第 3 章 「ねえ、これを食べてくれない ? 私はいち ) 」ジャムのサンドイッチって、世の中でいちばん嫌 いなもののひとつなの。子どものころからずっと」 僕はそれを受けとる。僕もいちごジャムのサンドイッチは決して好きじゃない。でも黙って食 べる。彼女はテープル越しに僕がちゃんと最後までそれを食べるのを見とどける。 「ひとっ君に頼みごとがあるんだけどと彼女は言う。 「どんなこと ? 」 「高松に着くまで、君のとなりの席に座っていていいかな ? ひとりでいるとどうも落ちつかな いんだ。変なひとがとなりに座ってきそうな気がして、うまく眠れなかった。切符を買ったとき にはひとりずつの独立したシートだって聞いていたんだけど、乗ってみたらじっさいには二人が けなんだよね。高松に着くまでに少しでも眠っておきたいの。君は変なひとには見えないみたい だし。ど、つ、かまわない ? 「かまわないけどーと僕は一言う。 「ありがとう」と彼女は一言う。「旅は道連れっていうものね」 僕はうなずく。うなずいてばかりいるような気がする。でもなんと言えばいいのだろう ? 「そのあとはなんだっけ ? 「そのあと ? 「旅は道連れ、のあと。なにか続きがあったわよね ? 思い出せない。私はコクゴが昔から弱い
第 5 章 所の区立図書館に行った。休みの日も多くの時間をそこでひとりで過ごした。物語や小説や伝記 や歴史、そこにある本を手あたりしだいに読んだ。子ども向けの本をひととおり読んでしまうと、 一般向けの書架に移って、大人のための本を読んだ。よく理解できない本でもとにかく最後のペ ジまで読みとおした。本を読むのに疲れると、ヘッドフォンのあるプースに座って音楽を聴い た。音楽についての知識はまったくなかったから、そこにあるものを右から順番にひとつひとっ 聴いていった。僕はそのようにしてデューク・エリントンやビートルズやレッド・ツェッペリン の音楽に巡りあった。 図書館は僕の第二の家のようなものだった。というかじっさいには、むしろ図書館のほうが僕 にとってのほんとうの我が家のようなものだったかもしれない。毎日のようにそこにかよってい るうちに、司書の女性たちとすっかり顔見知りになった。彼女たちは僕の名前を覚え、顔を合わ せればあいさつをし、あたたかい言葉をかけてくれた ( 僕はひどい恥ずかしがり屋だったのでろ くに返事もしなかったけれど ) 。 高松市の郊外に、旧家のお金持ちが自宅の書庫を改築してつくった私立図書館がある。珍しい 蔵書もそろっているし、建物も庭も一見の価値があるということだった。その図書館を雑誌『太 陽』の写真で見たことがある。古い大きな日本家屋で、応接室のような優雅な閲覧室があり、ゆ ったりとしたソフアに座って人々が本を読んでいた。その写真を見たとき、僕は不思議なほど強 く心をひかれた。そしていっかもし機会があったらぜひこの図書館を訪ねてみようと田 5 った。 こうむら 「甲村記念図書館」というのが図書館の名前だった。
「場合によっては」と大島さんは一言う、「場合によっては、救いかないということもある。しか しながらアイロニーが人を深め、大きくする。それがより高い次元の救いへの入り口になる。そ こに普遍的な希望を見いだすこともできる。だからこそギリシャ悲劇は今でも多くの人々に読ま れ、芸術のひとつの元型となっているんだ。また繰りかえすことになるけれど、世界の万物はメ タファーだ。誰もが実際に父親を殺し、母親と交わるわけではない。そうだね ? つまり僕らは メタファーという装置をとおしてアイロニーを受け入れる。そして自らを深め広げる」 い、こ架くとらわれている 僕は黙っている。僕は僕自身の思しし、冫 「君が高松に来たことを知っている人は ? 」と大島さんは質問する。 僕は首を振る。「僕がひとりで思いついて、ひとりで来たんだ。誰に 一」も言っていない。誰も知 らないと思、つ」 ひそ 「それならしばらくのあいだ図書館のこの部屋に身を潜めていることだね。受付の仕事もしない ようにして。警察にも君の足取りはたぶんたどれないだろう。それにもしなにかあったら、また あの高知の山中に引っこめばいい 僕は大島さんの顔を見る。それから一言う。「もし大島さんに会えなかったら、僕はたぶんどう しよ、つもなくなっていたと思う。この町でまったくのひとりほっちで、助けてくれる人もいなく 大島さんは微笑む。僕の肩から手を離し、その手を眺める。 「いや、そんなことはないんじゃないかな。もし仮に僕に出会わなかったとしても、君はきっと
第 17 章 の決心が必要だったはずだけど 「図書館がどうしてそんなに大事だったんだろう」 「ひとつには、そこに彼が住んでいたからだよ。彼は、佐伯さんの亡くなってしまった恋人は、 今の甲村図書館がある建物で、つまりかっての甲村家の書庫の中で生活していたんだ。彼は甲村 家の長男だったし、血筋というべきか、本を読むのがなによりも好きだった。そしてこれも甲村 家の血筋のひとつの特徴なんだけど、孤独を好む性格だった。だから中学校にあがったとき、み おもや んなが暮らしている母屋ではなく、書庫のある離れに自分ひとりの部屋がほしいと主張し、それ はかなえられた。なにしろ本の好きな一族だから、そ、ついうことには理解がある。『なるほど、 本にかこまれて暮らしたいのか。それはけっこうなことだ』ってね。彼はその離れで、誰に邪魔 されることもなく生活し、食事をするときだけ母屋に帰った。佐伯さんは毎日のようにそこに遊 びに来た。二人で一緒に勉強し、一緒に音楽を聴き、果てしなく話をした。そしてたぶん一緒に 抱きあって眠った。その場所は二人にとっての楽園になった」 大島さんはハンドルの上に両手を置いたまま、僕の顔を見る。「君はこれからそこに住むこと になるんだ、カフカくん。まさにその部屋にね。さっきも言ったよ、つに図書館に改築したときに いくらか手は入れてある。でも部屋としては同じだ」 僕は黙っている。 「佐伯さんの人生は基本的に、彼が亡くなった歳の時点で停止している。いや、そのポイント は跚歳ではなく、もっと前かもしれない。僕にはそこまではわからない。しかし君はそのことを 279
の顔をちらりと見る。「シューベルトの音楽は好き ? とくに好きなわけじゃない、と僕は言う。 大島さんはうなずく。「僕は運転しているときには、よくシューベルトのピアノ・ソナタを大 きな音で聴くんだ。どうしてだと思う ? 」 「わからない」と僕は言う。 「フランツ・シューベルトのピアノ・ソナタを完璧に演奏することは、世界でいちばんむずかし い作業のひとつだからさ。とくにこのニ長調のソナタはそうだ。とびつきりの難物なんだ。この 作品のひとっかふたつの楽章だけを独立して取りあげれば、それをある程度完璧に弾けるピアニ ストはいる。しかし四つの楽章をならべ、統一性ということを念頭に置いて聴いてみると、僕の これまでに様々な名ピアニストがこの曲に挑 知るかぎり、満足のいく演奏はひとっとしてない。 んだけれど、そのどれもが目に見える欠陥を持っている。これならという演奏はいまだない。。 、つしてだと田 5 、つ ? ・ 「わからない」と僕は言う。 「曲そのものが不完全だからだ。ロベルト・シューマンはシューベルトのピアノ音楽の良き理解 者だったけど、それでもこの曲を『天国的に冗長』と評した」 「曲そのものが不完全なのに、どうして様々な名ピアニストがこの曲に挑むんですか ? 「良い質問だ」と大島さんは一一一口う。そして間を置く。音楽がその沈黙を満たす。「僕にも詳しい 説明はできない。でもひとつだけ一言えることがある。それはある種の不完全さを持った作品は、
たとえ町に戻ってきても、彼女は人々にとって相変わらず謎の存在でありつづけた。彼女はこ のうえなく洗練されたスタイルで、秘密の衣をまといつづけていた。そこには簡単には近づきが たいものがある。名目上は雇い主である甲村家の人々でさえ彼女には一目置いて、余計な口出し はしないよ、つにしていた。 やがて大島さんが彼女の助手として、図書館で働くようになった。大島さんはそのころ学校に も行かず仕事もせず、ひとりで家にこもって大量の本を読み、音楽を聴いていた。電子メイルの 文通相手をべつにすれば、友だちもほとんどいないようだった。血友病という事情のせいもあっ て、専門病院に行ったり、あてもなくマッダ・ロードスターに乗ったり、定期的に広島の大学病 院に行ったり、高知の山小屋にこもるときのほかは町を離れることもなかった。しかし彼はそん な生活にたいしてとくに不満も抱かなかった。佐伯さんは大島さんのお母さんにある日、ふとし たきっかけで彼を紹介され、一目で気に入ってしまった。大島さんのほうも佐伯さんが気に入っ たし、図書館で仕事をすることにも興味を持った。佐伯さんが日常的に接触し口をきく相手は、 大島さんひとりだけのようだった。 「大島さんの話を聞いていると、佐伯さんは甲村図書館の管理の仕事をすることを目的としてこ こに帰ってきたみたいに思えるんだけど」と僕は一言う。 「そうだね。僕もだいたい同じことを感じている。母親の葬儀は戻ってくるためのひとつのきっ かけに過ぎなかったんだろうと。過去の記憶がしみついた故郷の町に戻ってくるには、それなり 2 フ 8
しましよ、つ」 彼女は大島さんの顔をにらみつける。ひと息ついてあとをつづける。「それからもうひとつお うかがいしたいのですが、著者の分類が男女別になっていますー 「はい。そのとおりです。そのインデックスを作ったのは私たちの前任者ですが、なぜか男女別 になっています。そのうちに作りなおそうと思っているのですが、余裕のないまま現在に至って います 「私たちはなにもそのことに文句をつけているのではありません」と彼女は言う。 大島さんは軽く首をかしげる。 「ただしこの図書館では、すべての分類において、男性の著者が女性の著者より先に来ていま すーと彼女は言う。「私たちの考えるところによれば、これは男女平等という原則に反し、公平 性を欠いた処置ですー 大島さんは名刺を手に取り、も、つ一度そこにある文字を読み、それをまたカウンターの上に置 「曽我さん」と大島さんは言う。「学校で出欠をとられるときには、曽我さんは田中さんの前だ し、関根さんのあとだったはずです。あなたはそのことに対して文句を言いましたか ? たまに は逆から呼んでくれと抗議しましたか ? アルファベットのは自分がのあとになっているか らといって腹を立てますか ? 本のページは自分がページのあとになっているからといって 革命を起こしますか ? 304
第 19 章 あいさっ に挨拶をする。「おはよう」と彼女は言、つ。「おはようございますーと大島さんと僕は言う。僕ら のあいだで交わされる会話はそれだけだ。佐伯さんは紺色の半袖のワンピースを着て、手にコッ トンの上着を持っている。肩からショルダーバッグをかけている。アクセサリーというものをほ まぶ とんど身につけていない。化粧気もあまりない。しかしそれでも彼女には相手を眩しがらせるも のがある。大島さんの横に立っている僕を見て、なにか言いたそうな顔をするが、結局なにも一言 わない。僕に向かって軽く微笑み、それから静かに階段をあがって二階に行く。 「大丈夫だよーと大島さんは言う。「君のことはすべて了解しているし、なにも問題はない。余 計なことは言わない人なんだ。それだけ Ⅱ時になると、大島さんと僕は図書館を開ける。門を開けてもすぐには誰も入ってこない。大 島さんは検索コンピュータの使いかたを僕に教える。図書館でよく使われているのもので、 僕はその使いかたに馴れている。それから閲覧カードの整理方法を教える。毎日何冊かの新刊書 が郵便で届くので、それを手書きでカードに書きこむのも仕事のひとつだ。 Ⅱ時半に一一人連れの女性が現れる。どちらも同じような色かたちのプルージーンズをはいてい る。背の低いほうは水泳選手のように髪を短くして、背の高いほうは髪を編みあげている。靴は どちらもジョギング・シューズ。ひとりはナイキ、ひとりはアシックス。背の高いほうは鬨歳く らい、背の低いほうは歳くらいに見える。背の高いほうは格子柄のシャツを着て眼鏡をかけ、 背の低いほうは白いプラウスを着ている。どちらもデイバックを背負い、曇り空のような気むず かしい顔をしている。ロ数も少ない。大島さんは入り口で荷物を預かり、彼女たちはそこから不
第 23 章 僕は三度繰りかえしてそのレコードを聴く。まず疑問がひとっ頭に浮かぶ。どうしてこんな歌 詞のついた曲が 10 0 万枚以上を売るような大ヒットになったのだろう ? そこで使われている 言葉は難解とまでは言わないまでもずいぶん象徴的なものだし、シュールレアリスティックなお もむきさえある。少なくともたくさんの人がすぐに覚えて口ずさめるようなものじゃない。でも 繰りかえし聴いているうちに、その歌詞は少しずつ親しげな響きを帯びてくる。そこにあるひと つひとつの言葉が僕の心に居場所をみつけて収まっていく。それは不思議な感覚だ。意味をこえ 世界を動かす振り子を想う。 心の輪が閉じるとき どこにも行けないスフィンクスの 影かナイフとなって あなたの夢を貫く。 おま 泓れた少女の指は 入り口の石を探し求める。 あお 蒼い衣の裾をあげて 海辺のカフカを見る。 393
第 7 章 部屋に戻り、リュックを背負って外に出る。部屋に荷物を置いていくこともできる。お金を貸 金庫に預けていくこともできる。そのほうが安全なのかもしれない。でもできることなら、いっ もそれを手もとにもっていたいと思う。それは今ではもう僕の身体の一部のようになってしまっ ている。 駅前のターミナルからバスに乗って体育館に行く。もちろん僕は緊張している。顔がこわばっ ているのがわかる。僕くらいの年齢の少年が平日の昼間にひとりで体育館に行くことを、誰かか 見とがめるかもしれない。そこはなんといっても知らない街なのだ。人々がここでいったいどん なことを考えているのか、僕にはまだっかめていない。でも誰も僕には注意を払わない。僕はむ しろ自分が透明人間になってしまったような錯覚にさえ襲われる。入り口で黙って料金を払い かぎ ロッカーの鍵を黙って受けとる。ロッカールームでジム・ショーツと軽い (--4 シャツに着替え、ス トレッチをして筋肉をほぐしているうちに、少しずつ落ち着きを取り戻してくる。僕は僕という 入れ物の中にいる。僕という存在の輪郭が、かちんという小さな音をたててうまくひとつにかさ なり、ロックされる。これでいい。僕はいつもの場所にいる。 サーキット・トレーニングにとりかかる。 Q ウォークマンでプリンスの音楽を聴きながら、 たつぶり 1 時間かけて、 7 台のマシンをいつもの手順でこなしていく。 地方の公営の体育館とい うことで旧式のマシンを予想していたのだが、実際にはびつくりするくらいの新鋭機が揃ってい た。新しいスチールの匂いがまだ空中に漂っている。まず少ない負荷で最初のラウンドをこなし、 次に負荷を大きくして二度目のラウンドをこなす。いちいち表に書きこむまでもない。僕の身体