育児のつらさが分かってもらえないのかと悲しくて海しくて涙がこばれた。身も心もポロ ポロだった。 精神科医やカウンセラーは子どもを保育園に預けるようにと言っていたが、働かないで 預けることに罪悪感を感じてしまい、私みたいなのを病気と言っていいのだろうか、入院 している人もいるのに そう思いながら児童相談所の電話相談に電話したことから児 相にも月に二回通うことになった。 近くの子どもたちが集まってくる公園に子どもを連れて行けないことにも罪悪感を感じ ていたのだ。そのことを話すと、相談員の人は優しく、「子どものためと思って無理して 外に出なくていいんですよ。それよりお母さんが一番楽な方法をとって。ゆっくり休む方 法を考えて。子どもさんは外に行くよりも、お母さんが元気なのが一番なんですよ。そ 、と、夫や私の両親、夫の母に言われ、プ う言われて救われた。公園で遊ばせたほうかいし レッシャーを感じていたのだ。というより、自分自身が一番プレッシャーをかけていたの かもしれない。 子どもが幼稚園に入ると、自分の中でかなりの余裕が生まれた。予想していた人間関係 の大変さはあった。それでも私は、次第に自分を少しずつ肯定できるようになったことに 気づいた。私は子どものいる人生を選んで本当に良かったと思える時間ができた。育児に
人で病院に連れて行った時は中に入ることもできなかった。子どもと一緒に入口で何十分 も泣いた時もあった。すんなり入っていく他人の子どもがうらやましかった。子どもを自 転車に乗せ、少し遠くまで行ってそのまま子どもだけを降ろして帰ってしまおうとしたこ ともあった。「もうあんたなんかいらない。母ちゃん一人で帰るから。バイバイと言っ てしまった。すると子どもは意外にもすんなりうなずいたのだ。それがまた気にさわって、 私は自転車を走らせてしまった。後ろを見ると必死の形相で懸命に走って追いかけてくる 子どもがいた。ふと我に返る。私は何てことをしようとしていたのだろうと罪悪感にから れて涙が出る。毎日毎日泣いていた。 そんなことではおさまりがっかなかった。一 夫はたまに私一人の時間をくれたのだが、 人で外に出ても数時間後、家に向かう時はまた涙が出てくる。家には帰りたくなかった。 夫とは度々話し合いの場が持たれたが、結局すべて私が悪いことになる。私は夫と二人 でドライプや旅行に行けたころがただ懐かしく思えていた。ふとそのことがロに出た。す しいじゃないかと言った。私にはその言葉がひ ると夫は「あの時は楽しかったと思えば、 どく冷たく、いに響きわたった。もう一一度と二人でドライプに行くことはないのだ。ど、つい 、つわけかひどく悲しくなってしまったのだ。 私は夫に「それじや子どもを預けて行こうか」という一一一一〕葉を期待していたように田」う。
ては大きなターニングボイントであったことは 事実だが、これが「底付き」とは思わない。結 局、その後五年間も引きすっているのだから。 6 援助者に対してどのように感じますか ? 一番身近な 私にはいまだに援助者がいない。 主人への告白が、ずっと自分自身の課題なのだ か、いまだに実現できすにいる。主人に隠して いるから、医療機関にかかるなどのアクション は一切起こせずにいる。 ⑦子どもができて変化したことは ? 子どもができても、結局アディクションを相 変わらず引きずっている。子どもができたこと でいろんなことに制限が生じているのは事実だ が、それがアディクションを助長しているとは 思わない。私の場合、主人との関係が、アディ クションの一因になっているように田 5 う。ただ、 子どもが私にとっての依存先の一つになってい るのも事実だ。 3 子どもができたことから始まった人間関係 立早生ロ 子どもは六歳の男の子が一人だが、彼はド 児だ。まだはっきりした診断名は下されてない が、行動障害児である。これまで八つの学校及 び保育園から追い出されてきた。現在通ってい る公立の幼稚園からも、何度も停学処分になっ ている。現在、障害児の学級に入れるべく、そ れ の手続き中である。 楽 これまで親子ともに追い詰められてきた。で て もまた、この障害を理解してくださる多くの方会 とも知り合、つことができた。これまで、同じ土と 間 地にあまり長くいないせいか、子どもをとりま く人間関係は、私にとってアディクションの直 もちろん、た 接原因になったケースは少ない。
にかかわっている。いろんな人との出会いは、自分の中に凝り固まったゆがんだ自己像を 少しずつ変えてくれるような気がする。これは、子どもがくれたチャンスなのかもしれな 。人によって傷つけられたなら、人の中で立ち直らないと前に進めないような気がする。 私は、子どもの存在によって、 <0 を自覚した。子どものためにも、これ以上親の問題 を背負い込みたくなかったので親との間に境界線をしつかりと引いた。そして、今、子ど もと夫と共に〃新しい家庭″を築いている。子どもの成長を見ながら、私も成長していけ たらいいなと田 5 、つ。 59 あなたは独りばっちじゃないよ
実家に毎日通っていました。それがだんなさんには気にいらなかったようで、私の病気に 対してもまだだれも認識がなく、結局子どもが一歳半の時に私の方から調停離婚をしまし 離婚した後はさつばりした気分で、パ ートで働いたりもしていました。しかし、とても 寂しい日々でした。また、子どもの面倒をどう見ていいのか分かりませんでした。実家に 戻ったので親への負い目からネットで知り合った男性と会ったり、またそのことで自分を 責めたりして、薬を大量に飲んでは死のうとしました。結局そんなことが何度も続き、医 者にもさじを投げられ、いわゆるドクターショッピングをしていました。 ー 1 「から冖師ると a-« っしょに ~ 授よ、つともしないし、私もパ 子どもは私になっかないし、 O ばかりつないでは寂しさを紛らわしていました。 子どもが一一一一口うことを聞かない時、食器を壁に投げつけ、自分の部屋に閉じこもりひたす ートもやめ、子どもはただで保 ら自分の手首や手の甲をはさみで切りつけていました。パ 育所に見てもらい、私は自分の部屋に閉じこもって、子どもの送迎以外は布団の中で過ご し、夜になると寂しくて、はさみを持ち出し手首を切りつける毎日が続いていました。ひ どい時は、薬をたくさん飲んで、お酒を飲み階段から転げ落ちる、今日が一体何日なのか も分からないなんてこともありました。
⑩仲間について。 「自分だけじゃないんだ」と思い、力強く感 と子どもたちが帰ってきました。 子ども会のことで、会長のお宅に行って少し じました。 話し、帰ってからタ食の支度をして、皆で食べ ました。まあまあ楽しい一日だったと思います。 子どもたちは健康で可愛いし、夫はやさしいし、 回復を選んでどう変わりましたか ? ートは楽しいし、幸せです。 「私はもしかしたら、普通の人になれるかも しれない。、 しや、もともと普通なのだわ . と思 五年後のあなたは ? えるよ、つになりました。、いが楽になりました。 五年後、私は五十一歳。銀婚式を迎えます。 子どもたちは高一と中一、むすかしい年ごろで 今日一日。 す。なんとか順調に育っていると思います。私 今日は日曜日なので、いつもと違う一日でし は、今以上に「しかめつ面」とサヨナラしてい た。朝食前に、子どもたちの給食着などにアイ て、新しい友人もでき、女友だちと旅行に行っ ロンを掛け、明日すぐに持って行けるよ、つに準 たり、ランチしたりしています。 備しました。朝食後パートに出掛け、四時間に しく働きました。帰宅後、一人でゆっくり昼食 をとり、夫と子どもたちが遊びに出掛けたまままだ仲間につながっていない人に一言。 なので、このアンケートに答、んました。時間が 仲間になりたいです。あなたを待っています。 掛かり疲れたので、テレビを見ているうち、夫 122
コラム 子どもをもって <0 自覚 自分に子どもがいない時、自分の問題点は自分にのみ責任があるとしか思ってなかった。 自分が子どもを生み、あるときかたわらに寝ている赤ん坊を見た時に、私自身が幼ない子 に戻ってしまったような気分になった。私もかってこのような赤ちゃんだった。自我のまっ さらな、何も分からない状態の無防備な。それに色をつけたのはだれなのだ。私が苦しい 思いをして生きてきたのは、本当はだれのせいなのだろう。その時こそが、私がと気 付いていくに至るスタートとなった瞬間だった。 ある時期は親への恨みだけで心がいつばいだった。しかし子どもが成長するにつれ、考 え直すことも出てくる。 私も子どもの成長と共に年を取った。そのうちに恨みを抱いたままでは、前へ進めない と思うようになっていく。親も私も欠点の多いただの人間だったのだ。今の私には、限み で親にとらわれているよりは、現在を生きていく「私の私」として生きていきたいという 田心し , 刀コし そう思うようになってほんの少し、気分が晴れやかになってきている。それ ( ミチル ) が自分で自分を幸せにする、ということなのかもしれない。
子どもは保育所に行っていたので、ほかのお母さんは働いています。皆元気で、育児も 家事も仕事までもこなしています。送っていくと保母さんは皆、お母さんたちに「行って らっしゃいと声をかけます。そんなちょっとしたことも私にとってはものすごくつらい ことでした。仕事もできず、育児もできず、親に面倒を見てもらって、お小遣いまでもらっ て : : : 私なんていない方が皆のためによいと思いました。 だからずっと死ぬ方法を考えていました。 離婚した時、慌てて荷物をまとめたので、忘れたものが多く、別れただんなさんに電話 をして持ってきてもら、つことにしました。 よ 会ってみると一時はあんなに憎んで結婚したことを後海していた私だったのに、寂しかっ たのか、懐かしかったのか、それからメールのやり取りをし、徐々に距離をせばめていっ や じ て、子どもにも会わせることにしました。調停の時の彼は「子どもには会いません」と言っ ち たのに「子どものことは可愛いと思ってるし、会いたいとも思ったりするよ」と言ったんば 独 です。それから休みの日に一緒に出かけたりするようになり、復縁の話が出てきました。 私は母との関係がうまくいってなくて、口論が絶えませんでした。いつも実家を出たい あ とそればかり考えていましたが、、 お金も無く、仕事もできず、子どもも育てられないのに そんなことできるわけがなく、拒食症が始まりました。
聞いてみたこともありましたが、 母は、「いつばいお酒を飲んだら早く眠るからいつばい 飲ませているんだよ」と言いました。 こういう日々か小さいころからずーっとで、ビクビクして生きなければなりませんでし た。私には妹がいます。妹と二人いつも、親の顔色をうかがって生活していました。気が ついたら妹と私は、「共依存ーの関係になっていました。何を決めるにも妹に返事を求め ました。大人になり彼氏ができてからは、共依存関係の問題をそのまま彼氏にぶつけまし た。彼の仕事、お金の管理、友だち関係など行動をすべて知らないと気が済まなかったの です。自分のいないところで相手が何をしているのか、不安で仕方がありませんでした。 ほとんどストーカーまかいのことをしていたのではないかと思うくらいです。 でも、夫とはちゃんと結婚できたのでラッキーでした。子どもができ、「最高の幸せ - と思っていました。しかしそれもっかの間で、子育てや夫との関係について自分の理想と . し、、つつ病になってしまいまし のギャップにしんどくなりました。すべて崩れたように田 5 、 た。そんなときは、子どもが邪魔な存在にしか思えませんでした。医師の診断書によって、 子どもを保育所に預けることができました。今思うとゾッとするのですが、あのまま子ど もと一緒にいる状態だったら、子どもを殺していたかもしれません。 幼少のころ機能不全の家庭で育った子どもが大きくなると人間関係に支障が出るという
前で話す日が来るとは田 5 いもっかなかった。 この本は、そうした誰にも話せなかった体験と気持ちをほんの少し語れるようになった 仲間から、まだ出会っていない仲間へのメッセージである。 この本の制作にかかわった仲間は、アディクションや <O の問題を持つうえに子どもの いる女性たちである。 子育ては肉体的にも大変な仕事であるとともに、子どものころに受けた心の傷を、子ど もの成長にともなって思い出してしまったりする。また、親密な関係を築くのが難しいト ラウマを抱えた私たちに、子どもはおかまいなしに迫ってくる。自分が親から受けたのと 同じ傷は負わせたくない思いが、時に子育てを辛くする。 異性と付き合い、子どもを産んで、大人になったはずなのに、まだ本当の自分とは出合 えていない女性たち。苦しさを抱えて生き、子どもを育てることは困難だが、生きづらさ を自覚して何とかしたいと思った時から回復の第一歩は始まっていると思う。 回復とは、等身大の自分ーありのままの自分の本当の気持ちを知り、受け入れて成長し ていくことではないだろうか。自分の本心は一筋縄ではいかないほど奥が深い。頭で納得 しても心が又け入れないから苦しむ、アディクションにはまる。そこからの回復には、自 分の鏡になってくれる仲間の話に耳を傾け、自分の心の奥底に正直になることだ。ここに