トルコ - みる会図書館


検索対象: 民族世界地図
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1. 民族世界地図

しんきよう トルコ族の大きな集団が居住するのは、中国の新疆ウイグル自治区、旧ソ連邦を構成して いたカザフスタン、キルギスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャン、 それから中東のトルコ共和国などだ。 トルコ族の源流や拡散ルートには、三種類がある。まず、紀元前三世紀ごろ、バイカル湖 の南にテュルクという名前の民族が登場、その一部が , ハ世紀に中央アジア北部で遊牧民の帝 国を築いた。 図二番目は、その遊牧帝国支配下のウイグル族が九世紀に、南あるいは西へ移動して定住す 界る。彼らは中央アジアの先住民族アーリア人を取り込む形で混血を深め、さらに誕生して間 でんば 世もない伝播力の強いイスラムを受け入れた。その結果、中央アジア一帯は「トルコ族の土 族 地」を意味するトルキスタンと呼ばれるようになり、十世紀、トルコ族初のイスラム王朝カ 民 ーン朝がこの地で成立する。 三番目は、中央アジアで遊牧中だったトルコ族のひとつが、南に移動してホラサーン ( 現 イラン北部 ) でセルジューク朝を建て、さらに西へ進出、バグダッドを経てバルカンに至り、 オスマン・トルコという大イスラム帝国を建設する。オスマン・トルコは第一次世界大戦で 敗戦国となり、勝った西欧列強によって領土を削り取られたとはいえ、その末裔のトルコ共 和国こそトルコ族の主導する唯一の独立主権国家として残っている。 まっえい

2. 民族世界地図

しょ・つぶ 騎馬遊牧民の血を受けるせいか、トルコ族は尚武の気性に富む。広範囲の拡散を可能にし たのも、その軍事力に負うところが小さくない。イスラム世界における軍事力重視や軍人支 配の伝統も、トルコ族の特性によるとされる。 トルコ共和国では乃木、東郷という日本の軍人の名前かいまでも知られ、朝鮮戦争へ国連 軍として赴いたトルコ共和国兵士の勇猛果敢ぶりも有名である。 トルコ族は広く散ったがゆえに、たとえば欧州とアジアの接点に位置するトルコ共和国の 図住民と、中国西部や旧ソ連南部の住民では、同じトルコ族とはいえ異民族に近い トルコ共 地 界和国は北大西洋条約機構 (z•<eo) に加盟し、湾岸戦争では国内の基地から米軍機がイラ 世ク空爆に飛び立った。トルコ軍は z«eo 内で米軍に次ぐ規模を誇っている。 族 欧州共同体 ()O 、現 (=) への加盟も申請中である。その承認を得るためにも、諸 民 国と同じ湾岸政策を取らねばならず、だからイラクに対しては明確な対決姿勢を打ち出した。 政府は打算的な顔を欧州へ向けているのだが、民衆は心情をイスラム世界へ向け、イラクに も同情的だった。 政府もイラクに顔を向けないわけではないが、 それは米軍の空爆でサダム・フセインの軍 事力が壊滅したら、すかさずイラクに進出し、オスマン・トルコ時代の領土を少しでも奪い 返せないかと考えたからにすぎない。 つまり、政府と民衆の間の分裂である。

3. 民族世界地図

暗い内部 :. 、 こ約七〇〇〇人のトルコ系住民が閉じこもり、城壁外の近代的な邸宅街にはギリシ ヤ系住民が住み、城壁内では「トルコ再生の父ケマル・アタチュルク万歳。を叫び、城壁外 ぼうぎやく では「祖国ギリシャを侵略したトルコの暴虐」を教える 七〇年代初頭までのキプロス各地はそんな空気だった。鹿児島県くらいの広さのキプロス 島に人口約七〇万、うちギリシャ系とトルコ系がほば四対一。全島約六百の町村で両系住民 がにらみあい、住民の心の中にまで城壁あり境界あり。 齷そんな異常が長続きするはすはなく、七四年のギリシャ系クーデター、それに対応したト ルコの派兵の結果、島の六三 % にあたる南部ギリシャ系地域と三七 % にあたる北部トルコ系 っ を地域に分断されて今日に至っている。トルコ系地域は八三年十一月、「北キプロス・トルコ 共和国」として分離独立宣一言をしたが、承認したのはトルコだけである。 キ 島には銅山が多く、キプロスとは「銅」を意味するラテン語に由来する。トルコから六五 キロ、ギリシャから八〇〇キロだから、地理的には中東に近いか、歴史的、政治的にはむし ろ西欧に近い 古来、異民族支配の歴史を歩んできた。紀元前一一〇〇〇年のエジプト支配の後、フェニキ ア人、ギリシャ人、ベルシャ人、ローマ人、十字軍、ベネチア商人などが入れ替わり渡来し たが、一五七一年にオスマン・トルコが占領、一八七八年に英国が統治権を手にした。

4. 民族世界地図

古代から定住したギリシャ人に対して、トルコ人はオスマン・トルコの占領後に移住して きた新参者だ。ギリシャ系はギリシャ正教を信じ、ギリシャ語を話し、トルコ系はイスラム 教を信じ、トルコ語を日常語とするなど風俗習慣まで異なる。 英国がキプロスを掌握したのは、スエズ運河への航路を守るとともに、ソ連の地中海への 進出をにらむためだ。第一次世界大戦後、多数勢力のギリシャ系住民の間からギリシャとの 併合をめざす「エノシス運動」が起こり、それが反英独立闘争と表裏一体となって成長した。 ひなた 図ギリシャとトルコかその動きに陰に陽に関与したのは当然である。 地 念願の独立を実現させた五九年のキプロス独立保障協定 ( キプロス、英国、ギリシャ、トルコ 界 世が調印 ) では、トルコが主張する「キプロス分割」もギリシャが主張する「ギリシャへの併 族 合」もともに退けられた。それこそキプロス統合維持の唯一の道と信じられたのだ。 民 しかし、住民間の積年の憎悪は消えず、衝突が繰り返されるにつれて、ギリシャの併合欲 、こ賁大したのが七四年の事実上の分割 とトルコの分割欲か地下で燃えつづけた。それがっしし卩 . で、現在、南北それぞれに大統領制の政府が存在している。 国連の調停も繰り返されたが、ギリシャ系大統領の下の連邦国家を主張する南部と、南北 二つの独立国家による緩やかな連合およびギリシャ系とトルコ系による大統領ローテーショ ン制を求める北部の間には、越えがたい城壁がある。 126

5. 民族世界地図

ぎやくさっ 第二はオスマン・トルコのアルメニア人虐殺だ。第一次大戦が始まるや、支配下のアルメ ニア人の反乱を恐れたオスマン・トルコは一九一五年、彼らにメソボタミア砂漠への強制移 住令をだす。混乱の末、アルメニア側は「一五〇万人以上のアルメニア人が虐殺された」と 主張、オスマン・トルコ崩壊後に誕生した現在のトルコ共和国政府は「多くは移住の途中で 病死か餓死したのだ」と弁明してきた。 ロンドンで武力報 強制移住令五十周年の一九六五年、アルメニア人はべイルート、 図復を同時宣言、欧州各地でトルコ外交官やトルコ政府機関を襲撃してきた。一九八四年、ロ 地 界ーザンヌで開かれたアルメニア人世界会議は民族の利益のための国際的な支援獲得を決議し 世た。それ以後の動きは急テンボである。 族 ます八七年に欧州議会が採択した「アルメニア決議」である。トルコは欧州共同体 民 u) 、つまり現欧州連合 (QD) に加盟を申請中だが、 トルコがアルメニア人「大虐殺」を認 めなければ加盟を認めないという内容だ。 八八年、アゼルバイジャン共和国内のナゴルノ・カラバフ自治州 ( 人口の八〇 % がアルメニ ア人 ) は、アルメニア共和国への所属変更を決議した。「大虐殺」のトルコ民族に近いイス ラム系アゼルバイジャン共和国所属 ( 実質的な従属 ) には耐えられぬということだ。八九年、 アルメニア共和国は「四月二十四日をアルメニア人虐殺を追憶する国民祭日とする」と宣一言

6. 民族世界地図

アジアと欧州をまたぐ 「トルコ」という名の人々 0 0 今日、トルコ族の足跡は、中央アジ ア、シベリア、西アジア、北アフリカ、 」立ロ東南アジア、欧州の一部 という広範な世界に及んでいる。ソ連 邦が空中分解し、湾岸戦争で中東の構 造が激変した中で、とくに旧ソ連南部 から中東に至る地域に住むトルコ族の , イ山口か注目されよ、つ。 彼らは各地で、さまざまな民族と混 血をくり返してきたため、明確なアイ デンティティを訒めにくいか、一一一口と 宗教の一一点で共通の特性を備えている。 一一一口とはアルタイホのテュルク、 宗教はイスラムである。トルコ共和国 で使われるトルコ語は、テュルク語の 一種である。

7. 民族世界地図

国連の調停案は連邦制であり、南北がそれぞれ政府をもち、中央政府は外交・国防を担当 するとの内容である。これに南部は同意するが、北部は反対し、かわりに二つの独立国家に よる連合を提案している。この連合案に対して、北部のトルコ系国家がやがてトルコと合併 するのではと南部の疑念が深い。 ギリシャとトルコはともに北大西洋条約機構 (z<eo) の一員であり、国内に米軍基地 を認める代償に巨額の援助を米国から得ているので、米国の影響力が大きいようにみえるも 図のの、これら基地の価値は冷戦時に比べると低下している。トルコではイスラム主導政権が 界発足してから欧米との関係がやや後退気味であるが、トルコは欧州連合 (æ•) 加盟の交渉 世が九七年後半から始まるので、それへの配慮も必要である。 族 さまざまな要素がからみあい、先の見通しはまったく開けないか、旧ユーゴ情勢の混乱に 民 ともなうバルカンの不安定、中東和平の停滞のなかで、キプロス統一もまた行きづまる。 128

8. 民族世界地図

クルド系トルコ人のユルマズ・ギュネイが監督した映画「路には、分断されたクルド人 が国境に対して敵意を示す場面がある。トルコのクルド人がシリアとの国境の柵を前にして、 、に一丁けない「目に見 シリア側に住む同胞に田 5 いをはせながら、「この国境かあるために会し えていて越えられない , などとつぶやくのだ。 クルド人の半分以上はトルコに居住し、自治権拡大を求めているか、トルコ政府はクルド 人の存在さえ認めず「東部トルコ人」と呼び、クルド語教育も禁じている。これに武力抵抗 図するクルド人をたたくため、トルコ軍がイラク国内へ越境追跡することもよくある。イラン 界北西部のクルド人も、シャー時代からホメイニ革命以降も一貫して自治拡大運動を続けてい 族 イラク北部のクルド人の自治拡大の戦いは、悲劇的な展開を見せている。一九六〇年代末 民 から七〇年代半ばにかけ、彼らはイラク政府軍と激しい内戦を交えた。当時、イラン・イラ ク間でシャトル・アラブ川をめぐる国境紛争が深刻化していたが、イラク政府を揺さぶるた め、イランのシャーがクルド人に武器を供与し、そのシャーの戦術を親ソのイラクを敵視す る米国が支援した。 七五年、イラク政府軍はカつきて大譲歩、イ・イ両国は和解協定に調印する。いわゆるア ルジェ協定である。シャーからの武器がストップしたクルド人は、イラク政府軍の総攻撃を みち

9. 民族世界地図

した。 ユダヤ・ロビー、ギリシャ・ロビーに次いでアルメニア・ロビーの強力なアメリカ議会で も、同様の追億日案が出された時、案文には「トルコ共和国創立以前になされた大虐殺」と の表現があった。トルコに米軍基地を置くため「現在のトルコに虐殺の責任なしとの立場 島で配慮したのだが、トルコ側は猛反発し、紛糾した。 ふ 八七年、カリフォルニア州は公立学校でアルメニア人「大虐殺」を教えるよう法律で義務 づけた。アメリカは八八年のアルメニア地震でも積極援助に動いた。とくに中間選挙をその ス フ秋に控えていた状況で、アメリカの政治家はアルメニア人に格段の気配りをせざるをえなか カ ったのだ。 とど 人 いまやアルメニア人は民族紛争に留まらず、国際関係やアメリカ国内政治をも動かすマグ ア マを拡散させている。九二年にアゼルバイジャン共和国内でアルメニア系住民とイスラム系 ア住民の武力衝突に発展、二年後ようやく停戦に至った。

10. 民族世界地図

終わった。 ベルシャ帝国の栄光が少数民族の声を押しつぶしたように、イスラム・シーア派の宗教的 糸対性も少数民族の独自性を封じ込める力をもったようだ。イスラム神権政治の下で、宗派 の差異は議論の対象になりうるが、民族の差異は軽視され民族自決権も尊重されすにきた。 そこへ国境の北側での民族紛争の激化である。とくにアルメニア共和国とアゼルバイジャ ン共和国の流血の衝突は、国境の南のアゼリーを大いに動揺させた。 憂アセ丿ーにはトルコ民族の血も流れていることから、イランとトルコによるアゼリー抱き 内 の込み争いという、危険な様相も一時みられた。しかし九五年十二月、トルコに史上初のイス ラ ラム政権が成立すると、イラン・トルコ関係が一挙に好転、アゼリーはその谷間に封じ込め られた。 誇 パキスタンとの国境地帯に居住するバルーチは、独立志向を持つイスラム・スンニー派で あり、九四年二月、反政府騒乱を起こすと、イラン政府はこの地域を開発特別区に指定し、 鎮静化を図っている。 159