ぺいそか 〔冷戦期〕第二次大戦後、一一大超大国となった 陸・海・空で両国間に激烈な核軍備競争が継続が急激に高まり、赤狩りとフレーム・アップ事に早くもソ連リトビノフ外務人民委員 ( 外相 ) を招き、関係打開の交渉を開始した。こうして米ソは、世界の多くの地域で激烈な冷戦と競争 件が相次いだ している事実に変わりはない。 に従事した。戦後米ソの勢力圏は要するに、ヤ 、ルーズベルト政権は、①アメリ ロシア革命後初期の米ソ関係について見落と三三年一一月 〔ロシア革命から第ニ次世界大戦勃発まで〕ロ ルタ会談などの結果であるよりは、第二次大戦 シア革命以前からアメリカ・ロシア関係はアジすべきでないのは、両国政府関係についてはとカ国内でコミンテルン活動を行わないこと、⑦ 旧債務を履行すること、などをソ連側に承認さ終結時における軍事力と占領との結果の反映に ア、とくに満州 ( 現中国東北三省 ) と朝鮮半島もかく、アメリカの多くの知識人、青年、技術 ほかならなかった。 で利害対立の関係にあったが、重大化するほど者、労働者が革命に共鳴して、初期社会主義建せたうえで国交関係樹立に踏み切った。しかし ますドイツは、ソ連と米英仏との占領の結果 ではなかった。一九一七年四月、アメリカの第設に物心両面で協力した事実である ( ロシア革アメリカ国内の不況にもかかわらす、三〇年代 しんかん に基づいて二つのドイツに分割され、ソ連占領 一次大戦への参戦で両国はともに連合国側にた命に関する古典的名著『世界を震撼させた十日を通じて米ソ貿易は期待するほどには進展せ 間』のジョン・リード、後の全米自動車労組ず、アメリカは日本・ドイツのファシズム膨張下の・ヘルリンだけがきわめて不自然に四国共同 ったが、七か月後にロシア革命による新ソビエ ト政権の大戦離脱、ドイツとの単独講和によ会長ウォルター・ルーサー、天才的舞踏家政策への対抗上、三七年以降は軍拡政策に向か管理のもとに置かれ、今日に及んでいる。一九 四八年のベルリン危機は、その最初の発現であ イサドラ・ダンカンなどはそのうちの著名人の り、アメリカを含む連合諸国 ( 英・仏・日ほ かなり った。朝鮮半島についても同様で、米ソの南・ 第二次大戦まで数年間の米ソ関係は、 か ) と社会主義ソ連との関係は厳しい敵対関係一部にすぎない ) 。しかし、第一次大戦後一九 北占領が朝鮮の分割をもたらした。四六年三 に一変した。翌一八年七月、連合国はシベリア二〇年代に最大の債権国としてアメリカが空前複雑であった。ヒトラーのファシズム台頭のな 月、イギリスのチャーチルは有名なフルトン演 の繁栄を祝福していた間は、米ソ関係を打開すかでソ連は英仏などとの集団安全保障を呼びか にいるチェコ兵救出の名目で、実際には反革命 ゅうわ 軍援助とソ連領土の一部占領を目的として対ソる条件は熟さず、主要な資本主義諸国がソ連をけたが、英仏はヒトラー宥和政策をとり続け、説で「鉄のカーテン」の語を初めて用い、翌四 への不干渉政策をとって七年三月、トルーマン・ドクトリンの発動によ 軍事干渉を開始した。アメリカのウイルソン大承認したあとも、アメリカだけはソ連不承認のアメリカはヨーロッパ いた。三九年八月、ソ連は反ナチスの原則を便って、アメリカは内戦下のギリシアとトルコを 統領は。ヘルサイユ講和会議で民族自決の原則を原則をとり続けた。しかし二九年秋に始まる大 ちゅうちょ 防衛線として両国への援助計画を開始し、ヨー 主張する立場からもこの干渉計画を躊躇した恐慌の深まるなかで、アメリカでも初めてソ連宜的に一時棚上げして、孤立化を避けるためヒ ロツ。ハにおける冷戦が本格化した。同年六月、 トラー・ドイツと不可侵条約を締結、翌九月ド が、日本軍の干渉への対抗上シベリアとべロル市場に過剰生産のはけ口を求める世論が高ま マーシャル米国務長官はヨーロッパ復興援助計 り、とりわけソ連の第一次・第二次五か年計画ィッが第二次大戦を引き起こすと、ソ連はポー シアに出兵して占領した。だが、白衛軍の敗北 につれて出兵の根拠もなくなり、アメリカ国内の成功とその恐慌免疫性が、アメリカにソ連不ランド東部に侵入してドイツとともにポーラン画 ( マーシャル・プラン ) を公表、ソ連・東欧 でも撤兵の世論も大きくなったため、他の国々承認政策を改めさせる気運をつくった。三二年ドを分割、さらにドイツのノルウェー占領に対の共産主義に対抗する資本主義西欧の再建と統 合 ( 後のにアメリカの指導で着手した。 の干渉軍よりも早く二〇年に米軍の撤兵を完了一一月フランクリン・・ルーズベルトは大統抗して、ソ連はフィンランドに侵攻した。その 間アメリカはしだいに連合国側に傾斜し、国内それは四九年の北大西洋条約機構 (Z<+O) した。しかしアメリカ国内では反ソ・反共旋風領選挙戦に勝利すると、大統領に就任する以前 では下院に反ソ・反共の非米活動委員会を設置結成によって、軍事的にも裏打ちされた。ソ連 も対抗的に東欧諸国と通商援助協定を結び、四 し、英仏を支援し、フィンランドを支援した と が、四一年三月、アメリカは武器貸与法で本格七年には戦時中の連合諸国との協力のため解散 的に英仏援助を開始、同年六月独ソ開戦となるしていたコミンテルンをコミンフォルムという 長大 記米 と、ソ連も連合国側としてアメリカの支援を受形で再建し、さらに四九年にはソ連東欧経済相 連ガ 互援助会議 ( 通称コメコン ) を結成して社会主 けるよ , つになった。 レ 〔第ニ次世界大戦と米ソ〕日本の真珠湾攻撃義陣営の結束を図った。それはやがて五〇年二 フる 月の中ソ友好同盟条約、またに対抗し ネす で、米ソは英仏などとともに完全に連合国とな しよう ジ名 り、アメリカは連合国の兵器廠の役割を果たすた五五年のワルシャワ条約機構へと発展した。 レ署 トルーマン・ドクトリンの発動でアメリカ ことになるが、アメリカの対ソ援助のサポター 約 日 し条 ジュ、ヨーロッパにおける第二戦線の設定の時は、朝弉の分割と沖縄の持続的軍事支配、朝 8 米で 月 訪ス 期、さらに戦後世界秩序の構想などをめぐり、戦争 ( 一九五 0 ~ 五三 ) 、日本の単独占領に基づく単 , 日ウ かハ米英とソ連との関係は、カイロ、テヘラン、ダ独講和と日米安保条約 ( 一九五一 ) 、アンザス な月ト 8 ZNDT) 条約などを結成、インドシナ戦争 ンバートン・オークス、ヤルタ、ポンダムなど さ 6 イ の年ワ ( 一九四六 ~ 五四 ) への実質介入と東南アジア条約機 の巨頭会談にもかかわらず円滑には運ばず、結 代ホ長 時四 局は戦後の「冷たい戦争」を伏在させたまま戦構、一九五四 ) と翌年の中東条約機構 セント 。し書 ト領意連争終結を迎える結果となった。とくに対日戦終などの結成によって、対ソ連包 ン統合ゾ タ大に 結前のポッダム会談では、ルーズベルト急死の囲網を完成する。中国革命後は、これに対中国 デ米約フ あと反ソ的なトルーマン大統領が原爆開発の成封じ込め政策が加わった。 ン条ョ アメリカの対ソ包囲網を突破しようとしたの ソ廃チ こ臨み、一方スターリンも、東 功にたって会談し ク全 欧諸国をドイツ軍から解放した実績のうえに会が、一九五七年、アメリカ本土を直撃しうるソ 係る z ゴ こ臨んだため、戦後の冷戦はむしろ必然の成連の大陸間弾道弾の実験成功であ 関すーと談し ソ談〕 ) った。これより先、ソ連は、アメリカより四年 8 り行きであった。 米ぼ佑 つつ ) 0 ナ
党大会ではスターリンを批判し、内外に大きな ハイドイツにおける自由主義運動の重要な一翼 一ん責任を追及して大きな反響を巻き起こした。一 衝撃を与えた。五七年六月にはスターリン批判 6 じ八九四年アカデミー会員に選ばれた。この『弟を担った学生団体。若者仲間の意で、「学生組 に反対するマレンコフ、モロトフなどの反撃に 子』を転機としてフランス伝来の宗教、道徳を合」ともいう。一八一五年六月イエナ大学で、 る あい、失脚しそうになるが、巻き返して逆に反 重んじる伝統主義者となり、『宿駅』 ( 一九 0 一 D 、従来出身地別に構成されていた学生団体ラント フルシチョフ派を追放、五八年三月にはソ連首 マンシャフト Landmannschaft の分立主義を 『離婚』 ( 一九 0 四 ) 、『真昼の悪魔』 ( 一九一四 ) 、『死の 相も兼任、名実ともにソ連の最高指導者となっ 意味』 ( 一九一五 ) 、『われらの行為はわれらを追う』否定して、単一の組織として結成された。中心 ョ た。五九年アメリカを訪問し、アイゼンハワー となったのは、リュッオー義勇軍に属して対フ ( 一九一一七 ) などの小説を発表。彼は若き日にテー チ 大統領と会談、米ソ共存路線を推進したが、中 ランス解放戦争を戦った帰還学生で、その軍服 ヌの影響によって実証主義の洗礼を受けたが、 シ 国との関係は悪化した。また農業生産も停滞し にちなんで黒・赤・金旗を採用し、名誉・自 一九〇五年にはカトリックに改宗、思想的にも それを克服しようとして行った機構改革も失敗 右傾し「アクシオン・フランセーズ」の政治運由・祖国を標語としてドイツの自由と統一を主 した。六四年一〇月に主観主義と主意主義の誤 動に加わるようになった。↓弟子〈新庄嘉章〉張した。運動は急速に拡大し、一七年のワルトクライナに近いロシア南部のクルスク県カリノ りを犯したとして批判され、党第一書記と首相 フカ村の炭鉱夫の家庭に生まれる。少年時代か プルク祭を契機に翌年一〇月全ドイツ・プルシ 。フル一ノエバリスキー HHK()J1a1i MHxaü- エンシャフトが結成され、一四大学がこれに参ら牧童として働き、一五歳のときに父が働くドの地位から解任された。七一年九月一一日、年 OBH 工 IlpxeBaJ1bcKHü/Nikolay MihaY10- 金生活中に死去。胸像のついた墓がモスクワの 、 ) 中央アジ加してドイツ自由主義運動の最初の高揚期を形ネッ炭鉱に入る。一九一五年に最初の妻ガリ vich PrzhevaI'skiy ( 天三九ー分 ナと結婚、一六年に長女ューリア、一八年に長ノボジェービチー修道院の墓地にある。七〇年 アを探検した帝政ロシアの将校。一八六七 ~ 六成した。メッテルニヒは、急進派学生・・ 九年のウスリー川探検を手始めに、七〇 ~ 八五ザントによる劇作家コツツエプーの暗殺事件を男レオニードを得る。一八年に共産党に入党と七四年に西側で『フルシチョフ回想録』が出版 機に、一九年カールスパートの決議を連邦議会し、発足まもないソビエト政権擁護のために反されたが、フルシチョフ自身は生前その存在を 年の間に四回にわたって、モンゴル、チベッ 〈中西治〉 に行わせ、。フルシェンシャフトを禁止して運動革命軍と戦う。一一一年に復員後ドネッ炭鉱に戻公式には否定していた。 、東トルキスタンを探検旅行し、八八年、五 り、一三年から三年間ドネッ工業専門学校労働 E)> ・ラッシュ著、安田志郎訳『ニキタ・フル 回目の探検準備中にイシク・クリ湖畔で死亡しを厳しく弾圧した。しかし、以後も秘密結社に シチョフ』 ( 一九五九・時事通信社 ) ▽・ポッ た。当時まだ世界地図のうえで空白であったアよって運動は続けられ、三二年のハンバハ祭以者予備学部で学ぶ。この間に妻ガリーナを二一 ききん ファ著、石川善之助訳『スターリンからフル ジア内奥部は、彼の探検によってその多くが埋後は黒・赤・金旗はドイツ自由主義運動全体の年の飢饉で失い、二四年にニーナと再婚。ニー シチョフへ』『フルシチョフ時代ーー・続スタ められた。また同時に多数の動植物標本を採集象徴となった。四〇年代には「進歩主義運動」ナとの間に息子セルゲイ、娘ラーダとエレーナ ーリンからフルシチョフへ』 ( 一九六一、 四八年の革の三児を得る。同学部終了後ドネッ炭鉱とキエ して新種を発表した。なかでも彼がジュンガリを形成して大学民主化闘争を行い、 一書房 ) ▽・クランクショー著、高橋正 命には指導者の一母体として積極的に参加したフで党活動に専従、二九年にモスクワの工業大 アで発見した野生のモウコノウマは、プルジェ 訳『フルシチョフーーその政治的生涯』 ( 一九 学に入学、ここでスターリンの妻ナジェジュ リスキーウマ ( プシバルスキーウマ ) の名で知が、革命の敗北後政治的意味を失った。↓ワル 六七・弘文堂 ) ▽・タルポット編、佐藤亮 られている。彼の探検は後進のコズロフやスウトプルク祭↓カールスパートの決議〈岡崎勝世〉ダ・アリルーエワと知り合い、スターリンの知 一訳『フルシチョフ最後の遺言』上下 ( 一九 エン・ヘディンに大きな影響を与えた。一方、布留式土器ふるしきどき近畿地方の古墳己を得る。三一年にモスクワ市のバウーマン地 しつよう 七五・河出書房新社 ) ▽・メドベージェフ、 時代前半期を代表する土器様式。奈良県布留遺区党委員会書記となり、モスクワ市党委第一一書 イギリスは、彼が執拗にラサを目ざしたことに ・メドベージェフ著、下斗米伸夫訳『フ 神経をとがらせ、対抗上ャングハズバンドをチ跡で一九三八年 ( 昭和一三 ) に発見された一括記、同第一書記、モスクワ州党委第二書記を経 ルシチョフ権力の時代』 ( 一久 0 ・御茶の水 べットに派遣している。主著に『ウスリー紀土器をもって、小林行雄らが設定した。通常こて三五年にモスクワ市・州党委第一書記とな る。三四年にソ連党中央委員、三七年にソ連最 書房 ) 行』『ロプノール紀行』『キャフタから黄河源流れらは古・中・新の三段階に細分されるが、前 つば ごカシミールの へ』などがある。↓モウコノウマ〈林俊雄〉二者においては、有段ロ縁の壺、直ロ縁球形胴高会議代議員に選ばれ、中央政界に足場を築フルシャスキー語 かんはけめこん く。三八年一月にウクライナ党中央委第一書記 北西部、ギルギット地方のフンザ、ナギュール 回加藤九祚他訳『黄河源流からロプ湖へ』 ( 一九をもっ坩、刷毛目痕をもっ薄作りの甕、段をも きだい に転じ、四九年一二月までウクライナで活動、で三万前後の人に話されている一一一一口語。世界中の って大きく開く鉢、小形丸底坩、小形器台など 六七・白水社 ) どの言語とも関係が明らかにされていない文 がある。美しく磨かれた精製品は多いが、各種とくに対独戦と戦後復興に尽力した。この間 。フル一ンエバリスク [lpxeBaJ1bcK/Przhe- たた val'sk ソ連南部、キルギス共和国イシク・クの装飾は姿を消し、伝統的な叩き目もはとんど四七年三月から一二月まで第一書記を辞し、ウ字はなく、過去の文献は残されていない。文法 クライナ首相を務めたが、すぐに第一書記に戻上の特色としては、名詞が、男性の人間、女性 消滅する。古段階に成立をみた小形丸底坩、 丿州の州都。天山山脈中のテルスケイ・アラタ ふもと った。また、三八年にはソ連党中央委政治局員の人間、動物と一部の無生物、その他の無生 ウ山脈の麓、カラコール川に沿う標高一七七〇形器台などいわゆる小形精製土器は、驚くほど し大別されていること の画一さをもって九州から東北地方に至る広域候補、三九年には同政治局員となり、ソ連の最物、の四つのカテゴリーこ の高地にある。人口六万二〇〇〇 ( 一九ハ六 ) 。 に展開する。新段階に入ると小形器台がみられ高指導部の一員となった。四九年一二月にソ連があげられる。一〇〇〇までの大きな数は二〇 革命 ( 一九一七 ) 前は半家内工業があったにすぎな ヒール、乳製品、織なくなり、小形丸底坩も粗雑化するなど、小形党中央委書記兼モスクワ州党委第一書記としてと四〇の倍数として数えられる。〈国広哲弥〉 カたか、革命後は食品、。 すえき へんばう 精製土器が解体する。こうして、須恵器との入モスクワに帰り、五二年一〇月の第一九回党大フールジュ Elémir Bourges ( 一八五 = ー 物、履き物の近代的工業都市に変貌した。一八 八九年まで、および一九二一 ~ 三九年までカラれ替わりが始まることになる。↓土師器↓布会では党規約の改正について報告、スターリ一一五 ) フランスの小説家。マノスクの生まれ。 〈岩崎卓也〉 ン、マレンコフに次ぐ党内第三位の実力者であ一八七四年バリに出、八一年『秀作評論』を創 コール KapaKOJ1/Karakol と称したが、ロシ留遺跡 ることを示した。五三年三月のスターリンの死刊、また『ル・ゴーロア』紙、『両世界評論』 アの探検家プルジェバリスキーを記念して改称フルシチョフ HHKHTa CepreeBHt1 XPY- おの 後、党中央委書記の仕事に専念、同年九月に正などに寄稿。第一作は新聞小説『斧の下に』 〈山下脩二〉 IIIéB/Nikita Sergeevich Hrushchyov たそがれ 公三、初出は『斧に触るな』 ) 。『神々の黄昏』 ( 天九四ー一九七 D ソ連の政治家。四月一七日、ウ式に第一書記となった。五六年二月の第二〇回 ( 一 " フルシェンシャフト Burschenschaft かめ
・ 4 一 0 -8 ワ】 0 0 -4 ・ 0 0 0 0 0 ^. 0 ワ 3 の権利をもっソフィア市 費 , 草産の能 - り・た。一九一二年に・フルガリアは第一次バルカン 0 ) ワワ 00 8 L.O ー・ 4 戸 0 消備の生ド産 ワワ 戦争でトルコに対して戦い、多くの領土を得たを含む ) と、地方自治体 で設生のン生 , 年野オの 程 が、マケドニアの領有などをめぐって対立し、 とに分けられる。それそ 過械多分フ中 る 0 ・ ) 0 8 -8 っー -4 っ 0 0 -4 《 0 -4 4 る定動 ワ】 11 産の機 ワ尸 0 《 0 ′ 0 生も , 畜ゅ固稼 圷ふ他のバルカン諸国を敵に回して戦 0 た一三年のれ人民評議会 ( 任期二年 らた置家らのに ィー 0 っ 0 ワ】 -4 っ 0 0 -0 0 0 0 -4 ー′ 0 0 第二次バルカン戦争で敗北し、先の戦争で得た半 ) をもち、社会、経 4 ・ 4 ・ 4 ・戸 0 -0 ・ かい装的あ中び = 0 ・ ) 0 4 ・・ 4 っワ】 8 0 一 4 ・ 00 っワ】 c•O 11 11 11 1 , 引動産の動ら 0 ・ ) - -0 1 《 0 8 / -0- 1 ー 4 ・つん 1 よ -0 領土の大部分を失い、さらに南ド・フルジアまで済、文化的諸問題を審議年 高し伝生済稼な 均 ワ】 0 1 、 0 「 / 8 -4 8 8 ワ】 LO 8 立厘至 ~ , か奴社 年 平 割譲した。第一次世界大戦ではドイツ・オースし、国立・公立企業の運 C) ワワ】ワ】一 1- -4 ・つ 0 11 っ 0 -4 ・一 4- -4 ワ朝 1 人・ 1 11 生を設要体民設出 C) ワ】《 0 -8 1 人 -0- 日 ) 総値施主総国建支 0 ) CO ・ 4 《 0 8 《 0 -0- るる 1 よ -0- トリア側にたって参戦したため領土を失い、エ営を監督する。 の価 年 ク 言門の物畜貨くしすよ ーゲ海への出口を失って巨額の賠償金を課せら〔外交〕ソ連の優等生と標 総部 , 建役財除新対 量 セ数 11 ヒ日 / ん 0 8 ( 0 ワ 3 11 -0- の産等た 諸を。に 扱 合員 れた。二〇年には農民同盟のスタンポリースキ 1 人 -0- 1 ー CO CO 年額生カれ段的どる上版 いわれるプルガリアの外 年 取 組職 産的電さ手質なれ向年 性 % 生質 , だ送物費さの が内閣を組織するが、彼の急進農本主義と対外交は、ソ連とまったく歩主 物 成 11 -. 0 1 0 ・ワ朝 -0 ) る 協者性牽は総物料り輸る作用備 る , れ試使装 協調路線が右派の反発を買い、クーデターで倒調をあわせて行われてい る ・働産生昇の ( 燃く ロ ′イ月値っムさ用に術 年年ド 営労生働所価様てズ用究的提出 された。一一三年には共産党の蜂起が失敗しテロ り 0 りん る。基本的には、一九六関 ン 国業働労質産の原っニ使研目び支 倖一 9 9 い兀 1 ・ 11 亠ロ が吹き荒れたが、ポリス三世 ( 在位一九天 ~ 四三 ) 七年に二〇年間の友好・ オ額関 る就労る実生物 ( よカ間学産よる 設 の 価 的産段にメ期科生おす 国 展 フ高総 野 け均・るけの 建信材び 質生手働 , 長 , 非 , 対 はこの混乱に乗じ策謀を用いて徐々に勢力を伸相互援助条約を結んだソ の 諸 発産得野定産資高送 お平けおり物総産労器他算び新に 分野び通資よ ン 年 に間おに当の的生的計の予よ更持 生所分固生投産輸 ばし、三五年には国王独裁制を敷いた。第二次連をはじめとする社会主済 済分よび , お門数 各 総民済総済生全 済年に門人々会た会 , そ家お維コ 済およ通給部総 大戦では枢軸側にたって参戦したが、四二年 に義諸国との友好である経 経 コ 経業業お流供産者 国質経業総用高出入の業部 1 歴れ置 , 溷的大 0 ' ・ 民民工林輸品術生業 労働者党を中心に「祖国戦線」が結成されて反が、近年はソ連同様西側 民会産物民工民業般易輸輸民一工設民 国社生 ( 国鉱国農一貿 国タ鉱建国注 国国鉱農運商技非就 ファシズム・パルチザン運動が開始され、四四との交流にも力を入れて 年九月ソ連が・フルガリアに宣戦を布告してプル いる。近隣のバルカン諸国との関係改善にも積 % に減少し、工業従事者が四五・四 % に増えてのプルガリアの農業経営 ( 国営、協同組合農場 ) いる ( 一九会 ) 。ただ、第七次五か年計画 ( 一九七六 ガリア領内に入った。九月九日に「祖国戦線」 極的で、八一年ソフィアで第三回バルカン会議 は、農場の統合による生産の専門化、集約化を のクーデターが成功してファシズム体制が倒 が開かれ、同年一〇月バルカン非核武装地帯化 ~ 含 ) では末達成の部門が多く、かって年平均促す農工複合体の組織により行われている。 れ、四六年には王制が廃止された。 を呼びかけ、ユーゴスラビアと長年紛争の種で工業増加率が一〇 % 前後であったが、六 % に低〔鉱工業〕工業化政策による各種工業、とくに 同年、人民共和国宣一言が発せられてデイミトあったマケドニアの帰属問題の解決にも努力し下した。今後、かっての急成長は望めないの機械、化学工業の発展に伴い、従来、食品工業 で、量から質への転換を図りつつある。 の比重の高かった。フルガリアの工業は、今日、 ロフ内閣が成立した。一九五六年にはソ連のスている。 ターリン批判の影響を受けて首相チェルべンコ 〔防衛〕ワルシャワ条約機構加盟国であるプル 〔資源〕資源に恵まれているほうではない。工機械製作・金属加工業が工業生産の第一位 ( 一 ネルギー源として石炭、石油、天然ガスの埋蔵九八四年の工業総生産の二三・九 % ) に躍進 フが失脚し、以来トドル・ジフコフを中心とすガリアは、近代兵器の多くをソ連に仰いでい る共産党の支配が続いて今日に至っている。↓ る。兵役は義務制で、陸・空軍二年、海軍三年量は少ないが、褐炭に比較的恵まれ、火力発電し、食品工業が第二位 ( 二四 % ) となり、つい 東欧史 〈寺島憲治〉である。兵力は総数約一五万人、うち陸車一〇に利用している。したがって、エネルギー資源で化学工業となっている。したがって工業製品 〔政治・外交・防衛〕〔政治〕一九七一年五月万五〇〇〇人、海軍一万人、空軍三万五〇〇〇の不足から原子力発電に熱心である。鉱物はの輸出が増え、コメコン ( 経済相互援助会議 ) 諸国でプルガリアの分担する工業製品 ( 電動リ に新憲法を国民投票で可決した。この憲法によ人で、そのはかに国境警備隊一万五〇〇〇人、鉛、亜鉛、銅がヨーロッパ諸国のなかでは多い れば、一院制の人民議会 ( 定数四〇〇人、任期民警一五万人といわれる。陸軍は機械化師団ほうで、開発が進められている。また、岩塩、フト、電気ケープル、電子工業製品 ) の輸出も 、戦車師団五で編成され、ソ連の別、大理石があり、化学工業、建設資材に利用して増加している。 五年 ) が内政、外交政策を決める最高機関で、 いる。なお、鉱泉は多く、温泉も各地にみられ 〔輸出入〕プルガリアの一人当り輸出額は一四 、 e 戦車一九〇〇台や地対地ミサイルをも 予算、国民経済計画を審議する。しかし、実質 三二ドル、輸入額は一四一七ドルである ( 一九会 ) 。 的には人民議会で選ばれる国家評議会が審議をつ。海軍はソ連の級潜水艦二、リガ級フリゲる。 ート艦二、ポチ級コルべット艦三、オサ級ミサ 〔農業〕プルガリアは農業生産物の自給が可能貿易額はここ二〇年間に一〇倍以上に伸びてい 行う。行政の最高機関は閣僚会議で、人民議会 イルポート六などがある。空軍は約二五〇機と な国で、野菜、果物類はいまも重要な輸出品でる。主要取引国は社会主義国が全体の七七・七 の監督下に活動する。政党は、共産党のほかに いわれ、ミグ幻飛行中隊五、ミグ・ミグ飛ある。農産額はかっての農作物生産中心から、 % 、先進資本主義諸国は一一・四 % 、他の東欧 農民同盟があり、八一年の人民議会選挙で九九 行中隊八、地対空ミサイルなどをもっている畜産の発達に伴い、両部門の産額がほば均衡し諸国と比べて西側との取引が少ない。西側先進 人の議員を出している ( 共産党は二七一人 ) 。 ている。農地は六一七万二〇〇〇診くうち耕国では西ドイツ、発展途上国ではリビアとの結 また、両政党のほか、労働組合、赤十字、スポ ( 一九会 ) 。 〔経済・産業〕近年の。フルガリア経済の変貌は 地三八〇万八〇〇〇く牧地一六八万三〇〇び付きが強い。輸出品は機械・設備類が総輸出 ーツ団体などが加入している祖国戦線 ( 一九四 = 設 / 麦、額の四七・七 % を占め、ついで食品分野が二 立 ) があり、プルガリアの経済、文化の発展を著しい。それは社会的総生産が一九六〇 ~ 八〇〇タである ( 一九会 ) 。農作物の栽培は、 ・三 % である。輸入は燃料・鉱物原料が四 年の間に五倍近くに、工業総生産が六倍に増えトウモロコシなどの穀物が耕地の五七・四 % を二 助長する目的で活動している。 六・九 % 、ついで機械・設備類が三四・一 % で 裁判所は最高裁判所、二八の県の裁判所、各ていることからも明らかである。その結果、国占め、工芸作物 ( テンサイ、タバコ、ヒマワ リ ) のそれは一四・一 % である ( 一九会 ) 。家畜ある ( 一九会 ) 。なお、プルガリアは国際観光に 地方自治体の裁判所があり、最高裁の判事は人力が向上し、東欧諸国のなかでは国情が安定し 民議会で選ばれる。また、検事総長も人民議会ている。かっての農業国も今日では工業発展がの飼育は他のバルカン諸国と同様ヒッジの飼育力を入れており、西側を含む外国人観光客の積 で選出される。地方行政は二八の県 ( 県と同等目覚ましく、農業従事者は就業人口の二一 が多い ( 一〇五〇万一〇〇〇頭、一九会 ) 。現在極的な誘致に努め、外貨の獲得を図っている。 へんばう 一三卩 680
ぶれじん プレシオサウルス / 復原図 cKafl/Ekaterina Konstantinovna Breshko- に、彼らの様式の特徴は、都市の建築や工場な家。一二月一九日、ウクライナのカメンスコ工遊覧用の手漕ぎのポートやスクーター、スピー ドを楽しむ巡航 ( 回遊 ) 用の推進機関を備えた Breshkovskaya ( 一会四ー一九三四 ) ロシアの女どのキュビックな形態を直線と面に単純化して ( 現ドニエプロジェルジンスク ) の製鉄労働者 性革命家。富裕な貴族の家柄に生まれる。一、 とらえる傾向があり、当時の写実系絵画にみらの家庭に生まれる。一五歳のときから働き始モーターポート、帆で走るヨットおよびこれに ぐうい 七三年「ブ・ナロード」 ( 人民の中へ ) の連動れた物語性、寓意性などをいっさい排除してい め、一九二三年に青年共産同盟に入る。二七年推進機関を備えたクルージングョット、沖合い に加わったが、翌年逮捕され、三年間投獄のある。対象の形を面でとらえる方法には分析的キ にクルスク農学校を卒業後農村で働き、三一年での釣りを楽しむ遊漁船、釣り客を釣り場 ( 岩 な′」り せわたしせん やきん と、北ロシアのカラへ流刑となる。九六年恩赦ュビスムの名残が認められ、面と面の境界とし に共産党に入党。三五年に郷里の冶金大学を卒場 ) に運んだりするのに用いる瀬渡船などが で釈放されたが、引き続き反政府の地下活動をてのエッジを鋭く明確に描き起こす特色をもっ業し製鉄技師となる。三七年にドニエプロジェある。 続けた。九九年ゲルシューニと「ロシア政治解ている。クエーカー教徒の家具がもっ簡素で平ルジンスク市長代理に選ばれてから政治活動に 海洋レクリエーションの普及とともに最近で 放労働党」の創設に参画。一九〇一一年同党が社 明な形を連想させるが、都市や農林風景を扱っ専従し、三九年にはドニエプロベトロフスク州 は海や湖でのレクリエーション用にいろいろの エスエル 会革命党 (cræ) に合流してからは、その指導たという意味ではアメリカン・シーン絵画の一党委員会書記となる。第二次世界大戦中は軍の遊具が出現しており、その内容もサーフポード 者の一人となる。一七年の二月革命後は臨時政種でもあった。 〈桑原住雄〉政治活動を指導し、戦後はウクライナやモルダ ( サーフィン ) に帆をつけてセーリングを楽し ビアで党活動に従事。五二年の第一九回党大会むセールポード ( ウインドサーフィン ) 、モー 府を支持し、十月革命後はポリシェビキに反対プレシチェーエフ AJ1eKce1i HHKOJlae- では中央委員に選ばれ、党中央委幹部会員候補ターポートに引かれて滑る水上スキーあるいは した。一九年アメリカに亡命、その後チェコス BHt1 [lJ1eLueeB/Aleksey Nikolaevich Ple- ロパキアやフランスで暮らした。〈外川継男〉 shcheev ( 一 0 五ー九三 ) ロシアの詩人、小説兼書記となる。五三年のスターリン死後一時格ジェットスキー、モーターポートに引かれてパ ラシュートで空中に舞い上がるパラセールなど プレシジョ一一ズム precisionism 精密家、批評家。貴族の出。士官学校を終え、ペテ下げされたが、五六年の第二〇回党大会で返り 主義。第一次世界大戦と第一一次世界大戦の間に 〈岩井聰〉 ルプルグ大学を中退してベトラシェフスキー会咲き、五七年には党中央委幹部会員となる。六 と多様化している。 アメリカでみられた絵画様式。キュビスト・リ に入り、危険思想ゆえに南ウラルに流刑され、四年のフルシチョフ失脚後、党中央委第一書フレジュス Fréjus フランス南東部、 アリズムともよばれるが、特定の主張をもった一八五九年モスクワへ戻る。第一詩集は四六年記、六六年からは書記長となり、七七年からは ール県の都市。人口三万二六九八 ( 一九公 I) 。コ 美術運動ではない。中心的な画家チャールズ・ ート・ダジュールのサン・ラファエル北西三キ 刊。雑誌『現代人』『祖国雑記』を拠点に進歩ソ連最高会議幹部会議長を兼務し、ソ連の党と シーラー ( 一公三ー一九六五 ) の様式から発生した呼的陣営で活動し、六〇年代初頭には創作活動の国家の最高指導者となる。七七年には、ソ連をにある保養都市。コルク、プラスチック、繊維 称とみられ、シーラーのほかデミュス、オキー 最盛期を迎え、三冊の詩集と一一巻の中・短編集発達した社会主義社会と規定する憲法を制定すの生産がある。紀元前四九年カエサル建設のロ フ、ディキンソン、スペンサーなどがいる。別を出している。 〈島田陽〉るうえで重要な役割を果たした。現職のまま八 ーマ軍港を起源とするが、海岸線の後退で海岸 二年一一月一〇日に死去したが、死後プレジネと港の間は運河となり、港湾都市の機能は衰退 名イマキュリスト ( 純潔派 ) ともよばれるよ , っフレシネ Eugéne Freyssinet ( 天七九ー一九 六 (l) フランスの構造技術者。オフに対する批判がおこり、七〇年代から八〇年した。市名は、「ユリウス ( カエサル ) の市」 プジアに生まれる。鉄筋コンクリ Forum Julii に由来する。司教座の所在地で、 代にかけてのソ連の経済成長率の低下や社会 ート構造物の設計をシャルル・ラ的・精神的・倫理的な欠陥についての責任が問 ~ 一二世紀の大聖堂や、円形劇場などのロ ビュ Charles Rabut に学び、一われた。プレジネフの遺体はモスクワの「赤の ーマ遺跡がある。思想家シェイエスの生地であ 〈中西治〉る。 〈青木伸好〉 九〇七年に中央フランスの道路工広場」に埋葬されている。 事局の技師となり、初期の鉄筋コ回プレジネフ選集翻訳委員会訳『プレジネフ選プレショフ preöov チェコスロパキア東 きようりよう ンクリート造の橋梁を建造した。 集 1 ・ 2 』 ( 一九大・モスクワ、プログレス出部の工業、交通中心都市。人口七万八〇〇〇 一三年、鉄筋コンクリート構造の 版社 ) ▽中沢孝之著『。フレジネフ体制のソ ( 一九会 ) 。トリサ川に臨み、鉄道、道路の分岐点 開発を行っていたリムザン工業会 連』 ( 一九七五・サイマル出版会 ) ▽ジョン・ド となっている。市の起源は一二世紀からで、一 社の主任技師となり、工業関係の ーンバーグ著、木村明生監訳『プレジネフ』 三世紀建造の教会がいまに残る。一六世紀には 建築物や倉庫をシェル構造やポー ( 一九天・朝日イ。フニングニュース社 ) トルコに占領された。主要な工業は機械、縫 ルトを用いて設計した。一六年にプレジャーポート pleasure boat 観光製、食品である。近郊にミルクオバールの産地 〈中村泰三〉 建設されたオルリーの飛行船格納や遊覧、釣りなどのほか巡航、回遊、帆走 ( セがある。 庫はその代表作品である。またプ ーリング ) などもつばら海や湖などでの娯楽まプレジンスキー Zbigniew Brzezinski レストレストコンクリート たはスポーツの用に供される小型の船の総称。 ( 一九一一 ) アメリカの政治家、政治学者。ポ 0) 工法を考案し、三三年から多 ーラ 1 ド 00 ~ 〉 ~ 0 生まれ。一九一一一〈年一 ート大学で博 層構造物や地下構造に用い多くの リカに移住、五ノ年帰化。、ーヾ・ 大規模土木構造物を実現させた。 士号を取得。六〇年コロンビア大学準教授とな 新しい技術が新しい造形を可能に り、六一一 ~ 七七年同大学教授。この間、共産主 することを生涯にわたって実践し 義問題研究所長を務めるなど、ソ連・東欧問題 〈藤原恵洋・村松貞次郎〉 の研究に従事。七七年カーター政権の国家安全 フ保障問題担当特別補佐官に就任。八一年からコ プレジネフ Jle0HHJ1 HJ1bHt1 ジ ロンビア大学教授兼ジョージタウン大学戦略国 bPOKHeB 、、、 Leonid ll'ich Bre- zhnev ( 一九 0 六 , ー全 ) ソ連の政治 プ際問題研究所顧問。著書には『ソビエト・プロ 7
ふいんら 行政区画 ンクン ラリスオキ シルアンポケンビスサルニ ルウ 一メウッ工オバ一ウ 県へ コミョクュハオロ ー八「 / っワ O っ 0 4 ・ LO 4 ・ -0- っー 4 な・ CO 4 ・尸 0 、 1 ワ《 0 「 / っ 0 「 / -9 」「 / . 年・【 0 ワ 0 っ 0 1 ・・「 / -. 0 っ 0 -0- -0 ・つ 0 ロ 8 1 人 / 0 一っー -0- 00 っ 0 ワ】 11 -0- 「 / ( 0 「 / っ 0 0 ワ」 1 よ・ 4 ・ -8 1 、つ 0 4 ・ ( 0 っこ阜」 、 1 1 よ 11 14 1 人 1 人ワ戸 0 -9 、 ロ男女 圦呂 ボマ 男年 ラス 主貝 マクナ ヤオ シルべ ミケリヒキサルヒ ⅱ〔 一ウハメ一ッカオス一ウッ 一「′「ー (. 0 -. 0 【 0 44 44 っ 00J っ乙フ」 1 ー 1 ー ウトアハキミ クケハオラ計 O L-n 0 LO 0 LI¯) O L.n 0 一 -0 0 L-n 0 0 - 冂 ) L.n O CD 「 / フー ( ) L-n L-n 44- 44- 「 0 勹 0 っつ」 県県①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑩⑩合お 域ともいえる。 ると、スウェーデンからの十字軍によってこれれに終止符を打ち、レーニン政権から独立の承 ッ , の庁院 湖沼台地はハメと南カリャラの一部を含むらの部族は次々とその支配下に入る。一方、南認を受けた。 ケ中ど市寺 前なは大 が、クオピオ県とミッケリ県からなるサポ地方東からはノ。フゴロド共和国が勢力を伸ばし、一 翌一九一八年プルジョア政府勢力と社民党革 キマ午花面に ばつばっ ンる日 , 正後る が中心で、ヨエンスーを中心都市とする北カリ三二三年スウェーデンとノブゴロド共和国との命勢力との内戦が勃発し、前者の勝利に終わっ シす毎菜。背い ル面。野つのて ャラが加わる。やや閉鎖的な森林地域で、一九 間にバヒキナサーリ条約が結ばれ、国境が確定た。共和国として新生したフィンランドは、こ へに場 , 立そっ 都港広魚が , 建世紀末まで焼畑が行われた。方一 = ロ、民俗文化のされたが、これによってカレリアは東西に二分のあと、国の安全保障を求めて苦難の道を歩み 首南ト鮮市舎が された。 点でも強い個性をとどめてい 始める。三九年九月、ドイツがポーランドに侵 る。小規模農家による酪農と林 一六世紀に入り、スウェーデンがデンマーク入し第二次世界大戦が開始されると、その直後 業は生産性が低く、農村人口はの支配を脱し宗教改革が断行されると、『新約の一〇月、ソ連はレニングラードの防衛を理由 急速に減少しつつある。もっと聖書』のフィン語訳 ( 一五四 0 もなされる。一七としてフィンランドに領土の交換等を求めた。 もスオミ的な地域といえる。 世紀のスウェーデン興隆期にはフィン人部隊は フィンランド側の非妥協的姿勢により交渉は決 国土を北西ー南東の線で区分勇名をはせたが、大北方戦争を機にフィンラン裂し、ソ連軍が侵攻を開始、「冬戦争」 ( 第一次 して、南西部を文化的フィンラ ドは何度かスウェーデンとロシアの角逐の場と ソビエト・フィンランド戦争 ) に突入する。フ ンド、北東部を自然的フィンラ 化した。一八〇九年には、ナポレオン戦争のあインランドは善戦及ばず、南東部を割譲せざる ンドとよぶこともある。また、 おりを受けてロシア皇帝を君主とする自治大公をえなかった。四一年独ソ戦が勃発し、フィン アハべナンマー諸島 ( スウェー 国としてロシアに併合されるが、スウェーデン ランドは第二次ソビエト・フィンランド戦争 デン語名オーランド諸島 ) は、時代からの諸制度は温存され、初めて国として ( 継続戦争 ) に巻き込まれる。四四年休戦協定 高度の自治権を有する以上の四の輪郭ができるなかでフィンランド人としてのを結んでフィンランドが戦線を離脱すると、ド 区分された地域とは別個の地域自覚が高まった。民族叙事詩「カレバラ」 ( カイツ軍はラップランドを徹底的に破壊した。一 となっている。 〈塚田秀雄〉 レワラ ) 集成などの文化運動も、しだいに支配方、ソ連に対しては、占領は免れたものの海軍 こんせき 〔歴史〕最初の人類文化の痕跡一一一一口語であるスウェーデン語との闘争へと高揚し基地の提供、大幅な ( 一二 % ) 領土割譲、賠償 がみいだされるのは紀元前七〇ていった。 などを強いられた。 はん 〇〇年ごろからである。しかし しかし一九世紀末からは汎スラブ主義の高ま 戦後は一九四八年にソ連と「友好協力相互援 現代フィンランド人はその直接り、国際対立のなかでのペテル。フルグ ( 現レ一一助条約」を結び、以後二人の大統領の名を冠し の子孫ではなく、紀元後一世紀 ングラード ) 防衛の必要などから、フィンランたノー、、 ノキビーケッコーネン路線」とよばれ ごろにフィンランド湾南岸から ドの自治権を奪おうとするロシア化政策が強行る対ソ協調路線がとられている。↓カレリア 移住するようになった民族とすされる。日露戦争の影響で一時ロシア皇帝の勢 ↓ソビエト・フィンランド戦争↓大北方戦争 るのが定説である。その後、南力が後退した一九〇六年には、それまでの身分 ↓パヒキナサーリ条約↓北欧史〈玉生謙一〉 西部からラドガ湖にかけて、ス制議会が一挙に普通選挙による一院制の国会に 〔政治〕一九一九年制定の憲法で任期六年の大 オミ、ハメ、カレリアの三大部変革された。ロシア化には暴力・非暴力による統領に広範な権限を与えている。議会は一院制 族が形成された。一二世紀にな抵抗が試みられたが、ロシア革命 ( 一九一七 ) がそで、比例代表制の選挙が行われる。小党が分立 ・ロ / ヾニ ーを オウル 气⑨。ク朝土ンスーノ ( こユ / ヾスキ彡 ハノリンナ ヘルシンキ コウボラ ウルク 200 km 10 ( ) 21 万人 注 : ' / 〃 / のれノ F ″尾 s " ( 1987 ) , Central Statistical Office of Finland による
うずでんりゅう 遺族を族滅するとともに、湖県に思子宮を建て でんりゅう 0 渦電流 がなければ訴訟は開始されないという基本原理フーコー電流 に対してなす必要があるが、刑事処分の場合に て自らの過ちを悔い嘆いた。武帝の後半期は巫 は検察・司法警察などの捜査機関に対して申告をいう。すなわち民事訴訟は、当事者の権利保フーコーの振り子ー・・のふりこ Foucau- 蠱の災いが多いが、これら事件の背景には、儒 する必要があり、懲戒処分の場合では懲戒権者護のための制度であるから、主体性を当事者側 lt's pendulum フランスの実験物理学者・ とうちゅうじよ ・・フーコーが一八五一年に考案した振り教思想家の董仲舒らにみられる「災異説」や に置き、裁判所は訴え ( 判決の申立て ) のあっ または懲戒権の発動を促しうる機関に対して申 た事項についてだけ審理判決し、積極的に訴え子で、地球の自転が単振り子の振動面に与える武帝の神仙趣味など、神秘的な傾向を一小す当時 告する必要がある。なお、申告は口頭によると 〈春日井明〉 のない事件、また訴えの範囲を越えた事項につ影響力を調べる装置である。鉛直面内で単振動の時代思潮の存在があった。 書面によるといずれでもよいが、自発的なもの いては判決しない、という原則である。行政訴をする振り子では、振動面に垂直な方向にはカプコビナ Bukovina ヨーロッパ東部、ソ でなければならないから、捜査機関の取調べを が働かないので、振動面が時間とともに変化す連とルーマニアにまたがる歴史的地域。カルバ 受けて虚偽の陳述をする場合には、本罪に該当訟もまたこの原則をとっている。〈内田武吉〉 さんろく 〈名和鉄郎〉フコース fucose 単糖の一種で、ヘキソることはない。これは慣性の法則によって当然ティア山脈北東の山麓地方をさし、シレト トニエストル川の上流地帯にあた ースであるが 6 位の酸素がとれたデオキシ糖、であるが、実際は地球上で単振り子を長時間にプルートリ、、、 不告不理の原則ふこくふりのげんそく nemo iudex sine actore を ' 刑事訴訟では、裁判すなわちメチルペントースでもある。 6 ーデオわたって運動を持続させながら観測すると、こる。面積四〇三一平方キ。。北部はソ連のウクラ の振動面が変わっていくことがわかる。 イナ共和国に属し、住民の多数はウクライナ 所は検察官の公訴の提起をまってのみ、そしてキシガラクトースに相当する。分子式は C6H12 ( ルテニア ) 人。南部はルーマニア領で、ルー フーコーは六七の紐の先端に二八キログラム 検察官が公訴の提起によって審判を求めた事件 05 で、分子量は一六四。天然に型と型が あり、型が一般的である。微生物、植物、動のおもりをつけ、これを約半日にわたって観測マニア人を相対多数とする多民族が住む。トル についてだけ審判をなすべし、とする主義をい う。公訴は、検察官の指定した被告人以外の者物に広く分布するデオキシ糖で、海藻細胞壁多した。すると、この単振り子の振動面は、実験コ領であったが、一七七四年にオーストリア にその効力を及ばさない ( 刑事訴訟法二四九糖、血液型多糖、糖タンパク質の構成糖として室で上から見て時計の針が回る向きに回転して ( 当時 ) のガリツィア地方に編入された。一九 一九年にルーマニア軍により占領され、ハリ平 いった。これは北半球での実験だからであり、 条 ) 。審判の請求を受けた事件について判決を存在する。コンプの多糖フコイジンを原料とし 〈池田加代子〉 て遊離の糖が調製される。 北極の上で実験すれば、この振動面は一日で完和会議でもルーマニア領とされた。一九四〇年 せず、または審判の請求を受けない事件につい しよとう Dao Phu- 全に一周することになる。振動面は慣性の法則六月にソ連はペッサラビアとともにプコビナの て判決をした場合には、絶対的控訴理由になるプーコック諸島 によって、つねに一定に保たれているが、地球割譲をルーマニアに要求、ドイツが難色を示し ( 同法三七八条三号 ) 。「事件」の解釈について quoc ベトナム南西部、シャム湾にある島。 は学説上争いがある。第一説は、訴因として主主島プーコックと属島のアントイ諸島からな自身が連動しているから、実験室も地球に固定たので、プコビナは北部のみがソ連に帰属し、 〈木戸蓊〉 されて運動するので、見かけ上、振動面が回転現在に至っている。 張された犯罪事実をいうとし、第二説は、具体り、カンポジア南岸に位置する。プーコックは していくようにみえるわけである。〈大槻義彦〉。フコフスキー BMJIHMHP KOHCHHTHHO- 的な当該訴因を含めた単一性、同一性を有する漢字で「富国」と記す。島頂は北東部の標高六 ぶてい 公訴事実をいうとする。控訴理由との関係で差〇三。南西側のドウオン・ドンが中心地で、巫蠱の乱ふこのらん中国、前漢の武帝 bYKOBcKHüZVladimir Konstantino ・ ) ソ連の反体制 蔔、七 ) 末期の内乱。木製の人形を vich Bukovskiy ( 一九四一一ー 〈内田一郎〉無電局や地方空港も置かれる。ベトナム南西端 ( 在位前一四一 ~ リ 異を生じる。 みこ のろ 民事訴訟では、当事者 ( 原告 ) の訴えの提起のハ・ティエン港との間に定期船があるが、南地中に埋め、巫によってこれに呪いをかけ、目文学者、生物学者。バシキール自治共和国に生 西モンスーン期には途絶することがある。島は的とする人物の寿命を縮めようとする邪術を巫まれる。一八歳から人権活動を行い、三四歳で えい きよおくりなれい 画がもてかい動考余 ソ連を出国するまで逮捕と釈放を繰り返し、う 森林に覆われ、漁業が盛んで、魚を原料とする蠱という。衛皇后の子の拠 ( 諡は戻太子 ) は 刻人にれははると 線ニ方か体てあ像道 ニョク・マムがつくられている。住民はベトナ皇太子にたてられて以来二十数年が過ぎた。こち一二年間をあらゆる型の監獄、矯正労働収容 の物上描 2 れの人海会 えいせい 窟段人のがのさ角た北員 〈別技篤彦〉のころになると衛氏一族の統領、大将軍衛青も所、精神病院で過ごす。彼の活動の足跡そのも ム人が多数を占める。 しりべし 洞下るそ物方化やし。委 のがソ連反体制運動史といえる。ます一九六〇 2 部踊 , 人右象鳥装る育フゴッペ洞窟ーーどうくっ北海道後志支すでに亡く、その勢力に影がさし始めていた。 ッ前にれの抽 , 仮れ教 ゴ壁下か人るりが にら町庁余市町丸山に所在し、内部の広さは約四二平武帝と皇太子の間柄も順調ではなかった。従前年に風刺雑誌の配布、および非公認の詩の朗読 ちよくししゅういししゃ フ南左描一 いなる物え市 方の洞遺跡。一九五〇年 ( 昭和二五 ) に奥から皇太子と反目していた直指繍衣使者 ( 三輔会を組織したことでモスクワの高校を追放され - 一うじゅう の監察官 ) の江充は、六六歳の武帝の衰えとる。六一年春、地下出版文芸誌『フェニック 壁に彫刻があることが発見され、五一年と五三 年に調査が行われた。洞窟の形成年代は後北式身の保全を考え、紀元前九一年七月、皇太子がスー礙』を発行したためにモスクワ大学を除 じゅそ 土器時代 ( 約一〇〇〇 ~ 一五〇〇年前 ) である武帝を呪詛していると上奏した。当時、病を得籍。生物物理学の学生であった。六三年六月、 かんせん といわれており、岩壁画は洞窟に遺跡と遺物をて甘泉宮に避暑中の武帝がこの告訴を受けて皇・ジラスの『新しい階級』を二冊所持してい たとして逮捕。反ソ扇動で訴追され、セルプス 残した「後北式土器人」によって彫刻されたと太子宮の地下を掘らせたところ、針の突き刺し いわれている。なお岩壁画については、「象徴てある人形が六個発見された。江充の策略であキー研究所の精神鑑定で責任無能力を宣告され 4 的に表現された文字以前の記号に類した原始絵る。もはや戦うのみと断じた皇太子は先手を打る。欠席裁判でレニングラード特別精神病院へ じゅじゅっ びおう 、画であって、未開社会の漁・狩猟生活や呪術って江充を斬り、末央宮を占領。武帝もただち送られ一五か月間拘禁され、そこで収容者の一 に関係がある」とされ、彫刻は人像、動物の仮に長安城内建章宮に帰り、両軍は五日間にわた割が自分と同じ政治犯であることを知る。六五 装した人像、その他経済生活あるいは呪術的演って戦った。死者は数万に及んだ。皇太子は敗年に釈放されたが、文学者ダニエルとシニヤフ スキーの逮捕に反対するデモを組織し、再逮 ー。 3. 技と関係あるも 0 などに区分されて」る。五 = 一れ、 = 〇日ほどのち、湖県 ( 陜西省 ) の民家に 〈大場利夫〉隠れているのが発見され、二人の王子ともども捕。精神病院をたらい回しにされるが、アムネス 年、国の史跡に指定された。 ・ニュ縊死したとも討ち死にしたともいわれる。乱後ティ・インターナショナルなど西側の圧力によ 回名取武光著『フゴッペ洞窟』 ( 一九七 0 えんぎい ・サイエンス社 ) まもなく皇太子の冤罪を知った武帝は、江充のり六六年八月釈放。六七年、短編集を発表。同年 2 ひも
っ 江崎玲於奈 ( トンネル効果発引 見 ) バーディーンら ( 超伝導の電 子対理論 ) z o 工作機械 〇最初の人工衛星スプートニク号、 ダイオード ( 江崎玲於奈 ) 、固体メーサー〇大陸問弾道兵器 ( ソ連 ) アメリカ航空宇宙局 ( Z<O< ) 設立〇 ていた。 「物理学は高度に発展した、ほとんど完成の域 に達した学問であり、エネルギー保存の原理の げつけいかん 発見によって月桂冠を頂くようになったいまと なっては、それが最後の安定な形をとるのもほ 自動化ライン ( ソ連 ) 〇 メーヤー ( 気体の凝引 ど遠くはないであろう」。これが当時の物理学 第ニ次世界大戦〇ー〇縮現象の統計力学 フィードバック理論 ( ポーデ ) 〇的研究 ) 者たちにほば共通した考えであった。 レーダー ( アメリカ ) 〇カビッツア ( 超流動田 実際、実験的にますます声価を高めつつ、理 現象 ) オートメーション〇 ( フォード自動車 ) 論的に整備された美しい形式を誇っていた力学 ランダウ ( 液化へリウム の量子流体理論 ) をはじめ、輝かしい数々の成功と統一的な原理 ドイツの科学、技術の戦争動員〇 圧電性強誘電体チタン貶 センチ波レーダーがイギリス戦闘機 @ で人々を魅了した熱力学、不可逆性をも解明し 酸バリウム発見 に装備される てみせた気体の運動学的理論、さらには電磁気 弾道計算のために電子計算機発〇ー⑩ 達 ( アメリカ ) 学の諸法則を一つにまとめあげたマクスウエル ーセル、プロッホ ( 水素原 大型リレー式計算機マーク—〇子核の核磁気共鳴発見 ) シンクロトロン加速の提案 ( マクミラン ) 〇 の場の理論、それによる光の本性の解明、ヘル トランジスタ〇 八 >0> の電子〉ルクロトロン〇 ツによる電磁場の検証と、力学・熱学・電磁気 ウィーナー「サイバネティックス」、〇 シャノン ( 情報理論 ) 学の全分野にわたって、理論・実験のいずれの バトラー ( 新粒子の発見 ) 七〇 >0> の電子シンクロトロン ( ーレンスら ) 〇ロチェスター がドレレっ 点接触型トランジスタ ( ショックレー ) 〇 六 za.'> のスタンフォード・マーク—ライナックハンソンら ) 〇絽ガードナー、ラッテス ( 中問子の人工創生 ) 面でも物理学は揺るがぬ牙城を築き上げたかの ネール ( 核磁気共鳴と化学的 / 三ニ 0>0> の電子シンクロトロン ( マクミラン ) 〇的湯川秀樹 ( 非局所場理論 ) 結合の形態との関係指摘 ) ようであった。 三五 (Q)> のマークⅡライナック ( スンブオⅡド ) 、〇 ⑩「アメリカの水爆製造反対」声明 ( ア 〇ー〇朝鮮戦争 しかし、このようないちおうの完成は、同時 インシュタイン ) 三〇〇のペータトロン〇 / ジョリオ・キュリ 、フランス原子力 フェルミ、アンダーソン ( 最初の共鳴状態の発見 ) に崩壊の芽を含むものである。物理学の発展が 委員会から罷免される ニ・ニの陽子シンクロトロン ( プルックへプン国立研究所 ) 〇 アメリカ大統領トルーマン、朝鮮戦争頂点に達したかのようにみえたちょうどこのお あらし 〇トランジスタ利用計画開始、子装置付き兵器開発 ( アメリカ ) で原爆使用もあると発言 泡箱・放射箱 り、物理学に変革の嵐が吹き始めた。いくつか 〇電子制御フライス盤 武谷三男、中村誠太郎、佐々木宗雄 ( 核力の方法論 ) 〇熱核爆発 ( アメリカ ) の分野の間でそれとなく現れていた矛盾が、境 〇マイクロ波の誘導放出 ( タウズら ) 泡箱 ( グレーザー ) 〇 〇乾性水爆 ( ソ連 ) 界領域を通じてしだいにはっきりしてきたので 一・ニ (Q)> のコーネル <U 電子シンクロトロン ( ウイルソンら ) 〇 ふくしゃ 〇原子力発電所 ( ソ連 ) ハイゼンベルク ( 非線型場理論 ) 〇集積回路 ( ダイマ↓ 〇ビキニ水爆実験、ノーチラス号進水ある。熱学と力学の境界の「熱輻射論」、力学 レーンズ、コワン ( 中性徼子の確認 ) ( アメリカ ) と電磁気学の間の「運動物体の電気力学」が、 アメリカ原子力委員会特別委員会、 六・ニ UO> の陽子シンクロトロン ( ローレンス放射線研究所 ) 〇 オッ。ヘンハイマーを危険人物と認定 量子論と相対性理論への糸口をつくる。 中野董夫、西島和彦、ゲルマン ( 素粒子の分類選択則 ) 〇原子力平和利用国際会議 ( ジュネー セグレ、チェンバレン ( 反陽子の発見 ) しかしもっと直接のきっかけは新しいさまざ 坂田昌一 ( 素粒子の複合模型 ) まの現象の発見であった。陰極線の発見、 X 線 楊振寧、李政道 ( パリアイ非保存の検証 ) 〇発電用軽水炉 ( アメリカ ) の発見、さらに続いておこったウラニウム放射 ホフスタッター ( 核子の電磁構造の発見 ) 〇第一回バグウォッシュ会議 放射箱 ( 福井崇時、宮本重徳 ) 〇 能からラジウムなど放射性元素の発見は、それ 一〇 c-5Q)> のシンクロファゾ + ロン ( ドブナ ) 〇 までの物理学とは違った新対象を準備した。陰 アルフア・ヘータガンマ ニ八 UO> の <0 陽子シンクロトロン ( ) 〇 極線の本体としての電子や、・日・了線が 引呉 ( バリティ非保存の検証 ) = 三 UO> の陽子シンクロトロン ( プルック ~ プン国立研究所 ) 〇 川修三、クライン、山口嘉夫 ( 素粒子の対称性 ) 解明される過程で、物理学はミクロ ( 極微 ) の 一・ OUO> のマークⅣライナック ( スタンフォード ) 〇 〇アイダホ国立原子炉試験場、 U)-J 領域ーー原子の世界へと踏み込んでゆく。これ 一ニ五の陽子シンクロトロン ( アルゴンヌ国立研究所 ) 〇 炉暴走事故 ( アメリカ ) 六 UO> のケンプリッジ <U 電子シンクロトロン〇 ⑩大気圏内・圏外、水中核実験停止条 らの領域でいままでの物理学の法則がそのまま プルックへプン国立研究所 ( ミュー中性徼子発見 ) 約 ( 米・英・ソ ) 成り立っことはけっして自明ではないが、かっ 〇中国、核実験 て天体の運動と地上の法則を一つの力学法則の ニ〇 o•> のニマイル電子線形加速器 ( スタンフォード ) 〇湯川秀樹 ( 素領域概念 ) 一 OOQ)> の <()5 陽子シンクロトロン ( コーネル ) 〇ワインバーグ、サラム ( 素粒子の電磁相互作用と弱い相互 もとに統一した物理学者たちからすれば、古典 七六 UO> の <0 陽子シンクロトロン ( セルプコフ ) 〇作用を統一する理論 ) 物理学の諸法則がここでも成り立っとするのは 湯川秀樹、片山泰久 ( 素領域理論の展開 ) 田 ⑩核拡散防止条約 ⑩米ソ戦略兵器制限交渉開始 いわば当然の成り行きであった。ところが、古 ニ八 00> の衝突型陽子シンクロトロン ( owæz ) 〇 〇高速増殖炉の初の原型炉臨界に達 典論による解明が続けられる過程で覆いがたい する ( ソ連 ) 五〇〇 00> の陽子シンクロトロン ( フェルミ国立研究所 ) 〇 矛盾が現れ、古典物理学への不信、ひいては絶 〇ビーチボトム発電所 小林誠、益川敏英 ( 六種のクオークが必要なこと指摘 ) チン、リヒター ( 第四のクオークの存在立証 ) 望感が現れてくる。とりわけ、原子が不変でな ⑩スリーマイル島原子力発電所事故 タウ粒子とそれに伴うニュートリノ発見 ( アメリカ ) いことの発見や、電子の質量が速度によって変 四 OOOO> の陽子シンクロトロン ( ) 〇 ⑩チェルノブイリ原子力発電所事故 わることの発見は、それまでの物質観にとって ウブシロン粒子発見 ( ソ連 ) は強い衝撃であり、広く危機意識を生み出すこ 〇半導体集積回路 車事衛星トラシット ( アメリカ ) ⑩ 〇半導体、電子計算機の能動素となる 〇レーザー実験 アポロ計画 ( アメリカ ) 〇 〇電子計算機小型化進む 多核弾頭ミサイル配備 ( アメリカ ) ⑩ 〇超 -JU)— スペースシャトル打上げ ( アメリカ ) 〇 ス。ヘースシャトル事故 ( アメリカ ) ⑩ チャドウィック ( 中性子の発見 ) デイラック ( 複数電子系を扱った多時間理論 ) ウイグナー、ザイツ ( 結晶の電子工ネルギー帯理 静電起電機 ( デュープ、ハウスタット、ダール ) 〇 〇反戦声明 ( イギリス科学者 ) 論、金属・絶縁体・半導体の区別を明らかにする ) 五・〇 >0> のサイクロトロン ( ローレンス、リビングストン ) 〇 ⑩バナール「科学の社会的機能』 一・ニ >0> 静電起電機 ( デュープ、ハウスタット、ダール ) 〇 引フェルミ ( 崩壞の理論 ) 0 ・七の高圧静電起電機 ( ハープら ) 〇 引キュリー夫妻、フェルミ ( 人工放射能の発見 ) 八・〇 >0> のサイクロトロン ( ローレンス、クックセイ ) 〇 ニ・七の高圧静電起電機 ( ハープら ) 〇湯川秀樹 ( 中問子論 ) 〇リチウム原子核破壊実験 ( コッククロ サイクロトロンの相対論的限界 ( ペーテ、ローズ ) 〇 フト ) 、ウラン核分裂の発見 ( ハーン、 シュトラスマン ) サイクロトロンへのセクター収束法提案 ( トーマス ) 〇 六〇インチ・サイクロトロン ( ローレンス ) 〇 〇ー〇第ニ次世界大戦 サイクロトロンにより中性子を天然ウランに衝突〇引アンダーソン、ネッダーマイヤー ( 宇宙線中問子の発見 ) させ、最初の超ウラン元素をつくる ( マクミラン ) ーン、シュトラスマン ( 原子核分裂の発見 ) ニ・三 >0> のペータトロン ( カースト ) 〇 @実験用原子炉 ( フェルミ ) ニ〇のペータトロン ( カーストら ) 〇貶坂田昌一、谷川安孝、井上健三中問子論 ) シンクロトロン 〇広島・長崎に原爆投下 朝永振一郎 ( 超多時間理論 ) 75 74 73 418
に『ガリバー旅行記』、より近くはデイケンズるものまで、幅が広い 帖本 ) 花伝書』の固有名詞であった。 し 論集』 ( 一殳一一・小学館 ) ▽表章・加藤周一校た 人間が絵を描くことを知った時点から風刺画 構成は七段である。まず能の役者の心構えを 注『日本思想大系幻世阿弥禅竹』 ( 一九 、フ『荒涼館』、ジョイス『ュリシーズ』の一部分、 オーウエル『一九八四年』などがある。 は存在したと思われる。土や砂の上に他人の容説く「序」。年齢別カリキュラムである「第一 七四・岩波書店 ) ▽田中裕校注『新潮日本古 ねんらいけいこ 〔視覚的な風刺〕初めに一小した風刺の本質は、姿の欠点を誇張して描く風刺画などは当然存在年来稽古条々」では、七歳から稽古を始めよと 典集成世阿弥芸術論集』 ( 一九七六・新潮社 ) 言語によってもっともよく現実化することがでしたであろう。紙、筆、墨、顔料などが発明さ説き、一七、八歳のスランプの時期の乗り切り ▽馬場あき子著「古典を読む風姿花伝』 きるとはいえ、造形的な表現を拒むものではなれてからは風刺画は無数に描き出された。古代方、デビューのころの注意から、花の盛りの年 ( 一九会・岩波書店 ) つば い。「風刺画」は別項があるが、風刺漫画につ のものでは、ギリシアの壺、水差し、甕などに代、四〇歳以降の撤退作戦など、七期に分けら封じ込め政策ふうじこめせいさく contain ・ こうぎんじ ものまね いて一言するならば、落書きのようなものを除描かれた飾り画や、京都・高山寺の『鳥獣人物れている。「第二物学条々」は、演技総論に続 ment policy 一九四〇年代末期のアメリカの ふんそう けば、宗教改革期に盛んとなり、マスコミの発戯画』などがある。さらに木版画、銅版画など くジャンル別の演技論 ( 扮装論が主軸 ) であ対ソ外交政策。提唱者は国務省政策企画部長ジ ひためんものぐるい しゆら 達とともに発展してきたとみてよい。一一一口語の場の版画技術が発達してくると、不特定多数のり、女、老人、直面、物狂、法師、修羅、神、ヨージ・ケナン。ケナンは一九四七年『フォー から ) と 合以上に複製手段が重要だからである。最後に人々に見せることを目的として描かれるように鬼、唐事の九分類となっている。「第三問答 リン・アフェアーズ』誌七月号に匿名で「ソ連 風刺的映画に目を転するなら、チャップリンのなる。江戸中期の「鳥絵本」、一七世紀以後条々」は、世阿弥の質問に観阿弥が答えた形との行動の源泉」と題する論文を発表、そのなか 『モダン・タイムス』と『独裁者』が代表作でのカロ、ホガース、ローランドソン、ゴャらのも考えられ、演出論、芸位論、能の美学論などで、ソ連の進出を阻止するには、世界的な規模 しんぎにいわく あることは、衆目の一致するところである。↓ イ品がその例である。 を内容とする。「第四神儀云」は、内容も文体でソ連の周辺国に対し経済的・軍事的援助を与 風刺画 〈佐々木健一〉 風刺画の歴史に革命をもたらしたのは一八世も違っており、座に伝わる能の発生、歴史、伝え、ソ連の封じ込めに成功すれば、ソ連は内部 はたのかわかっ @Z ・フライ著、海老根宏他訳『批評の解剖 紀末の石版画技術の発明である。そのスピーデ説が書かれている。能の始祖の秦河勝を、秦から崩壊すると主張した。事実、一九四〇年代 ( 第三ェッセイ ) 』 ( 一九含・法政大学出版局 ) ィーで大量に制作できる特性によって、ジャー の始皇帝の生まれ変わりとするなどの説も語ら末期のアメリカの対ソ外交政策はほばこの方針 ▽・ホジャート著、山田恒人訳『諷刺の芸ナリズムのなかに風刺画が登場してくる。新たれるが、能の役者の伝承意識を知るうえで貴重の下に実施され、四七年三月のトルーマン・ド 術』 ( 一九八三・平凡社 ) に時局問題をテーマにして政治的主張や教育宣である。 クトリン、同六月のマーシャル・プラン、四九 ) 中国伝的内容を盛り込むようになる。パリ・コミュ 後編は、別の「序」をもち、「奥儀云」は、年の北大西洋条約機構 (Z<+O) の設立など 馬至ふうし / フォンチー ( 一九 0 五ー やまとさるがく おうみ ーン期の風刺画使用の宣伝戦はよく知られてお世阿弥の属した大和申楽と、近江申楽、あるい 一連の経済・軍事援助政策の展開となった。し の詩人。河北省泝県の人。一六歳から詩作を始 でんがく かし四九年のソ連の原爆保有、五〇年の朝鮮戦 め、『創造季刊』誌上にデビュー。叙情詩人と り、その精神は今日でも漫画の主要な機能とし は田楽との芸風の違いを説くが、観客の好みは して魯から最高度の賛辞を受けた。詩集『昨て生き続けている。 まちまちだから、どの芸でも演じうる幅広さを争の勃発などは「封じ込め政策」立案者の予想 日の歌』 ( 一九一一七 ) 、『北遊其他』 ( 一九一一九 ) を刊行後 なお、「風刺画」とカリカチュアと同一視すもつべきだとする。あらゆる観客層へのアピー を裏切る結果となり、五〇年代に入ってアメリ かしゅ、つ ドイツに留学。抗日戦後期には西南連合大学でる主張もあるが、「カリカチュア」は戯画・風ルこそ、観阿弥の主張であった。「第六花修力の対ソ政策は、より強硬な「巻返し政策」 きようべん 教鞭をとるかたわら沈潜思索、『十四行集』刺画の両要素を含む「漫画」に近いことばだと云」は、能作論であり、演技論であり、観客論「大量報復政策」「瀬戸際政策」などといわれた いえる。↓漫画 〈藤村瞬一〉 〈清水勲〉であり、演技者の比較論である。「第七別紙ロダレス強硬外交へ転じた。 ( 一九四一 l) を出す。一九五六年共産党に入り、『西 でん 郊集』 ( 一九五 0 で詩風一転した。『杜前伝』 ( 一九 E)> ・ホジャート著、山田恒人訳『諷刺の芸 伝」は、目標として追求してきた魅力の美学風刺文学ふうしぶんがく人間や社会の現実 術』 ( 一九七 0 ・平凡社 ) ▽須山計一著『抵抗の「花」の解明であり、なぜ植物の花に例えたのを批判、攻撃する意図をもって描かれた文学 五一一。邦訳名『杜甫詩と生涯』 ) やハイネの翻 おもしろ ベキン わらいえ 画家』 ( 一九七一・造形社 ) ▽清水勲著『嘲笑絵か、花は面白さであり、それは珍しさにほかなで、機知に富んだものが多い。↓風刺 訳もある。北京大学教授、社会科学院外国文学 〈木山英雄〉 研究所所長。 世界への旅ーー。諷刺の漫画館』 ( 一九全・中央らないと、明快な論が展開される。観客との相風車ふうしや風の力を利用して動力を得 公論社 ) 対関係のなかでしか成立することのない舞台芸る機械。自然力を動力源にしている機械として 風刺画ふうしが漫画の一分野。漫画をあえ ぜあみ ものまわ は、水車とともに代表的なものである。いつご て定義すると、「風刺」の要素あるいは「遊び」風姿花伝ふうしかでん能の大成者世阿弥の術の本質が語られ、物真似論、「十体」と の要素を含んだ絵画といえる。両要素がバラン 能楽論で、日本を代表する芸術論。一四〇〇年「年々去来の花」による無限の変化を実現するろから、どこで風車がつくられ、使われるよう かんあみ おどきめどき くふう、「秘すれば花」の真実、「男時女時」の になったかは、さだかでない。見聞としては、 スよく含まれた絵画は漫画として非常におもし ( 応永七 ) に三編までがまとめられ、父観阿弥 一〇世紀初頭に大旅行をしたアラビアの地理学 ろい。「遊び」の要素の強いものは一般的に戯の教えに基づいて著したものである。ただ一人理論が語られる。 この『風姿花伝』は世阿弥四〇歳前後から者が、ベルシアで風車を見た、としている。 の真実の後継者に能の真髄を伝えようとして書 画とよばれ、同様に「風刺」の要素の強いもの はん 今日では、風車は東方で発明され、それがヨ かれた秘伝であるが、汎演劇論として、芸術論の、彼の初の理論書であるが、観阿弥理論から は風刺画とよばれる。 かぎよう の脱皮の意図ともされる。六〇歳代の『花鏡』 ーロッパに導入されたのであろうとされている として、教育論、人生論、魅力の美学として、 人間社会には不合理や矛盾が満ちあふれてい でんば が、どのようにしてヨーロッパに伝播したの るから、それに対して反発する気持ちはだれに不滅の価値をもつ。書名については世阿弥自身はそれ以後の理論と世阿弥自身述べているが、 はっきりさせることはできないヨーロッ でもある。そうした抵抗心・批判精神を絵とし「風姿花伝と名づく」といっており、略する場世阿弥後年の能楽論の大綱はこの『風姿花伝』 にあるといってよい。↓花鏡 〈増田正造〉 パの学者のなかには、その起源を東方とする説 て表現したものが風刺画である。したがって風合は「花伝」であるから、「花伝書」という俗 刺の対象とするものは人間であり、事物や動物称を用いるのは正しくない。「花伝書」は、室回『風姿花伝』 ( 岩波文庫 ) ▽能勢朝次著『世に疑問を呈している者もいる。その理由は、風 阿弥十六部集』 ( 一九四 0 ・岩波書店 ) ▽西尾実車に関する文献が全然見当たらないこと、そし などを使って風刺するものも、その裏に人間批町後期からの能の伝書の全体、そして立花の教 えをさすことばであり、一九〇九年 ( 明治四 他校注『日本古典文学大系歌論集能楽て東方に風車がそれはど残っていないことをあ 判が隠されている。風刺画は、人間性そのもの げている。 論集』 ( 一九六一・岩波書店 ) ▽表章他校注『日 を風刺するものから、仲間や周囲の社会を風刺一 I) に吉田東伍が初めて翻刻するときに用いた はち ヨーロッパでは一〇世紀末から一一世紀初頭 本古典文学全集連歌論集能楽論集俳 するもの、さらには一国の最高権力者を風刺す名称であり、また室町末期の能の指導書『 ( 八 と - っ ) 」 かめ じよう しん ばつばっ
だえん ゆえに課税を免れる場合が生じうる。また、再がある。小葉は五 ~ 七枚、長楕円形または広披ア・ローマ ) 古代史を研究、『キオス島考』をわれた第一次のソビエト・フィンランド戦争。 針形で長さ五 ~ 一〇拜 ' 、先端はとがる。雌雄異発表し ( 一会六 ) 、『ポリビオス研究』で学位を一九三九年ドイツの対ポーランド電撃戦が終了 分配の目的で所得税の累進税率を高くすると、 ようえき 得、一八六〇年からストラスプール大学の教すると、ソ連はドイツとの秘密取決めに基づき 勤労意欲や貯蓄意欲を損なったりして望ましか株。夏、葉腋に総状または複総状花序をつく り、かすかな香りのある小さな淡黄色花を開授、六四年『古代都市』ゞ citéをミを刊西部国境の安全保障強化に着手し、レニングラ らぬ効果が生じうるが、富裕税は、このような ード防衛の見地からフィンランドに領土交換要 。果実は卵円形で長さ約五、、リ、表面にいばが行。古代ギリシア・ローマの社会的結合が宗教 所得税の不完全性や欠陥を補完するために課さ ーシキ れるものである。わが国では、シャウブ勧告にあり、赤色に熟し、やや辛味がある。種子は黒 ( たとえば家族統合での祖先崇拝など ) によっ求を出した。フィンランド側では、パ ビ、マンネルヘイム将軍などの妥協の必要を説 従い一九五〇年度 ( 昭和二五 ) に創設され、こ色で光沢がある。山地の林内に生え、関東地方て規制されていることを強調して有名になる。 く意見もあったが、政府は世論にも押されて強 れに応じて、所得税の最高税率が八五 % から五以西の本州から沖縄、および朝鮮半島、中国、七〇年から母校エコール・ノルマルの教授。七 ヒマラヤ、インド、ビルマ、フィリピンに分布五年からバリ大学で中世史を講義し、七八年正硬な態度をとり、スターリン自らが交渉に参加 五 % に引き下げられた。しかし、納税者の反対 が強く、また財産価値の評価の困難さのゆえに、する。名は、サンショウの仲間であるが、冬に式の教授。八〇 ~ 八三年エコール・ノルマルのしたにもかかわらず、モスクワ交渉は決裂し 〈古澤潔夫〉学長を務め、のちふたたび。ハリ大学教授。代表た。まもなくソ連軍は、国境全線にわたって侵 〈林正寿〉も落葉しないことによる。 五二年度限りで廃止された。 フュージテイプ The Fugitive 一九一一一的著作は前記『古代都市』のほかに、『古代フ入を開始し、国境付近の村に亡命フィンランド 浮遊生物ふゅうせいぶつ 0 プランクトン 〇 ~ 四〇年にかけてアメリカのアカデミズム文ランスの政治制度史』ミ、 e des s ミミ共産党による「人民政府」をたて、本土政府を 蜉蝣類ふゅうるい 0 カゲロウ せつけん は」冖」ゅっ 冬毛ふゅげ温帯や寒帯に生息する哺乳類学批評を席捲したニュー・クリティシズムの温を一ミ ) 、をミミ 3 6 vols. ( 一八七五無視する態度をとった。圧倒的なソ連軍に対し *ll) がある。この著作で彼は、封建制度の形フィンランド軍は緒戦で善戦。国際連盟は三九 の、冬にみられる毛衣をいう。夏毛に比して上床となった詩誌。複数形 ( ザ・フュージティ。フ 毛の毛足が長く、その下に細い綿毛 ( 下毛 ) をス ) にするとバンダービルト大学にランサムを成におけるゲルマン的要素よりも、ローマ的要年一二月、ソ連を追放してフィンランドを支援 したが、期待したスウェーデン、ドイツからの 密生して大量の空気を蓄え、冷たい外気から体中心に集まった同人を意味する。一九二一一年四素の重要性を主張した。彼の歴史研究は徹底し を遮断し、体温が低下するのを防ぐ働きをす月に創刊し二五年一二月に終刊。ランサム、テた原典史料の文献学的研究を基礎とする実証的援助は得られなかった。ソ連は戦局を有利にし つつあったが、英仏による干渉の動きをみてフ 立場にたち、その点で、一九世紀末のフランス ート、ウォーレン、・フルックスらが現代アメリ る。上毛自体が夏毛より太く、その髄部に空気 〈前川貞次郎〉 インランド本土政府との交渉に入った。四〇年 を蓄えるものもある。毛色は、夏毛よりわずか力を代表する批評家として育っていったが、一史学に大きな影響を与えた。 三月モスクワ条約が締結され、フィンランドは に淡いだけのこともあるが、ニホンジカでは白五年あたりからランサムとともにグループ結成フューズリ Henry Fuseli ( 一七四一ー はんてん い斑点がなくなり、テンでは黒褐色から鮮黄色に力を尽くしたシドニー・ヒルシュの名も忘れスイス生まれのイギリスの画家。スイス名大幅な領土割譲、軍事基地貸与を強いられた。 ↓ソビエト・フィンランド戦争 〈玉生謙一〉 J0hann Heinrich Füßli 。チューリヒに生ま に、ユキウサギ、トウホクノウサギ、オコジてはならない。自分たちを北部の「工業家」に りつりよう ふゅそでん律令制下で田租を免 ョ、イイズナなどでは褐色から白色に変わる。対し「農本主義者」と名づけ、伝統と技巧を軽れ、ロンドンに没。初め神学を学んだが、・レ へノ不輸租田 リン滞在中イギリス大使に画才を認められ、一除し、その分を給主の得分とされた水田。耕作 冬毛には、秋に新たに生ずるものと、夏毛が伸視せず成熟した精神の行為として文学を規定し た点が、このグループの特色であった。↓新批七六四年ロンドンに渡る。六八年レノルズの勧農民が免租されたわけではない。輸柤田に対す び下毛だけが新たに生ずるものとの二つの場合 がある。 〈今泉吉典〉評 〈森常治〉めで本格的に絵画に取り組むことになり、七〇る。官田、神田、寺田などが属する。田租のか りんし フュサンコ「冬珊瑚〕 s 。きミミ・フュシャク〔冬尺蛾〕昆虫綱鱗翅目シャ年から八年間をイタリアに学ぶ。その間、ミケわりに地子を納める輸地子田を含めることもあ 〈竹内理三〉 クガ科に属するガのうち、晩秋から早春の寒冷ランジェロの作品から決定的な影響を受け、ウる。↓輸租田 c s ミ L. ナス科の常緑または半落葉の小 低木。高さ一 ~ 一・五、よく枝分れし、小枝期に成虫が羽化して、交尾、産卵する一群の総インケルマンなどの知遇を得た。またシェークフュッセン Füssen 西ドイツ南部、バイ だえん は緑色。葉は互生し、長楕円形または披針形で称。これらのガは、幼虫は樹木や低木の新芽がスピアを主題に数多くの素描を制作し、帰国後エルン州、オーストリアとの国境に接する都 長さ五 ~ 一〇垰一、先は丸みを帯びて基部は狭ま出る春に孵他し、葉を食べて初夏に蛹化すると『夢魔』 ( 一天一 ) や『三人の魔女』 ( 一大 = = しの市。人口一万二八九〇 ( 一〈〈 0 ) 。八世紀にスイ ような幻想味あふれるグロテスクな作品を描スのザンクト・ガレンからきた宣教師によっ いう習性をもち、日本で三〇種近く知られてい り、縁は波状、表面は光沢がある。七 ~ 九月、 九〇年ロイヤル・アカデミー会員に選出さて、町の基礎がつくられた。アルプス北麓、レ 葉と対生して、一 ~ 数個の白色花を開く。花冠る。これらのシャクガは、ホシシャク、ナミシく。 さかずき ッヒ川沿いに位置し、中世の交易路の要地とし ヤク、エダシャクの三つの亜科に所属し、いずれ、九九年には同絵画教授に就任。また同年、 ~ 一・五垰一、裂片は は杯状で五中裂し、径一 て発展した。その後衰退したが、一九世紀末に 広披針形で平開する。液果は球形で径約一・一一れも雌ははねが退化して飛ぶことができず、習ジョン・ポイデルのシェークスピア・ギャラリ ーに倣って、自作四七点をもってミルトン・ギレッヒ川の急流を利用して建設された麻工場が 一一月ころ紅色に熟して美しく、成熟し性が類似している。そのなかで、フュシャクと 一時この町を再興した。ウュルップルクとの間 ャラリーを開設したが、世評はあまり芳しくな たのちも樹上に長く残る。名は、この果実をサよばれる九種は、ホシシャク亜科に属し、雌の かった。彼はダンテ、シェークスビア、ミルトを結ぶいわゆる「ロマンチック街道」の南の起 はねは完全に退化している。幼虫のなかには、 ンゴに見立てたもので、別名タマサンゴともい 点で、夏の保養地として知られるほか、近くに ンの文学作品などから好んで主題を選んだが、 害虫として注目されるクジュウフュシャクのよ う。。フラジル原産で、明治中期に渡来した。品 きりしま だいだい うに、九州の霧島山で、ミャマキリシマの群落それを彫塑的な人体からなる動的な構図のうちホーエンシュバンガウ城、ノイシュバーンシュ 種に果実が橙色のものや矮性のものがある。 〈谷田博幸〉タイン城という二つの名城があり、その観光基 に描き出した。図マクベス 鉢植えにして観賞するほか、切り花用にもすに多発して、大きな被害を及ばしたような種も ーンシュタイ 地ともなっている。↓ノイシュバ 〈井上寛〉回 z ・バウエル著、辻井忠男訳『アート・イ 〈小林義雄〉 る。繁殖は挿芽による。 〈石井英也〉 ン・コンテクスト 4 フューゼリ / 夢魔』ン城↓ロマンチック街道 り・フュサンショウ〔冬山椒〕 z 、ぎ・フュステル・ド・クーランジュ Nu ・ ( 一九七九・みすず書房 ) 夂一鳥ふゅどり winter visitor, winter XJ き、きミミ DC. ミカン科の常緑低木。高 ma Denis FusteI de coulanges ( 天 = 0 ー フィン 一九 resident, winter bird 北半球の温帯でつく ゅ・さ約三。各枝が分枝する節に、対生する扁平〈〈 ) フランスの歴史家。高等師範学校を冬戦争ふゅせんそう TaIvisota 三九 ~ 四〇年にフィンランドとソ連との間で行られた概念で、ある地域に秋になると現れてそ 、かな勅がある。葉は奇数羽状複葉。羽軸に広い翼卒業後、アテネのフランス学院で古典 ( ギリシ へり わいせい ひしん しん
腕渡りも下手であったと考えられる。最近 ソ連復帰後には平易で叙情的な表現が優勢を占く、 プロコーシュ Frederic Prokosch ( 一九のころには二つのオペラを書き上げるまでにな 〈益山典子〉 はドリオピテクスのなかに統合され、そのなか った。革命前夜の不穏な状況のもとで一九〇四めている。↓。ヒーターと狼 ) アメリカの小説家、詩人。処女作 ~ 一四年ペテルプルグ音楽院に学び、リャード 回園部四郎・西牟田久雄訳『プロコフィエフ自の亜属を形成するものと考えられている。↓ド 『アジア人』 ( 一九三五 ) では詩的で印象主義的作風 ビカレスク リオピテクス 〈香原志勢〉 伝・評論』 ( 一九六四・音楽之友社 ) ▽井上頼豊 をみせたが、そののち悪漢小説風な構成の背後フ、リムスキー・コルサコフらに作曲・理論、 おうこく 0 プロイセン に政治状況や思想問題を秘める写実的作風に移ェシボワにピアノ、 Z ・チェレ。フニンに指揮を 著『プロコフィエフ』 ( 一九天・音楽之友社 ) プロシア王国 おう - 一く ▽・・ホフマン著、清水正和訳『プロコ王国 行した。詩は感受性豊かでメランコリックな情師事するかたわら、アサフィエフやミャスコフ フィエフ』 ( 一九七一・音楽之友社 ) プロジェクト・チーム project team 感を特色とする。そのほかの小説に『七人の逃スキーと親交を結んだ。また「現代音楽のタ 亡者』 ( 一九三七 ) 、『黒い踊り子』 ( 一九六四 ) 、詩集に べ」のグループに加わり、当時の国内外の前衛プロコフィエフ ARKCaHAP AHApeeBHq 専門家による作業集団をいう。管理活動の対象 となるべき事業 ( いわゆる企画 ) をプロジェク 『海の死』 ( 一九四 0 ) などがある。 〈有賀文康〉作品から大きな影響を受けて、ピアノ協奏曲第 Flp0Ko()beB/Aleksandr Andreevich Pro- トというが、経営における管理活動の対象は、 —llll) ほか kof'ev ( 一九 00 ー七 l) ソ連の詩人。ラドガ湖 ~ 一 (l) 、同第二番 ( 一九一一一 プロコピエフスク flPOK011beBCK/Pro- kop'evsk ソ連、ロシア共和国中部、ケメロ多数を作曲、〇八年には自作を演奏してピア一一畔の漁村に生まれる。初期の詩集『真昼』 ( 一九通常長期にわたって繰り返される業務であるの に対し、プロジェクトは一定期間内において完 ポ州の工業都市。トミ川の支流アバ川沿岸にあストとしてもデビューした。ディアギレフに依三 l) 、『クラースヌイエ・ゾーリ街』 ( 一九三一 ) な どは、北部ロシア民話のモチーフによったも成させるべきもので、たとえば特定製品の開 る。西シベリアのクズネック炭田 ( クズバス ) 頼されたバレエ『アラとロリ の南部に位置し、同炭田のコークス炭の主要なのちに『スキタイ組曲』に改編 ) や『古典交響の。ほかに国内戦、農村集団化などに関するロ発、特定の土本工事や建築工事などを管理対象 とする場合である。 採掘地の一つ。人口二七万六〇〇〇 ( 一九会 ) 。曲』 ( 一九一六 ~ 一七 ) を発表したのち、一八年、革マンチックで革命的な作品がある。さらに独ソ すなわち、プロジェクトに関する管理活動で 戦をテーマとした叙事詩『ロシア』 ( 一九四四 ) に 機械製造 ( 電気機械、自動採炭機、軸受、食料命に揺れる祖国を離れ、日本経由でアメリカに より叙情性と叙事性を結合した独自の詩風を確は、固定的な組織による場合には十分な効果が 品工業用機械、電車・トロリ ーバス修理 ) 、陶亡命した。 期待できないこともあるため、プロジェクトの 立し、詩集『旅への招待』 ( 一九六 0 ) によりレー 滞米時代にはピアノ協奏曲第三番 ( 一九一七 ~ 磁器、ゴム製品、縫製、食料品 ( 精肉コンビナ ニン賞を受賞。その後も、思索性と人間観照に特質に応じて、それそれの専門分野からのスタ 、乳業、ビール醸造、酵母、菓子 ) 、たば一一 D 、オペラ『三つのオレンジへの恋』 ( 一九一九 ) ッフを選抜して作業集団を形成し、プロジェク こ、建設資材などの工業がある。単科大学・高など大作を手がけたが、卓越した演奏家としてあふれた多くの作品を書いている。〈草鹿外吉〉 トの遂行を割り当てることが必要となる。また 等専門学校 ( 石炭鉱業、鉄鋼業、電気機械、医は評価されながらも作品の大胆な語法が理解さプロコボービチ (I)e0(baH FIPOKOIIOBHH ー一七三六 ) ロ個々のプロジェクトをそれそれ独立に管理して Feofan Prokopovich ( 一六ハ一 学、音楽、体育 ) 、劇場、郷土博物館があり、れず、一九二二年ヨーロッパに戻った。バリを そうりよ いくような経営管理方式をプロジェクト・マネ 周辺地域の文化中心地でもある。革命後に石炭拠点に各地で演奏活動を行うかたわら創作を続シアの文人、僧侶。フェオファンの僧名で知ら ^ 玄光男〉 ジメントとよぶ。 業の発展とともに急速に成長した若い都市であけ、三三年再三にわたるソ連当局の要請を受けれるが、俗名はエレアザル。僧侶としてはロシ る。 〈三上正利〉入れて祖国に復帰。社会主義リアリズムの路線ア正教会の大主教にまで進んだ。キエフの商人プロジェクト・プランニング project の家庭に生まれ、カトリックの教育を受ける。 planning 経営計画のうち、特定の問題別に に沿ってバレエ『ロミオとジュリエット』 ( 一九 プロコピオス prokopios ( 五 00 こ 一七一七年ピヨートル一世に招かれてペテルプたてられた計画 ( プロジェクト・プラン ) を策 三五 ~ 三六 ) 、子供のための交響的物語『ピーター ころ ) ビザンツの歴史家。カイサレア出身。皇 おおかみ きか ルグ ( レニングラード ) に移り、雄弁と著述を定する過程をいう。このプロジェクト・プラン 帝ュスティニアヌス一世麾下の名将べリサリオと狼』 ( 一九三六 ) 、映画音楽『アレクサンドル・ もってその近代化政策を熱心に擁護した。ロシと対照されるのは、特定期間について行動予定 ネフスキー』 ( 一九三 0 、交響曲第五番 ( 一九四四 ) な スの顧問官。将軍に従って各地を転戦。ベルシ ア最初のヒューマニストとしてその活動はきわをたてる計画で、これをピリオド・プラン pe ・ ア戦役、バンダル戦役、ゴート戦役を八巻の大どの名作を書き上げた。第二次世界大戦後オペ 一フ『戦争と平和』 ( 一九四一 ~ 四三、改訂一九四六 ~ 五 = ) めて多面的で、法律の分野では『宗教法』『海 riod plan もしくは期間計画という。誤解して 著『歴史』き s 、。斗ミに著す。各地の地誌、 歴史のみならず中央アジアからの養蚕術の導入をはじめ一連の作品がジダーノフ批判の対象と事規則』、教育の面では『初等教育論』、文学のならない点は、プロジェクト・プランにも期間 の記録などもある幅広い記録である。皇帝の手なり、その非難を受け入れてさらに諸作を発領域では『詩法論』を著したはか、悲喜劇『ウの限定がついているということである。ただそ ラジーミル』 ( 天 0 五初演 ) 、君主や戦争の勝利をの長さは、プロジェクトの内容によって長短さ になる諸建築物の賞賛の記録『建築史』や、逆表。五三年三月五日、スターリンの死と同じ日 ひーうやゅ 〈中村喜和〉まざまであり画一的ではない。 たたえる詩を残した。 に、あらゆる分野に多数の作品を残してモスク に皇帝および皇妃テオドラを誹謝・揶揄した小 プロジェクト・プランの例としては、設備投 プロコンスル ProconsuI 化石類人猿の 著『逸話集』などがある。鋭い心理描写、優れワに没した。 しんらっ 作風は、不協和音を多用した激しく辛辣な書一族。一九三〇年代以降、東アフリカのケニア資計画、新製品開発計画、増資計画、流通経路 た客観性、トウキディデスを模範とした荘重な 文語体に満ちた彼の著作は、著者の教養 ( 修辞法から、しだいに新古典主義的な様式に変化、やウガンダの第三紀中新世の地層から頭骨や多計画などがあげられる。これらの例が示してい がくこっ るように、プロジェクト・プランの形で計画さ 数の歯、顎骨片、四肢骨が出土しているが、こ 学と法律、ラテン語、ヘブライ語、シリア語、 れらはゴリラやチンバンジーの祖先とみなされれる内容は、戦略性の高いものが中心であり、 ゴート語 ) の高さとあいまって、六世紀最高の た。当時、ロンドン動物園にコンスル ( 領事 ) したがって全社レベルの計画は、この形が主に 〈和田廣〉 史料となっている。 という名の人気者のチンバンジーがいたが、そなる。これに対して、執行レベルの計画は、期 。フロコフィエフ cepr ・ eü CepreeBHt1 間計画の形が主になり、プロジェクト・プラン れにちなみ、プロコンスルという属名が与えら 11p0K0(l)beB/Sergey Sergeevich Prok0f'ev の当該期間分が、そのなかに組み入れられるこ れた。これらはアフリカヌス P. こ c を、 ー一九五三 ) ロシア・ソ連の作曲家。四月二 じ 〈森本三男〉 とになる。↓期間計画 ニアンゼ P. こ 2 ミおよびマジョール P. 三日、ウクライナ地方工カテリノスラフ県ソン きミミの三種に分けられる。いずれも現生類プロジェクト・メソッド project ろ ツオフスカ村の裕福で教養高い家庭に生まれ がんか method アメリカの教育哲学者キルバトリッ 人猿程度の大きさであったが、眼窩上隆起は弱 、かる。母の影響で早くから音楽に親しみ、一一歳 S. プロコフィエフ 755