウ』 ( 一九一一九 ) 、『ハックスビーのサーカス』 八九四年モスクワ大学卒業。プレハーノフの芸 ローマの支配下に入る。七九年ごろアグリコラゴを本社とし、ロンドンとニューヨークに編集 将軍の下で北辺が鎮定され支配が安定した。一局をもつようになったが、編集の面でも変化が術理論の影響を受け、史的唯物論的見地から、 ( 一九三 0 ) 、『ほえる一八九〇年代』 ( 一九四六 ) など、 一三年皇帝ハドリアヌスが渡来して長城を建設あった。すなわち、第一一版刊行後の世界の急文学・芸術様式の発達過程が社会の経済的・階世界十数か国語に翻訳された名作を相次いで発 し、国境とした。続いてその北にアントニヌス激な変化に対応するため、第一四版で全体的な級的形態の変遷過程といかに照応しあっている表したが、なかでも『。フリティン』誌賞を受け た『クーナードウ』は、この国の作家で初めて の長城が設けられたが、これは短命であった。改稿、新版の刊行を終わり、三六年から毎年必かを究明し、マルクス主義芸術学を体系づけ た。革命後モスクワ大学文学部長、ソ連最初の原住民を女主人公とした作品である。はかに紀 プリタニアはローマの皇帝領として経営され、要箇所を改訂することにした。また、三八年か

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が物理学の流れ り・この年表では、物理学のさまざまな理論の発達と、それを可能にし ていった技術 ( おもに実験技術 ) の発達との関係を表すことを試み っ た。技術の発達は、生産技術と実験技術の二つに大別し、プロック ぶ の厚みによって相対的な発達の度合いを示した。実験技術のプロソ クは、関係する生産技術のプロックに並置して両者の関連を示した ( 生産技術の詳しい事項は『技術』の項の年表を参照されたい ) 。 物理学の理論の流れは線で表し、おもに関連する実験技術のプロソ ク上に置いた。またその発達の相対的な度合い ( 新しい分野の形成 や革新的理論の形成など ) は、それぞれの線ののっている棚の厚さで 示した。 ′′滑車の使用 ヘロン ( 光の反射 へ・ ロタレス ( こはくの摩擦電気、天然磁石の吸引作用発見 ) クレ↓ / が進歩する 法則を最短距離原・説明 ) 0 0 効 プイオス C の屈才 効ュークリッド ( 光の直性・反射の法則 ) アカデメイア ( 。乙フトン ) 〇 複滑車をもっ揚重 ・カ学 ウイトルウイ「建築十書」 文脚 \ ヘロン ( 単一編械よる仕事の原理 ) ・効アリストテレス ( 地上の元素によ上下直線運動、天体は円運動理論 ) ポノス ( 物体の落速度は重さ ′℃・エ。ヒクロみストラトン ( 落下を重さによらない加速運動と推測 ) しない ) ン ( 生理光宀と幾何光 - 効ロアリストサレス ( 真空否定 ) カ学既究ロストラトン ( 空気に関する実験 ) ノリストテレスのノ イブン・シーサ ) 効アルキメテス ( てこの理、浮力の - 原理 ) アプル・バラカート ( ~ 射体の運動の空気後押し説舅、インペタス理論 = 効ヒッパルコス ( 加速・ ~ 第迷を物体中の残留力で説明 ) を維持するインペタの自己消耗 の理論 ) 螺旋 , イ ( アルキメデス ) ・ペーコン ( 虹・鏡・ンズの研 ) 機械時計 イプン・バー冫ンヤ ( 天体およひ落下運・統一的に説明 ) プラッドワーディン ( 動力と抵抗と速さに関する法則 ) オッカム ( 運動の抵抗と速さに関する法則 ) 旋盤 ビュリダン ( インペタス理論 ) クレスカス ( 上昇運動の浮動説 ) 、アルベルト ( 弾道の ぜんまい時計 インペタス理 ) 、オレーム ( 運動の相対性 ) マルティー一了築・工学・軍事技術論 . 一 レオナルド・ダ・ビンチ ( 材料実、の研究 ) 5 アリス + テレスの『機械学の之丁ン . イタリアで出版 引フォンタナ ( 弾道の研究 ) コ。ヘル - ス ( 地動説 ) ベネデンティ ( 浮力の原理に基・つく落下法則 ) 跖ステビン ( 力の平行四辺形則、 4 面のつり合いの法則 ) 動力学研究 ガリレイ『レ・メカニケズモーメント概 3 ー囮 念、インペタス理論批判の土台となる ) ⑩ , 4 第 リンチェイ ( ローマ ) 一天体運動・落下運動・衝突の研究 ケプラー新天文学」 ( ケプラーの第 一・第ニ法則 ) ケプラー「世界の調和」 ( ケプラーの 第三法則 ) べークマン ( 慣性の法則 ) ガリレイ「天文対話 . 「地動説 ) ガリレイ「新科学対話ズ落下の法則・ 材料実験 ) トリチェリ」・幾何学集』、デカルト「哲 学原理」 フェルマ ( フェルマ原理 ) ねじ切り旋盤・け 、は立て機・心棒旋盤〇 1500 1600 : アルハー 遠鏡 四屈折望遠鏡 ( ガリヒイ ) 個ケプラー「屈折光字」 スネル ( 光の屈折の法則 ) 8 マイクロメーター ( かスコイン、〇ホイ ~ ンス ) 引デカルト屈折光物』 ( 光の屈折の法則 ) 気体の研究 0 真空ポンプ ( ゲーリケ ) ゲーリケ ( マクデブルクの半球実験 ) ゲーリケ型ポンプの改良、真空が容易に 得られるようになる ( ポイル、フック ) グリマルイ ( 光の回折の引 発見 ) 〔凵凵実験技術 「■凵物理学の理論 「〔〔〔凵生産技術 力学 光・磁気・電気 原子 〇研究分野 〇主要な実験技術 ◎ ) 主要な研究分野 ◎主要な生産技術〇生産技術 〇生産技術・実験技術 ロ物理学の理論 ( ロ内の数字は年数 ) 〇科学・技術政策、科学者・技術者運動、政策など〇研究制度 \ ロ中国文献中に羅針盤の記述 ロ ~ 0 ン ( 体装置 ) 〉ロヒエール・ド・マリクール『磁石についての手紙』 マルリアーニ ( 熱の量と強さ ) ロ レオナルド・ダ・ビンチ ( 水に関する研究 ) ◎磁気 ・囮ハルトマン ( 地磁気の偏角・伏角の測定 ) 0 い ) ・土、レバーー ノーマン ( 磁石に、いての実験的研究 ) 「磁石について」 気圧計 トリチェリ ( 真空の存在を証明 ) 囮 バスカル ( 真空の存在実証 ) 囮 バスカル ( 大気圧の観測 ) 囮 0 〇水車製粉 〇 〇上掛け水車が普及 物性 〇アグリコラ『デ・レ・メタリカ ヨーロッパに水車普及 主義的に、文学芸術は古典的に」移行する過程卩 で世界観の変革も生ずる。コペルニクスの地動 4 説は宇宙の中心にある不動の地球という絶対性 を破壊して、太陽を中心とする惑星群の一家族 としての地球という新秩序を与え、世界観変革 の先鞭をつけた。一方、新しい社会への胎動 は、職人層をバックとする新興階級に事実と経 験の重みを悟らせる。こうしてレオナルド・ ダ・ビンチの「事実に対する鋭い観察」から、 ビリグチオ、アグリコラらの技術の体系化が進 展し、一方、新技術の内容づけとしての科学的 究明が磁石、大砲の弾道などで実践されてい く。そして意識的・合理的な形での事実の確認 と、それに基づく推論の方法とをガリレイが動 力学で取り上げたとき、ここに実験の方法が科 学に導入されたのであった。実験が論証と結合 され、・べーコンのいう「経験が読み書きを そうりよ 習い」、「職人と僧侶との結婚」が実現されたと き、近代科学としての物理学が開始されたので ある。ガリレイの動力学は、既成の学説の権威 にではなく事実のなかに真理をみいだすことに よって構築されたが、その体系的展開は推論の みごとさによるものであった。もっとも「円運 動の慣性」のように論証が事実に先走り、 らかの「勇み足」を犯しはした。 ふんさっ 新世界を説いた。フルーノを焚殺し、ガリレイ を裁くなど反撃した宗教界は、結局は近代的科 学の前に敗退し、時代は創造的精神の流れの下 に動いていく。べーコンは『ノウム・オルガヌ ム』において科学の役割を展望し、その研究体 ちょうかん 制の鳥瞰図を描いた。ついでデカルトは疑い えんえき のない事実から出発して演繹的推論を進める厳 密な論証の方法を数学的証明と関連させつつ樹 立し、ここに物理学の方法が基礎づけられる。 学問研究の連帯的な場としての学会は一六世 紀後半から一七世紀にかけて誕生し、イギリス の王立協会、パリ科学アカデミーなどの活発な 活動の時期を迎える。 〔ニュートンカ学の形成ーー普遍的論理と決定 論〕コペルニクス、ガリレイ、ケプラーをそれ ぞれピークとしてほば達成された天体運動の解 析と、地上の物体の運動を解明したガリレイの 動力学の後を受けて、両者を結合し自然界を統 一的に把握する力学的世界をつくりだしたのは ニュートンである。万有引力による天上界と地 上界の一体化であった。デカルトの慣性法則を 力学の基礎に位置づけ、運動の原因としてのカ せんべん

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る。漁業を生業とする人は釣り糸が切れないかと心配しなが神とか八面神とかいわれていた。七月末になって志多羅神とこの時期に顕著になるのは、旧来の共同体が解体に向かっ まえ しんよ ら魚を釣り、それを売って租税にあてるので、天気や風向き号する神輿三前が数百人の人々に担がれて摂津 ( 大阪府、兵て、仏教が民衆のなかに浸透しつつある過程でみられるもの てしま かわのべ ばかりが気がかりである。塩を売る人は海水を煮る仕事に命庫県 ) の河辺郡から豊島郡に入ってきた。その神輿は、菅原で、それに伴って神の観念も変化して神に人格的な性格が現 うさはるおう まっ をすり減らしている。讃岐の風土は製塩に適してはいるが、 道真の霊を祀った自在天神の額がかかったものと、宇佐春王れ、祖先神として歴史上の人物を祀ることもみられるように 豪族が利益を独占するので、人々は港で官人に何度も事情を三子と、住吉神との三前であった。そこへ道俗男女貴賤老少なった。九世紀には、漢文学や法典その他で日本の人々が著 訴えている。国の薬草園で働く人々は賦役として薬草を弁別を問わず群衆が集まってきて昼夜を分かたず踊り狂った。そ作を出すようになってくる。九世紀前期には、漢文学の教養 りよううん ぶんかしゅうれい むち しまのしも する作業に従事しているが、わすかの量でも欠けると鞭で打して歌舞のなかを神輿は東方の島下郡へと向かったが、このは「文章は経国の大業」として『凌雲集』『文華秀麗集』 へんさん ちよくせん たれる。ここには農業以外の生業で暮らす人々のありさまも 尸に新たに神輿三前が加わったようで、群衆の数も数千、数『経国集』らの勅撰漢詩文集が編纂され、法律関係では、養 ろうりよう りようのぎげ いわしみずはちまんぐう 記されていて興味深いが、浮浪人に対する取締りはこの時期万と増大して山崎郷に至り、さらに石清水八幡宮に入って大老令の解釈を国家的に統一した『令義解』が出された。九 - ) う かんけぶんそう でんし までのことであった。 群衆が奉幣し歌舞した。この間、群衆は志多羅の神の名を詠世紀後期には『田氏家集』『紀家集』『菅家文草』『菅家後 しゅう たと 「田堵 ( 田刀 ) 」という用語は平安時代にだけみられたものみ込んだ歌をうたっていたが、それは農民の祝い歌であっ集』など私家漢詩文集が出され、漢文学の形式をとりなが がんごうじ たあそび であるが、その史料的初見は八五九年 ( 貞観一 ) の元興寺領て、その文言の一部分は田遊の歌として現在までも伝えられら日本人の感情を表現する日本漢文学の作品が現れてきた。 えちのしよう おうみ また一時は漢文学隆盛の陰になっていた和歌も九世紀後期に 近江国 ( 滋賀県 ) 愛智荘検田帳である。そこでは元興寺かている。このようなことは一〇一二年 ( 長和一 ) にもあり、 しだら じようらく でんし ちんぜい は表面に現れてきて六歌仙が出た。仏像彫刻の面では、奈良 ら遣わされた田使が、田刀ら農民が元興寺田として登録され鎮西から設楽神が上洛している。かような現象は、それま ていた田を他領としてしまい、元興寺に地子を納めていないでの地域的・封鎖的な信仰を破って、広く一般民衆の信仰へ時代と変わってこの時期には一木造が主流となり、また密教 まんだら ことを追及する。田刀とは耕作農民のなかで彼らを代表すると拡大したものであり、また「荒田開かむ」などという歌詞の流行に伴って密教的な彫刻が現れ、曼荼羅が作成された が、そこには密教絵画の技法がみられた。書では空海、嵯峨 立場の者をいうが、田使の追及に対し在地の実情に即して巧は、そのころ農村の主導的地位にあった田堵たちの積極的な たちばなのはやなり 天皇、橘逸勢の「平安の三筆」が出た。 みに反論し、田使がようやく寺田を回復するまで一〇年余り動きを表現したものであった。 ′ ) くふう 先述した菅原道真の「寒早十首」のなかに漁業を生業とす〔国風文化〕一〇世紀ごろから世に国風文化といわれるよう を要したのであった。一一世紀には一般に「田堵」と記され な日本の風土や人々の感情から生み出された文化が各分野で ているが、それは農業経営に熟達している者という意味である人々を描いたものがある。彼ら海民のなかには、あるいは じ る。土地の慣習に詳しい代表者格の者を「旧老田堵」と称し天皇に御贄を貢進する供御大となったり、あるいは諸社の神現れてくるが、長い間大陸文化を摂取してきて、これを自ら のものとして駆使するに至ったことを示す。一〇世紀の初め た例もあるが、また国から国へと渡り歩きながらその農業経人となって奉仕するかわりに特権を保護されている者もあっ しらぎ 唐が滅亡し、ついで朝鮮半島でも新羅にかわって高麗が建国 たが、彼らは田畑をもっことなく、海上で生業を営んでい 営技術で荘田経営を請け負っている実例もみられる。 したが、 このような政治情勢のもとで大陸から文化的な強い た。ところが一一世紀後期ごろから、これら海民のなかで、 平安時代には百姓が国司の非法を訴えることも多かった。 もともと国司は国家の地方行政を現地で執り行う強大な権限定着して田畑をも耕作するもの、漁獲物の交易によって商業影響を受けることがなかったことも関係があったであろう。 をもっているのだが、百姓の側にも国司の不正を中央に訴えを行うもの、船による輸送に重点を置くものなどが分化して仮名の成立は国風文化の形成を象徴するものである。もとも 第」うにん くる。このことは社会的分業が発達してきたことの現れであと漢文は日本の一一一口語と関係のない文章表現であったが、その る権利が認められていた。九世紀初期弘仁年間穴一 0 ~ 全四 ) つ ) 0 漢字を使って日本の言語を表現する手法はすでに万葉仮名と に伊賀国 ( 三重県北西部 ) 百姓がそれを行った実例がある して使われていた。この手法の延長線上で字形がくふうされ が、九世紀末から一〇世紀初めにかけて国司を訴える動きが みよしきょゆき 文 てきたのである。片仮名は仏典などの漢字を読む際に便宜的 高まっていたことが三善清行の『意見封事十二箇条』に記さ に使われ始めていた。また万葉仮名を記すにあたって漢字を れている。その一例として、八三四年 ( 承和一 ) から翌年に 〔唐風文化の受容による達成〕大陸文化の吸収・消化に努め そう かけて佐渡国 ( 新潟県 ) の百姓が、国司が余利を求めて旧館てきた日本では、九世紀にはその度が進み、大陸文化形式に草体に崩した草仮名が使われ始めていたが、両者ともしだい 」いち・、ようくう力い を捨てて新館をつくったり、海浜山沢の利をひとりむさばるよる文化的表現を行うようになってきた。最澄と空海は同に整理され、草仮名の系が平仮名になって、一〇世紀初期に につとう などをあげて訴えている。次の高まりが一〇世紀後期から一時に入唐し、最澄は天台宗を伝え、空海は真言密教を学んでは仮名が成立した。九〇五年 ( 延喜五 ) に撰上された最初の 勅撰和歌集である『古今和歌集』が仮名で記されていたこと 一世紀前期の時期にみられたことは前述した ( 「政治・外帰国し真一一一一口宗を開いた。天台宗も密教の色彩を濃くしてい りやく は、仮名が勅撰集に用いられたということで歴史的意義をも 交」参照 ) 。これら諸国の百姓が国司を訴えた事件の高揚期き、鎮護国家と現世利益の秘密修法を国家的・政治的な要請 がいずれも国家支配体制転換の直前であったことは注目されによって修し盛行したが、その後、王朝国家体制に転換したつものであった。以後「三代集」と称されるような勅撰和歌 一〇世紀ごろからは、貴族の個人的要請によって貴族の日常集が相次いで撰進され、自由な文章表現ができることから私 んる。そして両時期とも百姓の上訴によって国司たちが大きな 生活のなかに入っていくようになるのである。一方、仏教は的な場で日常的に使われるようになっていった。それに伴っ あ打撃を受けていたのであった。 やまと 九四五年 ( 天慶八 ) 京では東西の国々から諸神が入京する九世紀には本格的に地方に浸透してゆくようになり、地方にて『竹取物語』『伊勢物語』『大和物語』などの物語が著され しだら 第」い力さ うわさ という噂が広まっていた。その神の名は志多羅神とか小藺笠おける造寺・造仏は一段と盛んになった。神仏習合の動きがてきたが、ここでは私的世界の細かい感情が、和歌の表現と 8 みにえ きせん まっ

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ぶんれつ すきどうしだい 〔ウィーン分離派〕一八九七年、画家クリムト た。ォル。フリッヒはこののちへッセン大公に招ものが多い。独立した分流器は電流端子と電圧立 ) 、『数寄道次第』 ( 巻一は一六五四年、巻二 を会長に、建築家ホフマン、オルプリッヒらに かれ、ダルムシュタットの芸術家村設立に参加端子とをもっている。内部抵抗オームの電流 は一六一二年、巻三は一六〇二年書写 ) などと よって設立された。ホフマンとオルプリッヒのし、分離派調の建築を残した。一方ホフマン計の最大目盛りを襯倍に拡大するための分流器内容の重複がみられることから、その成立につ 〈筒井紘一〉 師は近代建築を提唱したオットー・ワーグナー は、分離派運動の展開として一九〇三年にウィ いては今後の検討がまたれる。 の抵抗は R 、、 ( ミー 1 ) 0 である。大電流を流す であるが、この運動はかならずしも近代合理主 ーン工房を設立、工芸の分野に繊細・優美な感ものは発生するジュール熱も大きいので、五〇回林屋辰三郎他注『日本の茶書 1 』 ( 平凡社・ 義の出発として位置づけられるのではなく、む性を授けた。ホフマンの代表作ストックレー邸〇アンペアを超えるものは、油入式または水冷 東洋文庫 ) しろアール・ヌーポー ( ドイツではユーゲント ( 一九 0 五 ~ 一 l) にも明らかなように、アール・ヌ式などとする。材質は一般にマンガニン ( マン分裂気質ぶんれつきしつ分裂病質にみられ ちよくせつ シュティル ) の風土の下での、貴族的ともいえ ーポーの曲線様式が直截な形式にとってかわガンとニッケルと銅の合金 ) を用い、放熱と温る気質徴表が正常範囲内にとどまるものをい ぎんしん 、正常な細長型体型者に認められる。その気 る装飾趣味が根底にあり、こうした斬新なデザりながらも、優れた趣味性がつねに彼を支配し度分布に十分な注意が払われている。交流用の インによって過去から「分離」しようとしたのた。ウィーン分離派のこうした芸術至上主義ものは、位相差による誤差を小さくするため、質徴表としては、敏感 ( 過敏 ) と鈍感 ( 冷淡 ) であった。 は、同じウィーンの建築家で無装飾主義を提唱残留インダクタンスや導体抵抗の増す表皮効果の両要素が重なり合っている混合比率 ( 精神感 とっぴ 設立当初のウィーンは、イギリスのグラスゴ したアドルフ・ロースによって攻撃され、いわなどを無視できるほど少なくする必要がある。受性比率 ) 、突飛さと頑固さの共存、感情と思 しゅうえん ーで活躍したマッキントッシュの特異な造形か ば過渡的様式としての分離派は終焉する。 また、衝撃大電流用のものは同軸型あるいは折考の二者択一的様式の跳躍的な気質曲線を示す ら圧倒的な影響を受けている。運動は機関誌 〔日本の分離派運動〕日本では一九二〇年 ( 大り返し型とし、上記の点についても、とくに注精神テンボ、しばしば刺激に応じない、緊張、 抑圧、躔行 ( びつこ ) 、うつ結、硬固などを示 『フェル・ザクルム』、 S ミミ ( 聖なる春 ) 正九 ) 東京帝国大学工学部建築学科の卒業生、意が払われている。 まもる すてみ まゆみ を軸に進められ、一九〇〇年にはオル。フリッヒ石本喜久治、堀ロ捨己、瀧沢真弓、山田守、矢 なお、検流計用の分流器には各種のものがあす精神連動がある。クレッチマーは健康な分裂 る。万能分流器は、併用される検流計の内部抵気質の代表的タイプとして、上品で感覚の繊細 の設計した分離派館 ( 天究 ) で展覧会がもたれ田茂、森田慶一が分離派建築学会をつくった。 な人、冷たい支配家と利己的な人、孤独な理想 宣言に「我々は起っ、過去建築圏より分離抗に無関係に規定の分流比が得られる。超万能 動派リ金れそ分目の : 」とあるように、思想的にはウィーン分離分流器は、分流比がいかなる値をとっても、併家、無味乾燥または鈍感な人をあげている。さ 活離プわこらを派た の分ル 、いムか造離っ 派の影響が強い。分離派建築会は二八年 ( 昭和用する可動コイル型検流計をいつも臨界制動らに特殊な才能として、激情の詩人、ロマン主 派たオ々と一式創分あ 様いるも ( 最大に作動する ) の状態で使えるようになっ義者、形式を貴ぶ芸術家 ( 詩人 ) 、精密な理論 三 ) まで七回の作品展を開いている。その間 分な年。ツの史しすで + ・いドレド ) ト・う・ ンと四わべり歴新とル 〈高尾利治〉家、体系家、形而上学者 ( 学者 ) 、純粋な理想 同時にドイツの表現主義建築の影響を受けたこている。 派一心沼殳ャ彫のてうポ - 三ロ 離イ中 ( ヒキ透去しそン ともあり、わが国の建築芸術の創造に果たした分類処遇ぶんるいしょぐう受刑者の特徴を主義者、専制者と狂信家、冷たい打算家 ( 指導 分ウの館ツのた過離ざシ 〈高見堅志郎〉 役割は非常に大きい。 科学的に調査・分類し、それそれに応じた個別者 ) をあげている。↓分裂病質 ^ 切替辰哉〉 粉瘤ふんりゅう atheroma 皮膚にできる処遇を行う方法。科学的行刑 ( 矯正 ) の基礎を分裂国家ぶんれつこっか divided nation ーしゅ、よ、フ じゅくしゅ 良性腫瘍で、粥腫、アテローム Atherom 響 なす制度で、第二次世界大戦後、アメリカの例第二次世界大戦後現在に至るまで、「冷戦」を 背景として民族が二つに引き裂かれた状態から などともいう。日常よくみられる「こぶ」の一 に倣って整備された。入所時に分類センター のうしゅ 種である。表皮が真皮内に迷い込んで嚢腫とな ( 例、川越少年刑務所 ) で総合的に調査し、級生まれた国家。分断国家ともいうが、このこと しせん った真性嚢腫と、毛包や脂腺の出口がふさがれ別に分けて施設に収容し、処遇の過程で再調ばは、一民族がその意志に反して外力により分 て生する仮性嚢腫とがある。嚢中にはケラチン査・再分類を行いながら、警備・教育などの合断させられたという響きがある。普通、ドイ ツ、朝鮮および一九七六年までの・ヘトナムの場 や脂質などの混じった悪臭のある粥状物が充満理化を図る。分類級には、刑期 ( *-2 級日八年以 し、柔らかくて弾性がある。エンドウマメ大か上 ) 、犯罪傾向級・級 ) 、心身の障害合があげられる。これらの地域に存在するもの ら鶏卵大となり、皮面からわずかに隆起する。級・級 ) などで分ける収容分類級と、処遇内が、一つの国家のなかに二つの政権があるの か、二つの国家があるのか、あるいは一つの国 皮内から皮下にかけて存在し、手で動かせる。容 ( 例、 > 級Ⅱ職業訓練を必要とする者 ) によ 表面は正常皮膚色または淡青色調を呈する。通って分ける処遇分類級とがある。なお、少年院家とほかにもう一つの政権があるのかについ て、政治的立場によって、あるいは学説上も、 常は自覚症状を欠くが、一一次感染をきたすと赤や婦人補導院においても分類処遇が行われてい レつつっ 〈須々木主一〉異なった見解がある。また分裂国家というとき く腫れて疼痛を伴う。好発部位は、顔面、頭る。↓処遇 に、分裂した一方の側についていう場合と、双 部、胸背部で、陰嚢に多発することもある。成分類草人木ぶんるいそうじんばく茶道の成 年男子に多く、小児や老人には少ない。 治療立期の茶法を伝える代表的な茶書の一つ。三方についていう場合がある。 たけのじようおう 同系民族が二つあるいはそれ以上の国家に分 は、中央に小切開を加えて内容物を押し出すこ巻。一五六四年 ( 永禄七 ) に武野紹鵐の門人 しんしようき一いしゅんけい ともあるが、嚢腫壁を残すと再発するので、通とされる真松斎春渓が筆録した旨の奥書があかれている場合は、現代において珍しくはな い。たとえば、アングロ・サクソン系の諸国家 常は被膜とともに摘出する。 〈水谷ひろみ〉る。冒頭に茶の将来から宇治七園までの流れと 分流器ぶんりゅうき電流測定の範囲を拡大当代の茶風を説き、客人類、掛物類、花瓶類、 ( 発生的にはイギリスの定住植民地 ) やドイツ てんもく つば するために使われる抵抗器。電流計に並列に接葉茶壺、小壺類、台子、風炉、囲炉裏類、天目系の諸国家 ( オーストリア、ルクセンプルク ) ちやわんこうろ などがある。しかし、そのような諸国を分裂国 続し、回路電流を一定の比率で電流計に流すよ茶碗、香炉類、座席に分類して、種類、扱いな どを記す。本書は茶道創成期の茶書である『烏家といわないのは、そこでは国家の分離が歴史 うにしたもので、計器に内蔵されているものも きっさぎつわ あるが、電流が大きくなると外部に独立させた鼠集四巻書』 ( 一五七一一成立 ) 、『喫茶雑話』 ( 一六一一 0 成的に正当化されているからである。 た 853

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ふめいね のような動きをするのだと考えられている。プをミ (Panzer) C. Chr. イノモトソウ科 6 ン ラ ーメランには投げ手のところに戻らないものもの常緑性シダ。褐色毛のある細長い根茎に、長 あり、似た形態の飛び道具はエジプトのナイル さ六〇垰一以上の一回羽状分裂の葉をつける。葉 プれ のさ 川上流地域にもみられるので、きわめて古い文裏全体に毛がある。胞子嚢群は葉縁近くにつ な 1 」り る 用 化の名残を残す目印として民族学では早くから き、包膜にも毛がある。関東地方以西の暖地林 あ で に多い 〈西田治文〉 注目されてきた。。フーメランの起源は投げ棒の 毒 ような用具だったと思われるが、鉄製の投げ小 麓集落ふもとしゅうらく近世薩摩藩におけ 長 刀が使われている地方もある。古代エジプトでる半士半農の在郷武士団の居住地。島津氏は、 とじよう 民棒 は武器として使われた。 〈中村たかを〉外城制度により藩内を一一三の区画 ( 外城 ) に しゅうじゅう し ~ 住掘 回ロゲルギスト著『プーメランはなぜ戻る』分け、それそれ郷士 ( 外城衆中 ) を配置し、 応 適 ( 『物理の散歩道』所収・一九七一一・岩波書店 ) 鹿児島本城の防衛と地方行政にあたらせた。麓 活 フメリ一一ッキー bornaH MuxaMdJ10BHt1 ( 府本 ) とはこれら各外城の車事・行政を管轄 じとう 生 上 スほ XMeJ1bHHLIKHü/Bogdan MihaYlovich Hmel'- する地頭仮屋の所在地であり、郷士の集住地で しらす 樹 一の ! 一六五七 ) ウクライナ独立ある。白砂台地の突端など高燥な土地に設けら nitskiy ( 一五九五こ し ン 運動の指導者。通称ジノービー 3HHOBHV1 \ れ、郷士の屋敷は石垣や生け垣で囲まれ、とく ンと ラ ス ラ具 Zinoviy0 ポーランド領ウクライナの生まれ。 に高級郷士は豪華な門を構え、近くに農民や町 ム リポフで教育を受け、初めポーランドのコサッ 人が住んだ。城山と馬場や射場があり、街路も プ プ狩 ク軍に入った。一六四〇年代なかばころよりポ計画的に格子状や鉤状のものがあるが、不規則 ーランドに対する反乱に着手し、ザポロージェ のものが多い。一七八四年 ( 天明四 ) に外城を 不明熱ふめいねっ fever unknown ori- 。フーメ一アイエン Houari Boumedienne ー七 0 アルジェリアの政治家。東アル に逃れ、そこでゲットマン ( 首領 ) に選ばれた郷と改称し、従来の外城衆中も郷士と称するよ gin 原因不明の発熱で、と略称される。 ( 一九三一一 ? ほうき ( 一六四 0 。 発熱が三週間以上にわたり、また三八・三度 0 ジェリアの町ゲルマの近くに生まれ、チュニス 一六四八年にウクライナ民衆が蜂起すうになった。一般に、交通の要衝となり、戸口 以上に達する数度の高熱がみられ、一週間の入とカイロに留学。西アルジェリアのオラン地方ると、彼の率いるコサック軍は各地にポーラン規模も一〇〇戸から六〇〇戸程度のものが多 みやこのじよう ド軍を撃破し、彼はポーランドとの間に「ズボ く、出水 ( 鹿児島県出水市 ) 、都城 ( 宮崎県 院精密検査によっても原因や侵されている臓器で反フランス軍事作戦に参加し、一九五七年に 同地方の民族解放軍 << z の司令官 ( 大佐 ) に ロフの和」を結んだ ( 一六四九 ) 。五一年に戦争を都城市 ) などは数千戸からなり、明治以後、市 の手掛りが得られない場合に不明熱とされる。 したがって、原因の明確な熱性疾患、経過の短昇進、六〇年には参謀長に就任した。六二年七再開したが、彼の軍は敗北した。彼は以前から町村の政治、文化、経済の中心として地方都市 〈中田栄一〉 月の独立後に成立したべンべラ政権の国防相をモスクワ政府に援助を求めていたが、皇帝アレ に発展したものもあった。 い良性のウイルス性疾患、微熱が持続する本態 務めたが、六五年六月のクーデターで・ヘンべラ 性高体温症、手術後の発熱などは除外される。 クセイはゼムスキー・ソボール ( 全国会議 ) のフモトスミレ〔麓菫〕 Vio ぶ窰 0 ミ ~ ・ Maxim. スミレ科の多年草。根茎は細くて短 不明熱の多くは比較的ありふれた疾患の非定政権を倒した。以来軍を背景に国政の実権を掌意向に基づき、五四年にポーランドと開戦し、 く、地下茎はない。葉は三枚から数枚が束生。 型的な症状であり、結核をはじめ、肝臓や胆道握し、国内的には国家機構を整備して一連の社ウクライナを併合した。彼は、五七年八月六日 のうよう 〈伊藤幸男〉葉は長さ一 ~ 二・五、円心形から卵心形で、 の感染症、サルモネラ症、腹腔深部膿瘍など感会主義政策 ( 具体的には国有化と工業化 ) を実 に故郷のチギリンで死去した。 染症の場合にもっとも多くみられ、悪性リンバ 施するとともに、国際的には非同盟主義外交とフメリニッキー XMeJlbHHUKHü/Hmel' ・葉柄は長さ二 ~ 五拜一と地域により変異がある。 しゅ 腫や白血病などの悪性腫瘍およびリウマチ熱や新国際経済秩序形成のための第三世界外交を進 nitskiy ソ連、ウクライナ共和国西部、フメ表面はやや濃緑色で、脈上に白斑があるものも 一うげん リニッキー州の州都。人口二二万三〇〇〇 ( 一九多い。花は四月中旬から五月に、高さ四 ~ 七 慢性関節リウマチなどの膠原病がこれに次ぎ、 めた。七六年に憲法を制定し、大統領に選出さ せん 〈宮治一雄〉 会 ) 。ウクライナ西部を広く覆うポドリスカヤの花柄上に横向きに開き、径約一で普通は白 そのほかアレルギーや亜急性甲状腺炎などの場れたが、七八年一二月に病死。 はんけん 合にもみられる。したがって、精力的な原因追プーメラン boomerang オーストラリア丘陵に位置し、南プク川上流に面する。キエフ色。唇弁に著しい紫条があり、上弁は反巻する。 きょ ープラハ間の国際鉄道の要地。鋳造、変電所設唇弁の距は短く、長さは約二・五い。本州から 求が望まれる。なかには、診断不明のままに経原住民の間で使われた狩猟具。キジ、ノガモ、 ハトなどの鳥や小動物をとらえるのに用いた。備、合成樹脂などの工業部門もあるが、豊かな九州の丘陵、林下などに生える。〈橋本保〉 過するうち、治癒してしまうといった予後のよ さん Pumo-Ri ネパ いものもある。 〈柳下徳雄〉 「く」の字形の平らな木の棒で、獲物に向かっ農牧地域の中心地として、食肉、食用油脂、 プモ・リ山 ル・ヒマラヤ山脈の高峰。工べレスト山から約 て投げ、命中しない場合には投げ手の近くに戻乳・酪製品、テンサイ糖、繊維などの農産加工 ってくることで知られている。飛行機の翼に似 によって知られる。福利厚生事業についての研一〇キロ、西に続く尾根上に位置する。標高七一 さんかくすい た断面をもち、最初、獲物に向かって直進し、究教育機関、郷土館などが置かれている。市の四五。三角錐状の美しい峰で、北のウエス やがて向きを変えて上昇したのち下降し、きり起源は一四九三年で、長い間プロスクーロフト・ロンプク氷河、南のクンプ氷河に挟まれた ようにそびえる。一九二一年、イギリスの登山 もみ状態で投げ手の付近に落ちることが実験的 11POCKYPOBZProskurov とよばれてきたが、 ロシア・ウクライナ併合三〇〇年に際し、一九家マロリーが、チベット語で娘 ( プモ ) の山 にも確かめられている。飛行中のプーメラン は、こまのように中心を傾けながら回転して飛五四年に併合時の英雄、ウクライナの将車フメ ( リ ) と命名した。長い間工べレストの一衛星 び続ける。そのとき生じる空気抵抗が羽根の形 リニッキーを記念して改称された。〈渡辺一夫〉峰としかみられていなかったが、一九五三年、 ニュージーランド・イギリス隊とインド隊が試 によって引き起こされる揚力に変化を与え、こフモトシダ〔麓羊歯〕ミミ。 0 ミミ・ ー第与第淋ツい . 賤 . 、号 1 プーメディエン いずみ かぎ のう さつま

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ふうれん 笛 / 種類 ①雅楽で用いる 3 種の笛。上か ら嵩麗笛篭 , 犇薬 ②普花宗の法器である普化尺八 ③マレーシアの 2 枚リードの笛 スルナイ ④朝鮮の陶器製笛土員。高約 10cm 東京国立音楽大学音楽研究所 楽器資料館 ⑤法螺貝。大型の巻き貝に穴を あけ , 吹口を取り付けたもの ⑥フィリビンの鼻笛トガリ ⑦ユーゴスラビアの複管笛フラ ジョレット くなしり か 国後島方面から引き揚げた人々の入植地で、内フウロソウ科 水面漁業が行われている。毎年一一月から一一一双子葉植物、離弁花類。草まれに低木。葉は互 月にかけての結氷前には数万羽のオオハクチョ生または対生し、托葉がある。葉身は歯牙があ のつけ ウが飛来し、付近一帯は野付風蓮道立自然公園るか、または分裂する。花は両性で一、二個ま えきせい に指定されている。 〈進藤賢一〉 たは多数が腋生し、放射相称または左右相称。 ほんべつかい がくへん 囮二万五千分の一地形図「東梅」「本別海」「風萼片、花弁は四、五枚、雄しべはその二、三倍 おくゆき 蓮」「別海」「奥行」 数あり、葯は字につく。子房は上位で三 ~ 五 風連鍾乳洞ふうれんしようにゆうどう大分県裂する。果実は三 ~ 五裂し、各裂片に一、二個 のっとまり 南部、大野郡野津町泊にある鍾乳洞。一九一一六 の種子があり、軸に沿って裂開し、基部から上 年 ( 大正一五 ) 四月発見、翌二七年国の天然記端まで裂片を巻き上げて種子を飛ばす。温帯を 念物に指定される。旧洞は渓谷に臨み、照明な中心に世界に一一属七八〇種、日本にはフウロ せき どの設備がある。洞長四二〇。鍾乳石、石ソウ属のみ分布する。同属にはハクサンフウロ じゅん や、民間薬として有名なゲンノショウコ、観賞 筍、石柱その他の石灰質沈殿物の発育良好で、 〈小林純子〉 管理よく、ほとんど完全に保存されている。金用のゼラニウムなどがある。 世界、銀世界、竜宮城の三区に分けられ、粘土フェ 0 ュエ 分が少ないので鍾乳石が白く輝いている。新洞笛ふえ日本における吹いて鳴らす楽器の総 は旧洞より約一〇〇高い所にある。 3 鍾乳称。語源はフキエ ( 吹柄・吹枝 ) あるいはフキ 〈兼子俊一〉 イルネ ( 吹気入音 ) の略など諸説あり、さだか いぬんい ではない。今日笛という語はもっとも広義に 二万五千分の一地形図「犬飼」 風浪ふうろう波浪のうち、その場所の風は、吹き方、リード ( 簧 ) のあるなし、形態を によって直接生じた波。遠方の風場で形成され 問わず、吹奏楽器の総称の意味で用いられる た風浪が、風場を離れて伝わってきたものをう が、狭義にはこのうち横笛、すなわちリードの ない横吹きフルートのみをさすことが多い。こ ねりとよんで風浪と区別する。風浪は、うねり に比べて不規則で、波の峰も険しい。風浪の高れは日本ではとくに横笛が優れて発達したため さや周期は、風の強さ、風が吹き続いた時門 日で、世界には横笛をもたない民族も多いことを すいそう すいそく ( 吹続時間 ) 、風の吹き渡る海上の範囲 ( 吹走距考え合わせると、横笛の発達は日本を含めて東 アジア音楽の特徴の一つといえよう。英語で笛 離 ) によって左右される。風速が一定の場合、 十分に時間がたっと、ある一定の波高に達し、 にあたるものにフルート flute 、。ハイプ pipe 、 ↓波浪〈桜井邦雄〉ホイッスル whistle など各種あるが、日本で それ以上は発達しない き一けみ 風浪宮ふうろうぐう福岡県大川市酒見に鎮は洋楽器のうち主として木管楽器類をさすこと わたつみのみこと が多く、トランペットのようにマウスピースを 座。俗に「おふろうさん」とよぶ。少童命 こうらたまだれ まっ おきながたらしひめのみことすみよし 息長足姫命、住吉大神、高良玉垂命を祀る。用いる金管楽器類は「らつば」とよんで区別し じんぐう さんかん 力し 創建年代不詳。社伝で、神功皇后三韓より凱ていた。 せんちくごあしわら えのきづ 旋、筑後国芦原の津 ( 大川市榎津 ) にこられた 日本における笛の歴史は古く、『古事記』や しらさぎ 『日本書紀』にも記述がみられる。古来、日本 とき、白鷺が現れたので、その白鷺を少童命 たけしうちの ( 海神 ) の化身とし、その止まった地に武内人は音楽のことを「ふえつづみ」と呼び習わし すくね て親しんできたが、 最古の笛がどのような形態 宿禰に命じ奉斎させたのが起源という。以後、 であったのかは不明である。ここでは横笛、縦 海上守護神として崇敬される。現社殿は一五六 〇年 ( 永禄三 ) の造営、明治の制で県社。例祭笛、その他、の三種に分けて考察する。 かぐらぶえやまと 一月二九日、ほかに旧三月二八日より五日間の 〔横笛〕雅楽で用いられる横笛に神楽笛 ( 和 おきまいり ぶえふとぶえりゅうてきおうてき ・一まこまぶえ ひきめごきとう 火清鳴弦祈疇、旧暦四月三日の海神祭などがあ笛、太笛 ) 、竜笛 ( 横笛 ) 、高麗 ( 狛 ) 笛の三種 あずみ る。当社神主家阿曇氏は神功皇后三韓遠征時のがあるが、雅楽で「笛」というととくに竜笛の いそらまる 〈鎌田純一〉 ことだけをさす。神楽笛はほかの二つが大陸か 船師磯良丸の子孫と伝う。 フウロソウ〔風露草〕フウロソウ科の多ら輸入される以前に存在した日本古来の笛だと 年草であるハクサンフウロの別名。ほかに、同もいわれるが、さだかではない。室町時代にな じくフウロソウ科のゲンノショウコ、エゾフウると能楽の興隆とともに竜笛を改作した能管が ロなどもフウロソウと通称することがある。 現れた。さらに、歌謡し こあうようなより柔和な たくよう

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である。 文化領域には、その規模において少なくとも 状況はまた、数多くの原住民社会が今日置かれた番組、営業活動に定評があり、六八年一月開 なお、この分割統治ということばは、近年、ている状況でもあり、今日なお緊急の問題を提始した「サントリー出前寄席」など、スポンサ三つの種類が区別される。第一は、多くの語族 や生態学的な大領域を含むような広い地域、た 日本では、比例代表制の導入によって、野党の供しているのであるが、文化接触一般からみれ ーの販売促進活動と連動した ( セールス・ 連携が図りにくくなる一方、与党自民党が議席ば、一方から他方への影響のみが問題となる、プロモーション ) 番組に好評なものが多い。長とえばアメリカとかアジアのような大陸におい を伸ばすといった政治状況をさして使用されるやや特殊なケースである。文化変容は、その原寿番組に「録音風物詩」「朝の小鳥」などがあて数個ないし十数個の領域を設定するものであ よ、つにもなっている。 〈青木一能〉因となる文化接触のあり方、接触する二文化のる。最近、報道で早朝のビジネス【マン向け情報る。第二は、プラジルのように、大陸よりは小 内在的な性格などによってさまざまな形をと番組、スポーツ面で西武ライオンズのナイター さく、熱帯雨林という一つの生態学的大領域の 文ヒ闘 . ぶんかとうそう Kulturkampf 一八七〇年代、ドイツのビスマルクが国内のカり、その一般化は容易ではない。たとえば、侵放送を実施するなど、新しい聴取者層、媒体機なかに入ってしまうが、数多くの語族を含むよ うな中規模地域での文化領域設定である。第三 トリック教徒に対し行った弾圧政策。七一年に略や征服による接触と、交易による場合とでは 能の開発を試みるとともに、スペシャル番組、 成立したドイツ帝国に対し、国内の少数派カト 大きな違いがあるし、前者の場合でも、接触し ドラマなど大人向け「傾聴路線」にも力を入れは、日本のような本質的に同質的な小規模の地 リック教徒とその政党、中央党が敵意を抱いてた集団の規模や技術の発達段階の相違などに応ている。関連事業にも積極的で、音楽出版、テ域内において、東日本と西日本というような文 いた。帝国の強化を目ざすビスマルクはこれへじて異なってくる。またインドのニルギリ地方 化領域を設定することである。 ープ、ビデオ、教育事業など数多く手がけてい の弾圧に乗り出し、七一年、聖職者の政治活動のトダ、コタ、バダガ、プルングの各部族間のる。資本金五億一〇〇〇万円 ( 一九会 ) 。 文化領域とは、ある時点における特徴的な文 を禁ずる「教壇条項」、七三年「ジェスイット 〈伊豫田康弘〉 ように、長い接触にもかかわらず文化変容がみポン放送 化要素の群であって、構成する個々の要素は新 法」、七三、七四年「五月法」を発布。カトリ られない例もある。 噴火予知ふんかよち火山噴火の発生の時、旧さまざまである。この点において、過去のあ ック教会の教育や市民生活に対する影響を除 北米インディアンの研究に端を発する文化変所、規模、様式の予知。その的確な予知・予報る文化層を表す要素の群として考えられるドイ き、教会を国家の統制下に置こうと試みた。し容の研究のいま一つの大きいテーマに、文化変は防災に役だつが、まだごくむすかしい。広義ツ・オーストリアの民族学における文化圏の概 かしカトリック教徒はこれに抵抗、中央党も七容の過程における個人個人の適応の問題があ には、噴火開始後にその後の活動推移を見通し念とは相違がある。文化領域が形成される要因 四年以降の選挙で躍進を続けたので、ビスマルる。西洋文明との接触以降世界各地でみられた たり、噴火停止後に再発の有無などを予知するとしては、気候区、植生、地形などの生態学的 クは弾圧政策を打ち切り、七八年から和解交渉土着主義的運動や千年王国運動も、こうした観ことも含まれ、社会的には、最初の噴火発生の条件と、中心文化からの影響、住民の移動など の歴史的条件の二つがおもなものである。いっ を進め、八〇年代に関係法令の多くを廃止し 点から分析されることがある。一九世紀末に北 予知・予報より微妙な場合も多い。噴火予知に 〈木谷勤〉米インディアンの間に急速に広まったゴースは、各火山の過去の諸噴火の実績・特徴などをたん確立した文化領域は、時代を経て内容的に ト・ダンス ( 幽霊踊り ) という一種の陶酔的な究明しておき、かっ、科学的観測で噴火現象やは変化しても持続する傾向がある。日本では東 文化の日ぶんかのひ一一月三日。「自由と 平和を愛し、文化をすすめる」ことが趣旨の国新興宗教は、白人が滅びインディアンだけが生その前兆・随伴現象を的確にとらえることが肝日本と西日本の対立は縄文時代から続いている 〈諏訪彰〉 が、特徴となる要素は時代とともに変遷してし 民の祝日。一九四八年 ( 昭和二三 ) 制定。四六 き残る世界の出現を信じるものであったが、文要である。↓火山↓噴火 〈大林太良〉 まった。↓文化圏 年のこの日公布された新憲法の精神に基づき、 化変容に伴う集団的不適応を示すものとされ文化領域ぶんかりよういき culture area 一時期のアメリカ 平和と文化が強調されているが、この日を祝日 た。こうした単純な見方には批判も多いが、個文化を空間的に分類して区画した領域をさす。文化類型ぶんかるいけい の文化人類学を特徴づけたものに、文化の総合 としたのは、四七年まで四大節の一つの明治節人的な不適応の問題は、原住民の間でのアルコ ことにアメリカの文化人類学において、アメリ まんえん ( 明治天皇の誕生日 ) だったためもある。皇居 ール中毒の蔓延といった社会問題や、二か国語力大陸をはじめ、アフリカ、アジアなどにおけ的類型把握を目ざす諸研究がある。これは一九 で文化勲章の授章式があり、芸術祭がこの日を教育の是非などの政策上の問題とも結び付い る文化領域設定が盛んに行われた。文化領域の世紀以降、ヨーロッパでリッケルトやシュペン 中心に開催される。晴天の日が多い気象上の特て、今日なお応用人類学的研究の重要な課題の研究の基礎をつくったのは、ウイスラーの著しグラーらによって提唱された歴史・文化類型論 異日としても有名。↓明治節 〈森脇逸男〉 にも影響を受けているが、その基本的性格は大 一つとなっている。文化変容の研究は、単に理た『アメリカ・インディアン』 ( 一九一七 ) である。 かせい 文化文政時代ぶんかぶんせいじだい 0 化政論的な関心からだけではなく、実際的な問題解彼によれば、文化領域とは、他地域と比べた場きく異なっている。 リッケルトは、世界史に登場したいくつかの 決への関心からも、多くの人類学者の関心をひ合、その内部において、多くの集団が多くの文 ^ 浜本満〉 く研究となっているのである。 化要素を共有していることによって特徴づけら高文明のなかに八つの文化類型を設定し、ヨー 文化亦夂宀谷ぶんか〈んよう acculturation ロッパ文化はその普遍性のゆえに他の文化を破 文化の動態を把握する概念の一つで、文化触変文化放送ぶんかほうそう関東地方一円をサれるような地域である。たとえば北アメリカの とも訳されている。文化の変化のうちでも、一一 ービス・エリアとする民間ラジオ放送局。略称平原文化領域は、食糧のためにバイソン狩猟を壊し、世界史において将来的役割を担うと論じ た。またシュペングラーは、各文化はおのおの 文化の接触に起因するもの、すなわち異なった は Z 0 22 だが、呼出符号 O C の C がラジ 行い、これに反して農耕と漁労は特徴的に欠如 えんすい 文化との、持続的で直接的な接触によってもたオ業界での一般呼称となっている。一九五二年し、住居としては皮張り円錐形テント、野営地他から独立した自己完結的なものであるとしつ でんば にはテントを円形に配置すること、円形盾、騎つも、その盛衰には平行性がみられるとして、 らされた変化をいう。伝播の研究が、従来、文 ( 昭和二七 ) 三月聖パウロ修道会などが主体と 相互の比較により一文化の今後の予見が可能で 化の個々の要素のみを問題にしていたのに対なって財団法人日本文化放送協会として開局、馬と男子軍事結社による戦争、皮製容器を用い その後経営的な行き詰まりなどがあって五六年るが土器や籠は欠如、宗教的幻覚、太陽踊りなあると論じた。こうした文化類型論に対し、文 し、文化変容の研究はより全体的な視点から、 化を共時的に把握し、より相対主義的な観点に ど、約二〇の要素によって特徴づけられてい これらの受容と統合の過程を問題にしようとす二月、株式会社文化放送に改組、再発足した。 る るものである。 六五年五月以来、ニッポン放送とともに zæz る。そして中央部の一一種族はこれら要素のすたっ文化類型の考え方が、文化人類学の分野で ( ナショナル・ラジオ・ネットワーク ) のキー べて、あるいはほとんど全部をもつのに対し提唱された。 文化変容の研究は、白人文化の支配的影響の ん こうした考え方を最初に定式化したのは、 もとで、急速に変化しつつあった北米インディ局として、民放ラジオ界のリーダー役を果たして、周辺部の種族になると、これらの要素のう 『文化の型』 ( 一九三五 ) や日本研究の書『菊と刀』 8 、かアンの文化の研究に端を発している。こうしたている。民放ラジオ独特の時代感覚を先取りしちも 0 ているものの数が減る傾向がみられる。 ぶ人か かご

9. 日本大百科全書 20

ろ フロア Blois フランス中部、ロアール・ に生まれ、一六歳ごろイエズス会員となってイ にせよ ロ エ・シェル県の県都。人口四万九四二二 ( 一九 ンドに向かい、ゴアでザビエルや鹿児島出身の 7 の 5 たど 5 リの南西一七七キ。、ロアール川右岸 にヤジロウらに会った。早くから文筆の才能が認 炉 3 がな幻 とい釜高位置する。六世紀以来の伯爵領で、ルイ一二世められ、ゴア滞在中にも管区長付として書記を 丿高会い甑 た出 , 代 により王領となり、一六世紀から王家が好んで務め、東洋各地からの情報に通じた。一五六三 きない っ代の釜時 び時と習戸居住した。ロアール川沿いに建つ。フロア城は、年 ( 永禄六 ) に来日、まもなく五畿内に派遣さ ちょう が戸釜鶴江 歴代の領主の増改築 ( 一三 ~ 一七世紀 ) によれ、中日本布教長に就任した。織田信長の寵を ルも - 、つ あづち のみ釜作 り、ゴシック、ルネサンス、古典と三つの建築受け、岐阜、安土 ( 滋賀県蒲生郡 ) 、京都など 冖釡作好形全 。《味の真了様式が同時にみられる。司教区が置かれ、サで彼と親しみ、その地からの興味深い報告書 炉亠争安 風こ古道でる ン・ルイ大聖堂 ( 一七世紀 ) 、ロマネスク・ゴは、ヨーロッパに送られて広く読まれた。七七 」文千炉い い草炉。風て シック様式のサン・ニコラ教会などが残る。一年 ( 天正五 ) からは九州に移ったが、八三年に 簷風炉土れ 六世紀、三部会が二度当地で開催された。アンはローマのイエズス会総長から、「日本の布教 2 桐掛風るさ 銅 2 切安れと リ三世によるギーズ公アンリ暗殺事件 ( 一夭 0 史」を執筆するよう訓令を受け、それ以後は、 る道さ、つ 炉〕か の場所としても有名。従来からの行政・商業機日本副管区長付として、日本年報の主たる執筆 能の強化に加えて、ロアール川城巡りの中心地者を務めたり、会議において書記の仕事をしつ りゅうきゅう 庶民の家屋が密集し都市も発展してくると、炉と琉球風炉で、ともに唐銅か鉄製、前後に としての観光地化、機械、電気機械、印刷、チつ、『日本史』と題し、フランシスコ・ザビエ 町湯というものができてくる。この営業用の町窓がつくのを特色とする。土風炉は形によってョコレート製造などの工業化によって、近年人ル以後の布教史の執筆に専念した。九二年 ( 文 どう すきぎ ーしりばめ・ よほう 口が増加している。 〈高橋伸夫〉禄一 ) から三年近くマカオに赴いたが、長崎に 湯がいつごろから出現したかはつまびらかでは透木風炉、紹鵐風炉、尻張風炉、四方風炉、道 あん べにばち 十 / ーし 。しかし平安時代から鎌倉時代にかけては安風炉、紅鉢風炉の種類がある。なお、真を土フロアサール Jean de Froissart ( 一三三七戻って執筆を続け、九七年 ( 慶長一 l) 七月八 ろ ー一四 0 五ころ ) フランスの年代記作家、詩人。日、膨大な『日本史』の原稿の行く末を案じな すでにあったものと思われる。江戸の銭湯の初風炉、行を唐銅風炉、草を鉄風炉・板風炉とし がら、六五歳で病死した。フロイスの書簡や年 〈筒井紘一〉聖職者でもあったが騎士道的典雅を好み、フラ めは、徳川家康入府の翌年、一五九一年 ( 天正ている。 ぜにがめ ー一九一七 ) フラン ンス各地をはじめイングランド ( 一三六一 ) 、スコ報はほとんど大部分が早くヨーロツ。ハで刊行さ 一九 ) 銭瓶橋のほとりに伊勢与市が建てたものプロア Léon Bloy ( 天四六 ットランド、イタリア、オランダ、スペインをれ、各国語版が出された一方、『日本史』のほ という。幕藩体制のもとで、江戸には参勤交代スの作家。ペリグーに生まれる。作家バルべ ー・ドールビイ Barbey d'AureviIIy ( 天 0 ハー 遍歴、各地で王侯や有名人に会い、宮廷に出入うは、久しく原稿がマカオの修道会の倉庫に埋 の諸大名の家臣、商工業に従事する町人たちが 力いしよう もれたままになり、写本も世界各地を転々とし 、。パリの街娼りして見聞を広め、同時代史執筆の準備をし 瓮 ) の感化でカトリックに改字 増加し、それを相手とする湯女風呂などができ クロニク きようせい て、だんだん増加していった。湯女を置いて、 との神秘的な共棲生活を縦糸とし、聖書の秘た。その『年代記』 C をミ s 四巻は、一三たので、一九七七 ~ 八〇年に日本で初めて日本 〈松田毅一〉 語で活字化されるに至った。 二五年から一四〇〇年 ( 英王リチャード二世の 昼間は浴客の垢を掻き、髪をすき、湯茶の接待教的解釈を軸とする歴史観を基底に、同時代の つうば びようぶ をした。また夜になると上がり場に屏風をしつ教会と文壇を痛罵した小説『絶望した男』 Le 死 ) までを扱い、百年戦争中の記録として重要回松田毅一・川崎桃太訳注『フロイス・日本 〈安斎和雄〉 八 0 ・中央公論社 ) 史』全一二巻 ( 一九七七 ~ 犬六 ) は、カトリック復興の起爆である。 らえて座敷構えにつくり、酒色の相手をした。 しかし幕府は風紀上の問題から湯女風呂をとり 剤となった。 , 彼の歴史観の主題はキリストの受プロイェシュティ Ploiesti ルーマニアプロイス Hugo preuß ( 天六 0 ー一九 = 五 ) ドイツの国法学者、政治家。ユダヤ人商人の子 つぶしたので、湯屋は自粛して男の三助にかえ難を原点とする苦悩であり、この主題は第二の南東部、プラホバ県の県都。ルーマニア平原東 自伝的小説『貧しい女』 ( 天九七 ) のなかで、苦部を流れるヤロミツア川の上流、テレアジェンとしてベルリンに生まれる。一九〇六年以降・ヘ た。当時は一般に、自家に入浴設備をもっこと ルリン商科大学教授、一〇年には進歩人民党の 川の流域にある。人口二一万五五〇〇 ( 一九八三 ) 。 は特別な富家でもなければ考えられず、下級武悩の可換性というカトリック的秘義の一変奏と ばつばっ 。ヘルリン市会議員となる。ドイツ革命勃発後、 士や庶民は銭湯を利用した。銭湯もいろいろサして深化され、評論『ユダヤ人による救い』九 ~ 一〇世紀のルーマニア人住居跡があるが、 ドイツ民主党に参加、一九年二月内相となり、 ービスしたので繁盛し、明治に至ったのであ ( 天九一 l) 、『貧者の血』 ( 一九 0 九 ) などのなかでも敷記録に現れるのは一六世紀末からで、交易都市 じようとうく えん エーベルトの委嘱を受けてワイマール憲法の草 〈稲垣史生〉衍されている。ほかに『常套句釈義』 Exégise であった。一九世紀後半、背後のプラホバ渓谷 る。↓銭湯↓入浴↓浴場 風炉ふろ茶席で釜をかけ置き、湯を沸か des ミきミミミ冫 ( 一九 0 一 l) をはじめとする数で石油が採掘され、精油所が設置されてから急案を作成した。草案では、連邦制度の改革によ からかね すための夏季用の炉。鉄、唐銅、土、木、陶磁多くの評論、怪異談的短編集『血の汗』 ( 一八速に発展した。現在、石油化学、石油採掘機る単一国家への移行が意図されていたが、大邦 - 」じき かなえ 〈松俊夫〉 製などの材質がある。古態は中国の鼎形である九三 ) 、『恩知らずの乞食』ト e ミ斗ミミ械、農業機械、建築資材、家具、皮革、繊維、の反対で修正を余儀なくされた。 だいすかいく ( 天九 0 を含む表題付きの日記八冊など。孤高食品などの諸工業が発達する。ルーマニア石油プロイスラー Otfried Preussler ( 一九一三 が、わが国に伝えられてからは、台子皆具の一 きりかけふろ ) ドイツの児童文学作家。ポヘミア地方 っとして切掛風炉 ( 釜の羽がロいつばいにかかの作家だったが、直接にはジャック・マリタン化学工業の中心地である。。フクレシュテイから に生まれる。小学校教師を勤めながら書いた モルドバやトランシルバニア両方面に向かう交 るようにつくられた風炉 ) が用いられるように夫妻や画家ルオーに、間接には・ヘルナノスやジ なった。続いて茶道の進展とともに釜の形も多ュリアン・グリーンの作品に深い影響を与えて通の分岐点でもある。一七世紀のスフント・ア『小さい水の精』 ( 一九五六 ) でドイツ児童文学賞の 〈佐々田誠之助〉特別賞を受賞し、一九七〇年から作家生活に入 〈渡邊義愛〉ポストリ教会がある。 様になり、さらに五徳が創案されることによっ どふろ たけのじようおう て、武野紹鵐のころに奈良で土風炉がつくら回田辺貞之助訳『絶望者』 ( 一九会・図書刊行会 ) フロイス Luis Frois ( 一五三一一ー九七 ) 織豊る。超現実的な題材を扱いながら、その作品は ▽水波純子訳『貧しき女』 ( 一九全・中央出版時代に日本で活躍したイエズス会司祭。その日素朴な明るさとユーモアにあふれる。『小さい れるようになり、五徳を据えて釜をかけるよう 本通信と著書『日本史』で知られる。リスポン魔女』 ( 一九五七 ) 、『小さいおばけ』 ( 一九六六 ) の「小 社 ) な口が基本となった。切掛風炉の代表は朝風 し人なり

10. 日本大百科全書 20

ふらいま キャリアー merchant carrier やプロデューサ ッシング全書』 ( 一九会・山と渓谷社 ) ▽・ 海水魚ではイナダ、シイラ、カツオ、スズキ、 ( 目玉焼き ) など用として売られている。 グレイ著、西園寺公一訳『ナチュラリスト・ ・キャリアー producer carrier がそれであ 手入れは、使用後によく洗い、熱して乾かしサバなど回遊性の強い魚を中心にかなり広い範 ブックス 2 フライ・フィッシング』 ( 一九る。独占資本主義時代に入ると、大規模産業資 ておくことで、とくに鉄板製のものは、油をひ囲に及ぶ。もっともこの釣りに向いているのは 本が運送手段を所有したり連送部門を兼営し 会・フリタニカ ) 淡水域ならサケ科の魚、海水域なら背の青い魚 いて加熱し、錆びないように気をつける必要が とい , っこともできる。フライは、水面に浮くド ある。なお、洗剤で洗うと、くばみに入りなじ プライプトロイ carl BIeibtreu ( 天五九て、生産の原料や製品の運送を行う形態が生ま ー一九一一 0 ドイツの文学者。ベルリン生まれ。れ、とくにインダストリアル・キャリアー in ・ んだ油までとってしまうので、なじませるまでライ・フライと、沈むウェット・フライに大別 dustrial carrier とよぶ。たとえば、石油資本 に時間がかかる。熱湯を使いよくたわしでこすできる。専用の鉤に、いろいろな鳥の羽を主体戦記小説『怒りの日』 (l<<ll) などで文壇に登 のタンカーや自動車会社の自動車専用船などが りながら洗う程度にとどめておくことがだいじ にして、魚の好む水生昆虫や成虫に似せたフラ場してはいたが、コンラート Michael Georg 〈宇野耕治〉 これにあたる。 である。 ^ 河野友美〉 ー一九一一七 ) の週刊文芸誌『社会』 イ ( イミテーション・フライ ) や、魚が好みそ Conrad ( 一会四 ひょうばう うなものを模索しながらっくったフライ ( ファ への協力と、自然主義を標榜する「もっとも回岡野行秀・山田浩之編『交通経済学講義』 フライフィッシング fly fishing フラ はえ ンシー・フライ ) があり、それぞれのバターン 若いドイツ」派の文学綱領となった論文「文学 ( 一九七四・青林書院新社 ) ▽地田知平著『海運 イは蠅のことだが、釣りでは釣り鉤に鳥の羽な じ 産業論』 ( 一九大・千倉書房 ) ▽前田義信著 どを巻いた擬似鉤のことで、これで魚を釣るの に名前がつけられている。 の革命」 ( 一公六 ) などの評論活動が彼の名を文 きようほう 『交通経済学要論』 ( 一九全・晃洋書房 ) このごく軽いフライを魚のいるポイントに投学史上にとどめている。短編集『悪い社会』 がフライフィッシング。日本では享保年間 ちょうぎよ かせんろく ( 一七一六 ~ 三六 ) の『釣魚秘伝・何羨録』にアユを入するには、専用のフライ・ロッド ( 竿 ) と、フ ( 一公五 ) と長編『誇大妄想』 ( 一ノ彡。 、、、 ) ま芸術創作フライへルク Freiberg 東ドイツ南部、 〈高辻知義〉カール・マルクス・シュタット県の都市。エル ライ・リール、そして専用のラインを使う。ロ にかわる実践活動を訴える。 釣る蚊鉤が紹介されているが、これもフライの ッ山脈北麓、フライ・ヘルガー・ムルデ川左岸の 一種。またヤマメ、イワナの渓流魚を釣るテン ッドとラインはバランスが必要で、対象魚に応フ一フィ " フルク Freiburg im Breisgau ーデン・ウュルテン・ヘルク標高四二〇の地にある。人口五万〇〇九八 カラ釣りの擬似鉤も同じ。しかし、欧米から日 じたラインを決めたら、それに適合した表示の西ドイツ南西部、バ ( 一九会 ) 。住民はほとんどプロテスタント。中世 本に入ってきたフライフィッシングとよぶ釣りあるロッドを選ぶのが決まりである。これを無 州の都市。ニーダーザクセン州のフライプル さお ク・アン・デア・エルべなど他の同名の都市と 以来、銀の採掘により発展し、世界最古 ( 一七六五 方は、竿とリールを使い、フライをかなり遠く 視すると飛距離も伸びない。米国釣具製造組合 までキャストして釣る点に大きな違いがある。 ( 略称の規格によるライン番号が区別して、フライプルク・イム・プライスガウ創立 ) の鉱山大学、市立鉱山博物館があるほ か、自然科学博物館、ドイツ皮革研究所なども ともいう。人口一八万二二〇〇 ( 一九会 ) 。シュ フライフィッシングに向く対象魚は、ニジマあり、これでラインを選んだら、ロッドも同じ ス、イワナ、ヤマメ、。フラウントラウトなど、 ワルツワルト山地の西麓、ライン川支流ドライある。機械、精密機械、電気、皮革、織物、陶 による同じ番号のものを選べばいし すず わけである。ただ、このときザーム川の扇状地上の標高二七八に位置す磁器の各工業が立地し、鉛、亜鉛、錫の精錬が 〈佐々木博〉 フライの大小とのバランスる。商業と地方行政の中心都市であるが、木材行われる。 0 はすみ車 も当然忘れてはならない。 加工、家具、化学繊維、電気器具、酪製品などフライホイー ろ多 こがフライ・ラインには、先端の工業も立地し、第二次世界大戦後は西方のラブライマリ・ヘルス・ケア primary 年物 建から末端まで均一の太さのイン低地への市街地拡大が著しい。西郊のカイ health care 近年の科学技術の著しい進歩と ザーシュトウール山 ( 五五七 ) 斜面で栽培されともに医学・医療も目覚ましい発展を遂げ、か 学レベル・ライン ( 表示 ) 、 会大 中心部が均一で両端が先端るブドウを原料とするワインの取引も行われっては予想もできなかったような治療も可能と なり、人々はその恩恵を受けているが、反面で に向かい徐々に細くなるダる。総合大学をはじめ、音楽大学、教育大学、 タ辺 ス周プル・テー パーライン ( 同造形芸術大学を有する大学都市でもある。ま現代医療の抱える種々の問題点が指摘されてい せんとう ュ例 (+) 、重さが先端部に集た、後期ゴシック様式の尖塔をもっミュンスタる。また、世界人口の約五分の四はこのように 、の代中しているウェイト・フォ ー教会には、一八二七年以来、上ライン地方の優れた医療を受けえないばかりか、飲料水や食 央の 中式ワード・ライン ( 同大司教座が置かれ、宗教都市ともなっている。糧さえ満足に得られない人々も少なくない。プ ライマリ・ ヘルス・ケア 0 と略す ) と 部様などがあるが、よく使われシュワルツワルト山地観光の基点をなす。 上ク は、このような現状を踏まえて医療の原点に立 ち戻り、社会正義の立場から今後の保健医療は いかにあるべきかを考え、それを実践しようと ンスを無視せず、基本的な 一二一八年ハルラッハ伯領となるが、一三六 臨イ キャスティングを身につけ年以来、とくに一六三八年から一八〇六年までする理念と活動をいう。世界保健機関 はハプスプルク家の支配下にあって、その西方 O) は「西暦二〇〇〇年までにすべての人に健 れば、軽いフライも思 , つが ムれ 一さままにポイントに入り、ね政策の拠点としての役割を果たした。第二次大康を」のスローガンのもとにの普及・推 ザ築 イ改らった魚がフライにヒット戦で旧市街は連合軍の空襲で壊滅したが、戦後進に努力している。また、一九七八年にソ連の 〈佐々本博・進藤牧郎〉アルマ・アタで開催されたの国際会議で トする。ルアーフィッシング再建された。 とともに、スポーツ性の非プライベート・キャリアー private 採択された宣言 ( アルマ・アタ宣言 ) のなか ク carrier 自己の運送需要のために、自ら所有に、の理念と定義は明確に示されてい 常に高い釣りである。 3 膨 ぎじ イ 擬餌 〈松田年雄〉する運送手段によって運送を行う自己運送人をる。それによれば、の条件として、①科 9 ラ 学的で実際的な方法と技術の推進、②開発の程 4 さす。歴史的には、中世以降のマーチャント・ フェ回芦沢一洋著『フライフィ さお せいろく ぐるま