ふらんく にノーベル物理学賞を受賞した。〈佐藤忠〉 なり、気体や蒸気の蛍光の研究に携わった。し 実践経験に基づいて展開している。この著作にれたのは彼の死後であった。 フランクは、オペラと演奏家の表面的な名人かし、三三年に、ナチスに対する抗議として同フランク Robert Frank ( 一九 = 四ー よって名声を得た彼は、ゲッティンゲン ( 一七 会 ) 、パビーア ( 一大六 ) 、ウィーン ( 一七九五 ) の大芸が人気を得た一九世紀後半のフランスの音楽大学を辞職してアメリカに渡り、ジョンズ・ホイス出身のアメリカの写真家。チューリヒに生 学教授を歴任、一八〇四年にはロシア皇帝侍医界で、それらの流行に追随するのをもっとも明プキンズ大学、シカゴ大学教授を務めた。第一一まれ、助手をしながら写真を学び、一九四七年 やきん ーズ・バザー』 ニューヨークに渡る。『ハー 〈大鳥蘭三郎〉確に拒んだ作曲家であった。そして、バッハを次大戦中、シカゴ冶金研究所化学部門主任とし に任ぜられた。 のファッション写真家として出発するが、その にて原爆製造に参加したが、四五年軍部の無警告 フランク César Franck ( 一全一一ー九 0 ) フはじめとするドイツ音楽の厳密な論理的構成 ランスの作曲家、オルガン奏者。フランス語圏比肩する形式を探究し、全曲が一つのモチーフ原爆投下方針に反対するための委員会 ( フラン分野の限界を悟って、個性的な内面表現の可能 のベルギー人の父、ドイツ人の母をもつ。生地の多彩な変化によって有機的に構築されるとい ク委員会 ) を組織し、彼の名で知られる報告書性を追求、五五年と五六年に外国人として初の を提出したことは有名。 〈小林武信〉グッゲンハイム奨学金を受け、五八年にフラン リエージュ ( ベルギー ) の音楽院に学び、九歳う独自の形式、すなわち循環形式を確立した。 スの出版社から写真集アメリカ人』を刊行し でソルフェージュ、一一歳でピアノの各科を卒晩年の名作の大半がこの形式によって作曲されフランク Jerome Frank ( 一会九ー一九五七 ) た。これはペシミスティックなアメリカの現実 業、一三歳ごろからベルギー各地でピアノ演奏ている。また、一八世紀後半以後沈滞していたアメリカの法学者。法現実主義 legal realism 会を行い、自作も発表した。一八三五年パリに フランス・オルガン音楽の復興に努めた。彼の の代表者の一人。ニューヨークに生まれる。シを記録したもので、翌年アメリカ版も刊行され 移り、三七年バリ音楽院に入学、ピアノ、オル交響的なスケールと色彩感、充実度を備えたオカゴ大学に学んだのち、一九一二年より弁護士て多大の共感をもって迎えられた。彼は、従来 ガン、作曲などを学ぶ。四二年父は息子を演奏ルガン曲は、フランス・ロマン派ォルガン音楽として活躍、四一年より病没するまで連邦控訴は公的なメッセージしか発しなかったドキュメ 家として活躍させようと考え、 ンタリー写真の分野に、洞察力の高い私的なド 。ハリ音楽院からの出発点となるものである。フランクは教育者裁判所第二巡回区判事を務めた。現実の事実認 は退学を余儀なくされた。しかし、演奏家とし としても優れ、次代のフランス作曲界を担う逸定過程において、裁判官の個人的な思想、感キュメンタリーのあり方を示唆し、同種の写真 はたん ては成功せず、父子間の関係も破綻した。以 材を、それそれの個性をだいじにしつつ教育情、直観が決定的影響をもっことを指摘し、そが記録・報道に限らす芸術としても成立するこ 後、教会ォルガン奏者、教育者として生計をた し、世に送り出してもいる。 とを立証、現代写真の祖の一人となった。五九 〈美山良夫〉の観点から法的確実性の観念を願望思考に根ざ てる一方、作曲活動にも力を注ぐようになっ・ビュアンゾ著、田辺保訳『フランク』す幻想として批判した。豊かな実務経験と哲年以降は映画製作も手がけている。〈平本収〉 た。五八年、パリの聖クロティルド教会ォルガ ( 一九七一・音楽之友社 ) 学、心理学、自然科学に及ぶ該博な知識に裏づフランク Anne Frank ( 一九一一九ー四五 ) ュ けられた彼の主張は学界に大きな衝撃を与えダヤ系ドイツ人実業家オットーの次女。第二次 ン奏者に就任、カバイエ・コル製作の優れた大フランク Tenny Frank ( 天七六 ォルガンを使った即興演奏やオルガン音楽の作アメリカの古典学者、ローマ史家。一九一九年た。同じ法現実主義者のなかでも、法的不確実世界大戦中アムステルダムの隠れ家で綴った日 曲によってしだいに知られるようになる。七一よりジョンズ・ホプキンズ大学教授。とくに経性の原因を「紙上の法」の不確定性に求める記が発見され、戦後出版されて反響をよんだ。 ↓アンネの日記 年には、フランスの器楽曲創作を推進しようと済史の分野で大きな業績をあげた。おもな著書「ルール懐疑家」 rule ・ skeptics を不徹底である サン・サーンスらにより設立された国民音楽協として『ローマの帝国主義』 ( 一九一九 ) 、『共和政として批判し、事実認定の恣意性こそその根本フランク Andre Gunder Frank ( 一九一一九 ) ドイツ出身の経済学者。シカゴ大学で 会に協力、翌七二年パリ音楽院ォルガン科教授期ローマの生活と文学』 ( 一九三 0 ) 、『ローマ経済的原因であり、ルールを明確にするだけでは法 へんさん に迎えられる。七〇年代の後半にワーグナーの史』 ( 一九一一九 ) があるが、とくに彼が編纂した的不確実性は避けられないとする「事実懐疑経済学を学び、アメリカ、プラジル、メキシコ、 影響を受けた管弦楽曲などを作曲したのち、 『古代ローマ経済概観』全五巻 ( 一九三三 ~ 四 0 ) は、家」 fact ・ skeptics の立場にたつ。立法政策とカナダ、チリの各大学での教員としての職を経 〇年ごろから充実した独自の形式とスタイルに ローマの経済史に関する主要な史料を編集した して職権的証拠調べの拡張による当事者主義のて、一九八一年以来アムステルダム大学開発経 ノノ三年、イギリス、イース うえに、その英訳と解説を付しており、この分弊害の是正をも提唱している。主著には『法と済学教授 ( 一九七、、 よる作品を次々に発表、そのなかにはピアノ曲 『前奏曲・コラールとフーガ』 ( 一犬四 ) 、ピアノ野の研究にとってもっとも基本的な文献の一つ現代精神』 ( 一九三 0) 、『裁かれる裁判所』 ( 一九四九 ) ト・アングリア大学教授 ) 。ラテンアメリカで などがある。 〈井上達夫〉の講義の過程で、正統派経済理論と第三世界の となっている。 〈坂口明〉 と管弦楽のための『交響的変奏曲』 ( 天会 ) 、 ー一九六四 ) 回棚瀬孝雄他訳『法と現代精神』 ( 一九七四・弘文堂 ) 現実との格差の大きさについての意識を強め、 イオリン・ソナタ ( 天会 ) 、交響曲ニ短調 ( 天フランク James Franck ( 天 \ ラテンアメリカ従属学派の諸業績をベースにし 会 ~ 八 0 、オルガン曲『三つのコラール』 ( 天 ドイツ生まれのアメリカの物理学者。ハイデル フ一フンク HJ1bfl MHXaüJIOBHq (bpaHK ) ソて新従属理論を提唱。その理論の国際化に指導 九 0 ) など、彼の代表的傑作が含まれていたが、 ベルク大学、・ヘルリン大学で学んだのち、一九 ll'ya Mihaylovich Frank ( 一九只 当時はほとんどの作品が不評で、真価が認めら〇六年ベルリン大学の・ワール、、フルクのもと連の物理学者。数学教授の息子としてレニング的役割を果たした。また、「開発と低開発は歴 ラードに生まれる。モスクワ大学のバビロフの史的時間の先後関係にあるのではなく、後者は で学位を得た。一一年からベルリン もとで学び、一九三〇年卒業。翌年より国立光前者によってつくりだされたという点で、同一 大学で物理学を教えるかたわら、 ン イ・ --Ä・ヘルッと協力して種々の気学研究所の上級科学研究員、三四年にソ連科学コインの裏表にも例えうる共時的関係にある」 体中での自由電子のふるまいを研究アカデミーのレーベデフ物理学研究所の研究という、歴史および世界経済認識の新しいバラ ダイムを提起して、社会科学の広範な分野での ッし、ポーア理論に実験的確証 ( フラ員、四一年より原子核研究室の主任となった。 じゃっき 自 〈本多健吉〉 ンクーヘルツの実験 ) を与えること 彼の最初の研究は、光ルミネセンスと光化学で大きな国際的論争を惹起した。 ~ グ・に成功。この功績により、二五年〈あ 0 た。三四年以来、原子核反応の研究に転じ、・フランク著、大橋正治他訳「世界資本主 ガンマ 義と低開発』 ( 一九七六・柘植書房 ) ▽同著、西川 了線による対創生および線の測定と応用、 ルッとともにノーベル物理学賞を受 ク ン 潤訳『世界資本主義とラテンアメリカ』 ( 一九 けた。第一次世界大戦後、カイザ中性子、核分裂の実験的研究をした。理論研究 天・岩波書店 ) ▽同著、工藤章訳『世界経 9 フ ・ウイルヘルム研究所を経て、ゲとしてチェレンコフ効果の研究を行い、その業 O 済危機の構造』 ( 一九全・プリタニカ ) 5 ッティンゲン大学実験物理学教授と績により、五八年、タム、チェレンコフととも ー一九三九 )
っ 〇電気アーク ( ャプロチコフ ) 〇キャベンディッシュ究所 ( イギリス ) ギブス ( 化学熱力学研究 ) ー囮 ファン・デル・ワールス ( 気体の状態方程式 ) ジョンズ・ホプキンズ大学 ( アメリカ ) 〇マクスウエル ・。 ( ( 0 こコルトシュタイン祐 照明技術 ( 陰極線命名 ) 「電気磁気論」 製鋼法 ( トーマス ) 〇 電磁型電話器 ( ベル ) 〇 ローレンツ ( 光の反射・屈折の法則 ) 乃 電気炉 〇電球 ( スワン ) 遠距離送電〇 クルックス ( クルックス暗部 ) 四 シュミット ( 定理に対する可逆性の反論 ) 、 〇炭素電球 ( エジソン ) マイケルソン干渉計 ( マイケルソン ) 〇 ツマン ( 統計力学 ) 熱放射の研究 中央発電所 ( エン】、ン ) 、変圧器 ( ゴラール、〇 ギブス ) 、遠距離送実験 ( ドプレ ) シュテファン ( 熱放射のエネル ーが絶対温度の四乗に比例すること発見 ) エジソン ( エジソン効果 ) 化学熱力学研究 ベル・テレフォン社研究所〇〇電秤 ( レーリ シュスター ( 険極線が負に帯電した高速の粒子と主張 ) ヘルムホルツ ( 自由エネルギー ) 〇小型ニ相交流電動機 ⑩世界初の交流発電所 ( フェランティ ) ドイツ国立物理工学研究所〇 ポルツマン ( 熱射の研究 ) 、ル・シャトリエ ( 化学平衡の研究 ) x ・・ヘルツ ( 電磁波の存在を実験的に証明 ) 無線通信 マイケルソン、モー ー ( 光速度一定 ) 8 光度計・高温度計 光度計 ( ルンマー ) 〇 . 原子 〇コヒーラ検波器 ( プランリ 交流発電所 ( アメリカ ) 〇ー〇 ローレンツ ( 電子論 ) 高温度標準 ( ホルポルン、ウィーン ) 、光度計と光度標準 ( ルンマー ) 〇 フィッツジェラルド、ローレンツ ( 短縮仮説 ) ポッケンハイム三相交流発電所 ( ドイツ ) 〇 オストワルト ( エネルギー一元論 ) 〇無線通信の実験 ( ポポフ、マルコーニ ) レントゲン ( >< 線発見 ) 、べラン ( 陰極線の粒子性確認 ) ウィーン ( 変位則 ) 」・」・トムソン ( x 線の気体に対する電離作用発見 ) 、ゼーマン ( ゼーマン効 % 果 ) 、べックレル ( ウランの放射能発見 ) 」・」・トムソン ( 電子の確認 ) ールンマー、ウィーン ( 黒体条件 ) 物性 キュリー夫妻 ( ラジウム発見 ) ウィーン ( 熱射のエネルギー分布式 ) 初の企業内研究所 ( ・、アメリカ ) 〇 ・ルー一金属内の自由電子モデル ) イギリス国立物理学研究所⑩ 〇大西洋横断無線通信 ( マルコニ ) 囲プランク ( 量子仮説提唱 ) ー ( 熱放射のエネルギー分布式 ) カーネギー・インステイチューション〇 〇アリカ国家準局 ラザフォード、ソディ ( 原子崩壞説 ) 真空管 ギブス ( 統計力学 ) 〇ニ極管 ( フレミング ) ローレンツ ( 金属の自由電子論 ) 〇回型スプレンゲルポンプ ( カウマン ) 、水銀回転ポンプ ( ゲーデ ) ネルンスト ( 熱力学第三法則 ) 田長岡半太郎 ( 有核原子模型提唱 ) 、ローレンツ ( ローレンツ変換の定式化 ) 〇鉱石検波器 ( ダンウッディ ) 三極管 ( 真空管機能が 検波器のほかに、増幅 〇鉱石検波器它ッカード ) アインシュタイン ( 光量子仮説、特殊相対性理論、プラウン運動の理論 ) 器・発振器・変調器へとその機能を拡大する ) 〇 門ジーンズ ( レー ジーンズの放射法則 ) 計数 ~ 霧箱 ワイス ( 強磁性の理論、自発磁化、障 ¯' ・」・トムソン ( イオンの比電荷測定 ) 磁区の概念 ) 自動機械体系 ガイガー ( 計目 ) 〇ペラン ( 分子の存在証明 ) 〇ペン型油回転ポンプ ( ゲーデ ) 再生回路〇超低温状態の研究 ミリカン ( 油滴法による電子の荷電量測定ー囮 ) カイザー・ウイル ~ ルム協会〇 ラザフォード ( 夜粒子の本性がヘリウム原子であることを証明 ) ベルトコンペャー採用〇 カマー リン・オネス ( 超伝導現象 ) ( フォード自動車 ) 〇第回ソルペー会議 第一次世界大戦〇ー⑩結品構造の研究 ラザフォード ( 正電気をもっ原子核を中心に周りに電子がある原子模型 ) ラウ工、プラッグ父子 ( x 線による結晶構造解析 ) 、デバイ ( 固体比熱の理論 ) ーロへス ( 宇宙線の発見 ) 霧箱 ( ウイルソ、 ) 〇ポーア ( ラザフォード原子模型、量子論に基づき水素原子ス。 ~ クトルを説明 ) ロックフェラー財団〇 ソディ ( 同位元素の概念 ) >< 線放出用クーリッジ管 ( クーリツン ) 〇 アインシュタイン ( 一般相対性理論 ) ーへテロダイン回路〇分子ポンプ ( ゲーデ ) 〇 巧ゾンマーフェルト、ウイルソン、石原純 ( 一般化された量子条件導入 ) 四極真空管〇ポルン ( 結品格子力学 ) ワイル ( 電磁場と重力場の統一理論 ) プラッグ ( x 線による結晶構造解析 ) 巧 ポーア ( 対応原理 ) 本多光太郎 ( 鋼ー磁石材料 ) ⅱ ラザフォード ( 元素の人工変換に成功 ) 量子統計学の研究 コンプトン ( コンプトン効果 ) ポース ( ポースーアインシュタイン統鼓液体へリウム研究の基礎 ) ド・プローイ ( 物質波 ) 、バウリ ( 排他原理 ) アイジグ ( 強磁性体の相変化の研究 ) ゥーレンペック、ハウトスミット ( 電子スビン ) 制御技術 フィードバック増幅器 ( プラック ) 〇 Q-O フェル、、、十・ 〇五極真空管 分子構造・化学結合の研究 ハイトラー、ロンドン ( 水素分子の構造をミクロな電子状態から理解する ) プロッホ ( 金属結品内電子の研究 ) フント、マリケン ( 分子軌道法 ) 、 ートリー ( 自己撞着場の方法 ) ハイゼンベルク ( 強磁性の量子力学的説明 ) 四 ハイゼンベルク、バウリ ( 場量子論 ) 〇増幅回路安定法 ( ナイキスト ) 190d 09 09 力学批判の別の形は、エネルゲティークの誕 生と、その原子論への攻撃として現れる。近代 原子論は化学から生まれているが、「一九世紀 最大の科学」とよばれた化学の進歩によって古 い形の「原子論」は実状にあわなくなり、力学 的自然観に裏打ちされた原子論への不信が高ま ってくる。おりからエネルギー原理が、その普 遍性・統一性を備えて登場し、熱力学が有効性 を発揮し始めると、エネルギー原理こそ自然の 最終的法則であり、自然科学はエネルギー変換 の学であるとするエネルゲティークの考えが生 まれた。これはやがて実証主義の哲学と結び付 いて「目に見えぬ」原子や分子を仮説として排 撃し、直接観測される量、とくにエネルギーこ そ科学の真の対象、根本的実証とするようにな る。マッハ、オストワルトの指導下に、ハレ、 リューベックなどで原子論の擁護者ポルツマン と激しい論争を闘わせた「エネルゲティークと 原子論の対決」は古典物理学の終幕を彩るもの であった。 この流れの背景には、自然科学の影響が強く 刻みつけられた哲学の動きがある。いわゆる俗 流唯物論の系統では、・フォークト、モレス コットの生理学的唯物論や、ビュヒナーの哲学 が流行し、これに対する批判としては、新カン ークリー ヒュームの流れをくむ ト派や、 「記述主義」、さらには「経験主義」「実証主義」 が登場する。 デュ・ボア・レイモンは自然科学の限界を強 調して観念論的不可知論を展開した。進化論者 ヘッケルがこのような自然科学的形而上学の流 れに抗して唯物論的な立場から組織した一元論 者協会も、自然科学的な認識方法を徹底させよ うという点で立場が一致していたオストワルト が主流を担うようになって実証主義的な形へ進 んだのも時代の流れであった。その出発は不可 知論の根源となる仮説の排撃、そのかわりとし ての経験の重視であり、実証主義が備えた一面 の進歩性への耽溺であった。 熱力学と電磁気学という一一つの体系で特徴づ シュレーディンガー ( 波動方程式 ) けられる一九世紀の物理学は、このような思想 ハイゼンベルク ( 不確定性原理 ) 〇イギリス「グリッド」システム 的背景のなかにいちおうの完成とその裂け目と ソ連国家電化計画 デイラック ( 相対論的な電子の方程試の提唱 ) をみせつつ、時代は、新しい一連の事実の発見 ガモフ ( 原子核内部に初めて量子加速器 力学適用し、 0 崩壞説明 ) 〇原子核破壞装置の原理を考案 ( ローレンス ) をきっかけにして急速に新物理学の建設期へと 〇・ヘッセン ( 科学史の史的唯物論に 基づく研究 ) 動いていく。 サイクロトロン〇原子核構造の研究 〔物理学の変革〕一九世紀もあと四半分を残す 7 初の原子核の人工壞変 ( コッククロフト ) 〇バウリ ( 中性徼子仮説 ) サイクロトロン ( ローレンス ) 〇アンダーソン ( 陽電子の発見 ) ころには、古い形の物理学はほば完成に近づい 4 1900 : 〇アメリカ超電力方式 ( *>< ) 開始 水力・火力の発電所 たんでき
も最近とくに浸透しあっている。しかし、生体 物理学 ぶつりがく physics 材ス 自然科学の重要な位置を、 physique, Physik 対象としている ( 一般相対論 ) 。 physique などということばとともに確立したとみられる。 しかし、このような規定ではまだ物理学と他物質を物理学の研究対象として取り入れつつあ Physik 響 〔物理学の対象〕物理学の対象は自然現象であの自然諸科学との区別は明らかではない。たとるとはいっても、物理学と生物学との距離は、 物理学の対象 / 物理学と化学の境界 / 物理るが、これでは広すぎて他の自然諸科学との区えば化学に関して、現代の物理学者の一部に物理学と化学とのそれよりはるかに大きい。生 学の方法 / 物理学の諸分科 / 物理学と他の別がっかない。しかし、これをどの範囲と限定は、いまや化学は物理学に包含されてしまった物の個体の発生・成長、あるいは増殖や進化は 個別科学、境界領域 / 物理学の歴史 することも困難である。なぜなら、物理学も自 などという見解がある。確かに、現代では物理生物固有の概念であり、それらを基本的な物質 とその一般的な運動法則という物理学の概念か 然科学の他の諸分科と同じく、これまでの進歩学と化学との研究対象領域は互いに浸透しあっ 。しまだはるかに遠いところに 物理学の語源である physic ( をミ畍 ) は、 を踏まえつつ、その考え方も対象も絶えず広げている。しかし、このようなことはすべての個ら理解するのま、、 もともとギリシア語で自然を意味していた。し ながら変化しているからである。かって「物理別科学の境界についてもいえることであり、こあるというべきであろう。 〔物理学の方法〕物理学は、他の自然科学の諸 たがってアリストテレスの『フィジカ』 Physica 学は物体の運動について研究し、化学は物質のれをもって物理学と化学の区別がなくなったと 分科と同じように、実験的ならびに理論的な方 は『自然学』と訳されている。彼はそのなかで変化について研究する」、というようなことが考えるのは正しくない 「運動」を論じるのに多くのページを割いてい いわれた。このようにいうときの物体とは一定〔物理学と化学の境界〕物理学の対象の特徴を法によって研究される。「実験」を広義に解す る。アリストテレスが「運動」といっているの の形や大きさをもった限定的なものであるのに 化学のそれと対比的にあげるならば、それは次れば、観察、観測などもそのなかに含まれる。 しかし、物理学においては、狭義の「実験」す は、発生消滅、量の増大減少、質的変化、場所対し、化学の対象としての「物質」は、均一でのようなものであるといえる。まず、物理学は 的移動を含んでいる。われわれが現在狭義に運特定の形や大きさをもたないが一定の性質を担 自然のあらゆる対象物の基本的構造と一般的運なわち環境条件を整え、諸パラメーターの値を 動といっているのはこの最後のものである。し 制御し、一つの物理量を精密に測定し、あるい うものとして、たとえば空気とか水とか銅とか動を認識しようとする。もちろん物理学におい かし、アリストテレスの運動のなかには化学変 は二量間の数量的な関数関係をみいだすとい いうものを意味している。しかし、物質とい , っても、特殊的対象に固有な運動法則や構造をも 化や生命現象をも含みうる。このように、アリ ことばはもっと広い意味をもっている。自然的研究するが、それはより普遍的な法則を探りあう、いわゆる精密実験を重視する。このこと ストテレスの『フィジカ』は物理学であるとい 物質としてわれわれは、空気や水や銅のようなるいは検証するためであったり、より基本的と は、物理学が運動の量的側面を重視して研究が 行われることと深くかかわっている。しかし同 うよりは自然学の書である。しかし彼は、動植ものばかりではなく、星や太陽のような天体す考えられる構造の発現をみるためなど、つねに 物などについての具体的記述は他の著作に譲なわち宇宙における「物体」をも含めて考えて 一般的なものとの関連で探究される。このよう時に、実験のもっ質的発見の意義も大きい。 X り、このなかでは広義の運動を一般的、基本的 線の発見、放射能の発見、超伝導の発見などが いる。また、近代科学の明らかにしたところに にして物理学の対象は、大は宇宙や銀河系の問 に論じている。この方法は現在の物理学に引き よれば、化学者のいう「物質」も分子・原子と題から、小は原子や素粒子の問題に至るまでがその好例である。 物理学の理論的方法の特徴は、実験の量的な 継がれているものであり、現代語の physics 名づけられている微小な「物体」の集団として含まれる。化学はこれに反して、原子が構成す が物理学にあてられるのは理由のあることでああるのだとされている。 る分子 ( それはまた化学的物質種の基本単位と精密さに応じて数学を広く深く応用するところ ろう。 にみられる。数学の多方面の分科が物理学の理 現代の立場でいえば、物理学の対象は「自然も考えられるが ) および分子の結合体について ところで一 ~ 一九世紀までは natural phi ・現象を引き起こすもととなっている物質とその の構造と変化を研究対象としている。化学のこ論的研究のための手段として使われている。し 一 os 名 h が物理学を意味するものとして使わ連動」、というべきであろう。さらにいえば、 の研究対象は一見、物理学の対象の一部にすぎかし、理論的方法は数学の応用だけに限られて いるものではない。類推、理想化、模型の設定 れていた。しかし一八世紀後半になると phy- 物理学の特徴は、それらの自然現象の奥に潜むないようにみえるが、実はそうではない。数十 sique が化学と並ぶ物理学を意味していたこと普遍的な法則をできるだけ統一的に求めようと ないし一〇〇余種の原子の組合せでつくられる なども理論においてきわめて重要な役割をす は、たとえばフランスのラボアジェの論文がするところにある。イタリアのガリレイに始ま 化合物分子はその種類が膨大であるということる。このことは、たとえば、原子模型の形成な だけをここでいっているのではない。それらの 『 0 、 sc s トを s ミ s ミ ~ ミミ s 』に載った りイギリスのニュートンにより事実上完成した くして原子理論が成立しえたかどうかを考えて ことからもみることができる。一九世紀に入る古典力学では、対象は地球上の「物体」だけでなかには、化学の固有の概念、たとえば原子みればわかることであろう。 また、理論的方法は単に実験結果の解釈のた と、力学や光学のほかに熱学や電磁気学が完成なく、月や惑星などの天体をも含んでいる。た価、結合、基、酸化・還元などが存在する。物 めに用いられるだけではない。いろいろな法則 し、それらを総合したものとして物理学の概念 だ、このときの「物体」は、その内部の構造な質的対応をもっこれらの概念を、物理学的に、 がそのことばとともに確立していったとみられどは無視して、「質量」というような属性を抽すなわち基本的な物質の一般的な運動法則によの統一的理解という物理学の基本的課題を追究 る ( 念のため、 physiology は生理学、 physi- 出している。また、「運動」というときには って基礎づけることは可能であろう。しかし、するために、それらの法則をどのような概念の cian は医師であって物理学者ではないが、フ「位置」とその変化とに着目している。しかし、 そのことによって化学に固有なこれら質的概念枠組みでとらえるかという、理論的課題の設定 ランス語では physicien は物理学者であっその後の物理学の発展では、星をも含めて、そが物理学的運動法則に解消されてしまうものでが重要な意味をもっている。アインシュタイン ーの実 の相対性理論が、マイケルソンーモー て医師ではない。 これらのことは、もともとれをつくっているもの、すなわち「物質」を対 はない。それは、たとえば、生物を形成してい physic が自然、身体を意味することばである象とするようになっている。また、「運動」とる物質が化学的に分析され、生命現象のあるも験の解釈としてでなく、力学と電磁気学の統一 ことによる ) 。 という理論的課題の解決として生み出されたこ いう場合、狭義の物体の運動だけを意味するの のが物理学や化学によって基礎づけられたとい でんば 一九世紀になると、フランスでは rAnnales ではなく、光の伝播とか液体から気体への変化 っても、生命が無機的な物質に帰着されたのでとを忘れてはならない。↓相対性理論 実験的方法と理論的方法とは、単純に直列的 とかいうように、着目する属性の変化を対象と はよい、というのと同様である。 り・ s ミ』・が、またドイツでは『ムミ e 斗、 p を・ して含んでいる。さらにまた物理学は、物質の 自然的物質のなかで、「生物」は特別なものあるいは並列的にあるのではなく、複雑に絡み っミ 0 。。』が現れて、物理学史上重要な構造と運動だけでなく、その運動を規定する枠であり、物理学の研究対象からはいちおう除外合い、ときには助け合い、ときには互いに矛盾 される。もちろん、生物学と物理学の研究領域することもありながら、全体として物理学的自 4 圷か論文が数多く発表され、物理学は化学と並んで組みである「時間・空間」の構造をもその研究
しようとするものである。したがって、原子核性、③物性一般、④物理学一般。 然認識を深める役割をしている。ある実験は理分科が少なくない。 この分類はかならずしも合理的ではないが、 り . 論の検証に役だっこともあるが、またある実験〔原子核物理学と物性物理学 ( 物性論 ) 〕広義やその集団の役割は与えられた場として考えら の原子物理学は二つの部分に大別される。一つれ、電子の一般的な運動法則がその出発点とな 対象による分類であるという点で一貫性があ っ的発見はそれまでの理論と矛盾し、そのために 圷か理論を発展させ、さらに包括的な新しい理論をは広義の原子核物理学であり、他は物性物理学る。それゆえに、個々の原子を対象とする狭義り、ほば研究者数を四分しているといえる。 つくりだすために役だっことも少なくない。 の原子物理学もまた物性物理学の一分科と考え 次の例として、やや詳しく分類をしている日 広義の原子核物理学は素粒子の運動とその相 られることもある。それは物性物理学の一つの本物理学会の分科を示す。素粒子・宇宙線・原 実験的方法に加えて考えておかなければなら ないのは、実験装置、手段の開発である。これ互作用にかかわっている。このなかで狭義の原出発点というべきかもしれない。物性物理学に子核 ( 理論・実験。重力・宇宙論を含む ) 、放 は、それ自身自然を知るための研究ではない。 子核物理学は核子 ( 陽子と中性子 ) の多体系ではもう一つの出発点ともいうべき分科がある。 射線、プラズマ・核融合、統計力学・物性基礎 しかし、それは実験的研究にとって不可欠のもある原子核を研究の対象とする。多体系を取りそれは分子論的物性論とも名づけられたことの論、原子・分子、分子結晶、結晶成長、線・ のである。同様に理論的方法における数学的手扱うという点では ( とくに方法的に ) 物性物理あるものであって、電子運動と直接関係をもっ粒子線、量子工レクトロニクス、磁性、誘電 学と類似する面をもっている。しかし、基本的ものではない。それは多少とも模型化された分体、イオン結晶、光物性、半導体、金属、格子 段そのものの研究も一定の役割をもっている。 これらの方法を考える場合にもっとも基本的粒子が核子であり基本的相互作用が核子間の強子の集団運動を多体問題的手法を用いて明らか欠陥、低温物理、力学・流体物理、放電物理 なことは、、 しうまでもなく、方法は対象によっ い相互作用であるという点では、素粒子論と密にすることであり、液体論や格子力学において学、高分子物理学、生体物理学、物理学史、物 て規定されているということである。それゆ接に関連しているものである。実際、近年では著しい進展をみせている。化学の研究対象の基理教育など。 ここにはかっての物理学の分科と考えられて え、物理学の方法にとってもっとも本質的なも核子以外の素粒子をも考慮する必要性が指摘さ礎には原子があるため、原子や分子を対象とす いた電磁気学、熱学、光学などの名はみられな のは、個々の実験的あるいは理論的な方法、手れている。素粒子論は、核子のほか重粒子やある物性物理学の分科は構造化学と浸透しあい不 可分のものとなっている。また、物質のいわゆ いことを注意しておきたい。 段でなく、正しい自然観をまず確立することでる種の中間子を含むハドロン族の素粒子、弱い 〔物理学と他の個別科学、境界領域〕物理学が あるというべきであろう。 相互作用しか行わないレプトン族の素粒子、電る化学的性質 ( このことばはそれそれの物質の 〔物理学の諸分科〕しばしば物理学を理論物理磁的な素粒子である光子、などを統一的に研究固有の性質をさすことが多いが ) は、電子運動他の個別科学と浸透しあっていることは、化学 し、それらの運動法則、相互作用、転化と保存から解明されることがあるので、この点でも物との関係ですでにみたところであるが、境界領 学と実験物理学とに大別することが行われてい 域の発展が現代の自然科学の発達の一つの特徴 る。しかし、これは方法による分類であって、 則などを研究する。最近では、これらの素粒子性物理学は化学と浸透しあっている。 物性物理学の対象は原子以上のレベルに大き とみられるだけに、とくにこの点について述べ 現代の発展しつつある物理学に対応した分科とをさらに深い階層でとらえ、その構造およびそ く広がっているが、とくに固体を対象とする研よう。 みるのは適当ではない。研究方法が高度に専門 の構成要素の運動法則が研究されている。これ 〔天文学〕もともと物理学とくに力学は天文学 化している状況の下では、研究者の側での理論 ら広義の原子核物理学は、加速器、宇宙線観測究が著しく進展している。それゆえ「固体物理 と実践の分業は避けられないが、しかし、それなどの実験的方法の急速な進展と相まって著し学」はほとんど「物性物理学」と同義に使われとは不可分の関係にあった。ニュートンカ学の い発展をみせている。 る。外国語では「物性物理学」に相当すること完成は惑星の運動の研究を抜きにしては考えら はただちに物理学の分科を表すものではないだ ろう 重力は古くから知られている力であり、古典ばはなく、固体物理学にあたることばだけであれない。 ニュートンカ学完成後も、その応用と してもっとも威力を発揮したのは天体力学であ 物理学の分科は、もっとも自然には、その対力学の枠組みで取り扱われていた。一般相対性る。たとえば、わが国の「物性研究所」は英語 象によって分けられるべきである。物理学は自理論により、重力は時空の構造と結び付けられでは lnstitute for solid-state physics ( 固体つた。それは現在も位置天文学として残ってお 然的物質とその運動をその対象とするものであ宇宙論と深くかかわるようになった。宇宙の構物理学研究所 ) である。しかし、物性物理学をり、人工衛星やレーザー光の利用などの新しい るが、それはさまざまな階層に分かれ、それそ造と運動がしだいに明らかになるとともに、現広義に解するときは、その一方の端に原子・分研究手段と結合し、測地学とも関連しながら物 れが固有の運動法則をもっている。それそれの在の宇宙をはるか過去にさかのばって、いわゆ子の物理学を含み、他の端には生物物理学をも理学の一つの周辺をつくっている。また、天文 階層に応じて物理学の分科があるのは当然のこる宇宙初期の運動やそこでの物質生成が論じら含むものと考えられている。物質の固有の性質学との境界領域には星の生成・進化・死滅など とといえる。しかし、他方では、それらの階層れるに至って、物質の基本的構成を研究する素ということの延長上には生体物質の生物学的特をも含んだ天体物理学 ( 宇宙物理学 ) がある。 粒子論と結び付いて研究せざるをえなくなっ異性があるだろう。それを電子論的に解明する天体の進化は、素粒子・原子核物理学と結び付 は浸透しあい、また一般的な法則で貫かれてい いているために、天体物理学は超マクロ的対象 た。この意味で、重力は宇宙論や素粒子論と密課題は一種の物性物理学の問題であろう。ま る。したがって、それら分科を固定的なものと た、その実験的手段も物性実験のものと共通の の特殊性のほかに、ミクロ ( 徴視的 ) の対象の 接に結び付いて研究されている。↓宇宙論↓ 考えることはできない。 ものが少なくない。 ↓固体物理学↓物性論 運動法則をその基礎としてもっている。 普通には、現代物理学はまずマクロ ( 巨視素粒子論 原子核、素粒子の実験的研究には強力な粒子 物性物理学は原子以上のレベルを対象とする〔物理学の分類例〕物理学の対象領域は広大 的 ) の物理学と広義の原子物理学とに分類され 加速器を必要とする。このような加速器を製作 る。マクロ物理学のなかの分科としては一九世点では化学と共通する面があり、化学物理学とで、そこには物質のさまざまな階層、レベルが よばれているものとの差異はあまりない。しか含まれるために、その分科は細分すればきわめするためには最高の総合技術を必要とするた 紀以前のいわゆる古典物理学がそのままそれに 該当するが、この分野での新しい発展も無視すし、それは、いくつかの点で化学とは異なってて多種かっ複雑なものとなる。次にいちおうのめ、周辺科学としての加速器物理学 ( 工学 ) を いる。化学は原子の集団 ( たとえば基 ) の質的目安を与えるために、現在行われている若干の生み出した。同様のことは低温物理学 ( 工学 ) ることはできない。とくに、たとえば流体力学 についてもいえることである。 分類を掲げる。 などにおいては、流体のマクロ物理学的特徴が特徴を対象認識の重要なものとしてとらえてい る。それに反し物性物理学では、電子という一 初めに、もっとも簡単な便宜的なものとし〔情報科学〕実験データの処理、その解析、理 明らかにされ、数学的手段の発達と相まって、 前世紀とは面目を一新した近代的な発展がみらつの素粒子の運動を基礎として、多体問題的手て、文部省が研究費審査のためにとっている分論計算の遂行に計算機は欠かせないものとなっ れる。物理学のこの分野では応用と結び付いた法を使って ( 化学的 ) 物質の固有の性質を解明類を示す。①核、宇宙線、素粒子、②固体物ているとともに、シミュレーションやモンテカ ( 物性論 ) である。 412
ふいっし 導体がフィッシャーの合成法で工業化された。 協会が新設した石炭化学研究所の所長に就任 計家として勤務し、研究に従事。そこでの研究 6 活動により、実験計画法を創案し、推測統計学 一八八四年、彼は糖質の研究を始め、九一年し、一酸化炭素への水素添加による石油合成に までに、ファント・ホッフの立体化学理論から取り組む。トロプシュとともにこの石油合成法の基礎を築いた。一九二九年には王立協会会員 予想されたグルコースの一六の立体異性体の立のいちおうの工業化に成功したのは二三年であとなり、その後、三三年に記述統計学の導入者 ャ である・ピアソンの後を継いでロンドン大学 体配置を実験的に確定した。この実験技法を用る。製造されたガソリンの品質は悪かったが、 シ ジントールとよばれ、ベルギウス法とともに、 の教授となり、さらに四三年には母校ケン。フリ いて多くの天然糖の構造決定と天然にない糖の イ フ ッジ大学の教授となった。 九三年には最初のグリコシドを合第二次世界大戦下のドイツにとって貴重な液体 合成を行い、 ートロプシュ 彼の最大の業績は、それまでのピアソン流の 成し、その環状構造を示唆した。また糖発酵の燃料を生産した。↓フィッシャー カぎ 〈加藤邦興〉 記述統計学を改革し、統計母集団のもっ特性 研究から有名な酵素作用の鍵と鍵穴モデルを提法 ー一九を、それから抽出したいくつかの標本に基づい 大学教授を経て、九二年ベルリン大学化学教授出した ( 一〈九じ。九九年タンバク質の研究を始フィシャー Hans Fischer ( 一会一 になり、一九〇二年糖類とプリン類の合成でノめ、おもにアミノ酸の分離と合成、ポリペプチ四五 ) ドイツの有機化学者。ローザンヌ大学とて推計し、あるいはその特生に関する仮説を検 マール。フルク大学で化学と医学を学び、ミュン定する推測統計学の基礎を確立したことであ ド合成の研究をした。一九一六年に約一〇〇の ーベル化学賞を受賞した。第一次世界大戦中、 ヘン大学で医学の学位を取得。 c-L2 ・フィッシャ る。その推定論、仮説検定論は、その後、・ ポリペプチドの合成研究をまとめた。ベルリン 三人の息子のうち長男を除いて二人までを失っ ネイマン、・・。ヒアソン・ピアソンの ーの助手、ミュンヘンで生理学講師、インスプ の彼の教室に留学した日本人には鈴木梅太郎、 た ( 生き残った長男のヘルマン Hermann 9 ・ あさひなやすひこ ^ 梶雅範〉 tO Laurenz Fischer ( 天 ルク大学、ウィーン大学教授などを経て一九一一子 ) 、・ワルトらによって発展させられたが、 ー一九六 0 ) はのちに朝比奈泰彦らがいる。 一年よりミュンヘン工科大学有機化学教授。血とくに前二者との間では、推論方式に関しての 有名な有機化学者になった ) が、化学製品生産回桑田智訳『エミール・フィッシャーの自叙伝 〈高島忠〉 液や胆汁の色素、葉緑素などの研究を行い 、こ論争が有名である。 思い出より』 ( 一九六三・広川書店 ) と食糧供給委員会の長としてドイツの化学資源 の組織化に活躍し、戦後、化学教育の再編や研フィッシャー lrving Fisher ( 天六七ー一九れらがピロール環を含むポリフィリンやその類フィッシャー fisher/8Martes ミミ〒 」にゆ・つ 四七 ) アメリカの経済学者、統計学者。ニュー 縁物質であることを明らかにし、ピロール誘導哺乳綱食肉目イタチ科の動物。大形のテン 究施設の充実に努力した。 生体構成物質の構造の解明と合成が生涯にわヨーク州出身。エール大学に学び、数学、物理体の研究をして、これを基礎に関連化合物を多で、カナダとアメリカ合衆国北部の森林にす く合成した。とくに二九年には血色素のヘミンむ。体長五〇 ~ 九〇、尾長二五 ~ 五〇で、 たるフィッシャーの研究テーマであり、彼が現学を専攻し、ヨーロッパに留学後、一八九三年 代の天然物化学の基礎を確立した。最初の論文に母校の数学の助教授となったが、九五年に経の合成を完成してその構造を確定し、それによ雌はやや小さい。毛色は黒褐色で、前頭部から って三〇年ノーベル化学賞を受賞。ほかに胆汁頭頂部は淡色、腹面は濃色である。腰から腹に は、彼自身が発見したフェニルヒドラジン誘導済学の助教授にかわり、九八年以降教授 ( ~ 一九 十 - ど、は , ル 三五 ) 。計量経済学の創始者の一人でもあり、一色素ビリルビンの合成、クロロフィル ( 葉緑斑をもつものもある。習性はテンと共通であ 体に関するもので、これは彼の後の研究におい 素 ) の正しい構造式の提出などの業績がある。 るが、樹上よりも地上にいることが多く、こと て何度か中心的役割を果たすことになった。一九三二年に計量経済学会の初代会長を務めた。 に水辺でとらえられるのでフィッシャー ( 漁夫 経済分析に数学的手法を導入することによ第二次世界大戦末期に自殺した。〈梶雅範〉 八七八年までにフェニルヒドラジンそのものを の意 ) とよばれたが、実際の食物は八〇 % まで 合成し構造式を確立、八四年にはカルポニル基り、近代経済理論の開拓者の地位を占めるが、フィッシャー Edwin Fischer ( 一、 」形哺乳類、とくにリス類であり、ほゝにはト に対する試薬としてのフェニルヒドラジンの有とくに貨幣理論に優れた業績を残し、物価問題一九六 0 ) スイスのピアノ奏者。生地バーゼルの 鳥、昆虫、果実などで、魚はほとんど食べな 用性 ( 結晶性のヒドラゾンの生成 ) を発見、との分析および対策について実践的貢献をし、大音楽院で学んだのちベルリンに留学、 い。ただし、水泳は巧みである。日中は岩陰や らロマン派に至るドイツ音楽をレバートリーと 、糖類ではカルポニル基に隣接する水酸基恐慌時の一九三〇年代には大統領のプレーンに 朽ち木の洞にいて、夜に活動する。三 ~ 五月ご 加わり、ニューディール政策の立案にも関与して独奏活動に入る。一九二六年リューベック とも反応して結晶性のオサゾンを生成するた ハ協会のろ交尾するが、胎児の着床は翌年の一 ~ 三月ま 音楽協会の、二八年ミュンヘン・ した。彼の業績のうち、『貨幣の購買力』ご 2 め、後の彼の糖類の構造研究上不可欠の試薬と 指揮者になって指揮活動も始め、ベルリンにフで遅れ、出産まで約一年を要する。毛皮はアメ なった。フィッシャーの学位論文は色素と染料 P ミ c ぎ 3 P ミ戔ミミ 0 ( 一九二 ) のなか リカテンよりも劣るが、かなり高価で、カナダ ィッシャー室内管弦楽団を組織、ヨーロッパ各 の化学に関するものであったが、これを拡張しで展開された貨幣数量説は、フィッシャーの交 では年間一万枚程度取引されている。アメリカ て、従弟のオットー 9 ( 0 Phillip Fischer ( 天換方程式としてとくに有名である。また、『物地に演奏旅行をして名声を高めた。三一年・ シュナーベルの後任としてベルリン音楽大学教合衆国ではかってはより南部まで分布していた ー一九三一 l) とともにローズアニリン系色素の構価指数の作成』 The ミぎ d ~ き・ が、現在では北部の限られた地域にしか生息し 造を研究し、これらがトリフェニルメタン誘導 ~ ) ( 一九一一 = ) においてなされた物価指数に関す授となる。四二年スイスに帰国、ルツェルン音 〈朝日稔〉 る研究では、今日でも「フィッシャーの理想算楽祭の主要メンバーとして活動した。豊かな情 体であることを明らかにした。フィッシャー 感と確固たる構成力の結び付いた独特のバッ フィッンヤー指数ーーしすう Fisher in ・ は、八一年尿酸とその誘導体の研究を始め、一式」として知られている指数公式が示されてい 〈高島忠〉 モーツアルトを聞かせた。チューリヒに dex number 指数算式の一つで、ラスパイ 九一四年のヌクレオチドの最初の合成に至るまる。↓フィッシャー指数 〈岩井宏之〉 レス指数とバーシェ指数の幾何平均 ( 両者の積 でに、わずかな先行研究しかなかったプリン類フィッシャー Franz Fischer ( 天七七ー の平方根 ) で算出される指数。「フィッシャー の化学をほとんど独力で開拓した。一九〇〇年一九四七 ) ドイツの化学技術者。ミュンヘン、ギフィッシャー Ronald AYlmer Fisher の理想算式」 Fisher ideal formula ともよば ーセン、 バリ、ライブツイヒで電気化学を学び ( 天九 0 ー一九六一 l) イギリスの統計学者。ロンドン までに、プリン類の母体たるプリン ( フィッシ れる。これは、—・ フィッシャーがその著書 の郊外に生まれる。ケンプリッジ大学で学び、 ャーの命名 ) をはじめ、約一三〇の誘導体の構一九〇四年よりベルリンの化学研究所に勤め、 造決定と合成を行っている。生化学上重要なも一一年よりシャルロッテンプルク工業大学の電数学および物理学 ( とくに統計力学、量子論 ) 『物価指数の作成』 The Maki 、守斗暑 ~ ~ ミ・ ~ ) (一九 llll) のなかで指数論を展開したとき、 のの多いプリン類は、ドイツの製薬界からも注気化学教授、加圧下での電気化学反応の研究でを専攻。卒業後、会社勤務、学校教師を経て、 ロンドン郊外のロザムステッド農事試験場に統「要素逆転のテスト」に適合するため理想的な 目されて、薬理作用をもついくつかのプリン誘著名となる。一四年にカイザー・ウイルヘルム
ール地方の沖に浮かぶ諸島。砂質で低 つれた救援金はすべて送り返した。一五年に九一一狭しと建ち並ぶ。趣向を凝らした屋外レストラ ンや土産物屋の数も多く、毎日各地から集まる平な、一一つの主要島と多くの小島から 圷か歳で没。その自然観察の方法と態度はその後の あ生物学に多大な影響を与えた。終生 0 ・・ダ観光客であふれている。一九三四年、ロサンゼなる。サウジアラビア領。大航海時代 ナ ターウインは ーウインの進化論に反対したが : ルス近郊の農民が当時の恐慌への対策としてこ 以降、海上交通の拠点として注目を浴 シ ファーブルを「たぐいまれな観察者」とよんでのマーケットを開いた。 〈作野和世〉び、二〇世紀に入ると、石油探査の対 称賛した。↓昆虫記 〈末尾至行〉 〈八杉貞雄〉ファャンス Kasimir Fajans ( 一犬七ー一九象となった。 回・・ファープル著、山田吉彦・林達夫訳七五 ) ポーランド生まれのアメリカの化学者。ファラスタク aI-Farazdaq ンギ 『昆虫記』全二〇巻 ( 岩波文庫 ) ▽同著、日 ライブツイヒ等の大学に学んだのち、カールス ー七三三ころ ) アラ。フの詩人。イラ ロ 高敏隆・林瑞枝訳『ファーブル植物記』 ( 一九 ルーエ工科大学 ( 一九一一 ~ 一七 ) を経て、一九一七クのバスラに生まれ、他人を風刺・非 会・平凡社 ) ▽ルグロ著、平岡昇他訳『フ年ミュンヘン大学助教授、二五年教授。三四年難する詩を多くつくったため幾度とな ラト アープル伝』 ( 一九六 0 ・白水社 ) ナチスに追われて渡米、三六年ミシガン大学教 く追放され、不仲のうちに離婚せざる フポ ファープル les Fables フランスの詩人授となった。四二年帰化。放射性元素の研究ををえなくなったことを後悔して有名な ぐうわ ラ・フォンテーヌの『寓話集』。三部、一二書進め、一九一三年ウランの日崩壊で生成する詩をつくっているが、ここから「ファラズダク〇月にデービーの秘書兼助手として二年間のヨ からなり、一六六八、七八、九四年発表。主と短寿命のウラン & (234mPa) を発見。またソデ の後悔」という格言が生まれた。同時代のジャ ーロッパ旅行に同行。一五年帰国、ふたたび王 してイソップの動物寓話を美しいフランス語に イとは独立に放射性元素の変位法則を定式化し リールとは、生涯を通じて詩作による闘いを展立研究所の実験室助手、二五年実験室主任、三 移し換えたもので、ほかに自作の詩や、コント た。このほか、結合エネルギーの研究、結晶に開し、アフタルを加えてウマイヤ朝三大詩人に 三年化学教授となった。二四年王立協会会員に や、哲学談義を述べた詩もある。第二集には、 おけるイオンのひずみ ( 分極 ) の考え、吸着指数えられる。 〈内記良一〉選ばれた。三七年間王立研究所の屋根裏部屋で インドの寓話作家ピルペイ Pilpay の寓話の改示薬を用いた沈殿滴定法 ( ファャンス法 ) の研ファラースレーベン 0 ホフマン・フォ過ごしたが、五八年女王に提供されたハンプト 〈内田正夫〉 作も加わって、もっとも力が充実した詩が多究などがある。 ン・ファレルスレーベン ン・コートの邸宅に移り、六七年八月二五日、 全体はイソップ寓話と同じ処世哲学の教訓ファーラー Geraldine Farrar ( 天 七六歳の生涯を閉じた。 ファ一フダ Hans Fallada ( 天九三 一九六七 ) アメリカのソプラノ歌手。ニューヨー ドイツの小説家。本名 Rudolf Ditzen 。ワイ の詩がおもであるが、詩人は寓話詩のなかで、 〔化学研究〕ファラデーは、王立研究所に持ち どんよく 貪欲、エゴイズムなど人間の生来の悪癖を指摘ク、バリなどで学んだのちベルリンでリリ・レ マール共和国末期の小市民のよるべなさを描い 込まれる工業上の諸問題、おもに化学的研究に したり、ルイ一四世の宮廷や世相を風刺したり ーマンに師事、同地で一九〇一年にデビュー た長編『細民よ、どうする』 (一九 lllll) で、一躍デービーの助手として取り組んだ。一 八一六年 している。彼はむしろ短い詩のなかで、人生に 以後レーマンの後援でベルリンとザルツブルク。へストセラ ] 作家となった。ナチス時代も国内トスカナの生石灰を分析して処女論文を書き、 ついての自由な談義を楽しんでいる。その自然音楽祭で活躍。また一九〇五 ~ 〇六年、マスカ にとどまり、『一度くさいメシを食ったものは』 一九年から五年間鉄の合金を研究した。一一三年 かんべき おおかみ いおう で清澄な詩句は完璧な詩の技巧の作品であると ーニ、サン・サーンスなどの作品の世界初演で ( 一九三四 ) 、『狼どものなかの狼』 ( 一九三七 ) など、塩素ガスの液化に成功、ついで二酸化硫黄、二 いえる。 〈河合亨〉歌った。〇六年、ニューヨークのメトロポリタ 消極的な抵抗の姿勢を込めた佳作を相次いで発酸化窒素、アンモニアなどを次々に液化。二五 回市原豊太訳『ラ・フォンテーヌ寓話』全二巻ン歌劇場に初登場、二〇年に舞台から退くまで表したが、ついにアルコール中毒にかかり、矯年ガスポンべの底にたまる物質中にべンゼンを ちょうちょう ( 一九五一・白水社 ) 同歌劇場のプリマドンナとして活躍、『蝶々夫正施設に入れられた。敗戦後、死の直前に完成発見、炭素と水素からなることを示した。この ころ、・ した『だれもがひとりで死んでいく』 ( 一九四七 ) ーシェルらと光学ガラスの改良を フアマグスタ Famagusta キプロス東人』の同歌劇場初演などにも加わった。透明な ぎせつ 部、フアマグスタ湾に臨む港湾都市。ギリシア声、比類ないフレーズづくりの妙によって、当は、ナチス支配に対する孤独な抵抗とその挫折手がけ、重ガラスをつくったが、改良そのもの 名ではアモコストス Ammökhostos 、トルコ代第一級のリリック・ソプラノとされた。またを感動的に描いている。 〈池田浩士〉 には失敗。このガラスはのちに反磁性の研究に び - フ 美貔と容姿に恵まれ、無声映画時代のハリウッ 使われた。 名ではマゴサ Magosa 、マウサ MaÉusa とい ファ一フデー Michael Faraday ( 一七九一ー 〈美山良夫〉一会七 ) イギリスの化学者、物理学者。九月二 う。人口三万九五〇〇 ( 一九公 l) 。一九七四年のドのスターでもあった。 〔電磁気学研究〕一八二〇年エールステッドは 二日、鍛冶職人の子としてロンドン郊外のニュ電流の磁気作用を発見し、アンペールは電気磁 トルコ軍侵攻後その支配下に入り、現在もトルファラオ pharaoh 古代エジプトの王の ーイントン・ こと。古代エジプト語のベルオ Per-o に由来 コ系住民の支配圏下にある。かってはキプロス バツツで生まれる。読み書きと算気の相互作用に関して「アンペールの法則」を 最大の貿易港で海水浴場としても有名であっするギリシア語。ベルオはもとは大いなる館す術を習っただけで、一八〇四年書店兼製本業の定式化しつつあった。この分野が静電気・磁気 た。トルコのメルシン、シリアのラタキアとのなわち王宮をさすことばであったが、第一八王店に徒弟奉公した。製本に回される科学の本に 学から電気と磁気の相互作用を研究する電磁気 間にフェリーの便がある。一四世紀に建造され朝のトウトメス三世が王をさすことばとして用興味をもち、本に書かれている実験を試したり学へと大きく飛躍しようとしていた時代にファ たサン・ニコラス寺院 ( 現ムスタフアパシャ・ いて以来、それが習慣化した。トウトメス三世した。一〇年から町の科学協会に出席、一二 ラデーは電磁気学研究に手を染めた。一一一年電 モスク ) は、シェークスピアの悲劇『オセロ』 以前の王、したがって古王国時代の王も今日で年、王立研究所所員で店の客の計らいでデービ磁気回転の実験に成功、電気と磁気の相互作用 はこの用語でよぶ。王は五つの称号をもってい の物語の舞台とみなされている。〈末尾至行〉 ーの公開講座を聞き、自然科学の仕事につきたを確信したファラデーは、電流の磁気作用の いと強く願うようになった。この年、年季の明逆、つまり磁気から電流が生じるかどうかの問 ファーマーズ・マーケット Farmer's て、そのなかの個人に関係する二つの称号 ( 即 だえん Market アメリカ合衆国、カリフォルニア位名、誕生名 ) はカルトウシュ ( 楕円形の枠 ) けたファラデーは、製本職人として別の店に勤題に取り組んだ。定常電流が磁気を生じること 〈酒井傳六〉めたが、、、 テービーにその講演を丹念にまとめた 州、ロサンゼルス市ダウンタウンの西にある大の中に記された。 から、導線の近くに磁石を置くことで定常電流 しよとう Jazä'ir Fa- ノートを添えて職を求める手紙を送った。一三が得られると考え、二四年、電流を通した導線 規模なマーケット。南カリフォルニアで収穫さファラサン諸島 れる新鮮で安価な野菜や果物を売る店がところ rasän 紅海南部の東側、アラビア半島のアシ年三月王立研究所の実験室助手に採用され、一近くに強力な磁石を置き、回転中の離れた所に ( 六四一こ ー一九四七 )
二極真空管の特許取得、〇六年アンテナの指向 あナンにある世界有数のダイヤモンド鉱山。首都フレミング w 巴 ( 。「 Fleming ( 一翁一一ー プレトリアの北方約三五キ。に位置する。一九〇 0 五 ) ドイツの細胞学者。ザクセンベルクに生性の理論づけを行うなど無線電信の実用化に貢 れ二年創業。正マグマ鉱床で、ダイヤモンドを含まれる。ゲ「ティンゲン大学、チービンゲン献した。エジソン効果を思い出して開発したと いわれる二極真空管の開発は、高周波交流の検 、ふむ母岩は、橄欖岩や蛇紋岩を含むキンバーライ大学およびベルリン大学に学び学位を受け、プ ラハ大学やキール大学の教授を歴任。細胞分波を可能にしただけにとどまらず、今日の電子 トとよばれる淡緑色の岩石で、直径数十ないし 数百の立型パイプ状をなしている。立坑によ裂、とくに両生類細胞を材料として有糸核分裂工学への第一歩を切り開いた。三〇年からはテ について詳細な研究をなし、細胞遺伝学の基礎レビジョン学会の会長として活躍、四五年四月 る坑内掘りで、日産粗鉱量約一万九〇〇〇ト一 一八日死去。↓フレミングの法則〈高橋智子〉 重液選鉱してダイヤモンドを回収する。一九〇を築いた。動物染色体を研究するためにオスミ ック酸を含む特有の固定液を開発した。これはフレミング Si1 、 Alexander Fleming 五年、世界最大のダイヤモンド「カリナン」 事 - 冖」ゅ ) っ ー一九五五 ) イギリスの細菌学者。ペニシリ 「フレミング氏固定液」とよばれ、往時の哺乳 ( 一分 ( 三〇二五カラット ) を採掘したことでも知ら 〈房村信雄〉類、鳥類、両生類などの染色体研究のための固ンの発見で知られる。スコットランドで八月六 れる。 日に生まれる。小学校卒業後、ロンドンの工芸 プレミアム premium 額面や契約金額以定液として多くの細胞遺伝学者によって愛用さ 上に払う割増金で、打ち歩ともいう。券面額以れた。またフレミングの三重染色法など、細胞学校に進んだが、のちセントメリー病院医学校 形態学や細胞遺伝学研究上のいくつかの方法もで教育を受け、一九〇八年にロンドン大学で学 上で証券を発行すれば、プレミアム付き発行ま グ ン 〈吉田俊秀〉位を取得した。セントメリー病院ではワクチン たは打ち歩発行という。株式の時価発行はその考案している。 レ 一例である。株価が額面を上回っているとき、フレミング Si1 、 J0hn Ambrose Fleming 研究所で、オプソニン説で有名な免疫学者ライ ー一九四七 ) ( 天四九ー一九四五 ) イギリスの電気工学者、一一極真トと mroth Edward Wright ( 一会一 その差額をプレミアムという。商品やサービス の助手になり研究に従事した。第一次世界大戦 の購入を誘引するため、購買に付随して経済上空管の発明者。牧師の子としてランカスターに レミングは、この物質の化学的処理については 中はライトとともに創傷感染に関する研究を行 の利益を提供するような販売政策を、プレミア生まれる。一八七〇年ロンドン大学を卒業し、 った。二八年にロンドン大学教授となり、ペ一一十分なことができず、治療用の広範な応用には ム政策という。景品付き販売はその一例であ一時商社に勤めた。マクスウエルの『電磁気 シリンを発見し、ライトの死後四四年にライ至らなかった。 〈森本三男〉 る。↓打ち歩 カビの大量培養と、培養液からのペニシリン ト・フレミング微生物研究所長となり、同年ナ フレ、、、ング paul Fleming ( 一六 0 九ー四 0 ) の精製が可能になったのは、フレミングの発見 へニシリンの研究によっ イトの称号を受けた。。 サクセン出身。遠隔の地へのあ ドイツの詩人。・ てフローリー チェインとともに四五年ノーベ後一二年を経てからであって、フローリーとチ 三四 ) および こがれに誘われ、モスクワ ( 一六三三 ~ ェインとによる。ペニシリンの発見は、その後 ル生理学医学賞を受けた。ロンドンの自宅で心 グ ベルシア ( 一六三六 ~ 三九 ) への遠征使節団の一員と ン のストレプトマイシンなどの多くの抗生物質発 臓発作のため五五年五月一一日死去。 なる。オーピッツの影響から出発したが、バロ レ 細菌による感染症の対策に革命的な変革をも見の端緒となった歴史的な事件である。主論文 ック詩特有の超個人的形式性、思想性、大げさ フ ト , に「ペニシリウム培養の抗菌作用について」 たらす端緒となったペニシリンが実際に医療上 な形象はみられず、生活と作品を統一する詩人 に使用され始めるのは第二次世界大戦中のこと ( 一九一一九 ) がある。↓ペニシリン〈宇佐美正一郎〉 の自意識から生まれた素朴な心にしみ入る叙情 性は、ギュンターやゲーテの体験詩につながっ学』に感銘し、七七年奨学金を得てケンブリツであるが、この物質の発見の源泉をたどると、フレミング lan Fleming ( 一〈 0 〈 〈小泉進〉 ジ大学に入学、キャベンディッシュ研究所のマ第一次大戦のときにフレミングが創傷の問題、イギリスのスパイ冒険小説作家、ジャーナリス てゆく。 ト。陸軍士官学校に学び、外交官を志したが試 とくにその消毒法に関心をもつようになったこ クスウエルの下で学んだ。ここで標準抵抗値と フレ、、、ング Si1 、 Sandford Fleming ( 天 とにさかのばる。戦後も彼は継続して、正常な験に落第、一九三九年には海軍予備隊に志願 = 七ー一九一五 ) カナダの土木技術者、政治評論家。精密比較するための抵抗ブリッジ、通称「フレ 組織には無害な抗菌剤の探究に専念した。一九し、第二次世界大戦中は海軍情報部に関係し ミングのバンジョー」を組み立てるなど電気測 スコットランドのカークカルディ生まれ。一 ー英雄 0 0 7 ことジェームズ・ポン 二一年にリゾチームを発見しているが、この物た。スー 四五年カナダへ移住。六四年ノバ・スコシア国定や変圧器の設計に取り組んだ。八〇年ロンド ド James Bond を創作したが、最初の登場作 有鉄道技師。六七年自治領カナダが成立するやン大学で博士号を取得、八五年同大学最初の電質の殺菌作用は強くない。その後二九年にブド 品は『カジノ・ロワイヤル』 ( 一九五三 ) で、その ウ球菌を培養しているときに、空気に数日間さ 同政府の主任技師として八〇年まで勤め、その気工学教授となり、一九二六年まで在籍した。 きん らしたためにカビが生えた培養基で、カビの菌後『ダイヤモンドは永遠に』 ( 一九五六 ) 、『ロシア 間の六七 ~ 七六年インター・コロニアル鉄道、大学では発展しつつある電気技術の基礎をわか そう ・ノオ』 七一 ~ 八〇年カナダ太平洋鉄道の建設に貢献すりやすく教えることに苦心し、「フレミングの叢の周囲の寒天が透明で。フドウ球菌が生育してから愛をこめて』 ( 一九五七 ) 、『ドクター いないことをみいだし、カビの出す代謝産物が ( 一九五 0 などを発表、とくに六三年に『ドクタ るなど、カナダにおける鉄道建設の基礎を築法則」を考案した。 ・ノオ』が映画化されて大評判をとり、続々 細菌の生育を阻止していることに気がついた。 八一年から 実地の技術にも関心が深く、 八〇年カナダ太平洋鉄道の民間への委譲に と映画化されて爆発的人気をよんだ。 7 は 伴い一線を退く。その後、大英帝国の電信の国一〇年間ロンドンのエジソン電灯会社の技術顧このカビは青カビ ( ペニシリウム ) であることが イギリス情報部のスパイ暗号名で、上の二つの 問を務め、イギリスにおける電灯と電話の開拓同定され、カビの出す有効物質を彼はペニシリ 有システムの確立、世界の時間制の統一などを 提唱。一九〇二年カナダーオーストラリア間の者の一人になった。また一九〇〇年から二五年ンと命名した。この物質は人畜には毒性をもたゼロは任務のために殺人も許されていることを 間マルコーニ無線電信会社の技術顧問を務め、す、多くの有害菌に対して成長抑制作用がある示し、事実、一作品のなかで最低三人は殺して 太平洋海底ケー。フル開通に参画したほか、数々 いるといわれる。ハンサムで無類のタフガイ。 ことがわかり、論文として二九年に発表した。 の政策を提言した。ノバ・スコシアのハリファ〇一年大西洋横断通信のニューファンドランド 〈高橋裕〉受信局の設計、〇四年「振動バルプ」すなわちこれがペニシリン発見の経緯である。しかしフ賭博が好きで、食事や酒にうるさく、女性に弱 ックスにて没。 0 740
とになった。「ニュートンの原則、マイヤーの ミー、大学の研究室から、しだいに国家や企業音響学、気象電気学、雲物理学および大気放射物理検層ぶつりけんそう geophysical 一 og ・ が設けた研究所へと移っていき、またノーベルや日射に対する研究分野が含まれる。なおここ ging 物理探査の種々の探査法を試錐孔や坑 法則、ラボアジェの法則、カルノーの法則な ひん には、大気の運動を流体力学の立場から研究す井において実施し、深度に対応して連続的に物 ど、すべての古い物理学の法則が崩壊に瀕し、賞やソルべー会議にみられるように、一国の規 数学的物理学の危機が到来した」 ( ボアンカ模から国際的な規模へと拡大し始める。物理学る気象力学は通例として含まれない。以上の分理現象を測定し、この測定結果を解析し、さら にこの解析結果を用いて所要の物理定数に翻訳 レ ) 。こうした危機感から思想的混乱が生まれ、と産業の結合はきわめて緊密になり、そこへ政野の特徴点をあげると次のとおりである。 ①気象光学大気中の光や色の現象について研して、地層の状態および性質を解釈評価する探 物理学者たちは、あるいは信用できるものは事治の影が色濃く落ちる時代となったのである。 こじしんきろう 実だけであるとして理論への不信へ向かい、あ〔物理学の多角化と社会化〕量子力学の形成究する学問で、青空、、光冠、虹、蜃気楼な査法。試錐孔とは地下構造の探査を目的とした あな ポーリングの孔、坑井とは探査と地下の流体鉱 るいは「物質は消滅した」と物質の否定へも向後、まもなく物理学はさらに新しい段階に入っどの光学現象を研究の対象とする。 ②気象音響学大気中の音と気象との関係を研物の採取を目的とした井戸で、これらを用いて かう。実証主義、経験主義が流行し、また「科 た。一九三二年を一つの境として原子核の領域 究する学問で、雷鳴のような自然界の音の研実施する物理検層は、地表で実施する物理探査 学は客観的な自然をうっし出すものではなく、 が開発され、原子の領域とはまたさらに異なっ でんば に比べて測定精度は高く、利用する物理現象は 人間の意識の産物にすぎない」とか「科学の役た原子核、素粒子の世界が開かれたからであ究、火山爆発のときの音の異常伝播などのよう な音の伝わり方と気象との関係の研究などがあ同一でも、検層用に種々改良が加えられてお 割は経験を忠実に記述することにあり、自然のる。高電圧、高真空の実現から高エネルギー領 り、自然電位検層、比抵抗検層、電磁 本質を説明することではない」というような主域へ物理学は踏み込み、陽電子・中性子の発る。公害の一つである騒音の伝わり方も研究対 検層、放射能検層、中性子検層、密度検層、速 象の一つである。 張も述べられる。 見、原子核の人工転換、人工放射能、核反応・ ③気象電気学大気中におこる電気現象を研究度検層、検層、反射検層、地層傾斜・方位 しかし物理学の進歩は、このような思想的な核分裂とその進歩は著しい 測定などがある。測定は、試錐孔や坑井に挿入 時代は第一一次世界大戦の前夜となり、ファシする分野で、雷の研究、大気の電気伝導率、イ 混乱にもかかわらず、一歩一歩事実を明らかに ばつ、う された検層ケープルをウインチで操作し、測定 し、事実によって自然を解明していった。めまズムの勃興と科学の軍事化の傾向、ナチスによオンなどの研究がある。 結果は検層記録装置によって記録し、目的に応 ④雲物理学雲の発生、雲の中で雨や雪などが ぐるしい変革の過程を通じて、誤った解釈や主るユダヤ人科学者の追放と亡命科学者の輩出、 できる過程を研究する分野。比較的新しく一九じて所要の物理定数により地層の状態および性 観的な傾向はだんだんに克服されて、物質の学そしてアメリカの物理学の発展へと推移する。 原爆の使用という不幸な形で終わった第二次四〇年代から急速に発展した。水蒸気が凝結し質を柱状図で表現する。物理検層の結果は、地 としての物理学が確立されていったのである。 わいきよく このような物理学の変革の契機は、産業の進大戦後も、軍事的な歪曲の形態は変わらず引て雲や霧の水粒ができる仕組み、水粒の過冷却層の識別、岩石の性質、鉱物の判別、流体鉱物 の定量的評価などに利用されている。↓物理探 き継がれた。実験装置の巨大化、研究経費の膨現象、水蒸気が昇華して氷晶ができる仕組み、 歩に伴う技術の開発であった。 ひょう 〈吉住永三郎〉 一九世紀もなかばを過ぎるころから、それま大化、そして物理学研究の組織化の進展という水粒や氷晶が成長して雨滴や雪片、雹などがで査 ぶつりたんさ ぶつりたんこう 0 物理探査 きる仕組みなどの研究がある。従来は主として物理探鉱 でのイギリスの優位はしだいに揺らぎ、産業の事情がそれを裏打ちするものとなり、一方では 進歩は全ヨーロッパに拡大する。とりわけ国民物理学と国家や社会との関係をいっそう強固な雲粒一個一個を対象とする研究がなされてきた物理探査ぶつりたんさ geophysical ex 三 0 ・ 的統一を達成したドイツでは製鉄、製鋼、金属、ものにしてゆく。自然科学の社会的責任が問わが、最近はレーダーによる観測、航空機による ratiom geophysical prospecting 地下構造 さらに電気工業が発達し、化学工業とあわせてれながらも、ひずみはいっそう増大する傾向を観測などのほか、電子計算機による雲の発達過と直接または間接に関連して、人工的にまたは 自然に発生する物理現象を地表および地中にお もちつつ今日の巨大科学への道がたどられてく 程のモデル計算などが行われるようになった。 近代的な工業国家が成立した。科学と産業の結 いて測定し、この測定結果を解析し、この解析 び付きの重要性の認識のうえに建設された国立る。この間、固体物理をはじめ生命物理、宇宙なお人工降雨に用いられる種まき法は雲物理学 結果を用いて所要の物理定数に翻訳して地下構 の成果を実用化したものである。 理工学研究所を舞台に、量子の発見につながる物理など物理学はますますその前線を拡大し、 ⑤大気放射や日射大気放射は大気中の水蒸造を解釈評価する探査法。試錐孔や坑道によっ 熱輻射研究など、新しい物理学の幕開きが演じ多様化と専門的な分化の過程を歩みつつ、一方 られるのもけっして偶然ではない。そして一方では社会との関連の度合いを強め、今日では政気、炭酸ガス、オゾンのような分子や雲のようて地下構造の資料を直接採取する探査法に比べ な水滴が出す赤外線、および地面、海面などのて、物理探査は、地下構造の資料を、探査に用 のイギリスでは・・トムソン、ついでラザ治や軍事とも直結する様相を深めてきている。 いる物理定数を介して間接的に取得する点で根 未来の物理学の歴史が人間の歴史をより豊か出す赤外線をいう。大気中の主成分である窒素 フォードを所長とするキャベンディッシュ研究 や酸素は赤外線を放射しない。日射はいうまで本的に相違する。 所が実験物理学のメッカとして次々に原子の世にする道はどこに求められるものであろうか。 物理探査は日本では一九二〇年 ( 大正九 ) ご もなく太陽の放射である。 物理学史の課題はその展望に資することでなけ 界を暴き出すのである。 〈藤村淳〉 大気放射や日射の熱エネルギーは気象現象のろに当初鉱床の探査に用いられたもので物理探 理論面では新しい物理学の論理が相対論と量ればならない。 子論によって打ち出された。それらは古典物理回朝永振一郎著『物理学とは何だろうか』上下原動力の役割をしている。全地球的にみると日鉱といわれていたが、最近では探査対象が鉱床 射として受ける熱と大気放射として失う熱とはのみでなく一般の地下構造の状態および性質の ( 岩波新書 ) ▽同著『物理の歴史』 ( 一九吾一・ 学の諸概念を打ち壊し、新たな物理学の形式と 毎日新聞社 ) ▽広重徹著『物理学史』等しく、地球は全体として高温にもならず低温解明に向けられるなど多様化したために、物理 描像を導入した。時空の相互関連、質量エネル にもならない。しかし細かくみると、緯度三 八探鉱を含めて物理探査が一般的に用いられるよ 九六〈・培風館 ) ▽同著『近代物理学史』 ギー、物理量の同時観測可能性の問題、粒子と うになっている。もちろん、鉱床の探査では物 ( 一九〈 0 ・地人書館 ) ▽カジョリ著、武谷三男度あたりを境にして南では日射のほうが多く、 波動の二重性など、世人を驚かせるに十分なそ 北では大気放射のほうが多い。このために大気理探鉱という場合も多い 他訳『物理学の歴史』 ( 一九六五・東京図書 ) ▽ の内容は、「嵐のような進展」と相まって、ア 物理探査は、表 1 に示すように探査に利用す 『天野清選集』 12 ( 一九哭・日本科学社 ) や海洋の大循環が生じて南から北へ熱が運ばれ オインシュタインやプランクのような人々すらの いいかえれば、日射や大気放射が原動力とる物理現象により種々の方法があり、探査を適 り・ちには理解に苦しむものとなり、認識論的論争物理気象学ぶつりきしようがく physical る。 なって大気や海洋の運動がおこるわけである。用する対象も種々の分野にわたっている。ま つの主題ともなる。 meteorology 個々の気象現象を物理学の対 〈大田正次〉た、探査を実施する場所も地表、地中、空中、引 ↓気象学 か物理学研究の主流はそれそれの学会やアカデ象として扱う気象学の一部門。気象光学、気象
〈木畑洋一〉 まな問題点も指摘されている。 全・早稲田大学出版部 ) ▽山田浩編『新訂炻 キに気づいた広島・長崎の教師、なかでも被爆教平和共存〈いわきようぞん peaceful coex ・ 平和学講義』 ( 一九会・勁草書房 ) うらかみ わ師たちは一九六〇年代末に平和教育の再建に取グ。 = 。。社会主義・資本主義という異なる社平和研究〈」わけんき。う「。胃。「「。 = り組み、原爆体験を戦無派世代に伝えることを会体制をとる国が、軍事的な対立に至ることな紛争 ( 戦争 ) の原因と平和の条件を科学的に究平和公園へいわこうえん長崎県長崎市浦上 おか まつやま 明し、人類社会の変容過程を創造的にデザイン地区の中心部にある公園。松山町、平野町、岡 平和的に共存している状態、またそのよう 目的とする「原爆教育」を発展させた。『ひろく、 へ な状態が可能であることを説き、その実現を図する学問であり、平和学 peace science とも町にまたがる公園。松山町の公園は俗に原爆公 しま』『ナガサキの原爆読本』『明日に生きる』 よばれる。 園とよばれ、公園の一隅に「原子爆弾落下中心 る理論・運動・政策。 など小・中・高校生用の副読本の平和教材を自 くろみかげ 平和研究は、核の出現と冷戦の高進によって地之標」の黒御影の石柱がある。この爆心地か 平和共存の考え方の芽は、ロシア革命後の 主編成し、また映画、スライド、写真、漫画な ら半径二キ。の浦上地区はまったくの焦土と化し レーニンの思想のなかにみいだすことができ人類が生か死かという人類絶滅の危機に直面し ど多様な視聴覚平和教材を創造した。 た一九五〇年代後半、「人類生存の科学」とし た。園内に移された浦上天主堂の遺壁や天使の る。たとえば一九二二年にソビエト・ロシアが 一九七〇年代は平和教育の発展期であり、 像は、これを物語っている。平野町の国際文化 ドイツと結んだラバロ条約は、今日のソ連におて欧米で誕生した。それは当初「消極的平和」 「広島平和教育研究所」の設立 ( 一九七一 I) をはじ いて、平和共存政策の嚆矢として位置づけられ negative peace つまり戦争 ( 直接的ないし行会館には、この世の終わりを思わせる悲惨な原 め、全国平和教育シンポジウムの開催 ( 一九七三 爆資料が展示され、岡町にある平和祈念像 ( 北 ~ ) 、民間教育研究団体「日本平和教育研究協ている。しかし、第二次世界大戦中の西側諸国動的暴力 ) の回避・不在の研究を主にしてい 議会」 ( 日平研 ) の発足 ( 一九七四 ) 、日教組の全国との協力期間を除いて、その後のソ連は資本主た。しかし六〇年代に入り、南北問題の登場と村西望作、一九五五 ) は、右手は天にさして原爆の ともに平和研究もその対象領域を拡大し、ガル脅威を一小し、左手は水平に伸ばし永遠の平和を 教育研究集会における平和教育分科会の独立な義体制への危機到来を予測し続けるとともに、 トウングの提起した構造的暴力 structural 願っている。八月九日原爆記念日のころには、 ど、体制づくりが進められた。また七〇年代な両体制間の衝突を不可避と考えていたため、平 きようちくとう この公園付近は夾竹桃の花が真っ赤に燃える violence の問題を包摂することになった。社 かばから中・高校生を中心に広島・長崎への修和共存の理論・政策が本格的な展開をみること 〈石井泰義〉 はなかった。四六年に経済学者バルガが、資本会構造そのもののなかにビルト・インされた貧ように咲く。 学旅行が急増し、若い世代への原爆体験継承に 大きな役割を果たしている。さらに広島を中心主義経済への重大な危機の到来は少なくとも一困、飢餓、政治的抑圧、疎外などの研究を指向囮二万五千分の一地形図「長崎西北部」 しゅうおんらい し、人権や正義の達成された人類社会の統合と平和五原則へいわごげんそく中国の周恩来 に大学および幼児教育への平和教育の導入が試〇年間はないとしつつ、両体制間の戦争はもは や不可避ではないと述べて、平和共存論的考え調和を目ざす「人間性実現の科学」を目標とす首相とインドのネルー首相との間で、一九五四 みられている。 一九七〇年代はまた、学校教育の枠を超えてを明らかにした際には、「改良主義者」としてるようになった。ひとことでいえば「積極的平年六月に発表された共同声明のなかで合意した 和」 positive peace の研究である。とはいえ、次の五原則をいう。①領土・主権の相互尊重、 多くの市民層が平和教育運動に参加した。東京激しい非難を浴びた。 ところが事実資本主義体制が存続し、他方核近年米ソの限定核戦争構想の展開は、平和研究②相互不可侵、③相互内政不干渉、④平等互 大空襲を記録する運動をはじめ、各地の戦災史 恵、⑤平和共存である。 の掘り起こし、第五福竜丸保存運動、祖国復帰戦争の脅威が増してくるなかで、ソ連では一九の焦点をふたたび戦争の問題に回帰させてい これより先、同年四月に、中印双方は北京で 運動と結び付いた沖縄の平和教育運動、そして五三年のスターリンの死後、平和共存の考え方る。平和や暴力の概念の多義性のゆえに、平和 一連の平和教育映画の製作と上映運動など広範が有力になっていき、五六年のソ連共産党二〇研究の課題は多様である。紛争と紛争の解決、「中印両国の中国チベット地方とインドの間の な市民層による平和教育運動が発展した。さら回大会以降、フルシチョフのもとで外交政策の代替安全保障 alternative security 、発展と社通商、交通に関する協定」を結び、その前文に 上記の五原則が明記され、この際、インドはチ 会正義、世界秩序、などがそれである。 に原爆体験と原爆教育を世界に伝える活動も盛基本路線として定着していった。一方、アジ このように平和研究は、平和を目標価値とすべットにもっていた特殊権益を放棄した。イン んとなり、国際的平和教育会議、「被爆ア・アフリカ諸国の間では、冷戦状況の深刻化 につれて、平和維持のために両体制間の共存をる実践的、政策学的な応用科学である。その研ド側は平和五原則をパーンチ・シーラ Panch 問題国際シンポジウム」 ( 一九七七 ) や国連本部で しゅうおんらい の「ヒロシマ・ナガサキ原爆写真展」 ( 一九七 0 、望む声が高まり、五四年六月に中国の周恩来究方法はきわめて学際的であり、単に社会科学 Shila とよび、中印両国首相はこの原則が両国 とアジアおよび世界の他の国家との関係にも適 写真集『広島・長崎ー原子爆弾の記録』 ( 一九七 0 首相とインドのネルー首相が発表した平和五原のみならず自然科学に属する異学問間の協力が を世界に贈る運動、原爆災害の学術的総合白書則のなかでも、平和共存の重要性が強調され不可欠である。また平和研究は、その誕生以来用されることを提唱した。中国はビルマ、ベト 『広島・長崎の原爆災害』の刊行 ( 一九耄 ) 、軍縮た。このように、五〇年代なかばから第三世界約四半世紀を経て内容的にも地理的拡大とい , っナムとも平和五原則を両国関係を処理する原則 とソ連側とによって積極的に唱えられ始めた平点においても飛躍的に発展し、その制度化も着とすることを確認し、さらに平和五原則を中国 教育国際シンポジウム ( 一九公 D 、テン・フィー ト運動などを通じてヒロシマ、ナガサキの世界和共存政策に対し、アメリカなどの西側諸国は実に進んでいるが、その成果が平和の構築に寄外交の基本原則とすることを内外に宣言した。 当初警戒的姿勢を示したが、五〇年代末から六与しうるためには、平和教育や平和運動との関一九五五年のバンドン会議ではこの五原則を基 化が図られている。 核時代の今日、人類破滅につながる核戦争を〇年代にかけて、冷戦からの「雪どけ」が現実連性が重視されねばならない。一九六五年には礎に平和十原則が確認され、アジア・アフリカ に進行するなかで、しだいにそれを受け入れる国際的学術交流の場として国際平和研究学会新興国の国際原則とされたが、その後、六二年 防止し、世界に永続的な平和的秩序をつくりだ が設立され、日本では七三年 ( 昭に中印両国で国境問題をめぐって武力衝突が起 すことは人類共通の緊急課題となっており、そ姿勢を強めていった。 こうして平和共存は現代の国際関係の基本的和四八 ) に日本平和学会が発足こり、七九年に中国がベトナムへの大規模な武 の課題達成のために平和教育の意義と果たす役 割はますます大きくなっている。〈藤井敏彦〉な枠組みとなったが、核増強を続ける米ソ両大し、現在世界屈指の会員数を擁し、機関誌『平カ侵攻を行ったことにより、平和五原則は色あ 〈臼井久和〉せたものとなった。↓平和十原則〈安藤正士〉 和研究』を刊行している。 国の核抑止戦略を背景としているその現状は、 回藤井敏彦編著『幼児期の平和教育』 ( 一九天 さ・え・ら書房 ) ▽広島平和教育研究所編きわめて不安定な平和にほかならないし、また回川田侃著『軍事経済と平和研究』 ( 一九六九・東平和十原則 ( いわじゅうげんそく一九五五 京大学出版会 ) ▽日本国際政治学会編『国年四月、インドネシアのバンドンで開かれたア 平和共存の名のもとに体制を超えた大国の現状 『平和教育実践事典』 ( 一九〈一・労働旬報社 ) ジア・アフリカ会議で採択された共同宣一一一口。 際政治平和研究』 ( 一九七六・有斐閣 ) ▽日 ▽広島平和文化センター編『平和事典』 ( 一九維持姿勢が強まり、小国や弱小民族の現状変革 ンドン十原則ともいう。①基本的人権と国連憲 本平和学会編『平和学ーー理論と課題』 ( 一九 の動きが抑えられる可能性もあるなど、さまざ 会・勁草書房 ) ひらの
いての論著を出した。 、た、籠を頭にのせるギリシアの風習から想を得決定して、 X 線領域における光量子説を確証し 〈長門谷洋治〉プラックサポテ black を ( e \ 0 ・ がわ Black- た二〇年代の「カネフォール」のシリーズでは た。これらの功績によって一五年ノーベル物理プラックウォーター ros e き s 、 Retz. カキ科の果樹で常緑高 5 木。メキシコ原産。高度一〇〇〇以下で栽培 、ら古典的世界へのあこがれを示し、さらにフラン学賞を息子とともに受賞した。第一次世界大戦 wate 「アイルランド共和国南部の川。ケリ ス的美質の保持者、古典的伝統の後継者との自中は一時、水中音波探知などの戦時研究に従事 コーク県境の山地に源を発して東流し、リ が多い。果形は変異が多く、果実は一〇〇 ~ 一一 覚をももつ。四九年から五六年にかけて描かれしたが、その後、結晶構造解析の研究に戻り、 ズモアを過ぎて流れを南に変え、三角江をつく 〇〇。果皮は緑色、収穫後、三 ~ 四日後熟さ じゅくし た「アトリエ」シリーズは、過去のテーマと実有機化合物の結晶に研究分野を広げた。王立研ってヨールで大西洋に注ぐ。全長一六七キロ。流せると軟化する。果肉は墨色、半粘質の熟柿様 ひょうびよう 験とを総括する試みであり、縹渺たる詩情に 究所長時代には同じ分野の優れた研究者を多く 〈飯塚宗夫〉 域には鉄道の要衝マロー、毛織物工業のフアモで甘く、濃厚。 くろすな 満ちた不思議な世界を展開する。そこに現れた育て、のちの生体物質の構造解明の基礎をつく イなどの町がある。河口のヨールはダブリンやプラックサンド black sand 黒砂ともい 鳥のモチーフは、さらに「鳥」シリーズとしてった。著書には専門書のほかに、クリスマス講ウォーターフォードの発展で港としては発達し う。この用語は次の二つに対して用いられる。 ちょうせき 発展するが、それは、生涯の最後にあたって、演に基づいた『音の世界』 ( 一九一一 0 ) などの優れなかった。中流域は低平な谷であるが、下流域 ①海浜において、潮汐流、波浪や海流などの 十・い、当・つ それまでひたすら描いてきた静物という静かな た啓蒙書がある。三五年から四〇年まで王立協はドラム ( 細長い止陵 ) を刻む峡谷となってい 作用により、既存の岩石の風化生成物に含まれ 〈川合葉子〉る。 閉じられた世界からの離脱を象徴するかのよう 会会長を務めた。 〈米田巖〉ていた重鉱物 ( 比重が大きな鉱物 ) が移動・濃 たいせき である。・フラックの作品は、精妙な色彩と洗練プラッグ Sir WiIIiam Lawrence Bragg フラックウッドと gernon Blackwood 集した黒色の砂状堆積物をいう。重鉱物はいず されたデザイン感覚に基づいており、理知と感 ( 天九 0 ー一九七 D イギリスの物理学者。・・ ( 天六九ー一九五一 ) イギリスの怪奇恐怖小説作家。れも物理的にも、また酸化環境下で安定なもの プラッグの長男で、オーストラリアのアデレー 情とのみごとなバランスを保持している。バリ ケントの名門の生まれ。一八世紀のゴシック・ に限られ、普通磁鉄鉱、チタン鉄鉱を主とする かくせん 。ゝ、、レチ : レ、。 で没。図キュビスム 〈大森達次〉ドに生まれる。同地の大学に入学したが、一九ロマンスから発する超自然の怪異を扱った、イ さくろ石、輝石、角閃石などを伴 ・コニヤ著、山梨俊夫訳『プラック』 ( 一九〇九年父の転任に伴ってイギリスに渡り、ケンギリス独特の恐怖小説を代表する作家の一人。 う。ときに砂鉄鉱床を形成し、日本では岩手・ コ目 5 とオカルトを中、いにしたバラエティーに富 含・美術出版社 ) ▽・ポーラン著、宗左プリッジのトリニティ・カレッジに入った。一幺木 . 青森両県の太平洋海岸に発達する。オーストラ 近・柴田道子訳『プラックーー・様式と独創』 二年卒業してすぐにラウェの結晶による X 線回む短編を二〇〇編近く、長編を約一〇編書い リアの東海岸ではチタン鉱床を形成し、。フラッ 折の論文に接し、その解析方法に疑問をもち、 た。オカルト探偵ジョン・サイレンスを登場さ ( 一九含・美術公論社 ) クサンドに含まれるチタン鉱物 ( イルメナイ 「プラッグの法則」を導いた。引き続いて父とせた T)ß的な作品もある。後年はテレビ、ラジ ト ) が回収されている。 " フ一フッグ、 William Henry Bragg ー一九四一 I) イギリスの実験物理学者。カン ともにアルカリハライド結晶を手始めとして X オにも出演し、自作を朗読して人気を博した。 に黒色のアスファルト質砂を・フラックサンドと ロンドンに没。 〈梶龍雄〉よぶことがある。 〈今井直哉〉 ーランドのウエストワードの生まれ。ケンプ線による定量的な結晶構造解析の手法を確立 リッジのトリニティ・カレッジに学び、主とし し、一五年父とともにノーベル物理学賞を受回紀田順一郎訳『。フラックウッド傑作選』 ( 創 " フラック ) ンヤック blackjack カードゲ 、八六年オーストラリアの賞。以後もケイ素化合物、合金、生体物質など 元推理文庫 ) ーム ( トランプ ) の一種。ルールも簡単でもっ て数学を修めた。一ノ とも親しみやすく盛んに行われている。二十一 アデレード大学の数学および物理学教授に就の解析に次々と取り組み、化学や鉱物学など多 フ一フック・カントリー Black Country くの分野に貢献した。一九年マンチェスター大イギリス、イングランド中部の工業地帯。バー twenty-one ともい、つ。↓トランプ 任、一九〇九年に帰国してリーズ大学教授、一 シティ・カレッジ 五年より口ンドン、ユニバ 学教授、三七年国立物理学研究所長、三八年キミンガムの北郊から西郊にかけて連なる一続きフラッグスタッフ Flagstaff アメリカ ャベンディッシュ研究所長を歴任、五四年からの都市化・工業化地域の呼称で、ウエスト・ミ 合衆国、アリゾナ州北部、ココニノ郡の郡都。 教授を経て一一三年以降王立研究所長を務めた。 ッドランズ県に含まれる。「黒郷」と訳される。人口三万四六四一 ( 一九八 0 ) 。コロラド高原に位 一九〇四年、放射性物質からの放射線と物質六六年まで王立研究所長を務めた。〈川合葉子〉 中心都市バーミンガムのほか、ウルバー ハンプ置する。市の北方にはグランド・キャニオン国 の相互作用に関する実験的研究を始め、まずフラックウエル Elizabeth Blackwell アルファ ー一九一 0 ) アメリカにおける最初の正式のトン、ダドリー Dudley ( 一八万七二二 立公園やサンセット・クレーター国家記念物が 粒子の飛程と物質の粒子に対する阻止能 (l<lll ガンマ あり、それらへの玄関口となっている。一八九 の研究で認められた。ついで、 7 線や x 線が物女医。婦人運動においても先駆者的な役割をなウォルソル、ウエスト・プロミッジ West 〈菅野峰明〉 質性をもっ粒子からなるという仮説に基づい し、女性の地位向上に努めた。イギリスの。フリ Bromwich ( 一五万四九三〇 ) 、ヘイルゾウェ四年に市となった。 八三二年アメリカに移ン Halesowen ( 五万七四五三 ) 、スタウアプリプラックストン Si1 、 William Black- て、各種放射線の電離現象を研究し、 X 線の粒ストルに生まれる。一 住、医学を志したが、女子なるがゆえに一七の ッジ Stourbridge ( 五万四六六 一 ) が主要都 stone ( 一七一一三ー 一八世紀イギリスの法律 子的特性を実験的に導き、 X 線をエーテル・パ かっ - 一 市 ( 括弧内は人口、 I*<I)O 中世以来、金物や家。ロンドンに生まれ、オックスフォード大学 ルスと考えるバークラと論争を行った。この間 学校で断られた。四七年ニューヨーク州のホバ にアインシュタインの光量子説を知り、線や ート・カレッジに入学し、四九年卒業、婦人で武器の製造地であったが、産業革命期に地元産を卒業した。一七四六年にバリ スター ( 弁護士 x 線と光との共通性を考察するようになる。一最初の有資格の医師となった。ヨーロツ。ハに渡出の石炭、鉄鉱、石灰、耐火粘土を原料に、製の一種 ) となり、五三年、イギリス法学教育史 リのマテルニテ病院や、ロンドンのセン鉄業を中核とする鉄鋼・金属・機械工業地帯に上初めてオックスフォード大学でイギリス法の 二年にラウ工が結晶による X 線回折に成功するり、 ト・バーソロミュー病院で研修を行い、この際変貌した。工場の煙突から排出される黒煙が立講義をした ( それまでは大学ではローマ法の講 と、ただちに追実験を行い、息子ローレンス・ ちこめ、「黒郷」の名でよばれるようになった。義が行われていたにすぎない ) 。これは、当時 プラッグがこの現象を結晶格子面による反射とナイチンゲールとも会った。五一年ニューヨー クに戻り、五七年ニューヨーク婦人・小児病院 しかし一九〇〇年ごろから鉄鉱石が枯渇し、産にあっては大冒険であったが、成功を収めた。 考えて「プラッグの法則」を導き、一方、彼は 最初の x 線電離分光計をつくり、 x 線反射スべを創始、さらに女子医大・看護学校の設立を援炭量も減ったため製鉄業は衰微し、かわって蓄この成功をみた人がイギリス法の講義のために クトルの定量測定を可能にして、父子が共同し助した。七五年、イギリス最初の女子医大 ( ロ積した高い技術を生かせる多種多様な金属加遺産を寄付した。その寄付講座 ( バイナー講座 ンドン ) の教授となった。予防医学に関心をもエ、輸送機械、家庭用電気器具などの工業が盛として今日でも有名 ) は五八年に開講し、。フラ て x 線による結晶構造解析の方法を確立してい 〈久保田武〉 ックストンが最初の担当者に推された。彼は、 った。彼は同時にいくつかの特性 x 線の波長をち、婦人運動に力を入れて、女権拡張問題につんになった。 か′ ) へんばう