「いろいろあるのよ」と彼女は静かに言った。 「いろいろ ? 」 「うん。でも簡単に言ってしまえば、私が耳を出していない方の自分に慣れてしまったからとい うことになるわね」 「つまり耳を出している時の君と、耳を出していない時の君は違うっていうことなのかな ? 「そうね」 一一人のウェイターが我々の皿を下げ、スープを運んできた。 「耳を出している時の君について話してくれないかな ? 」 「すいん昔のことだからうまく話せないわ。本当のことを一 = 〔うと、十二の齢から一度も耳を出 したことはないの」 「でもモデルの仕事をする時には耳を出すわけだよね ? 「ええ」と彼女は言った。「でもあれは本当の耳じゃないの」 「本当の耳じゃない ? 」 月 「あれは閉鎖された耳なの」 爲僕はスープを一一口飲んでから顔を上げて彼女の顔を見た。 「閉鎖された耳についてもう少しくわしく教えてくれないかな ? 」 「閉鎖された耳は死んだ耳なの。私が自分で耳を殺すのよ。つまり、意識的に通路を分断してし
1978 / 9 月 に誰も彼・女にちょっかいを山山したりはしな していた。彼女は唯一の若い独身の女生だったが、リ かった。彼女はまるでカメレオンのように場所や状况によって、その輝きを出したりひっこめた りすることができたのだ。 僕が彼女に ( あるいは彼女の耳に ) めぐり会ったのは、妻と別れた直後ーー八月のはじめだっ したう た。僕はコンピューターのソフトウェア会社の広告コピーの下請け仕事をしていて、そこではじ めて彼女の耳と対面することになった。 広告代理店のディレクターが机の上に企画書と何枚かの大判のモノクロ写真を置いて、一週間 のうちにこの写真につけるヘッド・コピーを一一一種類用意してくれ、と言った。三枚の写真はどれ も巨大な耳の写真だった。 耳 ? 「どうして耳なんですか ? , と僕は訊ねてみた。 「知るもんか。ともかく耳なんだよ。君は一週間耳について考えてりやいいんだよ」
彼女は時折耳を見せたが、その殆んどはセックスに関する場合だった。耳を出した彼女との セックスには何かしら奇妙な趣きがあった。雨が降っているときちんと雨の匂いがした。島がさ えすっているときちんと鳥のさえすりが聞こえた。、つまく一言えないけれど、要するにそ、フい、フこ とだ。 「他の男と寝る時は耳を出さないの ? 」と僕はある時彼女に質問してみた。 「もちろんよ」と彼女は言った。「みんな私に耳があることすら知らないんしゃないかしら」 「耳を出さない時のセックスってどんなものなの ? 」 「とても義務的なものよ。まるで新聞紙をかじってるみたいに何も感じないの。でもいいのよ。 月 義務を果すのって、それはそれで悪くないから」 「でも耳を出した時のはすっとすごいんだろ ? 「そうよ」 と僕は言った。「なにもわざわざっまらない思いをすることはないしゃな 「しゃあ出せばいし
そんなわけで僕は一週間、耳の写真だけを眺めて暮した。机の前の壁にセロテープでその三枚 の巨大な耳の写真を貼りつけ、煙草を吸ったりコーヒーを飲んだりサンドウィッチを食べたり爪 を切ったりしながら、その写真を眺めた。 一週間でなんとか仕事は片付いたが、そのあとでも耳の写真は壁に貼りつけられたままになっ ていた。はがすのが面倒だったせいもあるし、耳の写真を眺めることが僕の日常的習慣になって しまったせいもある。しかし僕がその写真をはがして引出しの奥に放り込んでしまわなかった本 当の理由は、その耳があらゆる面で僕を魅了したからだった。それはまったく夢のような形をし た耳だった。百パーセントの耳と言っていいだろう。拡大された人体の一部 ( もちろん性器も含 めて ) にこれほど強いカでひきつけられたのははじめての体験だった。それは僕に何かしら運命 的な巨大な渦のようなものを思わせた。 あるカープはあらゆる想像をこえた大胆さで画面を一気に横切り、あるカープは秘密めいた細 心さで一群の小さな翳を作りだし、あるカープは古代の壁画のように無数の伝説を描きあげてい 。耳たぶの滑らかさは全ての曲線を超え、そのふ「くらとした肉のあつみは全ての生命を していた。 僕は何日か後でその写真を撮ったカメラマンに電話をかけてその耳の持ち主の名前と電話番号 を教えてもら、フことにした。 「またどうして ? 」とカメラマンは訊ねた。
ま、フってことなんだけど : : : わかるかしら ? 」 業にはよくわからなかった。 「質問してみて」と彼女は言った。 「耳を殺すというのは、耳が聴こえなくなるということ ? 」 「ううん。耳はちゃんと聴こえるの。でも耳は死んでいるのよ。あなたにもできるはすよ」 彼女はスープ・スプーンをテープルに置くと背筋をしゃんと伸ばし、それから両肩を五センチ ばかり上にあげ、顎を思いきり手前に引き、十秒ばかりその姿勢をつづけてから急にがくんと肩 を落とした。 「これで耳が死んだの。あなたもやってみて」 僕は彼女と同じ動作をゆっくり三度繰りかえしてみたが、何かが死んだという印象は持てな かった。ワインのまわりかたが少し早くなっただけだった。 「どうも僕の耳はうまく死わないようだな」と僕はがっかりして言った。 彼女は首を振った。「いいのよ。死なせる必要がなければ、死なせることができなくてなんの 不都合もないんだから」 「もう少し質問してもいい ? 」 「いいわよ」 「君の言っていることを綜合してみると、こういうことになると思うんだ。つまり君は十二の歳
1978 / 9 月 まで耳を出していた。そしてある日耳を隠した。そしてそれから現在に至るまで一度も耳を出し ていなし 、。どうしても耳を出さなくちゃいけない時は耳と意識のあいだの通路を閉鎖する。そう い、フことだね ? 」 彼女はにつこりと笑った。「そ、フい、フことよ」 「十二の齢に君の耳に何が起ったんだ ? 「急がないで」と彼女は言って右手をテープル越しに伸ばし、僕の左手の指にそっと触れた 「お願い」 僕はワインの残りをふたつのグラスに注ぎ、ゆっくりと自分のグラスをあけた。 「ますあなたのことを知りたいな」 「僕のどんなことを ? 「全部よ。どんな風に育ったかとか、年はいくつかとか、何をしているかとか、そんなこと」 「平凡な話だよ。すごく平凡だから、きっと聞いているうちに眠くなっちゃうよ」 「私、平凡な話って好きよ」 「僕のは誰も好きになってくれないようなタイプの平凡な話なんだ」 「いいから十分間話して」 「誕生日は一九四八年の十一一月一一十四日、クリスマス・イプだよ。クリスマス・イプって、あま 1 り良い誕生日じゃない。だって誕生日とクリスマスのプレゼントが一緒になっちゃうからね。み
しかし彼女にとっての真に偉大な時代はまだ訪れてはいなかった。それから二日か三日断続的 に耳を出しただけで、彼女は再びその輝かしい奇蹟的な造形物を髪のうしろにしまいこみ、もと の平凡な女の子に戻ってしまった。それはまるで、三月の始めにためしにコートをちょっと脱い でみたといった感しだった。 「まだ耳を出す時期じゃなかったのね」と彼女は言った。 「自分の力がまだうまく自分でも把握できないのよ」 「べつにかまわないよ」と僕は言った。耳を隠した彼女もなかなか悪くなかったからだ。 3 続・耳の開放について
彼女は一一十一歳で、ほっそりとした素敵な体と魔力的なほどに完璧な形をした一組の耳を持っ ていた。彼女は小さな出版社のアルバイトの校正係であり、耳専門の広告モデルであり、品の良 い内輪だけで構成されたささやかなクラブに属するコール・ガールでもあった。その三つのうち のどれが彼女の本職なのかは僕にはわからなかった。彼女にもわからなかった。 しかしどれが本来の姿であるかという観点から見るなら、耳専門のモデルとしての彼女が最も 自然な姿であるようだった。僕もそう思ったし、彼女もそう考えていた。とはいっても耳専門の 広告モデルが活躍できる分野は極めて限られているし、モデルとしての地位もギャラもおそろし く低いものだった。大抵の広告代理業者やカメラマンやメイク係や雑誌記者は彼女を単なる「耳 セーターを着込んでいた。展一小室の大きなガラス窓から見える海は濃い鉛色で、無数の白い波は えり 女の子たちが着ているワンピースの白いレースの襟を思わせた。 「何を考えているの ? 」と彼女が訊わた。 「昔のこと」と僕は言った。
1978 / 9 月 の持ち主」として扱った。耳以外の彼女の肉体や精神は完全に切り捨てられ、黙殺された。 「でも本当はそうじゃないのよ」と彼女は言った。「耳は私であり、私は耳であるのよ 校正係としての彼女とコール・ガールとしての彼女は絶対に、一瞬たりとも、耳を他人に見せ なかった。 「なぜなら、それは本当の私しゃないから」と彼女は説明した。 。ール・クラブの事務所 ( 一応タレント・クラブという名目になってい 彼女の属するコール・カ た ) は赤坂にあり、みんながミセス・エクスと呼ぶ経営者は白髪のイギリス人の女生だった。彼 り . いうらよう 女はもう三十年も日本で暮していて、流暢な日本語をしゃべり、殆んどの基本的な漢字を読む ことかできた。 ミセス・エクスはコール・ガール事務所から五百メートルも離れていない場所で女性専門の 英会話教室を開いていて、彼女はそこで筋の良さそうな女の子をピックアップしてはコール・ ガール事務所の方にスカウトしていた。逆にコール・ガールの何人かが英会話教室に通うという こともあった。 , 彼女たちはもちろん何割か授業料を免除された。 ミセス・エクスはコール・ガールたちを「ディア」と呼んだ。その彼女の「ディア」には春の 昼下がりのような柔かい響きがあった。 「きちんとしたレースの下着をつけていきなさいわ、ディア。パンティーストッキングはいけま せんよ」とか、「あなたは紅茶にクリームを入れるんだったわね、ディア」とか、そんな具合
「通信教育 ? 「ええ、心理学の通信教育」 我々は最後に残ったバテを二人でわけた。僕は自分が何を言おうとしていたのかをまた忘れて しまった。 「あなたは私の耳とそのあなたの感情の相関関係がまだよくつかめないのわ ? 」 「そうなんだ」と僕は言った。「つまり、君の耳がダイレクトに僕にアピールするのか、それと も別の何かが君の耳を媒介として僕にアピールするのか、それがどうもうまくつかめないんだ」 かに肩を動かした。「あなたの感しる感情は良い 彼女はテープルの上に両手を載せたまま、 種類のもの、それとも嫌な種類のもの ? 」 、。どちらでもある。わからないよ」 「どちらでもなし 彼女は両手でワイン・グラスをはさんで、しばらく僕の顔を見ていた。「あなた、もう少し感 情表現の方法を学んだ方がいいみたいよ」 「描写力もないしね」と僕は言った。 月 彼女は微笑んだ。「でもまあいいわ。あなたの言っていることはだいたいわかったから」 爲「それで僕はどうすればいいのかな ? 」 彼女はすっと黙っていた。何か別のことを考えているみたいに見えた。テープルには空になっ 五枚の皿は滅亡した惑星群みたいに見えた。 た五枚の皿が並んでいた。