ふえると ファヤルド 66 。 W プエルト 68 劣 / プエルト・リコ島 共和国 / アグアディ / 峡 マヤク主ス 000 338 / ・芻ーーサン・ジ、マ グアヤニヤ , 、ン ・リコ 北大西洋 サ / ・ファン アレシーボ バヤ 1 : 5 , 000 , 〇 00 プエルト・ラ・クルス Pue 「 (0 la C 「 uz 都はサン・ファン。プエルト・リコとは「豊か南斜面ではサバンナの植生がみられる。 〔歴史〕一四九三年にコロンプスによって発見 へネズエラのカリブ海岸にあな港」の意味である。 南アメリカ北部、。 る港湾都市。アンソアテギ州に属し、人口八万〔自然〕プエルト・リコ島は東西一六〇キ。、南され、一五〇八年、ポンス・ド・レオンが植民 北六〇キ。で、その約七五 % は山地と丘陵地であ地を建設しスペイン領となった。原住民のアラ 一八〇〇 ( 一九八 0 ) 。第二次世界大戦前は小漁村 ワク族はスペイン人のもたらした疫病やサトウ にすぎなかったが、戦後、オリノコ油田の原油る。島を東西に走る中央山脈は、イスパニョー ラ島の中央山脈の延長部分とみなされ複雑な地キビ・プランテーションでの重労働によってほ の積出し港として急成長した。大型タンカーの とんど絶滅し、それにかわる労働力として、一 入港が可能な水深の大きい良港をもつ。二つの形を示す。最高峰は中央部のプンタ山 ( 一三三八 ) 。島の北東部には石灰岩からなる丘陵性の五一三年にアフリカから黒人奴隷が導入され 精油所がある工業都市で、商業的にも州都バル た。スペイン植民地の時代は、サトウキビとコ 、北鄂には幅の狭い沿岸平野が広が セロナ ( 西方約二〇キ。にある植民地時代からの山地があり ーヒー栽培が経済の基盤であった。一八九八年 都市 ) をしのぐ発展を示している。〈松本栄次〉る。 気候は熱帯海洋性を示し、一般に温和であのアメリカ・スペイン戦争の結果アメリカ領と 。フェルト・リコ puerto Rico 西インド 諸島、大アンティル諸島東端にあるアメリカのる。首都サン・ファンの平均気温は一月二四度なり、一九一七年にはアメリカの準州となり、 住民もアメリカの市民権を獲得した。四六年に 自治領。アメリカのフロリダ州マイアミの南東 0 、七月二七度 0 で、年較差はわずか三度 0 に は一部の自治権が認められ、知事の公選も行わ 約一六〇〇キ。に位置し、プエルト・リコ島のほすぎない。年降水量は地域によって異なり、 かモナ島、ビエケス島、クレプラ諸島からな東風を受ける北部では一五〇〇ミリ、風下にあたれるようになった。五二年に自治憲法を制定 し、アメリカの自治領 ( 自由連合州 ) となっ る。西はモナ海峡を隔ててドミニカ共和国、東る南西部では四〇〇ミリ程度で、雨は五月から一 た。その後、プエルト・リコ独立運動やアメリ はバージン海峡でバージン諸島に接し、北は大一月にかけて多い。雨量の多い東部の山地では 西洋、南はカリブ海に面する。面積八八九七平熱帯雨林となっている所もある。しかし、標高力の州への昇格運動があったが、現在でも自治 八〇〇以上の高地と、雨量の少ない中央山脈領のままである。 方キ。、人口三四〇万四〇〇〇 ( 一九会推計 ) 。首 光め み防 富を ? 跡襲 史の の賊 代海 地塞 民城 植ロ とモ 毎レオ るエ 茂る のあ ャロっ女 入、る ンの ア港っ フるン斤を あア ンでフ 0 は サ名・ 2 た 都有ンら巻 首てサか葉 ①し②年③ プエルト・ 年齢別人口構成 産業別就業者人口 ( 1985 年 , % ) 農業・林業・漁業 4.2 ー 13.9 電気・ 80 歳ー 1980 年男 75 ー 79 ガス・ 70 ー 74 鉱業・水道業 65 ー 69 採石業・ 1 . 2 50 ー 64 55 ー 59 製造業 50 ー 54 総数 45 ー 49 40 ー 44 967 000 卸・小売・ 35 ー 39 地域・ ホテル 30— 34 社会・ 25 ー 29 個人サービス業 20 ー 24 1 5 一 1 9 32.6 建設業 IO ー 14 金融・保険・不動産業 2.6 運輸・通信業 注 : ISIC 大分類 , 「 ILO 労働統計年鑑」による その他 23 . 0 15 万人 1984 年「世界人Ⅱ年鑑」による 川 9
ぺいちゅ の停戦後もアジアの冷戦構造を規定する決定的 もとより、この間、一九五五年八月にワルシ可能になる背景がすでにつくられていたのであ七三年二月には米中双方が相互に連絡事務所を な意味をもったのであった。 ャワで第一回米中大使級会談が開かれて以来、った。同年六月には対中貿易制限のさらに大幅 設置することで合意した。 こうしたなかでアメリカの冷戦政策は、かの この米中会談は七〇年二月まで計一三六回にわな緩和が実施された。こうして対中関係改善へ 米中関係のこのような現実主義的な進展は、 「中ソ冷戦」時代のアジア情勢に絡む対ソ関係 「ダレス外交」に象徴されるように、共産主義たって断続的に開かれてきた。そこには米中対のアメリカ側のシグナルは一九六九年後半以 の撲滅という「反共十字軍」の思想を背景にし決の過程で、全面戦争への危険を相互に抑止し来、相次いで発せられていたのであった。 への考慮が米中双方、とくに中国側に働いてい て展開され、そのようなイデオロギー的使命感ようとする「理性」と相互の畏敬の念が存在し さらに米中接近の背景として無視できないのたことはいうまでもなく、米中接近のプロセス しつか に支えられた世界政策として展開されていっていたことも否めないところであり、一定の外は、アメリカの膝下の国連の場における中国代は当時の中国がソ連の脅威をいかに深刻に感じ た。この場合、アジアにおいては「中国封じ込交チャンネルが細々と脈打ってきてはいたので表権問題が、一九七〇年秋のカナダの中国承認 ていたかを如実に示したのであった。 め政策」がその最大の政策目標になったことはあった。この米中大使級会談の継続は、やがて以来急ピッチで変化し始め、中国の、中華人民 このような状況のなかで、アメリカの世界戦 いうまでもない。一九五八年夏の台湾海峡危機六九年七月の「グアム・ドクトリン」によっ 共和国としての国連への復帰の可能性が著しく 略は、一九七五年一二月のフォード大統領によ は、米中対決の重大なピークでもあった。 て、アメリカの中国政策、アジア政策が大きく 高まってきていたことである。周知のように、 るいわゆる「新太平洋ドクトリン」に明白に示 ・大西洋地域に 中国の側は、アメリカ帝国主義の打倒を対外転換したのち、それを米中接近へと導いてゆく 七一年一〇月の国連総会でのアルバニア決議案し出されたように、ヨーロッパ 政策の最優先順位に置き、やがてベトナム戦争うえでやはり重要な意味をもったのである。 可決によって、ついに国連への中国の参加が決関しては、米ソ間のデタント戦略を行使しつ しわゆる「中間 に直面した一九六〇年代には、、 〔米中関係の転換と現在〕一九七一年七月の一一したのであった。 つ、そうした戦略の優位を確保するためにも、 地帯論」によって、アジア、アフリカ、ラテンクソン米大統領訪中決定は、翌七二年二月の米 一方、一九六〇年代後半の文化大革命の混乱アジア・太平洋地域に関しては、米・日・中の ト一フンス・・ハシフィック・コアリション アメリカ地域の民族解放闘争を主軸とする反米中首脳会談として実を結んだ。この劇的なハプと激動をいちおう収拾した中国の側に関して「太平洋横断的連携」を強化しようとする一一元 は、六九年夏の中ソ国境衝突による中ソ関係の的な世界戦略へと転じたのであり、この戦略に 統一戦線の形成を主導し、ニクソン訪中が決定ニングの背景には、中国をこれ以上国際社会か するほば一年前、七〇年五月の毛沢東声明「全ら閉め出しておくことの理不尽を考え直そうと 深刻な危機以来、周恩来総理のリーダーシップ中国が応じたことによって、ここに国際的な対 世界の人民は、団結してアメリカ侵略者とそのする世界的な潮流があり、ベトナム戦争によっ のもとで対米接近への政策転換が内部的に進んソ戦略体制としての反「覇権」連合は明確な輪 あらゆる手先を打ち負かそう」に至るまで、明てアジアでの敗北を身をもって体験しつつあつでいったことをみるべきであろう。七一年九月郭を形づくったのであった。 りんびよう 米中接近の当然の帰結として、米中両国は一 確な対米対決路線を打ち出していたのである。 たアメリカが、中ソ対立に悩む中国との共存をの衝撃的な林彪異変による軍の指導権の後退 は、単に内政上の角逐にとどまらず、米中接近九七九年一月一日に国交を樹立し、アジアに残 真剣に求め始めたという、戦略的な変化があっ 中全。と統 たことはいうまでもない への深刻な代償としての意味をもっていたこと された戦後の重大な外交懸案は、ここに至って た席大 換え主ン が明らかになっている。こうして中国自身も、 一挙に決着することになった。カーター米大統 こうして、一九五〇年代が米ソ冷戦時代、六 へ転与東ソ月 近のを沢ク 2 〇年代が米ソ共存と多元化時代であったとすれニクソン大統領招請という衝撃的なドラマの一領は、七八年一二月、米中国交樹立に際しての 鍍撃毛ニ年 係ら衝てる 声明のなかで、「過去数十年間、米中間は疎遠 ば、まさに七〇年代は、米中共存と国際政治の方の演出者であったのであり、アジアからの 関かのにしす 中立係界中見 多極化の時代になるであろうとの展望がいよい 「アメリカ」の撤退が本格化することを読み取な間柄だったが、それ以前はアメリカ人と中国 米対関世訪会領 よ現実化し始めたのである。ニクソンーキッシ った中国自身のナショナル・インタレストも、人は友情の長い歴史をもっていた。われわれは きずな この過去の絆の一部をすでに再構築し始めてい ンジャー路線が、こうした世界的潮流をかなり米中接近を選ばせたのであった。 読み込んでスタートしたものであることは、一 ところで、米中接近のドラマにおいて、米中た。いまや、急速に発展している両国関係は、 九六九年一月のニクソン大統領就任演説と、就双方が、台湾問題の解決を大きなイシューにし外交関係の樹立を可能にする骨組みを必要とす てきたことはいうまでもない。そして一九七一一るに至ったのである」と述べていた。米中国交 任直後の記者会見ですでに暗示されていた。 ここに「グアム・ドクトリン」 ( 一九六九年年二月のニクソン訪中による米中共同声明の樹立は、こうした米中関係史の画期であった 七月 ) が出された背景と理由があったのであ ( 上海コミュニケ ) が明白に示すように、このばかりか、第二次大戦後のアジアにおける国際 り、しかもこの「グアム・ドクトリン」以後、 問題については米中双方ともかなり慎重であ秩序を規定した、いわゆるヤルタ・ポッダム体 しゅうえん ニクソン政権は、中国渡航制限緩和、中国物産り、長い時間をかけて問題を解決しようとして制の終焉をも物語っていた。 とうしよう いたことが明らかであった。中国は、在台湾米 米中国交直後の一九七九年一月下旬、鄧ハ 品購入制限緩和、対中国禁輸の一部緩和、第七 艦隊の台湾海峡常時パトロール廃止など、早く 軍の即時撤退や米華防衛相互援助条約の即時廃平訪米が実現し、米中関係はさらに緊密化しょ も六九年下半期には次々と対中関係改善への棄を要求しなかったし、アメリカ側は、中華人うとしたが、八一年初頭の米レーガン政権の出 「静かな外交」を展開し、こうした経緯ののち民共和国が中国の唯一の合法政府であるとする現は、レーガン大統領とその側近が本来「親台 に七〇年一月、米中大使級会談がワルシャワで中国側の原則的な前提からすれば、それとは論湾」的性格をもっていたこともあって、アメリ 再開されたのであった。同年四月末のアメリカ理的に明らかに矛盾する「一つの中国、だがす力議会が米中国交樹立の代案として七九年三月 軍のカンポジア進攻作戦によって米中大使級会 ぐにではなく」 One China but not now と に圧倒的多数で可決した「台湾関係法」に基づ く台湾への武器輸出問題をめぐり、中国側は一 談はふたたび中断したが、 アメリカは、同年三 いう政策をついに譲らなかったのである。こう 月に中国への旅行制限の緩和をさらに拡大してしてアメリカは、ともかくも当面は「古き友人時、レーガン政権の対中政策にかなりのいらだ おり、やがて翌七一年三月の旅行制限全面撤廃たち」を完全に見捨てることなく、実質的に米ちをみせた。しかし対ソ戦略上、中国への武器 カウンター・ウ に至って、同年四月の「米中ピンポン外交」が中間の懸案の解決へと動くことになり、やがて供与や車事援助によって中国を対ソ「対抗 5 3 シャンハイ
ぺいそか 〔冷戦期〕第二次大戦後、一一大超大国となった 陸・海・空で両国間に激烈な核軍備競争が継続が急激に高まり、赤狩りとフレーム・アップ事に早くもソ連リトビノフ外務人民委員 ( 外相 ) を招き、関係打開の交渉を開始した。こうして米ソは、世界の多くの地域で激烈な冷戦と競争 件が相次いだ している事実に変わりはない。 に従事した。戦後米ソの勢力圏は要するに、ヤ 、ルーズベルト政権は、①アメリ ロシア革命後初期の米ソ関係について見落と三三年一一月 〔ロシア革命から第ニ次世界大戦勃発まで〕ロ ルタ会談などの結果であるよりは、第二次大戦 シア革命以前からアメリカ・ロシア関係はアジすべきでないのは、両国政府関係についてはとカ国内でコミンテルン活動を行わないこと、⑦ 旧債務を履行すること、などをソ連側に承認さ終結時における軍事力と占領との結果の反映に ア、とくに満州 ( 現中国東北三省 ) と朝鮮半島もかく、アメリカの多くの知識人、青年、技術 ほかならなかった。 で利害対立の関係にあったが、重大化するほど者、労働者が革命に共鳴して、初期社会主義建せたうえで国交関係樹立に踏み切った。しかし ますドイツは、ソ連と米英仏との占領の結果 ではなかった。一九一七年四月、アメリカの第設に物心両面で協力した事実である ( ロシア革アメリカ国内の不況にもかかわらす、三〇年代 しんかん に基づいて二つのドイツに分割され、ソ連占領 一次大戦への参戦で両国はともに連合国側にた命に関する古典的名著『世界を震撼させた十日を通じて米ソ貿易は期待するほどには進展せ 間』のジョン・リード、後の全米自動車労組ず、アメリカは日本・ドイツのファシズム膨張下の・ヘルリンだけがきわめて不自然に四国共同 ったが、七か月後にロシア革命による新ソビエ ト政権の大戦離脱、ドイツとの単独講和によ会長ウォルター・ルーサー、天才的舞踏家政策への対抗上、三七年以降は軍拡政策に向か管理のもとに置かれ、今日に及んでいる。一九 四八年のベルリン危機は、その最初の発現であ イサドラ・ダンカンなどはそのうちの著名人の り、アメリカを含む連合諸国 ( 英・仏・日ほ かなり った。朝鮮半島についても同様で、米ソの南・ 第二次大戦まで数年間の米ソ関係は、 か ) と社会主義ソ連との関係は厳しい敵対関係一部にすぎない ) 。しかし、第一次大戦後一九 北占領が朝鮮の分割をもたらした。四六年三 に一変した。翌一八年七月、連合国はシベリア二〇年代に最大の債権国としてアメリカが空前複雑であった。ヒトラーのファシズム台頭のな 月、イギリスのチャーチルは有名なフルトン演 の繁栄を祝福していた間は、米ソ関係を打開すかでソ連は英仏などとの集団安全保障を呼びか にいるチェコ兵救出の名目で、実際には反革命 ゅうわ 軍援助とソ連領土の一部占領を目的として対ソる条件は熟さず、主要な資本主義諸国がソ連をけたが、英仏はヒトラー宥和政策をとり続け、説で「鉄のカーテン」の語を初めて用い、翌四 への不干渉政策をとって七年三月、トルーマン・ドクトリンの発動によ 軍事干渉を開始した。アメリカのウイルソン大承認したあとも、アメリカだけはソ連不承認のアメリカはヨーロッパ いた。三九年八月、ソ連は反ナチスの原則を便って、アメリカは内戦下のギリシアとトルコを 統領は。ヘルサイユ講和会議で民族自決の原則を原則をとり続けた。しかし二九年秋に始まる大 ちゅうちょ 防衛線として両国への援助計画を開始し、ヨー 主張する立場からもこの干渉計画を躊躇した恐慌の深まるなかで、アメリカでも初めてソ連宜的に一時棚上げして、孤立化を避けるためヒ ロツ。ハにおける冷戦が本格化した。同年六月、 トラー・ドイツと不可侵条約を締結、翌九月ド が、日本軍の干渉への対抗上シベリアとべロル市場に過剰生産のはけ口を求める世論が高ま マーシャル米国務長官はヨーロッパ復興援助計 り、とりわけソ連の第一次・第二次五か年計画ィッが第二次大戦を引き起こすと、ソ連はポー シアに出兵して占領した。だが、白衛軍の敗北 につれて出兵の根拠もなくなり、アメリカ国内の成功とその恐慌免疫性が、アメリカにソ連不ランド東部に侵入してドイツとともにポーラン画 ( マーシャル・プラン ) を公表、ソ連・東欧 でも撤兵の世論も大きくなったため、他の国々承認政策を改めさせる気運をつくった。三二年ドを分割、さらにドイツのノルウェー占領に対の共産主義に対抗する資本主義西欧の再建と統 合 ( 後のにアメリカの指導で着手した。 の干渉軍よりも早く二〇年に米軍の撤兵を完了一一月フランクリン・・ルーズベルトは大統抗して、ソ連はフィンランドに侵攻した。その 間アメリカはしだいに連合国側に傾斜し、国内それは四九年の北大西洋条約機構 (Z<+O) した。しかしアメリカ国内では反ソ・反共旋風領選挙戦に勝利すると、大統領に就任する以前 では下院に反ソ・反共の非米活動委員会を設置結成によって、軍事的にも裏打ちされた。ソ連 も対抗的に東欧諸国と通商援助協定を結び、四 し、英仏を支援し、フィンランドを支援した と が、四一年三月、アメリカは武器貸与法で本格七年には戦時中の連合諸国との協力のため解散 的に英仏援助を開始、同年六月独ソ開戦となるしていたコミンテルンをコミンフォルムという 長大 記米 と、ソ連も連合国側としてアメリカの支援を受形で再建し、さらに四九年にはソ連東欧経済相 連ガ 互援助会議 ( 通称コメコン ) を結成して社会主 けるよ , つになった。 レ 〔第ニ次世界大戦と米ソ〕日本の真珠湾攻撃義陣営の結束を図った。それはやがて五〇年二 フる 月の中ソ友好同盟条約、またに対抗し ネす で、米ソは英仏などとともに完全に連合国とな しよう ジ名 り、アメリカは連合国の兵器廠の役割を果たすた五五年のワルシャワ条約機構へと発展した。 レ署 トルーマン・ドクトリンの発動でアメリカ ことになるが、アメリカの対ソ援助のサポター 約 日 し条 ジュ、ヨーロッパにおける第二戦線の設定の時は、朝弉の分割と沖縄の持続的軍事支配、朝 8 米で 月 訪ス 期、さらに戦後世界秩序の構想などをめぐり、戦争 ( 一九五 0 ~ 五三 ) 、日本の単独占領に基づく単 , 日ウ かハ米英とソ連との関係は、カイロ、テヘラン、ダ独講和と日米安保条約 ( 一九五一 ) 、アンザス な月ト 8 ZNDT) 条約などを結成、インドシナ戦争 ンバートン・オークス、ヤルタ、ポンダムなど さ 6 イ の年ワ ( 一九四六 ~ 五四 ) への実質介入と東南アジア条約機 の巨頭会談にもかかわらず円滑には運ばず、結 代ホ長 時四 局は戦後の「冷たい戦争」を伏在させたまま戦構、一九五四 ) と翌年の中東条約機構 セント 。し書 ト領意連争終結を迎える結果となった。とくに対日戦終などの結成によって、対ソ連包 ン統合ゾ タ大に 結前のポッダム会談では、ルーズベルト急死の囲網を完成する。中国革命後は、これに対中国 デ米約フ あと反ソ的なトルーマン大統領が原爆開発の成封じ込め政策が加わった。 ン条ョ アメリカの対ソ包囲網を突破しようとしたの ソ廃チ こ臨み、一方スターリンも、東 功にたって会談し ク全 欧諸国をドイツ軍から解放した実績のうえに会が、一九五七年、アメリカ本土を直撃しうるソ 係る z ゴ こ臨んだため、戦後の冷戦はむしろ必然の成連の大陸間弾道弾の実験成功であ 関すーと談し ソ談〕 ) った。これより先、ソ連は、アメリカより四年 8 り行きであった。 米ぼ佑 つつ ) 0 ナ
った。この一点をとってみても、日本人の対中続き、四六年前半にはいわゆるマーシャル「国できるだけ問題を少なくしようと考えていたの すでに東西冷戦のなかで、一九四九年八月の ゅ けんせい ソ連の原爆実験成功によって「原爆独占の喪 ち一国態度とは大きく異な 0 ていたといわなければ共調停」工作が積極的に行われたが、それは結であり、むしろ当面の敵、ソ連に対する牽制の ならない。 局失敗に帰し、中国共産党の反米路線は徐々に意味からも、毛沢東指導下の中国共産党政権を失」を余儀なくされたアメリカは、ここに四九 〔第ニ次大戦直後の米中関係〕日本の中国侵略明確化していった。四六年六月、毛沢東はアメ中立化し、それと一定の関係を維持しようとし年一〇月の中華人民共和国の出現に伴う「中国 べ リカの対華軍事援助に関する声明を発表して強ていたのであった。 の喪失」、五〇年二月の中ソ友好同盟相互援助 を抗日民族統一戦線の結成によって打ち砕いた 一方、アメリカ側も結 一方、中国共産党の側は、こうしたアメリカ条約の締結にみられた「中国チトー化の喪失」 中国では、一九四五年八 ~ 一〇月にアメリカの硬な対米抗議を行い、 ぎまん もうたくとう しようかいせき の政策の「欺瞞性」を絶えす指摘しており、毛という「三つの喪失」に直面して、そのアジア 仲介で国民党の蕗介石と共産党の毛沢東との局、激化する国共内戦に対しては、国民党側に しゅ・つは〕い 重慶交渉が行われたが、結局、国共は分裂し、膨大な軍事援助を行うことになっていった。 沢東も一九四九年には、一連の論文でアメリカ政策の根本的な再編にとりかかり、従来ヨーロ 早くも四六年夏ごろから国共内戦が再発した。 しかし、ここで注目されることは、当時アメへの厳しい批判と警告を発してはいた。しか ツバに局限していた「封じ込め政策」をアジア し、すでにみたように、第二次大戦末期以来の においても適用しようと意図したのである。五 そうしたなかで、アメリカはいち早く「国共調 リカ国内においても、その対華政策については 論争と「自己批判」が交錯しつつあり、対華政一時期、中国共産党の側からも対米関係緩和へ〇年四月の国家安全保障会議文書「 Z(DO— 停」に名を借りた対華政策を打ち出していっ の態度がみられたことに続、 して、一九四五年一 」は、「中国チトー化」への期待に基づく中 た。毛沢東らの中国共産党は、このアメリカの策における一種の分裂と二重構造が存在したこ ズムの一環とし 対華政策に対して、第二次大戦中の援蒋政策とであった。とくに中国を実地に視察した特使月、毛沢東と周恩来は、延安に滞在中の米軍軍ソ離間策から、反共グローバリ ( 中国共産党と対立していた蒋介石政権支援のや国務省の外交官たちの多くは、援蒋政策の必事視察団を通じてルーズベルト大統領あての秘ての「中国封じ込め政策」への政策転換を物語 要を認めつつも、国民党の腐敗と無能ぶりに驚密書簡を送り、訪米の希望を表明したことがあっていたが、同時にアメリカ国内ではマッカー 政策 ) に連なる危険をみいだしていたことはい ったことも、今日、明らかにされている。 うまでもない。 き、アメリカの対華政策の矛盾と問題点を感じ シズムが台頭し、中国共産党に理解を示す国務 だが、アメリカに対するこのような警戒にも取っていた。 一九七三年一月、米上院外交委員会 ( フルプ省の「スティルウエル・グループ」やリべラル こうした状況のなかで、一九四九年八月五日 ライト委員長 ) は、一九四九年から五〇年にか な中国学者が「容共派」として職を追われてい かかわらず、アメリカとともに連合国の一員で あった中国においては、中国共産党の対米認識にアメリカ国務省が発表した『中国白書』 The けての米中関係の調査研究報告を公表したが、 った。そうしたなかで一九五〇年六月、朝鮮戦 ばつばっ も、当時はまだ全面的に悪化していたわけでは C き、ミ P は、まさに画期的な歴史それによると、トルーマン政権は当時、あと一争が勃発、三八度線を越えて北朝鮮軍が急激に 的意義をもつものであった。『中国白書』は一歩のところで中国を承認するはずだったとの結南下してきたことは、アメリカのアジア政策、 なかった。たとえば毛沢東自身、一九四四年八 八四四年の望厦条約から書き起こし、とくに最 論が下されている。しかも中国共産党側もこ , つ中国政策を最後的に転換させることになった。 月に延安を訪れた米軍事視察団に対して、「ア したアメリカの出方に関心を払い、四九年五 ~ つい半年前に提起された「トルーマン声明」の メリカは単に中国の経済開発を援助するのにも近年の一九四四年から四九年までの五年間の対 きゅうきょ っともふさわしい国というだけではなく、アメ華政策のすべての問題を、膨大な量の外交機密六月、当時南京に駐在していたスチュアート大精神は完全に捨て去られ、急遽、台湾の蒋介 えんきよう 使と同大使の燕京大学教授時代の教え子、黄石政権支援に再転換し、第七艦隊を台湾海峡に リカは中国と完全に提携してゆける唯一の国で文書や公表資料とともに編纂した文書であった もある」と語っている。一九四五年四月の中国共 が、それはいわば近一〇〇年来の米中関係史の華 ( 中国共産党軍事管制委員会外事処長、後の進駐させ、ついでアラスカ、アリューシャンか 産党七全大会の政治報告でも毛沢東は、「われ総括であり、当面のアメリカの失敗についての中国外相 ) との秘密交渉が行われていたのであら、日本、韓国、沖縄、台湾、フィリピンに及 われは米英両大国、とくにアメリカが日本侵略「自己批判」と「弁解」の書でもあった。白書った。もっとも、このときの米中交渉はアチソぶ、いわゆる反共防衛線を形成したのである。 おうりよく - 一う 一方、中国は一九五〇年一〇月、鴨緑江を 者に反対する共同の事業において果たした偉大を大統領に提出するにあたって、アチソン国務ン国務長官の指一小によって最後的に拒否され、 まったく同時期に毛沢東も結局は「向ソ一辺越えて人民志願軍を北朝に派遣すると同時 な努力、および両国政府と両国人民の中国に対長官は、「アメリカに頼って戦争に勝ち、自ら 倒」宣言を発して最終的にアメリカから離反し に、抗米援朝と台湾解放をスローガンにした全 する同情と援助は感謝に値するものと考える」の国内的優位を保つことのみを願っていた」と ( 毛沢東「連合政府について」。なおこの発一一 = ロ部賰介石政権を厳しく評価し、「中国における内ていったのであるが、それらの事実は戦後米中国的な反米闘争を展開していく。 ここに、一九七一年七月のドラマチックな米 分は後の『毛沢東選集』第三巻への収録に際し戦の忌まわしい結果は、アメリカ政府の統制の関係史におけるきわめて意味深い断章であり、 中接近の幕開きに至るまで、米中対決の原型が て削除された ) と述べていた。そして一貫して範囲を超えていた」と述べて、アメリカの対華歴史の交差だったのである。 〔米中対決とアジアの冷戦〕これまでにみたよ完全に形づくられたのであった。 ーレ政策の誤りを認めたのであった。 援蒋政策の推進者であったバトリック・ ところで、周知のようにヨーロッパでは、一 そして、中華人民共和国の成立、蒋介石政府うな曲折ののちに、中国側は一九四九年七月一 ー米大使の「連合政府計画」についても、四五 年七月の時点では、まだ留保的な発言を行っての台湾移転という歴史の転換をアメリカが目撃日、毛沢東が有名な論文「人民民主主義独裁に九四七年三月の「トルーマン・ドクトリン」、 した直後の一九五〇年一月には、トルーマン大ついて」のなかで、「向ソ一辺倒」を高らかに同年六月のマーシャル・プランから四九年四月 、た。しかも、四五年一二月にモスクワで開催 の北大西洋条約機構 ( Z<+O ) 結成に至って、 統領が声明を発し、「アメリカ政府は、中国の宣言し、以後徹底的に親ソ路線をとってソ連に された米英ソ三国外相会議が、中国問題につい 対ソ封じ込め体制がすでに完成しており、一 て、「中国の内政に干渉しない政策を堅持する」内紛にアメリカを巻き込むような道を歩むつも賭けたのであった。やがて翌五〇年二月、中ソ 旨の協定を結んだことは、中国共産党の対米観りはない。同様にまたアメリカ政府は、台湾の友好同盟相互援助条約が締結されるに及んで、方、スターリン指導下のソ連は、すでに四七年 けんでん 中国軍隊に軍事援助や勧告を与えるつもりはなアメリカ側も結局、表向き喧伝された「中ソ友一〇月にコミンフォルムを結成することによっ をかなり緩和させたのであった。 い」と述べ、同時に「台湾は中国の一部であ好と一枚岩の団結」の神話にとらわれ、中ソ友て、やがて五五年五月のワルシャワ条約機構の しかし、ここにみたような中国共産党側の対 り、その帰属は中国が決定すべきである」と言好同盟相互援助条約の締結は「中国の喪失」に形成に至る東西冷戦体制を構築していった。 米認識もまもなく変化する。タカ派のハーレー ヨーロツ。ハの急テンポな動きに比して、一九 大使にかわり、ハト派と目されるマーシャル元明したのである。つまりアメリカは、すでにヨ次ぐ「中国チトー化の喪失」だと断じ、やがて ーロッパを舞台にして展開されていた米ソ冷戦朝戦争からベトナム戦争に至る、周知の米中四〇年代後半のアジアはまだまだ末定形であっ 帥がトルーマン大統領特使として中国を訪れ、 たが、中ソ同盟の確立と朝鮮半島の熱戦は、そ という深刻な現実のなかで、アジアについては対決の構造を形成していったのであった。 一九四六年一月の国共停戦協定を仲介したのに へんさん
っ 江崎玲於奈 ( トンネル効果発引 見 ) バーディーンら ( 超伝導の電 子対理論 ) z o 工作機械 〇最初の人工衛星スプートニク号、 ダイオード ( 江崎玲於奈 ) 、固体メーサー〇大陸問弾道兵器 ( ソ連 ) アメリカ航空宇宙局 ( Z<O< ) 設立〇 ていた。 「物理学は高度に発展した、ほとんど完成の域 に達した学問であり、エネルギー保存の原理の げつけいかん 発見によって月桂冠を頂くようになったいまと なっては、それが最後の安定な形をとるのもほ 自動化ライン ( ソ連 ) 〇 メーヤー ( 気体の凝引 ど遠くはないであろう」。これが当時の物理学 第ニ次世界大戦〇ー〇縮現象の統計力学 フィードバック理論 ( ポーデ ) 〇的研究 ) 者たちにほば共通した考えであった。 レーダー ( アメリカ ) 〇カビッツア ( 超流動田 実際、実験的にますます声価を高めつつ、理 現象 ) オートメーション〇 ( フォード自動車 ) 論的に整備された美しい形式を誇っていた力学 ランダウ ( 液化へリウム の量子流体理論 ) をはじめ、輝かしい数々の成功と統一的な原理 ドイツの科学、技術の戦争動員〇 圧電性強誘電体チタン貶 センチ波レーダーがイギリス戦闘機 @ で人々を魅了した熱力学、不可逆性をも解明し 酸バリウム発見 に装備される てみせた気体の運動学的理論、さらには電磁気 弾道計算のために電子計算機発〇ー⑩ 達 ( アメリカ ) 学の諸法則を一つにまとめあげたマクスウエル ーセル、プロッホ ( 水素原 大型リレー式計算機マーク—〇子核の核磁気共鳴発見 ) シンクロトロン加速の提案 ( マクミラン ) 〇 の場の理論、それによる光の本性の解明、ヘル トランジスタ〇 八 >0> の電子〉ルクロトロン〇 ツによる電磁場の検証と、力学・熱学・電磁気 ウィーナー「サイバネティックス」、〇 シャノン ( 情報理論 ) 学の全分野にわたって、理論・実験のいずれの バトラー ( 新粒子の発見 ) 七〇 >0> の電子シンクロトロン ( ーレンスら ) 〇ロチェスター がドレレっ 点接触型トランジスタ ( ショックレー ) 〇 六 za.'> のスタンフォード・マーク—ライナックハンソンら ) 〇絽ガードナー、ラッテス ( 中問子の人工創生 ) 面でも物理学は揺るがぬ牙城を築き上げたかの ネール ( 核磁気共鳴と化学的 / 三ニ 0>0> の電子シンクロトロン ( マクミラン ) 〇的湯川秀樹 ( 非局所場理論 ) 結合の形態との関係指摘 ) ようであった。 三五 (Q)> のマークⅡライナック ( スンブオⅡド ) 、〇 ⑩「アメリカの水爆製造反対」声明 ( ア 〇ー〇朝鮮戦争 しかし、このようないちおうの完成は、同時 インシュタイン ) 三〇〇のペータトロン〇 / ジョリオ・キュリ 、フランス原子力 フェルミ、アンダーソン ( 最初の共鳴状態の発見 ) に崩壊の芽を含むものである。物理学の発展が 委員会から罷免される ニ・ニの陽子シンクロトロン ( プルックへプン国立研究所 ) 〇 アメリカ大統領トルーマン、朝鮮戦争頂点に達したかのようにみえたちょうどこのお あらし 〇トランジスタ利用計画開始、子装置付き兵器開発 ( アメリカ ) で原爆使用もあると発言 泡箱・放射箱 り、物理学に変革の嵐が吹き始めた。いくつか 〇電子制御フライス盤 武谷三男、中村誠太郎、佐々木宗雄 ( 核力の方法論 ) 〇熱核爆発 ( アメリカ ) の分野の間でそれとなく現れていた矛盾が、境 〇マイクロ波の誘導放出 ( タウズら ) 泡箱 ( グレーザー ) 〇 〇乾性水爆 ( ソ連 ) 界領域を通じてしだいにはっきりしてきたので 一・ニ (Q)> のコーネル <U 電子シンクロトロン ( ウイルソンら ) 〇 ふくしゃ 〇原子力発電所 ( ソ連 ) ハイゼンベルク ( 非線型場理論 ) 〇集積回路 ( ダイマ↓ 〇ビキニ水爆実験、ノーチラス号進水ある。熱学と力学の境界の「熱輻射論」、力学 レーンズ、コワン ( 中性徼子の確認 ) ( アメリカ ) と電磁気学の間の「運動物体の電気力学」が、 アメリカ原子力委員会特別委員会、 六・ニ UO> の陽子シンクロトロン ( ローレンス放射線研究所 ) 〇 オッ。ヘンハイマーを危険人物と認定 量子論と相対性理論への糸口をつくる。 中野董夫、西島和彦、ゲルマン ( 素粒子の分類選択則 ) 〇原子力平和利用国際会議 ( ジュネー セグレ、チェンバレン ( 反陽子の発見 ) しかしもっと直接のきっかけは新しいさまざ 坂田昌一 ( 素粒子の複合模型 ) まの現象の発見であった。陰極線の発見、 X 線 楊振寧、李政道 ( パリアイ非保存の検証 ) 〇発電用軽水炉 ( アメリカ ) の発見、さらに続いておこったウラニウム放射 ホフスタッター ( 核子の電磁構造の発見 ) 〇第一回バグウォッシュ会議 放射箱 ( 福井崇時、宮本重徳 ) 〇 能からラジウムなど放射性元素の発見は、それ 一〇 c-5Q)> のシンクロファゾ + ロン ( ドブナ ) 〇 までの物理学とは違った新対象を準備した。陰 アルフア・ヘータガンマ ニ八 UO> の <0 陽子シンクロトロン ( ) 〇 極線の本体としての電子や、・日・了線が 引呉 ( バリティ非保存の検証 ) = 三 UO> の陽子シンクロトロン ( プルック ~ プン国立研究所 ) 〇 川修三、クライン、山口嘉夫 ( 素粒子の対称性 ) 解明される過程で、物理学はミクロ ( 極微 ) の 一・ OUO> のマークⅣライナック ( スタンフォード ) 〇 〇アイダホ国立原子炉試験場、 U)-J 領域ーー原子の世界へと踏み込んでゆく。これ 一ニ五の陽子シンクロトロン ( アルゴンヌ国立研究所 ) 〇 炉暴走事故 ( アメリカ ) 六 UO> のケンプリッジ <U 電子シンクロトロン〇 ⑩大気圏内・圏外、水中核実験停止条 らの領域でいままでの物理学の法則がそのまま プルックへプン国立研究所 ( ミュー中性徼子発見 ) 約 ( 米・英・ソ ) 成り立っことはけっして自明ではないが、かっ 〇中国、核実験 て天体の運動と地上の法則を一つの力学法則の ニ〇 o•> のニマイル電子線形加速器 ( スタンフォード ) 〇湯川秀樹 ( 素領域概念 ) 一 OOQ)> の <()5 陽子シンクロトロン ( コーネル ) 〇ワインバーグ、サラム ( 素粒子の電磁相互作用と弱い相互 もとに統一した物理学者たちからすれば、古典 七六 UO> の <0 陽子シンクロトロン ( セルプコフ ) 〇作用を統一する理論 ) 物理学の諸法則がここでも成り立っとするのは 湯川秀樹、片山泰久 ( 素領域理論の展開 ) 田 ⑩核拡散防止条約 ⑩米ソ戦略兵器制限交渉開始 いわば当然の成り行きであった。ところが、古 ニ八 00> の衝突型陽子シンクロトロン ( owæz ) 〇 〇高速増殖炉の初の原型炉臨界に達 典論による解明が続けられる過程で覆いがたい する ( ソ連 ) 五〇〇 00> の陽子シンクロトロン ( フェルミ国立研究所 ) 〇 矛盾が現れ、古典物理学への不信、ひいては絶 〇ビーチボトム発電所 小林誠、益川敏英 ( 六種のクオークが必要なこと指摘 ) チン、リヒター ( 第四のクオークの存在立証 ) 望感が現れてくる。とりわけ、原子が不変でな ⑩スリーマイル島原子力発電所事故 タウ粒子とそれに伴うニュートリノ発見 ( アメリカ ) いことの発見や、電子の質量が速度によって変 四 OOOO> の陽子シンクロトロン ( ) 〇 ⑩チェルノブイリ原子力発電所事故 わることの発見は、それまでの物質観にとって ウブシロン粒子発見 ( ソ連 ) は強い衝撃であり、広く危機意識を生み出すこ 〇半導体集積回路 車事衛星トラシット ( アメリカ ) ⑩ 〇半導体、電子計算機の能動素となる 〇レーザー実験 アポロ計画 ( アメリカ ) 〇 〇電子計算機小型化進む 多核弾頭ミサイル配備 ( アメリカ ) ⑩ 〇超 -JU)— スペースシャトル打上げ ( アメリカ ) 〇 ス。ヘースシャトル事故 ( アメリカ ) ⑩ チャドウィック ( 中性子の発見 ) デイラック ( 複数電子系を扱った多時間理論 ) ウイグナー、ザイツ ( 結晶の電子工ネルギー帯理 静電起電機 ( デュープ、ハウスタット、ダール ) 〇 〇反戦声明 ( イギリス科学者 ) 論、金属・絶縁体・半導体の区別を明らかにする ) 五・〇 >0> のサイクロトロン ( ローレンス、リビングストン ) 〇 ⑩バナール「科学の社会的機能』 一・ニ >0> 静電起電機 ( デュープ、ハウスタット、ダール ) 〇 引フェルミ ( 崩壞の理論 ) 0 ・七の高圧静電起電機 ( ハープら ) 〇 引キュリー夫妻、フェルミ ( 人工放射能の発見 ) 八・〇 >0> のサイクロトロン ( ローレンス、クックセイ ) 〇 ニ・七の高圧静電起電機 ( ハープら ) 〇湯川秀樹 ( 中問子論 ) 〇リチウム原子核破壊実験 ( コッククロ サイクロトロンの相対論的限界 ( ペーテ、ローズ ) 〇 フト ) 、ウラン核分裂の発見 ( ハーン、 シュトラスマン ) サイクロトロンへのセクター収束法提案 ( トーマス ) 〇 六〇インチ・サイクロトロン ( ローレンス ) 〇 〇ー〇第ニ次世界大戦 サイクロトロンにより中性子を天然ウランに衝突〇引アンダーソン、ネッダーマイヤー ( 宇宙線中問子の発見 ) させ、最初の超ウラン元素をつくる ( マクミラン ) ーン、シュトラスマン ( 原子核分裂の発見 ) ニ・三 >0> のペータトロン ( カースト ) 〇 @実験用原子炉 ( フェルミ ) ニ〇のペータトロン ( カーストら ) 〇貶坂田昌一、谷川安孝、井上健三中問子論 ) シンクロトロン 〇広島・長崎に原爆投下 朝永振一郎 ( 超多時間理論 ) 75 74 73 418
おり、清の乾隆 ( 一当六 ~ 九五 ) 以後は方言で語めぐって米ソの対立は生じていたが、一九四七 〔占領下の日本〕この時期の日本の運動として心となって憲法擁護国民会議 ( 議長片山哲 ) も 結成された。 られ、地方的色彩をもつようになった。代表的年のトルーマン・ドクトリン、コミンフォルムは、さらに一九四五 ~ 五二年 ( 昭和二〇 ~ 二 ようしゅう そしゅう しせん とくに一九五四年三月、ビキニ環礁でのアメ なものに揚州評話、蘇州評話、四川評書、湖の結成、四八年の・ヘルリン封鎖、さらに四九年七 ) の、アメリカを中心とする連合軍の占領下 ぶきよう リカの水爆実験による第五福竜丸の被災以後 北評書などがあり、歴史物語、武侠小説の長編四月の北大西洋条約機構 (Z<+O) の結成なの時期と、五二年のサンフランシスコ講和条約 が多い 〈尾上兼英〉ど、東西の対立は一挙に表面化し、いわゆるの発効から六〇年の第一次安保闘争に至る時期は、原水爆禁止の運動が大規模に起こる。この 運動は超党派の国民的規模で展開され、三〇〇 「冷戦」が開始された。こうした状況下でさま との二つに分けられる。 平和維持舌動へいわいじかつどう peace ・ ざまな平和への動きが生まれたが、そのなかで 冷戦の激化とともに、日本でも、知識人や労〇万を超える原水爆禁止の署名が集まり、また keeping operation 略称 00 国際連合 で平和維持活動という場合、平和維持に関するもっとも影響力をもったのは、世界平和評議会働組合などによる反戦・反ファシズムの共同声五四年の原水爆禁止署名運動全国協議会の結成 明などが出されたが、 (WorId CounciI of peace 、議長フレデリッ 一九四九年の平和擁護世を経て、五五年には原水爆禁止日本協議会 ( 原 国連活動一般をさすのではなく、特別の意味に かおる 用いられている。すなわち、紛争や事態の悪ク・ジョリオ・キュリ ー ) の運動であった。四界大会の呼びかけにこたえ、組織的な運動が開水協、事務局長安井郁 ) が結成された。五五年 からは毎年八月に原水爆禁止世界大会が開かれ 化、拡大を防ぐため、国連が小規模の軍隊や軍九年四月にバリとプラハであわせて七二か国約始され、同年四月、東京で平和擁護日本大会が うちなだ 事監視団を関係国の同意のもとに現地に派遣し 二〇〇〇名が参加して世界平和擁護大会が開催開催された。大会は、軍事同盟への参加反対、ている。また、五三年の内灘 ( 石川県 ) 射爆場 て、事態の平穏化を図る活動をいう。国連憲章され、原子兵器の禁止、軍事。フロック反対、植平和産業の発展、講和条約促進などの平和綱領反対の運動をはじめ、五五 ~ 五六年の沖縄の土 上、この種の活動について規定はなく、実践の民地体制反対、日本・ドイツの再軍備反対などを採択するとともに、後の日本平和委員会の前地取り上げ反対闘争、東京都下砂川の基地拡張 いくお 過程で生まれた概念である。平和破壊国に対しを決議、常設機関として平和擁護世界大会委員身である日本平和を守る会 ( 会長大山郁夫 ) を反対闘争など、米軍基地への反対運動は、六〇 設立した。この運動は、占領下、米軍と日本政年の安保改定阻止の大運動へとつながってゆ 強制措置をとる集団的安全保障システムの体制会を設置した。これが、のち、五一年に改組さ ぎせつ 府による激しい弾圧を受けながら、ストックホく。↓原水爆禁止運動↓基地問題 が挫折したあと、紛争当事者に対して中立的でれて成立する世界平和評議会の前身である。 非強制的な性格をもつ「平和維持活動」が登場 この運動は、一九五〇年三月、原子兵器に反ルム、ベルリン両アピールの署名運動や朝鮮戦〔第ニ期〕〔運動の多様化とベトナム反戦運動〕 一九五七年八月、ソ連が— 0 の完成を発 したのであるが、さまざまな末解決の問題を抱対し、それを最初に使用した政府を人類に対す争反対の運動を展開した。しかし、この時期に は、占領政策によって広島・長崎の原爆被害の表、続いて一〇月に初の人工衛星の打上げに成 えながらも、国連の現状のもとでもっとも現実る犯罪人とみなすという、いわゆる「ストック 的な平和維持の方式であると評価される。↓国ホルム・アピール」署名運動を呼びかけ、全世実態はほとんど知られす、初期の運動にあって功し、アメリカの軍事力の一方的優位の幻想が 連車 〈香西茂〉界で五億余の署名 ( 日本で約六四五万 ) を集めは、広島などごく一部を除いて、核問題は十分崩れると、核戦争の現実的脅威が西欧の民衆を とらえ、イギリスの OZZ ( 核軍縮運動 ) やバ に視野に入っていなかった。 平和運動へいわうんどう現に行われているた。この運動をはじめ、その後の「・ヘルリン・ ートランド・ラッセルらによる百人委員会、ド もう一つの流れは、雑誌『世界』の執筆者を 戦争、あるいは戦争の準備に反対し、平和を要アピール」署名 ( 五一年二月。米・英・仏・ ソ・中の五大国の平和協定を要求 ) などの運動中心とする平和問題談話会 ( 議長知 ) のイツの原爆死反対運動、アメリカの 求する大衆運動。かなり広い概念で、そのなか には、さまざまな思想、方法、組織の運動が含を通じて、世界平和評議会の運動は世界に広ま動きである。この会は、一九五〇年に、日本の ( 健全な核政策のための運動 ) など、各国で世 まれる。第二次世界大戦後の平和運動 ( 戦前のり、各国に平和委員会が組織され、活発な活動方向として全面講和、基地提供反対、中立の路界平和評議会系以外の運動が多様に誕生した。 一方、社会主義陣営の内部対立は世界平和評議 線を提唱、のち、再軍備反対を加えて「平和四 運動については「反戦運動」「反ファシズム運を展開した。世界平和評議会は、五二年のウィ 動」の項を参照 ) は、その規模においても、参 ーン ( 八五か国一八八〇名 ) 、五五年のヘルシ原則」とした。これは、総評 ( 日本労働組合総会の運動内部にも持ち込まれ、各国の平和委員 加する人々の層においても、戦前のそれとは格ンキ ( 六八か国一八四一名 ) など、大規模な平評議会 ) や社会党の方針としても採用され、五会をはじめ、アジア・アフリカ連帯の運動など みそう も分岐・多様化し、六五年七月のヘルシンキで 段の相違がある。第二次大戦の犠牲が末曽有の和大会 ( 集会 ) もたびたび開催した。とりわ〇年代の運動に大きな影響を与えた。 の世界平和大会では、民族独立運動、アメリカ け、朝鮮戦争 ( 五〇年六月 ~ 五三年七月 ) への 〔講和条約と安保条約〕一九五一年九月のサン ものであり、一一度と戦争による惨禍を繰り返し たくないという強い願望が民衆の間に生まれ、反対、原水爆実験の禁止、第一次インドシナ停フランシスコ講和会議を前にしては、すべての政府の評価などをめぐって意見が対立した。 しかし、一九六五年、米車の北爆開始によっ 交戦国との「全面講和」か、ソ連、中国、イン また、民主主義、独立、平等、人権などの理念戦 ( 五四年七月 ) と四大国首脳会談によるジュ が、さらに普遍的なものになった。一方、国際ネープ協定の成立 ( 五五年七月 ) など、緊張緩ドなどを除いたアメリカを中心とする諸国だけて第二次ベトナム戦争が激化すると、各国の都 との「単独講和」かをめぐって国論は激しく対市で反戦の集会・デモが次々と組織され、また 和のための行動に力を注いだ。この運動は、思 的緊張は絶えず存在し、戦場の範囲こそ限定さ ラッセルらの呼びかけで、アメリカの戦争犯罪 れていたものの、大きな被害をもたらした戦争想・信条の違いを超えるものとして呼びかけら立し、平和委員会などは、全面講和を要求する を裁く「国際法廷」 ( 六七年二月 ) が開催され が各地で繰り返され、そのうえ、核兵器など大れたが、各国内では、共産党系活動家が中心と「講和投票」の署名運動などを行った。しかし、 この運動は成功せず、五二年四月、沖縄を分離るなど、国際的規模での大きな反戦運動、ベト 量破壊兵器と、その運搬手段の発達が極度に達なって動き、西側諸国政府は、これをソ連の し、大規模な戦争による人類滅亡の危機さえ予「平和攻勢」として退け、国内の運動への弾圧してアメリカの統治下に残して講和条約は発効ナム支援運動が生み出された。アメリカでは、 見されるようになっているからである。 を図った。また社会主義諸国政府は、この運動し、同時に日米安全保障条約が発効した。これワシントン、ニューヨークなどで数十万の大反 より先、占領下、朝鮮戦争の勃発とともに、ア戦デモが行われ、運動は黒人の解放闘争、兵士 戦後の平和運動は、大きく三つの時期に分類を強く支援した。したがって、ハンガリー事件 メリカの指令により自衛隊の前身である警察予の軍隊内地下反戦運動とも結んで、アメリカ政 されよう。第一期は一九四五年から五〇年代末 ( 一九五六 ) や、いわゆる中ソ対立の激化など、社 、フまで、第二期は六〇年代、そして第三期は七〇会主義諸国内部の矛盾・対立が表面化すると、備隊が設置され、日本の再車備が進行した。そ府の政策に大きな影響を与えた。また六八年の 。ハリ「五月革命」など、西欧資本主義諸国では 運動内部の対立が激化して、しだいに有効性をれ以後の運動は、再軍備反対と憲法擁護、各地 わ年代前半のベトナム戦争終了以後である。 の米軍基地に対する反対などの運動をめぐってベトナム反戦を契機とした学生層の急進化が目 し〔第一期〕〔冷戦と世界平和評議会〕すでに第失い、影響力は相対的に低下するに至った。↓ 展開され、五四年には、社会党、総評などが中だった。↓学生運動 二次大戦の最終期になると、戦後世界の支配をストックホルム・アピール↓世界平和評議会 しんけんりゅう ばつばっ 913
ふいりひ のもとで、領土的野心を否定し、フィリピンを がちで、国土の五二 % は一〇度以上の傾斜地で洋火山帯に位置し火山が多い。最高峰アポ火山南西のモンスーンおよび台風によって決まる。 ( = 九五四 ) 、秀麗なコニーデ火山として知られるマニラなどルソン島西岸では六 ~ 一〇月が雨期民主主義主権国家に育成することを領有の目的 あり、平地は海岸部とカガャン、アグノ、。ハン で、降水の八〇 % はこの時期に集中する。一方として掲げることを余儀なくされていた。しか ) 、マニラ近郊の観光地ター パンガ、ビコール、アグサン、ミンダナオなどマヨン火山 ( 一一四一一一 東岸ではとくに顕著な乾期はないが一一月 ~ 一も、その後フィリビン人の間から独立要求が高 ル火山などは活火山で、温泉も少なくない。 の河川の下流に広がるにすぎない。ルソン島の まり、さらに一九二〇年代末からの大恐慌が、 シェラ・マドレ山脈、セントラル山脈、ミンダ 気候はおもに熱帯モンスーン型に属する。年月に降水が多い。ミンダナオ島以外の島々はし ナオ島のデイワタ山脈など主要な山脈は第三期降水量は全国平均約二四〇〇 = 、リ、ビサヤ諸島東ばしば台風に襲われる。とくにルソン島北部は国内に農業部門を抱えるアメリカをしてフィリ ビン領有を重荷と意識させるに至った。こうし 造山運動により形成されたもので、ほば南北の岸では四〇〇〇 = 、リに及ぶ。概して東岸部とルソ被害を受けることが多い。 〔歴史〕一六世紀ころのフィリピンには統一的て、三四年にフィリ。ヒン独立法がアメリカ議会 方向をもつが、バラワン島、サンボアンガ半島ン島山岳地方で降水量が多く、南西部とビサヤ などは北東ー南西の方向をとっている。環太平諸島中部で少ない。降水の季節分布は、北東と権力は存在せず、小地域の首長の連合が形成さを通り、四六年の独立への準備として、一九三 れていた。単位社会としてのバランガイは、首五年フィリピン自治政府がケソン大統領のもと に発足した。四一年に始まった太平洋戦争に際 長 ( ダト ) とその一族、平民 ( 自由民 ) 、隷 農・家内奴隷の三階級から構成され、自給経済してフィリピンは日本軍の占領下に置かれた を営んでいた。フィリピンと外部世界との接触が、独立の約束を得ていたフィリピン人にとっ は植民地化であった。一五二一年にマゼランがて日本軍は侵略者であったから、多くの抗日ゲ リラが組織された。とくに戦争末期のフィリピ ビサヤ諸島に到達したあと、一五六五年からス ンはアメリカ軍による反攻の目標とされたため ペインによるメキシコ経由の植民地支配が始ま ったが、当初はアジア交易の拠点としての意味もっとも激しい戦闘の場となり、フィリピン人 が強く、メキシコのアカプルコとマニラを結んは計り知れない被害を被った。この事実は長く でガレオン船が往復した。スペインが植民地経日比関係に影響を及ばした。一九四六年七月四 日、フィリピンは独立を達成した。 営に積極的になるのは一八世紀後半になっての 〔政治〕独立後のフィリピンの政治形態はアメ ことであった。一八世紀末から砂糖、タバコ、 リカに範をとったもので、直接選挙による正副 マ一一ラ麻、インジゴなど輸出向け商品作物の栽 培が盛んになるが、それは一八三四年のマニラ大統領、上下二院からなる議会、三段階の裁判 世開港、スエズ運河開通 ( 天六九 ) などによって急所をもち、三権分立を旨としていた。そして、 リべラル党、ナショナリスタ党の二大政党が交 速に展開し、モノカルチュア ( 単一商品作物栽 培 ) 型経済の形成が進んだ。この動きは国内の互に政権を担当するアメリカ型民主主義の形が 地主・商人層に富裕な家族をつくりだし、その保たれた。しかし、独立が恩恵的に与えられた 型子弟のなかにはヨーロッパ留学などで自由思想ものであっただけに、他のアジア諸国とは違っ に触れ、民族自治、独立を主張する者も現れてナショナリズムが旧宗主国に向けられること た。しかし、ラテンアメリカの植民地のほとんはなく、外交においても対米追随姿勢がつねに どを失ったスペインは、むしろフィリピン支配顕著だった。近隣外交に積極的になったのは一 を強化しょ , っとした。 こうして一八九〇年代後半から、フィリビン 革命とよばれるスペイン支配への武力反抗が始 まり、一八九九年にはアジアで最初の共和国が 火誕生した。たまたまキューバ独立問題からスペ インと開戦したアメリカはフィリピンを占領 し、パリ条約によってフィリピン諸島の割譲を 受けたが、独立を要求するフィリピン革命軍を 鎮圧するのに数年を要した。アメリカ統治のも と、フィリピンの経済は対米輸出を軸に発展を 湾遂げ、マニラは東南アジアのなかでもっとも繁ロ男女 栄した都市となった : タバオが日本人の手によ人口 男年 って開発されたのもアメリカ統治下においてで あった。アメリカがフィリピン領有に踏み切っ年 フー「 / ( 0 (. 0 【う ) (C) 内第 4 っ 0 CO っ・」っ」 1 ーー たのは、一九世紀末のアメリカが帝国主義段階 0 Ln 0 0 0 に「 ) 0 L-c¯) 0 L-0 0 1—0 0 L-n フー「 / -. 0 -. 0 L.n 一う ) 4 ・′ 4 っ 0 っ 0 つ」っし に達していたからであったが、当時の国際関係 。破崧ミト、。 240 1 20 1 20 360 240 1984 年「世界人口年鑑」による
ぺいちゅ 閉塞方式 〔図 A 〕複線自動閉塞装置 収用、生産、招集、雇用なども必要となる。こ なお、注意信号 ( 黄 ) 現示は、電流の送りを変式、連鎖閉塞式、通票閉塞式、票券閉塞式、通って、かかるロマン主義的姿勢が・ T' ・エリ のうち人事および行政管理を除く活動を自衛隊 票式がある。↓タ。フレット方式〈土田廣〉オットなどから厳しく批判されたが、一方熱烈 更することにより行われる。 では後方補給という。陸上自衛隊だけがこの後 べイダ Beida 北アフリカ、リビア北東部な支持者の絶えない理由でもある。↓エピキュ 単線区間の自動閉塞式も基本的には複線区間 リアン・マリウス 〈前川祐一〉方補給を兵站と称している。兵站線のことを後 にある地方中心都市。キレナイカ地方のアフダ のそれと同様であるが、単線のため停車場間で 回別宮貞徳訳『ルネサンス』 ( 冨山房百科文庫 ) 方連絡線とよぶことが多い。 ル山脈北麓に位置する。エル・べイダともい は対向列車を抑える必要があり、このため「方 国家レベルにおいては国家兵站という語を使 ▽工藤好美訳『享楽主義者マリウス』 ( 一九 一八四二年サ 向てこ」を設けて列車の運転する方向を決定う。人口五万八八〇〇 ( 一九ハ 0 ) 。 う。第一次世界大戦以後の総力戦時代において 会・南雲堂 ) し、同一停車場間に対向列車が運転されることヌーシー教団により建設され、キレナイカの宗 は、経済、政治など国力のすべてをもって戦争 のないような連鎖を設けている。方向てこは教的中心地となり、独立後はリビアの三つの首米台相互防衛条約ぺいたいそうごばうえいじ の遂行を支えることが求められることから、国 ようやく米華相互防衛条約ともよばれる。一 甲、乙両駅間に一対として設けられ、両駅にお都のうちの一つでもあった。。フドウ、穀物、野 いて共同して取り扱われる。図は列車を甲駅菜など農産物や畜産物の集散地である。ヨーロ九五四年一二月二日、前年の朝鮮戦争の休戦協家兵站が重視され、国家総動員をもってこれに 〈藤井治夫〉 ッパ風の市街地が広がり、保養地としても知ら定成立 ( 五三年七月 ) 後の事態に応じ、米韓相あたる。 から乙駅に向かって運転する場合であり、乙駅 〈藤井宏志〉互防衛条約 ( 五三年一〇月 ) 、東南アジア集団平地へいち起伏の小さい平らな土地。平 の方向てこを、次に甲駅の方向てこを方向にれる。 ペイター walter Horatio pater ( 天一一一九防衛条約 ( 五四年九月 ) に次いでこの条約は締地ということばは厳密な科学用語ではなく、自 転換することにより、軌道回路電流の送着電が 然地理学では起伏が小さく低平な土地をとくに ー九四 ) イギリスの批評家、小説家。オランダ結された。アメリカがこれによって、アジアに 列車の運転方向にあわせて切り換えられ、同時 へいたん に対向のすべての閉塞信号機に停止信号が現一小系医師の子としてロンドンに生まれる。オックおける軍事体制を整備しようとしたものであ平野と称し、標高の高い所でも平坦地が存在す スフォード大学に学び、。フレズノーズ学寮の特る。条約は、「西太平洋区域においていすれかれば、これを平地と称し、その適用範囲が高度 され、列車の運転方向が設定される。 および広さに関してきわめて広い。したがっ の締約国の領域に対して行われる武力攻撃が、 別研究員として思索と執筆の生涯を送った。 非自動の閉塞方式は、従事員相互の打合せに て、平地の成因も多様であって、侵食によって 『ルネサンス史研究』 ( 天七三。のちに『ルネサン自国の平和および安全を危うくするものと認 よって閉塞装置を取り扱うもので、連動閉塞 つくられた広大な平野から、山頂部の小規模な ス』と改題 ) は、フランめ、かっ、自国の憲法上の手続に従って共通の たいせき こたん 赤発 ( 刀 0 ス中世の古譚からルネサ危険に対処するため行動する」と定め、一九五平坦地、あるいは堆積によ 0 てつくられた広い ^ 市川正巳〉 平野など各種である。 ンス期の芸術家を経て一五年三月三日発効した。 駅工一 ( IZJ ぺいちゅうかんけいアメリカ合衆 無期限だが、一年の予告で廃棄しうるとされ米中関係 八世紀ウインケルマンに 及ぶ目録からも、明らかていた。ニクソン大統領訪中後のアメリカの対国と中国との国際関係。 一に客観的な歴史研究では中国政策の変更に伴い、一九七九年米台間の外〔歴史的背景〕アメリカと中国は、一八四四 なく、アーノルドの人生交関係終結と同時にこの条約の廃棄がアメリカ年、初めて外交的に接触し、米清間で望厦条約 〈宮崎繁樹〉を調印している。アヘン戦争直後のこの条約 から台湾側に通告された。 論的批評とラファエル前 ナンキン 派に代表される当時の審平沢へいたく / 。ヒ , ンテク大韓民国、京畿は、本質的には英中間の南京条約 ( 一会 = ) と同 ゅう 道の南部に位置する邑 ( 町 ) 。面積約二七平方じ性格の不平等条約であったが、これを端緒と 美主義とを結び付けた思 器 器 電 、人口約六万 ( 一九 I)O 一九三九年邑に昇格。する米中関係は、以後一〇〇年近く、相互の人 想的な作品で、作者の強 継 軌 的交流と好感情という点において、きわめて摩 向道謌一烈な主張と個性的な文体大部分の地域は侵食平野と沖積平野で標高は六 ~ は、一方では青年を誤ら四以下である。古くから平沢米は有名であ擦の少ない調和した国際関係であった。中国側 せる危険な書との非難をる。邑内には三三か所の小規模の企業体と平沢からすれば、アメリカ人 ( その多くは宣教師 ) 浴びながらも、印象主義市場があり、とくに醸造業が盛んである。鉄道は、アヘン吸飲を中国人に押し付けたイギリス 線と国道一号線が通過するので交通の要地人とは異なって、例外的に好感情を抱きうる 批評の先駆としてイギリ ャンク . ェイツ ←スの世紀末に大きな影響でもある。小学校三校、中学校六校、高等学校「洋鬼子」であ 0 たし、アメリカのアジア政策 〈張保雄〉 の基調には、つねに中国に対する十全の配慮と 六校がある。 を与えた。長編小説『エ ひょうもん 中国文明に対する畏敬の念が潜在してきたので へいだっ 0 平文 ピキュリアン・マリウ平脱 兵站へいたん logistics 戦争を遂行するあった。 原ス』 ( 一犬五 ) 、短編集『想 一九世紀末のジョン・ヘイ国務長官による周 ために必要な人的、物的戦闘力を維持、増強し 電像による画像』 ( 一公七 ) 、 て提供すること。現在は普通、後方という。旧知の門戸開放政策にしても、列強諸国のように 批評集『鑑賞』 ( 一会九 ) 、 『プラトンとプラトン思 日本陸軍では、作戦軍と本国における策源を連中国の領土的分割を直接企図したものではな く、中国領土の保全と機会均等を唱えたもので 想』 ( 天九三 ) など、ペイ絡し、作戦軍の目的を遂行させるための諸施設 この連絡線を兵站線あった。やがて二〇世紀に入ると多くのアメリ ターの作品は小説であるとその運用を兵站といし 赤内 てと批評であるとを問わと称した。旧海軍の場合は兵站のことを戦務とカ人宣教師が中国を訪れ、そこに大学や病院を ず、すべて作者の想像力よんだ。後方の対象には資材、役務、施設、人はじめとするさまざまな文化・公共施設を提供 方一 と主観に満ちた一種の員があり、機能的には補給、整備、輸送、建するとともに、農村奥地にも分け入って布教活 「想像による画像」であ設、衛生、人事、行政管理が含まれる。調達、動と同時に多くの社会奉仕活動を続けたのであ 4 ) ・列車進行方向 車軸 軌道 線条変圧器 = 黽 . 冫ノル 一区軌道継電器 (TR) ( 落下 ) 信号高圧 ( 6kV ) 〔図 B 〕単線自動閉塞装置 出発 尊 > 列車進行方向 場 ( 青 ) ( 上り 1 閉塞 ) ( 下り 1 閉塞 ) ( 赤 ) トユ 4- 区 ) ( 青 ) 駅 甲 A 軌道回路 ー ATR ーー → へ 899
クルービ・コングリゲーション」 ( 非合法的に 2 ことする働きが、特定の速度に達すると固有振動結実し、今日のエレクトロニクス発展の土台と題となり、アメリカはプラット修正を一方的に なっている大規模集積回路を生み出決定し、キューバ国民の反対を押さえて、それ追放者を受け入れるピューリタンの信者の集ま 5 っ数と一致してしまい、発散振動を引き起こすた 〈大友詔雄〉をキューヾ、日 ノ共不国憲法に組み入れ、キューバ独 りの一つ ) に参加。ロビンソン師と長老プルー 、らめである。翼構造だけでなく、異なった固有振すに至った。 立後、正式に条約化した ( 一九 0 一 (l) 。 スターから深い感銘を受けた。一六二〇年メイ 、ふ動数をもっ二つのもの、たとえば翼と補助翼、回中村誠太郎・小沼通二編「ノーベル賞講演 条項は八条からなり、キューバ領土の第三国フラワー号に乗ってオランダを出発。プリマス 安定板と舵面などが、共振して別の固有振動数 物理学第八巻』 ( 一九含・講談社 ) be- イギ Be bémol で振動を始めることもある。フラッターを防ぐ への割譲および財政能力を超える国家債務の禁植民地建設に貢献し、とくにインディアンとの フ一フット flat リ , 友好、産業の振興に優れた力を発揮した。著書 には、翼構造のねじれ中心より前に重心がくる molle 変記号。五線記譜法で音を半音低止、キューバの独立の保持および生命・財産・ ように構造に配慮したり、マスパランス ( 操縦めるときに用いられる変化記号の一つ。調号と 個人的自由を保護する能力のある政府を維持す『プリマス・プランテーション』 Of P ミ により動く翼面に取り付けた調整用の重量物 ) して用いられるときと、臨時記号として用いらるためのアメリカの介入権の承認、海軍基地の P ミきをは有効な資料である。〈野村文子〉 を取り付けて固有振動数を変える、舵面や操縦れるときがあり、記号はを用いる。↓変化記アメリカへの売却ないし租借、などを内容とし回曽根暁彦著『アメリカ教会史』 ( 一九七四・日本 系統の剛性を高める、操舵機構の遊びをなく号↓調号↓臨時記号 〈柴田典子〉ており、キューバを事実上保護国化するもので 基督教団出版局 ) ▽ George D. Langdon, 〈高橋章〉 ー一九あった。一九三四年廃止。 す、動力操縦機構を採用する、などの対策があプラット Edwin John pratt ( 天 る。現在、亜音速ではかなり正確にフラッター 六四 ) カナダの詩人。ニューファンドランド島。フラッドストリート Anne Bradstreet Ply ミ 0 ミ 7620 ー 7697 ( 1966 , Yale Publi ・ cations, New Haven, Connecticut) を推定できるが、遷音速ではまだ困難な点があで生まれる。神学からイギリス文学に転じ、長 ( 一六一一一 ? ー七一 l) 植民地時代のアメリカの女流詩 きようべん 〈落合一夫〉 るとされている。 くトロント大学で教鞭をとる。処女詩集『一一人。自由な文化的環境で育ち、父は清教徒で、フラッドフォード Bradford イギリス、 ューファンドランドの詩』 ( 一九一一三 ) で荒涼たるリンカーン伯爵の執事であった。一六歳で結 イングランド中部、ウエスト・ヨークシャー県 フラッタリー岬 みさき Cape Flat- 婚、一八歳のおりにイギリスからニューイングの工業都市。人口二八万〇六九一 ( 一 I)O ペ tery アメリカ合衆国、ワシントン州北西端生地の風物と人を歌って以来、雄大な構想と独 とうろく の岬。ファン・デ・フカ海峡を隔てた対岸にカ自のイメージをもっ詩編を多数世に問うた。な ランドへ父や夫とともに移住、父も夫もマサチニン山脈東麓、エア川の支流に沿って位置す ナダのバンクー ー島がある。一七七八年ジェ かでも一七世紀中葉のイエズス会宣教師の殉教ューセッツ湾植民地の総督となる。悲惨な辺境る。一三世紀ごろから定期市開催地として繁栄 ームズ・クックにより発見された。〈鶴見英策〉を歌った『プレ。フーフ神父とその同胞たち』 地の生活で慰みを求めて作詩。義理の弟が、作 し、一四世紀に入ると毛織物工業がおこった。 ( 一九四 0 ) と、一八八五年に完工したカナダ太平者の詩集『アメリカに最近現れた十番目の詩その後、動力の導入やユダヤ商人の進出などで こ Lago di Brac- プラッチアーノ湖 ciano イタリア中部、ラツイオ州のサバティ洋鉄道の建設を描いた『最後の大釘へ向かっ 神』 ( 一六五 0 ) をロンドンで出版した。作者の長羊毛工業、羊毛取引の中心地となった。一八世 ローリー、デュバ ーニ山地にあるカルデラ湖。面積五七平方キ。 て』 ( 一九五一 I) の二編の長編叙事詩が傑出してお詩はスペンサー、シドニー 紀以降はウーステッド織物製造が中心となり、 ルタスの影響で、視野が狭く、弱々しいが、短周辺の同業一二都市とあわせてイギリスのウー 最大深度一六〇。湖水はアッローネ川によっ り、この詩人の比類のない特質をよく一小してい 〈粋川羔〉 てティレニア海に注がれる。プランクトンが豊る。ほかに一九一二年のタイタニック号の遭難詩は優れている。 ステッド生産の九〇 % を占めるに至った。現在 Anne 富なため、多くの魚が生息する。西岸にプラツを歌った『ザ・タイタニック』 ( 一九三五 ) などが回吉津成久著『アメリカ詩の原点 はほかにアル。ハ力、モヘア、ベルべット、化学 〈平野敬一〉 チアーノの町 ( 人口一万〇六五九、一久一 ) があある。 Bradstreet の人生の詩』 ( 一九七七・学書房出版 ) 繊維の生産も多い。プラッドフォード羊毛取引 けっせき る。 戸は、イギリスだけでなく世界の羊毛取引の中 ーーがわ Platte アメリカ合プラッドストーン 0 血石 〈堺憲一〉。フラットⅡ - , 一ゅ - っ 衆国、ネプラスカ州を東流してミズー 心である。はかに化学製品、自動車、機械など プラツンア vratsa プルガリア北西部、 リ川に合フラッドハウンド blood hound 。乳 の製造業もある。市内には一五世紀のセント・ プラツツア県の県都。スタラ・プラニナ ( バル流する川。上流は、コロラド州とワイオミング綱食肉目イヌ科の動物。家畜イヌの一品種で、 きゅうかく ・スクー ベルギー原産。比較的大形の獣猟犬で嗅覚に ピーター教会、一七世紀のグラマー 州の境付近に源を発するノース・プラットⅡ カン ) 山脈北麓に位置する。人口七万三〇一四 優れ、追跡犬として活躍してきた。本犬種の特ル、一九世紀の建築で六〇の鐘楼をもっゴシ ( 一九公 l) 。カルバミド ( 尿素 ) 、アンモニアの製と、コロラド州より流れ出るサウス・プラット 川に分かれる。いすれもロッキー山脈の融雪水 徴は、その顔面の深いしわや長い垂れ耳など、 ック建築の市役所など古い建物も多い。また、 造、綿織物、フォークリフト、陶器製造などの かん力い ふうばう 〈井内昇〉 独特の風貌にあるといえよう。深くくばんだ目 公園、緑地にも恵まれている。 工業がある。近郊にプラッタ峡谷、レベニカ洞を水源にして水量豊富なため、灌漑・発電用水 がんけ として重要である。長さ約一五〇〇キ。 ( ノー 窟などがあり、市はその観光基地ともなってい や下垂した下眼瞼、露出した瞬膜などが、きわフラッドベリ Ray Bradbury ( 一九 = 0 ー ) アメリカの (J) 作家。専門の作家と リ川に合流すめて印象深い容貌を形づくっている。鼻鏡は大 る。トラキアの遺物で知られる歴史博物館、国ス・プラット川の源流からミズー 〈中村泰三〉るまで ) 。 〈永井信夫〉きく、ロ唇も大きく垂れ、のどの皮も緩く垂れ いうよりは、的趣向を創作の媒体として利 民詩人ポテフの記念碑がある。 ー ) ゅ , っせい 一九〇三年ている。尾は長く先細りとなり、高く掲げられ用し自己の幻想を奔放に展開するファンタジス 。フ一フツ一アン walter Houser Brattain プラット修正 アメリカ関係の基本るが、巻くことはない。被毛は短毛で、黒と淡トで、の叙情寺人、。、 . 一一日オーの衣鉢を継ぐ幻想 ( 一九 0 一一ーハ七 ) アメリカの固体物理学者。中国から三四年までキューバ、 アモイ の厦門生まれ。ワシントン州で育ち、一九二九となった条項。アメリカ上院キューバ関係委褐色、赤と淡褐色、黄褐色などがある。体高五文学の第一人者という評価を受けている。少年 ~ 六九、体重三六 ~ 五〇キ。。猟犬のほか、時代からの熱烈なファンで、一九四一年か 年ミネソタ大学大学院で学位を取得。その後べ員会議長のプラット orville Hitchcock Platt 捜索犬としても用いられる。 〈増井光子〉ら専門誌に短編を発表し、四五年以降声価が高 ル電話研究所に入所、同研究所において半導体 ( l<l 一七ー一九 0 五 ) 議員が、アメリカ陸軍特別会計 まるにつれて『コリアーズ』などの一般誌が彼 支出予算案への追加修正として提出し承認されフラットフィッシュ 0 カレイ の実験的研究に従事。五六年ショックレー の作品を掲載するようになった。四五年から五 ーディーンとともにノーベル物理学賞を受け た ( 一九 0 一 ) 条項のため、この名がある。アメリ。フ一フッドフォード William Bradford た。彼が進めた表面物理・薄膜物理に関する基カ・スペイン戦争開戦にあたってアメリカはキ ( 一五九 0 ー一六五七 ) アメリカ、プリマス植民地の総五年に至る一〇年間が彼の創作のもっとも充実 礎研究は、その後の世界の半導体表面研究の発ューバの独立を公約したが、戦後の軍政 ( 一八究督。イギリスのヨークシャー生まれ。イギリスした時期といえる。処女短編集『闇のカーニバ 展の契機となり、電界効果トランジスタとして ~ 一九 0 三 ) 下でキューバ独立後の両国の関係が問国教会の礼拝や儀式に満足せす、分離派の「ス ル』の増補版『十月はたそがれの国』 ( 一九五五 ) 、 どう やみ
ふいぎゅ 要 FIGARO ュース、ニュース解説で始まったが、その後し新聞王ロべール・エルサンが買収。七七年にはフィギュアスケート figu 「 e skating ルウェーのソニア・ヘニー So 三 a Henie かい だいに拡充され、多いときにはヨーロッパ、ア政治部長だったレイモン・アロンが退社するなスケートをはいて氷上にいろいろの曲線図を描る。彼女は天才少女といわれ、一〇歳でノルウ ジアなどあわせて四〇以上の一一一一〕語を使って放送ど経営、編集が対立、発行部数も低落して約三 き、かっダンスのように自在に滑るスケーティ エーの選手権大会に優勝して以来、一九二七年 されていた。第二次世界大戦中はアメリカの戦四万 ( 一九会 ) となった。 〈伊藤カ司〉 ングで、スケート競技の一種。 から三六年まで一〇年間連続して優勝、オリン のけっこん Le Mari- 争遂行のために大きな役割を果たしたが、戦後フィガロの結婚 〔変遷〕フィギュアスケートの技術に関するも ピック大会では一九二八年、三二年、三六年と はとくに東欧諸国に対する宣伝活動の役割が大 age de Figaro フランスの劇作家ポーマル っとも古い著書として、一七七二年にイギリス 三回のオリンピックに連続優勝している。その きくなった。現在でも、アメリカを世界の人々 シェの五幕散文喜劇 ( 一天四 ) 。副題「狂おしき の砲兵士官ロバート・ジョーンズが著したもの後ショースケーターに転じ、ここでも世界的に によく理解してもらうという目的をもって、三 一日」。前作『セビーリヤの理髪師』の後編。が残されている。この著書にはアウト、イン両名声をはせた。 九の一『〔語で週八五〇時間三〇分の放送が行われロジーヌと結ばれたアルマビバ伯爵が夫人の侍方のエッジで描くサークルやループ、エイト、 フィギュアスケートは第二次世界大戦までは ており、内容もニュースばかりではなく、ジャ女シュザンヌを誘惑しようとするのを知ると、 スパイラル、スプレッドイーグル、さらにバツオーストリア、ドイツ、イギリスが世界をリー ズなどの音楽もある。なお日本語放送も行われ彼女との結婚を許されている伯爵の下僕フィガクのサーベンタインなどの説明があ 0 て、すでドしていたが、戦後はアメリカ、カナダが進 ていたが、七〇年に廃止された。本部はワシン ロは窮地に陥る。伯爵はシュザンヌに「初夜に現代のスケーティングの基礎が形づくられて出、ことにソ連はペアスケーティングとアイス トンにある。 〈田村穰生〉権」を行使しようとするし、フィガロは結婚の いた。とくにジョーンズは技術とともに滑走時ダンスに優秀なスケーターを出している。フィ フィオミアゾウ p 、ぎ 0 長鼻目 ( ゾ約束をしたことのある老女マルスリーヌからその優美さを力説している。世界で最初に生まれギ = アスケートは戦後、技術的に著しい進歩を ウの仲間 ) の一グループ ( 属 ) で、ゾウの先祖の履行を迫られる。夫の浮気を断念させようと たスケートクラ。フは一七四二年 ( 一説には一六 示し、ことにジャンプは目覚ましい。フィギュ としてパレオマストドンとともにもっとも原始願う夫人がシュザンヌに変装し待ち合わせ場所四二年 ) のスコットランド、エジンバラのスケアスケート界は従来の静から動のスケーティン 的なもの。パレオマストドン属の亜属とされるに赴くと、伯爵は計略にまんまとひっかかり、 ートクラブである。 グに変わってきた。 こともある。肩高一 ・二の小形のゾウに似た苦労のすえ手に入れたのが奥方とわかる一方、 スケートはアメリカでも盛んになり、一八四 〔日本〕日本にスケート用具が渡来してまもな 形をしていた。化石として、エジプト、リビマルスリーヌもフィガロの実母だと判明して、 八年フィラデルフィアにスケートクラ。フが誕生 い一八九五年 ( 明治二八 ) ころから札幌や仙台 ア、チュニジアなど北アフリカ各地の新生代第芝居は大団円となる。フィガロの知略のうちに し、一八六四年には第一回全米フィギュアスケでフィギュアスケートの研究が始まっている。 三紀漸新世初期 ( 約三五〇〇万年前 ) の地層か貴族の特権行使に反抗する第三身分の姿をみた ト選手権大会が開かれている。フィギュアス本格的な研究は一九一三年 ( 大正一 l) ころ河久 ら発見されている。最初の発見地エジプトのフ観客は熱狂し、この劇は連続六八回上演というケートの父とよばれるジャクソン・ヘインズ保子朗がアメリカの指導書を訳出し、それを土 アイユーム Faiyüm の地名から学名がつけら空前の大当りをとった。モーツアルトがこの戯 Jackson Haines ( 一会 0 ー ) がこの大会で最台にして研究し始めてからである。二〇年河久 こうのせいまい れた。図ゾウ ↓セビー・リヤ 〈亀井節夫〉曲をオペラにしたことは名高い 初の優勝者となった。ヘインズはもともとはダ保子朗、交野政邁らにより、最初のフィギュア フィカス 0 インドゴムノキ の理髪師 〈市川慎一〉 ンスの教師だったが「踊り」と「音楽」とを結 スケート研究団体として日本スケート会が結成 フィカロ Le 三 ga 「 0 フランス最古の代〔オペラ〕オペラは、ダ・ポンテのイタリア語び付けて、フリースケーティングの祖となっ され、一三年二月日本最初のフィギュアスケー しもすわ 表的保守系紙。パリ発行の朝刊紙。一八五四台本により、モーツアレト、ゝ ノが一七八六年に完た。彼はヨーロッパに渡り、ウィーンを本拠に ト競技会が信州下諏訪町の特設スケート場で開 年、当時の大ジャーナリスト、ビルメサン Jean 成、同年ウィーンで初演された。当時のウィー してスケーティングを教えた。スケートに伴奏かれた。優勝者は東京帝国大学の五代正友であ Cartier de Villemessant ( 一八一一一ー七九 ) が倉刊 ンでは、ヨーゼフ二世の命令により、ポーマルをつけて、ステップ、ツイスト、スパイラルな った。日本スケート会は二六年に国際スケート 六六年日刊となる。エミール・ゾラ、ゴンクー シェの原作を上演することは禁じられていたた どを振り付けることに成功、これが全ヨーロッ 連盟に加盟承認され、ついで二九年 ( 昭和四 ) フィス ふうび ル兄弟、デュマ ( 子 ) ら一流の文人を起用してめ、モーツアルトとダ・ポンテはこの戯曲の階 ハを風靡した。ヘインズは一八七五年ペテルプ日本学生氷上競技連盟のとともにスケート 文芸紙としての名声を博す一方、ドレフュス事級闘争的側面をあまり強調しないよう努めた ルグ ( 現レニングラード ) からストックホルム の全国統一機関として大日本スケート競技連盟 かぜ 件ではドレフュス大佐を擁護してフランス陸軍が、それでも当時この歌劇に反感を抱いた人々 に向かう途中風邪をこじらせ、そりの上で一生 ( 現在の日本スケート連盟 ) が組織された。こ と対決して勝利、一九世紀末か は多く、妨害エ作もあって初演の際の人気はい を終わった。フィンランドの寒村マラカルレイのころフィギュアスケートの技術は長足の進歩 ら二〇世紀初頭にかけて一流政まひとつであった。しかし、その後プラハで行 に葬られ、墓碑には「アメリカ人のスケートをみせ、三二年アメリカ、レーク・プラシッド 治報道紙としての地位を確保しわれた公演は大成功を収め、以後モーツアルト 王」と刻まれている。 で行われた第三回冬李オリンピック大会に日本 おいまっ おびたにりゅういち た。第二次世界大戦中の一九四の代表的傑作として高い人気を保ち続けてい このころすでにフィギュアスケートの土台は 最初の代表選手老松一吉、帯谷龍一の二選手 二年、反ナチスの名編集者ピエる。このなかには序曲をはじめ、舞台を離れて確立され、一八九二年国際スケート連盟 lnter- が派遣された。 ール・。フリソンがビシー政権の単独で演奏される名曲が多く、フィガロの歌う national Skating Union が倉立されたときに 第二次大戦後、欧米各国とのスケート交流が 字 ちょ、っちょう かんべき 題検閲に抗議して自発的に停刊し 「もう飛ぶまいそ、この蝶々」や、ケルビーノ は、内容はほば完璧に近くなっていた。国際ス盛んになり、オリンピックに、世界選手権にと ロ たが、四四年八月パリ解放の前 の「恋とはどんなものかしら」などのアリアがケート連盟による第一回フィギュアスケート世参加、一九七二年 ( 昭和四七 ) には札幌オリン ガ 日に復刊。戦後は。フリソン理事とくに名高い。日本初演は一九五二年 ( 昭和一一界選手権競技大会は一八九六年ペテル。フルグでピック大会、七八年には東京で日本最初のフィ 長の下で資本と経営の分離に成七 ) 芸術祭合同公演として歌舞伎座で行われて 開かれ現在に至っている。スピードスケート世ギュアスケート世界選手権大会が開かれた。日 功、六九年には発行部数五三万 〈三宅幸夫〉界選手権大会はこれより早く一八九三年に開か本選手の国際的活躍は第三回冬季オリンピック を数えるほどの黄金時代を迎え回辰野隆訳『フィガロの結婚』 ( 岩波文庫 ) ▽れている。 大会に始まり、一九三六年ドイツ、ガルミッシ た。プリソンの死後、経営がし 小場瀬卓三他訳『マリヴォ / ポーマルシェ名 国際スケート連盟の歴史のなかでもっとも知ュ ・パルテンキルヘンの第四回冬季オリンピッ だいに悪化、七五年には右翼の 作集』 ( 一九七 0 ・白水社 ) られているフィギュアスケーターとしては、ノ ク大会では当時一一一歳、参加選手中最年少の稲 ね ) かキ一