グルジア共和国 - みる会図書館


検索対象: 民族世界地図
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1. 民族世界地図

とを宣言、オセティア人の反乱を武力で抑えながら、十二月、南オセティア自治州を廃止し てしまった。 オセティア人の一部がこれに武力で対抗し始めると、グルジア共和国の独立を阻止したい 連邦軍部がオセティア人にテコ入れする事態になった。 連邦・共和国・自治共和国または自治州という三段階の行政機構のなかで、分権がうまく ゆかず、その結果、グルジア共和国はソ連邦に対して、南オセティア自治州はグルジア共和 図国に対して、それぞれ被差別・被迫害感を抱いている。そして、独立願望を持っグルジア共 界和国が、内部では南オセティア自治州を抑圧するという、矛盾した構造になっているのだ。 世 グルジア共和国と南オセティア自治州の衝突に先立って、八九年にはアブハジア自治共和 族 国によるグルジア共和国からの離脱要求を背景として、共和国首都トビリシで軍が民衆集会 民 を武力弾圧し、多数の死傷者をだした。武力行使反対のシェワルナゼ外相は、このころから クレムリンで孤立していったようだ。 やがて連邦維持へ強行策を唱える保守派の圧力で失脚したシェワルナゼ氏は、故郷のグル ジア国家評議会議長に就任、ソ連邦崩壊後の九一一年半ばから流血事態の終結に奔走している。 九三年、グルジア共和国は戦術を大転換し、 ( 独立国家共同体 ) 加盟を受諾、ロシアと 協力しつつ、共和国内紛の鎮静化へ前進した。アブハジアと南オセティアの住民に大幅な自

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ジア自治共和国、アジャール自治共和国、南オセティア自治州である。こうした条件から起 る民族問題は、バルト三国のよ、つに単純ではない。 タス通信は九一年二月二十四日、「南オセティア自治州の村落で、小銃や手投げ弾などに よる戦闘があり、死傷者がでた」と伝えた。グルジア人とオセティア人の間の衝突であり、 九一年初頭の二カ月で死者三〇人以上をだした。 誤 かねてグルジア共和国はソ連邦からの独立志向を見せてきた。これに対し、南オセティア 試 自治州議会は九〇年九月、「グルジア共和国からの分離」と「自治州から共和国への格上げ」 の ジを宣言した上、ソ連邦内にとどまる意向を表明した。グルジア共和国人口は約五四 , ハ万 ( 一 グ九九五年 ) 、うちグルジア人が約七〇 % をしめるのに対して、オセティア人は約三 % 。完全少 ねら 4 数派のオセティア人が北隣の北オセティア共和国 ( ロシア連邦共和国内 ) との統合を狙ってい 迷るのは明らかである。 混 グルジア共和国の体内にいる限り自由がきかない南オセティア自治州は、ソ連邦内残留に よってソ連邦当局の協力を得ながら、オセティア民族の統合を実現しようとの計算だったよ うだ。それが実現したら完全独立に進みたい願望もほの見える。 一方、九〇年十月行われたグルジア共和国の最高会議選挙で、グルジア民族主義に燃える 「円卓グループ」が共産党から政権を奪い、翌十一月、「ソ連邦からの独立移行期に入る」こ

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皿治を認める方向である。シェワルナゼ氏は九五年、グルジア大統領選に当選している。 グルジアの地は古来、ギリシャ、ローマの影響を強く受け、四世紀にキリスト教が広まっ た。その後、さまざまな民族が足跡を残し、西部かオスマン・トルコ帝国、東部かイランの 勢力圏に入ったこともある。トルコに接したアジャール自治共和国では、住民の大半がイス ラム教徒である。十九世紀後半以後はグルジア全域がロシア帝国に支配された。 「長寿」や美しい合唱で知られるグルジア人は、独特の文化を持つ。彼らは自らの一一一〕語、宗 ーリンに始まる中央集 図教、文化にこだわり、民族の自立願望がつねに顕著で、革命後、スタ 地 リンの民族抑圧政 権支配にも、しばしば民族主義的反抗の動きがあった。レーニンがスター 界 世策を批判した「グルジア問題」論争は有名だ。 族 グルジア共和国には全グルジア人の九六・五 % が集中しており、この集中度は、旧ソ連の 民 他のどの民族よりも高い。その事実はグルジア人の結束度そのものだ。 旧ソ連邦内の民族問 その自立機運はゴルバチョフ政権になって一挙に表面化したのだが、 題の典型的縮図を、グルジア共和国で目撃できるといってよい。

4. 民族世界地図

混迷打開へグルジアの試行錯誤 4 ン スターリンを生んだ地。スター 支配下で秘密警察を指揮した内相べリ ヘレストロイカへの動 アを生んだ地。。 きが芽生えた地。そして「新思考外交」 の立役者となりながら、保守派の巻き 返しで失脚した旧ソ連外相シェワルナ ゼ氏を生んだ地。 それがグルジア共和国だ。政治や思 想かダイナミックに躍動する土地柄で あることか、、つかかわれよ、つ。 旧ソ連の民族行政区画で、単一の民 族から成り立っている例はなかった。 中でもカフカス地方の民族構成は複雑 だ。大カフカス山脈と黒海に挟まれた グルジア共和国も実に複雑で、内部に は三つの自治地域が含まれる。アブハ がら

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あった。 圧倒的な人口、宗教、文化の力を背景に、帝政ロシア時代の十九世紀にロシア・ナショナ リズムが芽生え、ソビエト革命が陰影を加味したものの、ロシア第一主義ないし大口シア主 義はロシア民族にも非ロシア民族にも意識され続けた。 帝政ロシアの下で圧迫された非ロシア民族の不満を、革命に利用したレーニンは、まずロ シア共和国と非ロシア共和国が平等な基礎にたっ連邦をめざした。それによってすべての民 ろ・つ「一く 族が「民族の牢獄」から解放されるはずであった。 義しかし、スターリンは計画経済推進の必要上、中央集権化を進め、ロシア共和国が非ロシ アア共和国を支配する「民族の地獄」の状況を生みだした。「ロシア共和国はお兄さん」とす ロ る支配・従属の連邦思想はその過程で確立し、非ロシア共和国を納得させると期待された。 大 スターリン批判のフルシチョフ時代を除いて、「ソ連の民族問題は解決ずみ」で「すべて の民族はソビエト人民になった」とするイデオロギー優先の論理がゴルバチョフ登場の直前 まで横行した。 だが、諸民族の今日の自己主張を見れば、結局、ソ連は「ソビエト人民ーの創造に失敗し、 ひとびとは依然としてロシア民族やグルジア民族など約一二〇の民族のままで生きてきたこ とかわかる。

6. 民族世界地図

チェルケシア共和国 . バルカル共和国 カバルディノ・ 自治共和国 アプ / ジア アルメニア トルコ 自治共和国自治州ー アジャール南オセティ乃 黒海グルジア、 ロシア アドウイゲヤ共和国 \ ・、カラチャエボ・ 人なかた しセ つな 百た セ歴 方矣、 つオ 上都 ー首 も以 イ都 笋卩セ ァれ い南 二回 ヒ〇 こす ルセ ン年だ併 テ人世リ はためは 共ア グ移ーグ ル民 カルムイク共和国 0 カスヒ海 200km 北オセティア共 イングーシ共和国 チェチェン共和国 ダゲスタン共和国 0 トビリ、、、、 、アゼルバイジャン エレバナ、 ナゴルノ・カバフ バクー / ・自治州 ナヒチエヴァン自治共和国一 ( アゼルバイジャンの飛び地 ) DATA イラン 力、 以首た 住外グ セ ア は ん で い オこ い 力、 カゞ ル ン ア い 力、 セ 丁 ア 人 し オ ァ イ ア の ツ ハ 南 オ 。ミ当 時 、南 アあ〇 のり年 テ史南降主 ア原セ連を イ ア ン イ的オ 復 グよ史 っ ジださ 、以 て ら ムれた ン ア 民 こ義ーーー る 九 ア オ 丁 イ ア 人 ル の歴と を る 方 主 張 き 。かと求 のめめ ほたる 双グオ ン ア は和住 次国民 、独 を フ - イ

7. 民族世界地図

ロシア カ クルジア トビリシ 0 アルメニアー、→、 ~ セレバイジャン バクー ルノ・カラバフ 、、、エレバン / 、戸治州 アララット山△、 ーヒチエヴァン 自治共和国 イラン トルコ 200 ワシントン郊外のメリラ ンド州べセスダに、不オミ・ペクミ ばあ ジアンという八十歳を越えるお婆 さんかいる。私の親しいアメリカ 人の一人だ。名前の末尾から判断 して、アルメニア系とわかる。旧 ソ連政治家のミコャン、米作家の サロイヤンと同様である。 五カ国語ができ、国務省語学教 しょ・つがい 師だった彼女は、生涯独身で天涯 孤独。会うたびに「いつも一人だ ね」と私がいうと、「一人暮らし を楽しんでいるよ」といっては涙 ぎやくさっ E--«ぐむ。絶対、アルメニア人虐殺の 舌よ、しないことにしている。

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の分権連邦制と軌を一にしていた。ところが民主化の波に乗って、その分権連邦制にさえ満 足せす、独立主権国家を求める共和国の偏狭なナショナリズムが一挙に噴出したのだ。 旧連邦を構成した , ハ共和国のうち、南東部のセルビアら四共和国がかってオスマン・トル ン コ帝国の支配を受けたのに対して、北西部のスロべニアとクロアチアはオーストリアⅡ ガリー帝国の支配下に置かれた。この事実こそ、民族紛争の性格を決定づけている。 セルビアなどにはバルカンやイスラム文明の影響か残り、スロべニアとクロアチアには西 こんせきめいりよう 図欧やキリスト教文明の痕跡が明暸だ。東欧の民主化潮流の中で、スロべニアとクロアチアは ほうむ 地 九〇年四月、早々と複数政党制による共和国自由選挙を行い、 共産党政権を葬った。しかし、 界 世セルビアではその後も、従来どおり共産政権か存続した。セルビアの共産勢力は、ナチスを 族 果敢に阻止し、ソ連軍の支援なしに権力を確立して国家的アイデンティティを維持してきた 民 ことで、自信に満ちている。新ユーゴの実力者、ミロセビッチ・セルビア共和国大統領が率 いるセルビア社会党も、旧共産主義者同盟の流れをくむ政党である。 しかし、経済面では自主管理というュニークな社会主義実験が十分に成功せず、スロべニ アとクロアチアの裕福な北西部とセルビアなど遅れた南東部の間に格差を生み出した。その 結果、豊かな北西部が貧しい南東部と手を切り、地理的、文化的に近い ( 欧州共同体 ) に接近しようと独立に傾いたのも自然だ。も九二年一月、両共和国の独立を承認した。

9. 民族世界地図

ルーマニアのべッサラビアへの領土権主張は、共産化しソ連と同盟関係にあった一九六〇 年代初頭に早くも国内で出ていた。ソ連と一線を画したチャウシェスク外交はモルダビアを めぐる国民の反ソ感情に合致し、政権の長期化をある程度助けた。政権が四半世紀の長きに 及んだため、新体制にも旧勢力が残り世論に分裂が見られるが、「国内結束の手段としてモ ルダビアをめぐる民族感情に点火するのでは」との観測が不気味である。 モルダビア共和国は九一年五月、「モルドヴァ共和国」と改名した上、八月にソ連からの 図独立を宣言、ソ連崩壊後は独立国家共同体 (o—tn) に加盟した。ところか、モルダビア共 地 界和国内で少数民族となる約七五万人のロシア系やウクライナ系の住民が、不安を抱いて「国 世の中の国」というべき「ドニエストル共和国」を宣一一 = ロ、九二年にはこれを支持するロシア軍 族 とモルダビア共和国軍の大規模な軍事衝突にまで発展した。またトルコ系住民も「ガガウス 民 共和国」を宣言している。 プルト川の東西における激変にもかかわらず、モルダビア人が発する協和音からみて、東 西を横断する歴史的アイデンティティは不変と考えざるをえない。九六年十二月、モルダビ アで旧共産勢力が政権を獲得したが、ロシア、ルーマニアとの関係は三すくみ状態を続けて いる。川の東西統合への意欲をみると、現実生活の大混乱を避けたいモルダビア側からは心 旧的、ルーマニア側からは政治的、釜斉的、、い情的とい、つキャップか大きい。

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136 民族世界地図 「ロシア人をひと皮むくとタタ ] ル人がでてくる」とか「ロシアに対するタタール人のくび き」といわれる。これらはロシア民族とタタール人など中央アジア諸民族との混血ぶりや、 モンゴル民族に対するロシア民族の被抑圧・被害者意識を示すいい方だ。それがロシア人を めぐる民族状況を複雑なものにする。 独立国家共同体を構成する共和国の一つであるロシア共和国そのものが、当初は約一〇〇 の民族を抱え、民族を基準に構成された連邦共和国として、一六自治共和国と , ハ地方、四九 ひまご 的な複合構造をなしていた。 一〇自治管区から成る「親・子・孫・曾孫 : それはスターリン時代に強権によって完成したものである。 タタール自治共和国は早 だが、各行政単位の間では民族的な不信と独自行動が絶えない ばやと大統領制を導入し、エリツインを選んだロシア共和国大統領選挙をポイコットした。 プリャート自治共和国はロシア共和国との同権を主張し、チェチェン・イングーシ自治共和 国はロシア共和国への帰属を拒否した。コリャーク自治管区はカムチャッカ州から独立を宣 一一一一口している。 そして、九三年二月現在、かっての一 , ハ自治共和国はすべて独立を宣言して共和国となり、 それに伴って名称変更もなされ、たとえばタタール自治共和国はタタールスタン共和国に、 またチェチェン・イングーシ自治共和国はチェチェン共和国とイングーシ共和国に分離独立