よ質が異なる。地下水位が深く表流水位だけがたを基本にする。室内装飾をはじめ、宣伝用ディ大量に用いられた。宴会場には、多量に撒かれ一七世紀以後は独自の発展をするようになっ ースやガーランド スプレー、冠婚葬祭などの祭壇の飾り付け、祝る花の香りが満ちあふれ、 た。二〇世紀の初めごろから日本のいけ花の影 まる所では塩分が少なく、表面は非常に硬く、 もはでで手の込んだものになった。 響を受けるようになるが、それが第二次世界大 い事、見舞いの贈り物などの際、素材を生かし 、ら自動車の高速テストコースなどに使用されてい やがてローマ帝国が分裂し、キリスト教を最戦という背景と相まって、ぜいたくに使えない る。地下水位が浅くなるとともに塩類が多くなてデザインすることなどもフラワー・デザイン 初に奉じたコンスタンテイヌス一世は、ビザン花のアレンジメントは、日本的な少ない花材の り軟らかくなる。地下水位が表面に近くなると と称する。また、襟飾りや胸飾り、コサージ 塩類のみ厚さ数まで堆積するようになる。場ュ、・フーケなど装身用アクセサリーにも取り入テイウムに東の首都を定めたが、ここでは西洋効果的なデザインの研究を余儀なくされた。今 れられる。 と東洋の文化が交錯したため、独特の文化が発日、ライン・アレンジメントとして主流をなす 所により乾燥構造土が形成されることがある。 アメリカのフラワー・デザインは、日本いけ花 「プラヤ」は国際的地形用語であるが、地域的〔歴史〕世界の美術史や服装史などで、各国の展した。アレンジメントも、クリスマス・ツリ ー型の には中南米でサリナ salina 、サラール salar 、 花の使われ方を調べてみると、それぞれの国、 ーを小さくしたような丈高いシンメトリ の影響も大きく受けているのである。 北アフリカでショット shott などの語が使用時代の特色を反映していることがよくわかる。 ものなどが流行した。まるで鳥の羽のように葉〔種類〕種類を二大別すると、フラワー・デザ せいか インには、室内装飾として生花をいけるアレン されている。 〈赤木祥彦〉古代エジプト時代の王の墓にあったといわれを重ね、その間に星を見立てたような花の飾り る、スイレンとハスのアレンジメントが現在残方をした。色彩も東洋的になり、オレンジ色が ジメントと、服飾としてプーケ、コサージュな 。フ一フヤ・バホン Phraya Phahon Phon ・ ど水につけないで目的に応じてデザインする方 phaya Sena ( 一会七ー一九五 D タイの軍人、政っているもっとも古いものとされている。これアクセントに用いられた。ローマ帝国が滅んだ はニューヨークのメトロポリタン美術館に展一小五世紀から一三世紀までは動乱の世情を反映し法とがある。 治家。一九三一年プリディ・バノムョンらフラ ーテ フラワー・アレンジメントの基本は、バ されているが、スイレンの花、つばみ、葉などてか、教会で用いられた植物にも象徴的な意味 ンス留学生グループとともに絶対王制打倒を目 イカル ( 直立形 ) 、トライアングル ( 三角形 ) 、 ざす秘密結社「人民党」を結成、三二年の立憲形は単純明快だが、エジプト風の堂々とした威があった。バラは処女マリアの花、。フドウのつ けんそん ーテッド (--" 革命を指導した。同年プラヤ・マノバコーン内厳を備えている。エジプト人は生活のなかで花るはキリストとその弟子、バイオレットは謙澄ホリゾンタル ( 平行形 ) 、インバ ( 逆字形 ) 、ラウンド ( 丸形 ) 、ダイアモンド 閣の陸軍総司令官に就任。翌三三年辞職したの観賞を楽しみ、上流社会では達者な花の職人とされた。 ひしがた 新しい芸術の誕生したルネサンス時代になる ( 菱形 ) などシンメトリー ( 対称的 ) なものと、 に、手の込んだ。フーケや、花びらを連ねたカラ が、同年ピプンらの第一一次立憲革命後、推され ース ( 花輪 ) 、ガーランド ( 花綱 ) など と、古代ギリシア・ローマのスタイルや中世のそれとは逆のシェイプ ( 字形 ) 、クレッセ て首相に就任。以後五期にわたり国政を担当し シンポリズムを復活させ、美しいガーランドの ント ( 三日月形 ) 、カー・フ ( 字形 ) 、ダイア たが、三八年実権をピプンに委譲する形で下野をつくらせ、儀式や日常生活に用いた。おもに 〈黒柳米司〉使った花は、スイレン、ケシ、ユリ、、 / マナス浮彫りを建築や装飾に用いた。花は器に挿されゴナル ( 斜行形 ) 、シェイプ ( 字形 ) など がある。↓コサージュ↓プーケ ^ 市川久美子〉 がわ Purari パプア・ニュ たが、なぜか食卓には飾られていない など。また、果実、野菜などもバスケットなど プラリ川 に装飾的に盛られている。 そしてバロック時代。バロックとは不整形のフラワョ BuIawayo アフリカ南部、ジン ーギニア、ニューギニア島南部の川。高地地方 バ。フェ南西部の都市。マタベレランド地方の中 大きな真珠という意味からきたともいわれ、華 古代ギリシア時代は祝祭日が多く、その祭礼 の多くの支流をあわせて南流し、パプア湾に注 心地で商工業が発達している。人口四一万四〇 ぐ。長さ四六七キ。、流域面積約三万平方キ。。河のために花はより多く用いられた。儀式にはガやかで誇張的な宮廷生活が投影される。花のデ 一八七一年よりヌデベレ族のロ ーランド、葉を集めてつくった杖などがつくらザインもダイナミックで大胆になり、量的にも〇〇 ( 一九公 l) 。 口から約二〇〇キ。上流まで航行可能。フライ川 ささ れ、撤く花は籠に盛った。捧げ物である果実や多くの花を使った。花もちについての本も出版べングラ王の居住地であったが、一八九三年、 と並んで同国屈指の流量があり、包蔵水力約八 ジェームソンの率いるイギリス軍に占領され、 〇〇〇メガワット。発電計画がある。〈谷内達〉野菜などがコーニュコピア ( 四角形の器 ) に盛されている。次にロココ時代。花のデザインは さっ バロック時代よりスケールが小さくなり、花の王も殺された。プラワョとはヌデベレ語で「殺 フラー ルディンケン Vlaardingen オり付けられた。また、アポロ ( 太陽神 ) の頭上 げつけいじゅ にはかならず月桂樹の冠がのっているように、数も少ないかわりに、軽やかでデリケートなも戮の場所」を意味する。その後白人入植者が急 ランダ南西部、ゾイト・ホラント州にある港湾 増し、一八九六年のヌデベレ族の反乱も平定さ 都市。人口七万六〇四九 ( 一九会 ) 。ニウェ・マそれぞれの神の花があり、祭りのときは神々をのとなったが、美しく気品があり、色も優しい れ、鉄道の開通とともに発展した。現在は首都 ハステル調に変イした。 ース川の北岸に位置し、北海でのニシン・タラ象徴する花のリースをつくり、それを頭にかぶ ハラーレ、ビクトリア滝、ポッワナのハポロー 一九世紀は、古典に対する反動としてロマン 漁業の基地であり、また化学、金属などの工業って忠誠を表した。このリースは、勝利者をた ネ、べイト。フリッジ方面への鉄道の十字路にあ も発達する。マース川の河口を占めるため、古たえるとき、死者を悼むときにも使われ、死者主義が台頭し、造花が流行した。作品はガラス ースやガー たり、物資の集散地となっている。六〇〇社以 の器などに飾られた。この時代はノーズゲイ、 くからホラント伯領内の政治・軍事都市としての柩などに添えて置いたりした。リ タズイマズイとよばれる小さな花束がつくら上の企業があり、食品加工、織物、車両・セメ ランドは当時のギリシア人の生活の一部になっ 発展してきたが、現在は東九キ。にあるロッテル ント製造などの工業が立地する。〈林晃史〉 ースの材料である花の栽れ、花束に鎖をつけ、その先に指輪をつけて小 ダムの衛星都市となっている。〈長谷川孝治〉ていたくらいで、 立ロ、ーノ ースのつけ方のエチケットなどについて指にはめたりした。花のいけ方はロマンチックフラワン Belawan インドネシア、スマ フラワー・デザイン flower design トラ島北西部の東海岸にある港湾都市。別名プ 花、葉、枝などを使って花をいけること。流儀の解説書まで出されていたほどである。上流社で、メランコリックに、やさしく、かわいい、 というスタイル。ラブレターがわりに花束を用ラワン・デリ。メダンの北約二〇キロに位置し、 や伝統、家元制度まである日本古来のいけ花と会のある家では四六人もの職人が使われていた いたりもした。一九世紀末のアール・ヌーポー マラッカ海峡に臨む。メダンの外港として発展 という。それほど盛んでありながら、器に花を は違い、 花を器にいけるだけでなく、もっと自 いけるという方法はほとんどとられていない。 時代は創造の時代といわれ、日本の美術も紹介し、久しくデリ川流域のプランテーション地帯 由に日常生活のあらゆる場で、奔放な飾り方を するヨーロッパ風な「華道」といえる。またフ素材はバラ、クチベニズイセン、アネモネ、サされて自然のスタイルが好まれ始める。シンプへの入植者の上陸港であった。現在はタバコ、 ゴム、コプラ、コーヒーなど農園産物の積出し ンザシ、ケシ、オリーブ、ワタ、ザクロなどでルな日本のいけ花もそのまま取り入れられた。 一フワー・アレンジメント flower arrangement アメリカではその歴史的背景を象徴するよう港となっている。メダンとは鉄道、国道で結ば ン ) ・も一いし 日本のいけ花より装飾デザイン的ある。ローマ帝国時代になると、ギリシアの伝 れる。 〈別技篤彦〉 に、大きくヨーロッパの影響を受けていたが、 で、花を多く使い、配色美や幾何学的な美しさ 統を受け継ぎ、より豪華に宗教的儀式や祭りに ひつぎ かご っえ 556
は、社会的・文化的要因の考慮が必要であり、 いる。当初ドイツ・オーストリアの学問の影響 6 し文化や社会の各要素を他の要素との関係や全体の親のもっ道徳的規範の内在化によって形成さ から切り離して論じたこと、そして西欧文化をれると唱えた。このような考え方は、しつけの人類の文化的側面の研究には、その生物学的条の強かった日本では、人類学と民族学を二分し 8 て、「日本人類学会」と「日本民族学会」とい もっとも進んだものとみなし自民族中心主義的主導者である母親や父親の行動様式が子供の人件の考察が必要であるという考え方が潜んでい ん う二つの学会が生まれ、これは現在まで続いて な価値観に基づいていることなどのために、そ格発達を左右する、また父母の有する社会・文る。したがって、アメリカの大学においても、 ぶ 化的規範が間接的に超自我のあり方を規定する人類学科には、文化人類学者とともに形質人類 いる。しかし研究内容としては、戦後にアメリ の後厳しく批判され、今日ではほとんど否定さ れている。たとえま、 。いかなる未開社会にも乱 などの観念を含んでいる。フロイト自身は、時学者が所属している。文化人類学はアメリカでカの文化人類学、イギリスやフランスの社会人 婚はみられず、また過去にあったという証拠も代思潮に沿ってむしろ人格の生物学的決定要因は先史考古学、民族学、社会人類学、生態人類類学が導入され、異なる見方が共存している。 ない。彼らがもっとも原始的とみなす狩猟採集を重視していたとみられるが、その見地は文化学、一一一一口語人類学、心理人類学などを含むとされ 文化 ( 社会 ) 人類学の研究法は簡単にいえば 社会にも一夫一妻制や一神教がみられるのであと人格との関連について新しい視点を提示したている。↓民族学↓社会人類学↓言語人類学現地調査法と比較研究法からなるといえる。本 ↓心理人類学 格的な現地調査は二〇世紀初めにマリノフスキ る。文化が絶えず変化していることは事実であといえる。 ーとラドクリフ・。フラウンによって始められ 〔文化心理学のニつの主題〕その後、・マリ 先史考古学は、遺物や遺跡を通じて過去の文 り、全体としてはそれを進化・発展といえるで た。彼らによって機能主義が唱えられ、それ以 あろうが、特定の価値観をもって現存文化を序ノフスキーは、母系制社会をつくるトロ。フリア化を研究し、民族学は主として未開民族の文化 列づけることに問題があるといえる。しかしこ ンド島民では、男児のエデイプス・コンプレツを比較研究する。特定の社会 ( 未開社会、村落前の進化主義的人類学は衰退した。機能主義は クスは、フロイトのいうように、実の父親に対 のような考え方は今日でも根強く残っている。 社会など ) の現地調査による研究は民族誌 ( 工比較的最近まで支配的であったが、フランスの 新進化主義は、文化・社会の研究がその後伝 して抱かれるのではなく、むしろ男児の将来をスノグラフィー ) とよばれている。社会人類学レビ・ストロースの構造主義が一九四九年以降 揄を重視する見方 ( 伝播主義 ) を経て、機能や左右する権限をもっ母方の伯父が対象になるこ は、家族・親族組織、政治組織などを含む社会学界に登場して以来、イギリス、アメリカの文 化 ( 社会 ) 人類学もその影響を受けるようにな 構造の分析を中心とするもの ( 機能主義、構造とをみいだした。この事実は、人格形成におけ組織に重点を置く分野であるが、宗教や神話、 つ「 ) 0 る文化的要因の介入に関して新たな波紋を投じ 主義 ) になり、社会や文化を静態的、共時的に シンポリズムの研究も行う。生態人類学は、社 文化人類学は方法論的に二つの相反する流れ た。また・ミードは、そのニューギニアにお会の環境との適応関係を中心に研究する分野で 研究するだけで、変化や歴史の問題を扱わな に分けることができる。一つは、とくにアメリ 、あるいは扱えなくなったことに対する一つける三つの末開社会の調査を通じて、文明社会ある。↓民族誌 における性差のあり方がかならずしも唯一のも 心理人類学は、かって「文化と。ハーソナリテカにおける科学主義的、普遍主義的アプローチ の批判としておこった。しかし新進化主義は、 イ のではなく、性役割はむしろ全体としての文化 ー」という名称でよばれた分野であるが、そで、これは生態人類学や交差文化的比較研究に 古典的進化主義のような全世界的規模で図式化 を行うことを排し、確実な議論を行える地域やの型によって異なりうることをみいだし、大き の後、社会的知覚や認知体系の研究が盛んにな顕著であり、法則を求める科学的方法を重視す テーマに限定して、文化や社会の進化を具体な衝撃を与えた。以降一九三〇年代 ~ 四〇年代り、最近では心理人類学、認知人類学とよばれる。もう一つは、文化 ( 社会 ) 人類学の人文学 との接近を説き、分析や説明より、解釈を重ん 的、実証的に明らかにしようとしている。代表 には、文化の人格形成に及ばす影響の研究が急ている。認知体系の研究というのは、諸民族は ずる立場である。法則を求めるのではなく、理 的な学者の一人・スチュワードは、メソボタ激に隆盛となり、「文化と。ハ ーソナリティ」の自然界をどのように分類しているかを実証的に 〈吉田禎吾〉 ミア、エジプト、中国、中南米などで初期農耕研究とよばれた。 研究するものである。たとえば中央アメリカの解を目ざすべきであるとする。 一方これとは別に、・フンポルト以来、一一一一口 から定住共同体が形成され、さらに国家が成立 マヤ系インディオであるチェルタル族が動植物回祖父江孝男・蒲生正男編『文化人類学』 ( 一九 六九・有斐閣 ) ▽吉田禎吾・蒲生正男編『社 する過程で、文化や社会の発達には共通性や法語と思考との関連はつねに大きな関心をひいてをどのように分類しているかについて詳しい報 会人類学』 ( 一九七四・有斐閣 ) ▽吉田禎吾編 則性がみられることを示し、文化の多系進化をきた。・サピア、・ *-2 ・ホワーフらはイン 告がある。こういう研究はエスノサイエンス、 『文化人類学読本』 ( 一九七五・東洋経済新報社 ) 唱えた。また・・サーリンズと・・サディアン諸語の特性の研究に基づいて、各種族エスノセマンティクスともよばれる。これは、 ▽リーチ著、長島信弘訳『社会人類学案内』 ービスは、単系進化と多系進化の対立といったのもっ言語の体系はその文化に属する人々の思 特定の社会における語彙の分析を通じて、自然 ( 一九会・岩波書店 ) 考え方を退け、一般進化と特殊進化を分けて考考や認識の型づけを行うという「言語相対性の界がいかに分類されているかをとらえようとす ぶんかけん えることを主張している。しかしこれら新進化仮説」を唱えて、文化と知性との相互関係に注る。それに対して、言語の分類からは把握でき文化層ぶんかそう 0 文化圏 もうたくとう 主義の評価は今後の問題である。〈板橋作美〉目を促した。こうして、文化の人格形成およびないような分類体系、とくに象徴的分類を儀礼文化大革命ぶんかだいかくめい毛沢東主席 思考様式の形成に及ばす影響は、今日も依然と活動の分析を通じて摘出しようとする研究もあの主導下で一九六五年秋から一〇年間にわたっ 文ヒ、い里ナぶんかしんりがく cultural psy ・ て全中国社会を揺り動かした政治的・社会的動 して文化心理学の二つの主題をなしている。し り、象徴人類学と総称される分野である。 chology 文化によって人間の行動や心性がど イギリスでは、社会人類学を文化人類学の一乱。中国では「無産階級文化大革命」とよばれ んな影響を受けるか、人間はどのようにして文かし、近年はこの種の研究の学際的性格を強調 。理人類学という名称の用いられ分野とはみなさず、考古学、言語学などを含めたこの革命は、社会主義社会における革命運動 化をつくりだすか、人間の生得的性能と文化のするために、、い みぞう として中国社会を激しく揺さぶり、末曽有の混 ることも多い 〈藤永保〉るアメリカの文化人類学とは異なる独立の学問 過程とはどのような相互影響を及ばし合うか、 と考えられている。心理人類学も含まれていな 乱に陥れたばかりか、全世界に大きな衝撃を与 などの諸問題の心理学的研究をいう。 文化人類宀子ぶんかじんるいがく cultural イギリスでは文化人類学という名称を使わえた。とくに六六年夏に「造反有理」のスロー anthropology 文化人類学という学問は、ア 文化の人間性に与える影響は、むろん古くか ず、社会人類学を独立の学名としている。ドイガンを掲げて突如として出現した紅衛兵運動や メリカでは人類学のなかに含まれるとされてい ら注目され、民族学などの伝統を生んでいた が、心理学においては、フロイトが人格発達のる。つまり文化人類学は人類の形質的・生物学ツ・オーストリアでは、人類学という学問は形相次ぐ政治指導者の失脚、そして毛沢東の絶対 彼よ、的側面を研究する形質人類学と並んで、人類の質人類学だけをさし、文化面を扱うものとして的権威の確立という一連の事態は、だれもが予 機制を論じたことで新たな刺激を得た。 , 。 各発達段階における欲求不満が人格のゆがみや社会的・文化的側面の研究を行う学問とされて民族学が置かれている。この民族学は歴史的研想しえなかった政治的大変動であった。 究を中心にしているので、先史考古学を含んで 〔当時の規定〕中国では、当時、このような文 いる。その背景には、人類の生物学的研究に 神経症などをもたらすとし、また超自我は同性
ふな の濃 近が 場体る 産魚成 稚完 魚のば し仔月ほ のるかか 後ま 1 ど 直、ど後な かレしと化れ ④ば⑤背 む所る を多ら みのけ ど草付 よ水み 多夏に のらど 場春る草 れはす水 隠類卵は 。ナ産 境フて 卵ま着掛 生産集産 ①②に③ 本号 細流、河川の中流域から汽水域にかけて生息面付近にとどまる。一般に雌雄とも二年で全長ナ、ギン。フナ、ニゴロ。フナ、ナガブナ、ゲンゴ東アジアに広く分布している。体高は中程度で ロウブナの少なくとも五群が存在している点で体側は銀白色を帯びる。鰓耙数は四〇 ~ 六〇本 ~ 二〇に達し成熟するが、飼育条件下での し、底生・浮遊性の動植物を幅広く摂食してい ぐらいで、消化管もキンブナとゲンゴロウブナ はほば一致しても、これらすべてを同種内の亜 る。冬季には湖沼や河川の深所に潜んでいる成熟は全長四、五の一歳魚でもみられること 種とみなす一種説から一一種説、三種説まで提出の中間の長さを示す。渓流域を除くあらゆる水 が、三 ~ 七月、水温一七 ~ 二〇度 0 のころに浅がある。 域に生息し、やや藻類に偏った底生生物食であ 〔分類〕フナ類の形態と生態は変化に富むのされ、学名も末確定といってよい い所に移動し、早朝に水草や浮遊物に卵を産み キンブナ ( 金鮒 ) は、マルブナ、キンタロウる。全長約三〇に達する。従来、西日本産は 付ける。一尾の産卵数は体の大きさで甚だしくで、分類が混乱しており、まだ定説らしいもの ブナともよばれる。日本全国に分布し、体高が雌雄ほば同数とされていたが、これはキンブナ さえない。たとえば、ユーラシア大陸のフナに 相違がある。通常の大きさのものでは四万 ~ 万粒程度であるが、大形魚では一五万粒に達すは大別して二つのグループが存在する点では一低く、全体に黄色みを帯びる。えらの耙数もをギン。フナに誤認したためで、東西両日本とも る。産着卵の直径は一 ~ 一・七ミリぐらいで、緑致しても、各グループ内での変異が大きいため三〇 ~ 五〇本と少なく、消化管は短い。泥底のギンブナには雄がほとんど、あるいはまったく に、ヨーロッパ産とアジア産に二分する説と、湖池沼や川の下流域に多く生息し、底生生物をみられない。ギンブナの卵にコイやドジョウの 色みを帯びている。水温一五 ~ 二〇度 0 で五 ~ しぎよ ふか 一〇日で孵化する。孵化した仔魚は全長三・五ューラシアのほば全分布域で二グループが共存主食とする。東日本産は全長一五 ~ 二〇垰一程度精子をかけると、処女生殖をおこしてギンブナ の雌に成育するので、雌のみの生息地ではこの ~ 五・五ミリ程度で、コイの仔魚と同様に、しばするとみなす説とが対立しているありさまであであるが、西日本産は全長三〇拜一に達する。 ような処女生殖 ( 雌性生殖という ) で繁殖して ギンブナ ( 銀鮒 ) は、沖縄を含む日本全国と らくは水草や浮遊物に頭部をつけて懸垂し、水る。日本産のフナについても同様で、キン。フ ヘラフナ ( 一例 ) 〔シモリ仕掛け〕 ヘラブナ専用竿 マフナ竿 3.9 ~ 4.5m 竿 3 ~ 4.8m 先調子 道糸 4 号玉ウキ 0.8 ~ 1 .2 号 ウキ止め ゴム管 ヘラブナ 専用ウキ 玉ウキ 板オモリは 分散 ガン玉オモリ 遊動ナツメ オモリ 2 ~ 4 号 2 本撚り ハリス 6 ~ 8 cm 長いノ、リス 食わせ餌を つける 3 号 30cm 1 5 ~ 20cm 豆いノ、リス 寄せ餌をつ ける 8-•010cm 遊動板オモリ 小型スビニング 鉤袖型 5 号 0.6 ~ 0.8 号 10cm 長短 3 ~ 5cm が差の目安 444
なので約四〇 ) と広くなり、ふさフリソデウォ〔振袖魚〕 ribbon fish/ ある本妙寺 ( 火事の当時は本郷にあったがのち すがも に巣鴨に移転 ) の境内で発見されたことによ いでいると帯を締めるのに差し支え Des き 0 ト 3 ミを lys きき硬骨魚綱アカマ る 〈菅谷貞男〉 るので、一八歳を過ぎても振りのあンボウ目フリソデウォ科に属する海水魚。日本る。 踊 を る袖が用いられるようになった。そでは全長二〇以下の若魚しか知られていな 。フリダ Blida 北アフリカ、アルジェリア さがみ 鳥 のため、脇あけの振袖、脇ふさぎの 相模湾以南、フィリピンなどからまれに報 北部の都市。地中海沿岸のミティジャ平野の中 そくへん 白 留袖という本来の意味を失って、袖告されている。体は延長し、著しく側扁する。 心都市である。アル・プライダ県の県都。人口 の ャ丈の長いものを振袖、短いものを留体の前部は高いが、尾部に向かってくさび形に 一九万一三一四 ( 一九公 (l) 。首都アルジェの南西 瀕 袖というようになり、さらに留袖は狭くなる。背びれは目の上方から始まり前方の五〇キ。、シュレア山北麓の扇状地上に市街地が ぎよく ャセ 既婚者の礼装をさしていうようにな数棘は長い。 カ 尾びれはやや上方に傾き、臀びれある。一六世紀アンダルシアから移住したアラ ップっこ。 はない。腹びれはきわめて大きい。体色は銀白ブ人が建設、商業地として発展し、フランス植 はんもん かんきっ リヤ近世初期の袖幅は二〇垰一内外と狭色で大小の濃灰色の丸みのある斑紋が散在す民地時代にぶどう酒、柑橘類、野菜などの集散 かねじゃく 、丈は曲尺の一尺五寸 ( 約四五る。胸びれ以外のひれは淡紅色。深海の中層を地となった。機械、食品加工、製粉、肥料など の役を踊った。腕の動きの繊細さ、清熱的な踊 ) 、両袖用尺は六尺となり六尺袖ともよばれ、遊泳すると思われる。 〈片山正夫〉の工業が立地する。アルジェへは鉄道の便があ たもと めいれきたいか る。 り方などテクニック抜群で、二〇世紀後半の代これを大振袖ともいった。袂の丸みは二〇 〈藤井宏志〉 振袖火事ふりそでかじ 0 明暦の大火 表的なソ連のバレエ・ダンサーといわれる。ュらいに大きくそいだので、そぎ袖といわれ、形フリソデダニ〔振袖螺〕 large ・ winged フリータウン Freetown 西アフリカ西 なぎなた うぐいす ダヤ人グループの改革派に属し、・ベジャー が似ているところから、長刀袖、鶯袖などの mite 節足動物門クモ形綱ダニ目フリソデダ部、シェラレオネの首都。人口三一万六三一一 げん ル振付けの『レダ』『イサドラ』などいわば前名もつけられた。袖丈はしだいに長くなり、元 ニ上科 Galumnoidea のササラダニ類の総称。 ( 一九公 D 。シェラレオネ半島の突端に位置し、シ 衛的な作品にも積極的に出演。何度も来日して禄年間 ( 一六犬 ~ 一七 0 四 ) の裁縫書では、袖丈七三 この類は体の両側に大きなはねのようなもの エラレオネ川が注ぐ深い入り江を有する天然の きようわ 〈市川雅〉 垰一内外、享和年間 ( 天 0 一 ~ 0 四 ) には九五 ~ 一〇 ( 翼状突起 ) をもっており、これを上下に動か良港で、同国の主要港となっている。 かえい 一一垰一、嘉永年間 ( 一、四 " フリソ Jacques-Pierre Brissot ( 一七五四ー ノ〈 ~ 五四 ) には一〇六拜一が一せるのでこの名がある。背面から見ると体は円コーヒー、ココアや鉄鉱石、クロム鉱などを輸 フランスの文筆家、政治家。ジャーナリ 般の袖丈となった。この寸法がほば定着して、形に近く、つやのある褐色ないし黒色で堅い 出し、船舶修理、ダイヤモンド研磨、水産物加 ストとして活躍、筆禍で獄中生活ののち渡米明治・大正・昭和に至っている。現在は袖丈一体長は〇・三 ~ 〇・九 : リ。ササラダニ類のなか工などの工業も発達している。近くにルンギ国 ( 一天 0 、帰国後「黒人友の会」をつくって活〇五拜一を大振袖、九五垰一を中振袖、八五ぐらではもっとも高等な部類とされる。森林の落葉際空港がある。一七九二年イギリスの奴隷廃止 動、一七八九年革命が起こると『パトリオッ いのものを小振袖という。 下やコケの中、草原の表層土などにすみ、植物論者グランビル・シャープが解放奴隷の入植地 ト・フランセ』紙を創刊。左寄りの論調で名を 黒振袖は五つ紋をつけて花嫁衣装に用い、色質の腐りかけたものを食べるが、樹上に登る種として建設し、彼の創立したシェラレオネ会社 あげ、九一年には立法議会に選出され、ジロン物または白地の振袖は婚礼のお色直しや、末婚もある。フリソデダニ科、フクロフリソデダ一一がイギリス、カナダ南東部、西インド諸島など ぎゅうじ ド派の指導者となる。外交委員会を牛耳って開女性の盛装として用いる。これには五つ紋のほ 科、フリソデダニモドキ科の三科を含み、チビ から解放奴隷を移住させた。一八〇八年にイギ 戦を推進したが、戦局はかんばしくなく、国民か、三つ紋、一つ紋をつけることも、紋を略すゲフリソデダニ、アラゲフリソデダニなど、日 きじちりめんもんりんず 〈青木淳一〉 公会ではモンターニュ派 ( 山岳派 ) と対立してこともある。生地は縮緬や紋綸子で、絵羽模様本に二〇種以上いる。 3 ダニ プルジョア的利益を守ろうとした。国王裁判やを染め、刺しゅう、摺箔、絞りなどを施した華フリソデャナ。キ「振袖柳〕 s ミ一ミ・ デュムーリエの裏切りで進退窮まり、九三年六麗なものが多い。少女用には友禅模様も用い き斗 e Kimura ャナギ科の落葉低木。雄 月二日権力の座を追われた。亡命を企てたがムる。 〈岡野和子〉木のみ知られていたが、一九八四年、雌の野生 ーランで捕らえられ 、。ハリに連れ戻されて革命 種が発見された。材の 裁判を受け、一〇月に処刑された。〈樋口謹一〉 表面に隆起線がある。 だえん 袖 振袖ふりそで長着の袖で丈の長いもの。 葉は長楕円形で質が厚 振館 または、その袖のついた長着のことをいい、未 、表面は光沢があ 入物く こ子博 婚女性の盛装として用いられる。袖付けを短く り、裏面は白色の絹毛 冖鹿飾 して、その下の振り八つ口をあける。その部分 が密生する。春、葉に 総園 が振れ動くのでつけられた名称である。江戸時 様先だち、大きな雄花穂 代には脇あけともいった。 メ、ミの朝対をつける。雄しべは二 かすが 振袖着用は、古くは鎌倉時代の絵巻物『春日 ごんげんれいげんき せんたい 山東 権現霊験記』にみられるが、江戸時代になって 着し、腹側に腺体が一 その名が一般化した。男女児と若い女性が着た , 子期個ある。バッコャナギ オ 綸後 ひ緋代 もので、とくに子供は体熱を発散させるために とネコャナギの雑種とウ オ振りをあけた。女性は一八歳になると、振りを 袖戸推定され、切り花用に ぶんか ソ . り・縫いふさいで留袖にしていた。しかし文化年間 植栽される。名は、明 れきふりそで 、ふ ( 一〈品 ~ 一〈 ) になると、帯幅が一尺五分 ( 鯨尺 暦の振袖火事の火元でフ成 わき 物い 魚 若 651
ード大学に客員教授として招かれ、 ベルジェー 九年ハヾ 有を罪悪視して、通年着衣は一着のみ、定居も死去したアンナ夫人は、女性北極探検家の先駆た。一八九二年からパリのフォリ・ ルと契約し、ミュージック・ホール時代の舞姫四〇年同大学教授、四八年より七二年まで・ もたなかった。生前は自著を出版せず、死後そ者として知られ、一九三四 ~ 三五年のチェリュ として、ロンドンのカティ・ランナーとしばし パウンドの後任として法理学講座を担当する。 の草稿と書簡が、弟子のコジェ・フニコフとペテ ースキン岬科学基地での観測にはともにこれに ば比較された。一九〇〇年のパリ万国博覧会で「人間行動を準則の支配に服せしめようとする 〈半澤正男〉 ルソンにより『公共のわざの哲学』Øこ oco 2 従事している。 さだやっこ は自身の劇場をもち、川上貞奴に提供、川上企て」としての法の観念から出発し、このよう & ミ e ~ 0 D \ e s を the Co ミきミフーヨーハイ〔芙蓉蟹〕中国料理で、カ 一座の二回目のヨーロッパ公演のマネージャー な企てが実効的であるためには、その実質的目 の表題で刊行された ( 第一巻一九 0 六、第二 ニ入り卵焼きのこと。広東語の読み方はフーヨ ベキン 〈市川雅〉的にかかわりなく一定の手続的諸原則が遵守さ 巻一九一三 ) 。生者たちの有機的結合体 ( プラーツ ハイで、北京語ではフーロンシェである。日でもあった。 フラー John Frederick Charles Fuller れなければならないとし、これらを「法の内在 トウォ ) が先祖崇拝により死者たちを復活さ本人は俗に「かにたま」と称して愛好してい ー一九六六 ) イギリスの軍人、軍事理論家。的道徳」 the internal morality of law とよ せ、そのことで現世に全死者と全生者が結合する。作り方は全卵の中にはぐしたカニの身、ゆ ( 天大 る楽園が築かれるというのが彼の思想の核であでたタケノコのせん切り、グリンピースを入陸軍士官学校を卒業後、プーア戦争に従軍、さんだ。彼の立場は一種の「手続的自然法」 a る。そのための構案をロシア独自の墓地や過去れ、塩、酒、少量のしようゆ、砂糖で軽く味つらに陸軍大学校を経て、第一次世界大戦では戦 proceedural naturallaw 論として性格づけら 帳、聖像画 ( イコン ) 、農民の風習などを基に けする。中華鍋を熱して比較的たつぶりの油を車部隊に入った。そこで近代戦における戦車のれる。主著に『法と道徳』 The ミミミ、 〈井上達夫〉 展開する。 〈御子柴道夫〉入れ、材料全部を一度に入れて軽く混ぜ、全体重要性を痛感し、戦車・飛行機などを中心としゞミ ( 一九六四 ) がある。 た新しい軍隊編成を提唱するようになった。陸フラー Roy Broadbent Fuller ( 一九一一一ー が半熟程度に焼けたら、温めた器にふんわりと フヨードロフ EBrpa(l) CnenaHOBHq (t)é- おうせい ) イギリスの詩人、小説家、オックスフォ って供する。弱火で焼くと油くさいので強火を軍少将を最後に一九三三年退役、以後も旺盛な nop0B/Evgraf Stepanovich Fyodorov ( 一会三 ド大学詩学教授。一一一歳で弁護士となり、か ー一九一九 ) ロシアの鉱物学者、結晶学者。用いるが、焦げ目をつけてはいけない。別法と著作活動に専念した。代表的著作に『将来の戦 たわら詩作活動を続けた。初めはオーデンの影 ロシアの鉱山局 ( 一犬三 ~ 会 ) 、地質調査所 ( 天 して、一人分ずつ円形にふつくら焼いて、上に争について』 0 ミ F ミ ure ミ ( 一九一一 0 な 〈木畑洋一〉響のもとに社会的動物としての人間省察の詩を 会 ~ 九四 ) などに勤務し、晩年はペテルプルグ高薄いあんをかけてもよい。あんはスー。フに少量どがある。 Richard Buckminster Fuller 書いたが、しだいに個人の内面や心理を掘り下 等鉱業専門学校教授に就任し、死の直前にはペ の塩、酒、しようゆとかたくり粉を加えたものフ一フ テルプルグ科学アカデミー会員に選出されてい で、ショウガの絞り汁二、三滴を落とすとよ ( 天九五ー一九八三 ) アメリカの建築構造デザイナげる知的な詩風を示すようになった。その傾向 マサチューセッツ州ミルトンに生まれる。 は宗教の必要性を説き、宗教の精神分析的解釈 る。構造結晶学の権威として知られ、結晶測定 。宴会席には本菜として供するが、一人分ず ード大学中退、海軍兵学校に学び、第一を示す最近の詩においていっそう強まってい 〈野村万千代〉 用の各種器具を考案している。とくに、顕微鏡つのものは向かない。 で鉱物薄片を調べるときに用いる自在回転台はフ一フー Sarah Margaret Fuller (Ossoli) 次世界大戦に従軍、船舶・航空機に興味をもる。五〇年代以降小説にも手を染めた。作品に ( 天一 0 ー五 0 ) アメリカの女流評論家。教養あるつ。同様な角度から工業生産を予測したメカ一一『全詩集』 ( 一九六一 I) 、小説『破滅した少年たち』 彼の考案による。等軸晶系の対称性 ( 一公 0 ) 、 〈富士川義之〉 父から広い分野にわたる教育を幼児のころから ックな住宅を設計、一九二九年からそれらの仕 ( 一九五九 ) など。 二三〇個の空間群 ( 天九 0 ) などを発見してい る。 〈大森昌衛〉受け、早くから数か国語に通じ、文芸評論に深事に「ダイマキシオン Dymaxion 」 ( ダイナミプーラ pula ューゴスラビア北西部、クロ い洞察を示した。。 ケーテの翻訳を出したり、エ ックであり、 maximum efficiency—最大限アチア共和国の都市。イタリア語名ポーラ フヨードロフ EBI ・ KOHCTaHTHHO- マソンとともに、一八四〇年、超絶主義者の一 の能率をもっ ) なる造語をつけた。第二次大戦 Pola0 イストリア半島の南西端に位置する港 BHCI (béAOPOB 、 /Evgeniy Konstantinovich Fyodorov ( 一九一 0 ー (l) ソ連の地球物理学人として、『ダイアル』誌創刊に尽力し、編集後は、合金、合板、プラスチックなど規格化さ町。人口四万七〇〇〇 ( 一九七 l) 。ィリリア人が れた三角形の部材でドームを形づくり、その下丘陵の上に土塁を築いたことに源を発し、古代 に参加した。同誌に文芸批評や社会問題につい 者、科学行政家。レ一一ングラード大学卒業。同 ローマ皇帝アウグストウス ( 在位前一一七 ~ 後一四 ) ての鋭い論文を発表。四六年は彼女の生涯の転 に可能な限り大きな空間を得る「ジオデシッ 大学で博士号を取得して水理気象局に入る。一 、 0 、 0 、、 ク・ドーム Geodesic dome 」の各種技法を展の時代にローマの植民地として栄えた。ローマ 九三七年北極探検隊に参加 ーニン隊の一機となった。かねてあこがれていたヨーロッパ 員として北極漂流科学ステーション第一号で科へ赴き、当時の文人たちと交わる機会を得たば開、その名を世界的なものにした。これは住居時代の円形劇場 ( 二万三〇〇〇人収容 ) が残 から工場、展示場のほか、レジャー施設などに り、毎夏ここで映画祭が開催される。造船、デ かりでなく、一〇歳年下のイタリア人、オッソ 学的観測を担当し、北極域の気象・海象解明に どうせい ィーゼルエンジン、セメント、金属などの工業 ーリ侯と同棲するようになり、のち結婚した。広く利用され、モントリオール万国博のアメリ 成果をあげた。四七年科学アカデミー副会員、 〈漆原和子〉 地球物理学研究所研究室長、五六年同所長。六家族とともにニューヨークへの帰途、船が難破カ館 ( 一九六七、 3 建築 ) にその頂点が示されてが行われる。 いる。彼はさらにこのドームを拡大して都市そフラ・アンジェリコ Fra Angelico 〇年科学アカデミー会員。六一一 ~ 七四年水理気し、不慮の死を遂げた。一生を通じて女性問題 ー五五 ) イタリアの画家。本名 Guido に関心をもち、『一九世紀の女性』 ( 一会五 ) を出のものを覆うような構想を発表するなど、現代 ( 一四 00 ころ 象局長官。地球物理学の研究と科学行政の功績 〈秋山健〉工業社会に立脚し、そこから飛躍して将来の超 da Pietr00 ほかにペアート・アンジェリコ でソ連邦英雄の称号とレーニン勲章を受け、七版した。 ー一九一一 0 アメ建築の一つの姿を示して、その独創的発想で若 Beato A. 、フラ・ジョバンニ・ダ・フィエー フラー Loie FuIIer ( 天六一一 六年には世界気象機関 (>>O) から、その前 ゾレ Fra Giovanni da FiesoIe の通称をも リカ生まれの舞踊家。おもにバリで活躍した。 い建築家に大きな影響を与えた。ロサンゼルス 身の名称を現在もつけている国際気象機関 (— に設。 〈近江栄〉 つ。トスカナ地方の、フィレンツェに近いペッ (O) 賞を受賞した。学問的業績は北極気象、イリノイ州に生まれる。衣装の長いスカートに 海洋学、大気物理学、気象制御など幅広く、論くふうを凝らして身体の外形に変化を与え、さフラー Lon Luvois Fuller ( 一九 0 一一ー七 0 キョ・ディ・ムジェッ口に生まれる。一四〇七 ん 年にフィレンツェ郊外フィエーゾレのドミニコ らに光線の効果を研究して舞台の下から照明がアメリカの法哲学者。テキサス州へレフォード 文は二五〇編に上る。行政上では科学アカデミ ちょう あ に生まれる。カリフォルニア大学、スタンフォ 僧会修道院に見習僧として入った。画家として ーに応用地球物理学研究所、実験気象学研究所当たる装置を考え出し、「蛇の踊り」や「蝶の ら 踊り」といわれる踊りで大成功を収めた。この ド大学に学び、一九二六年法学博士号取得。 ひとり立ちするまでの修業状況はほとんど不明 3 などを設立したことがあげられる。主著に『北 きようべん アメリカ各地の大学で教鞭をとったのち、三だが、おそらくミニアチュール作者としての修 4 、か極日記』人間と自然 0 などがある。七七年に照明はその後のレビ = ーに使われるようにな 0 なペ カントン
〔プラズマのモデル〕た系をモデルとよんでいて、プラズマの引 合 プラズマの性質やふる巨視的な運動を議論するのに適している 5 まいを理解し記述する は磁気流体力学の略 ) 。 ら ためにま、、 。しろいろの 〔プラズマ振動〕プラズマ中の波動でもっとも 側面からみる必要があ特徴的なのは、巨視的に電気的に中性なプラズ 生動ム る。このモデルは大き マがわずかに平衡位置からずれたとき、そのず 発変 ( ( いろい く分けて、 れを取り戻す力が作用した結果生ずるプラズマ のな 動的 ろな ) 波動を伝える空振動 plasma oscillation である ( 図 2)0 その 振期 間を形成する連続媒質振動数はプラズマ密度によるが、通常、主とし マ周 とする見方と、荷電て電子が動き、イオンは止まっていると考えら ラ関 粒子の集合体との見れるので、プラズマ周波数は、 方、の二つがある。こ e ne (Dpe meEO の二つの見方は相補的 図 であって、この両面かで与えられ、電子プラズマ周波数とよばれてい らみて初めてプラズマる ( ここで召は電子の電荷、ルは電子の質量、 る 直 子 ルは電子の密度、釦は真空中の誘電率 ) 。この を本当に理解できると 向 れ 電 と 方 さる いえる。 値は電子密度 ( 通常はプラズマ密度に等しい ) 子 0 ) 速 / 界 オ面リ 速す 電 0 ) 減 イ氏「 構速 〔単粒子モデル〕外部 10 ~ 。、、のとき九〇ギガヘルツ程度である。 速・ 機 プラズマ振動のように荷電粒子に基づく振動 磁場が一様・定常で、 ン と 界 オ 外力がローレンツカのはプラズマを特徴づけるもので、同じ縦波でも なド咸衰 電 例る レ」 レ」 みのときは、荷電粒子音波のようにプラズマ中でも普通の物質中でも のあ レ」 医、、つ 子 動が 大よ の旋回中心は一本の磁現れるものと本質的に異なっている。この波動 ロ・ 垂電 がの振成 運界 衰ギ カ線に沿って運動するの減衰機構としては有名なランダウ減衰がある 径図マの子 咸ル ) 半 ズ波電 が、磁界が不均一であが、これは波の位相速度に近い電子の運動との 手と 波工 面も るな ったり外力が加わったエネルギーのやりとりで説明できる ( 図 0)0 マカ日寸 紙の ン ズ子 ' プラズマ振動はプラズマ中に励起される代表 りすると、旋回中心は ズ をラ お向。ささ 一フ 界方動速 磁カ線に沿って垂直な的な振動であるが、プラズマ ( という媒質 ) 中に 2 図 ( 印 - 運一 . 加と 方向にも動き始める。励起される振動はそのほかにも多くある。この に関係して、通常はナノ秒 ( 秒 ) 以下であ磁界に垂直な方向への運動をドリフト連動 ( 図場合、一様・定常なプラズマ中では媒質は誘電 合によってエネルギーを失って通常の気体とな る。核融合炉の方式に、密度 19 。、、 m 。、閉じという。両端が強い直線状のいわゆるミラ率とよばれるテンソル量によって特徴づけられ ってしまうので、外部から絶えず電力を供給し る。この量をマクスウエルの方程式で外部電荷、 ー磁界による閉じ込めや、単純トーラス磁界に 込め時間一秒を考える磁場閉じ込め方式と、密 てプラズマ状態を維持している。 核融合炉心プラズマは、一億度程度の超高温度 1 を ~ さ m : 閉じ込め時間ナノ秒以下のおけるドリフト運動は、この考え方で第一段階電流をゼロと置いて固有な振動を解析すると、 の記述を行うことができる。このようなプラズプラズマ中にたっ波動を求めることができる。 の重水素・三重水素プラズマの生成が必要とな慣性閉じ込め方式のものがあるのは、高温プラ その代表的なものは、縦波としてはイオン音波、 マのモデルを単粒子モデルとよぶ。 ズマの閉じ込めの方法と対応している。 る。このような高温に加熱するためには、エネ プラズマを一億度以上まで加熱しようとする〔モデル〕プラズマは多数の荷電粒子の横波としては電磁波、イオンサイクロトロン波、 ルギーや粒子の逸出の時定数を、十分長く有効 と、プラズマの電気抵抗は高温では小さくなる集合体であるから、当然ポルツマン方程式で記アルべーン波、ホイスラー波などである。 な加熱が行えるようにする必要がある。 述できる。さらに第一近似では無衝突近似で表〔ドリフト波〕空間的に密度の非一様性をもっ 核融合研究の重要な課題に高温プラズマの閉のでオーム加熱は有効でなくなる。この場合に 場合には、プラズマ中の波動はいろいろな影響 じ込めがある。プラズマが容器に当たるとそのは、高エネルギー中性粒子を注入してプラズマしうるので、ウラソフ方程式が適用できる。 プラズマはイオンと電子との混合物と考えらを受ける。もっとも著しいのは、一様なプラズ 表面が蒸発し、放射損失によってプラズマが冷粒子とのエネルギー緩和によって加熱する方法 えてしまうので、普通の容器による閉じ込めは ( 中性粒子入射加熱 ) や、イオンのサイクロトれるが、イオンと電子では質量が三権以上も異マ中では存在しない種類の波が現れることで、 不可能である。高温プラズマの閉じ込めは、プロン周波数に共鳴する高周波を印加して加熱すなるので、質量の寄与すなわちプラズマの運動この波は発生の機構が磁場中の荷電粒子のドリ ラズマが荷電粒子の集合体であることを利用しる方法 ( イオンサイクロトロン共鳴加熱 ) が有は、だいたいにおいてイオンの連動のことであフトと密接に結び付いているので、ドリフト波 とよばれている。 り、電子は非常に動きやすくかっ運動の平均値 て磁界を用いる方法 ( 磁場閉じ込め ) と、粒子効である。高温プラズマの損失機構としては、 プラズマは荷電粒子の集まりとみなされ、プ が質量をもっていることを利用する慣性閉じ込閉じ込めの不完全さによる粒子損失、熱伝導損もイオンの速度の平均値よりもはるかに大きい ラズマ中の荷電粒子の運動では粒子間の直接の めの方法がある。前者はプラズマの寸法を大き失とともに、放射損失や荷電交換損失が問題とので、電流ははとんど電子の寄与による。この ようにプラズマが全体としての運動と、電流の衝突の影響は比較的小さい。荷電粒子は第一近 くすることにより、秒程度の閉じ込め時間を得なり、全体としてのエネルギーバランスが核融 ふるまいを支配する二つの方程式を独立に考え似では外界から加えられた電磁界中を自由に運 ることができるが、後者では粒子の速度に密接合研究の第一段階の課題である。↓核融合 電界 E 加速 3 応 青線の濃淡で電子密度の大小を表すと , 図 の示す方向に電界が生し電子が加速される。 電子に慣性があるため , ”後には , ちょ うど逆の位相になる 注 : 水野雄「プラズマ物理学』より ランダウ減衰電荷をもつ粒子は位相 で加速され , 位相 B で減速される。波の位 相速度と同程度の速さで走っている粒子 は , 位相員またはおに長時間とどまって , 加速または減速の一方だけの力を受け続 けることになる。位相速度より速い粒子 は減速 , 遅い粒子は加速されるが , 熱平 衡分布している場合には , 遅い粒子のは うが多いから , 粒子全体ではエネルキ、一 が増すことになる。このことは , エネル キーは全体としては一定であることから 考えれは・ , 波のエネルキ、一がその分減袁 することになる。これをランダウ減衰と いつ 成長 ( 波がエネルギ ーを得る位相 ) 位相お 位相員 ↑
じゅん の周辺に配置する例が多い。陸奥の仙台では、 普賢ふげん石川淳の中編小説。一九三六府県社ふけんしゃ明治新政府によって定め府県制・郡制ふけんせい・ぐんせい国会開 ちょう 組士以上の武士が居住する町を「丁」とよび、年 ( 昭和一一 ) 『作品』に発表。以後諸種の作 られた神社の社格の一。府社・県社を称してい 設に先だつ一八九〇年 ( 明治二三 ) 五月に、地 ちょう 第一びと 足軽・小人・町人が居住する「町」と区別して品集に収録。芥川賞受賞作。普賢行につながり う。一八七一年 ( 明治四 ) 全国の神社を官社方自治制度の一環として制定された制度。これ いる。また在郷の武士は、農村に武家屋敷を散たいという念願を秘めた主人公「わたし」は、 ( 官国幣社 ) と諸社に分け、地方官の管轄する により、府県と郡は初めて自治体としての組織 しんり 在してつくる例が多い。 心裡に把持するこの理想のために、現実との競諸社には、府社・県社と郷社が置かれた。のちと機能をもった。府県会・郡会は複選制で、府 〔形式と特色〕住居の形式は、普通一戸建てでり合いにおいて後れをとり、自己の生活喪失に 郷社の下に村社・無格社が社格として扱われ、県会の選挙権者は市会議員・市参事会員・郡会 あるが、足軽など下級武士は、組屋敷とよばれまで立ち至らされる。ところで、この理想がも府県社はその最上位に位置した。太平洋戦争の議員・郡参事会員、被選挙権者は直接国税一〇 ながや る長屋 ( 二戸建てまたは連続形式の数戸建て ) はや理想でなくなるという事件が起こる。かく 終戦時 ( 一九四五 ) の社数一一四八。一九四六年円以上納入者であった。郡会は、その三分の二 に住んだ。その規模は藩によってまちまちであて、理想の消失とともにつかみあてた絶望とい ( 昭和二一 ) 廃止。 〈岡田荘司〉を各町村会が選挙し、三分の一は、地価一万円 る。建築様式は、簡略化された書院造を用い 以上の土地を所有する者が互選で選んだ。いず う極から、改めて普賢行への新生を踏み出す。不減衰伝導学説ふげんすいでんどうがくせつ 居間、寝間、台所、玄関の間のほか、座敷、書この作者の初期の諸作品にみられ、またその生神経線維を興奮、すなわち活動電位 ( インバルれも一般国民は参加できない地方有力者中心の 斎、茶屋などを備えている。周囲に塀を巡らし涯の主題でもある、絶望よりの転生が主題であス ) が伝導していくとき、その大きさや伝導速自治制であった。これらの議会の権限は狭く限 て門を設け、入口に玄関をつけて町人の住む町る。作品世界の緊密さ、包含する劇、構想の大度は伝導中一定に保たれ、減衰することはない られており、また、官選の郡長・府県知事や内 おもむき 屋敷と趣を異にしている。武家屋敷の特色は、 きさなどにおいて、初期の大作であり代表作でという学説。これに対して、伝導中減衰がある務大臣の厳しい監督と規制が加えられ、自治体 武士個人の所有ではなく、藩より貸与された官ある。 〈井沢義雄〉とする減衰学説もあり、昭和初期のわが国では としては不完全であった。 舎であるところにある。そのため、武士は昇進回『普賢』 ( 集英社文庫 ) 大きな論争となったが、その後、活動電位の大 一八九九年、町村の政争を激化するという理 一八七八年 ( 明治一一 ) きさや伝導速度は神経線維の軸索の直径に比例由で複選制は廃止、直接国税三円以上納入者に や転任のたびに、身分に見合った屋敷へと移っ府県会ふけんかい た。移転によって持ち運びのできる家具につい 七月一三日布告の府県会規則で定められた地方することが実験的に証明され、直径が一定であよる直接選挙となった。日本の実状にあわない ても、藩によっていろいろの規定があった。明 議会制度。翌年二、三月ごろから各府県に開設れば不減衰伝導をすることが確かめられた。減郡会の大地主議員も廃止された。北海道には一 まっしよ、つ 治維新後は個人所有となったが、今日、武家屋された。↓府県会規則 衰するようにみえたのは、軸索の直径が末梢九〇一年 ( 明治三四 ) 三月、北海道会法が公布 敷の様式と景観を残す旧城下町はきわめて少な府県会規則ふけんかいきそく一八七八年 にいくにつれて小さくなるためであった。神経されてある程度の自治権が与えられ、二二年 〈藤野保〉 ( 明治一一 ) 七月一三日布告の三新法の一つ。府麻酔部では減衰伝導をすると考えられたことも ( 大正一一 ) にようやく府県制に準拠して扱わ ごこじゅうろっ 苻健ふけん ( 三一七ー = 五五 ) 中国、五胡十六県会は公選議員で組織されるが、議員の選挙あったが、これも麻酔の程度が一定ならば減衰れることになった。日露戦争以後、地方制度合 ぜんしん 国の一つ前秦の創始者 ( 在位三五一 ~ 三五五 ) 。氏族権・被選挙権はそれぞれ地租五円以上、一〇円しないことが確かめられている。〈真島英信〉理化の見地から郡制廃止法案が何回も議会に提 , ゅ・につ 、一うちょ - つくだ の人。父の苻洪時代に氏族は後趙に降って枌以上納入者に限られた。議案は地方税で支弁す父権制ふけんせい patriarchy 家族や一族出されるが、貴族院の反対で日の目をみず、第 うつ 頭 ( 河南 ) に徙されたが、健が、父の死後衆を統べき経費の予算およびその徴集方法に限られ、内での権威や全体社会での政治権力が男性の手四四議会に至って成立、二三年に郡制は廃止さ べると、後趙末期の混乱に乗じて西帰運動をお府知事・県令が議案提出権を握り、かっ府県会中にあるような社会体制をいい、母権制との対れた。一一六年には郡役所も廃止され、郡は単な レ」 - つ こし、長安を根拠としていた杜洪を駆逐してこ に再議を命じたり原案執行権をもったりするこ 比で用いられている。家族のレベルでは家父長る地理的名称となる。府県制は大正末から昭和 ぜんう こに都を置き、三五一年天王・大単于と自称し とができ、府県会の権限はきわめて弱かった。 制がこれにあたる。しばしば父系制と混同され初期にかけて、普通選挙制採用、議会権限拡 て国号を大秦 ( 前秦 ) と定め、翌三五二年帝位に豪農商の地方民会開設の要求を形のうえだけでているが、父系制・母系制という言い方は出自充、自治立法権付与などの自治拡充政策がとら とうしんかんおん ついた。三五四年には東晋の桓温の攻撃をよく 容認したものである。八〇年四月の全文改正な に関係しているだけで、一社会内での権力の所れたが、四三年 ( 昭和一八 ) には自治権を制限 かんちゅう しのぎ、関中支配を確実にした。〈窪添慶文〉どを経て、九〇年五月の府県制施行により廃止在に関するものではない。実際、母系制といっする反動的改正が行われた。同年、首都に対す ごこじゅうろっ ー三会 ) 中国、五胡十六 ~ 付堅ふけん ( 一一一三八 された。↓三新法↓府県制・郡制 ^ 山中永之佑〉ても、女性が権力を握っているわけではなく、 る国家的統治を強めるために、東京市をなく 、一くぜんしん 彼女の兄弟やおじのような一族の男性が権力をし、東京府を東京都と改める都制が敷かれた。 国の前秦第三代の君主 ( 在位三五七 ~ 三会 ) 。氏族不けん化物ふけんかぶつ unsaponifiable ふせい の人。暴君苻生を殺して大秦天王の位につい matter 油脂あるいはろうの成分のうち、水 もっているのが普通である。このように、知ら四七年 ( 昭和二一 D 地方自治法の施行によっ ぜんえん た。その最大の功績は、三七〇年に前燕、三七酸化カリウムアルコール溶液によりけん化されれているはとんどの社会で、程度の差はあれ、 て、東京都制、道府県制の不完全な自治制は覆 ぜんりようだい 六年に前涼と代を滅ばして華北統一に成功しず、水に不溶、石油エーテルに可溶な物質をい 家族内での権威や政治権力が男性の手にあると され、知事公選を柱とした民主的な地方自治制 りよ とうしん しせん たことにあるが、また東晋から四川を奪い、呂 う。主成分は一般に炭化水素とステリンであ 〈大島美津子〉 いう事実に加え、父権制と対比的に対応してい が確立した。 こう せいいき うんぜんだけ 光を派遣して西域を従えた。漢人の名宰相王猛る。通常、油脂中約〇・五 % 程度存在する。脂 た母権制の存在自体が疑わしいことなどから、普賢岳ふげんだけ 0 雲仙岳 ひょうばう らの補佐を受け、徳治主義を標榜し、国内は肪族炭化水素はサメ肝油中に存在し、スクアレ 父権制という用語は、上述の一般的な用法としフーケンビル Louis Antoine de Bou ・ よく治まり、五胡諸国中第一の名君と評されンは不飽和炭化水素である。ステリンは二六 ~ ては意味を失いつつある。古代ローマやイスラ 全 l) フランスの航海者、 gainville ( 一七一一九ー一 る。他種族に対しても寛大で、彼らを本拠の関三〇炭素原子をもっ結晶アルコールである。コ エル王国におけるような極端な場合、つまり、軍人。パリ生まれ。一七五三年陸軍入隊。著書 ちゅう うつ 中に多く徙し、逆に氏族を東方に分置した。 レステリンは動物油脂中、シトステリンは植物家族内で父や夫の権威が絶大であり、事実上家『積分法論』 ( 二巻、一七五四 ~ 五六 ) でロンドン王立 とうしん ひすい び しかし、天下統一をかけた東晋遠征で瀧水の戦油脂中に存在する。直鎖一価アルコールは、ろ族の他の成員やその財産に対して所有者のごと協会の会員になる。五六年カナダでフレンチ・ んい ( = 〈 = ) に敗れると、これら諸族はいっせい う中および油脂の不けん化物中に、ある種の二 くふるまえるほどの権限をもっているような事アンド・インディアン戦争に参加。六三年海軍 け・に再独立運動をおこし、そのなかで苻堅は羌族価アルコールは海産動物油の不けん化物中にグオレ。 。こナこ、この父権制という用語をとっておく に移り、政府の依頼で南大西洋フォークランド リセリルエーテルとして存在する。〈福住一雄〉 のが無難であろう。↓母権制 〈浜本満〉諸島にフランス植民地を建設したが、のちにス 2 かの姚萇に捕らえられて殺された。〈窪添慶文〉 かん
にフランス、イギリス、オランダなどに風車が ったく張らず骨組だけで回転させ、逆に微風のだけなので、流水や氷河の侵食作用に比べて地害のないことが祈念された。近代に入ってから 4 や きとう ときには骨組を帆布で覆って風を十分に受け止形を改変する働きは少ない。西日本でたまにみでも風祭りとか風祈疇といって、風害のないこ し出現したが、図版で残されているのは一四世紀 ふう とを祈る風は多かった。その時期は主として二 、つ以降であり、それ以前の風車についてその形なめ回転させるのである。車翼には種々の型があられる黄砂のように細かい物質は浮遊塵となっ て遠距離を運ばれてくるが、砂は風が強い所で百十日前後であったが、所によっては五月・六 、ふとを正確に知ることはできない。一六世紀に入るが、オランダでは四枚羽根のものが発達し、 って、オランダの技術者たちは風車を急激に発アメリカなどではそれ以上に多くの羽根のものも長時間にわたって浮遊はできない。乾燥地域月、あるいは春先にもこれを行っていた。その 達させたといわれる。それは風車の主要な機構が使われた。新しいものではプロペラ型のよ , つのように風の強い所では地面付近を吹き飛ばさ 祭りに念仏踊が結び付いている例もある。↓風 の変化をもたらすものではなく、むしろ部品のなものがある。 れたり、はうように移動する砂が、露出した岩神・雷神 〈石塚尊俊〉 ちみつ れき 精巧化、設計の緻密化などを進めることで風車 一九世紀になって蒸気機関が発明されると、盤を削り、特異な風食地形を生ずる。風食礫、風疹ふうしん rubella 麻疹 ( はしか ) に ほっしん の規模を大きくすることを可能にし、生産効率風車はしだいに使われなくなった。自然条件に きのこ岩や風食凹地はその代表例である。アメ 似た発疹ができる急性伝染病で、ドイツの医師 を高めることにつながった。 左右されるという点で原動機として使われなく リカのララミー盆地は風食によって五〇の深により初めて記載されたので「ドイツはしか」 風車の効率は、風がつねに車翼に向かって当なるのも当然のことといえるであろう。しか さまでえぐられている。モンゴル東部には風食ともいし 、また症状が軽くて二 ~ 三日で発疹が たることで高まる。したがって車翼を風の方向し、今日でも、灯台などでは風力発電に利用さ によって前面に凹地をもっマンハ砂丘がある。 消えるところから「三日はしか」ともよばれ ひまっ 〈高山茂美〉 に向けるために、風車全体、あるいは車翼の取れ、貴重な原動機として活躍しているし、風の ↓きのこ岩↓風食礫 る。病原体はウイルスの一種で、飛沫感染する ・か′れがい りかん が伝染力は麻疹はど強くない。罹患すれば終生 り付けられた上部だけを、風向きにあわせて旋吹く条件のよい地域では灌漑・揚水などに使わ風食礫ふうしよくれき風の侵食作用、とく 回できるようつくられる必要があった。車翼のれている例もある。 に風とともに運ばれる砂の吹き付けによって特免疫が得られる。冬から春にかけ主として小児 ついた頂部が、ころの上にのせられるような設 日本では、水田の水の確保のために地下水を異な表面形態をもっ石。砂がやすりの働きをしの間に流行するが、成人では重症化傾向がみら 計が行われ、風向きによって頂部だけが旋回で くみ上げる揚水ポンプの原動機などに一部の地て表側が磨耗を受けて平滑な面を生ずる。このれ、とくに妊娠初期の婦人が罹患すると、先天 きるような風車 ( 塔型風車 ) は一六世紀なかば域で利用されていた。しかし広く使われること ような面を切面という。切面と切面との間はと性風疹症候群の子供を出産する危険性があるの りよう に製作されたと伝えられる。その頂部の旋回はなく、今日では、博物館でも資料として風車がった稜となり、稜が一つのものを単稜石、三で、臨床上では小児よりもむしろ成人に問題点 は、てこを使うか、伝導機構によって頂部の歯を保存しているところはきわめてまれとなってつのものを三稜石またはドライカンター drei- がある疾患といえる。 〈雀部晶〉 車とかみ合う軸を回転させて行われた。また一 kanter という。稜は卓越風の風食作用によっ 風疹は三 ~ 一〇年の間隔で周期的に流行し、 てつくられるが、卓越風の方向が変わったり、潜伏期間は二 ~ 三週である。軽度の発熱ととも 六世紀には、車翼の腕木を水平面に対してある風車小屋だよりふうしやごやだより Let- 程度の角度をもたせて取り付けたほうが風を受 tres de mon moulin フランスの作家アル石がずり動いて風に対する方向が変わると、数に、、 月さい斑状の発疹が顔をはじめ全身にかな ける効率が高くなる、という点を議論しておフォンス・ドーデの短編集。一八六六 ~ 六九年本になったり、一本になったり、不鮮明になっ り密に現れるが、麻疹よりは小さく、三日くら あな り、実際、設置される風車の多くは車翼に若干に主として『エベヌマン』紙、『フィガロ』紙 たりする。切面のはかに表面に孔や溝を生ずる いで皮もむけずに消えて色素沈着も残さない の角度をもっていた。 に発表したコントを集めて、六九年に単行本と石もある。底面が平らで座りがよいものほど切熱は三八 ~ 三九度 0 にもなるがすぐ下がり、二 せき 風車がオランダで大きく改良されたのは、こ して出版、そののち六編が追加され、七九年の面が発達する。風食を受けない部分は酸化鉄の ~ 三日微熱が続くことが多い。咳や目やになど しゅ の国でそれだけ多く風車が利用されたためであ決定版では二五編。題名の「風車小屋」とは、皮膜に覆われており、「砂漠うるし」とよばれのカタル症状もごく軽い。全身のリンバ節が腫 ちょう る。オランダでは土地がら、昔から水害に悩ま パリ在住のドーデが、南仏プロバンス地方、アる。風食礫は風の強い地方で卓越風向が一定し脹するが、とくに後頭部および耳後部や部 され、土地の干拓のために水をくみ出さなけれルル近傍に買い求めた小屋。そこで見聞した農ている所にできやすい。乾燥地域のみならず、の腫脹が特徴的で、軽い圧痛がある。血液像と ばならなかった。この排水の動力に風車が盛ん民、羊飼いたちの話をバリの友人に送る書簡体海岸砂丘の発達する沿岸地域や大陸氷河周縁部 しては白血球の減少、異型リンバ球ないし形質 に使われたほか、製粉機の動力として利用されの趣向をとる。なかでもよく知られるのは、 などにもみられる。日本では海岸砂丘地域、伊 細胞の増加がみられる。成人の場合には合併症 やぎ うす しはん た。そのようななかで、回転している臼をすば 『スガンさんの山羊』『コルニーユ親方の秘密』豆大島の三原山などにある。 〈高山茂美〉として脳炎や血小板減少性紫斑病などがみられ 『二軒の宿屋』、オペラ脚本の原作にもなった ふうしん風をつかさどる神。古代中るが、一般に予後はよい。 やく停止できるような制動装置が発明された また、成人女子の場 風神 『アルルの女』などである。。フロバンス地方の国では風伯といい、 り、一七世紀になってからではあるが、その後 つねに雨の神「雨師」とと合は発赤腫脹を伴う関節炎をしばしばおこす。 かいぎやく ひのえいめ の機械学および機械工業の発展を促進させた、 明るい風土を背景に、もの悲しい挿話が諧謔もに、丙戌の日に西北で祭るという慣行があ なお、風疹患者の病原体排出期間は発疹の発 回転速度を一定に保てるようにしたはずみ車的文体に包まれ、そこはかとない詩情を醸し出った。わが国では主として雷神と対にして考現前後それそれ約一週間とみなされ、この間は している。↓アルルの女 〈宮原信〉 ( フライホイール ) が発明され、風車の機構に え、中世にはこの二神を鬼形に表現した絵や彫感染の可能性があるので留意する。 も取り入れられた。このようにしだいに機構が回『風車小屋だより』 ( 桜田佐訳・岩波文庫 / 村像も発達した。 風疹は軽症で特別な治療をしなくても全治す やまと 整備・改良されて、広く一般に普及していっ 上菊一郎訳・新潮文庫 / 大西克和訳・角川文 風神の社として古く著名であったのは大和るため、通常は安静と対症療法しか行われない たったひこ た。こうした伝統が、今日、風車をオランダの ( 奈良県 ) の龍田比古神社・龍田比女神社で、 が、他の疾患の感染予防の目的で抗生物質が使 えんぎしき しじさいしき 風物にまでしているともいえるのである。 『延喜式』には四時祭式にその祭式規定があり、われることもある。予防には風疹ウイルスの生 風食ふうしよく風による侵食作用のこと。 のりと 車翼は風の強弱にかかわらずスムーズに回転風のみによって地表面上の細かい物質が吹き飛祝詞式にその祝詞の全文が収められている。伊ワクチン接種が行われる。日本では一九七七年 せないくう べつぐう かぜのみや させる必要がある。そのために車翼を骨組だけ ばされる場合と、風に飛ばされた砂が地表面に 勢の内宮・外宮にはともに別宮として風宮があ ( 昭和五一 l) 以来、先天性異常の発生防止を主 げん一一う でつくり、それに帆布を張れるように設計し、吹き付けられてやすりの役目を果たし、岩石のり、かの元寇のときにはここから神風が吹いた 目的として、妊娠前に免疫をつけるため、女子 帆布の張る量の調節により風力の変化に対応で表面を削る場合とがある。いずれにしても風に という伝承がある。信州 ( 長野県 ) の諏訪大社 が一三 ~ 一五歳に達したとき風疹ワクチンの接 きるようにしている。強風のときには帆布をま よって運ばれる程度の細かい物質を移動させる も風の宮といわれ、このほうではもつばら風の種を受けることに決められている。〈柳下徳雄〉 ひめ じん
びわ においを消すような処理や食べ方が古くからくる。滋賀県では、琵琶湖のゲンゴロウブナ、ニ 竿、ウキ、仕掛け、餌などがまったく異なる。 いるとみられる。 ゴロブナを用いたなれすしの一種である鮒すし ゲンゴロウブナ ( 源五郎鮒 ) は、日本産フナ 〔マブナ釣り〕マ。フナは、春の産卵期を乗っ込ふうされている。甘露煮などのように煮る場合 ししったん素焼きにしたものを用いる、矯臭が古くから知られている。↓鮒すし〈河野友美〉 類中体高がもっとも高い。消化管は長く、鰓耙み期とよび、水郷地帯の浅場の細流に移動してま、、 えびす びわ は細長くて一〇〇 ~ 一二〇本を数える。琵琶湖きたのを短竿でねらう。また、大場所、たとえ効果のあるみそを用いる、魚を塩でよくこす〔民俗〕恵比須神にはタイがもっともふさわし かすみ いが、恵比須祭にフナを供える例は、名古屋市 沖合いの表層を群泳しながら、植物を主とするば霞ヶ浦のような所では、湖岸に密生するアシる、たれをつけて焼くなどである。料理として あった こんぶ は、洗い、刺身、酢みそ和え、昆布巻き、甘露の熱田神宮の末社や、佐賀県鹿島市、茨城県真 プランクトンを、その密生した鰓耙で濾過しての根元に接岸してくるのを釣る。このときは六 いわた かわち ~ 七級の振り出し竿に、仕掛け全長は一・五煮、すずめ焼き、つけ焼きなど利用の幅が広壁郡、静岡県磐田市などの各地でみられる。タ 摂食する。琵琶湖特産であったが、大阪府河内 ためいけ 。しかし生食の場合は、寄生虫の心配があるイを調達できない地方では、タイと体形が似 から一 と短くする。ポイントの真上か 地方で、溜池のような狭い水域でも成育しうる て、寒い時期でもまとめてとれやすいフナを用 ので、汚れた水にいたものは注意がいる。 ように品種改良された。この、いわゆるカワチら静かに仕掛けを沈め、魚がかかったら一気に せ いたのであろう。伊勢神宮 ( 三重県 ) の御神宝の フナは各地に郷土料理が多い。岐阜県の鮒み ブナがヘラブナとして日本各地に第二次世界大抜き上げ、このあと魚に手が届くまで竿を縮め ふな たち そは、素焼きしたフナを大豆とともにみそで柔太刀には、二尾の金の鮒形がつけられている。 戦前より移殖され、所によっては在来。フナとのる。この釣り方をズキ釣りとよぶ。 とおちのひめ ・つド ) ーレゅ・つい じんしん 『宇治拾遺物語』には、壬申の乱 ( 六七一 D で十市皇 らかく煮込んだものである。香川県の鮒豆は、 秋や初冬は探り釣り。三・六 ~ 四・五竿に 雑種を生じている。 おおあまのおうじ 小さい玉ウキ五、六個をつけたシモリ仕掛け素焼きのフナに大豆と昆布を加え、砂糖としょ女が父の大海人皇子に危険を知らせるため、フ ナガ。フナは、現在までのところ中部地方以西 ナの腹中に密書を入れて届けた話がある。ま うゆでじっくり煮込んだもの。フナのてつばい の本州で記録されている。形態だけでなく、所で、まめに歩いて釣る。ウキの半数がゆっくり によって雌がほとんどあるいはまったくみられと底に沈むようにオモリを調節するのがこつでは、フナを塩で磨いて三枚におろし、塩と酢でた、ぶつぶつ小声でいうことを「鮒の念仏」と ことわざ 〈矢野憲一〉 諺にも登場している。 ある。 しめたあと小さく切り、ダイコンのたんざく切 ない点でもギンブナによく似ている。 真冬の寒。フナや乗っ込み前の巣離れとよぶ季り、ネギの小口切り、赤唐辛子などと白みその回矢野憲一著『魚の文化史』 ( 一九盒・講談社 ) ニゴロブナは、琵琶湖特産で、日本産フナ類 節は、六 ~ 七竿で沖めいつばいに仕掛けを振酢みそで和えたものである。石川県のフナのそブナ〔樵・椈〕 F ~ 、 s 夷 e き BI. プ 中体高がもっとも低い いそぎお キンブナ、ゲンゴロウ。フナ、ニゴロ。フナでって探るか、スピニングリールの軟調磯竿などろばんはフナの刺身のことで、からし酢みそやナ科ブナ属の落葉高木。高さ二〇以上、直径 しようゆで食べる。小ぶりのフナを薄い筒切り一にも達する。樹皮は灰白色で平滑である は、雌雄がほば同数存在し、染色体も一般に一一で釣るが、この釣り方はどちらも引き釣りとよ はんもん にすると、中骨がそろばんの玉の穴のようにみが、地衣類がっきやすくさまざまな斑紋をつく 倍体である。これに対して雄の少ないギンブナぶ。餌は寒い時期にアカムシ、暖かいときはミ へり えるのでこの名があるという。千葉県もフナ料る。葉は左右不対称の卵形から菱形で、縁は波 とナガブナには、二倍体のほかに三倍体と四倍ミズが有効である。 きよし 〔ヘラ。フナ釣り〕ヘラブナは、釣り堀、管理釣理が多く、すずめ焼き、甘露煮などは有名であ状の鋸歯がある。側脈は七 ~ 一一対で、先端は 体の個体がかなり含まれている。 上部へ流れる。花は新葉よりすこし早く開く。 ヘラブナあるいはヒラ。フナという俗称は、キり場、自然の釣り場で四季を通じて楽しめる。 ようえき ン。フナとの共存地ではギンブナに対しても使用竿はヘラブナ専用のもので、釣り場に応じて 杣雌花は新枝の上部の葉腋につき、緑色の総包内 分 に、赤紫色の柱頭をもっ二個の花をつける。雄 されたが、 近年は全国的にゲンゴロウ。フナ ( カ二・四級から六級を使い分ける。竿掛け、 花は新枝の下部につき、細い柄をもっ頭状花序 ワチブナ ) をさしている。また、マ。フナは一般竿受け、釣った魚を取り込む玉網、釣れた魚を び を下垂し、黄色の葯が割れ大量の花枌を放出す にギンブナの呼び名であったが、近年はヘラプ入れるフラシ ( 魚籃 ) 、クジャクの羽などでつ布 る。風媒花で、雌性先熟である。一雌花内には くったヘラブナ専用ウキなど、ヘラ。フナ釣りに分 ナ以外のフナの総称となっている。 まいしゅ 三つの子房と六つの珠があるが、一胚珠だけ は欠かせない道具が多い。また、餌箱、椅子な 日本各地や朝鮮半島で発見されたテッギョ ナ フ が成長して殻斗内に二堅果を結ぶ。秋、黄葉に ( 鉄魚 ) は、各ひれ、とくに尾びれの著しく長ど腰をかける道具も必需品である。 餌はマッシュポテトのはか、練り餌用の各種 い点で人目をひくが、フナとリュウキンの雑種 っ うろ・」 下生内 とみなされている。また、鱗が透明化する突然の粉製品が市販されているが、べテランは李節 候が水先を 変異個体は、カッタイ。フナ、ギョウキ・フナ ( 行や釣り場の状況に応じて自分なりにプレンドし 気林上に斗果 型美県葉殼堅 基鮒 ) などとよばれる。これに対して、ゴマプてくふうをしている。 海の野黄るの 本ナ長村 , すっ ヘラブナの泳層は本来は中層 ( 釣り人は宙層 ナ ( 胡麻鮒 ) とデメ。フナ ( 出眼鮒 ) はそれそれ 日プ。里秋熟ニ , る無〕成一 寄生虫病と水質悪化によって生じた後天的な異という ) であるが、季節や水色などによってマ 上 はす鬼〔て内 ブナ同様に底層になることもあり、この傾向は 常個体であって、遺伝的な変異ではない。 〔養殖〕古代からの重要な食用魚で、中国をは冬に多い。初夏から一一月ごろまで魚の多い所 じめ世界各国で養殖されている。日本では遊漁では上層で釣れるが、基本は宙釣りである。群 の対象として、とくにヘラ。フナの養殖が盛ん泳する習性をもっ魚であるため、上鉤に溶解の で、その種苗は全国各地で放流されているほか、早い寄せ餌をつけ、まず「魚を寄せて釣れ」と 〈松田年雄〉 いうのが第一条件である。 成魚が釣り堀にも出荷されている。〈水野信彦〉 〔釣り〕釣り人はキンブナ・ギイフナをマ。フ〔食品〕フナは日本全土に分布し、古くから身 ナ、ゲンゴロウ。フナ ( カワチブナ ) をへラブナ近な魚として親しまれている。縄文遺跡からフ オとよび、フナ釣りをマ。フナ釣りとヘラブナ釣りナの骨が出土しているとの報告もある。フナに は淡水魚特有のにおいがある。調理の際はこの かに区別する。マ。フナ釣りとヘラブナ釣りでは、 さお えさ ナ プ 445
はんらん ぎよくしよう ふじさんほんぐうせん 富士山本宮浅間神社 か所の石室があったが、河水の氾濫によって土庄内平野の代表的な水稲単作地帯。西部を羽越学び、上京して川端玉章の門に入る。のち洋 ふじのみや しん つるおか そやまゆきひこ まうすい げんじんじゃ静岡県富士宮市宮町に鎮座。富士中に埋没、散乱していたものを清代の一七八六本線が南北に縦断し、国道三四五号が鶴岡市に 画に転じ、曽山幸彦、松岡寿、山本翠らの指 わどう 山頂上に奥宮が鎮座。壮麗な富士山を神体とし年 ( 乾隆五一 ) 黄易が発掘し、別にれんが造の通じる。和銅年間 ( 七 0 〈 ~ 七一五 ) に出羽国府が置導を受け、一八九一年 ( 明治一一四 ) 明治美術会 このはなのさくやひめのみことまっ て木花之佐久夜毘売命を祀る。全国一三〇〇祠堂を建て、その壁に画像や題字のある石材をかれた地ともいわれる。中心地の藤島は南北朝の会員となる。九六年東京美術学校西洋画科助 あさま - 」うれい 余の浅間神社の総本社。社伝で、孝霊天皇のと はめ込んで保存している。墓地の入口に残る石から近世初期まで藤島城があり、南北朝時代は教授および白馬会会員となり、黒田清輝の外光 りよう ろうまん き富士山が噴火し国中が荒れたので、垂仁天皇闕は、一四七年 ( 建和一 ) に武始公、武梁、武南朝の拠点であった。明治・大正期には東田川 派の影響を受けるが、やがて浪漫主義に移って ちょう のときになり山霊を鎮祭したのが創建という。景興、武開明の四人兄弟が、父のために建てた郡役所や庄内農学校などが設置され、同郡の中『蝶』などを発表。一九〇五年、文部省の留学 えんぎ みようじん するが いちのみや 延喜の制で名神大社、のち駿河国一宮、明治もの。また武梁碑によると、武梁は一五一年心であった。人口一万三四一二。〈中川重〉生として渡仏し、パ丿 ーの国立美術学校でコルモ あさま の制で官幣大社。例祭一一月四日。↓浅間神社 ( 元嘉一 ) に死に、その子供たちが石の祠堂を回『藤島町史』上下 ( 一九七一一・藤島町 ) ンの指導を受け、さらにローマに転学する。留 あ、こま - せんげんづくり こくせん ↓北ロ本宮富士浅間神社↓浅間造〈鎌田純一〉建てたことが知られる。武氏祠の画像石は漢代囮二万五千分の一地形図「藤島」「羽黒山」「湯学時代の代表作に『黒扇』 ( 重文 ) 、『チョチャ ごかん 武氏祠ぶしし中国、後漢末の地方豪族での絵画を知るうえでの貴重な資料で、高い評価 野浜」「鶴岡」 ラ』などがある。一〇年に帰国して白馬会展に せきし あった武氏一族の墓地に建てられていた石祠を受けているが、画題は、三皇五帝をはじめ、藤島神社ふじしまじんじや福井市毛矢三丁滞欧作二七点を発表のほか、東京美術学校教授 どう ん ~ ー」しっ じせき にったよしさだ 堂。山東省嘉祥県にある。かって墓の前には数忠臣、孝子、烈女、義士などの事蹟、楼閣、人目に鎮座。南北朝時代の武将新田義貞を主神と に進み、以後三十余年を西洋画科学生の指導に よしむねわきやよしすけ 物、車馬、鳥獣などに及んでいる。芝居の舞台 し、新田義宗・脇屋義助以下の一族郎党を合記尽くした。また本郷洋画研究所、川端画学校で をみるように簡略化された背景のなかに、衣冠する。一三三三年 ( 元弘三・正慶一 l) 義貞は、 も指導にあたる。一三年 ( 大正二 ) 文展に『う 歩 と館をつけた士人や頭飾りをつけた婦人など人物像倒幕の旗をあげて鎌倉に攻め入り、北条氏を滅 兵物 けんむ 一彩一泉 ルマ ト青て 騎博を大きく描く描写に特色があり、漢代の絵画・ ばし、建武政権で後醍醐天皇に重用される。一 油東館テ一たス , し あしかがたかうじ 術モロれラて現 ; 扇 〈吉村怜〉三三八年 ( 延元三・暦応一 ) 足利尊氏側と戦 ′ ) れ風俗を知る貴重な資料である。 黒幻文美を , さトし表 台重ン人で作ン用を 、藤島で戦死した。 描京フジシダ〔富士羊歯〕 p ミ、 e こ s ミ・ 婦品制コ利性 とうみようじなわて 団 作 . E ス ア作にのに能 ミ 0 ミ 2 (Bak. ) Hance イノモトソウ科の 義貞戦没地と伝えられる燈明寺畷より江戸 財 央る かぶと 武年ヂ リた中黒み官 こを中た 島四 X リ タし在と巧なる 常緑性シダ。根茎は斜上し、単羽状で約三〇弩 時代初期に兜が出土、福井藩主松平氏歴代は遺 があ 藤 プ価イと滞白を諟 の葉をつける。葉軸の先は伸長して無性芽をつ跡の保存に努め、一八七〇年 ( 明治 電 な水 しげあき きか ける。関東地方以西から中国、台湾にまで分布三 ) 松平茂昭は同地に社殿を造営し ~ 3 、大方 た。一八七六年別格官幣社に列せられ 下する。近縁種にオオフジシダミミミ 0S0 、 ~ 、ミ 図 耄 ge とヒメムカゴシダ . ミミがある藤島神社と称し、一九〇一年 ( 明治三 カ 交 が、いずれも三回羽状複葉である。〈栗田子郎〉四 ) 現在地に遷座。例祭五月一 ~ 三 方 しよう 水上藤島 ( 町 ) ふじしま ( まち ) 山形県北西部、庄日。社宝に義貞所用と伝える発掘の鉄 ぞうがん たち しほん 本橋内平野のほば中央に位置する東田川郡の町。一製銀象眼兜、鎌倉期の太刀二ロ、紙本 ゅうきむわひろ 6 る九一三年 ( 大正一一 ) 町制施行。五四年 ( 昭和 結城宗広書状 ( いずれも国の重要文化 とうえい やえじま 二九 ) 八栄島、長沼、東栄の三村と合併、五五財 ) などがある。↓新田義貞〈平泉隆房〉 わたまえ し 年渡前村を編入。町のほば中央を南流する藤島藤島武ニふじしまたけじ ( 天六七ー きようでん けいお、つ 祠交 川と町境を北西流する京田川が北東部で合流 一九四三 ) 洋画家。慶応三年九月一八日 氏が へいたん 武兵する平坦地で、明治後期から耕地整理が進み、鹿児島生まれ。中学時代から日本画を ふがく 式会社・非売品 ) ▽渡辺正臣著『富士山・富士五湖』 ( 一九 歌・俳句に多く、絵画では江戸時代の葛飾北斎の『冨嶽三十た。講中の者は、旧暦六月一日の山開きから二〇日間、富士 もう いしむろ しゆくばう 六景』が名高い 。↓富士筑波伝説 全・実業之日本社・プルーガイド・フックス ) ▽木澤綏他 詣でと称して登拝した。江戸時代には宿坊や石室も整い あが 著『富士山自然の謎を解く』 ( 一九七一・ Z ・フックス ) 富士山を霊視し、また信仰の対象として崇めることは、原七月二七日を山じまいとした。登拝者は夜を徹して登り、御 らい一う 始信仰以来のものと想像されるが、山岳仏教と結び付いて初来迎 ( 日の出 ) を拝み、火口を巡る「お鉢巡り」などをす ▽森下晶著『富士山』 ( 一九七一一・講談社現代新書 ) ▽諏訪彰 る。 めて具体的な形を整えてきた。富士山への登拝の始まりは、 監修『富士山大雑学』 ( 一九全・広済堂出版 ) ▽清水清著 しゅげんどう えんのおづめ 修験道を開いた役小角であると伝えられているが、事実かど 『富士山の植物』 ( 一九七七・東海大学出版会 ) ▽井上浩著 富士山の見える地域では、雲のかかりぐあいで天候を予測 どうくっ ふうけっ・ 『自然観察シリ ーズ・富士山の植物』 ( 一九全・小学館 ) ▽ うか明らかではない。富士の信仰が盛んになったのは中世以する。また富士山周辺の火山性洞を富士風穴といい、気温 はせがわ ふか 後のことであり、登拝することは富士講の開祖である長谷川 が低く一定なことを利用して、氷の保存や蚕の種の孵化抑制 黒田長久編『富士山富士山地域の動物相』 ( 一九七一・富士 かくぎよう ぎようじゃ 〈井之ロ章次〉 角行によって広められた。富士講の行者は東日本の広い範などをしていた。↓富士講 急行株式会社 ) せんげん ぶんし ようはい 囲に活躍し、各地に富士浅間神社を分祀して遙拝所を設け回富士山総合学術調査報告書『富士山』 ( 一九七一・富士急行株囮五万分の一地形図「富士山」「山中湖」「富士宮」「御殿場」 かっしかほくさい せき 0 せいき 4 一 277