子どもとのつきあい方や子どもに対して感じ けられたこと、また、あなたと援助者との意思 ることを教えてください。 疎通がうまくいかす、弱い立場であるあなたが 傷ついたことなど、援助者との関係でどのよう ⑩子どもの父親となった人とはどのような関係 なことを体験し感じてきましたか。 ですか ? 深い人間関係を作るなかで、あなたはどのよ ⑦子どもができて、何か変化しましたか ? うな体験 ( 傷つくパターンを繰り返したり、逆 に癒された体験など ) をしましたか。また、子 3 子どもができたことから始まった人間関係 しんせき どもが生まれる前と生まれてから、そして現在、 ( たとえば、夫の両親・親戚・兄弟・姉妹、 彼との関係に変化はありましたか。 保育所・幼稚園・地域での人間関係 ) はどの ようなものですか ? れ これらの人間関係は、多くの母親にとって困ハートナーとはどのような関係ですか ? 楽 子どもの父が現在のパートナーである人、違 難なものです。アディクションや << O の問題を て っ ートナーとなっている人、またパー 、つ人かハ 持っ私たちにとっては、自分をうまく表現でき 会 出 ナーを持たない生活をしている人もいることと ずに特に悩みの多い関係ではないでしようか 困ったことや、逆によかったことはありますか 思います。アディクションや < O の問題を持っ衂 ートナー なかで、また回復を目指すなかで、 と呼べる人との関係がどう変化してきましたか。 ⑨子どもとはどのような関係ですかフ
- イ間かいたから生き延びた 企業戦士で家のことは顧みないワンマンな父親と家族の世話をすることに自分の価値を 見出している良妻賢母の母親を持っ私は、子どものころから常にトップを走り続けること を意識して生きてきました。物心ついたときから大人に評価してもらえる自分でないと価 値はないと思って行動してきた私は、いつも「いいこちゃん」でした。 学校では常にいい成績を取り、大手企業に就職し、すばらしい伴りよを見つけて結婚し、 待望の妊娠 : : : でも、全然うれしくありませんでした。「私の人生は終わった。これからは 私の母親のように家族の犠牲になって生きていかなければならないのだ」と絶望しました。 トラブルだらけのマタニティーライフ、切迫早産で入院、帝王切開で未熟児出産、うつ 病で自殺未遂、赤ん坊を抱えて転勤、義母の入院で夫が不在の日々。安どする時間は全く
「こんな自分じゃ結婚もできないだろう」と思っていたのですが、今の主人と知りあい 子どもを二人産みました。婚姻届を提出するさい、父が、私と主人に、「 ( 私の ) 戸籍が汚 れている」と、初めて生まれたころの事情を教えてくれました。 私の母は、産みの母ですが、戸籍上の母親は私の知らない女性の名前になっていました。 母は十七歳で私を産みましたが、父との結婚に母の両親が猛反対していました。父の事情 が事情なのでしよう。私が小学生の時に弟が生まれ、その後母の両親があきらめてしまい 父がヤクザから足を洗った後に、父と母はやっと籍を入れたそうです。 私が長女を産んですぐ、育児に悩むのと同時に、「なんで私はあんな家庭で育てられた のだろう ? と悩むようになりました。父は、ロ応えを一切許さすしかる時は必ず暴力が 伴っていました。だから、「子どもができたら絶対殴って育てよう」と考えたこともあり ました。何か悪いことをすると、たたく、怒鳴る、けるは当たり則のよ、つに娘にしていま した。それで母親失格だと思ったことはありませんでした。しかし、私自身がどうしよう もなくなったので、いろいろな人に相談しました。 そして、地方自治体がやっている無料の精神保健相談で紹介された児童相談員さんに身 分の話をしました。相談員さんは、「話を聞いてもらうことが癒しになりますよーと言っ てくれました。私はそれを聞いてすごく泣きました。もし自分自身に何か声をかけるとす
ゅつか 平成十一一年の暮れ、伯母から電話があった。内容は、母の余命三カ月と医師から宣告さ れたことだった。 私は幼いころ父親を亡くしている。その父親はお酒のみで定職には就いていなかった。 無ロな人だったが私にはやさしかった。母親は化粧っ気もなく、愚鈍な雰囲気の人だ。両 親は私が三歳の誕生日を迎える前日に離婚をした。親権は父親に、母は一人で家を出た。 父は私を育てることかできずに「孤児院に預けた。 施設ではお盆、お正月は自分の家族の元へ帰る。私が五歳の年末に父の実家に帰った時 のこと、外遊びから帰ってきた私が見たものは父の死だった。部屋の戸を開けると父が倒 れている姿が目に飛びこんできた。うつぶせで、目を見開き血を吐き出して死んでいた。 過食はあなたに必要だった」 61 あなたは独りほっちじゃないよ
- 祈るような気持ち ブルーベリー 私は、まだ回復の道を選んで半年くらいしか経っていないので、あまり、どこがどう変 化しているとか、分からないです。正直なところ。 ただ、気がついてみると、私の生きている場所は、あまりにも狭く、母親の機嫌を損ね という現実を目の当りにして、苦しくて ないような、小さな場所しか与えられていない なりません。両親は、「今度病院に入ったら二度と出してやらない」と、おどしのような ことを言い続けているし、私が薬を飲むと嫌な顔をします。夫が間に入って、いろいろ話 「聞く耳をもたない。私の親 をしてくれますが、病気のこととなると、「聞きたがらない たちの様子を、半ばあきれて見ています。 親たちが、夫の親と仲が悪く、一時は離婚の危機に陥ったこともあります。それは、義 00
聞きつばなし」のルールで、自分のことを話し終わるとみんなが、サーツと何も一言わず帰っ ていきました。なんか自分が予想していた期待とは違い、その日はなんか悲しい気持ちで 帰宅したのを覚えています。二回目のミーティングで、地方から来た仲間に衝撃を受け、 その日のことは、私の中では一生忘れない。その仲間は、「先行く仲間」といわれる存在 で、私の中でその時、「回復とは ? 」と自問自答していた時でした。 数日間は、無料インターネットの体験コーナーに走り ( わが家にはパソコンがない ) 、あ のときミーティングに参加していた人を調べ、その人の体験談を読んでいつばい心から共 感したり ( ロでは言い表せないけど ) 、「回復したい」と心から思いました。 その時私は、ギャンプルに夢中で仕方なかった。このギャンプル依存になったのはきっ かけがあります。 世間でプームになったこともあり、 <O については何となく知識がありました。私自身 しいか、少しでも父の機嫌を損ねば の家庭でも、父親が「アル中」だった。機嫌がいい時は、 ると暴力を振るわれます。酒が入っているので暴力は止まりません。母親は共依存で、毎 日のように父親に暴力を振るわれているにもかかわらず、父から逃げもせすに一緒に暮ら していました。いつものように、父親が帰宅すると、母はすぐに酒を持ってきた。子ども だった私は子どもなりに、母に「そんなにお酒を飲ませてもいいの ? と心配して尋ねて
子どもを生んで ありか 人は、親になって初めて自分の親に感謝するというけれど、私の場合は違っていた。親 になって初めて自分の親を客観的に見ることができて、感謝なんて言葉とは呈遠、 い怒りと限みと悲しみでいつばいになった。 私の父は自分の思い通りにならないと腹を立てて周りの人に当り散らす人で、母は父の 女性問題に苦しみながらもけっして離婚を選ばず、理不尽な夫にしがみついて生きてきた 典型的な共依存者である。私が物心ついたころから、両親は子どもの前で激しい夫婦げん かを繰り返していた。長女である私は親のけんかを止めようと何度も仲裁にはいったり、 母親の愚痴の聞き役をしていた。 母は父の問題行動を治すために、何度となく家を空けた。当然、母が不在の間は長女の 55 あなたは独りほっちじゃないよ
コラム 親から欲しかったメッセージ 現在、夫と二人の子がいる専業主婦です。私にとって彼らはかけがえのない大切な人た ちです。 しかし、変に子どもを束縛しよ、つとしたり、子どもをコントロールできないからといっ てきつくしかったりする自分がいて、母親のいやなところを繰り返していることに気付き、 がくぜん 愕然とすることがあります。 私の対人関係の弱さは、ママグループに入れないという悩みになりました。入れないと 子どもも遊んでもらえません。夫に対しても、もっと家事が上手だったら : : : 家族に申し 訳なくて、自分の無力さに泣く毎日でした。 それは昔から母に植え付けられたメッセージ「なにもできない醜い子」を実行している にすぎません。嘆くより先にやることは山積みで、自分自身に執着しているひまはないは ず。とにかくできることをやろう。私は彼らに何もできないかもしれない。でも愛してい る。そのことだけを伝えたい。自分が必要とされていて、愛されるべき人間であるという ( やぎ ) 自信をもって欲しい。それはまさに私が両親から欲しかったメッセージです。 35 あなたは独りばっちじゃないよ
原家族を引きすって 4 生きなくていい いかさき 私の父は、私が物心つく前から暴力団にいました。父の右肩には彫り物があります。私 が生まれたころ、傷害事件 ( 殺人未遂 ? ) を起こして、指名手配を受けていて逃げ回る生 活をしていました。家に帰ってくるのはたまにだけで、私は母と祖父母 ( 父の両親 ) とい つも一緒にいることが多かったのです。 小学生のころ、私は夜、家族で出掛けると、帰りには一人で寄り道をしたものです。帰 宅して父にそのことがばれると、父から必す殴られ、けられ、怒鳴られました ( それは私 が成人するまで続きました ) 。そのころの私は、友人と遊ぶ機会が少なく、休みの日は本ば かり読んでいました。あとで母から聞いた話ですが、近所に住む同級生の母親が、子ども に対して「あの子のお父さんはああいう人で、謝りにいくと後が恐いからあの子とは遊ば
たりしました。 6 援助者に対してどのように感じますか ? 援助者も結構 <O 的なところがあるような気 ⑨子どもとの関係は ? がします。ただ、それを自覚していたらいいけ 精神的虐待をしたことを反省しています。そ れど、していないために一方的に「手の焼ける して、あれは身体的虐待や性的虐待といわれる 子ども」みたいな扱いを私は受けたりして、え ものだったと、反省することばかりです。今は らく傷ついてしまいました。 ハニックにならすに、子どもの言葉にも耳を向 けることかできるよ、つになりました。 ⑦子どもができて変化したことは ? 子どものためだけに生きていきたいと思い 自分をずいぶんしばりつけ、自己を犠牲にする⑩子どもの父親との関係は ? 私が自分のことを <O と認識し始めてから、 ことを心地よく感じました。苦痛なんてありま そのよ、つなことを話していると、彼も自分が << せん。でも今考えると、結局はしがみつけるお O であることに気づきました。 <O 同士で依存 もちゃのよ、つに子どもを感じていたようです。 し合っていたっていいじゃないかと、二人で話 しています。 <0 同士だったから、巡り会えた 3 子どもができたことから始まった人間関係 と思っています。 子どもの幼稚園の母親たちに、無理に合わせ アディクションをやめておくコツは ? て本当はいやなのに我をして、疲れてしまっ 127 仲間と出会って楽になれた