チヘット独立はあるか 4 ☆ 九 , ハ年秋、イラク軍か北部クルド地 域に進攻した時、米軍はイラク軍基地 を爆撃した。国連安全保障理事会はた だちに、イラク非難決議案を論議した が、中国は断固反対した。チベット問 題など類似の民族紛争をかかえる中国 としては、外国軍の内政干渉を正当化 するような決議案には、とうてい賛成 しかねたのだろう。 九〇年五月に戒厳令が解除されたチ べットだが、九三年、九六年と、数年 ごとに大規模な反乱が起きている。 中国には五六の民族がいるが、人口 では漢族が九二 % をしめ、残り八 % に あたる五五の民族が少数民族ながら全 土の約六〇 % を占有している。
戒心をあおった。九一年二月には「ダライ・ラマ亡命政府のスパイがチベット独立の旗や大 量の宣伝文書を持ち込んだ」事件も摘発されている。ワシントンのダライ・ラマ特別代 表部は米政界との広い人脈を開拓しているが、クリントン大統領もチベットの人権問題に強 い関心を示し、「中国並びにチベット」という表現で、中国によるチベット併合を認めない 態度をしばしばとるため、北京政権を刺激する。 チワン 五自治区のうち広西壮族、寧夏回族では漢族との同化が進んでいるが、新疆ウイグル、 図内モンゴルは分離志向が強く、連鎖反応を恐れる北京政権としてはチベットに「独立の放 界棄」を迫らざるをえない。他方、ダライ・ラマという精神的支柱を持っチベットも観光以外 世にこれといった産業かなく、独立後の経済的自立には自信かない とうしょ・つへい 民故鄧小平氏の「先進地区から遅れた地区への経済援助」という呼びかけは、少数民族対 策でもある。だが経済自由化は政治的統制を緩め、少数民族を離反させる矛盾がある。「鄧 しゅうえん ほうれいし 体制の終焉がチベット独立への最大転機」 ( 反体制学者、方励之氏 ) ともなりうるかどうか。 ダライ・ラマに次ぐ指導者で、親北京派のパンチェン・ラマ一〇世が、八九年一月に死去 せんしようせん したことが、新しい対決の前哨戦に導いた。九五年に至って、ダライ・ラマ側と中国側が ハンチェン・ラマの後継者 ( 転生霊童Ⅱ生まれかわり ) として、競うように別々の幼少の少年 を認定したからである。 112
11 ( ) 含む大幅な社会改革を義務づけられた。 おびや 特権を脅かされ族による支配に反発した地主、ラマ僧、貴族らの組織する抵抗が始まり、 五九年、ラサにまで及ぶ大規模動乱となったのち解放軍に鎮圧された。ダライ・ラマはイン ドに亡命、約十万のチベ ット族もそのあとを追った。 六二年の中印戦争へと発展した 国境問題のくすぶっていた中印関係がこれで一挙に悪化、 か、インドに友好的なソ連が中国を支援しなかったため、こんどは中ソ論争を刺激する事態 図となった。 地 ットに自治区を成立 ( 六五年 ) させ、人民公社の導入による農奴の解放を 北京政権はチベ 界 世進めたが、 チベットの食料不足や飢餓や強制的な産児制限の報道が絶えない。文化大革命 , ハ六ー七 , ハ年 ) が始まると、漢族を中心とする紅衛兵かチベットの歴史的遺産を破壊してま 民 わり、チベット族との間に深い民族対立の傷跡を残した。 毛沢東の死 ( 七六年 ) が転機となって北京政権とチベット各界の和解の接触が始まるが、 高圧的な漢族に対するチベ ット・ナショナリズムの抵抗は弱まらず、チベット動乱三十周年 の八九年、またも独立要求の大暴動が起きた。北京政権は革命後初の戒厳令をラサに布告し て鎮圧、九〇年五月まで戒厳体制を続けた。 ット族を元気づけ、北京政権の警 八九年十月のダライ・ラマのノーベル平和賞受賞もチベ
ちょっかっしベキンシャンハイテンンンチョンチン 中国の一級行政単位は二二省と四直轄市 ( 北京、上海、天津、重慶 ) 、五自治区 ( 内モンゴル、 チワン しんきよう 。ット、広西壮族 ) から成り、少数民族の集中地域が自治区とされ 寧夏回族、新疆ウイグル、チへ ている。 多民族国家の中国の歴史は、最大民族たる漢族と少数民族との間の協力と対立の歴史でも ある。しかも少数民族の多くは中国の辺境部に住むため、共産政権にとって、少数民族との 良好な関係維持が革命防衛の重要なカギでもあった。 る人口四五九万で、少数民族の中で六番目に大きいチベット族は、外見的には東アジア的特 あ 徴を持つが、七世紀に初の国家を形成し、ラマ仏教による宗教支配を基軸とする独自の文化 立 を育んできた。それを可能にしたのは、「世界の屋根」の異名を持っ平均海抜四千メートル べという隔絶された地勢である。チベット地方はまさに地上に残された「最後の秘境」であっ チ たのだ。だが、中国とインドの間に位置する要衝であったため、時代が下るに従い外部から 様々な干渉を招いてきた。 一九〇四年に英軍がラサを占領してから第一一次大戦後まで、英国の強い影響下にあったが、 四九年の中国共産革命で状況は激変している。 四十六年前の五一年五月、北京政権は武力を背景にダライ・ラマ政府と十七条の「チベン 。ト平和解放協定」を結ぶ。チベットの政教一致体制の存続は認められたものの、土地改革を
パレスチナ人というアイデンティティ 翳りゆく「 WASP 」 83 ユーゴスラビア国家のモザイク分裂 アジアと欧州をまたぐ 「トルコ」という名の人々 93 混迷打開へグルジアの試行錯誤 98 流浪と定住の民・ジプシー 103 チベット独立はあるか 108 ヒスパニックの爆発 113 工リトリアを独立させた 多民族・多部族国家工チオピア キプロスを分っ「城壁」 124 119 オーストラリアの「迷い」 大口シア主義の脅威 134 アフリカン・アメリカン 脱欧米志向を強めるマレー 129 140 シアの立脚点 78 88 145
ーー漢民族の多い地域 ロシア カザフスタ、ジィ・ モンゴルドを寸イ埖鮮 自治区 「寧夏回 自治区ノ 中を国 : ツ M 、み、チベット自治成 広壮ルを メ [ 治区′ バングラデジ等 - 香港 、一い、ベトム。 ニャン了ア彡オス ( こ インド 、タ ' イ 廴 500km 0 一九九六年五月、中国で出版さ れた「ノーと言える中国」 ( 中国 叮以説不 ) かべストセラーになり、 中華ナショナリズムや中華思想の 反映かとの議論を呼んだ。 小倉芳彦によれば、中華思想と は、自己の文化を最高とみなし、 天下の中心に位置づける考え方で、 王の支配する中華文化に周辺もや がて同化するとの儒教哲学に基礎 をおく。そこでは国境意識が薄弱 であるため、近代の国民国家の概 念と衝突し、諸外国の警戒心を刺 激し、また十渉を招くという複雑 な結果をもたらしてきた。
旧ソビエト連邦 - / -- 、 - ウランバートル 0 モンゴノレ ウルムチ 0 新疆ウイグル自治区イ・い内モンゴル自治区 / 寧夏回族自治区ーヤ 0 西安 鵞 ) ) 、中華人民共和国 ゝチ、らト治区 = ラサの 成都 パングラデシュ、、 0 、 カルカッタ 0 ー インド ペンガル湾 500 ( 〕 0 京 ( 北 0 ( 広西壮族ノ ~ ′え、自治区ノ 、ベトナム - ラオ、こク 香港 南シナ海 九六年八月、北京駐在の日本人 記者団がチベット取材を特別に認 められ、こう伝えている。 「ラサではカラオケハ 浴場、 貸しビデオ屋、漢字とわすかなチ べット文字の看板を掲げた食堂が 目につく」「独立運動の象徴ダラ イ・ラマ一四世の写真は公共の場 から消えた」「ラサ中心部百戸当 せんたくき たりの耐久消費財普及率は洗濯機 七七台、冷蔵庫三九台、カラーテ レピ九六台」「人口の八割以上の 農家の一戸当たり収入は八七八元 で、全国平均一五七八元の約半 分」「都市労働者には国家補助」
カザフスタ、ジィ に ( マン ) 族 , , モンゴル - ノ鮮 . 、广新疆ウイグル ' こ」。。ツ北京 自治区を ) 3 寧夏回 、自治区 0 西安 中国払 / M 、み、チベット自治・成都 0 土家 ( トウチ族 ( ミヤオ ) 台 、、、ツ。ゴ ; 多ン ( イ - 治区ノ バングラテジュ - ベト ニャンマアら・オス インド 、タ・イ ロシア ッ響 0 500kn1 、、 圧倒的な漢族に離反的なチベソ ト族と対照的に、融和的なのがイ スラム教徒の回族だ。七〇〇万以 上の回族は、寧夏回族自治区を中 心に全国に分布する。七世紀、ア ラブの旅人がイスラムを初めて伝 え、八世紀に唐の宮廷で日本人が アラブに出会った記録がある。 北京の清真寺は外見も名前も仏 教寺院だが、内部はアラビア文字 で埋まり、聖典コーランの朗唱が 響く。 「宗教はアヘンの建て前 に反して、イスラムは他の少数民 (--«族にも普及、総数は一四〇〇万以 上で、メッカ巡礼も許される。
チョンチン しんきょ・つ 重慶 ) 、五自治区である。自治区は内モンゴル、新疆ウイグル、広西壮族、寧夏回族、チベ ットであり、 いずれも一定規模の少数民族に認められている。しかしながら、自治区のうち、 辺境のチベットと新疆ウイグルでしばしば反政府暴動が伝えられる。前者は宗教的要素がか らみ、後者はいつも核実験場にあてられ、感情的なもつれがある。 これに特別行政区として、九七年から香港、九九年からマカオが加わるわけで、外交、防 衛を除いて「高度の自治」が与えられる。特別行政区は少数民族の集合地だからではなく、 図それぞれ宗主国の英国とポルトガルによる植民地支配という歴史的背景の特殊性に配慮した ものである。 界 世英国が香港を植民地にした経過は、カずくであった。アヘン売り込みの拠点づくりを目ざ 族 し、第一次アヘン戦争二八四〇ー四一 l) を仕掛けて香港島を奪い、第二次アヘン戦争二八 民 カオルン 五六ー六〇 ) を経て九龍半島を手に入れた。九龍半島と大陸の接続部分、いわゆる新界地区 を九九年間の約束で借り、香港支配が完成した。 それが新界の租借期限が切れた九七年七月、香港を一括して中国へ、となったのである。 江沢民・中国国家主席は九七年年頭の国民向けメッセージで、「香港回収によって、中国は 百年の屈辱を晴らす」との思いを吐露した。百年の間に、カのバランスが英国から中国へ大 きく傾いた事実も否定できない チワン
か約一五五〇万で、しかも経済基盤の健全な壮族がその例である。 その一方で、漢族支配に対する反感も根強く存在することは、東部の中央政権から遠く離 しんきょ・つ れた新疆ウイグル自治区やチベット自治区における再三の暴動・反乱にうかがわれる。ただ、 その動きが分離独立に発展する可能性はまだ小さく、それが旧ソ連と違うところだろう。 また一九五八年からの大躍進期に、漢族への強制的同化論を否定し、自然融合が唱えられ た。そこまでは米国の民族史と似ているか、米国と違って中国の場合は、諸民族の調和を目 図ざす文化多元的なサラダボウル論が、建て前はともかく、現実には推進されないのは、やは 地 り漢族の一極支配的条件が強いからであろうか 界 かきょ・つ 世世界に進出した華僑を含め世界最大民族でもある漢族が、中国でも優勢だという事実の背 、北部の漢族は長身で、食事 後に、漢族それ自身の多様性がひそんでいる。外見からしても 民 たんく めん は麺類など粉を中心に、家屋は土を主材とするのに対して、南部の漢族は短驅であり、食事 は米が中心、家屋は木材を多用する。 その多様性は漢族の複合民族性で説明される。黄河流域の中原を求めて集まった諸民族が A 」・つかっ 長い年月に融合して、共通のアイデンティティを築き、全体を統轄する人物が王朝を建てた。 しん 夏の時代に人びとは夏人と名乗り、秦の時代は秦人、漢王朝では漢人であった。今日、漢の 名が残り、民族の名前になったというのだ。 チワン