第 14 章 れはおいらの心からの忠告だ。役に立てなくてすまねえけど、その忠告が煮干しのお礼がわりだ と思ってくれ」 オオカワさんはそう一一一一口うと立ち上がり、まわりを眺め、そのまま草むらの中に姿を消した。 ナカタさんはため息をついて、鞄から魔法瓶を出し、温かいほうじ茶をゆっくりと時間をかけ て飲んだ。あぶねえんだ、とオオカワさんは言った。しかしナカタさんにはこの場所に関連した あぶないものなんて、何も思いつけなかった。自分は迷子になった三毛猫を探しているだけなの だ。それのどこが危険なのだろう。カワムラさんの話していた、奇妙な帽子をかぶった〈猫とり 男〉が危険なのだろうか ? しかしナカタさんは人間だ。猫ではない。人間が猫とりを怯えなく てはならない理由はない。 でも世間にはナカタさんには想像もっかないものごとがたくさんあり、そこにはナカタさんに のうみ は理解できない理由が山ほどある。だからナカタさんは考えるのをやめる。容量が不足した脳味 噌でどれだけ考えたところで、ただ頭が痛くなるだけだ。ナカタさんはほうじ茶を大事に飲み終 え、魔法瓶に蓋をしてまた鞄にしまった。 ちょうちょう オオカワさんが草むらに消えたあと、長いあいだ一匹の猫も姿を見せなかった。蝶々だけが草 すずめ の上を静かに飛んでいた。雀たちが群をなしてやってきて、あちこちに散り、そしてまたひとっ に集まって去っていった。何度かうとうととまどろみ、そのたびにはっと目をさました。太陽の 位置でおおよその時刻はわかった。 その大がナカタさんの前に姿を現したのは夕方近くだった。
第 12 章 るいは性的な夢を見たおかげで私の中の何かの機能が刺激され、ときならず月経が始まってしま ったのかもしれません。いずれにせよ突然のことですので、そのための準備など持ち合わせてお りません。おまけに山の中です。 私は子どもたちにしばらくそのまま休憩するように指示し、林の奥の方に一人で入っていって、 てぬぐ 持参した何枚かの手拭いをつかって応急処置をいたしました。出血は量が多く、私はひどく取り 乱していましたが、学校に戻るまではこのままなんとかもつだろうと思いました。頭がほんやり として、うまく筋道立ててものを考えることもなりません。私はまた罪悪感のようなものを心に 感じていたと思います。赤裸々な夢を見たことについて、自慰をしたことについて、子どもたち の前で性的な幻想にふけっていたことについてです。私はどちらかというと、そ、ついうことに対 して自制する傾向が強かったのです。 適当に子どもたちにキノコを集めさせ、野外実習はなるべく早く切り上げて、山を下りようと 思いました。学校に戻れば、あとはなんとかなります。私はそこに腰を下ろし、子どもたちがめ いめいにキノコを集めているのを見守っていました。子どもたちの頭数を数え、誰も私の視野の 外に出ていかないように気をつけていました。 でもしばらくしてふと気がつくと、一人の男の子が何かを手に持って、私の方に歩いてくるの が見えました。中田という男の子でした。そうです。その事件後意識を回復しないまま、長いあ いだ病院に入っていた子どもです。その子が手に持っているのは、血に染まった私の手拭いでし しいますのは、私はそれをずい た。私は息を呑みました。自分の目が信じられませんでした。と、 171
う可能性だって考えられる。しかしナカタさんは何かをあてもなく待っことには馴れていたし、 一人で何もせずに時間をつぶすことにも馴れていた。そうすることにまったく苦痛を感じなかっ 時間は彼にとって主要な問題ではない。ナカタさんは時計すら持っていない。ナカタさんには ナカタさんに適した時間の流れ方があった。朝が来れば明るくなるし、日が暮れれば暗くなる。 暗くなれば近所のお風呂やさんに行くし、お風呂やさんから戻ってくると眠くなる。お風呂やさ しい。ご飯どき んは曜日によって閉まっていることがあるが、そのときはあきらめて家に戻れば、 になれば自然におなかが減るし、ホジョを取りに行く日がくれば ( その日が近づくと、いつも誰 かが親切に教えてくれた ) 1 カ月過ぎたことがわかる。ホジョをもらった明くる日には、髪を刈 ってもらいに近所の床屋さんに行く。夏が来れば区の人がウナギを食べさせてくれるし、正月に なれば区の人がお餅をくれる。 ナカタさんは身体の力を抜き、頭のスイッチを切り、存在を一種の「通電状態」にした。彼に とってそれはきわめて自然な行為であり、子どもの頃からとくに考えもせず日常的にやっている ことだった。ほどなく彼は意識の周辺の縁を、蝶と同じようにふらふらとさまよい始めた。縁の しんえん 向こう側には暗い深淵が広がっていた。ときおり縁からはみ出して、その目もくらむ深淵の上を 飛んだ。しかしナカタさんは、そこにある暗さや深さを恐れなかった。どうして恐れなくてはな なっ こんとん らないのだろう。その底の見えない無明の世界は、その重い沈黙と混沌は、昔からの懐かしい友 だちであり、今では彼自身の一部でもあった。ナカタさんにはそれがよくわかっていた。その世 もち
いました。精密な検査の結果、数人の子どもの体内に寄生虫が発見されましたが、特筆するほど けんたい のものではありませんでした。頭痛や吐き気や痛み、食欲不振、不眠、倦怠感、下痢、悪夢、そ のような症状もまったく見られませんでした。 ただ子どもたちの頭からは、山の中で意識を失っていた 2 時間分の記憶が失われていました。 これは全員に共通したことです。自分たちが倒れたときの記憶さえありません。その部分がきれ そうしつ いに抜け落ちてしまっています。これは記億の「喪失」というよりは、むしろ「欠落」というに 近いものです。これは専門的な用語ではなく、今便宜的に使っているだけですが、「喪失」と 「欠落」とのあいだには大きな違いがあります。簡単に説明しますと、そうですね、連結して線 路の上を走っている貨物列車を想像してみてください。その中の一両から積み荷がなくなってい る。中身だけのない空つほの貨車が「喪失ーです。中身だけではなく、貨車自体がすつほりなく なってしまうのが「欠落ーです。 私たちは、その子どもたちが何らかの毒ガスを吸い込んだ可能性について話し合ってみました。 〈そのことは当然考慮の対象になったし、そのために軍がこの事件に関与することになったわけ 。これは軍機 だが、今の段階では現実的に見て、その可能性はきわめて薄いと考えざるをえない に属する話だから、外部に漏らしてもらっては困るのだが : : : 〉と遠山軍医は言いました。 彼の話のあらましはだいたいこういうことでした。〈陸軍はたしかに毒ガスや生物兵器といっ た化学兵器の研究開発を秘密裏におこなっている。しかしそれらは主に中国大陸に本拠を置く特 殊部隊の内部で行われており、日本国内では行われていない。人口の密集したこの狭い国でそれ
第 22 章 ( 片方の耳たぶはそのときにつぶされてしまった ) 、祖父母は彼を学校にやらないことに決めた。 そして家の手伝いをさせながら彼を育てた。 = 一一口うことをよくきくおとなしい子どもだったので、 祖父母は彼をかわいがった。 猫と話ができるようになったのも、このころのことだ。家には何匹かの猫が飼われていて、そ の猫たちはナカタさんと親しい友だちになった。最初のうちは片言しか通じなかったけれど、ナ カタさんは外国語を習得するみたいに我崖強くその能力を発展させ、やがてはかなり長い会話が できるようになった。ナカタさんは暇さえあれば、縁側に座って猫たちと話をしていた。猫たち は自然や世の中についてのさまざまな事実をナカタさんに教えてくれた。実際の話、世界の成り たちについての基礎的知識のほとんどは猫から学んだようなものだった。 新歳になると、彼は近くの家具製造会社で木工の仕事をするようになった。会社とはいっても たんす 民芸家具を製作する木工所のようなところで、そこで作られる椅子やテープルや簟笥は東京に出 荷された。ナカタさんは木工の仕事もすぐに好きになった。もともと手先が器用だったし、細か い面倒な部分も手を抜かず、無駄ロもきかず、愚痴ひとっ言わずに仕事をしたので、雇い主には 気に入られ、かわいがられた。図面を読んだり、計算をしたりすることは不得意だったが、それ 以外のことならなんでも上手にこなせた。いったん作業のパターンが頭に入ってしまうと、同じ ことを飽きることなく延々と繰り返した。 2 年間見習い工をやったあと、本雇いに昇格した。 その生活が歳を過ぎるまで続いた。事故に遭うこともなく、病気をすることもなかった。酒 よふ も飲まず、煙草も吸わず、夜更かしも過食もしなかった。テレビを見ることもなく、ラジオを聴 367
な公園のようなところを見つけ、そこのべンチに腰を下ろした。 ナカタさんはそこで長いあいだ途方に暮れていた。ときどきひとり一言を言って、手のひらで短 く刈り込んだ頭を撫でた。公園には猫は一匹もいなかった。カラスがやってきて、ゴミ箱をあさ っていた。ナカタさんは何度か空を見上げ、太陽の位置からおおよその時刻を推測した。空は排 気ガスのせいで不思議な色に曇っていた。 お昼を過ぎると近くのビルで働いている人々が公園に出てきて、そこで弁当を食べた。ナカタ さんも用意してきたあんパンを食べ、魔法瓶のほうじ茶を飲んだ。隣のべンチに二人連れの若い 女性が座っていたので、ナカタさんは声をかけてみた。どうすればトーメイ高速道路に行くこと ができるのでしようかと、尋ねてみた。二人は都バスの運転手と同じことを教えてくれた。中央 線に乗って東京駅に出て、そこから東名高速バスに乗ればいいんですよと。 「それはさっきためしてみたのですが、うまくできませんでした」とナカタさんは正直に言った。 「ナカタはこれまでに中野区から外に出たこともありません。ですから電車にもうまく乗れない のです。都バスにしか乗れません。字が読めませんので、切符も買えません。都バスでここまで 来たのですが、そこから先に進めないのですー 二人はそれを聞いてかなりびつくりした。字が読めない ? しかし見るからに害のなさそうな 老人だった。にこやかで、身なりも小ぎれいだった。こんな天気の良い日にこうもり傘を持って いるのはいささかひっかかるけれど、ホームレスには見えない。顔だちだって悪くないし、何よ り目が澄んでいた。
た」と自首してきた人間をそのまま帰してしまい、報告すらしなかったのだから。 やがて清掃局の車がやってきて、道路に散らばった魚を処理した。若い警官はその交通整理を うろこ した。商店街の入り口を封鎖し、車が入れないようにした。商店街の道路にはイワシとアジの鱗 がこびりついて、いくらホースで水を流してもうまくとれなかった。しばらくのあいだ路面はぬ るぬるとして、自転車の車輪を滑らせて転ぶ主婦も何人かいた。魚の匂いはいつまでたっても抜 けず、近所の猫たちは一晩中興奮していた。警官はそのような雑事の処理に追われて、謎の老人 についてそれ以上考える余裕もなくなってしまった。 しかし魚が空から降ってきた翌日、近所の住宅地で男の刺殺死体が発見されたとき、その若い 警官は息を呑んだ。殺されていたのは高名な彫刻家で、死体を発見したのは一日おきにやってく る通いの家政婦だった。被害者はなぜか全裸で、床は血の海になっていた。推定死亡時刻は 2 日 前の夕方、凶器は台所にあったステーキナイフだ。あの老人がここで話したことは真実だったの だ、と警官は田 5 った。やれやれ、大変なことになってしまった。俺はあのとき本署に連絡して、 老人をパトカーで連れて行ってもらうべきだったんだ。殺人の告白をしたということで、そのま ま上に引き渡してしまうべきだったんだ。頭がおかしいかどうかの判断は彼らに任せればいい。 それで現場としての責任は果たせたはずだ。でも俺はそれをしなかった。こうなったらあとはだ んまりを決めこむしかないぞ。警官はそう決心した。 そのころナカタさんは既に街を出ていた。 294
第 18 章 を持って、ジョニー・ウォーカーさんを殺したのであります。 ジョニー・ウォーカーさんはナカタに、・目分を殺してほしいと一言いました。しかしナカタはジ そうです。ナカタはこれまで ョニー・ウォーカーさんを殺すつもりはありませんでした。はい、 人を殺したことなんてありません。ナカタはジョニー・ウォーカーさんが猫さんたちを殺すのを、 ただとめようと思っただけです。しかし体が一言うことを聞いてくれませんでした。体が勝手に動 いてしまったのです。ナカタはそこにありましたナイフを手にとって、一度、一一度、三度とジョ ニー・ウォーカーさんの胸に突き刺しました。ジョニ 1 ・ウォーカーさんは床に倒れ、血だらけ になって死にました。ナカタもそのときに血だらけになりました。そのあとナカタはふらふらと 椅子に座って、そのまま眠ってしまったのだと思います。目が覚めたらもう夜中で、空き地にい ました。ミミさんとゴマさんが隣にいました。それがさっきのことです。ナカタはまずコイズミ さんのおたくにゴマちゃんを届け、奥さんに焼きなすとキュウリの酢の物をいただき、それから すぐここに参りました。知事さんにご報告せねばと思ったのであります」 背筋を伸ばしたままそれだけ一気に話し終えると、ナカタさんは大きく息をした。一度にこんな に長い話をしたのは初めてのことだった。頭の中がからつほになってしまったような気分だった。 「そのことをどうか知事さんにお伝えください ばうぜん 若い警官は呆然とした顔でナカタさんの話を聞いていた。しかしナカタさんが何を言っている のか、実のところ彼にはほとんど理解できなかった。ジョニー・ウォーカー ? ゴマちゃん ? 「わかりました。知事さんにそのことを伝えておきましよう」と警官は言った。
て生活しておりますー 「もう夜も遅いし、あんたそろそろ家に戻った方がいいよ。そしてぐっすりと寝なさい。それで明 日になってまた何か思い出したら、もう一度ここに来なさい。そのときにあらためて話を聞こう」 勤務交代の時刻が近づいていたし、警官はその前に書類を片づけてしまいたかった。勤務が明 けたら同僚と一緒に、近くの酒場に飲みにいく約束になっていた。頭のおかしい老人の相手をし ている暇はない。しかしナカタさんは厳しい目をして首を振った。 まわ 「いいえ、お巡りさん、ナカタは思い出せるうちに一切をお話ししておきたく思います。明日に なれば大事なことを忘れてしまっているかもしれません。 ナカタは 2 丁目の空き地におりました。コイズミさんに頼まれて、そこで猫のゴマちゃんを探 していたのです。そこに大きな黒い大が突然やってまいりまして、ナカタをあるお宅につれてい きました。大きな門があり、黒い自動車のある大きなお宅でした。住所はわかりません。あたり に見覚えもありません。でもたぶん中野区だと思います。そこにジョニー・ウォーカーさんとい う不思議な黒い帽子をかぶった人がいました。丈の高い帽子です。台所の冷蔵庫の中には、猫さ んたちのあたまがたくさん並んでいました。個くらいはあったと思います。その人は猫さんを 集めて、のこぎりで首を切り、心臓を食べます。猫さんの魂をつかってとくべつな笛を作るので す。そしてその笛をつかって、今度は人の魂を集めるのであります。ジョニー・ウォーカーさん はナカタの前で、ナイフでカワムラさんを殺しました。ほかの何匹かの猫さんたちも殺しました。 ナイフでおなかを割きます。ゴマちゃんとミミさんも殺そうとしました。そこでナカタかナイフ
ない。ワンピースのカフスのボタンはきちんとはめられている。襟ぐりは丸く大きく、かたちの しい首筋を目立たせている。 彼女は机の前に座って頬杖をつき、壁のどこかを見ている。そしてなにかを考えている。でも むずかしいことを考えているのではなさそうだ。どちらかというと、それほど遠くない過去の温 かい回想にふけっているように見える。ときどきロもとにほんのわずか、微笑みのようなものか 浮かぶ。でも月の光の影になっているせいで、こちらから微妙な表情を読みとることはできない 僕は眠っているふりをする。彼女がそこでなにをしているにせよ、その邪魔をしたくないと思う。 僕は息をひそめ、気配を消す。 その少女が〈幽霊〉であることが僕にはわかる。まずだいいちに彼女は美しすぎる。顔立ちそ のものが美しいというだけじゃない。彼女ぜんたいのありかたが、現実のものであるにはあまり にも整いすぎているのだ。まるで誰かの夢の中からそのまま抜け出てきた人のように見える。そ かな の純粋な美しさは僕の中に、哀しみに似た感情を引き起こす。それはとても自然な感情だ。でも 自然でありながら、普通の場所には存在しないはずの感情だ。 ふとん 僕は布団にくるまって息を殺している。その一方で、彼女は机に頬杖をついたまま、その姿勢 あご をほとんど崩さない。ときどき顎の位置が手の中で小さく動き、それにあわせて頭の角度がほん のわずか変化する。部屋の中にある動きといえば、ただそれだけだ。窓のすぐそばの大きなハナ ミズキが、月の光を浴びて静かに光っているのが見える。風はやんでいる。どんな音も僕の耳に は届かない。自分が知らないうちに死んでしまったような感覚がある。僕は死んで、少女と一緒 6