六年七月現在の推定で、一〇八六万一二一八人である。社会主義ベトナムも資本主義タイも、 その , ハ倍以上の人口をもつので、カンポジアの心細さは日常的といえる。 0 —のカンボジア人口推定の根拠や方法は明らかでない。ポルポト政権時代 ( 一九七六 ー七九年 ) の大量殺害など、長年月の紛争で多くの住民が命を落とし、近隣国からの人の出 入りの激しい国だけに、人口調査の困難は他国に例がないほどだ。 民主的選挙のためには、人口を調べ上げ、有権者数を確定しなければならない。 =ze« 図 によるその作業は、まずカンポジア人とはなにかの議論から始まったが、たちまち民族・ 地 界 人種差を浮きあがらせ、ベトナム系とタイ系の住民の一部が、東と西の国境を越えて逃げ出 世すまでにいたった。 族 が準備した選挙法は、カンポジア人の定義を「カンポジア生まれの両親からカ 民 ンポジアで生まれた者ーとした。だが、戸籍のないこの国でその立証はむずかしく、カンポ ジア人を絞りこむほど、非カンポジア人を白日のもとにあぶりだしたのである。 カンポジアの周辺国境には、ジャングルなどの自然環境であいまいな部分があり、隣接国 からかなり自由に流入し、カンポジア社会に融合してきた。あいまいな国境や人種の壁をこ えて、ふわっと成立していた伝統社会に、人工の壁がくつきり築かれた形である。 民族構成を o —資料で見ると、クメール族九〇 % 、ベトナム系五 % 、中国系 ( タイ系
華僑 ) 一 % 、その他四 % とある。クメール族が一世紀に建国したカンポジアは、東南アジア で最初の国家とされる。 インド文明を取り入れて独特のクメール文字を生み、雄大な遺跡を今日に残すアンコール 文化を築いたカンポジアだが、十三ー十四世紀にベトナムやタイに圧倒される。一八六三年、 フランス保護国に、八七年には仏領インドシナの一部を構成し、第二次世界大戦中は日本軍 の支配を受けている。 図フランス統治時代のカンポジアで、ベトナム人が徴税吏に活用されたことなども、カンボ 地 ' へトナム戦争やカンポジア紛争を通じて、相当数 ジア人の敵意をベトナム人に向けさせた。。 界 世のベトナム人がカンポジアに入り込んで定住し、各界で影響力を行使したといわれる。 族 カンポジアに流入したタイ系華僑は、経済界で成功したケースが目立つ。首都プノンペン 民 一帯は「バーツ ( タイ通貨 ) 経済圏」に属するといわれるほどである。 こうした強い外部民族に対するカンポジア人の敵意が、なにかのきっかけで激しく噴出し て、血なまぐさい迫害を加える歴史を繰り返してきたといえる。 わく カンポジアでは三つの「枠」か重なり合ってきた。カンポジア各派による「国内枠」、カ ンポジア、タイ、ベトナムの三国関係がつくる「地域枠」、冷戦時代の米国、ソ連、中国の 三大国による「世界枠」である。
面接して、カンポジア人かどうか、そして年齢はいくつか、などを聞き出すのだ。 しかし、戸籍などないから、本人をよく知る老人などを連れてきて証言させる。たまたま 並んでいた前の人と同じ答えをするケースも、少なくなかったそうだ。 かんべき 「そんな調査で当てになるのか」との疑問がっきまとう。それに対して「完璧を求めるべき ではない この時代のこの国としての許容水準がある。それに達していればよしとすべき だ」というのが、明石代表のロぐせであった。「カンポジア」の項目の一部は、こんな取材 図体験から生まれたものである。 地 本書の執筆の陰には、私的な体験、悲しみと喜びのドラマ、また危険な命がけの取材旅行 界 世の膨大な積み重ねがある。わたしの体験におっきあいして下さった世界の人びとの協力と好 民意が、もしなかったならば、「民族の現場」の匂いを文章にできるだけ反映させたいとのわ かなわなかったに違いない。ただ感謝あるのみ、である。 たしの願いは、 本書のもとの原稿を新潮社の情報誌「 F 。「窃一 gh ( 」に連載中、ユニークな地図作成に知恵 をしばって下さったのは同誌編集部の三重博一さん、それをスマートな本にまとめて下さっ たのは佐藤誠一郎さんである。それぞれ貴重なご指示を下さった。 文庫版のため原著を新しい資料で補筆し、「中国・台湾・マカオ」と「カンボジア」を扱 、つ項目を追加したが、 この作業にあたって、編集者の庄司一郎さんが資料集めと執筆ディレ
小国力ンホシアの 悲哀と不安 ざんてい 国連カンポジア暫定統治機構 (=z < u) の指揮下で、カンポジア総選 挙が行なわれた一九九三年春、プノン ペン・ポスト紙に興味深い漫画が登場 した。一一枚の地図が並べて掲載されて ベトナムとタイか、カンポジアを保 護しながら食い合っている一九九三年 製の地図と、カンポジアが食いつくさ れて白紙となった二〇〇〇年の地図で ある。東のベトナム、西のタイという、 よざま はんろう 一一大地域強国の間で翻弄される小国 カンポジアの悲哀を描いたものである。 インターネット上で米中央情報局 (u—<) が公表した各国別概観の資料 によれば、カンポジアの人口は一九九
民族世界地図 新しいカンポジア政治過程を仕切った国連平和維持活動 (o-zo) の評価は、日本ではほ ば好意的だが、最近の欧州の綿密な研究書は「選挙はたしかに実施された。しかし」として、 とくに国連がカンポジアの行政機構を「直接支配する原則」を貫く作業は「全体として失敗 だった」とする。その成功のためには「カンポジア文化に対する深い学識と感受性が心要」 との指摘がたいへん重い
197 本書の中の「アメリカのユダヤ人」「アラブとは誰か」「パレスチナ人というアイデンティ ティ」などの項で、きわめてあいまいな説明が多いのは、むしろ現実の正確な反映であると しえる。 カンポジアの国勢調査 ざんてい 一九九二年春、カンポジアで総選挙が実施される直前、 =ze«o ( 国連カンポジア暫定統 き治機構 ) の明石康代表から「情勢を見に来ませんか」とのによるお招きが自宅に入っ がた。首都プノンペンでは、爆弾テロによる選挙妨害が始まり、日本人の国連ボランティアや 文民警察官が地方で襲撃されて命を落としていたころである。 北部視察のため、国連提供の小型飛行機に乗りこむさい、「なにごとが起きても、国連が あ 決めるもの以上の補償は要求しないこと」との書面にサインさせられた。日本の自衛隊は南 部に駐留したが、北部の危険地帯を割り当てられた中国やインドネシアの部隊が、危険や不 安よりも、「腹ペコで活動困難」と訴えていたのが、実に意外であった。 情報伝達はもちろん、 ( 国連平和維持活動 ) 作戦に必要な物資の流通にも、トラブル があったからだろう。 選挙の基礎資料を準備するため、国連ボランティアは住民の身元調査をしている。本人に
「ソ連日ベトナムⅡヘン・サムリン派」「中国日ポルポト派」などと、支持系列が形成され たのだ。米国はベトナム戦争遂行のため反共・反ベトナムのカンポジア・ロンノル政権を支 持、さらに反ソ戦略のため親中国・反ソ・反ベトナムのポルポト派を一時支援するなど、国 益最優先のご都合主義を示した。 タイの軍部は軍事的には米国と結び、同時にベトナム抑止用の防波堤としてのポルポト派 鮟を支えた。 こんな構図が冷戦崩壊で解消し、カンポジア各派も長い内紛で消耗しきってしまう。その 時点での総選挙で生まれた制憲議会は、九三年九月、立憲君主制の王制を復活させ、シアヌ ア ーク殿下が即位した。栄光のクメール王朝の伝統が残るためか、王制への国民の執着と敬愛 ンはきわめて強い。 国 総選挙はポルポト派を除くすべての勢力が参加したが、もとからの派閥抗争が新政府内部 にまで尾を引き、対立する各派が勢力拡大のためポルポト派メンバーを勧誘する動きが、九 七年春の時点でもみられる。 新政府の腐敗もあとを断たず、たとえば一部の政府首脳がひそかに森林を伐採し、それを 日本に輸出する事業に関与していた事例が、九六年に英国の zeo ( 非政府組織 ) ワール ド・ウォッチから報告されている。