トは殆んどゼロになったんだ。可哀そうな動物だと思わないか ? まあいわば、日本の近代その ものだよ。 しかしもちろん、私は君に日本の近代の空虚曲について語ろうとしているわけしゃない。私の 言いたいのは、幕末以前には日本には羊はおそらく一頭も存在しなかったということと、それ以 後輸入された羊は政府によって一頭一頭厳重にチェックされていたという一一点にある。このふた つが意味するのは何だ ? 」 それは僕に対する質問だった。「日本に存在する羊の種が全て把握されているということです ね」 「そのとおり。加えるに羊は競走馬と同しで種つけがポイントだから、日本にいる羊の殆んどは 何代も以前にまで簡単にさかのばることができる。つまり、徹底して管理された動物なんだ。異 種交配についても、全てチェックすることができる。密輸入もない。わざわざ羊を密輸しような どという物好きはいないからな。種で一言うなら、サウスダウン、スパニッシュ・メリノー ット、ロマノフスキー、オストフ コリデ ール、チェビオ 冒ウォルド、支那羊、シュロップシャー ンカーン、ド ーセットホーン、サフォー ージャン、ポーダーレスター、ロムニマーシュ、 め を ク、だいたいこの程度のものだ。そこで」と男は言った。「もう一度よく写真を見てほしい」 羊 僕はもう一度写真と拡大鏡を手に取った。 「そして前列の右から三頭めの羊をよく見てはしい」
176 「何も知らないのと同しですよ。僕がやったのは殆んど役に立たない専門的なことですからね」 「知っていることだけを話してくれ」 「偶蹄目。草食、群居性。たしか明治初期に日本に輸入されたはすです。羊毛と食肉に利用され ている。そんなところですわ」 たた糸かいところを訂正すると、羊が日本に輸入されたのは 「そのとおりだ」と男は言った。 こま、君の言うように、日本には羊は存在しな 明治初期ではなく、安政年間だ。しかしそれ以前しー かったんだ。平安時代に中国から渡来したという説もあるが、それが事実だとしてもその後その 羊はどこかで絶滅してしまった。だから明治まで、磆んどの日本人は羊という動物を見たことも なけれは理解もできなかったということになる。十一一支の中にも入っている比較的ポピュラーな 動物であるにもかかわらす、羊がどんな動物であるかということは、正確には誰にもわからな かった。つまり、竜や獏と同し程度にイマジナテイプな動物だったと言っても いいたろう。事 実、明治以前の日本人によ「て描かれた羊の絵は全て出鰤目な代物だ。・・ウ , ルズが火星 しいたろ、つ。 人に関して持っていた知識と同じ程度と言っても ) そして今日でもなお、日本人の羊に対する意識はおそろしく低い。要するに、歴史的に見て羊 という動物が生活のレベルで日本人に関わったことは一度もなかったんだ。羊は国家レベルで米 国から日本に輸入され、育成され、そして見捨てられた。それが羊だ。戦後オーストラリア及び ジーランドとのあいだで羊毛と羊肉が自由化されたことで、日本における羊育成のメリ ぐうていもく
講談社文庫刊行の辞 二十一世紀の到来を目睫に望みながら、われわれはいま、人類史上かって例を見ない巨大な転 換期をむかえよ、つとしている。 世界も、日本も、激動の予兆に対する期待とおののきを内に蔵して、未知の時代に歩み入ろう としている。 . このときにあたり、創業の人野間清治の「ナショナル・エデュケイター」への志を 現代に甦らせようと意図して、われわれはここに古今の文芸作品はいうまでもなく、ひろく人文・ 社会・自然の諸科学から東西の名著を網羅する、新しい綜合文庫の発刊を決意した。 激動の転換期はまた断絶の時代である。われわれは戦後二十五年間の出版文化のありかたへの いたすらに浮薄な 深い反省をこめて、この断絶の時代にあえて人間的な持続を求めようとする。 商業主義のあだ花を追い求めることなく、長期にわたって良書に生命をあたえようとっとめると ころにしか、今後の出版文化の真の繁栄はあり得ないと信じるからである。 同時にわれわれはこの綜合文庫の刊行を通じて、人文・社会・自然の諸科学が、結局人間の学 にはかならないことを立証しようと願っている。かって知識とは、「汝自身を知る」ことにつきて 、た。現代社会の瑣末な情報の犯濫のなかから、力強い知識の源泉を掘り起し、技術文明のただ なかに、生きた人間の姿を復活させること。それこそわれわれの切なる希求である。 われわれは権威に盲従せす、俗流に媚びることなく、渾然一体となって日本の「草の根」をか それは たちづくる若く新しい世代の人々に、心をこめてこの新しい綜合文庫をおくり届けたい。 知識の泉であるとともに感受性のふるさとであり、もっとも有機的に組織され、社会に開かれた 万人のための大学をめざしている。大方の支援と協力を衷心より切望してやまない 一九七一年七月 野間省一
山崎洋子ホテルウーマン山本博文江戸城の宮廷政治吉川英治三国志全八冊 〈熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状〉 山崎洋子歴史を騒がせた〔悪女〕たち山田盟子占領軍慰安婦 ( 吉川英治歴史時代文庫全八十冊・補巻五冊 ) 山崎洋子熟れすぎた林檎山田美保子 吉行淳之介ほか三角砂糖 オ みうらじゅん・絵 〈ショートショート 0 人集〉 山崎洋子海のサロメ山上龍彦兄弟 ! 尻が重い吉村昭日本医家伝 山崎洋子日本恋愛事件史山上龍彦それゆけ太平吉村昭北天の星 山田正弘中学生日記 矢﨑葉子力イシャ、好きですか ? 吉村昭ふおん・しいほるとの娘 山田詠美ハーレムワールド 人 結城昌治暗 落日吉村昭赤 吉村昭海も暮れきる 録山田詠美私は変温動物結城昌治公園には誰も〔な〔 り吉村昭孤独な噴水 山田詠美セイフティポックス結城昌治炎の終 庫山田詠美晩年の子供夢枕獏奇譚草子吉村昭間宮林蔵 社山田詠美再び熱血ポンちゃんが行くー 夢枕獏鮎 師吉村昭密 談 山田詠美誰尖めに熱血ボ、一んは行く , 夢枕獏黄金宮田勃起仏編吉村昭メロンと鳩 講 山藤章二「笑い」の構造夢枕獏黄金宮裏密編吉村昭月下美人 山藤章二「笑い , の解体夢枕獏黄金宮 3 編吉村昭月夜の記憶 吉村昭白い航跡 山藤章二「笑い」の混沌夢枕獏黄金宮暴竜編 山下惣一いま、米について。 夢枕獏戦慄 ! 未界用語辞典吉田満鎮魂戦艦大和 じやばゆきさん 山谷哲夫 安たちのアジア〉夢枕獏罕道ヒジネス「ンクラス響爺横尾忠則わが坐褝修行記 山屮ようかニッポン、・ ~ 成 山本美知子 ^ アメリカ・山ー国事ぎゅく〉 吉川英治宮本武蔵全六冊横田順彌俺はスー 山本博文江尸お衂思 ~ " 境の日記 〈寛永期の 邸吉川英治新書太閤記全八冊吉田ルイ子 ( ーレムの熱い日々
1978 / 9 月 の持ち主」として扱った。耳以外の彼女の肉体や精神は完全に切り捨てられ、黙殺された。 「でも本当はそうじゃないのよ」と彼女は言った。「耳は私であり、私は耳であるのよ 校正係としての彼女とコール・ガールとしての彼女は絶対に、一瞬たりとも、耳を他人に見せ なかった。 「なぜなら、それは本当の私しゃないから」と彼女は説明した。 。ール・クラブの事務所 ( 一応タレント・クラブという名目になってい 彼女の属するコール・カ た ) は赤坂にあり、みんながミセス・エクスと呼ぶ経営者は白髪のイギリス人の女生だった。彼 り . いうらよう 女はもう三十年も日本で暮していて、流暢な日本語をしゃべり、殆んどの基本的な漢字を読む ことかできた。 ミセス・エクスはコール・ガール事務所から五百メートルも離れていない場所で女性専門の 英会話教室を開いていて、彼女はそこで筋の良さそうな女の子をピックアップしてはコール・ ガール事務所の方にスカウトしていた。逆にコール・ガールの何人かが英会話教室に通うという こともあった。 , 彼女たちはもちろん何割か授業料を免除された。 ミセス・エクスはコール・ガールたちを「ディア」と呼んだ。その彼女の「ディア」には春の 昼下がりのような柔かい響きがあった。 「きちんとしたレースの下着をつけていきなさいわ、ディア。パンティーストッキングはいけま せんよ」とか、「あなたは紅茶にクリームを入れるんだったわね、ディア」とか、そんな具合
178 僕は拡大鏡を前列の右から三頭めの羊にあわせた。それから隣りの羊を眺め、もう一度右から 三頭めの羊を見た。 「今度は何かわかったかな ? と男が訊ねた。 「種類が違いますね」と僕は言った。 「そのとおりだ。その右から三頭めの羊をのぞけば、あとはみんな普通のサフォーク種だ。その 一頭だけが違う。サフォークよりはずっとずんぐりしているし、毛の色も違う。顔も黒くない。 なんというか、す「と力強い感じがする。私はこの写真を何人かの判の専門家に見せてみた。 彼らの出した結論は、こんな羊は日本には存在しないということだった。そしておそらく世界に もな。だから、今君は存在しないはずの羊を見ているということになる」 僕は拡大鏡を持って、もう一度右から三頭めの羊を観察してみた。よく見ると背中のまんなか あたりに、コーヒーをこばしたよ、つな淡い色あいのしみがあった。それはひどくばんやりとして いて不鮮明で、フィルムの傷のようにも見えたし、目のちょっとした錯覚であるようにも思え た。あるいは実際に誰かがその羊の背中にコーヒーをこばしたのかもしれなかった。 「背中に淡いしみが見えますね」 「しみじゃない」と男は言った。「星形の斑紋だよ。これと比べてみてくれ」 男は封筒から一枚のコピー・ペー ーを出して僕に直接手渡した。それは羊の絵のコピーだっ 濃い鉛筆で描かれたらしく、余分の部分には黒い指のあとがついていた。全体としては稚拙 ちせつ
て、どちらから食べ始めればいいのかを決めかねたまま飢死しつつあるといった類いの哀しみが そこには票っていた。 母屋の左手にはそれと対照的に平家の日本家屋が長く伸びていた。生垣があり、よく手入れさ れた松があり、品の良い廊下がボウリング・レーンみたいにまっすぐ続いている。 とにかく、それだけの建物が予告編つきの三本立て映画みたいに丘の上に収まっている風景は ちょっとした見ものだった。もしそれが誰かの酔いと眠気を吹きとばすために長い年月をかけて 計画的に設計されたものであるとすれば、その目見は見事に成功したと言「てもいいだろう。 しかしもちろん、そんなわけはない。様々な時代が生んだ様々な二流の才能が莫大な金と結びつ た時に、このような風景ができあがるのだ。 僕はすいん長いあいだ庭と屋敷を眺めていたに違いない。気がついた時には運転手が僕のす ぐわきに立って、腕時計を眺めていた。どことなく手馴れた動作だった。おそらく彼が運んでき —たどの客も僕と同し場所に立ちすくんで、同しように呆とまわりの風景を眺めるのだろう。 冒「ごらんになるのでしたら、ごゆっくりどうぞ」と彼は言った。「まだ八分ばかり余裕がありま る すので」 を「すいぶん広いね」と僕は言った。それ以外にうまい表現が思い浮かばなかったのだ。 羊 「三千一一百五十坪あります」と運転手は言った。 「活火山でもあると似合いそうだね」と僕は冗談を言ってみた。しかしもちろん冗談は通しな
向って転がり始めたといった風に鳴きわめいていた。 糸杉の並木の外側はきちんと刈り込まれた芝生で、その傾斜に沿ってどうだんつつしやらあし さいやらその他わけのわからない植物がとりとめもなく散らばっていた。むくどりの一群が芝生 の上を気紛れな流砂のように右から左へと移動していた。 丘の両脇には狭い石段があって、右手に下りれば石灯籠と池のある日本風の庭園、左に下りれ ば小さなゴルフ・コースになっていた。ゴルフ・コースのわきにはラムレーズン・アイスクリ ムのような色あいの休憩用のあすまやがあり、その向うにはギリシャ神話風の石像があった。石 像の向うには巨大なガレージがあり、別の運転手が別の車にホースで水をかけていた。車の種類 まではわからなかったが、中古のフォルクスワーゲンでないことだけはたしかだった。 僕は腕を組んだままもう一度ぐるりと庭を見渡した。文句のつけようのない庭だったが、少々 頭が痛んだ。 「郵便受けはどこにあるんだろう ? と念のために僕は訊ねてみた。朝とタ方に誰が門まで新聞 冒を取りにいくのか少し気になったからだ。 る 「郵便受けは裏門にあります」と運転手は言った。当然の話だ。もちろん裏門がある。 め を 庭の検分が済むと僕は正面を向き、そこにそびえ建つ建物を見上げた。 羊 それはなんとい、フか、おそろしく孤独な建物だった。例えばここにひとつの概念がある。そし てそこにはもちろんちょっとした例外がある。しかし時が経つにつれてその伊外がしみみたいに
く、この背中に星を背負った栗色の羊だ。 それから、そのライターに刻まれた羊の紋章は先生が御自分の印として一九三六年以来一貫し て使用されているものだ。君も気づいたと思うが、その紋章の羊は医務記録に残された羊の絵と まったく同しものだ。そしてそれはまた、君の今持っている写真の羊と同しでもある。なかなか 興味深い事実だと思わないか ? 」 「単なる偶然でしよう」と僕は言った。なるべくあっさりと聞えるよ、つに言ったつもりだった ーし力なかった。 かあまり、つまくま、、 「まだある」と男は続けた。「先生は羊に関する内外のあらゆる資料と情報を熱心に集めておら れた。そして週に一度その週に日本国内において出版された全ての新聞・雑誌からピックアップ された羊に関する記事を長い時間をかけて御自分でチェックされていた。私はすっとそれをお手 伝いしていたんだ。先生はとても熱心だったよ。まるで何かを捜しているようにわ。先生が病の 床に就かれてからは、私がごく個人的にその作業を引き継いだ。とても興味があったんだよ。 冒いったい何が出てくるものかね。そこに君が出てきた。君と君の羊だ。これは、どう考えても、 偶然しゃない」 を僕は手の中でライターの重みをたしかめた。実に気持の良い重さだった。重すぎもしないし、 羊 軽すぎもしない。世の中にはこういう種類の重さがあるのだ。 「何故先生はそれほどまでに熱心に羊を探しておられたのかな ? 君にはわかるか ? 」
よるなら、ある謎のファクターによって築きあげられ、維持されてきた、ということだ。先生が 死ねば、全ては終る。なぜなら我々の組織は官僚組織ではなく、一個の頭脳を頂点とした完全機 械だからだ。そこに我々の組織の意味があり、弱点がある。あるいは、あった。先生の死によっ て組織は遅かれ早かれ分裂し、火に包まれたヴァル ( ラ宮殿のように凡庸の海の中に没し去って いくだろう。誰にも先生のあとを継ぐことはできないんだ。組織は分割されるーーーちょうど広大 な宮殿がとり壊されて、そのあとに公団住宅が建ち並ぶようにわ。均質と確率の世界だ。そこに は意志というものがない。あるいは君はそれが正しいことだと考えるかもしれない。分割がわ。 しかし考えてみてくれ。日本中がまったいらになって山も海岸も湖もなく、そこに均質な公団住 宅をすらりと並べることが正しいことなのかな ? 」 「わかりませんね」と僕は言った。「そういった設問自体が適当なのかどうかがわからない 「君は頭がいい」と男は言って膝の上で指を組んだ。そして指先でゆっくりとしたリズムを刻ん だ。「公団住宅の話はもちろんたとえだ。もう少し正確に言えば、組織はふたつの部分にわかれ ている。前に進むための部分と、前に進ませるための立ロ分オ に・こ。はかにもいろんな機能を果す部分 はあるが、大きく分ければこのふたつの部分によって我々の組織は成立している。その他の部分 には殆んど何の意味もない。前に進む部分が『意志部分』で、前に進ませる部分が『収益部分』 だ。人々が先生を問題にする時に取り上げるのはこの「収益部分』だけだ。そしてまた、先生の 死後に人々が分割を求めて群がるのもこの「収益部分』だけだ。『意志部分』は誰も欲しがらな