知ら - みる会図書館


検索対象: 海辺のカフカ 上
354件見つかりました。

1. 海辺のカフカ 上

「オレもね、何度かそういうことがあった。もちろんもっとずっと若いときのことだけどな」と オオッカさんは思い出すように目を細めて言った。「いったん帰り道がわからなくなると、パニ ックになる。目の前が真っ暗になる。何がなんだかわからなくなってしまう。あれはいやなもん だ。性欲というのは、まったく困ったものなんだ。でもそのときには、とにかくそのことしか考 えられない。あとさきのことなんてなんにも考えられないんだ。それが : : : 性欲ってもんだ。だ から、その、なんていったつけな、いなくなった猫の名前は ? 「ゴマでありますか ? 」 「そう。そのゴマのことも、オレとしては、なんとか見つけだして助けてやりたいとは思うよ。 けんか どっかの家で大事に飼われていた一歳の三毛猫なんて、世の中のことを何も知りやしない。喧嘩 ひとつできないし、飯だって自分じゃみつけられない。かわいそうなもんだ。でも残念ながらそ の猫は見かけたことがない。、 へつの場所をあたってみた方がいいと思うねー 「そうですか。それではおっしやるとおり、べつの方面をあたってみることにいたします。オオ ッカさんのお昼寝のところをおじゃまいたしまして、たいへん申し訳ありませんでした。そのう ちにまたこのへんに立ち寄ることもあると思いますので、もしそれまでにゴマの姿を見かけたら、 ナカタにぜひ教えてください。失礼かもしれませんが、できる限りのお礼はいたしますー 「いや、あんたと話せて面白かったよ。またそのうちに : : : おいで。天気さえよければ、この時 間にはこの空き地にいることか多い。雨が降っていると、あの階段を下りたところにある神社に いるよ」

2. 海辺のカフカ 上

「はい。 戦争のことは知っています。ナカタが生まれたときにも大きな戦争が行われておりまし た。そのような話を聞きました」 「戦争が始まると、兵隊にとられる。兵隊にとられたら、鉄砲をかついで戦地に行って、相手の 兵隊を殺さなくてはならない。それもなるべくたくさん殺さなくちゃならない。君が人殺しが好 しんしやく きとか嫌いとか、そんなことは誰も斟酌しちゃくれない。それはやらなくてはならないことなん だ。さもないと逆に君が殺されることになる」 ジョニー・ウォーカーは人差し指の先をナカタさんの胸に向けた。「ズドン ! ーと彼は言った。 「それが人間の歴史の骨子だ」 ナカタさんは質問した。「知事さんがナカタを兵隊にとって、人を殺せと命令するのでしよう 「そうだ知事さんがそれを命令するのだ。人を殺せとー ナカタさんはそれについて考えてみたが、うまく考えをまとめることができなかった。どうし て知事さんが自分に人殺しを命じなくてはならないのだろう。 「というわけでつまり、君はこう考えなくちゃならない。これは戦争なんだとね。それで君は兵 隊さんなんだ。今ここで君は決断を下さなくてはならない。私が猫たちを殺すか、それとも君が 私を殺すか、そのどちらかだ。君は今ここで、その選択を迫られている。もちろんそれは君の目 から見れば実に理不尽な選択だろう。しかし考えてもみてごらん、この世の中のたいていの選択 は理不尽なものじゃないか

3. 海辺のカフカ 上

第 15 章 さんの星はなかった。いくつかの星はひどく大きく、生々しく見える。真剣に手をのばせば、そ のまま届いてしまいそうだ。それはもちろん息を呑むほど美しい光景だ。 でも美しいというだけじゃない。そう、星たちは森の樹木と同じように生きて呼吸をしている んだ、と僕は思う。そして彼らは僕を見ている。僕がこれまでなにをしてきて、これからなにを しようとしているのか、彼らは知っている。隅から隅まで彼らの目が見逃すものはひとっとして ない。僕はその輝く夜空の下で、再び激しい恐怖に襲われる。息苦しくなり、心臓の動悸が速ま る。これほどすさまじい数の星に見おろされながら生きてきたというのに、僕は彼らの存在に今 まで気づきもしなかった。星についてまともに考えたことなんて一度もなかった。いや、星だけ じゃない。そのほかにどれくらいたくさん、僕の気づかないことや知らないことが世の中にある のだろ、つ ? そう思うと、自分が救いようもなく無力に感じられる。どこまで行っても僕はそん な無力さから逃げきることはできないのだ。 僕は小屋の中に入り、ストープに薪を入れ、注意深く積みあげる。引き出しの中にあった古い 新聞紙を丸めてマッチで火をつけ、炎が薪に移るのをたしかめる。小学生のときに夏休みのキャ ンプに入れられて、そこでたき火の起こしかたを教わった。キャンプはずいぶんひどいものだっ たけど、少なくともなにかの役にはたったわけだ。煙突のダンパーを全開にし、外気を中に入れ る。はじめのうちはうまくいかないが、ようやく一本の薪が炎をキャッチする。ひとつの薪から べつの薪へと炎が移っていく。僕はストープの蓋を閉め、椅子をその前に置き、ランプを手近に 持ってきて、その明かりで本のつづきを読む。炎がひとつに集まって大きくなると、その上に水 どうき 233

4. 海辺のカフカ 上

そよ風が入ってくる。白いカーテンが音もなくそよぐ。風にはやはり海岸の匂いがする。ソファ のかけ ) 」こちは文句のつけよ、つかない。部屋の隅には古いアップライト・ピアノがあり、まるで 誰か親しい人の家に遊びに来たような気持ちになる。 ソフアに腰かけてあたりを見まわしているうちに、その部屋こそが僕が長いあいだ探し求めて いた場所であることに気づく。僕はまさにそういう、世界のくばみのようなこっそりとした場所 を探していたのだ。でも今までそれは、架空の秘密の場所でしかなかった。そんな場所がほんと うにどこかに実在したなんて、まだうまく信じられないくらいだ。目を閉じて息を吸いこむと、 それがやさしい雲のように僕の中にとどまる。すてきな感覚だ。僕はクリーム色のカバーのかか ふた ったソフアを手のひらでゆっくりと撫でる。立ちあがってアップライト・ピアノの前に行き、蓋 けんばん を開け、かすかに黄ばんだ鍵盤のうえに十本の指をそっと置いてみる。ピアノの蓋を閉じ、葡萄 の模様のついた古いカーベットの上を歩きまわってみる。窓を開け閉めするための古いハンドル をまわしてみる。フロアスタンドの明かりをつけて、消す。壁にかかった絵をひとつひとっ眺め る。それからもう一度ソフアに腰かけ、本のつづきを読みはじめる。本を読むことに意識を集中 する。 お昼になると、僕はリュックからミネラル・ウォーターと弁当を取りだし、庭に面した縁側に 座って昼食をとる。いろんな鳥がやってきて、木から木へと渡り、池のまわりに下りて水を飲ん だり身づくろいをしたりする。見たことのない鳥もいる。大きな茶色の猫が姿を見せると、鳥た ちはあわてて飛びたったが、猫のほうは鳥には関心をはらわなかった。彼はただ敷石の上でのん

5. 海辺のカフカ 上

第 22 章 「いいよ。歯も磨いてきな。まだ時間はあるから、好きなことすりやいい。でもさ、ナカタさん、 傘くらいは置いていった方がいいんじゃねえかい。ちょっと便所にいくだけなんだからさ」 「はい。 傘は置いてまいります」 ナカタさんが便所から戻ってきたとき、星野さんはもう勘定を済ませていた。 「ホシノさん、ナカタはちゃんとお金を持っておりますので、朝ご飯のぶんくらいはナカタが払 います 青年は首を振った。「いいんだよ、これくらいのもの。俺な、うちのじいちゃんにはずいぶん 借りがあるんだ。昔、グレてたころ」 「はい。しかしナカタはホシノさんのじいちゃんではありません」 「それは俺っちの問題だから、あんたが気にすることじゃない。うるせえこといわずに、黙って ゴチになってりやいいんだ」 ナカタさんは少し考えてから、青年の好意を受けることにした。「ありがとうございます。そ れではご馳走になります 「たかがしけた食堂のアジと卵焼きだ。そんなペこペこ礼を一言われるほどのことじゃねえよ 「しかしホシノさん、考えてみますと、ナカタはみなさんのお世話になり続けまして、中野区を 出て以来、お金というものをほとんど使っておりません」 「そりやたいしたもんだ」と星野さんは感心した。「なかなかできるこっちゃない ナカタさんは食堂の人に頼んで、持参した小さな魔法瓶に温かいお茶を入れてもらった。そし 363

6. 海辺のカフカ 上

第 13 章 「でも人間はなにかに自分を付着させて生きていくものだよ」と大島さんは言う。「そうしない 。にーいかないんだ。君だって知らず知らずそうしているはずだ。ゲーテが言っているように、 世界の万物はメタファーだ」 僕はそれについて考えてみる。 大島さんはカップからコーヒーをひとくちすすり、そして言う。「いずれにせよ漱石の『坑夫』 についての君の意見は興味深いものだったよ。とりわけ現実の家出少年の意見として聞けば一段 と説得力がある。もう一度読んでみたくなった」 僕は大島さんのつくってくれたサンドイッチを食べてしまう。飲み終えたミルクの紙パックを くずかご つぶして屑籠に捨てる。 「大島さん、僕にはひとっ困っていることがあって、あなたのほかには相談する相手がいないん です」、僕は思いきってそう切りだしてみる。 どうぞ、というふうに彼は両手を広げる。 「話せば長い話になるけれど、僕には今夜泊まる場所がないんです。寝袋はある。だから布団や べッドまではいらない。屋根さえあればいいんです。どこでもいい、このあたりに屋根のある場 所を知りませんか ? 」 「察するところ、ホテルとか旅館は君の選択肢の中にはないんだね ? 」 僕は首を振る。「経済的な理由もあります。それから、できることならあまり人目につきたく ないとい、つこともある」

7. 海辺のカフカ 上

なく積み上げられていくことがあります。そうすると、目の前の現実的な課題の処理に追われる あまり、当然そこにあるべき子どもとしての新鮮な感動や達成感が徐々に失われていくことが多 いのです。そのような環境にある子どもたちは、やがては心を固く閉ざし、気持ちの自然な発露 を覆い隠すようになります。そのように閉ざされた心をもう一度押し開くには、長い歳月と努力 か必要になります。子どもたちの心は柔らかく、どのようにも曲げられてしまいます。そして一 度曲がって固まったものは、なかなかもとに戻りません。多くの場合、一一度ともとには戻りませ ん。しかしもちろんこのようなことは先生のご専門でありますし、私ごときものが今更述べるま でもないことでしよ、つ。 もうひとつ、私はそこに暴力の影を認めないわけにはいきませんでした。彼のちょっとした表 情や動作に、瞬間的な怯えのしるしを感じとることが再三ありました。それは長期間にわたって 加えられてきた暴力に対する、反射的な反応のようなものです。その暴力がどの程度のものであ ったのかは、私には知りようもありません。彼は自制心の強い子どもであり、私たちの目から巧 妙にその「怯え」を押し隠しておりました。しかし何かがあったときの、かすかな筋肉のひきっ りまでを隠しきることはできません。多かれ少なかれ家庭内での暴力があったに違いないという のが、私の推測でございます。子どもたちと日々つきあっておりますと、それはだいたいわかり ます。 田舎の家庭は暴力で満ちています。親のほとんどが農民です。みんなぎりぎりの生活をしてい ます。朝から晩まで働いて疲れ切っていますし、どうしてもお酒が入りますし、怒るときにはロ 176

8. 海辺のカフカ 上

な歌を詠むのだろうか ? 相づちとうなすきだけでは歌はつくれないはずだ。そこにはもっと自 発的なものが必要とされるはずだ。それとも歌を詠むときにだけは、この人はどこかからとって おきのなにかをひつばりだしてくるのだろうか 僕は閲覧室に戻って本のつづきを読む。午後になると閲覧室には何人かの人々がやってきた。 ほとんどの人が読書用の老眼鏡をかけていた。老眼鏡をかけると、人々はみんな似たような顔つ ふけ きになった。そして時間はひどくゆっくりと過ぎていった。人々はここで静かに読書に耽るだけ おおかたは無言で姿勢も だ。話をする人もいない。中には机に向かってメモをとる人もいたが、 変えず、それぞれの席でそれぞれの本に熱、いに読み耽っていた。僕がやっているのと同じように。 5 時に僕は本を読むのをやめ、それを書架に戻し、図書館を出る。 「朝は何時に開くんですか ? ーと僕はきく。 「Ⅱ時。休館日は月曜と彼は一一一一口う。「明日も来るの ? 」 「もし迷惑じゃなかったら 大島さんは目を細めて僕の顔を見る。「もちろん迷惑なんかじゃないよ。図書館は本を読みた い人が来るところだもの。ぜひまた来てもらいたいな。でもそれはともかく、君はいつもそんな 荷物を持ち歩いているのかい。ずいぶん重そうだけど、中にはいったいなにが詰まってるんだろ 、つ。クルーガー金貨ワ 僕は赤くなる。 「いいよ、いいよ、べつに。本気で知りたいわけじゃない , と大島さんは言う。そして鉛筆の先

9. 海辺のカフカ 上

とくには書かれていない。彼が人間として成長したという手ごたえみたいなのもあまりありませ ん。本を読み終わってなんだか不思議な気持ちがしました。この小説はいったいなにを言いたい んだろうって。でもなんていうのかな、そういう『なにを言いたいのかわからない』という部分 か不思議に、いに残るんだ。うまく説明できないけど」 「君が言いたいのは、『坑夫』という小説は『三四郎』みたいな、いわゆる近代教養小説とは成 り立ちかずいぶんちがっているとい、つことかな ? 僕はうなずく。「、つん、むずかしいことはよくわからないけど、そうい、つことかもしれない。 三四郎は物語の中で成長していく。壁にぶつかり、それについて真面目に考え、なんとか乗り越 えようとする。そうですね ? でも『坑夫』の主人公はぜんぜんちがう。彼は目の前にでてくる ものをただだらだらと眺め、そのまま受け入れているだけです。もちろんそのときどきの感想み たいなのはあるけど、とくに真剣なものじゃない。それよりはむしろ自分の起こした恋愛事件の ことばかりくよくよと振りかえっている。そして少なくともみかけは、穴に入ったときとほとん ど変わらない状態で外に出てきます。つまり彼にとって、自分で判断したとか選択したとか、そ ういうことってほとんどなにもないんです。なんていうのかな、すごく受け身です。でも僕は田 5 うんだけど、人間というのはじっさいには、そんなに簡単に自分のカでものごとを選択したりで きないものなんじゃないかな」 「それで君は自分をある程度その『坑夫』の主人公にかさねているわけかな ? 」 僕は首を振る。「そういうわけじゃありません。そんなことは考えもしなかった」 182

10. 海辺のカフカ 上

第 20 章 、つ一一度と会うことのないナカタさんになら、何でも正直に打ち明けることができた。結婚を約束 していた恋人と数カ月前に別れたこと。彼女にほかに好きな人ができたこと。長いあいだ自分に 黙って、その相手と二重につきあっていたこと。会社の上司とどうしてもうまくいかず、会社を 辞めようかとさえ考えていること。中学生のときに両親が離婚したこと。母親がすぐに再婚して、 さぎ その相手がろくでもない詐欺師同然の男であったこと。親しい友だちにまとまったお金を貸して、 それが返ってくる気配のないこと。アパートの隣の部屋の学生が夜中まで大きな音で音楽を聴い ていて、おかげでうまく眠れないこと。 ナカタさんは相手の話に律気に耳をかたむけ、ところどころで相づちを打ち、ささやかな所見 ーキングエリアに入るときには、ナカタさんはその青年の人生の、ほとん を述べた。車が港北パ どすべての事実を知るようになっていた。よく理解できないところも多々あったが、峠口さんが まっとうに生きたいと望みつつも、数多くのトラブルに足をひつばられている気の毒な青年であ るという大筋のラインはわかった。 「どうもありがとうございました。ここまで連れてきていただいて、ナカタはとても助かりまし 「いや、僕もあなたと一緒にここまで来られて、とてもよかったですよ、ナカタさん。おかげで 気持ちが楽になりました。こういう風に誰かに思い切り話せてよかった。これまで誰にも話せな かったんです。こんな面倒な話をいつばい聞かされて、ナカタさんが迷惑に思っていなければい いんだけど 323