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検索対象: 日本大百科全書 20
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1. 日本大百科全書 20

ふらすち 〔表 11 〕生産量 ( 1 ) 4 大ブラスチックの日本の生産量推移 ( 単位 : t ) 1960 年 41 179 ( 2 ) 主要国のプラスチック生産量推移 ( 単位 : 千 t) 1975 1985 1960 年 1965 日本 5 167 2 027 308 1 601 554 大韓民国 308 4 台湾 370 1 118 608 54 イギリス 1 968 943 2 030 123 992 フランス 677 イタリア 2 150 844 西ドイツ 5 046 784 708 1 921 1 350 1 599 715 オランダ 242 ソ連 1 303 826 2 844 293 728 1 549 549 アメリカ 5 123 9 626 2 827 カナタ、、 586 245 その他 7 372 1 877 世界計 1 4 259 38 817 注 : 日本プラスチック工業連盟資料より 1975 1 897 047 低密度 1 261 057 」ロヨメ、 1985 9 232 1 300 1 320 1 980 3 376 2 900 7 700 2 500 4 900 22 000 1 800 17 459 76 467 1970 1 304 770 1980 7 518 781 998 1 813 3 152 2 710 6 738 1 975 3 636 16 079 1 355 12 976 59 731 1970 5 120 45 107 1 458 1 515 1 740 4 326 910 1 553 8 463 380 4 062 29 679 1980 1 860 198 低密度 1 179 274 高密度 680 924 1965 396 264 ポリエチレン 低密度 高密度 559 347 329 981 635 990 ポリスチレン 125 472 668 453 ポリプロピレン 57 520 581 091 ポリ塩化ヒ、ニル 258 081 482 973 1 161 467 注 : * ェチレン・酢酸・ビニルコボリマーで低密度より分割 通商産業省「化学工業統計年表」より 21 903 1 128 773 927 170 1 429 298 689 925 594 482 1 125 401 〔表 12 〕市販プラスチックの一般的な性能 プラスチック名 種別 熱硬化性樹脂 弾性係数 x 1 0 2 (kg/mm2) 5 . 2 ~ 7 5 . 6 ~ 12 7 ~ 21 23 . 1 引張り強さ (kg/mm2) 4 . 9 ~ 5 . 6 4 . 5 ~ 7 3 . 8 ~ 5 . 2 3 . 5 ~ 7 曲げ強さ (kg/mm2) 8 . 4 ~ 10 . 5 5 . 9 ~ 8 . 4 5 . 6 ~ 9 . 8 7 ~ 42 伸び 圧縮強さ (kg/mm2) 7 ~ 21 15 . 4 ~ 25 . 2 14 ~ 24 12 ~ 18 . 2 充填剤なし 木粉入り アスベスト入り ガラス繊維入り 充填剤なし 2 ーセルロース入り ーセルロース入り 充填剤なし ( 硬質注型 ) ガラス繊維入り 合成繊維入り ジアリルフタレート樹脂 ガラス繊維入り フラン樹脂 アスベスト入り 充填剤なし ( 注型 ) ェポキシ樹脂 ガラス繊維入り シリコーン樹脂 ガラス繊維入り 成形品 アクリル樹脂 スチレン共重合 G. P. 4 . 5 ~ 6 . 3 アクリロニトリルと共重合 6 . 6 ~ 8 . 4 ABS 樹脂 1 . 6 ~ 6 . 3 成形品 1 . 3 ~ 5 . 9 4 . 9 ~ 5 . 6 2 . 1 ~ 3 . 9 中密度 0 . 8 ~ 2 . 5 0 . 7 ~ 1 . 6 3 . 3 ~ 4 . 2 0 . 35 ~ 2 . 1 3 . 5 ~ 6 . 3 0 . 7 ~ 2 . 4 -8 ′ 0 、 1 -0- O 11 -0- フェノール樹脂 ( べークライト ) メラミン樹脂 ュリア ( 尿素 ) 樹脂 ポリエステル樹脂 ワ 3 ワ】 1 よ 1 よ CO 1 人 11 戸 0 -8 -4 ・ 11 1 人 11 1 よワワ】《 0 11 ワ】 -9 、、 1 11 11 、ー - -9 、 11 ワ朝 1 よ《 0 - ー 4 , 1 11 ワ」 C'¯2 1 よ 1 よ LO / 11 -4 ^. 0 っ「 / C••a ワ】、 1 11 LO 1 人 - ト ) ・ー 4 0 ・ ) -4 ・ 4 ・・ 4 ・ワ 00 っ 0 ワワ】っワ】 -4 ・ LO (. 0 尸 0 ワ】 -0 1 人 -0 14 11 -0 ・ t-— ^ 0 -0- ワ」 -0- 1 よ 11 っ 0 っワ】ワ朝ワワ」 1 人ワ】 11 1 よ 11 1 よ 1 ーワ」ワ】 1 画 尸 0 尸 0 11 - -0 -4 ・戸 0 「ー一 .0 1 人 4 ・「 / ( うー LO 0 00 11 1 よ 11 11 1 ー - 11 8 . 4 ~ 9 . 8 7 ~ 10 . 5 2 . 1 ~ 4 . 2 5 . 6 ~ 14 0 . 6 ~ 1 . 0 0 . 5 ~ 1 . 0 0 . 5 ~ 5 . 0 10 . 5 ~ 15 11 . 6 2 . 4 4 熱可塑性樹脂 2 ~ 10 1 . 0 ~ 2 . 5 1 . 5 ~ 3 . 5 10 ~ 140 6 ~ 70 40 ~ 45 15 ~ 100 50 ~ 500 90 ~ 690 200 ~ 700 150 ~ 450 2 ~ 40 200 ~ 400 100 ~ 300 15 ~ 40 60 ~ 100 200 ~ 400 -. 0 - ト一 -8 戸 0 っ 0 ワっ編 11 11 1 人 -8 一「 / LO 00 一 4 ・ ワ】ワ】 -0- 11 -0- ポリスチレン 酢酸セルロース 硝酸セルロース ポリエチレン 0 . 11 ~ 0 . 24 ポリプロヒレン ポリヒ・ニルプチラール ポリ塩化ピニル ポリ塩化ピニリデン ポリアセタール ポリカーポネート ポリテトラフルオロエチレン 4 . 2 ~ 5 . 6 可塑剤で変化 7 ~ 11 . 2 4 . 2 ~ 5 . 6 硬質 可塑剤入り 2 . 4 ~ 4 . 2 5 . 6 ~ 9 . 1 0 . 7 ~ 1 . 2 7 1 . 2 ~ 8 . 4 2 . 4 ~ 2 . 8 ( デルリン ) 8 . 4 ~ 9 . 8 7 . 7 ~ 9 . 1 6 . 1 ~ 7 5 . 6 ~ 6 . 6 1 . 4 ~ 3 . 1 12 . 6 22 200 1 . 19 38 軟鋼 構造用 2 種 0.1 ~ 0.2 % C 注 : 山口章三郎「工業材科」 , 井本稔他編「プラスチックハンドブック」よリ 30 38 5 引

2. 日本大百科全書 20

文化勲章 / 受章者一覧 氏名 専攻 氏名 専攻 第 1 回 長岡半太郎物理学 岡田武松気象学 1937 年 ( 昭和 12 ) 本多光太郎金属物理学 真島利行化学 4 月 28 日発令木村栄地球物理学 文学 谷崎潤一郎 佐佐木信綱和歌・和歌史・歌学史 志賀直哉 文学 幸田成行 ( 露伴 ) 文学 第 9 回 刑法・法理学 牧野英一 岡田三郎助 洋画 1950 年 ( 昭和 25 ) 田辺元 哲学 藤島武二 洋画 11 月 3 日発令藤井健次郎 植物学 竹内恒吉 ( 栖鳳 ) 日本画 三島徳七金属学 横山秀麿 ( 大観 ) 日本画 小林茂 ( 古径 ) 日本画 数学 第 2 回 高木貞治 土井林吉 ( 晩翠 ) 詩 哲学 1940 年 ( 昭和 15 ) 西田幾多郎 正宗忠夫 ( 白鳥 ) 文学 11 月 10 日発令川合芳三郎 ( 玉堂 ) 日本画 第 10 回 柳田国男 民俗学 生化学・病理学 佐佐本隆興 1951 年 ( 昭和 26 ) 光田健輔 ライ医学 伊東忠太建築学 第 3 回 11 月 3 日発令西川正治 原子物理学 1943 年 ( 昭和 18 ) 鈴本梅太郎 農芸化学 原子物理学 菊池正士 4 月 29 日発令朝比奈泰彦薬学・植物化学 斎藤茂吉 短歌 湯川秀樹 原子物理学 武者小路実篤文学 徳富猪一郎 ( 蘇峰 ) 歴史・政治評論 歌舞伎 波野辰次郎 三宅雄二郎 ( 雪嶺 ) 社会評論 ( 一世中村吉右衛門 ) 和田英作 洋画 梅原龍三郎 第 1 1 回 洋画 第 4 回 田中館愛橘地球物理学・航空学 1952 年 ( 昭和 27 ) 熊谷岱蔵結核医学 1944 年 ( 昭和 19 ) 岡部金治郎 電気工学 11 月 3 日発令佐々木惣一 憲法学・行政学 心、只潔細菌学 4 月 29 日発令 辻善之助 日本史・仏教学 稲田竜吉 細菌学 朝永振一郎原子物理学 狩野直喜 中国文学 永井壮吉 ( 荷風 ) 文学 高楠順次郎 インド哲学 安井曾太郎 洋画 第 5 回 中田薫法制史・日本法制史第 1 2 回 板谷嘉七 ( 波山 ) 陶芸 1946 年 ( 昭和 21 ) 宮部金吾植物学 1953 年 ( 昭和 28 ) 宇井伯寿 インド哲学 2 月 11 日発令俵国一 金属学 11 月 3 日発令香取秀治郎 ( 秀真 ) 鋳金 原子物理学 喜多六平太 仁科芳雄 能楽 梅若万三郎 能楽 羽田亨東洋史 矢部長克地質学・古生物学 岩波茂雄 出版 第 6 回 木原均遺伝学 第 13 回 勝沼精蔵 血液学・航空医学 1948 年 ( 昭和 23 ) 長谷川万次郎 ( 如是閑 ) 評論 1954 年 ( 昭和 29 ) 鏑本健一 ( 清方 ) 日本画 11 月 2 日発令安田新三郎 ( 靫彦 ) 日本画 11 月 3 日発令金田一京助 アイヌ文学 朝倉文夫彫塑 高浜清 ( 虚子 ) 俳句 上村津禰 ( 松園 ) 日本画 萩原雄祐 天文学 第 7 回 寺島幸三 歌舞伎 大谷竹次郎 演劇事業 第 14 回 1949 年 ( 昭和 24 ) ( 六世尾上菊五郎 ) 1955 年 ( 昭和 30 ) 杉本金太郎 長唄 7 月 10 日発令 11 月 3 日発令 ( 二世稀音家浄観 ) 平沼亮三 体育 第 8 回 鈴木貞太郎 ( 大拙 ) 仏教学 伝染病学 二木謙三 1949 年 ( 昭和 24 ) 津田左右吉 東洋哲学・日本古代史 前田廉造 ( 青邨 ) 日本画 11 月 3 日発令 内科学 三浦謹之助 専攻 氏名 増本量 金属学 和辻哲郎 倫理学 第 15 回 安藤広太郎 農学 1956 年 ( 昭和 31 ) 坂本繁二郎 洋画 11 月 3 日発令新村出 高諞学・国語学 古畑種基 法医学 金属学 村上武次郎 電気工学 八木秀次 作曲 山田耕筰 牧野富太郎 * 植物学 第 16 回 1957 年 ( 昭和 32 ) 緒方知三郎 第 17 回 病理学 小説・劇作 1957 年 ( 昭和 32 ) 久保田万太郎 11 月 3 日発令小平邦彦 数学 西山夘三郎 ( 翠嶂 ) 日本画 山田孝雄 国語学 吉住小三郎 長唄 第 18 回 北村西望彫塑 1958 年 ( 昭和 33 ) 近藤平三郎薬学・薬化学 11 月 3 日発令野副鉄男 有機化学 松林篤 ( 桂月 ) 日本画 第 19 回 川端昇太郎 ( 龍子 ) 日本画 1959 年 ( 昭和 34 ) 小泉信三 経済学 11 月 3 日発令丹羽保次郎 電気工学 山内英夫 ( 里見弴 ) 小説 病理学 第 20 回 岡潔数学 1960 年 ( 昭和 35 ) 佐藤春夫 小説・詩 11 月 3 日発令田中耕太郎商法・法哲学 吉川英次 ( 英治 ) 小説 第 21 回 川端康成 1961 年 ( 昭和 36 ) 鈴木虎雄 中国文学 11 月 3 日発令堂本三之助 ( 印象 ) 日本画 富本憲吉 工芸 福田平八郎 日本画 水島三一郎 化学 第 22 回 梅沢浜夫徴生物学 1962 年 ( 昭和 37 ) 奧村義三 ( 土牛 ) 日本画 11 月 3 日発令桑田義備植物細胞学 中村恒吉 ( 岳陵 ) 日本画 平櫛倬太郎 ( 田中 ) 本彫 1 月 18 日発令 かオセアニアのような限られた地域について は、注目すべき結果を生み出した。しかし一九 五〇年代後半からは、かっての文化圏説の連想 を避けるため、民族学では文化圏という語はほ とんど用いられず、文化複合のような中立的概 〈大林太良〉 念を用いている。 ・シュミット、・コッパース著、大野俊 一訳『民族と文化』上下 ( 一九五七、七 0 ・河出書 房 ) ▽・シュミット著、山田隆治訳『母 権』 ( 一九六一一・平凡社 ) ▽蒲生正男編『現代文 化人類学のエッセンス』 ( 一九大・。へりかん社 ) ぶんかこうろうしや文化功労者 文化功労者 年金法に定めるもので、文化の向上発達に関し とくに功績顕著な者をいう。文化功労者は、文 化に関し高い識見を有する委員一〇人 ( 任期一 年 ) で構成する文化功労者選考審査会が選考し た者のうちから、毎年一〇人を文化の日に文部 大臣が決定している。文化功労者にはその功績 の顕彰を目的として終身年金 ( 一九八七年現在 三五〇万円 ) が支給される。一九八七年 ( 昭和 六一 l) 現在四〇〇人が決定されている。 文化の発達に関し勲績卓絶な者に授与される 文化勲章は、普通の勲章と同様にいかなる特権 をも伴わない精神的な優遇であるのに対し、文 化功労者年金法は、文化功労者の物質的な優遇 を図るため一九五一年に制定されたものであ る。前者が主として独創的、画期的な学術、芸 術上の功労を対象としているのに対し、後者は さらに広い分野の功労をも対象としている。文 化勲章受章者は原則として文化功労者のうちか 〈篠田幸雄〉 ら選ばれている。 ぶんかこっか Kulturstaat 文化国家 警察国家や家産国家などの絶対主義国家理念に 対立するものとして、一九世紀初めドイツで成 立した国家理念。当時のドイツでは近代自由主 義国家の成立する客観的条件が欠如していたの で、観念論政治哲学者の間で理念的に絶対主義 国家を克服すると同時に、人間の外面的自由の みの実現を目ざすイギリス、フランスの近代自 由主義国家をも止揚する国家理念が構想された が、それが文化国家であった。それは、その達 成が強く待ち望まれていた最高の自由と倫理性 が実現されるドイツ民族統一国家の理想像でも あった。その後、ドイツ民族の歴史的使命はこ の文化国家の実現にあるという主張がなされ、 実際、ドイツ帝国を正当化するイデオロギーの 機能を果たした。ところが、それが広義の権力 8

3. 日本大百科全書 20

ふじわら 西遺市 , 王の木な 東の原は蝮どた重 オい貴 の衙カ橿に斤よ 宮官県簡十以門描る 一良木九、使を知 はれ奈。糸猪物を でら 札遣 , 人俗 京てた木ひ王る風 一市」蝮れの 藤にでれ於やわ時 んか「名思当 構沿並描」官と , 所 遺垣棟のの : 侶土究 物大数像召と僧出研 建のが物なのら財 れ柱面物人「一官右か化 て西建と」」陶。跡文 ・立はい点受 , す溝立 は掘真長 3 等い職示大国 径れをい大 の写細簡職塞をの良 カ衙。の木塞 , と側奈 じ曲珍い 官た柱。々 大田感なは用 って物処あた ~ ( 殿 も不 3 カかにを 上 あ立遺符とア極る 。透昭高みや者法 」あ」大あ が掘土 かろ作技 京衙 , 出ら門か , で 啓年 5 温ま , の . の , ちし 原官で〕か使号は料 藤に構〔左猪門札史 手るも透徳 ほなみ に渡り、渦巻の実験研究を行った。一三年中央 の指導で郷里穂波に窯を築き、陶工として再出 る国道一六五号橿原バイバス建設計画に伴ってと、藤原京が前期難波京と密接な関係のもとに びぜんやき 奈良県教育委員会による緊急調査が行われた結造営されたことが考えられる。藤原宮・京の中発する。のち陶陽ともども桃山時代の備前焼茶気象台付属測候技術官養成所 ( 気象大学校の前 心部は国の史跡に指定されており、奈良国立文陶の再興に尽くした。作風は端正で、めりはり身 ) 主事、二四年東京帝国大学教授、一一六年地 果、「評」名を記した木簡が多数出土して、 たいほうりよう の効いた野趣に富み、その姿勢は陶陽とは好対震研究所所員、二八年 ( 昭和三 ) 気象台の天気 「郡」・「評」の用字の交替期が大宝令施行化財研究所によって発掘調査が継続され多くの 〈中尾芳治〉 照であった。七〇年 ( 昭和四五 ) 重要無形文化予報の主任となり、四一年には中央気象台台長 ( 七 OII) に伴うものであることが確認された。ま成果をあげている。 〈矢部良明〉 となったが、四七年 ( 昭和一一一 D 公職追放とな た藤原宮の範囲が確定したことによって周辺古回『藤原宮ーーー半世紀にわたる調査と研究』 ( 一九財保持者に認定された。 り、以後もつばら執筆活動を続けた。著書には 回『藤原啓自選作品集』 ( 一九〈一・朝日新聞社 ) 八四・奈良国立文化財研究所飛鳥資料館 ) 道との密接な関係が明らかになり、藤原京の範 ▽村山武著『人間国宝シリーズ 3 藤原啓』『雲』『大気物理学』『気象光学』『渦巻きの実 囲や条坊制地割が推定できるようになった。す藤原銀次郎ふじわらぎんじろう ( 天六九ー一九 キ′、も・つ ひがしきよう′」く 験』『日本気象学史』ほか啓蒙的なものも多い ( 一九七九・講談社 ) なわち、藤原京は中ッ道を東京極、下ッ道を六 0 ) 日本最大の製紙企業であった ( 旧 ) 王子 かどう とねみなかみ 西京極、山田道を南京極、横大路を北京極とす製紙の経営者。長野県の富農の三男に生まれ藤原湖ふじわらこ群馬県利根郡水上町にあ生涯研究を続けた渦動論はよく知られている。 〈根本順吉〉 ↓藤原の効果 る。慶応義塾を卒業後、地方新聞の記者を経る人造湖。利根特定地域総合開発の一環として る東西約二・一キ。、南北約三・一キ。の範囲を、 すざく 一九五七年 ( 昭和三一 l) 利根川上流に完工した藤原審爾ふじわらしんじ ( 一九一二ー 朱雀大路を中心に東・西各四坊、南北一二条にて、一八九五年 ( 明治二八 ) 三井銀行に入っ んー九み ~ い 区画されている。一坊は九〇〇尺 ( 約二六五た。富岡製糸場や王子製紙支配人に一時出向し洪水防止、発電、灌漑用水など多目的の藤原ダ家。東京生まれだが、幼少年期を父の郷里、岡 たのち、三井物産に移籍、台湾支店長や木材部ムによってできた。ダムは長さ二三〇、高さ山県で過ごす。青山学院高商部を結核で中途退 ) で、小路によって四坪に分けられている。 せいれつ 坊を区画する道路幅は、側溝心心距離で朱雀大長を務めた。一九一一年 ( 明治四四 ) に当時業九四・五で、藤原の民家一六九世帯、田畑山学。奥津温泉で両親のいない少年を描く清洌な 績不振であった王子製紙の専務取締役に就任、、林一五一タが水没した。湖面の標高約六五〇変愛小説『秋津温泉』 ( 一九四七 ) を『人間』に発 路が約二五、宮に面する六条大路が二言 、周囲一一一キ。の狭長な湖で、ダムの下に無人表。第二次世界大戦後の混乱期に新進作家とし ついで社長となって経営再建に成功、一九三三 、三条大路が九 二・四・八条大路が一六メ の藤原発電所 ( 最大出力二万一六〇〇キ。ワッて登場。のち風俗作家として、アメリカ兵相手 年 ( 昭和八 ) には競争企業を合併して業界での で、小路は七となっている。京内は、中央北 しよ、つふ ト ) がある。東日本旅客鉄道上越線水上駅からの娼婦や男女の愛欲関係を叙情的な筆致で描 寄りに一六坊の地を占める藤原宮のほか、貴族優位を決定的とした。三八年に会長となる。私 たからがわ 。『罪な女』 ( 一九五一 D で第二七回直木賞受賞。 ハス三〇分、観光客が多く、近くに宝川温泉く の邸宅、庶民の家屋、大官大寺、本薬師寺、財を投じて藤原工業大学 ( 慶応義塾大学理工学 きようしき 〈村木定雄〉推理小説に『赤い殺意』 ( 一九五九 ) などがある。 寺などの諸寺院や東・西市が設けられ、京職部の前身 ) を設立したほか、商工大臣なども歴もある。 〈四宮俊之〉二万五千分の一地形図「藤原湖」 任した。 が京全体を管理していた。 じとう 藤原京の造営は、『日本書紀』持統天皇五年回下田将美著『藤原銀次郎回顧八十年』 ( 一九藤原咲平ふじわらさく〈い すわ つかわ しんやくのみやこ 気象学者。長野県諏訪に生まれる。一九〇九年 五 0 ・講談社 ) ( 六九一 ) 一〇月条の「使者を遣して新益京を鎮 ( 天究ー一九盒 ) 陶芸 ( 明治四一 I) 東京帝国大学理論物理学科を卒業 め祭らしむ」とある記事によってそのころと考藤原啓ふじわらけい えられてきたが、近年、六八四年 ( 天武天皇一家。本名は敬二。岡山県生まれ。一九一九年し、一一年中央気象台技手となり、翌年から大 でんば わせだ 気中における音波の異常伝播の研究を始め、一一 三 ) に造営が開始されたとする考えが有力とな ( 大正八 ) に上京、一一一年早稲田大学英文科に なにわ みことのり っている。前年に複都制の詔が出されて難波入学したが、翌年中退し文学を志す。以後約一〇年 ( 大正九 ) この研究で学士院賞を受賞し た。同年ノルウェーに留学、 > ・ビャークネス に都が置かれていることや、発掘で明らかにさ五年、詩や小説の執筆・出版活動を続けたが、 かなー ) げとうよ、つ れた前期難波宮と藤原宮の構造の類似からみる三七年 ( 昭和一一 l) 帰郷。三村梅、金重陶陽のもとで極前線論の開拓に従事、のちイギリス でら 1. ( 一四ー一九六一 ) 藤原咲平 / 1 三ロ 296

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ふいんら 11 ワ 尸 0 ワ】 4- (. 0 -8 一 1 人ーっ為一 ^. 0 、 1 ワ - け - 0 ( 0 戸 0 -0- -0- 0 ・ ) 1 人、ー・、 1 1 画 1 ムワ 00 っ 0 1 人ワ】 量 00 00 ワ】戸 0 1 ー 一 - う ) 1 人 レ」 0 主貝 第日面 00 11 っ 0 1 人 11 -0 ワ、ー - っ 0 面 2 年 ル関鬯付 へ 作作阡 sc ⅱ ・ ~ る ・氏 の 具製 百、 物 布 製家・ モ 作 数 分 ムロ 支イイ 原ムケ亜ン 農 ロツ・ タ 業鉄鉄属械船学物材ル ガサ草ロ他 ジ カん 要 畜、 麦イ麦一穀ャンしイの マシッ禽タナ 工業製非金機造化石織木ハ下鉄クニ鉛銅チ 主 小ラ大オ雑ジテ干サそ計家単 ウウヒ家プト注 鉱工・回谷靄日地回 3 3 ⑩ の国では、牧草でさえ被害を受ける真夏の霜に 点の近くに立地する。製材製品のプレハプ住である。一八世紀後半以来、スウェーデンやロ ・ 4 ・ 1 人っー -8 一「ー、 1 -8 -8 11 C) 0 1 よ 1 よ′ 0 、 .0 0 ) っ -0 ( Ⅱ ) よる凶作が繰り返された。しかし、現在はとん宅、家具などのように付加価値の大きい高次加 シアの文化的支配に対抗して、フィンランド民 ワ」 11 1 人 CD どの農産物は自給能力を有しており、高コスト 工品に製造の重点が移りつつある。 族主義の出発点となったのはフィン語であり、 のために輸出能力を欠く酪製品は過剰生産に悩 ヨーロッパ自由貿易連合 (Q ) の加民族叙事詩「カレバラ」であった。ラップラン んできた。農民は現金収入の多くを林業経営と盟国であるが、圏との貿易額がのド、海岸平野、湖沼台地という地域区分は、中 林業労働から得ている。高度の機械化が進んだそれをしのいでいる。ソ連との貿易が輸出一〇世における優勢な一一 = ロ語としてラップ語、スウェ ため林業労働の生産性は高いが、これがかえっ % 、輸入五 % で、との貿易額にほば匹 ーデン語、フィン語をそれぞれ有していたとも て農民を林業労働から排除し、少数の専門林業敵する。重要な貿易相手国はソ連、スウェーデ考えられ、フィン語の支配力が強化され、その 労働者を分離することとなり、農家経営を困難ン、イギリス、西ドイツなどである。 話される地域を拡大したとみることができる。 -0- -4 ・ワ CO -0 ワ」 4 ・ -8 高 にしつつある。林地は集約管理されるが、植林 鉄道の総延長は五九〇六キ。 ( 一九会 ) で、大半人口の自然増加率は〇・五 % 台と低いうえに、 →茁」 E -0 - は - -0 【 0 【 0 -8 「ワ 0 戸 0 などの投資が有効なのは成長が比較的早い中部が国有である。道路総延長は七万五八四八キ。 国外移住が多く、一九六〇年代に約一八万人ほ 総百 値 以南である。モミは南部に多いが、マツはラッ ( 一九会 ) 。ほかに、河川、運河、数多い湖を通どに達した移住者は七〇年代に入って減ったも 価 プランド北部を除く全域に分布し、これらとと じ、総延長六一〇〇キロ ( 一九会 ) に及ぶ航行可能のの、なお北アメリカ、スウェーデン、オース もに、近年はシラカバもパルプ用材として利用水面をもつ。航空はフィンランド航空とカル航 トラリアなどへの移住が人口の増加を抑えてい る。↓フィンランド語↓カレバラ されるようになった。水産業はフィンランド空の二社がある。 数 員 湾、ポスニア湾で小規模なイワシ・ニシン漁を〔社会〕公用語はフィン語 ( フィンランド語 ) 一九八二年の一人当り国民所得は八七一〇ドル 産業数 主とした沿岸漁業がみられるにすぎない。かっとスウェーデン語であり、西部・南部に約六 % であるが、所得の格差は都市住民の階層間にお 生従人 総 て盛んであったサケ漁は資源量が減少し衰退しのスウェーデン語を話す人々が住むが、出生率けるよりも、産業間、地域間の差として強く現 る が低く国外への移住率が高いためにスウェーデれている。都市的産業の水準の高さに対し、農 / , 1 、 1 一 4 ワ】 - -0 -8 0 0 し玉 数 1 ー - 1 ・よ、ー・ 1 よ ワ】、 1 員 工業は、国内市場向けの食料、衣料、化学製ン語人口は減少している。ラップランドにはサ林業は低い。一人当り収入は一九六六年にヘル 業 数 品などがあるほか、林産加工業とそれに関係す ーメと自称するラッブ人 ( 一六七八人、一九会 ) シンキで指数一六四に対し、北部の農村では六 11 ワ】っ -4 ・っ 0 っ 0 ワ」っ¯) 11 -0- 11 1 人一 4 ・っ 0 一 -0 1 ー る機械製造、砕氷船など地理的条件を生かした が住み、ラップ語を話している。言語上の少数五 ( 全国平均一〇〇 ) であったが、一九七六年 、ー人 11 企数 ワ」 1 よ 0 数 ものに特色がある。一九八四年の統計では、林派の利益を擁護せよという声は尊重されてはい には一三五と八五に縮小した。これは北部への 業 産加工が付加価値の一九・八 % 、金属・機械がるが、困難な問題の一つである。人種的には混投資が進んだこともあるが、北部から南部都市 企 は革具 ね付加価値の二九・八 % を占める。輸出収入でみ血が進んでいるが、フィン語を話すフィン民族域への国内人口移動の結果でもある。北東部の た皮家 業水 ると前者は三六 % に達する。機械類ではパル は、フィン・ウゴル語族の一語派としてその文農村では廃村や集落の再編成などの現象もみら 石科科材紙械製ス 採飲衣工木製機のガ プ・紙製造プラントや多目的林業用機械に特色化的特質がよく維持されてきた。言語上もっとれ、一九六〇年代以降の経済・社会の変化は急 ロ tx2 立ロ があり、林産加工では製材製品、紙、板紙、 も近縁であるのは、フィンランド湾を挟んだ対激であった。都市の生活に適応できない村から 業業業品維産う学属の気計 鉱食繊林 化金そ電合注 ルプ、合板などの工場が沿岸の港市や湖の排水岸のエストニア民族で、相互に意思疎通が可能の流出人口は、失業、アルコール中毒などの社 付加価値 百万 Fmk 9 / 1 280 10 090 5 227 18 112 6 166 11 946 8 979 27 212 11 031 9 360 91 291 00 、 1 戸 0 ワ】 -9 ~ -4- -8 8 -4 ・ CZ) 11 一 1 っ 0 11 0 ワ朝 -8 -8 戸 0 00 CO -8 0 りん O 、ー - 1 ー人 1 人 00 1 よ 6 7 07 58 907 59 336 96 435 51 408 45 027 39 881 188 947 65 102 28 087 543 402 2 コラリーだ国 ケミャルビ ・一ヤルビ、 オヴ冩谷 ・ビハンティ オタンマキ・ ー一匣ビュノサルミ ュバキュラ′一円 ) 冩・ポー 第日 , 、リャパル′扈 0 カウコバー バルケらスキ、・・ヘイラ ラウマ フノ、イ 0 ラッペーンランタ トルニオ ケミ 4 オウトプ、 イ・ Cu ンスー / バ丿ウ コ 0 コトカ ナーンタリ ポルポー 100 200km トウルク 耕地面積の規模別 農場数 ( 1983 年 ) 数 18 231 43 533 60 719 54 438 18 438 9 653 2 835 382 208 229 1 970 年 1985 37 90 1 873 1 6 08 189 112 8 315 7 469 1 295 1 047 150 209 1 人っ編 LO 11 1 人ワ - -0 - け】ー十ー

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ふるまん とりもも にアメリア・プルーマー夫人 Amelia Jenks 鶏の股、その他の風刺詩』 ( 一九四五 ) 、『公園の銃地状の地形で、プルー山地ともいう。最高点はモメ、ナンキョクフルマカモメ、ユキドリなど きゅうがい Bloomer ( 一八天 〈長谷川博〉 ー九四 ) によって普及が試みられ声』 ( 一九五五 ) などのほか、プリテンの教会オペ 一〇九三で、垂直に近い急崖を伴う深い峡が分布する。 たところからこの名がある。当時は女性解放運ラの台本として、能『隅田川』に基づく『カー 谷が発達する。一七八九年以来この急崖を越えフー ルマノフ LLMHTPVIVi AHnpeeBHC1 動が起こっており、婦人用ドレスの常識であっ / ー』などがある。 〈土岐恒二〉る試みが失敗を重ねたのち、一、 一三年にイギ (bypMaHOB/Dmitriy Andreevich Furma ・ 丿ス人探検家プラックスランド G. Blaxland nov ( 天九一 ー一九一一六 ) ソ連の小説家。コストロ たフル・レングス ( 足首または床までの丈 ) のプルー・マウンテンズ Blue Moun- スカートと、フープ・ペチコートを廃し、膝丈 tains 西インド諸島、ジャマイカ東部を北西 ( 一七公 ー一会三 ) 一行が尾根筋を通って西方への マ県の農民の出身。実業学校、モスクワ大学文 の短いスカートを着用しようという動きがあっ から南東方向に連なる山脈。プルー山地ともい 横断に成功した。この尾根筋にシドニーから西学部に学ぶ。一九一八年入党、地方の党活動の た。この短い丈のスカートと組み合わせるためう。中央アメリカ北部から、キューバ島、ジャ へ向かう幹線道路・鉄道が通る。名称は、シドのち一九年から国内戦の伝説的な英雄チャパー に考案されたのがプルーマーである。しかし、 マイカ島、イスパニョーラ島に至る弧状山脈の ニーからこの山地が青く見えるためといわれエフ麾下の部隊などで政治委員として活躍、そ る。 当初ニューヨークでは受け入れられず、一八五一部をなす。長さ約四八キ。。最高峰はプルー の体験をもとに記録文学的な手法で書き上げた 一年ロンドンで発表するに及んで、大きな反響マウンテン山 ( 一一一一五六 ) 。山脈の南斜面で栽培 プルー・マウンテンズ市は、この地方の中心 長編『チャパ ーエフ』 ( 一九一一三 ) が初期ソビエト をよんだ。 〈菅生ふさ代〉されるプルー・マウンテン・コーヒーは高品質都市カトウンバ ( 人口一万三九四二、一九全 ) な文学の傑作として広範な読者に迎えられた。民 。フルーマー William PIomer ( 一九 0 三ー で知られ、大部分が日本に輸出されるが、輸出どの町が連合して構成する都市で、人口五万五衆肌の司令官の豪放さと、作者の分身である党 ちみつ 七三 ) イギリスの小説家、詩人。南アフリカに総額に占める割合は小さい。 〈栗原尚子〉 八七七 ( 一久一 ) 。峡谷景観を中心とした観光地政治委員の緻密な組織者的役割とを対比させ、 としてにぎわっている。 〈谷内達〉農民バルチザン兵と労働者部隊の気質の差をリ 生まれる。青年時代に来日して旧制東京高校でプルー マウンテンズ Blue Moun ・ アルに描き分けながら、革命戦のロマンチシズ 教鞭をとった経験があり、日本を題材にした tains オーストラリア南東部、ニュー・サウフルマカモメ〔管鼻蠖〕 fuImar/8FuI ・ 作品に特異性がある。小説『佐渡』 ( 一九三 I) 、短ス・ウェールズ州、シドニー西郊の山地およびきミミミ一鳥綱ミズナギドリ目ミズナムを歌い上げた手並みは非凡である。これはワ 編集『紙の家』 ( 一九一一九 ) 、詩集『ドーキング産の都市名。山地は、東部高地の一部を構成する台ギドリ科の海鳥。全長約四八のやや大形種。シーリ エフ兄弟によって映画化され、ソビエト く↓つばし 体は太めで、嘴が太く、 映画史に残る傑作となった。ほかにトルキスタ 翼もいくぶん広めでカモ ンの国内戦を描いた長編『反乱』 ( 一九一一五 ) があ メ類に体形が似るが、鼻り、ラップ・モスクワ支部長などとして文学運 〈江川卓〉 の部分が発達した管状に動でも指導的役割を果たした。 なっている点がもっとも回名越民樹訳『チャ。、 ノーエフ』全二巻 ( 一九穴 異なる。北太平洋・北大 新日本出版社 ) 西洋の北部寒海域に分布プルマン・ストライキ pullman Strike し、島や海岸の崖の岩棚アメリカ合衆国の一九世紀末の労働争議。一、 に営巣する。外洋の表層九四年五月、シカゴ郊外にあった発明家プルマ に浮遊する動物プランク ン George Mortimer Pullman ( 天三一ー九七 ) トンを食べるが、漁業廃の経営するプルマン寝台車製造会社の大幅賃金 棄物も盛んに食べ、船に 切下げに抗議して、アメリカ鉄道組合に属する 群れ集まる。近年、数が 増えたのは、その廃棄物 によるとの説があるが、 自然の餌にどれくらい依 存しているのか不確かな ので、議論の余地があ る。日本では北海道沖合 いの海でよくみられる。 羽色が灰褐色のものと青 灰色のものと二型があ る。若鳥は三、四年海で 過ごし、五、六歳で繁殖 地に戻り、七歳から繁殖 する。南極海域には近縁 種のギンフルマカモメの ほか、最大種オオフルマ カモメ、マダラフルマカ きようべん フルポン朝 / 略系図 大婦 親子 1 ~ 7 フランス国王 1 ~ 10 スペイン国王 ( ) 内数字は在位年 ルイ 9 世 ( カペー朝 ) べアトリス・ド・プルポン フィリップ 3 世 ロ , ヾ一一ノレ ( クレルモン伯 ) ルイ 1 世 ( 初代プルポン公 ) シャルル ( バンドゥーム伯 ) ジャンヌ・ダルプル - ーーアントアーヌ・ド・プルポンルイ ( 初代コンデ公 ) ( プルポン朝開祖 ) ( ナバラ女王 ) アンリ 2 世 マルグリート = = = アンリ 4 世ーーーマリ・ド・メディシス ( 1589 ~ 1610 ) ルイ 13 世 ( 1610 ~ 43 ) フィリップ ( オルレアン公 ) ルイ・フィリップ ( 1830 ~ 48 ) ルイ ( プルコ・一ニュ公 ) ルイ・フィリップルイ 15 世 ( パリ伯 ) ( 1715 ~ 74 ) ルイ 14 世 ( 1643 ~ 1715 ) ルイ ( ドーファン ) フェリペ 5 世 ( スペイン・プルポン朝開祖 ) ( 1700 ~ 24 , 1724 ~ 46 ) 2 3 4 ルイス 1 世フェルナンド 6 世カルロス 3 世 ( 1724 ) ( 1746 ~ 59 ) 5 カルロス 4 世 ( 1788 ~ 1808 ) 6 ドン・カルロスフェルナンド 7 世 ( 1808 , 1814 ~ 33 ) 7 ドン・カルロスイサべラ 2 世 ( 1833 ~ 68 ) 8 アルフォンソ 12 世 ( 1874 ~ 85 ) 9 アルフォンソ 13 世マリア ( 1886 ~ 1931 ) ファン ファン・カルロス 1 世 ( 1759 ~ 88 ) 6 7 ルイ 18 世シャルル 10 世 ( 1824 ~ 30 ) ( 1814 ~ 15 , 1815 ~ 24 ) ルイ 16 世 = = = マリ・アン ( 1774 ~ 92 ) トアネット シャノレル・フェルテ・イナン ( ペリー公 ) アンリ・シャルノレ ( シャンポール伯 ) ( アングレーム公 ) ( 1975 ~ ) えさ が フルマカモメ崖の岩棚に営巣する ノ 7 1 711

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ーニにゆだねながら、最後にはル・ポーにでに一九世紀にゴッホたちがそうであったようあるよりはむしろ現実主義的である。情熱的とや、陽気で開放的なゴール精神を母胎とするフ - ) っナい 委託されたのがその例である。いずれにせよ、 に、二〇世紀の。ハリにはピカソ、モディリア いうよりはむしろ理知的であって、明快さと秩アプリオー fabliau ( 滑褓で風刺的な韻文笑話 6 ん コル・ヘールの美術政策と相まって、建築ではフ ニ、シャガールなど数多くの画家たちが活動序と論理を重んじ、感情の自由奔放な表出よりで、対象とされる登場人物は多くは聖職者や金 ら ランソア・マンサールとアルドウアン・マンサし、あるいはフランスに帰化し、母国の伝統と も、形式の調和を尊重する傾向がある。また、持ちや商人など ) 、また社会の不正や偽善を風 きつね フランスの伝統を統一することによって、近代他の国の文学に比べて、より人間的であり、内刺した『狐物語』などが出てきたことは、文学 ール、絵画ではプサン、クロード・ロラン、 ル・ナン兄弟、フィリップ・ド・シャン。ハー一一美術の展開に大きな役割を果たしていることも面的な人間研究を重んじるという、いわゆるモ の主題や読者範囲が貴族階級からしだいに町民 ュなどの多くの優れた才能がフランス的古典主注目される。 ラリスト的傾向の強いことも特徴である。 階級へ移ってきたことを物語っている。 義をこの時期に確立し、以後のフランス美術に このようにフランス美術の歴史を概観する 百年戦争 ( 一三三七 ~ 一四吾 I) によって一般に文学 フランス文学の展開 決定的な影響を与えることになる。 と、おのずからその特性は明らかになろう。繊 的創造力の自然な発現は妨げられたが、宗教劇 ・ヘルサイユの栄光が過ぎ去ったあと、一八世細さ、優雅さ、洗練といった感覚的性向を備え 〔中世ーー宗教的教化文学武勲詩笑いと風として聖史劇 ( ミステール mystére) ・奇跡劇 紀のフランス美術は、大革命時まで、いわゆるつつ、フランス美術はどの時代にも、明快で論 刺の文学〕フランス文学の開花はほば一二世紀 ( ミラクル miracle) 、喜劇として笑劇 ( ファル あはう ロココ美術を中心として華麗な王朝時代最後の理的な造形を骨格とし、つねに主知主義的な造 に始まるが、ラテン語の俗化した古代フランス ス farce) ・阿呆劇 ( ソチ sotie) 、また道徳劇 夢想を展開する。一七世紀の芸術にみられたよ形思考が作用することによって、感覚性が極端 語で書かれた最初の文学的作品『聖アレクシ ( モラリテ moralité) などが大衆娯楽として流 うな大様式は影を潜め、古典的な規範よりも情化することを防いでいる。極端な表現主義に対 伝』 Vie S ミミ Alexis は一〇四〇年ころ行した。なかでも作者不詳の『パトラン先生』 緒性を重んずる一八世紀美術も、フランス美術しては絶えず抑制が働き、他方、ヒューマ一一ズ につくられている。もちろんこれはラテン語のは出色のものである。また百年戦争末期の社会 の一方の特性をもっともよく一小している。↓バ ムが純粋論理に陥ることを妨げるのである。↓ 著作によるもので、作者は教養ある聖職者と推的不安と混乱のなかから詩人ビョンが生まれて ロック美術↓ロココ美術↓ルイ王朝様式 印象主義↓フォービスム↓キュビスム↓シ定されている。これをみても、当時の文化の担 きたのは特筆すべきことである。 ュルレアリスム 〈中山公男〉 い手は聖職者であったことがわかる。ゴール 〔一六世紀ーーユマニスムとモラリスム〕一五 〔一九世紀以降〕ロココのワトー、フラゴナー ル、シャルダンたちの芸術は、大革命時の中断回柳宗玄・高田博厚編『世界美術大系・ Gaule とよばれていたフランスの土地を征服世紀後半になると、イタリアのルネサンス文化 フランス美術—・Ⅱ』 ( 一九六 = 、六三・講談社 ) したローマ帝国は、ギリシア、ローマの文明と が徐々にフランスに入ってきて、ギリシア、ロ を経て、一九世紀の美術に大きな影響を及ばし ともにキリスト教をもたらし、その後のフラン ーマの古典研究が盛んになり、そのうちに新し ている。大革命からナポレオン一世 ( 在位天 0 四 フランス文学・・ーぶんがく ~ 一五 ) 時代、すでにロココに始まっていた古代 ク王国もキリスト教を尊重した。したがって、 い人間の生き方を探究しようとするユマニスト 〔フランス文学の展開〕中世ーー。宗教的教教会を通して文化統一が行われ、当時の代表的 ( 人文主義者 ) たちの活動が始まった。また宗 趣味がダビッドの古典主義となり、さらにそれ と競合して、ドラクロワたちのロマン主義が近 化文学武勲詩笑いと風刺の文学 / 知識人であった聖職者が一般民衆のために、ラ教改革の運動は新旧両教徒の争いを激化して、 一六世紀ーーーユマニスムとモラリス テン語で書かれた著作をフランス語に移したも一六世紀の後半を血なまぐさい混乱に陥れた 代的個性の発現として現れる。以後、一九世紀 は、バルビゾン派などの自然主義、クールべた ム / 一七世紀ーー古典主義の確立 / 一 のと考えられる。『聖アレクシ伝』をはじめ多が、ユマニスム humanisme の大きな波の進 ちの写実主義、マネ、モネたちの印象主義、セ くの聖者伝がつくられたが、これらはまだそれ行を妨げることはできなかった。このフラン 八世紀ーー啓蒙時代思想文学の台 こんとん ザンヌ、ゴッホ、・ コーギャンたちの後期印象主 頭 / 一九世紀前半ーーロマン主義の勝ほど文学性の高いものではなかった。 ス・ルネサンスの混沌期を代表する作家はラブ レーである。その著『ガルガンチュワーバンタ 利小説の時代 / 一九世紀後半 , ーー写 真の文学的作品は、一一世紀なかば前ころに 義をはじめとして、新印象主義、象徴主義、ナ ~ 六四 ) は、超人的な英 ビ派など、さまざまな流派、技法、視覚が出現 実主義象徴主義 / 二〇世紀の到来つくられたと推定される作者不詳の『ロランのグリュエル物語』 ( 一五三一一 動乱と不安第一次世界大戦 / 一一歌』を最高傑作とする、いわゆる武勲詩だとい し、中世ゃべルサイユ時代に勝るとも劣らない 雄を主人公とした長編物語で、健康な笑いのな 〇世紀小説の開幕 / 二〇世紀後半 えよう。武勲詩の多くは一一世紀後半から一一一かに、当時の古い制度や風習に対して痛烈な批 全盛期を形づくる。建築では、シャンゼリゼの 戦後文学から現代まで 世紀にかけての封建制度確立時代の騎士的情熱判を加えている。ラブレーがこの世紀の混沌期 凱旋門、オペラ座、エッフェル塔などの若干の モニュメントよりも、一九世紀後半に行われた 〔フランス文学と日本〕明治期 / 大正・昭 と、十字軍戦士にみられるようなキリスト教精を代表するとすれば、円熟期を代表するのは 和期 神との融合から生まれたものである。これらの『随想録』の著者モンテーニュである。フラン 大規模なパリの都市改造が、この時代を特徴づ ける。彫刻ではロダンによって近代彫刻が基礎 聖者伝や武勲詩は旅芸人によって市場の広場なス文学のおもな潮流のなかにモラリスム mo- づけられている。これらの一九世紀フランス美 フランスは国土がヨーロッパの中央に位し、 どで語られ、巡礼や民衆に教化的な娯楽を与え ralisme のそれがあげられるが、いつの時代に しんげん 術よ、、 しずれも、フランス美術のみならず、他気候温和、地味豊かであるうえに、海陸の交通るものとなった。騎士道文化はさらに一連の宮も、警句とか箴言とかの形で人間の内面を考察 にも恵まれていたので、早くからヨーロッパの廷風騎士道物語を生んだが、この物語の特徴は し、実践的で中庸な倫理を追求するモラリスト の諸国にも決定的な影響を及ばした。市民社会 ; 、た。モンテーニュはその最初にして最大の の個性的な視覚の確立という点で先駆的であっ文化の中心になっていた。フランスの国民は一高貴な女性への愛を中心としたことである。ま 詩の世界において たためである。 た南フランスの吟遊詩人トルーバドウールたち人であったといって、 般に性格が陽気で、自由と快楽を追求するとい は、武勲詩にみられる叙事詩形式のものではな は、イタリアの詩の影響はもちろん、ギリシ 少なくとも二〇世紀前半、一九三〇年代およわれているが、その反面また厳格なカトリック くて、個人的感情を優雅に表現する叙情詩のジ ア、ローマの詩の影響もはっきりみられて、ロ び第一一次世界大戦後の若干期間まで、フランス教徒でもあり、デカルト哲学を生むような合理 ンサールを中心としたプレイアード詩派の詩人 は前世紀以上に世界の美術の中心であり続け主義者でもある。また過激で急進的な革命を敢ャンルをつくりだした。↓武勲詩↓ロランの た。フォービスム、キュビスム、シュルレアリ 行したが、頑固な保守主義的な傾向も多分にも歌 たちがフランス叙情詩の大きな基礎を築いた。 ↓プレイアード詩派↓モラリスト スム、抽象など、二〇世紀の主要な動向のほと っている。文学もこうした国民性を反映して複 一二世紀末から一三世紀、さらに一四世紀に ぐうい んどすべてがパリに生起している。そして、す雑多様であるが、概括すれば、ロマン主義的でかけては、『ばら物語』に代表される寓意文学 〔一七世紀ーー古典主義の確立〕ひと口に一七 がいせん

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ふくしま 経済活動別総生産 ( % ) 対家計民間非営利サービス生産者 2.0 政府サービス 生産者 9.8 農業 4 . 7 0.4 林業 0.7 0.5 水産業 0.7 0.2 鉱業 0.7 円円 年来、白河地方には工場立地 福島県 / 略年表 立思意 ・ム ' っ 0 が進み、会津地方では富士通 ( Ⅱ ) っこ 旧石器時代桑折町平林遺跡、鏡石町成田遺跡など ( 株 ) の大型工場の立地や地 ・な ' っ 0 縄文時代大熊町大平遺跡 ( 早期 ) 、一一本松市上原遺跡 ( 中 場産業の活性化があり、浜通 期 ) 、新地町小川 貝塚 ( 後期 ) など 宀名冖宀名 1 り北部の相馬・双葉地方でも 岡育 弥生時代原町市桜井遺跡、白河市天王山遺跡など 上教 産産 後述の開発事業が展開し、エ 古墳時代会津若松市大塚山古墳 ( 前期 ) 、いわき市甲塚市 生生 公心公心 古墳 ( 中期 ) 、いわき市金冠塚古墳、双葉町清偶島 幺幺 業化の営力は県域全般に浸透 土福 内国る る 戸迫横穴 ( 後期 ) など しつつある。 県全よ ま土 六大化一 このころ道奥国が置かれる ( のち陸奥と表記 ) く出会 す跡員 伝統産業は、会津若松市の 七天養老二石城、標葉、行方、宇多、亘理、菊多の六郡 年 う遺委 を石城国、白河、石背、会津、安積、信夫の 漆器と清酒、喜多方市や三島 きりげた 済 五郡を石背国とする 町の桐下駄、本郷町・相馬 なみえ かわまた 七天神亀五陸奧国に白河軍団を置く 市・浪江町の陶器、川俣町・ いいの 全五弘仁六このころ恵日寺の徳一、最澄・空海らと論争 ら 飯野町の織物、二本松市の家 一一六 0 永暦一徳尼、夫の岩城則道の菩提を弔って白水阿弥 具などがあげられる。相馬駒 陀堂を建立 やき 一一〈九文治五阿津賀志山の合戦。源頼朝、奧州を平定 焼はいまでも登り窯を用い 一一 = 六建保四大江広元、陸奥守となる。このころより奥州 伝統を重んじているが、その は幕府知行国となる 人人よ ( 0 つ」にて ほかは程度の差はあっても近 一三一 = = 元亨三相馬重胤が下総相馬より行方郡太田 ( 小高町 ) つ」っコの 者 6 2 いむ代的手法や経営方式に移行し に移住 ( 以後明治維新まで続く ) (. 0 フ′「へ凸 業 みはる 4 L-n っ 0 . な一 亠呈 つつある。ほかに三春人形、 一 = = 七建武四義良親王、北畠顕家ら、陸奥国府から霊山に 8 冂子 っちゅ 移る 5 2 白河だるま、土湯こけしなど 業業 数委円帚 一三吾一 文二北朝方、宇津峯城を攻略 幺幺洋洋、 産産 の民芸品もある。 者者に ,.. 一 = 入四手徳一蘆名直盛、黒川城を築く ヒしつ′」 業業者産 ム月 〔開発〕明治時代には現郡山 一一一九九応永六足利満兼、弟の満直 ( 篠川公方、郡山市 ) 、満 就尤業 亠′亠尸れん瓮 あ亠こか 内国 . 貞 ( 稲村公方、須賀川市 ) を陸奥国に下す 類務 市域を舞台とする安積開拓 県全注 分公 一四 0 四 一一仙道の国人が一揆を結ぶ ( 天天 ~ 全 ) があり、昭和初 一七海道五郡の諸氏が一揆を結ぶ ロ、カツオなどの遠洋物は急減した。相馬のノリ養殖や各漁期には東北振興電力の電源開 一吾一六天文五伊達稙宗「塵芥集」一七一条を制定 発と送配電線網の整備などが 港の水産物加工業も一定の規模にある。 一五兊天正一七蘆名義広、摺上原の戦いで伊達政宗に敗れる 一八豊臣秀吉会津黒川に到着、白川氏、石川氏の 〔鉱業〕就業者数は一一一九九人 ( 一九会 ) 、生産額は県総生産あった。第二次大戦後は特定堯 0 所領没収、会津などを蒲生氏郷に与える 額の〇・五 % にすぎない。阿武隈高地のタングステン鉱や石地域開発事業の一環である只 一一文禄一黒川を若松と改め、同じころ杉目を福島午る、、 灰石の鉱山がおもなもので、かって福島県の主要産業であつ見川電源開発 ( 一九五三以降 ) 、 一六三 0 寛永七田代源五右衛門、相馬焼を始める た石炭産業はすべて姿を消し、その跡地は工業団地や住宅団 いわき市と郡山市を結ぶ広大 = 箜 = 一一 0 丹羽氏が一一本松藩主に、保科氏が会津藩主に ゅうしゆっ なる ( 以後明治維新まで続く ) な地域を対象とした新産業都 地となり、また旧坑道から湧出する温湯はレジャー施設に 一六 ?0 寛文一 0 河村瑞賢、幕命により阿武隈川を改修 利用されている。なお、一九八四年には常磐沖海底ガス田工市建設事業 ( 一九六四以降 ) があ 一穴九元禄二佐瀬与次右衛門『会津農書』を著す 事が竣工し、東京電力広野火力発電所へ供給される予定でる。現在、築港と火力発電所 三四正徳四このころ百姓一揆多発 建設を軸とする相馬地域総合 ある。 一会 0 天保一一伊達郡梁川村中村善右衛門、蚕当計を発明 〔工業〕一九八四年の工業の就業者数は二一万八〇〇〇人、開発事業や東京電力の原子力一会五安政二片寄平蔵、常磐地方で石炭を発見 一〈六〈明治一奧羽越列藩同盟。若松開城で戊辰戦役終結 工業製品出荷額は二兆九一四〇億円である。従業者数では電発電所建設が進んでいる。一 四廃藩置県。一一本松、平、若松の三県設置 気機器、衣服・繊維製品、食料品、精密機械、一般機械、窯九七五年の東北縦貫自動車 入七 = 一 六阿部茂兵衛ら、開成社を組織 業の順、工業製品出荷額では電気機器、化学、食料品、精密道、八二年の東北新幹線の開 八河野広中、石陽社を設立 機械、窯業が上位を占める。全体的には機械工業と軽工業が通も大事業であった。これら 天七六 九三県合併して福島県成立 一五安積疎水完成。三島通庸、福島県令に着任、 主力で、地域的には福島、郡山、いわきの三地区の生産力が事業の波及効果は多岐にわた 福島事件起こる 大きく、三地区の出荷額は全体の約七〇 % に達する。ここ数り、工業生産拡大の基礎を築 しゅんこう 業 サービス業 サ ビス業 1 0 . 4 C = の 24 . 6 全国データ 〇一次産業 0 ニ次産業 0 三次産業 0.7 電気・ガス・水道業 10.6 2.1 金融・保険業 3.8 不動産業 4.8 運輸・通信業 4.9 卸・小売業 1 8 . 3 建設業 ル又 つげ ! よ、はくさ、、しつおい 椿彫木彩漆笈 重文加納村 示現寺 勝常寺薬師堂重文湯川村 こ ~ 、◇ン、◇尽、 千手観音立像重文 福島市大蔵寺 196

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の農産加工が形を変えたことを一小している。勝山市は明治中〔交通〕嶺北、嶺南をそれそ 福井県 / 略年表 2 、期のたばこ専売制実施で刻みたばこから機業に転じ、比較的れ縦貫する西日本旅客鉄道北 縄文時代三方町鳥浜貝塚、福井市北堀貝塚、浜島遺跡、 、ふ規模の大きい工場があって福井市に次ぐ中心地となり、春陸本線と国道八号、小線と 勝山市三室遺跡など 江・丸岡・松岡・今立の各町ではリポン・マークなど小幅も国道二七号が陸上交通の幹線 、ド・え 弥生時代福井市荒木遺跡、大飯町浜称遺跡、坂井町河 の織物を生産する。大正期から盛んとなった鯖江市の眼鏡枠である。国道八号、二七号は 和田遺跡、芦原町番田遺跡など たんご 工業は全国の約八〇 % を生産し、海外にも販路を広げるが、 かっての北陸道、丹後街道に 古墳時代福井市足羽山古墳群、武生市茶臼山古墳群、 小浜市加茂古墳、敦賀市向出山古墳など 安い労賃に頼る零細手工業の本質は変わらない。工業団地も 相当する。敦賀以北には北陸 = 0 → ( 継体 l) た ( 継体天皇 ) 、越前一一一邸から大伴金村 あるが、大半は家内工場で生産される。近年嶺北の各地や小 高速自動車道も通じ、一九八 に迎えられ、河内で即位すると伝う 浜市周辺に進出した電気機器や縫製業の工場も農村の余剰労〇年名神高速道と結ばれて本 七天養老一一越前国から四郡を分割し能登国設置 働力を利用するものである。伝統工業には武生市の打刃物、格的な高速道時代に入った。 七四一天平一一一越前、若狭に国分寺、国分尼寺建立 かわた 七五〈鍬一一渤海大使楊承慶ら越前に着く 鯖江市河和田の越前漆器と小浜市の若狭塗、今立の和紙があほかに嶺北の海岸を縦貫する たす 公 = = 弘仁一四越前国から二郡を分割し加賀国設置 る。なかでも和紙はかって奉書紙で知られたが、溜め漉きの国道三〇五号、嶺北を横断す きよくしふすま 究六長徳一一紫式部、父越前守藤原為時に従い武生に来住 技法による局紙や襖紙、美術小間紙に新境地を開き、全国に る西日本旅客鉄道越美北線と 一入 = 一寿永二燧城 ( 今庄町 ) の源氏、平氏に敗れる 独特の地位を占める。 国道一五八号、大野市から勝一茜 = 寛元一道元、志比荘吉峰寺に入る 一一道元、大仏寺 ( のち永平寺 ) に移る 重工業は著しく立ち後れ、織物関連の化学・機械を除く 山市を経て石川県へ至る国道 やきん 一 = = 六元一一斯波高経、越前守護となる。新田義貞、恒長・ と、大正期に余剰電力を利用した武生市の化学肥料・冶金と一五七号、上中町から滋賀県 像浜庵 かなづ いまづ 尊長両親王を奉して越前金ヶ崎に拠る 跏小林 第二次大戦後の塩化ビニル、金津町の製紙、敦賀市のセメン 今津町に至る国道三〇三号も 半正 一 = = 七元二金ヶ崎城落城 音文 驪一一兀三 ト・合板などの工業がみられるにすぎない。県は重化学工業重要であり、三〇三号はかっ 観重市 義貞、灯明寺畷にて戦死 蘇旧亠地一 ′、りは , ル = = 六六貞五一色範光、若狭守護となる を誘致して経済基盤の強化を図るため、一九七一年 ( 昭和四ての九里半越えである。ま 意 一四四 0 永享一二武田信栄、一色氏を滅ばし若狭守護となる 六 ) 三里浜に掘込みの福井新港と臨海工業用地を造成した た、福井市を中心に京福電気 一四七一文明一一一蓮如、吉崎御坊を建立。朝倉孝景、斯波氏か が、経済環境の悪化で企業の立地は進まず、基幹工場となる鉄道、福井鉄道が運行されて ら越前守護職を奪い、一乗谷城へ移る はずだったアルミ精錬は一一次加工に縮小され、前途は多難で いる。海運は振るわず、敦賀 一 0 元亀一織田信長、浅井・朝倉連合軍を破る おたる 一 = 一天正一朝倉義景自刃 ( 朝倉氏滅亡 ) ある。苦境打開のため、県は未造成の最南部に国の石油備蓄港から小樽への新日本海フェ 一五 一一一信長、越前の一向一揆を征伐。柴田勝家、越 基地を受け入れたが、地元経済への波及効果は期待できず、 ー。ゝ就航するのみである。 前を与えられ北庄城を築く 公害の危険と起債の借財だけを背負わねばならなくなった。 福井空港は一九六六年開港し 九宣教師フロイス、北庄を訪れる まな 〔開発〕嶺北では一九五五年に真名川総合開発、六五年に九たが現在休港中で、航空交通 = 一一勝家、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れる。勝 - 一まっ 家自刃。丹羽長秀、北庄城主となる 頭竜川電源開発工事に着手した。多目的ダム築造が中心の戦は石川県の小松空港に依存し 一究〈慶長一一越前に太閤検地 後の開発第一期の型である。若狭湾沿岸では六六年日本原子ている。 一六 00 五京極高次、若狭の小浜城主となる 力発電敦賀発電所が運転を開始。続いて関西電力の美浜、高 〔社会・文化〕〔教育文化〕 六結城秀康、越前に入封 おおい 浜、大飯の各原子力発電所が建設され、さらに敦賀市白木に江戸時代後半、越前、若狭の 一さ = 四寛永一一酒井忠勝、小浜藩主となる 一六六 - 寛文一福井藩、わが国で最初の銀札を発行 動力炉・核燃料開発事業団の高速増殖炉「もんじゅ」が建設諸藩は相次いで藩校を開き子 九福井大火、天守閣など焼失 中である。現在稼動中のもの一三基に及び、原発密集地とも弟の教育に力を注いだ。一七 か第一う 一六究元禄一一一福井藩、五箇村 ( 今立町 ) に紙会所を設立 いえる。この状況は、需要地の関西に近く、花崗岩の固い岩七四年 ( 安永三 ) 小浜藩の順 一七七四安永三小浜藩校順造館開校。小浜藩医杉田玄白「解 盤と冷却用に海水を利用できるという立地条件によるが、陸造館をはじめ、一九世紀に入 体新書』を出版 つながみ へいしっ・ って丸岡藩の平章館、鯖江 一七究寛政一一福井藩、糸会所を福井につくる の孤島であった常神半島の住民が道路敷設などの見返りに開 発を受け入れたからでもある。しかし、生活条件は改善され藩の進徳館、福井藩の正義一〈一九文政 = 小浜藩、城下に絹織物を勧め、会所を設ける せいき 天 = 入天保九松平慶永 ( 春嶽 ) 、福井藩主となる ず、放射能漏れの不安にさらされている。七一年に着工した堂、勝山藩の成器堂、大野藩 めいりん 一会六安政三大野藩、蝦夷地開拓に進出 三里浜の福井臨海工業地帯は、港湾を整備して重化学工業をの明倫館などが続いた。儒学一〈 = 〈 六安政の大獄 ( 一八五八 ) により梅田雲浜獄死、橋 誘致する開発第二期の型で、名古屋港に始まり、富山・金沢が中心であったが、丸岡藩は 本左内刑死 らんがくかつらがわほしゅう 天六五慶応一武田耕雲斎ら、敦賀松原で処刑される 新港も同類型である。福井新港、工業用地ともほば完成した蘭学者桂川甫周を招き、福 天七一明治四廃藩置県 ( 福井、大野、小浜など六県設置 ) が、企業の進出は進んでいない。 井藩も藩校を拡充して明道館 しらき かみなか えつみ 明通寺本堂国宝小浜市 金銅宝相華文慇国宝三国町 ー竜谷寺 縄文深鉢三方町鳥浜貝塚出土 福井県立若狭歴史民俗資料館 166

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た。とくに若年女子の比重が高く、その多くは満の就業禁止、一六歳末満の者と婦人の就業時男子労働者に比べ不安定な者が多い。総務庁雇用管理面での男女差別が解消されたとはいえ 間を一二時間から一一時間に短縮、産前産後の「労働力調査」 ( 一九会 ) によれば、婦人労働者のない。たとえば、採用にあたって、企業側は、 高率小作料に苦しむ貧農の子女で、ロ減らしと 管理職に昇進できるが転勤を伴う総合職コース なかでバート、アルバイトなど短時間雇用者の 休暇を初めて規定した。さらに二九年 ( 昭和 家計補助を目的として年期契約で工場へ働きに 占める比率は一三・〇 % ( 三三三万人、非農林と、昇進できない一般職コースに区分して、女 出された。 四 ) に婦人・年少者の深夜業禁止が実現した。 わきぞう 彼らの労働実態は、『女工哀史』 ( 細井和喜蔵また鉱山では鉱山労役扶助規則改正 ( 一九 = 0 に業 ) に達しており、低成長経済のもとで正規労子はもつばら後者で採用するなどの例がみられ の一九二四年刊の著書 ) とよばれたごとく、無よって婦人の坑内労働が原則的に禁止された。働者が抑制・削減される一方、女子バートタイる。さらに、均等法には賃金に関する規定はな いため、職務・職能給など企業による能力評価 権利で過酷であった。労働時間は一三 ~ 一四時このようななかで婦人の就労分野は、従来の繊マーの急増ぶりを示している。 〔労働条件〕今日の婦人の労働条件をみると、 と結び付いた賃金体系によって、男女間の賃金 、長い場合は一七 ~ 一八時間に達した。機械維部門から商業・金融・保険・公務・サービス の連続操業を図るため深夜業や一二時間二交替部門へと拡大し、職業婦人ということばが登場男女間の賃金格差は先進国のなかで日本がもっ格差除去での効果は薄いと思われる。↓女性差 した。満州事変以降、太平洋戦争敗戦に至る過とも大きい ( 表参照 ) 。労働時間では男子に比別撤廃条約↓男女雇用機会均等法↓男女平等 制が一般化していた。また賃金は家計補助的な 〈伍賀一道〉 ↓婦人問題↓母性保護 べ女子のほうが短いが ( 一九八五年時点の男子 単身者賃金の水準にすぎず、女工を労働強化に程で産業構造の重化学工業化が進み、三二年に 駆り立てるため賞罰的な賃金支払い方法が用い男子労働者数が女子労働者数を上回るようになの月間実労働時間は一八一一・四時間、女子は一回黒川俊雄・島津千利世・犬丸義一編『講座 現代の婦人労働』全四巻 ( 一九大・労働旬報 られた。労働者としての基本的権利は保障されった。また、これまでの労働者保護規定は戦時六二・五時間 ) 、これは、労働基準法により婦 社 ) ▽島津千利世著『婦人労働の理論』 ( 一九 ず、寄宿舎に強制的に緊縛され、逃亡を企てた体制下で後退させられ、労働時間延長や深夜労人労働者が残業や休日労働などを制限されてい 天・青木書店 ) ▽篠塚英子著『日本の女子 者には残忍な体罰が加えられた。これら女工の働、坑内労働が復活し、低賃金による強制労働ること、家事労働負担が婦人に集中しているた げんのすけ 労働』 ( 一九全・東洋経済新報社 ) ▽竹中恵美 め時間外労働が困難であることなどによる。 労働実態については、横山源之助著『日本之下が拡大した。↓工場法 子編『女子労働論』 ( 一九〈三・有斐閣 ) ▽労働 〔今日の婦人労働〕第二次大戦後の民主化の過〔男女雇用機会均等法の成立〕これまで雇用管 層社会』 ( 天九九 ) 、農商務省編『職工事情』 ( 一九 省婦人局編『婦人労働の実情』各年版 ( 大蔵 程で一九四七年 ( 昭和一一一 l) 労働基準法が制定理面でも男女間格差が大きかった。新規学卒者 0 三 ) などに詳しく記録されている。 省印刷局 ) このような状況のもとで政府は一九一一年され、生理休暇、残業の制限、育児時間など婦の採用で四年制大学の女子卒業生を制限する企 ( 明治四四 ) に工場法を制定し、一六年 ( 大正人労働保護規定が大幅に充実した。婦人の労働業が多く、また結婚・出産などを理由として婦婦人論ふじんろん正称は『婦人と社会主 五 ) から施行したが、その内容はイギリスのエ者化、職場進出は高度成長過程で急速に進み、人にのみ適用する退職制度や男女間で定年年齢義』 Die F き und 、 S 。 2 ミミ。・べー ベルの著書。初版は一八七九年ライブツイヒで に違いを設けたり、婦人の昇進を制限するケー 場法 ( 一八四四年法、一八四七年法など ) と比五五年当時五三一万人であった婦人労働者は、 スがしばしばみられた。 出版された。好評を博したがビスマルクの社会 較しきわめて不十分なものであった。まず適用七〇年には一〇九六万人へと倍増し、さらに八 一九七九年に国連で採択された女性差別撤廃主義鎮圧法によりただちに禁止されたため、一 対象工場は職工数一五人以上の工場に限定、一五年には一五四八万人にまで増大した。婦人労 八三年に内容を補足し『過去、現在、及び将 一一歳未満の就労禁止、一五歳末満および婦人の働者が多く就労している部門はサービス業、製条約は、雇用や労働条件など、あらゆる分野に おける男女差別を禁止するとともに、母性保護来の婦人』と改題して出版された。これも禁止 就業時間を一一一時間以内に制限、彼らに対する造業、卸売・小売業で、近年、いわゆる「サー 深夜業禁止については交替制などの場合は同法ビス経済化」の進展とともに第三次産業への就の重要性を強調し、こうした措置を条約締結国処分を受けたが秘密出版を続け、一八九〇年の がとることを求めたが、このことはわが国の婦鎮圧法廃止による解禁までに二十数版を重ね 施行後一五年間は許可するというものであっ労が急増している。また職種別特徴をみると、 事務従事者 ( 五〇七万人、一九会、以下同じ ) 、人労働における差別撤廃を求める世論を高めた。一八九五年に原名に戻した後も増補改訂を 技能エ・生産工程作業者 ( 三五二万人 ) の二職た。八五年五月成立した男女雇用機会均等法繰り返して一九〇九年五〇版を数えた。・ヘーベ 第一次世界大戦後、労働運動の高揚を背景に ( 雇用の分野における男女の均等な機会及び待ルはこの本の準備を一八七〇年から始めてお 一九二三年に政府は改正工場法を制定し、二六種が多く、婦人労働者全体の過半数を超えてい 年七月に施行した。これにより適用工場は職工るが、近年、専門的・技術的職業従事者 ( 二一遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法り、文字どおりのライフワークとなった。本書 一〇人以上を使用する工場に拡大し、一四歳末一万人 ) が増加する傾向にある。雇用形態では律。一九会・四施行 ) は、募集・採用や配置・昇は四編よりなる。第一編「過去の婦人」では原 進面での男女差別の排除について事業主に努力始社会から一八世紀までの婦人の社会的地位や る 力量の変容を説き、第二編「現代の婦人」では 義務を課し、また教育訓練、福利厚生、定年・ ワ 0 - -0 っ 0 11 - 材 ) ワ 1 よ 0 1 人戸 0 11 、 1 -0 0 11 ワ】っ 0 -. 0 ド 0 8- 一 ) の 0 ・ ) -8 -8 - -0 t— -8 っ 0 -8 つ【 0 LO 0 -4 ・ 1 人 0 「 / -8 一 -8 退職・解雇面での男女差別を禁止した ( ただ売春や生活手段となった結婚、職業生活等から 際 年 し、罰則規定はない ) 。しかし、こうした措置現代婦人の不遇な状態を明らかにし、男女同権 国賃賃 00 ・ 4 ・ 00 -4 ・ -4 ・ 1 よ LO ・ 1 -4 ・「ー -0 ・ワ】 -0 / ののの と引き換えに、従来、労働基準法で定められてたるべきことを説いた。第三編「国家と社会」 一小 2 では現代婦人の不遇な状態を生み出している資 いた婦人の保護規定 ( 残業や休日労働の制限、 格 を第 深夜業、坑内労働、危険有害業務などの禁止 ) 本主義社会の原理に触れ、第四編「社会の社会 △ロへロへロへロへロへロへ旧ヘロ△ロへロ衵砥衵衵砥衵ヘロへロへ旧ヘロへロムロへロへロへロ 0 賃金態 賃形 化」で社会主義社会の根本法則と実現の過程、 は大幅に緩和されることになった。たとえば、 時時月週月時時時時時時時月月月時時時時時時月時 女 男 そこでの国家の消滅や宗教、教育、芸術等のあ 婦人が専門職や管理職についた場合は、時 界 ア る ア キル り方と並んで婦人の地位と生活の変化を描き、 外・休日労働、深夜業の制限は廃止されること 年 O ン ろ扠 になったため、育児などの家庭責任を背負った「末来は社会主義のもの : : : 労働者と婦人のも ン ロクバン ト一 スス一ルラスツアラ 国ンダジェ一 の」として、婦人解放を人類解放として位置づ 婦人が専門職や管理職につくことが逆に困難に ん労 O よ スギマロコマサンンイシルア民セン一ウエスサー じ人造名 〈大木基子〉 9 一ルル なるなどの問題点が指摘されている。 フェンルイラドリイ本ニ韓クラュルウインギ 婦製国 オペピキチデエフフ西ギア日ケ大ルオニノススタイ注 また、男女雇用機会均等法の施行によって、回草間平作訳『婦人論』上下 ( 岩波文庫 )

10. 日本大百科全書 20

ふくいどうけついせき長崎県し、公武合体路線を主張して活躍した。産業『新約聖書』には「福音」 euaggelion という じ八年工学博士。同大学燃料化学科講師、助教授福井洞穴遺跡 ごか を経て、五一年教授となり多数の門下を育て 北松浦郡吉井町福井免にある洞穴で、旧石器時は、早くから越前奉書の名をもっ五箇の和紙が語は多く用いられている。福音書ではイエス・ た。八二年六月から京都工芸繊維大学学長。早代 ~ 縄文時代の重層遺跡。洞穴内には稲荷の社盛んで、藩の専売品となっていた。また絹織物キリストは「時は満ちた、神の国は近づいた。 くから量子力学の化学への適用に関心をもち、殿があり、昭和の初めに社殿改修工事が行わは幕末期下級武士の内職として行われた。藩校悔い改めて福音を信ぜよ」 ( 「マルコ伝福音書」 五二年に記念碑的論文と評される「フロンティれ、初めて縄文土器や人骨が発見された。そのは正義堂、さらに明道館と称した。一八七一年一章一五 ) と宣べ伝えた。それは、悪魔の支配 あすわっるが ア電子理論」第一報を、六四年「軌道対称性と 後一九六〇年 ( 昭和三五 ) 以来三次の学術調査 ( 明治四 ) 廃藩、福井、足羽、敦賀、石川県をが打ち破られ、神の支配が開始されることであ 選択則」の理論を、そして「反応の理論」を七が行われ、縄文時代早期の層が一枚、その下に経て、八一年再置の福井県に入る。〈隼田嘉彦〉る。主イエスは、その頭に高価な香油を注いだ 〇年に発表した。前の二つの業績に対し、ホフ旧石器時代の文化層が六枚重複して残されてい 回『福井県史二』 ( 一九一一一・福井県 ) ▽『福井県女に対して、自分の死に言及してから、「この 史 ( 新編 ) 資料編 3 ・ 4 』 ( 一九全、ノ マンとともに八一年ノー・ヘル化学賞を授与さる事実が判明した。第二および第三層からは土 、四・福井福音」といった ( 「マタイ伝福音書」二六章一 さいせきじん 三 ) 。この福音は事実、主イエスの十字架での れ、同年文化勲章も受章。化学工業の基礎とし器と細石刃とが伴出し、第四層から第一五層ま ての「分子工学」提唱の意義は大きい。↓フロでは土器がまったく含まれていない。放射性炭福井平野ふくいへいや福井県中部の九頭死と死人のなかから復活によって初めて明らか りゅう ンティア電子理論 〈道家達将〉素法による年代測定の結果、第三層は約一万二 竜川下流域の沖積平野。北部を坂井平野と称にされた。 たけふ さばえ ぎようでん 福井地震ふくいじしん一九四八年 ( 昭和一一五〇〇年前、第七層は約一万三六〇〇年前、第することもある。また広義には武生市、鯖江市「使徒行伝」以下においては、福音の内容は、 一五層は三万一九〇〇年以上前という年代が明のある武生盆地も含むが、一般には福井市以北 主イエスが宣べ伝えた神の国の福音というより 三 ) 六月二八日一六時一三分ごろ、福井平野に 発生した地震。規模は七・三、震源の深さは らかになった。なおこの調査の結果として、日をさすことが多い。成因的には陥没沈降の平野は、主イエス・キリストの受肉・死・復活ので えちぜん けんだけ あがな じようじゅ きわめて浅く、〇キロメートル、死者三八九一一本最古の土器の年代が一万二〇〇〇年前までさで、東方の越前中央山地とは剣ヶ岳断層、西方きごとにおいて罪の贖いが成就され、キリス だいあんじ にしあ′、 人、家屋全壊三万五四二〇、半壊一万一八一 かのばることが確実になった。 〈芹沢長介〉の丹生山地とは大安寺断層・西安居断層でくぎ トを信じる者にあって、神との永遠の交わり えちぜん かえっ 六、福井平野の中央部では家屋全壊率一〇〇 % 福井藩ふくいはん越前国福井 ( 福井市 ) 地方られ、北を加越台地、三里浜砂丘で限られ、南が回復されたことが福音として語られている うこ」え きたのしよう あすわ はちまん の所が多く、この地震の経験から気象庁震度階を領有した藩。親藩。越前藩、北庄藩ともい は足羽山、八幡山、兎越山の小丘陵群で武生盆 ( 「ロマ書」一章三 ~ 四、「コリント書—」一章 う。一六〇〇年 ( 慶長五 ) 関ヶ原の戦いののち、 地と境している。平野の大部分は二〇以下の 一五章一二 ~ 一九 ) 。 級にⅦが生まれた。震動は激しく、家屋は五 ~ ゅうきひでやす したがって「キリストの福音」 ( 「ロマ書」 一五秒くらいの間に倒壊した。各地で火災が発徳川家康の次男結城秀康が六十八万石を賜って低平な湿地で水田単作地帯。平野一帯は全国一 みつ ただなおただまさ 〈木下昭三〉 一五章一九、「コリント書Ⅱ」二章一二、「ピリ 生し三八五一戸が焼失した。目に見える断層は成立。その後忠直、忠昌 ( 五十万五千石 ) 、光の化学繊維織物地域でもある。 みち まき ) ちか つな ピ書」一章二七 ) 、神の福音 ( 「ロマ書」一章 ふくいん gospel Evangile 生じなかったが、精密測量の結果、福井平野の通 ( 四十二万石 ) 、昌親 ( 四十七万五千石 ) 、綱福立日 まさよしのり むね 、「ペテロ書—」四章一七 ) 、「イエスによる もとは一般的によい知らせを一 東縁に北北西ー南南東方向の長さ二五キ。メート昌、吉品 ( 昌親再封、二十五万石 ) 、吉邦、宗 Evagelium ハイ まさ しげとみはるよし ゆる むねのり しげまさ ルの断層 ( 東側が西側に対し約七〇メートル昌 ( 三十万石 ) 、宗矩、重昌、重富、治好 ( 三意味し、戦いの勝利の知らせとか、子供の誕罪の赦しの福音」 ( 「使徒行伝」一三章三八 ) 、 もちあき なりつぐなりさわよしながしゅんがく 「和解の福音」 ( 「コリント書Ⅱ」五章一九 ) な 隆起 ) がみいだされた。 〈宇佐美龍夫〉十二万石 ) 、斉承、斉善、慶永 ( 春嶽 ) 、茂昭生の知らせなどに用いられた古典ギリシア語 と続いて明治維新に至る。姓は秀康に諸説ある「エウアンゲリオン」 euaggelion ()u 〈よい〉どのように、福音が、その特色を表すことばに 福井神社ふくいじんじや福井市大手三丁目 まつだいら へんき よしながまっ に鎮座。福井藩一六代藩主松平慶永を祀る。慶が、忠直以降松平を称し、名も将軍の偏諱を + aggelion 〈知らせ〉 ) の訳語である。『旧約よって修飾されて用いられている。 しゅんがく 永は春嶽と号し、江戸幕府の政事総裁職、ま賜った。秀康・忠直父子は優れた武将で、秀康聖書』ではヘブライ語「バーサル」 bäsar とい なお、福音は律法と対立するものとして語ら の は藩政の基礎を固め、忠直も祖父が「日本の樊う動詞の訳語として「福音を宣べ伝える」れている。神の救いにあずかる道として福音と た京都守護職などを歴任。幕末にあって公武合 ( 「イザャ書」六一章一〈ロ語訳聖書〉 ) が一度律法が取り上げられ、新しい契約である福音が 体政策を推進、一貫して尊王開国を唱えた。さ」とその功を賞したほどであったが、秀康の ひでただ らに藩政の改革にも尽力し、福井藩より橋本景弟徳川秀忠が将軍になったこともあってか、と だけ出てくる。この語はまた「よき訪れ」くることによって、初めの契約である律法は古 せつこう もに奇矯のふるまいが目だち、忠直は一六二三 ( 「イザャ書」四〇章九、四一章二七、五二章 岳 ( 左内 ) 、中根雪江らの人物を輩出させた。 いものとされた ( 「へプル書」八章六 ~ 一 ぶんご さかえのやしろごうし 七 ) という訳語で出ている。これらは、イスラ 「コリント書Ⅱ」三章六 ~ 一一 ) 。律法は、人が 明治時代中ごろ佐佳枝廼社に合祀されたことも年 ( 元和九 ) 豊後国 ( 大分県 ) に配流された。 ふそん み あるが、一九四三年 ( 昭和一八 ) 松平邸北方に家光の将軍就任に先だち、二代にわたる不澄をエルの民がバビロン捕囚からイスラエルの神ャ神の要求を充たすことによって神の祝福が得ら ーウェによって解放され、母国に帰って、ヤー れる道であり、それに対し、福音とは神がその 当社が創建された。例祭一〇月一〇日。↓松平責め禍根を断ったものとみられる。ただし「酒 さつりく 慶永 〈平泉隆房〉色に耽り無辜を殺戮」したと伝えられる忠直のウ工を王とするという救いと平和の到来の知らひとり子を罪人の身代りに十字架上で罰するこ 国立。一九四九年乱行なるものは、多く潤色であり、そのまま史せである。 とによって救いの道を備え、人は神の要求を充 福井大学ふくいだいがく . とばの ( 昭和一一四 ) 福井師範学校、福井青年師範学校、実とは認められす、鳥羽野開拓などみるべき治 旧約から新約に移る中間時代にあっては、メ たし得ないままで、ただイエス・キリストを信 福井工業専門学校を包括して、学芸学部と工学績も多い。重富の代一七六八年 ( 明和五 ) には、 シャによる救いの時がユダヤ人によって待望さ じることによって、神の恵みにより神の祝福に うちこわし 二万人が参加したとされる有名な城下打毀がれていた。このことが実現されることがユダヤあずかれる道である ( 「ロマ書」三章二〇 ~ 二 部の二学部からなる新制大学として発足。六六 八三八年 ( 天保九 ) 襲封した慶永人にとってまさに「福音」であった。 年学芸学部は教育学部に改称。大学院工学研究起こった。一 しようなん せつこう イエス・キリストがくるすこし前にバブテス 律法は人に罪を自覚させ、人をキリストによ は、橋本左内、横井小楠 ( 熊本藩 ) 、中根雪江 科 ( 修士課程 ) には一一専攻が置かれている。 附属教育研究施設に教育実践研究指導センタなどのプレーンに恵まれて藩政改革に成功しマのヨハネはこのような時が近づいていることる救いに導くものである ( 「ロマ書」三章二〇 ひとつばし ~ 三一、「ガラテャ書」二章一六、三章一〇、一 、繊維・機能性材料研究施設、超低温物性実た。さらに幕政でも一橋派として井伊大老とを宣べ伝え、その時が終末的審判によって始ま いんきよきっとつつしみ ることを強調し、人々に悔い改めを勧めた一、二四 ) 。福音は単なる人のことばでなく、イ 験施設などがある。所在地は福井市文京三ー九対立し、敗れて「隠居急度慎」とされたが、 ^ 馬越徹〉 エス・キリストを信じる者に救いを得させる「神 八六二年 ( 文久一 l) 政事総裁職として復帰 ( 「マタイ伝福音書」三章一 ~ 一一 がく 0 さない はん