耳のガール・フレンドに電話をかけてみた。彼女は彼女の部屋にも僕の部屋にもいなかった。た ぶんどこかに食事に出ているのだろう。彼女は絶対に家の中では食事をしないのだ。 トの番号をまわしてみたが、ベルが二度鳴ったところで それから僕は別れた妻の新しいア。ハ 思いなおして受話器を置いた。考えてみればこれといって話もなかったし、無神経な人間だと思 われたくなかったのだ。 一千万もの人間がうろっきまわっている街のまんな それ以外に電話をかけるあてはなかった。 かで、電話をかけられる相手が二人しかいないのだ。おまけに一人は離婚した妻だ。僕はあきら めて十円硬貨をポケットに戻し、電話ポックスを出た。そして通りかかったウェイターにハイネ ケンを一一本注文した。 このようにして一日が暮れていく。生まれてこのかたこれほど無意味な一日もなかったような 気がした。夏の最後の一日にはもう少しそれなりの味があっていいはずだ。しかしその一日は ひつばりまわされて、こづきまわされているうちに暮れてしまった。窓の外には冷やかな初秋の 冒闇が広がっていた。地上には黄色い小さな街の灯がどこまでも連っている。上から眺めている と、それは確かに踏みつぶされるのを待っているように見えた。 め を ビールがやってきた。僕は最初の一本をあけてから二皿のピーナツを全部手のひらに載せ、順 羊 番に食べていった。隣りのテープルではプールの水泳教室帰りの中年女性が四人で何やかやと しゃべりながら色とりどりのトロピカル・カクテルを飲んでいた。ウェイターは直立不動の姿勢
1978 / 9 月 まで耳を出していた。そしてある日耳を隠した。そしてそれから現在に至るまで一度も耳を出し ていなし 、。どうしても耳を出さなくちゃいけない時は耳と意識のあいだの通路を閉鎖する。そう い、フことだね ? 」 彼女はにつこりと笑った。「そ、フい、フことよ」 「十二の齢に君の耳に何が起ったんだ ? 「急がないで」と彼女は言って右手をテープル越しに伸ばし、僕の左手の指にそっと触れた 「お願い」 僕はワインの残りをふたつのグラスに注ぎ、ゆっくりと自分のグラスをあけた。 「ますあなたのことを知りたいな」 「僕のどんなことを ? 「全部よ。どんな風に育ったかとか、年はいくつかとか、何をしているかとか、そんなこと」 「平凡な話だよ。すごく平凡だから、きっと聞いているうちに眠くなっちゃうよ」 「私、平凡な話って好きよ」 「僕のは誰も好きになってくれないようなタイプの平凡な話なんだ」 「いいから十分間話して」 「誕生日は一九四八年の十一一月一一十四日、クリスマス・イプだよ。クリスマス・イプって、あま 1 り良い誕生日じゃない。だって誕生日とクリスマスのプレゼントが一緒になっちゃうからね。み
「うん」 七時の定時ニュースと交通情報が終り、ラジオは再び軽いロック・ミュ た。コーヒー・カップを皿の上に戻し、僕の顔を見た。 「ねえ、私が死んだ時もそんな風にお酒飲むの ? 」 「酒を飲んだのと葬式とは関係ないよ。関係あったのははしめの一杯か一一杯さ」 外では新しい一日が始まろうとしていた。新しい暑い一日だ。流しの上の窓から高層ビルの 一群が見えた。いつもよりす「としく輝いている。 「冷たいものでも飲む ? 彼女は首を振った。 僕は冷蔵庫からよく冷えたコーラの缶を取り出し、グラスにつがずに一息で飲んだ。 「誰とでも寝ちゃう女の子だったんだ」と僕は言った。まるで弔辞みたいだ。 故人は誰とでも寝 ちゃう女の子でした。 「何故そんなこと私にしゃべるの ? と彼女はいった。 どうしてかは僕にもわからなかった。 誰とでも寝ちゃう女の子だったのわ ? 「そうだよ」 「でもあなたとは別だったんでしょ ? ージックを流しはしめ
「つまり、僕のいないあいだに猫がいなくなったり死んだりしていたら、もし羊がみつかったと してもあなたには何も教、疋ないとい、つことです」 「ふうん」と男は言った。「まあ、よかろう。少々見当はすれではあるけれど、君はアマチュア にしてはなかなかよくやってるよ。メモを取るからゆっくりしゃべってくれ」 「肉の脂身はやらないで下さい。全部吐いてしまいますから。歯が悪いから固いものも駄目で 夕方には煮干しをひとっかみと肉かチーズ・ス す。朝に牛乳を一本と缶詰のキャット・フード、 ティックです。便所は毎日とりかえるようにして下さい。汚ないのが嫌いなんです。下痢はよく しますが、一一日たってもなおらないようなら獣医のところで薬をもらって飲ませて下さい」 僕はそれだけ言ってしまうと、受話器の向うで男がポールペンを走らせる音に耳を澄ませた。 「それから ? 」と男が言った。 「耳だにがっきかけているから、一日に一度オリープ・オイルをつけた綿棒で耳の掃除をして下 Ⅱさい。嫌がって暴れるけど、鼓膜を破らないようにね。それから家具に傷がつくのが心配なら週 冒に一度は爪を切って下さい。普通の爪切りでかまいません。蚤はいないとは思うけれど、念のた る めに時々蚤取りシャンプーで洗った方がいいでしようわ。シャンプーはペット・ ショップに行け をば亠冗ってます。猫を洗ったあとはタオルでよく拭いてからプラッシングして、最後にドライヤー 羊 をかけて下さい。そうしないと風邪をひいてしまいますから」 さらさらさら。「他には ? 」
・リストを見てなるべくさつばりした白ワインを選び、オードプルに鴨のバテと鯛 僕はワイン のテリーヌとあんこうの肝のサワー・クリームをとった。彼女はメニューを念入りに研究してか ら海亀のスープとグリーン・サラダと舌平目のムースを注文し、僕はうにのスープと仔牛のパセ リ風味ローストとトマト・サラダを注文した。僕の半月ぶんの食費がとんでしまいそうだった。 「なかなか素敵なお店わ」と彼女は言った。「よく来るの ? 」 「仕事がらみでたまに来るだけさ。どちらかというと一人の時はレストランなんかよりは酒を飲 みながらバーでありあわせのものを食べる方が性にあってるんだ。その方が楽なんだ。余計なこ と考えないで済むからさ」 「バーでいつもどんなものを食べるの ? 」 「いろいろだけれど、まあオムレッとサンドウィッチが多いわ」 「バーで毎日オムレッとサンドウィッチを食べ 「オムレッとサンドウィッチ」と彼女は言った。 ているの ? 」 「毎日じゃないよ。三日に一度は自分で料理をつくる」 「じゃあ三日に二日はバーでオムレッとサンドウィッチを食べるのね」 「そうだね」と僕は言った。 「なぜオムレッとサンドウィッチなの ? 」 「良いバーはうまいオムレッとサンドウィッチを出すものなんだ」
トの郵便受けにくしやくしやになっ 鼠の手紙は年もおしせまった十一一月一一十九日に僕のアパ てつつこまれていた。回送の貼り紙がふたつも付いていた。あて先が昔の住所になっていたため だ。なんにしてもこちらから知らせようがないのだから仕方ない。 ー四枚にぎっしり書き込まれた手紙を三回読みかえしてから、封 僕は薄緑色のレター・。ヘー 譚筒を手に取って半分ばやけた消印を調べた。それは僕が名前を聞いたこともない街の消印だっ 。僕は本棚から地図帳をひつばり出してその街の名を捜してみた。鼠の文章から本州の北端付 そ近とあたりをつけたのだが、予想にたがわすそれは青森県にあった。青森から汽車に乗って一時 紙間ばかりかかる小さな街だ。時刻表によればそこには一日に五本の列車が停まることになってい のた。朝に一一本、昼に一本、夕方に一一本。十二月の青森なら僕も何度か訪れたことがある。そこは かおそろしく寒い。信号機までが凍りついてしまう。 僕はそれからその手紙を妻に見せた。「可哀そうな人ね」とひとこと彼女は言った。「可哀そう な人たちね」と彼女はいうつもりだったのかもしれない。もちろん今となってはどうでもいい一
んな安く済ませようとするんだ。星座は山羊座で血液型は、この組みあわせは銀行員とか区役 所員に向いている。射手座と天秤座と水瓶座とは相生が悪いということになっている。退屈そう な人生だと思わないか ? 」 「面白そうだわ」 「平凡な街で育って、平凡な学校を出た。小さな時は無ロな子供で、成長すると退屈な子供に なった。平凡な女の子と知りあって、平凡な初恋をした。十八の年に大学に入って東京に出てき 。大学を出てから友だちと二人で小さな翻訳事務所を始めて、なんとかそれで食べてきた。三 年はど前から p-æ誌や広告関係の仕事にも手を広げて、そちらの方も順調に伸びている。会社で 働いていた女の子と知りあって四年前に結婚して、二カ月前に離婚した。理由はひとくちしや言 えない。年寄りの雄猫を一匹飼っている。一日に四十本煙草を吸う。どうしてもやめられないん だ。スーツを三着とネクタイを六本、それに流行遅れのレコードを五百枚持っている。エラ 丿ー・クイーンの小説の犯人は全部覚えている。プルーストの『失われた時を求めて』も揃いで 持ってるけど、半分しか読んでない。夏はビールを飲んで、冬はウイスキーを飲む」 「そして三日に二日はバーでオムレッとサンドウィッチを食べるのね ? 「うん」と僕は言った。 「面白そうな人生だわ」 「すっと退屈な人生だったし、これからだって同じさ。でもそれが気に入らないというわけでも
誰かが教えてくれたような気もするし、 彼女の生いたちについて、僕はくわしくは知らない。 べッドの中で彼女自身の口から聞いたような気もする。高校一年生の夏に父親と大喧嘩して家を ( ついでに高校を ) とびだした、たしかそんな話だ。いったい何処に住んでいるのか、何で生計 を立てているのか、誰も知らなかった。 彼女は一日中ロック喫茶の椅子に座って何杯もコーヒーを飲み、際限なく煙草を吸い、本の べージを繰りながらコーヒー代と煙草代 ( 当時の我々にとってはちょっとした金額だ ) を払って 間くれる相手が現われるのを待ち、そして大抵はその相手と寝た。 それが彼女について僕が知っている全てだった。 「少しは賢くなったの ? 」 「少しはね」 そしてその夜、僕ははしめて彼女と寝た。
微妙な誤差が生し、微妙な誤差はやがて深い溝となった。彼のまともさと感しの良さがあまりに も先に進みすぎて、彼自身にさえ追いつけなくなってしまったのだ。よくあるケースだ。しかし 大抵の人間は自分自身をよくあるケースだと考えたりはしない。鋭敏ではない人間ならなおさら オ彼は見失ったものと再会するために、より深いアルコールの霧の中を彷徨いはしめた。そし て状況は一層悪くなった。 しかし少くとも今のところ、彼は日が暮れるまではまともだった。僕はもう何年も日が暮れて からの彼とは意識的に顔を合わせないようにしていたから、僕に関する限り彼はまともだった。 それでも日が暮れてからの彼がまともでないことは僕もよく知っていたし、彼自身も知ってい た。我々はそのことについては一切触れなかったけれど、お互いがそれを知っていることを了解 していた。我々はあいかわらずうまくやってはいたけれど、もう昔のような友達ではなくなって 百バーセント理解しあっているとはいえないにしても ( 七十パーセントもあやしいとはうけ れど ) 、少くとも彼は僕の大学時代の唯一の友人だったし、そんな人間がまともでなくなってい くのをすぐ近くで見るのは僕にとわてもつらいことだった。しかし結局のところ、年を取るとい 、つのはそうい、つことなのだ。 僕が事務所に着いた時、彼は既にウイスキーを一杯飲んでいた。 一杯で止めている限り彼はま
Ⅷとても正直な手紙であるように思えた。それに誰も冗談で十万円の小切手を送ったりはしない。 僕は机のひきだしを開けて、そこに封筒ごと全部を放り込んでおいた。 それは、妻との関係が崩れかけていたせいもあって、僕にとってはあまりばっとしない春だっ 彼女はもう四日も家に帰ってはいなかった。冷蔵庫の中では牛乳が嫌な匂いを放っていて、 猫はいつも腹を減らしていた。洗面所の彼女の歯プラシは化石みたいに乾いてひからびていた。 ただ そんな部屋にばんやりとした春の光がふり注いでいた。太陽の光だけはいつも無料だ。 ひきのばされた袋小路ーーーたぶん彼女の一 = ロうとおりなのだろう。 僕が街に戻ったのは六月だった。 僕は適当な理由をでっちあげて三日間の休暇を取り、一人で火曜日の朝の新幹線に乗った。白 い半袖のスポーツ・シャッと膝が抜けかかったグリーンのコットン・ バンツ、白いテニス・ 歌は終りぬ