をつける。 建物の中には大きな部屋が箱のようにひとつあるだけだ。隅のほうに小さなべッドが置いてあ る。食事用の机があり、木製の椅子がふたつある。古びたソフアがある。敷物は宿命的に日焼け している。いくつかの家庭で不要品になった家具を、手当たりしだいにかき集めてきたみたいに 見える。ぶ厚い棚板をプロックで積み重ねただけの本棚があり、そこにはたくさんの本が並んで いる。本の背表紙はどれも古く、しつかりと読みこまれている。服を入れるための古風なチェス トがある。簡単な台所がある。カウンターがあり、小さなガス台がひとつ、そして流し台がある。 でも水道はない。そのかわりにアルミニウム製の水桶が置いてある。鍋ややかんが棚に並べられ まき ている。フライバンか壁にかかっている。部屋の真ん中に黒い鉄製の薪ストープがある。 「兄がほとんど自力でこのキャビンをこしらえたんだ。もともとあった簡単な木こりの小屋を大 幅に改造した。けっこう器用な人なんだ。僕もまだ小さかったけど、怪我をしない程度に少しは 手伝った。自漫じゃないけど、すごく原始的なしろものだ。さっきも言ったように電気もない。 水道もない。便所すらない。文明の利器としてあるのは、辛うじてプロバン・ガスだけだ」 大島さんはやかんを手にとり、ミネラル・ウォーターを使って中を簡単にゆすいでから、それ で湯を沸かす。 「この山はもともと祖父の所有物だった。祖父は高知の資産家で、たくさんの土地や財産を持っ ていた。川年くらい前に彼か亡くなり、兄と僕が遺産としてこの山林を引き継いだ。ほとんど山 ひとつまるごと。ほかの親戚は誰もこんなところを欲しがらなかった。へんびなところだし、資 おけ
第 3 章 見える。 カフェテリアに入って無料サービスの熱い緑茶を飲んでいると、ひとりの若い女性がやってき てとなりのプラスチックの椅子に腰をおろす。彼女は自動販売機で買ったばかりのコーヒーの紙 コップを右手に持っていて、そこから白い湯気が立ちのばっている。左手にはこれも販売機で買 ったらしい、サンドイッチの入った小さな箱を持っている。 彼女の顔立ちは正直なところ一風変っている。というか、どう好意的に見ても、整ったもので はない。額は広くて、鼻は小さく丸く、頬はそばかすだらけだ。耳も尖っている。どっちかとい えばかなり目だつつくりの顔だ。乱暴なっくりと言ってもいいくらいだ。でも全体の印象はぜん なじ ぜん悪くない。本人も自分の容姿に完全に満足はしていないまでも、うまく馴染んでくつろいで いるように見える。それはきっと大事なことなのだろう。そこにある子供つほさみたいなものが 相手を安心させる。少なくとも僕を安心させる。背はあまり高くないけど、身体はすらりと細く、 その割に胸が大きい。脚のかたちもきれいだ。 両方の耳たぶには薄い金属片のイヤリングが下がっていて、ジュラルミンのようにときどき眩 よこじま しく光る。肩までの髪を濃い茶色に染めて ( ほとんど赤に近い ) 、太い横縞のボートネックの長 袖シャツを着ている。肩に小さな革のリュックをかけ、夏物の薄いセーターを首に巻いている。 クリーム色のコットンのミニスカート、ストッキングはなし。洗面所で顔を洗ってきたらしく、 前髪が何本か、植物の細い根っこのように広い額に張りついていて、それがどことなく僕に親し みをいだかせる。 そで まぶ
第 5 章 射させている。平地を曲がりくねって流れる川の水は凉しげで、空き地は緑の夏草におおわれて いる。大が線路のわきに立って、通り過ぎる電車を見ている。そういう風景を眺めていると、僕 の心にもう一度あたたかく穏かな思いが戻ってくる。大丈夫だ、僕は大きく深呼吸してから自分 にそう言いきかせる。このまま前に進んでいくしかないんだ。 駅を出て、教えられたとおり古い町並みを北に向かって歩く。道の両側には家々の塀がどこま でもつづいている。そんなにたくさんの、いろんな種類の塀を目にしたのは生まれてはじめてだ。 みかげいし 黒い板塀、白壁の塀、御影石を積んだ塀、石垣の上に植え込みのある塀。あたりはひっそりとし ていて、歩いている人の姿もない。車もほとんどとおりかからない。空気を吸いこむとかすかに とこ 海の匂いがする。きっと海岸が近いのだろう。耳を澄ませてみるが、波の音は聞こえない。・ か遠くのほうで建築工事をしているらしく、電動のこぎりの音が蜂の羽音のように小さく聞こえ る。駅から図書館まで、矢印のついた小さな案内板がところどころに出ているので、道に迷うこ とはない。 せいそ 甲村記念図書館の堂々とした門の手前には、清楚なかたちをした梅の木が一一本生えている。門 を入ると曲がりくねった砂利道がつづき、庭の樹木は美しく手を入れられて、落ち葉ひとつない。 と - つろう もくれん 松と木蓮、山吹。ツッジ。植え込みのあいだに大きな古い灯籠かいくつかあり、小さな池も見え る。やがて玄関に着く。とても凝ったっくりの玄関だ。僕は開いた戸の前に立ちどまり、中に入 ろうかどうしようか少しのあいだ迷う。それは僕の知っているどんな図書館とも違っている。で もわざわざ訪ねて来たのだから、やはり入らないわけにはいかない。玄関を入ってすぐのところ
家を出るときに父の書斎から黙って持ちだしたのは、現金だけじゃない。古い小さな金のライ たた しか ター ( そのデザインと重みが気にいっていた ) と、鋭い刃先をもった折り畳み式のナイフ。鹿の 皮を剥ぐためのもので、手のひらにのせるとずしりと重く、刃渡りは肥センチある。外国旅行を したときのみやげものなんだろうか。やはり机の引き出しの中にあった強力なポケット・ライト ももらっていくことにした。サングラスも年齢をかくすためには必要だ。濃いスカイプルーのレ ヴォのサングラス。 父が大事にしているロレックスのシー・オイスターを持っていこうかとも思ったけれど、迷っ た末にやめた。その時計の機械としての美しさは僕を強くひきつけたが、必要以上に高価なもの を身につけて人目をひきたくはなかった。それに実用性を考えれば、僕がふだん使っているスト ップウォッチとアラ】ムのついたカシオのプラスチックの腕時計でじゅうぶんだ。むしろそちら のほうがすっと使いやすいはずだ。あきらめてロレックスを机の引き出しに戻す。 ほかには小さいころの姉と僕が二人並んでうつった写真。その写真も机の引き出しの奥に入っ 第 1 章
さない。なんとなくそのほ、つかいいよ、つな気がしたから。 「それはよかった」と大島さんは一言う。「たぶん君の気に入ると思ったんだ」 「でも僕らは今から街に戻るんですね」 「そう。僕らは街に戻る」 我々は帰り支度をする。てきばきと要領よく、小 屋の中を片づける。食器を洗って戸棚にしま い、ストープのよごれを掃除する。水桶の中の水を捨て、プロバン・ガスのポンべのバルプを閉 める。日もちのする食品を食品棚にしまい、 日もちのしない食品は処分する。ほうきで床を掃き、 ぞうきん テープルや椅子の上を雑巾で拭く。表に穴を掘ってごみをそこに埋める。ビニールなんかは小さ くまとめて持ち帰る。 大島さんは小屋の鍵を閉める。僕は最後に振りかえってその小屋を見る。それはさっきまでし つかりと実在していたのに、今ではなんとなく架空のもののように感じられる。ほんの数歩歩い ただけで、そこにあったものごとはたちまち現実感を失っていく。そしてさっきまでそこにいた はずの僕自身さえ架空のもののように思えてくる。大島さんが車を停めたところまでは、歩いて 分ほどかかる。僕らはほとんど口をきかず、山道を下る。大島さんはそのあいだずっとなにか のメロディーを口ずさんでいる。僕はとりとめのない思いをたどっている。 緑色の小さなスポーッカーはまわりの樹木にとけこむようなかっこうで、じっと大島さんが戻 るのを待っている。知らない人間が迷って ( あるいは意図して ) 入りこまないように、彼は門を 264
第 15 章 ているのに、意識は冷たく覚めている。ときどき夜の鳥が鋭く鳴いて静けさを破る。ほかにも正 体のわからないさまざまな音が聞こえる。なにかが落ち葉を踏む音。なにかの重みで枝がすれる 音。なにかが息を大きく吸いこむ音。それらはみんな小屋のすぐ近くから聞こえる。ときおりポ ーチの床がみしりと不吉に軋む。まわりを見知らぬものたちの。ーー暗闇に生きるものたちの 軍団に包囲されているみたいに僕は感じる。 誰かに見られているという感覚がある。僕はその視線をひりひりと肌に感じる。心臓が乾いた 音をたてる。僕は目を細く開き、寝袋の中に潜りこんだまま、淡いランプの光に照らされた部屋 の中を見まわし、そこに誰もいないことを何度もたしかめる。入り口のドアには太いポルトがか かり、窓の厚いカーテンはびたりと閉められている。大丈夫、この小屋の中にいるのは僕ひとり で、誰も中をのぞきこんだりはしていない。 それでも「誰かに見られている」という感覚は消えない。 ときどきひどく息苦しくなり、喉が 渇く。水が飲みたい。しかし今ここで水を飲んだりしたらきっと小便がしたくなるだろうし、こ んな夜に外に出て用を足したくはない。朝まではなんとか我漫しよう。僕は寝袋の中で身を折り 曲げたまま、小さく首を振る。 「やれやれなんのことはない、君は沈黙と暗闇におびえて縮みあがっている。それじゃまるで臆 びよう 病な小さな子どもじゃないか。それが君のほんとうの姿なのかい ? 」とカラスと呼ばれる少年が あきれたように言う。「君はずっと自分のことをタフだと思ってきた。でもほんとうはそうじゃ きし 2 ち
第 11 章 夜のこともできるだけ思いださないようにする。歯を磨き、新しい下着に着替える。寝袋を小さ く畳み、リュックに入れる。たまった汚れ物を洗濯機で洗わせてもらう。乾燥機はなかったので、 洗い終わって脱水したものを畳んでビニールの袋に入れ、リュックにしまう。どこかのコイン・ ランドリーで乾かせばいい。 僕は台所の流し台に重なりあうようにたまっていた食器を全部洗い、少し乾かしてから拭き、 棚にしまう。冷蔵庫の中身を整理し、悪くなっている食品を処分する。中にはひどい匂いを放っ ているものもある。プロッコリにはかびがはえている。キュウリはゴムみたいになっている。豆 腐は期限切れだ。容器を新しいものに入れ替え、こばれたソースをふきとる。灰皿の中の吸い殻 を捨て、散らばっている古い新聞を集める。床に掃除機をかける。彼女にはマッサージの能力は あるかもしれない。でも家事能力はゼロに等しいらしい。タンスの上にだらしなく積みあげてあ る彼女のシャツに片端からアイロンをかけ、買い物をして今夜の夕食をつくりたいという気持ち になる。僕はひとりで生きていけるように家にいるときからできるだけ自分で家事をこなすよう にしてきたし、そういう作業は苦にならないのだ。しかしそこまでやるのはたぶんやりすぎだろ ひと仕事を終え、台所のテープルの前に座り、あたりを見まわす。そして、ずっとここにいる し。 ( い力ないと田 5 、つ。それはかなりはっきりしている。ここにいるかぎり僕はまちかいなく、 絶えまなく勃起しつづけるだろうし、絶えまなく想像しつづけるだろう。洗面所に干してある彼 女の小さな黒い下着から目を背けつづけるわナこま、ゝ 。し ( し力ない。彼女に想像力の許可を求めつづけ 161
こりうるのだ。僕はそのことを確信する。人は生きながら幽霊になることがある。 そしてもうひとつ大事な事実ーーー僕はその〈幽霊〉に心をひかれている。僕は今そこにいる佐 伯さんにではなく、今そこにはいない新歳の佐伯さんに、いをひかれている。それもとても強く。 ことばでは説明のつかないくらい強く。これはなにがあろうと現実の出来事だ。その少女はある Ä」・つき いは現実の存在ではないかもしれない。でも僕の胸の中で強く動悸を打っているのは、僕の現実 の心臓だ。あの夜、僕の胸についていた血が現実のものだったのと同じように。 閉館時間に近くなって、佐伯さんが下りてくる。彼女のヒールが階段の吹き抜けの部分にいっ もの音を響かせる。彼女の顔をみとめると僕の筋肉はこわばり、心臓の鼓動がすぐ耳もとにまで あがってくる。僕は佐伯さんの中に、あの新歳の少女の姿を見ることができる。少女はまるで冬 眠する小さな動物のように、佐伯さんの身体の中の、小さなくばみにこっそりと眠っている。僕 にはそれが見える。 佐伯さんは僕になにかを質問する。でもそれに答えることができない。質問の意味さえよくっ かめない。もちろん彼女の言葉は僕の耳に入ってくる。それは鼓膜を振動させ、その振動は脳に 伝えられ、一一一一口語に置き換えられる。でもことばと意味の繋がりがっかめない。僕はどぎまぎして 赤くなり、要領を得ないことを口にする。大島さんがかわりに彼女の質問に返事をしてくれる。 あいさっ 僕はそれに合わせてうなずく。佐伯さんは微笑み、僕と大島さんに別れの挨拶をして帰っていく。 駐車場から彼女のフォルクスワーゲン・ゴルフのエンジン音が聞こえる。それが遠ざかり、やが つな
第 13 章 エンジンをかけたまま外に出て、金網を張った金属のゲートのようなものの鍵をはずし、押して 開ける。それから車を中に入れ、またひとしきり曲がりくねった悪路を進む。やがて目の前に少 し開けた場所が現れ、道路はそこで終わっている。大島さんは車をとめ、シートの中でひとつ大 きくため息をつき、両手で前髪をうしろに押しやり、それからキーをまわしてエンジンを切る。 ーキング・プレーキを引く。 エンジンが停まると、重みのある静寂がやってくる。冷却ファンがまわり、酷使され熱を持っ たエンジンが外気にさらされて、しゅんしゅんと音をたてている。ボンネットからかすかに湯気 かあがっているのが見える。すぐ近くを小川が流れているらしく、水音が小さく耳に届く。風が ときおり頭上の高いところで象徴的な音をたてる。僕はドアを開けて外に降りる。空気のところ どころにはまだらに冷気が混じっている。シャツの上に着ているヨットパーカのジッパーを、 首まであげる。 目の前に小さな建物がある。山小屋のようだが、あまりにも暗くて細かいところまでは見えな い。黒々とした輪郭が、森を背景に浮かびあがっているだけだ。大島さんは車のライトをつけた まま、小型の懐中電灯を手にゆっくりと歩いて行き、ポーチのステップを何段かあがり、ポケッ トから鍵を出してドアを開ける。中に入り、マッチを擦ってランプに火をつける。ドアの前のポ ーチに立ち、そのランプをかざして僕に声をかける。「我が家にようこそ」。彼の姿は古い物語の さし絵の一部みたいに見える。 僕はポーチの階段をあがり、建物の中に入る。大島さんは天井から下がった大きなランプに火 197
第 19 章 「 My pleasure 」と彼は英語で返事をする。 大島さんが行ってしまうと、僕はリュックの中の荷物を整理する。数少ない服をチェストにし まし、、 ノヤッと上着をハンガーにかけ、ノートと筆記具を机の上に置き、洗面用具をバスルーム に持っていき、リュックをクローゼットの中に入れる。 部屋の中には装飾的なものはなにもないが、壁に一枚だけ小さな油絵がかかっている。海辺に いる少年の写実的な絵だった。悪くない絵だ。名のある画家が描いたのかもしれない。少年はた ひじ ぶん肥歳くらい。白い日よけ帽をかぶり、小振りなデッキチェアに座っている。手すりに肘をつ ゅううつ き、頬杖をついている。いくぶん憂鬱そうな、いくぶん得意そうな表情を顔に浮かべている。黒 士 6 も いドイツ・シェパードが少年を護るような格好でそのとなりに腰をおろしている。背景には海が 、。・甲にはトさな 見える。何人かの人々も描きこまれているが、とても小さくて顔までは見えなし こぶし 島が見える。海の上には握り拳のようなかたちをした雲がいくつか浮かんでいる。夏の風景だ。 僕は机の前の椅子に座って、しばらくその絵を眺める。見ていると、実際に波の音が聞こえ、潮 の匂いかかぎとれそうな気がしてくる。 そこに描かれているのは、この部屋にかって暮らしていた少年なのかもしれない。佐伯さんが 愛した同い歳の少年。歳のときに学生運動のセクト間の争いに巻きこまれて、意味もなく殺さ れてしまった少年。たしかめようもないけれど、なんとなくそ、ついう気がする。風景もこのあた りの海辺の風景のように見える。もしそうだとしたら、その絵の中に描かれているのは鬨年くら い前の風景であるはずだ。鬨年という歳月は、僕にはほとんど永遠みたいに思える。ためしに鬨 ほおづえ 297