ぶんかけ 専攻 氏名 高柳健次郎 電子工学・テレビジョン工学 第 42 回 1981 年 ( 昭和 56 ) 永井龍男 11 月 3 日発令福井謙一 工業化学 藤間順次郎 歌舞伎 ( 初代松本白鸚 ) 山口米次郎 ( 華楊 ) 日本画 国際法学 横田喜三郎 日本史学 坂本太郎 第 43 回 1982 年 ( 昭和 57 ) 高山辰雄 日本画 11 月 3 日発令津田恭介薬学・有機化学 藤間秀雄 邦舞 ( 六世藤間勘十郎 ) 吉識雅夫船舶工学 第 44 回 石橋貞吉仙本健吉 ) 文芸評論 洋画 1983 年 ( 昭和 58 ) 牛島憲之 11 月 3 日発令小礒 ( 小磯 ) 良平洋画 服部四郎 「コ日ロ・ : 子・ 武藤清建築構造学 上村信太郎 ( 松篁 ) 日本画 第 45 回 1984 年 ( 昭和 59 ) 奧田厳三 ( 元宋 ) 日本画 11 月 3 日発令貝塚茂樹東洋史学 高橋信次放射線医学 利根川進分子生物学 円地富美 ( 文子 ) 小説 第 46 回 1985 年 ( 昭和 60 ) 黒沢明映画 11 月 3 日発令相良守峯 ドイツ語学・ドイツ文学 西川寧 和達清夫地球物理学 荻須高徳 * 洋画 氏名 専攻 専攻 氏名 11 月 3 日発令小野清一郎 刑事法学 久野寧生理学 第 23 回 早石修 1963 年 ( 昭和 38 ) 古賀逸策電気工学 生化学 11 月 3 日発令 石原謙宗教史 第 34 回 1973 年 ( 昭和 48 ) 勝木保次生理学 茅誠司物理学 第 24 回 11 月 3 日発令久保亮五統計力学 1964 年 ( 昭和 39 ) 野尻清彦 ( 大仏次郎 ) 小説 電気工学 瀬藤象二 農芸化学 11 月 3 日発令藪田貞治郎 谷口吉郎建築 建築 吉田五十八 我妻栄民法 石坂公成 免疫学 第 35 回 1974 年 ( 昭和 49 ) 江崎玲於奈電子工学 生物有機化学 赤堀四郎 第 25 回 日本画 11 月 3 日発令杉山寧 1965 年 ( 昭和 40 ) 小糸 ( 小絲 ) 源太郎洋画 永田武地球物理学 11 月 3 日発令諸橋轍次漢文学 日本画 三郎 ( 蓬春 ) 日本画 橋本明治 山口 山本勇造 ( 有三 ) 小説・戯曲 江橋節郎薬理学 第 36 回 洋画 井伏満壽二 ( 鱒二 ) 小説 1975 年 ( 昭和 50 ) 小山敬三 第 26 回 11 月 3 日発令田崎広次 ( 広助 ) 洋画 1966 年 ( 昭和 41 ) 徳岡時次郎 ( 神泉 ) 日本画 中川一政洋画 11 月 3 日発令仁田勇 結品化学 広中平祐数学 小林秀雄文芸評論 第 27 回 1967 年 ( 昭和 42 ) 坂口謹一郎徴生物学・酵素学第 37 回 井上靖 1976 年 ( 昭和 51 ) 小野英吉 ( 竹喬 ) 日本画 11 月 3 日発令林武臣 ( 武 ) 洋画 11 月 3 日発令木村資生遺伝学 村野藤吉 ( 藤吾 ) 建築 松田権六 山縣昌夫造船工学 森嶋通夫理論経済学 堅山熊次 ( 南風 ) 日本画 第 28 回 桜田一郎 応用化学・高分子化学 内科学 第 38 回 1968 年 ( 昭和 43 ) 黒川利雄 1977 年 ( 昭和 52 ) 田宮博細胞生理化学 11 月 3 日発令鈴木稚次土木工学 11 月 3 日発令中村元 インド哲学 浜田象二 ( 庄司 ) 陶芸 丹羽文雄 アポロ 11 号宇宙船乗組員 第 29 回 山本正義 ( 丘人 ) 日本画 1969 年 ( 昭和 44 ) N. A. アームストロング ( 船長 ) 10 月 31 日発令 E. E. オルドリン・ジュニア ( 操縦士 ) 第 39 回 尾崎一雄 1978 年 ( 昭和 53 ) 楠部弥一 ( 弥弌 ) 陶芸 M. コリンズ ( 操縦士 ) 11 月 3 日発令杉村隆癌生化学 岩田豊雄 ( 獅子文六 ) 小説・戯曲 第 30 回 田中美知太郎哲学・西洋古典学 1969 年 ( 昭和 44 ) 落合英二 薬化学 理論物理学 南部陽一郎 11 月 3 日発令正田建次郎 数学 霊長類学 第 40 回 今西錦司 東山新吉 ( 魁夷 ) 日本画 歌舞伎 1979 年 ( 昭和 54 ) 河村藤雄 冲中重雄 内科学・神経学 第 31 回 11 月 3 日発令 ( 六世中村歌右衛門 ) 1970 年 ( 昭和 45 ) 棟方志功版画 沢田寅吉 ( 政広 ) 木彫 11 月 3 日発令 高橋誠一郎経済学史 砂防計画学 第 32 回 赤木正雄 堀ロ大学詩・翻訳 1971 年 ( 昭和 46 ) 荒川豊蔵陶芸 小倉遊龜 ( 遊亀 ) 日本画 第 41 回 11 月 3 日発令野上ヤヱ ( 弥生子 ) 小説 1980 年 ( 昭和 55 ) 小谷正雄分子物理学・生物物理学 安井琢磨近代経済学 11 月 3 日発令丹下健三 建築 建築学・防災工学 内田祥三 第 33 回 農業経済学 東畑精一 1972 年 ( 昭和 47 ) 岡鹿之助 洋画 波野聖司 ( 一七世中村勘三郎 ) 歌舞伎 第 47 回 1986 年 ( 昭和 61 ) 10 月 14 日発令 政治史 第 48 回 岡義武 短歌 1986 年 ( 昭和 61 ) 土屋文明 筋生理学 11 月 3 日発令名取礼二 宇宙物理学 林忠四郎 池田曻一 ( 遥邨 ) 日本画 第 49 回 1987 年 ( 昭和 62 ) 岡田善雄 細胞遺伝学 11 月 3 日発令草野心平詩 桑原武夫仏文学・評論 歌舞伎 藤間豊 ( 二世尾上松緑 ) 注 : * は故人追贈 な文化圏の概念は一八九八年にフロべニウスに よって導入され、二〇世紀初めにグレーブナー せいち によって精緻にされ、き、らにシュミットによっ て世界的な規模における文化圏体系に押し進め られた。このような文化圏の用法の一例とし て、グレーブナーが一九〇四年に初めて提案 し、〇九年に修正提案したオセアニアにおける 文化圏をあげよう。グレーブナーは、基本的に はオーストラリア文化、トーテミズム文化、母 権双分制文化、メラネシア文化、ポリネシア文 化という五つの文化複合がオセアニアに存在 し、これらの文化複合は、空間的には、たとえ ばオーストラリア文化はオーストラリア、ポリ ネシア文化はポリネシアというように、それそ れ異なる分布領域をもっことから文化圏として とらえることができる。他方においては、これ らの文化複合は先に述べた順序でオセアニアに 進入し登場したものであって、古オーストラリ ア文化は、オセアニアにおける最古の文化層で あり、ポリネシア文化はもっとも新しい文化層 であるというように、時間的にみれば文化層で ある。そして一つの文化圏 ( 文化層 ) は、たと えばトーテミズム文化は父系制、トーテミズ とうそう ム、太陽神話、台上葬、成年式、投槍器、円形 小屋、陰茎鞘などの多くの要素からなる複合体 である。シュミットは、グレーブナーがオセア 一一アで設定した文化圏の体系を世界的に拡大し たが、そのとき二つの仕方でこれを整理した。 一つは、民族学的に再構成しうるもっとも古い 文化形態としての原文化、それから発展した次 の段階としての第一次文化 ( これは後で述べる ように三つに分かれる ) 、さらに複数の第一次 文化が混合しあってできた第二次文化と第三次 文化という、いわば段階づけである。もう一つ は、第一次諸文化をトーテミズム大狩猟文化、 母権農耕文化、父権牧畜文化というように、親 族組織と経済形態との組合せという統一的な命 名法を用いたことである。シュミットの文化圏 体系は形式的には整っていたが、現実から離 れ、文化圏説の没落の大きな原因となった。こ のような動向に対して反動というべきものに、 一九三〇年におけるドイツのバウマンのアフリ 力における文化圏設定があり、地域をアフリカ に限り、自然環境、人種、言語などの要因を考 慮に入れた具体性の高いものであった。 文化圏という概念には一定の有効性があり、 この概念を用いての文化史研究も、アフリカと さや 802
文化勲章 / 受章者一覧 氏名 専攻 氏名 専攻 第 1 回 長岡半太郎物理学 岡田武松気象学 1937 年 ( 昭和 12 ) 本多光太郎金属物理学 真島利行化学 4 月 28 日発令木村栄地球物理学 文学 谷崎潤一郎 佐佐木信綱和歌・和歌史・歌学史 志賀直哉 文学 幸田成行 ( 露伴 ) 文学 第 9 回 刑法・法理学 牧野英一 岡田三郎助 洋画 1950 年 ( 昭和 25 ) 田辺元 哲学 藤島武二 洋画 11 月 3 日発令藤井健次郎 植物学 竹内恒吉 ( 栖鳳 ) 日本画 三島徳七金属学 横山秀麿 ( 大観 ) 日本画 小林茂 ( 古径 ) 日本画 数学 第 2 回 高木貞治 土井林吉 ( 晩翠 ) 詩 哲学 1940 年 ( 昭和 15 ) 西田幾多郎 正宗忠夫 ( 白鳥 ) 文学 11 月 10 日発令川合芳三郎 ( 玉堂 ) 日本画 第 10 回 柳田国男 民俗学 生化学・病理学 佐佐本隆興 1951 年 ( 昭和 26 ) 光田健輔 ライ医学 伊東忠太建築学 第 3 回 11 月 3 日発令西川正治 原子物理学 1943 年 ( 昭和 18 ) 鈴本梅太郎 農芸化学 原子物理学 菊池正士 4 月 29 日発令朝比奈泰彦薬学・植物化学 斎藤茂吉 短歌 湯川秀樹 原子物理学 武者小路実篤文学 徳富猪一郎 ( 蘇峰 ) 歴史・政治評論 歌舞伎 波野辰次郎 三宅雄二郎 ( 雪嶺 ) 社会評論 ( 一世中村吉右衛門 ) 和田英作 洋画 梅原龍三郎 第 1 1 回 洋画 第 4 回 田中館愛橘地球物理学・航空学 1952 年 ( 昭和 27 ) 熊谷岱蔵結核医学 1944 年 ( 昭和 19 ) 岡部金治郎 電気工学 11 月 3 日発令佐々木惣一 憲法学・行政学 心、只潔細菌学 4 月 29 日発令 辻善之助 日本史・仏教学 稲田竜吉 細菌学 朝永振一郎原子物理学 狩野直喜 中国文学 永井壮吉 ( 荷風 ) 文学 高楠順次郎 インド哲学 安井曾太郎 洋画 第 5 回 中田薫法制史・日本法制史第 1 2 回 板谷嘉七 ( 波山 ) 陶芸 1946 年 ( 昭和 21 ) 宮部金吾植物学 1953 年 ( 昭和 28 ) 宇井伯寿 インド哲学 2 月 11 日発令俵国一 金属学 11 月 3 日発令香取秀治郎 ( 秀真 ) 鋳金 原子物理学 喜多六平太 仁科芳雄 能楽 梅若万三郎 能楽 羽田亨東洋史 矢部長克地質学・古生物学 岩波茂雄 出版 第 6 回 木原均遺伝学 第 13 回 勝沼精蔵 血液学・航空医学 1948 年 ( 昭和 23 ) 長谷川万次郎 ( 如是閑 ) 評論 1954 年 ( 昭和 29 ) 鏑本健一 ( 清方 ) 日本画 11 月 2 日発令安田新三郎 ( 靫彦 ) 日本画 11 月 3 日発令金田一京助 アイヌ文学 朝倉文夫彫塑 高浜清 ( 虚子 ) 俳句 上村津禰 ( 松園 ) 日本画 萩原雄祐 天文学 第 7 回 寺島幸三 歌舞伎 大谷竹次郎 演劇事業 第 14 回 1949 年 ( 昭和 24 ) ( 六世尾上菊五郎 ) 1955 年 ( 昭和 30 ) 杉本金太郎 長唄 7 月 10 日発令 11 月 3 日発令 ( 二世稀音家浄観 ) 平沼亮三 体育 第 8 回 鈴木貞太郎 ( 大拙 ) 仏教学 伝染病学 二木謙三 1949 年 ( 昭和 24 ) 津田左右吉 東洋哲学・日本古代史 前田廉造 ( 青邨 ) 日本画 11 月 3 日発令 内科学 三浦謹之助 専攻 氏名 増本量 金属学 和辻哲郎 倫理学 第 15 回 安藤広太郎 農学 1956 年 ( 昭和 31 ) 坂本繁二郎 洋画 11 月 3 日発令新村出 高諞学・国語学 古畑種基 法医学 金属学 村上武次郎 電気工学 八木秀次 作曲 山田耕筰 牧野富太郎 * 植物学 第 16 回 1957 年 ( 昭和 32 ) 緒方知三郎 第 17 回 病理学 小説・劇作 1957 年 ( 昭和 32 ) 久保田万太郎 11 月 3 日発令小平邦彦 数学 西山夘三郎 ( 翠嶂 ) 日本画 山田孝雄 国語学 吉住小三郎 長唄 第 18 回 北村西望彫塑 1958 年 ( 昭和 33 ) 近藤平三郎薬学・薬化学 11 月 3 日発令野副鉄男 有機化学 松林篤 ( 桂月 ) 日本画 第 19 回 川端昇太郎 ( 龍子 ) 日本画 1959 年 ( 昭和 34 ) 小泉信三 経済学 11 月 3 日発令丹羽保次郎 電気工学 山内英夫 ( 里見弴 ) 小説 病理学 第 20 回 岡潔数学 1960 年 ( 昭和 35 ) 佐藤春夫 小説・詩 11 月 3 日発令田中耕太郎商法・法哲学 吉川英次 ( 英治 ) 小説 第 21 回 川端康成 1961 年 ( 昭和 36 ) 鈴木虎雄 中国文学 11 月 3 日発令堂本三之助 ( 印象 ) 日本画 富本憲吉 工芸 福田平八郎 日本画 水島三一郎 化学 第 22 回 梅沢浜夫徴生物学 1962 年 ( 昭和 37 ) 奧村義三 ( 土牛 ) 日本画 11 月 3 日発令桑田義備植物細胞学 中村恒吉 ( 岳陵 ) 日本画 平櫛倬太郎 ( 田中 ) 本彫 1 月 18 日発令 かオセアニアのような限られた地域について は、注目すべき結果を生み出した。しかし一九 五〇年代後半からは、かっての文化圏説の連想 を避けるため、民族学では文化圏という語はほ とんど用いられず、文化複合のような中立的概 〈大林太良〉 念を用いている。 ・シュミット、・コッパース著、大野俊 一訳『民族と文化』上下 ( 一九五七、七 0 ・河出書 房 ) ▽・シュミット著、山田隆治訳『母 権』 ( 一九六一一・平凡社 ) ▽蒲生正男編『現代文 化人類学のエッセンス』 ( 一九大・。へりかん社 ) ぶんかこうろうしや文化功労者 文化功労者 年金法に定めるもので、文化の向上発達に関し とくに功績顕著な者をいう。文化功労者は、文 化に関し高い識見を有する委員一〇人 ( 任期一 年 ) で構成する文化功労者選考審査会が選考し た者のうちから、毎年一〇人を文化の日に文部 大臣が決定している。文化功労者にはその功績 の顕彰を目的として終身年金 ( 一九八七年現在 三五〇万円 ) が支給される。一九八七年 ( 昭和 六一 l) 現在四〇〇人が決定されている。 文化の発達に関し勲績卓絶な者に授与される 文化勲章は、普通の勲章と同様にいかなる特権 をも伴わない精神的な優遇であるのに対し、文 化功労者年金法は、文化功労者の物質的な優遇 を図るため一九五一年に制定されたものであ る。前者が主として独創的、画期的な学術、芸 術上の功労を対象としているのに対し、後者は さらに広い分野の功労をも対象としている。文 化勲章受章者は原則として文化功労者のうちか 〈篠田幸雄〉 ら選ばれている。 ぶんかこっか Kulturstaat 文化国家 警察国家や家産国家などの絶対主義国家理念に 対立するものとして、一九世紀初めドイツで成 立した国家理念。当時のドイツでは近代自由主 義国家の成立する客観的条件が欠如していたの で、観念論政治哲学者の間で理念的に絶対主義 国家を克服すると同時に、人間の外面的自由の みの実現を目ざすイギリス、フランスの近代自 由主義国家をも止揚する国家理念が構想された が、それが文化国家であった。それは、その達 成が強く待ち望まれていた最高の自由と倫理性 が実現されるドイツ民族統一国家の理想像でも あった。その後、ドイツ民族の歴史的使命はこ の文化国家の実現にあるという主張がなされ、 実際、ドイツ帝国を正当化するイデオロギーの 機能を果たした。ところが、それが広義の権力 8
アを風刺、一脈の文学性をみせた。今日でも上 った。とくにハミルトンの財政・金融政策は新し、一、二回戦敗者によるコンソレーションマ 念はあいまいとなった。また、死霊や精霊など かず一 ッチでは沢松和子の活躍で六回優勝している。演される。一方、劇場支配人も務め、だて男と 人格的な存在と結び付けて崇拝するのを霊物崇国家の基礎を確立したものとして有名。フェデ しても有名だったが、最後は狂死。〈岩瀬孝〉 拝、非人格的な力のために崇拝されるのを呪物ラリストは、第二代大統領としてジョン・アダ個人成績としては、シングルスでエバート・ロ ムズを当選させたが、その後リバ。フリカン ( 反イド ( アメリカ ) の二九勝無敗、ダブルスで回岩瀬孝訳『坊やに下剤を』 ( 『現代世界戯曲全 崇拝として区別される場合もあるが、通常はこ 集七』所収・一九一四・白水社 ) 八一六年の大統領選・キング ( アメリカ ) の二七勝無敗、最多勝 の両者を含めて呪物崇拝あるいはフェティシズ連邦派の自称 ) に敗れ、一 ムとよんでいる。ハッドンは、呪物をその本質挙に候補者を立てたのを最後に消滅した。のち数ではウェード ( イギリス ) のシングルス三六フェード・アウト fade out もともと に同党の支持層は全国共和党 National Repub- 勝、ダブルス三〇勝が頂点となっている。大会は映像や音響がしだいに消えうせていくことを 的特質からさまざまに分類し、呪物はそれが表 いうが、それから転じて、発展途上国に直接投 現する物に似せてかたどることがないのに対 lican と合流してホイッグ党 Whig Party を参加回数としてはウェードの一七回が最多であ る。会場地は各国持ち回りで、ドイツ開催が四資をした企業が、保有株式を漸進的、段階的に し、偶像は神の象徴であってさらに神の容器で結成し、これが現在の共和党 Republican Par ・ 〈島川雅史〉回で最多、日本は、八一年に東京の多摩川園一フ現地に移し、経営支配権を譲渡することを意味 ty の源流となった。 はないと判断して、フェティシズムと偶像崇拝 とよた する。先進国企業の途上国への直接投資は、資 とを区別した。しかしフェティシズムを厳密に回藤本一美著『アメリカ近代政党の形成』 ( 一九ケットクラ。フ、八五年に豊田市の名古屋グリ 〈三町正治〉金提供、技術移転、雇用創出などに役だっメリ ンテニスクラ。フで開催された。 全・御茶の水書房 ) ▽ハミルトン、ジェイ、 他の宗教上の概念 ( 自然崇拝、祖先崇拝、トー ットもあるが、一方、利潤の本国送金などをめ テミズム、偶像崇拝など ) と区別するのは困難 マデイソン著、斉藤真訳『ザ・フェデラリスフェート A(baHacHÜ1 A(baHacbeBHq (t)eT ぐって途上国の経済ナショナリズムと対立しゃ ト』 ( 『世界の名著』所収・一九七 0 ・中央公論 であり、このことからフェティシズムの用語は (LLIeHLIJHH)/Afanasiy Afanas'evich Fet 社 ) (Shenshin) ( 天一一 0 ー九一 D ロシアの詩人。地すい。そこで経済ナショナリズムが急激な国有 濫用ぎみに使用されるようになった。また、宗 イに結び付かないよう、あらかじめ進出企業と 教研究に物質的な面より信仰体系や儀礼の側面フェデリーコ ( 二世 ) Federico = ( 一一主貴族シェンシンが国外から連れてきた、ドイ 操業開始後ある一 ツ人官吏 ( 実父 ) の妻を母にシェンシンの領地現地側との利害調整を行い、 に重点が置かれるようになったこともあり、現九四ー一 = 吾 ) シチリア王、神聖ローマ皇帝。ド 在ではフェティシズムの概念は宗教学上、人類ィッ人皇帝ハインリヒ六世とシチリアのノルマで生まれた。一四歳で出生の秘密を知り、貴族定期間内 ( 普通一五 ~ 二〇年 ) に段階的に出資 の特権とシェンシン姓を奪われる。以来それを比率を引き下げて現地側に経営を移譲するが、 ン王朝の王女コスタンツアとの間に生まれる。 学上ではあまり使用されていない。 父の死後、幼くしてシチリア王位を継承し ( 一一回復するために、軍務、領地経営、侍従職の打この期間内では進出企業は完全あるいは過半数 以上の宗教学上の概念から発展し、マルクス 所有を認められ、利潤の本国送金もできるとい 経済学では「物神崇拝」あるいは「物神性」と九 0 、さらにドイツ王即位 (llllll) を経て一二算と虚栄に明け暮れる生の散文が営まれたが、 二〇年に帝冠を受ける。教皇に対抗して帝権の詩的世界は忌まわしい現実 ( ほかに母方の精神うものである。しかし、フェード・アウト規制 訳して経済学上の特定の意味に使用する場合が は多国籍企業の長期的な海外経営戦略とかなら ある。これは、貨幣や資本が人間の労働による拡大を図るために、シチリア王国内の中央集権病の形質に詩人はおびえた ) とは、およそかけ 化を強力に推し進め、絶対君主の先駆ともみな離れたところに成立した。詩才の開花は一八五すしも両立しないため、この条項をもっ途上国 価値を通じてではなく、それ自体に固有な神秘 へ直接投資をするのをためらうという事態もお される。また文化政策の面でも、学芸を積極的〇年代なかばからで、六〇年代には文壇主流の 的な力をもっと考えられて崇拝されることを示 〈秋山憲治〉 こっている。↓直接投資 社会学的文学に論争を挑み、純粋美を主張し に奨励して、パレルモの王宮を中心に宮廷文化 し、これが宗教学上のフェティシズムとの類似 た。フェートの詩の特徴は、つかのまの感覚、フェドチェンコ氷河ーーひょうが から使用されるに至っている。〈豊田由貴夫〉の育成に努めた。なかでも、イタリアの俗語に ほそく qeHKO J1eJLHHK/Fedchenko lednik ソ連、 回古野清人著『原始宗教の構造と機能』 ( 一九よる恋愛詩を開拓したいわゆるシチリア派詩人とらえがたい感情の捕捉に心を砕き、ことばに タジク共和国、パミール高原北東部にある世界 よって表せぬものを詩行の響きとリズムによっ たちの活動は重要であり、皇帝もその一員とし 七一・有隣堂 ) ▽吉田禎吾著『呪術』 ( 講談社 最大の谷氷河。面積一三五〇平方キロ。全長約七 て作品を残している。↓シチリア派〈林和宏〉て伝えようとするところにあり、シンポリズム 現代新書 ) に通ずる。代表作である一連の詩集『タベの七キ。。探検家フェドチェンコを記念して命名さ フェデラリスト Federalists アメリカフェデレーションカツ。フ Federation 三 ~ 九 l) にはショーベンハウアーの影れた。レポリュチャ峰 ( 六九七四 ) の北面に発 合衆国憲法草案の賛成者たちの自称。連邦派と Cup 一九六三年、国際テニス連盟創立五〇周灯』 ( 一公 〈島田陽〉し、西側に連なるアカデミア山脈やコムニズム もいう。独立革命後の新国家体制を規定した憲年を記念して創設された女子テ一一ス国別対抗戦響もうかがわれる。 峰 ( 七四九吾しなどから多くの支流をあわせなが フェードー Georges Feydeau ( 天六一一ー 法草案に対して、賛成者と、主権をもっ諸邦ので、デビスカップとともに同連盟が主催する二 連合を主張した反対者との間で論争がおこり、大行事の一つ。試合方法は二シングルス、一ダ一九一一一 ) フランスの喜劇作家。小説家エルネスら北流する。末端高度は約二九〇〇で、アム Ⅱに注ぐ。標高四二〇 ト・フェードー Ernest Feydeau ( 天一二ー七三 ) ダリヤ水系のムク・スー 憲法は一三邦中九邦の批准で発効することになプルスからなる三ポイント制で、トーナメント 。。ハリに生まれる。演劇に熱中し学業を〇の氷河上に気象観測所がある。〈小野有五〉 によって優勝を決定する。デビスカップとの違の息子 っていたため、各邦の批准会議で賛成者のフェ いは、世界各地から選ばれた三二か国が一つの中断。『貴婦人向け仕立屋』 T ミドミ、をミ、フェドートフ「 eop 「一、三 [leTPOBHq ・ デラリストと反対者の反連邦派との間で激論が AOTOB/Georgiy Petrovich Fed0tov ( 天 会場に集まり、一週間の会期をもって同時にプ dames ( 一七 ) で劇壇に進出。『ル・ダンドン』 交わされた。賛成者側はハミルトン、ジェイ、 ー一九五一 ) ロシアの思想家、宗教史家。サラ Le Dindon ( 天九六 ) 、『マキシムの貴婦人』 ( 天 レーすることである。第一回の大会はロンドン マデイソン共著『ザ・フェデラリスト』の刊行 トフ市の高級官僚の家庭に生まれる。ペテル。フ で行われ、二対一でアメリカがオーストラリア究。邦訳『クルべット天から舞いおりる』 ) な などによる宣伝に努め、憲法は発効し ( 一大 0 、 どの世界的成功で喜劇王といわれた。機械仕掛ルグの工芸専門学校に在学中、社会民主党の活 二代にわたってフェデラリスト中心の政権が続を破り優勝した。以後八七年 ( 二五回大会 ) ま いた。フェデラリストは、ワシントン政権の財での優勝回数は、アメリカの七連勝を含む一三けに例えられるほど計算されたせりふの案配と動に参加、のち歴史研究に向かい、ペテル。フル ~ 一 0 ) 、キリ と務長官ハミルトンなどを指導者とし主として商回、オーストラリア七回、チェコスロパキア四人物の出入りを、奇抜な着想 ( 『マキシムの貴グ大学で中世宗教史を学び ( 一九只 と工業的利益を代表し、反連邦派は、同じく国務回、南アフリカ一回となっている。日本の参加婦人』の麻酔椅子など ) でもつれさせ、爆笑をスト教に接近。革命後。へトログラードで非合法 は六四年 ( 昭和三九 ) から ( 途中六六 ~ 六九年招く技巧にたけている。後年『坊やに下剤を』の正教サークルを組織。一九二五年パリに亡 , ん長官ジェフアソンを中心に農業的利益を代表し 命、正教神学校で教えるかたわら宗教関係の雑 9 、かて相争い、この二派がアメリカ最初の政党とな不参加 ) で、二回戦止まりとな 0 ている。しか ( 一〈一 0 ) の代表する一連の一幕ものでブルジョ
ふろれた ① ② ー的、テーマ本位、写実的、アジ・プロ ( 扇算的解体をきたし、その分裂からプロレタリア 民文庫 ) ▽不破哲三著『科学的社会主義研 数者の合意による選挙と議会を経ての平和革命 ひょうばう 集団主義を標榜する「造型」が結成 ( 一九 = 五 ) 究』 ( 一九七六・新日本出版社 ) ▽中野徹三著動・宣伝 ) 的である。 の路線を追求してきた。そのうえ「プロレタリ ソビエト連邦においては、主としてロシア革され、一方、日本プロレタリア文芸連盟が結成 『マルクス主義の現代的探究』 ( 一九七九・青木書 アート独裁の典型」とされてきたロシア・ソビ された。 命直後の一時期に主張された。大衆運動と深く 店 ) エト社会の自由や民主主義の制限は広く知られ 昭和に入ると、一九二七年 ( 昭和一 D ロシア 結び付いていたため、示威運動でのプラカード るところとなり、「旧国家機構の粉砕」の暴力プロレタリア美術ーーびじゅっ美術も芸 革命イメージは、西欧共産党 ( いわゆるユーロ術の一部門としてプロレタリア階級に奉仕すべやちらし、あるいは祭典での建物装飾などをお革命一〇周年記念「新ロシャ美術展覧会」を契 きものであるとの立場から、政治的イデオロギもな発表舞台とした。しかし、その大部分は大機として、プロレタリア美術運動は急速な高ま コミュ一一ズム ) にとって新たな民主主義的社会 しつ - 一く ーを宣伝するために制作された美術。「。フルジ衆蒙の名の下に、安易なリアリズム美術の俗りをみせる。同年「造型」は拡大再組織されて 主義への道の桎梏と化していった。今日では、 造型美術家協会となり、翌二八年、全日本無産 化として現れ、今日ではほとんど評価されてい ョア美術」の対立概念。プロレタリアの思想と プロレタリアート独裁の概念は、ソ連・中国な 者芸術連盟 ( ナップ ) 創立、そして無産者美術 。もっとも、その一部にはロシア・アバ ど現存社会主義諸国やマルクス主義者の研究用感情を反映し、労働者・農民などの生活の種々ない 団体協議会が成立して、同年一一月には上野・ ン・ギャルド芸術と称せられ高く評価されてい 語として用いられているが、その政治用語とし相を描き、その闘争精神・希望・欲求・努力な 東京府美術館で同会主催の第一回プロレタリア ての使用価値は徐々に減退してきているといえどを表現するとともに、人間的権利回復の主張るものも含まれているが、現在ではプロレタリ 美術大展覧会が開かれた ( 第五回展まで毎年開 ア美術と区別されている。 よ , っ 〈加藤哲郎〉 として、支配者の圧制・虚偽・腐敗などを暴露 ソ連ではプロレタリア美術の衰退後に、いわ催 ) 。二九年一月にはナップ所属日本プロレタ 的に描き出す。絵画、彫刻、漫画、ポスター 回レーニン著、全集刊行委員会訳『プロレタリ リア美術家同盟 ( ャップ ) が結成されるが、三 ア革命と背教者カウッキー』 ( 大月書店・国挿絵など、その表現様式は一貫してイデオロギゆる社会主義リアリズム理論が主導権を握り、 五年のヤップ解散によって、組織的なプロレタ 今日に至っている。↓ロシア・ ソビエト美術 〈木村浩〉 リア美術連動に終止符が打たれた。 子て秀 本客私視 5 4 山 女れい 和 和 この第二次大戦前の日本のプロレタリア美術 〔日本のプロレタリア美術〕第 さな 者的服の カ出少 義義制 , た 一次世界大戦前後から一九二〇の展開は、いわば、ナッブ系の社会批判的形態 すやま ゃなせまさむ 年ルき数年主主は男っ モ描の 会然儀たあ 年代末期にかけて、意識的・組 ( 柳瀬正夢、木部正行、須山計一、松山文雄、 ソと膊四 社自葬けで , を。つの 鈴木賢一一ら ) と、造型美術家協会系の芸術批判 ムき美 織的なプロレタリア美術が多く ともえ とうき かきち た儀のをも コ生ア カ の国に発生、それらはおおむね的形態 ( 矢部友衛、岡本唐貴、山本嘉吉、岩松 葬れ葬もクい 、【′【 , は , 術丿。で生タ宣倒のたスし 各国の共産党機関誌を中心に展淳ら ) とが「プロレタリア・リアリズム」を命 マの ノ 4 しカレ・山 1 こ ) ・い 刃 9 描でも 題として結集した運動形態といえる。そして、 開された。 凶で部の 筆員プ男 1 告 x 「ワ」 の 1 現上も 『 6 な盟の その二面性をもった性格のまま「社会主義リア 日本では先駆的現象として、 9 表左 タ志確同本ニ リズム」に組み込まれ、第二次大戦後の民主主 一九〇三年 ( 明治三六 ) 創刊の レ貞的産日っ源ス実 ( で 写官か 共。一月 〈永井信一〉 『平民新聞』とその継続連動へ義美術運動へ継承されていった。 ロ寺彩強年るの大彩ロ。治的警な ひらふくひやくすい プ①油カ青い作②油テ旦観服の ーーぶんがく近代資本 の、平福百穂、 , 川竹プロレタリア文学 ほうあん 久夢二、小杉未醒 ( 放庵 ) らの主義の内面的矛盾が生んだ、労働者階級の階級 芸術家の参加がまずあげられ的自覚と要求に立脚した文学のこと。理論的に 会たの 覧めこ は早く、マルクス、エンゲルスらによって論じ る。第一回メーデーが開かれた 彩展求 油大をつ 一九二〇年 ( 大正九 ) には、未られていたが、それが世界的同時性において多 術材一の 美題のも来派芸術協会と社会主義同盟が発化したのは、一九一七年のロシア革命の成功 ア 和 と、それに続くコミンテルンの結成 ( 一九一九 ) 以 丿作い結成されるが、同年一〇月開催 - 一くよう やすお タ争た原 年レ働し復の、橋浦泰雄、望月らの黒燿後である。 祐ロ労功に 〔ロシア〕まず、ロシアだが、革命がもたらし 会第一回展が最初のプロレタリ 四プの成さ 回定にきア美術運動であった。翌二一年たもっとも重大な変化がプロレタリア文学の目 ばっ・一う たわま 2 特現大 画 第。表の 二月創刊の『種蒔く人』以降、覚ましい勃興だろう。概略すれば、「戦時共産 た衆分 復 4 化期」 ( 一九一七 ~ 一一 l) 、プロレタリア文化運動の中心 っ群半文学その他のプロレタリア文 撃召 運動の展開のなかで、その一翼機関になったのがプロレトクリト ( プロレタリ 日一一ウ - 年連ッ頼としての自覚形態を進展させア文化協会 ) で、プロレタリア文学運動は、プ 場 工 にナ憶る。二四年、アクション、末来ロレトクリトの運動の一部として生まれた。プ の ま後イ = = ロ ロレトクリトの目的は、プロレタリア階級の新 画会ダと派、マヴォ、などのアバ 議 原覧 , 書 展が葉ン・ギャルド派による三科会が精神文化を創造し、プロレタリアートをイデオ い絵結成されるが、翌年春の第一回ロギーの領域においても指導階級たらしめるこ 唐阯れなが とにあり、その階級文化の原則を集団主義と規 7 本入さは者展と秋の第二回展を通じて、こ せんじよう ろうまん 岡 2 品で作 ③ x 出のは れら新傾向急進美術運動の総決定したが、この時期は革命的浪漫詩と煽情詩 7 やまもと
ぶろつほ フロッピーティスク 8 インチ ( 標準 ) フロッピーティスク制御装置系統図 書き込み禁止センサー 読み書きへッド インターフェース ( 使用中 ) ランプ ドア開閉コイル 0 データ 読み出し , 書き込み回路 ラ・べ丿レ インデックス ウインドー セントラルウインドー テ、イスク ジャケット ヘッドウインドー ノッチ ◇。 Side 1 S ide 0 セントラルウインドーはディ スクを回転するために , ヘッ ドウインドーは読み書きへッ ドによって情報を読んだり書 いたりするために使われる。 インデックスウインド ーはトラックの始点を決める ために使われる 0 ドライフ モーター , 位デみ 二年『異化』、六三 ~ 六四年『チュービンゲン 以上のものは薄いので保管に場所をとらない 反面、折れやすく、ヘッドウインドーという長大学哲学序説』、六九年キリスト教の中の無 と相置を 路 この位タ 円形の窓から磁性面に指の汚れがついて損傷す神論』、七二年『唯物論問題、その歴史と実体』 回 る、らる一 御 ることもあった。このためマイクロ・フロッピをそれそれ刊行。彼の思想は、マルクス主義と すかめデ 出こ求ら ーディスクという、外装が硬くてヘッドウイン メシア的救済思想のアマルガムともいうべきも 一検そ , か をてこる ドーにシャッターがついたものが普及してきてのであり、べンヤミンやアドルノらとの相互影 一りのそき モ おり、その大きさは縦が九拜一メートル ( 三・五響、さらには、第二次大戦後の西ドイツの非教 Z-z- ↓まる′し ン五広↓まりか インチ ) のものが主流になっている。↓記憶装条的反体制派、エコロジー派への影響なども記 置↓コンピュータ ウ占かんこ 〈清水多吉〉 〈西村和夫〉憶されるべきである。 ス・始所「込る社 回片岡啓治・種村李弘他訳『異化』 ( 一九会・現 。フロッホ Ernest Bloch ( 一穴 0 ー一九五九 ) クの場きす ック録書りスイス生まれの作曲家。ジュネープでジャッ 代思潮社 ) ▽山下肇・瀬戸鞏吉他訳『希望 デッ記をた℃ ク・ダルクローズに、プリュッセルでイザイに の原理』全三巻 ( 一九全・白水社 ) ▽池田浩 ンラてタし ウ ン イト置一出 師事したのち、フランクフルト、ミュンヘンで 士訳『この時代の遺産』 ( 一九全・三一書房 ) ウ ン ノ イ 学ぶ。一時帰国してジュネープで指揮・教職活 ▽竹内豊治訳『哲学の根本問題』 ( 一九七一一・法 セ コ タ ンスックが芯 動を行ったのち、一九一六年渡米。クリープラ 政大学出版局 ) ▽橋ロ大介・今泉文子訳 ド一 モのドきラサそ ン ンド ( 一九一一 0 ~ 一一五 ) 、サンフランシスコ ( 一九一一五 ~ 『トーマス・ミュンツアー』 ( 一九全・国文社 ) 置ア書トン ラ 置三 0 ) で音楽院長を務めた。四一年オレゴン州に 。フロッ卞 Hermann Broch ( 一会六ー 装やみいセ装 ン , ロ写士颪しスク 定住し、五二年までバークリーのカリフォルニ 五 l) オーストリアの小説家。ウィーンのユダ 制信 , 正クス ク”、き」り・ツ ア大学で夏期講座を担当した。弟子にセッショヤ系大紡績会社社長の子として生まれる。ウィ ス懶よデ セテ ンズらがいる。ユダヤ人であった彼は、チェロ ーン工業大学卒業後、父の会社に入り、三〇歳 イのがにンヒ デら路一イ ク と管弦楽のためのヘブライ風ラブソディ『シェで社長となる。実業界でオーストリア経営者連 ロ 一か回タ ロモ』 ( 一九一五 ~ 一六 ) 、バイオリンと管弦楽のため盟の理事、労働裁判所の労資調停委員、失業対 。ヒ路御一る所 ン ッ回制モれ イ の『バアル・シエム』 ( 一九一一三 ) など、ユダヤ的策委員などを務め活躍したが、一九二七年四一 ロス , フさ フ一りツか 精神を土台に、ユダヤ的題材による作品を多く 歳のとき突然これらの活動からいっさい手を引 のエよテ動姦 橋書いた。 〈寺田由美子〉 き、ウィーン大学で哲学や数学、心理学を研究 体一報が置 フロッホ Ernst BIoch ( 一公五ー一九七七 ) ドするかたわら、長編小説『夢遊の人々』 ( 一九三一 本タド位注 ~ 三 (l) を書き始める。この作品は、一九世紀末 ィッの哲学者。ユダヤ人鉄道官吏の息子とし て、ルートウイヒスハーフェンに生まれる。 から第一次世界大戦末までの時代の底流をとら イデルベルク大学でマックス・ウェーバーこ し学え、人々の精神的な危機を摘出し、エッセイの び、ヤスパースやルカーチと知り合う。とくに形で文明批評をも盛り込んだ破格の小説で、出 ルカーチとは、以後、終生のライバルとなる。版されるとたちまち識者の間で高く評価され 第一次世界大戦中はスイスに亡命、平和と社会た。三八年、ナチスがオーストリアを併合する とすぐリべラルなユダヤ人作家として逮捕され 主義のために活躍する。一九一八年『ュートピ アの精神』を刊行。二〇年ドイツに戻る。一三たが、ジョイスなど外国作家たちの努力でイギ タ ッ リスに逃れ、さらに、すでに亡命していたトー 一年『トーマス・ミュンツアー』を刊行。このた ャ 制御情報アドレス情報 御 回 路 H. プロッホ 763
、かノ、、め - . い は、この賞を設けることを提案したカナダ、トる性質のものをシャープカットフィルターとよ たいかく University 一八九六年フィリピン大学 ひフィリピン革命 から一九〇二年にかけてフィリピンでは、スペ 望 the Philippines アメリカ統治下の一九ロント大学の数学科教授であったフィールズぶ。たとえば、ーとある場合、はシャ ー一九三一 l) にちなむ。 ープカットの略、はフィルターの色 (yellow インの植民地支配を打倒しアメリカの再植民地〇八年、第一回フィリピン議会の法令 ( 一八七 John Charles Fields ( 一会三 filter) 、は四四〇ナノメートルより短い波長の 化を阻止する独立闘争が展開された。これをフ〇号 ) によって設立された大学。最初は芸術、フィールズはトロントでの第七回国際数学者会 ふ ィリピン革命という。一六世紀後半以来、三世医学、農学のカレッジで出発したが、一九三一一一議 ( 一九 = 四 ) の開催に尽力したが、その後、「数光をカットし、より長い波長の光を透過するこ 学のために著しい貢献をした数学者に対して金とを意味する。 紀余にわたって続けられたスペインのフィリピ年には一五カレッジを有するまでに発展した。 カラー用には、色温度変換用のフィルタ ン支配は、一九世紀後半に至って民族的な抵抗 フィリピン独立 ( 一九四六 ) 後も発展を続け、現在メダルを贈る」「その賞は世界の数学者を対象 とし、過去の業績に対する表彰ばかりでなく、 light balancing filter ( 色温度上昇用はプ を受けるに至った。抵抗運動は、初め植民地統 は、マニラ郊外ディリマンにある本部キャンパ ルー、降下用はアンバ 、変換力はデカミレッ 治の改革を要求する言論活動として展開されたスのほかに、マニラ、ロス・バニョス、ビサヤそれ以後の研究に対する奨励でもある」という が、なんらの成果をみなかった。そこで一八九に自治権をもっ独立のキャン。ハスがあり、バギ提案を行った。この提案は、フィールズが死去ドで表示 ) 、カラーフィルムの発色を微妙にコ ントロールする OO フィルター color compen ・ 二年七月、カテイプーナンとよばれる秘密結社オ、セプ、クラーク空軍基地、タクロバンの各した一九三二年の第九回国際数学者会議で受け が組織され、武力革命を目ざすに至った。カテ地に分校を有する同国最大規模の大学に成長。入れられた。第一回の受賞者は第一〇回国際数 sation filter ( シアン、マゼンタ、イエロー イプーナンは九六年八月までに三万人を超える学部 ( カレッジ ) は、建築学、文理学、経営管学者会議 ( 一九 = 六 ) でのアールフォルスとダグラブルー、グリーン、レッドの六色で、補正力は 会員を組織した。しかし、肝心の武器調達がま理学、経済学、教育学、工学、芸術学、家政ス Jesse Douglas ( 天九七ー一九六五 ) で、以後は四濃度の一〇〇倍で表示 ) 、蛍光灯の色を補正す ったく進まないうちに組織の存在が発覚し、八 学、音楽、行政学、農学、開発経済・管理学、年ごとに開かれる国際数学者会議で授与されるるものなどがある。 なお特殊フィルターに、非金属または水面の 月三〇日起のやむなきに至った。カテイプー 農工学、林学、社会生態学、獣医学、医学、歯ことになっていた。しかし第二次世界大戦のた ナン総裁ポニファシオの檄にこたえて、ルソン 学、看護学、薬学、水産学から構成され、大学めに中断し、五〇年に第二回の授与となった。反射光や空中光などの偏光をカットする偏光フ イルター、選択吸収をせずにすべての光を一様 島マニラ周辺の八州が即日蜂起した。革命軍は院も、ほとんどすべての学問領域に開設されて六二年までは受賞者の数は二人であったが、六 に吸収して透過光量を減少させる Z ( 中性濃 粗末な手製の武器と、スペイン軍から奪ったわ いる。一九八五年の専任教員数は約二七四〇四年からは二人以上、四人以下となり、受賞者 の年齢は原則として四〇歳までとされる。 度 ) フィルター neutral density filter などが 〈馬越徹〉 ずかな武器で緒戦をよく戦った。しかし、九七人、学生数は約三万人。 受賞者のなかには、カタストロフィー理論のある。↓カメラ 〈伊藤詩唱〉 年に入って大量の援軍がスペインから到着するフィリピンヒョケザル Philippine fly- は」一」ゅっ と窮地に陥った。またこの間、革命軍内部では 一 = 一 em = 「 \ 0 = 0 。。、、、、 0 哺乳綱創設者・ト 0 空〈受賞『代数幾学」革フィールディング = 0 = 「』「支巳 = ( 一七 0 七ー五四 ) イギリスの小説家。四月二二日、 ポニファシオとアギナルドの間に指導権争いが皮翼目ヒョケザル科の動物。フィリピン諸島固命をもたらしたグロタンディエク ( 一空六受賞 ) 、 生じ、九七年五月ポニファシオは粛清された。有の滑空する哺乳類で、レイテ島、ポホールボアンカレ予想を解いたスメール Stephen サマーセットシャの名門の家に生まれる。幼時 ) らがおり、日本は裕福に育ったが、一一歳で母に死なれ、父が 新たに革命軍の指導権を掌握したアギナルド島、ミンダナオ島、バシラン島、サマル島に分 Smale ( 一九六六受賞。一九一一 0 ー は、九七年一二月スペインと和約を結んで香港布する。頭胴長四三拜一はど、尾長二五 ~ 二七の数学者では一九五四年 ( 昭和二九 ) に調和積再婚したあとはかならずしも家庭的に恵まれな ・ ) だいらくにひこ セン 0 マレーヒョケザルに似るが、耳介がやや大分論の研究で小平邦彦、七〇年に代数幾何学かった。ィートン校に学んだが、イギリスの大 へ亡命した。しかし、各地の戦場では戦いは中 へいすけ レ」 - っ・刀し きく、頭骨の脳頭蓋の幅が狭い。下顎の門歯はの研究で広中平祐が受賞している。〈栗原裕〉学には進まず、一七二八年、処女戯曲『恋の 止されず、ゲリラ戦が続行した。九八年四月、 種々相』をロンドンで上演させたのち、オラン アメリカがスペインに宣戦してフィリピン情勢櫛の歯状で、第一門歯の突起数は八 ~ 九個、第フィルター 0 濾過機 ダのライデン大学に入学して一年半ほど在籍、 に介入、八月にはマニラを占領した。そして一 二門歯のそれは一一 ~ 一一一個。習性はマレーヒフィルター optical (photographic) fil- ter 写真撮影用器材の一つ。写真撮影に利用主として古典文学を学んだ。以後ロンドンに定 〈吉行瑞子〉 二月、アメリカはスペインとの間にパリ条約をョケザルに似る。↓ヒョケザル とうなん している光 ( 太陽光、人工光など ) を、波長に住、三〇年から三七年までに大小二十数編の戯 ぶんがく 0 東南アジ 結んで、フィリピンの統治権を譲り受けた。こフィリピン文学 ぶんがく よって選択吸収する働きをする。 曲を書き、一時は自ら一劇場の経営にもあたっ れに対して革命軍は、アメリカによる再植民地ア文学 〔構造と材質〕着色ガラス製のソリッドフィルて、劇壇での地位を築いた。劇作では『トム・ 化を阻止すべく、自らのカで地方の解放を推進フィールカント 0 フィーアカント ーーこ Buir Nuur モンゴル高ターが一般的。これをねじ付きの金属枠に固定サム一代記』 ( 一七三 0 ) あたりが有名。当時は政 し、九九年一月にはフィリピン共和国を樹立しプイル胡 したものが多用されている。そのほか、厚さ八 治風刺の脚本が多く、彼もそのほうに手腕を発 た。こうして革命軍とアメリカ軍の緊張関係原東部の淡水湖。モンゴル側に大半が存在し、 〇 ~ 二〇〇のトリアセテートや、〇・一ミリ程揮したため、時のウォルポール内閣はこれに恐 は、二月全面戦争へ発展した。軍事力において残りは中国領である。中国では貝爾諾爾あるい しつよう は貝爾湖と記す。標高五八一、面積六一五平度のゼラチンの薄膜に着色したもの、これらのれをなして、三七年「検閲令」を制定、かっ劇 圧倒的劣勢にたっ革命軍は、ゲリラ戦術で執拗 薄膜をガラスで挟んだサンドイッチフィルター 場の多くを閉鎖させ、彼の劇壇活動は、執筆、 に抵抗を続けたがカ及ばず、一九〇二年七月よ方キ。、最大深度は一〇強。南東よりハルハⅡ とんぎ が流入し、オルシュン川が北に流出して、中国などもある。いずれも光学的平行平面をもち、 劇場経営ともここで頓挫の憂き目をみた。この りアメリカの全面的なフィリピン支配が開始さ れた。 〈池端雪浦〉のフルン湖に向かう。湖面は一〇 ~ 一一月に凍一般撮影の場合は、撮影の際レンズの前面に取年法律の勉強を始め、四〇年法律家として登 結し五月に解氷する。魚が多く、コイやマス類り付ける。 録、以後死ぬまで表芸は法律家であり、四八年 回池端雪浦・生田滋著『東南アジア現代史Ⅱ など二〇種類以上が生息し、一九世紀以来漁業〔用途〕かっては、フィルターはモノクローム以後はロンドンの判事となった。 フィリピン・マレーシア・シンガポール』 が行われている。湖の周辺は良好な純ステップフィルムの感色性の欠点を補う目的でつくられ 文筆のほうでは一七三九年秋から『チャンピ ( 一九七七・山川出版社 ) ▽レナト・コンスタン 〈吉田順一〉 たが、今日この目的に使用されることはまれでオン』という週三回発行の新聞に健筆を振る ティーノ著、池端雪浦・鶴見良行他訳『フィ地帯で、古くから遊牧民が多い い、かっその経営にもあたった。なお彼はこの しよう数学におけるノある。モノクローム用では、ある波長より短い リピン民衆の歴史・Ⅱ』 ( 一九天・井村文化フィールズ賞 ーベル賞ともいうべき国際的な賞。その名称波長の光を吸収し、より長い波長の光を透過すのち小説家として名をなしてからも、新聞を経 事業社 )
ふいぎゅ 要 FIGARO ュース、ニュース解説で始まったが、その後し新聞王ロべール・エルサンが買収。七七年にはフィギュアスケート figu 「 e skating ルウェーのソニア・ヘニー So 三 a Henie かい だいに拡充され、多いときにはヨーロッパ、ア政治部長だったレイモン・アロンが退社するなスケートをはいて氷上にいろいろの曲線図を描る。彼女は天才少女といわれ、一〇歳でノルウ ジアなどあわせて四〇以上の一一一一〕語を使って放送ど経営、編集が対立、発行部数も低落して約三 き、かっダンスのように自在に滑るスケーティ エーの選手権大会に優勝して以来、一九二七年 されていた。第二次世界大戦中はアメリカの戦四万 ( 一九会 ) となった。 〈伊藤カ司〉 ングで、スケート競技の一種。 から三六年まで一〇年間連続して優勝、オリン のけっこん Le Mari- 争遂行のために大きな役割を果たしたが、戦後フィガロの結婚 〔変遷〕フィギュアスケートの技術に関するも ピック大会では一九二八年、三二年、三六年と はとくに東欧諸国に対する宣伝活動の役割が大 age de Figaro フランスの劇作家ポーマル っとも古い著書として、一七七二年にイギリス 三回のオリンピックに連続優勝している。その きくなった。現在でも、アメリカを世界の人々 シェの五幕散文喜劇 ( 一天四 ) 。副題「狂おしき の砲兵士官ロバート・ジョーンズが著したもの後ショースケーターに転じ、ここでも世界的に によく理解してもらうという目的をもって、三 一日」。前作『セビーリヤの理髪師』の後編。が残されている。この著書にはアウト、イン両名声をはせた。 九の一『〔語で週八五〇時間三〇分の放送が行われロジーヌと結ばれたアルマビバ伯爵が夫人の侍方のエッジで描くサークルやループ、エイト、 フィギュアスケートは第二次世界大戦までは ており、内容もニュースばかりではなく、ジャ女シュザンヌを誘惑しようとするのを知ると、 スパイラル、スプレッドイーグル、さらにバツオーストリア、ドイツ、イギリスが世界をリー ズなどの音楽もある。なお日本語放送も行われ彼女との結婚を許されている伯爵の下僕フィガクのサーベンタインなどの説明があ 0 て、すでドしていたが、戦後はアメリカ、カナダが進 ていたが、七〇年に廃止された。本部はワシン ロは窮地に陥る。伯爵はシュザンヌに「初夜に現代のスケーティングの基礎が形づくられて出、ことにソ連はペアスケーティングとアイス トンにある。 〈田村穰生〉権」を行使しようとするし、フィガロは結婚の いた。とくにジョーンズは技術とともに滑走時ダンスに優秀なスケーターを出している。フィ フィオミアゾウ p 、ぎ 0 長鼻目 ( ゾ約束をしたことのある老女マルスリーヌからその優美さを力説している。世界で最初に生まれギ = アスケートは戦後、技術的に著しい進歩を ウの仲間 ) の一グループ ( 属 ) で、ゾウの先祖の履行を迫られる。夫の浮気を断念させようと たスケートクラ。フは一七四二年 ( 一説には一六 示し、ことにジャンプは目覚ましい。フィギュ としてパレオマストドンとともにもっとも原始願う夫人がシュザンヌに変装し待ち合わせ場所四二年 ) のスコットランド、エジンバラのスケアスケート界は従来の静から動のスケーティン 的なもの。パレオマストドン属の亜属とされるに赴くと、伯爵は計略にまんまとひっかかり、 ートクラブである。 グに変わってきた。 こともある。肩高一 ・二の小形のゾウに似た苦労のすえ手に入れたのが奥方とわかる一方、 スケートはアメリカでも盛んになり、一八四 〔日本〕日本にスケート用具が渡来してまもな 形をしていた。化石として、エジプト、リビマルスリーヌもフィガロの実母だと判明して、 八年フィラデルフィアにスケートクラ。フが誕生 い一八九五年 ( 明治二八 ) ころから札幌や仙台 ア、チュニジアなど北アフリカ各地の新生代第芝居は大団円となる。フィガロの知略のうちに し、一八六四年には第一回全米フィギュアスケでフィギュアスケートの研究が始まっている。 三紀漸新世初期 ( 約三五〇〇万年前 ) の地層か貴族の特権行使に反抗する第三身分の姿をみた ト選手権大会が開かれている。フィギュアス本格的な研究は一九一三年 ( 大正一 l) ころ河久 ら発見されている。最初の発見地エジプトのフ観客は熱狂し、この劇は連続六八回上演というケートの父とよばれるジャクソン・ヘインズ保子朗がアメリカの指導書を訳出し、それを土 アイユーム Faiyüm の地名から学名がつけら空前の大当りをとった。モーツアルトがこの戯 Jackson Haines ( 一会 0 ー ) がこの大会で最台にして研究し始めてからである。二〇年河久 こうのせいまい れた。図ゾウ ↓セビー・リヤ 〈亀井節夫〉曲をオペラにしたことは名高い 初の優勝者となった。ヘインズはもともとはダ保子朗、交野政邁らにより、最初のフィギュア フィカス 0 インドゴムノキ の理髪師 〈市川慎一〉 ンスの教師だったが「踊り」と「音楽」とを結 スケート研究団体として日本スケート会が結成 フィカロ Le 三 ga 「 0 フランス最古の代〔オペラ〕オペラは、ダ・ポンテのイタリア語び付けて、フリースケーティングの祖となっ され、一三年二月日本最初のフィギュアスケー しもすわ 表的保守系紙。パリ発行の朝刊紙。一八五四台本により、モーツアレト、ゝ ノが一七八六年に完た。彼はヨーロッパに渡り、ウィーンを本拠に ト競技会が信州下諏訪町の特設スケート場で開 年、当時の大ジャーナリスト、ビルメサン Jean 成、同年ウィーンで初演された。当時のウィー してスケーティングを教えた。スケートに伴奏かれた。優勝者は東京帝国大学の五代正友であ Cartier de Villemessant ( 一八一一一ー七九 ) が倉刊 ンでは、ヨーゼフ二世の命令により、ポーマルをつけて、ステップ、ツイスト、スパイラルな った。日本スケート会は二六年に国際スケート 六六年日刊となる。エミール・ゾラ、ゴンクー シェの原作を上演することは禁じられていたた どを振り付けることに成功、これが全ヨーロッ 連盟に加盟承認され、ついで二九年 ( 昭和四 ) フィス ふうび ル兄弟、デュマ ( 子 ) ら一流の文人を起用してめ、モーツアルトとダ・ポンテはこの戯曲の階 ハを風靡した。ヘインズは一八七五年ペテルプ日本学生氷上競技連盟のとともにスケート 文芸紙としての名声を博す一方、ドレフュス事級闘争的側面をあまり強調しないよう努めた ルグ ( 現レニングラード ) からストックホルム の全国統一機関として大日本スケート競技連盟 かぜ 件ではドレフュス大佐を擁護してフランス陸軍が、それでも当時この歌劇に反感を抱いた人々 に向かう途中風邪をこじらせ、そりの上で一生 ( 現在の日本スケート連盟 ) が組織された。こ と対決して勝利、一九世紀末か は多く、妨害エ作もあって初演の際の人気はい を終わった。フィンランドの寒村マラカルレイのころフィギュアスケートの技術は長足の進歩 ら二〇世紀初頭にかけて一流政まひとつであった。しかし、その後プラハで行 に葬られ、墓碑には「アメリカ人のスケートをみせ、三二年アメリカ、レーク・プラシッド 治報道紙としての地位を確保しわれた公演は大成功を収め、以後モーツアルト 王」と刻まれている。 で行われた第三回冬李オリンピック大会に日本 おいまっ おびたにりゅういち た。第二次世界大戦中の一九四の代表的傑作として高い人気を保ち続けてい このころすでにフィギュアスケートの土台は 最初の代表選手老松一吉、帯谷龍一の二選手 二年、反ナチスの名編集者ピエる。このなかには序曲をはじめ、舞台を離れて確立され、一八九二年国際スケート連盟 lnter- が派遣された。 ール・。フリソンがビシー政権の単独で演奏される名曲が多く、フィガロの歌う national Skating Union が倉立されたときに 第二次大戦後、欧米各国とのスケート交流が 字 ちょ、っちょう かんべき 題検閲に抗議して自発的に停刊し 「もう飛ぶまいそ、この蝶々」や、ケルビーノ は、内容はほば完璧に近くなっていた。国際ス盛んになり、オリンピックに、世界選手権にと ロ たが、四四年八月パリ解放の前 の「恋とはどんなものかしら」などのアリアがケート連盟による第一回フィギュアスケート世参加、一九七二年 ( 昭和四七 ) には札幌オリン ガ 日に復刊。戦後は。フリソン理事とくに名高い。日本初演は一九五二年 ( 昭和一一界選手権競技大会は一八九六年ペテル。フルグでピック大会、七八年には東京で日本最初のフィ 長の下で資本と経営の分離に成七 ) 芸術祭合同公演として歌舞伎座で行われて 開かれ現在に至っている。スピードスケート世ギュアスケート世界選手権大会が開かれた。日 功、六九年には発行部数五三万 〈三宅幸夫〉界選手権大会はこれより早く一八九三年に開か本選手の国際的活躍は第三回冬季オリンピック を数えるほどの黄金時代を迎え回辰野隆訳『フィガロの結婚』 ( 岩波文庫 ) ▽れている。 大会に始まり、一九三六年ドイツ、ガルミッシ た。プリソンの死後、経営がし 小場瀬卓三他訳『マリヴォ / ポーマルシェ名 国際スケート連盟の歴史のなかでもっとも知ュ ・パルテンキルヘンの第四回冬季オリンピッ だいに悪化、七五年には右翼の 作集』 ( 一九七 0 ・白水社 ) られているフィギュアスケーターとしては、ノ ク大会では当時一一一歳、参加選手中最年少の稲 ね ) かキ一
ふらんす ーし 出者、表決時期、賛成票などについて厳しい条の円滑で有効な作動の基本的条件である。とす新 件がつけられている。しかし、これらは、議会れば、この多数派の動態に立ち入ることが必要 5 と派 数 の審議をより効率的にする技術であり、政府のであろう。 属多 行動の麻痺を防ぎ、さらには政府を安定・強化〔政党制の発展〕第五共和政に入って、政党制 所派会 無諸議 させる技術であり、議会制の民主化に逆行するは伝統的な形態を残しながらも、しだいに組織 化され、四党二極化の方向をとった。まず注目 かにみえてそれを「合理化」する技術である。 市民によって直接選出され、同じ民主的正統性されたことは、右翼の連合による議会期多数派 の発展であり、単独多数党の出現である。それ にたつ国民議会と大統領という一一権力を均衡さ 主 せている、ともいえよう。なお、国民議会の議 はいずれも新議会の成立から次の総選挙まで安 民党合 圸スル連線員の任期は五年で、単記二回式多数得票制によ定した多数派 ( 党 ) を構成した ( 政党の発展図 ン一国戦 って選出される。これに対する元老院 ( 上院 ) 参照 ) 。例外は一九五八 ~ 六二年の議会で、こ ラコ和民 フド 共国 こでは、ドゴール大統領がアルジェリア戦争収 は、任期九年で、三年ごとにその三分の一が間 接選挙で改選される。その選挙人団は県ごと束政策によって多数派の結集と維持を強いた。 一九六一一年以降、ドゴール党 ( 新共和国連合 に、県選出代議士と県会議員に市町村会議員の を中核とし独立共和党 (x—) を加 党党代表を加えて構成される。国会議員は地方議 ロ天ー えた右翼多数派が形成され、ドゴール大統領の 員・市長との兼職を認められるが、首相以下の 派派共共 央守立 このた権威と声望の下に維持されるが、がドゴ 政府メンバーとの兼職は許されない 中保虫の ールに忠実な人格的政党であるのに対して、 め、選挙の際に、入閣議員の補充者もあわせて —のほうはしだいに条件付き支持政党となる。 選出される。 六八年には、ドゴール党 ( 共和国民主連合Ⅱ 最後に、重要な憲法的・政治的問題が残る。 の単独多数党を生むが、連合は維持され 広義の政府 ( 行政府 ) の真の指導者は大統領と 党党党共首相のいずれであるか。この答えを探すことはて七二・七 % の議席率を占める。だがこれは、 産会進民 共社急人準大統領制の政治権力の構造を解くことであ六八年五月の重大危機に対するドゴール以下の すさまじい反撃の成果で、「かってない議会」 る。憲法によれば、政府が国民の政策を決定・ 年 ホンピドー大統領、次のジスカー 実施し、首相がこの政府を指導する。他方、市と称された。。、 民によって直接選出された大統領はこの首相をル・デスタン大統領の下でも、しだいに中央の 任命し、大統領が統裁する大臣会議を通じて政諸派を取り込むことにより右翼多数派が維持さ 府を指導しうる。政府の政策について首相と一れる。七八年には、ドゴール党 ( 共和国連合Ⅱ 挙の ) とネオ・リべラルのフランス民主連合 選会 致しなければ、首相を解任することもできる。 発 との連合をみた。後者は、ジスカー その例は一九六二年、六八年、七二年、七六 る民挙 の よ国数選 ル・デスタン大統領の党である共和党 (=r) 年、八四年にある ( 大統領と首相の表 ) 。 大統領と首相が、政策を対外・国防政策と内政を中心に、中央派の民主社会中央党 (0 T)) 、 ・名散内議統 名 6 名・名 6 名 名田田名 00 「 / CO っ′」 1 ー 0- ) 0 ) 解 ] 総大 LC) 一般とに分けて分担すれば主導権争いがなくな急進党主流、独立・農民派 (0Z—ß*) その他 △ △ 四る・ 年 9 る・図△憘図・図△ 図△・図 るわけではないし、事実それは守られなかっ を結集した政党連合で、優勢なとの均衡 た。一九八六、 ノ七年の革新・保守「同居政をねらったジスカール・デスタン大統領の戦略 らない。 この選挙は二回投票式多数得票制によ ( 議会優越体制 ) に慣れた人々は、その低下に る。つまり第一回投票で有効投票の絶対多数を驚きまたは憤った。確かに、議会はその立法審府」における大統領主導権の後退には、二頭制の成果であった。 この一九七八年の総選挙までに、右翼多数派 得た者がなければ、一一週間後に、第一回投票の議権を制限され、政府の責任追求権も制約されの危うささえ潜んでいる。一九六九年四月、 一年五月には、大統領が多数派の部分的融解にを逆転させ、左翼多数派が実現されるはずであ 上位者二名について決選投票が行われる。大統ている。会期は年一七〇日以内とされ、議事日 はたん ったが、社共二党の連合はその前年に破綻し 制約されて、その地位を失った。こうみてくる 領は首相の任免権 ( ときにより閣僚の実質的任程の自主性を失い、常任委員会の数を一九から と、大統領の主導権あるいは権力は、その人格て、一九七一年以来の左翼の健闘は実を結ばな 免権 ) 、国民議会の解散権、非常事態対処権限六に減らされ、法律案、予算案の審議・採決に かった。左翼は一九六五年から左翼連合を企て などをもつ。また大臣会議を統裁し、政府と共介入され、法案の修正権を制限されている。こ的要因を超えて、大統領が国民議会にもっ多数 同で国民投票提案権、文武官任命権、政令・特とに、政府が国民議会で責任を誓うと宣言し、派 ( あるいは多数党 ) の構造と、それらに対すたが、六八年の惨敗の衝撃で解消。七一年、旧 社会党にかわった新生社会党 これに対する問責動議 ( いわゆる不信任案 ) がる彼の権力関係に基礎を置いていること、さら 別政令の署名権、憲法改正発議権などをもつ。 にいえば、政府の運営もこの政治体制の安危 (J)) は、ミッテラン第一書記の下に新左翼連合 対外政策を指導し、軍の首長として戦略核戦力可決されなければ、法案そのものが審議なしに 可決となる手続さえある。また、立法の範囲そも、大統領を支持する国民議会多数派の構造との戦略をとるに及んでようやく勢力を伸長し、 の使用決定権をもっことが注目される。 八一年の大統領選でミッテランが勝利を得た直 これに対する大統領の指導力にかかっている。 のものも明示的に限定されている。政府の責任 〔国民議会の地位〕第四共和政までのグベルヌ 後に、急造の左翼連合の勝利と社会党の単独多 追求の主要手段である問責動議についても、提すなわち、この大統領多数派の存在こそ、体制 マン・ダサンプレ gouvernement d'assemblée 注 : 数字は各党の議席数 ) 内は得票率 ( % ) 。 1986 年を除いて , 本国での第 1 回投票 2 1 2 ( 19.2 ) ( 15.7 ) ( 22.1 ) ( 7.3 ) ( 11.1 ) 66 ( 20.4 ) 233 ( 4.4 ) ( 8.9 ) ( 7.5 ) ( 12.6 ) ( 21.7 ) ( 31.9 ) 200 民社会ド義左翼連合 ( 13.4 ) ( 22.4 ) ( 37.7 ) ( 18.7 ) 293 ( 46.0 ) ( 10.3 ) ( 16.5 ) ( 20.0 ) 30 34 野党多数派 ( 12.9 ) ( 3.3 ) 183 102 左翼連合 ( 34.0 ) ( 20.7 ) ( 21.4 ) 1 24 ( 22.5 ) ( 23.7 ) ( 24.9 ) ( 20.6 ) 286 ( 20.9 ) ( 19.2 ) ( 16.1 ) 35 ( 37.8 ) 155 212 ( 9.8 ) ( 31.8 ) ( 9.7 ) まひ
山自身の噴出物の厚さは最大一五〇〇足らずである。つま灰砂を降らせ、「赤土」と俗称され、京浜地域の台地面をつ たちかわ むさしの り、私たちが仰ぎ見る富士山は、先代・先々代の肩車にのつ くっている「関東ローム」 ( 詳しくは立川口ーム、武蔵野口 たいせき 成り立ち・生い立ち / 有史時代の噴火活動 / 火山の現状ている。しかし、内外の多くの火山が高い山地上に噴出し、 ーム ) を堆積させた。その火山灰は、東京付近では、肉眼で と将来 / 山体の崩壊 / 植生 / 動物相 / 登山 / 民俗・信仰火山体の高さはせいぜい一〇〇〇程度なのに対して、ここ は個々の粒を識別しかねるくらい細かく、層厚も数である では、四〇〇〇近い山体がすべて火山で構成されており、 が、それを富士山方向にたどっていくと、しだいに粒が粗く ごてんば す・はしり 山梨・静岡両県境にまたがる孤峰で、玄武岩を主とする成世界でもごく珍しい。また、富士山は比較的若い火山で、過なり、層厚も増していく。東麓の御殿場、須走などでは、褐 えんすい 層・円錐火山。富士火山帯の主峰であるが、全国最高の標高去二八〇年余も噴火しなかったとはいえ、将来かならず再噴色で粗粒の火山礫が数十の厚い層をなしている。また、富 ( 三七七六 ) と美しい容姿のために、古来、日本の象徴として火すると考えられ、油断は禁物である。 士山麓各地で、この時期の噴火に伴った山体の崩壊堆積物が 仰がれ、親しまれ、海外にもよく知られる広義の活火山。そ 富士山は、日本を細長い海峡で南北に分割していたフォッ みいだされる。これは「古富士泥流」とよばれ、古富士火山 すその の傾斜は山頂部で三二 ~ 三五度、裾野は二 ~ 三度で、美しい サ・マグナが、火山活動や地殻変動によって陸化して生じたの表層をなしている。この古富士火山ま、、 。しまから約一万年 対数曲線を描き、基底の直径は東西約三五キ。、南北約三八 基盤の上に、三つの段階を経てつくりあげられた。すなわ前、つまり更新世から現世に移るころ、噴火活動の様相が急 。昔は「不尽」「不二」「富慈」などと書かれ、アイヌ語のち、新生代第三紀中新世 ( 約二五〇〇万 ~ 二〇〇〇万年前 ) 変した。以後、約一〇〇〇年にわたり、おもに多量の溶岩を みさか 「フチ」 ( 火 ) に由来するとの説もある。富士箱根伊豆国立公の海底火山噴出物からなる地層 ( 御坂統 ) の上に、第四紀更四方へ流出させる噴火活動が盛んに繰り返され、現在見られ 園 ( 一九三六年指定 ) の主人公で、特別名勝の指定を受けて新世 ( 洪積世 ) の中ごろ、いまからおよそ七〇万年前に、まる富士山の原形がほばできあがった。中央火口から三〇 ~ 四 みさか あしたか 一るはし いわぶち みしま いる。裾を広く四方に広げているが、北麓には、御坂山地なず小御岳火山が誕生し、南方の愛鷹火山と噴火を競演した。〇キ。の遠方まで流下した猿橋溶岩、岩淵溶岩、三島溶岩など どの周囲の山々との間に、 富士山の溶岩流でせき止められてこの成層火山の頂部は、現在、河口湖からの登山自動車道がそれである。古富士火山は標高三〇〇〇余の大型火山で しようじ かわぐちさい もとす ん生じた富士五湖 ( 山中、河口、西、精進、本栖 ) があり、観「スパルライン」の終点、小御岳 ( 五合目 ) 付近に露頭してあったが、現在は、山体の一部が、一七〇七年 ( 宝永四 ) の あかいわ 六、光開発が進み、四季を通じて来遊者がとくに多い いる。その後、静穏な時代が長く続いてから、更新世末期、大噴火で生じた火口に「赤岩」 ( 標高約一一七 8 ) としてわず じ〔成り立ち・生い立ち〕富士山は日本の最高峰であるが、実 いまから約八万年前に古富士火山が活動を始め、激しい爆発かに露出しているだけである。それから約四〇〇〇年間も静 ふはその下により古い小御岳、古富士の両火山が存在し、富士型噴火をしきりに反復し、南関東にも盛んに玄武岩質の火山穏な時代が続き、厚い腐植土質黒土層が形成されたが、この 2 〈金野靜一〉 る。人口一万一二一七。 ) 小説大学理科大学教授となり、九一年理学博士の学 七 lll) で第六九回直木賞を受賞。簡潔な文体で新藤沢桓夫ふじさわたけお ( 一九 0 四ー 回『藤沢町史』全二巻 ( 一九七九、〈一・藤沢町 ) しい時代小説家の地位を得、独自の芸術家小説家。大阪に生まれる。東京帝国大学国文科卒位を得た。一九〇〇年 ( 明治三三 ) のパリでの つやがわ ま 1 一め せん よ - っ ひら やみはしご 囮二万五千分の一地形図「津谷川」「馬籠」「千の分野をも切り拓く。『闇の梯子』 ( 一九七四 ) 、『用業。漢学者の家系に生まれ、旧制大阪高校在学第二回万国数学者会議には日本の代表として出 まや よねかわ じんば・つじっげつしよう いつ、こ い・幼こつは」、つ 厩南部」「米川」 心棒日月抄』 ( 一九七六 ) 、『一茶』 ( 一九七七 ) 、『白き中より『猟人』『龍舫』などの同人誌で習作を席、和算について講演した。〇六年帝国学士院 かめ 藤尺曵ニ郎ふじさわあさじろう ( 天六六 ー一九瓶』 ( 一九八五。吉川英治文学賞 ) 、『本所しぐれ町発表する。『辻馬車』に掲載した『首』 ( 一九一一五 ) 会員となり、一一一年 ( 大正一〇 ) 大学を定年退 しすい りいちかわばたやすなり 一七 ) 俳優。筆名紫水。京都生まれ。新聞記者物語』 ( 一九八七 ) などがある。 〈伊藤和也〉が横光利一、川端康成に認められて新感覚派周職、その後貴族院議員を務めた。 から転じて一八九一年 ( 明治二四 ) に川上音一一回「暗殺の年輪』『一茶』 ( 文春文庫 ) ▽『用心圏の新人として文壇に進出した。のち、左傾す 帝国大学の数学科の改革に力を尽くし、講義 わきやく 郎の一座に加わり、以来女方や脇役を勤め、作 棒日月抄』 ( 新潮文庫 ) ▽『白き瓶』 ( 一九会・ るが健康を害して療養生活を送る。一九三三年 にはドイツ式のゼミナール方式を導入し、師の おださくのすけ 者としても貢献した。一九〇五、〇六年 ( 明治 文芸春秋 ) ▽『藤沢周平短篇傑作選』全四巻 ( 昭和八 ) 以降、大阪に戻って織田作之助や田菊池大麓とともに後進の指導にあたり、高木貞 じ 、三九 ) には伊井蓉峰、高田実らと共演し ( 一九八一・文芸春秋 ) 辺聖子らと交流して大阪文壇の中心的存在とし 治や林鶴一ら優れた数学者を世に送り出した。 て活躍する。長編小説『新雪』 ( 一九四一 ~ て新派全盛時代の主要俳優の一人と目され、藤沢清造ふじさわせいそう ( 一会九ー一九三一 l) ヨーロツ。ハの本格的な学問的数学を紹介する一 でっち 『金色夜叉』の貫一などを演じた。〇八年一一 ト説家。石川県生まれ。尋常小学校卒業。丁稚『大阪自叙伝』 ( 一九七四 ) などがある。〈金井景子〉方、生命保険理論の数学や統計学も紹介し応用 月、私費を投じて東京俳優養成所 ( 一九一〇年生活を送ったのち、一八歳ごろ上京し、『演芸回『藤沢桓夫長編小説選集』全二〇巻 ( 一九五四 ~ 数学の面で業績をあげた。 〈井原聰〉 に東京俳優学校と改称 ) を設立。その試演会は画報』の記者となる。一九一三年 ( 大正一一 ) 、 五七・東方社 ) ▽『大阪自叙伝』 ( 中公文庫 ) ぎんしん ねづごんげん 斬新な演目と新鮮な演技で注目を集めたが、経友人の悲惨な死を描いた長編小説『根津権現 ▽『大衆文学大系』 ( 一九七三・講談社 ) 営難のため一一年には閉校するに至り、失意の裏』を発表して文壇に登場。人間の醜悪、悲惨藤沢利喜太郎ふじさわりきたろう ( 天六一ー えちご うちに浅草今戸で没した。 〈松本伸子〉 な面をもつばら描いた藤沢の作品は、晩年にな一九三三 ) 数学者。越後国 ( 新潟県 ) 生まれ。東 るにつれて無政府主義的傾向が強くなっていっ 藤沢周平ふじさわしゅうへい 京開成学校を経て、一、 八二年 ( 明治一五 ) 東 こすげとめじ しっそう / ニ = ロ ト皃家。山形県生まれ。本名小菅留治。旧制山た。悪疾による精神異常から失踪を重ねたすえ 京大学理学部を卒業。翌年からイギリス、ドイ 形師範卒業後、中学校教師、療養生活、業界紙 、東京・芝公園内で凍死した。〈大森澄雄〉 ツに留学し、ベルリン大学でワイアシュトラー の編集者を経て、一九七一年 ( 昭和四六 ) 『溟回大森澄雄著『藤沢清造』 ( 『私小説イ 乍家研究』 スの講義を聞き、ストラスプール大学で解析学 い海』でオール読物新人賞、『暗殺の年輪』 ( 一九 所収・一九全・明治書院 ) とくに関数論を研究した。八七年帰国して帝国 富士山ふじさん こんじきやしゃ ロ れき あかっち だいろく 藤沢利喜太郎
ゅ 体は短小で P. きは山地で春から初夏にかけて発 黒色または灰黒色、白生し、激しく人畜を襲って吸血する。プュ亜科 斑をもっ種もある。複のヒメアシマダラブュ S ぎミききミきき ュ眼は大きく、雄では左ツメトゲプュ S. 0 、ききミ、アオキツメトゲプ 右が接近し、雌では離ュ S. き、 ニッポンヤマプュ S. ミ 0 を オ オれている。単眼は欠失は平地で人畜を襲う代表種で、被害は大きい。 。フュの刺咬は、人体の露出部はもちろんスト ・「。 , /... する。触角は短いが、 〕て、つ・よう キ一一節、ときに九 ~ 一 ッキングの上からも行われ、刺咬後の痛痒感、 イ とうつう しゅちょう オ 〇節よりなり、各節ほ疼痛はカやノミよりも激しく、腫脹もひどい ア ュ ば同じ大きさで数斑状別名のプトは、刺咬後に足などが太 C フト ) く フ に連なる。はねは体の腫脹することに由来している。治癒に一 ~ 二週 カ かのう わりに大きく、幅広 間くらいかカり、多くは掻きこわして化膿創に る。伸長した茎の先端が接地して発芽し、新し しん ュ 翅脈は径脈が太なりやすい。多数の刺咬によるじんま疹、呼吸 い個体をつくる。低山地に生え、関東地方南部 ゲく、はねの前縁に寄り困難などの全身症状や死亡例もある。アフリカ以西の本州から九州、および朝鮮半島、中国に ちゅう 集まり、中脈、肘脈、や中南米では。フュが回旋 ( オンコセルカ ) 糸状分布する。やや深い山地にみられるミャマフュ ッ臀脈は細くてはねの大虫の中間宿主となり、ミクロフィラリアが眼球イチゴぎミ Fr. et Sav. は、葉は がくとう ュ 部分に放射状に緩やか に迷入すると、失明することがある。刺咬後の浅く五裂して先はややとがり、萼筒は無毛、全 あし 〈鳴橋直弘〉 に広がっている。脚は痰痒感には抗ヒスタミン剤が有効である。刺咬体に刺がある。 ほりかわ 、刀し の暮などの題が掲げられている。『堀河百首』比較的太くて短い。 大正初期の革新的 雌成虫は人畜や鳥から吸血防御にはジメチルフタレートを含む忌避剤 re- フュウザン会 あじろたかがりすみがまうずみび にはこのほか、網代、鷹狩、炭竈、埋火、除夜し、朝夕二回に吸血活動のピークがみられる。 pellent が効果がある。発生源での駆除法は、 な青年作家によって結成された美術集団。一九 えいきゅう みぞれ のの よ こうたろう など、また、『永久百首』には、霙、初雪、野産卵は、成虫が水中に潜ったり、水面で草や水域に殺虫剤を定期的に投入する方法がある一二年 ( 大正一 ) 一〇月、高村光太郎、斎藤與 みゆきおちば ごせちしいしばたきぎふすまおしみつぎ りゅうせい 行幸、落葉、五節、椎柴、薪、衾、鴛鴦、貢石、ごみなどに一個ずつ、種類によっては卵塊が、流水中のため殺虫剤の効果が複雑で、殺虫里、岸田劉生らの発起により、第一回展を銀 調、仏名、旧年立春があげられ、冬の歌題はこで産み付ける。幼虫はすべて渓流や小川の流水剤の種類、および濃度や量などにより効果が少座読売新聞社楼上で開催。さらに機関誌『フュ おと れらにほば尽くされている。『源氏物語』「少域に生息し、汚れた水や止水には生活できな なかったりする一方、ほかの有用水中生物へのウザン』を発行した。第一回展には前記のほか しようはちょろず せいみやひとし 女」の六条院の冬の町では、雪と松の垣、霜と 水の汚染に対して敏感に生息密度が減少す影響もあるので、実際には専門的知識を必要と に木村荘八、萬鉄五郎、清宮彬、 まがき ははそはらみ する。 菊の籬との配合が考えられ、さらに柞原や深るので、水質汚染の指標昆虫になる。 〈倉橋弘〉ド・リー チや彫刻の川上邦世、工芸の藤井達吉 やまぎ 山木が彩りを添えている。冬の中心的な歌材で 成虫の吸血活動は発生水域付近に限られ、一 ら三三名が出品した。作品の傾向は、明治四〇 フュアオイ〔冬葵〕ミミき ~ ミミミ。 しらかば ある雪は、荒涼として孤絶した風景を形づくる〇〇以上離れると半減するといわれている。 L. アオイ科の多年草。茎は直立して高さ年代の新帰朝者や雑誌『白樺』によって紹介さ 1 ) しゅうい いずみしきぶ ものとして、『後拾遺集』 ( 冬・和泉式部 ) 「さ幼虫は円筒形で、中央部がやや細く、尾端が太一・五となる。葉は互生し、長い柄があり、れた後期印象派ないしフォービスムを追うもの きよし ようえき びしさに煙をだにも断たじとて柴折りくべる冬 、末端は吸盤で終わる。胸部第一節に円錐形円形で五裂し、縁に鈍い鋸歯がある。葉腋に白が多く、太い線やカ強いタッチ、強烈な色調な の山里」のように詠まれ、また、冬の花とし肉質突起の前脚 ( 擬脚 ) があり、その先端には色に淡黄紫色を帯びた小形の花を叢生し、年じ どを特色とする。全体に未熟な点もあったが、 ゅう花を絶たない。果実はゼニアオイの果実 て、あるいは梅の花との紛れとして、『古今集』 小さい鉤が列生して吸盤となっている。口には にその主観を強く打ち出した清新な作風は、当時 しゅうじ きのつらゆき ( 冬・紀貫之 ) 「雪降れば冬ごもりせる草も木も集餌用の扇状の刷毛が発達している。一対の似ているが、より小さい。中国や朝鮮半島ではの青年作家に多大の影響を及ばした。第二回展 春に知られぬ花そ咲きける」などと詠まれる。 目、触角、大あご、小あごがある。平常は前脚古くから葉を野菜としている。日本では上代のは翌年三月に行われたが、出品者は半数近くに えいぶつ 文献にその名がみえるが、あまり普及しなかっ 冬の月は『万葉集』から詠物題としてみられるを上流に向け、後吸盤で石や植物に付着してい まで減り、また劉生と與里の方針の食い違いも とうきし が、冬、とくに師走の月を「すさまじきもの」るが、前脚と後吸盤を使ってシャクトリムシのた。漢方では冬葵子と称し、種子を利尿、緩あって二回限りで解散に至った。なお、フュウ とする季節感、また、それに反発するものが、 ように移動することもできる。幼虫の食物は滴下、催乳薬として用いる。アジアの亜熱帯原産ザン fusain とはフランス語で木炭画の意味 くらびらき ・けいっ たかむら 『篁物語』、『うつほ物語』「蔵開中」、『源氏虫、珪藻などの微小動植物である。幼虫は六齢で、温帯北部にまで栽培される。〈山泰一〉で、最初ヒュウザンと表記したのを第二回から さごろも さら。しナよ ようか さや はなかご あげまき 〈佐伯英里子〉 物語』「朝顔」「総角」、『狭衣物語』二、『更級を経て蛹化する。老熟幼虫は鞘状、花籠状などフュイチコ〔〔冬苺〕 R ミ b ミ、こ訂正したという。 日記』などにみられ、王朝文学において独特なの種固有の繭を水中の物体の表面につくる。そ Miq. ノ不 ヾラ斗の常緑低木。茎は長く伸長して富裕税ふゅうぜい net worth tax 経常財 美意識を形成している。 の中の蛹には胸部から前方に一対の呼吸管が出はう。全体に軟毛を密生し、普通、刺はない 産税の一種であり、所得税の補完税として賦課 かぎはな ぼたん 季題は冬。雪の花、風花、牡丹雪、細雪、雪ており、その形態は種の同定に利用される。世が、まれに有刺のものもある。葉は単葉で互生徴収される税。臨時財産税とは異なり毎年課税 へりきよし 明り、雪月夜といった陰影に富んだ季語が数多界で約一〇〇〇種が報告され、日本には四〇種し、円形に近く、長さ五 ~ 一〇、縁に鋸歯が されるが、税率も低く、普通はこの税の支払い ようえき く生み出されている。 〈小町谷照彦〉以上が産するが、そのほとんどが固有種である。 ある。葉柄は三 ~ 一〇拜一。七 ~ 八月、葉腋に白のために、財産を処分する必要はなく、所得か そうし 日本産の種はすべて、オオ。フュ亜科と。フュ亜色で径約一の五弁花を数個開く。集合果は球ら支払われる。所得税は所得が生じて初めて課 プュ〔蚋〕 black fly 昆虫綱双翅目糸角 亜目。フュ科 Simuliidae の昆虫の総称。プト 科の二つに所属している。オオプュ亜科のオオ形、九 ~ 一〇月に赤色に熟し、食べられる。果されるから自家用の土地や家屋などは課税され ( 西日本 ) 、プョ ( 東日本 ) ともよばれる。体長。フュ P き s ぎミをミミ s やキアシオオブュ実は冬までみられるので、フュイチゴの名があなかったり、所得税の税務行政上の不完全さの もの め アシマダラフュ ウマプユ ささめ オオプユ アオキツメトゲプユ さなぎ かぎ はん でん えんすい へり そうせい イト 488