1970 / 11 / 25 ていた。 、グで紅茶を淹れ、二人でそれを飲ん 彼女が泣きやむのを待ってから湯を沸かしてティーヾノ だ。砂糖もレモンもミルクもない、ただの熱い紅茶だ。それから一一本ぶんの煙草に火をつけて一 本を彼女にわたした。彼女は煙を吸いこんで吐きだし、それを三回っづけてからひとしきりスき こんだ。 「ねえ、私を殺したいと思ったことある ? 」と彼女が訊ねた。 「君を ? 「うん」 「どうしてそんなことを訊くんだ ? 」 彼女は煙草を口にくわえたまま指の先で瞼をこすった。 「ただなんとなくよ」 「ないよ」と僕は言った。 「本当に ? 「本当に」 「何故僕が君を殺さなくちゃいけないんだ ? うなす 「ただ、誰かに殺されちゃうのも悪くないなってふと 「そうね」と彼女は面倒臭そうに肯いた。 1 田 5 っただけ。ぐ っすり眠っている、っちにさ」 まぶた
138 ジェイはそれ以上は何も言わなかった。 僕は目の前につまみを一一一品並べ、ビールを半分飲んでから、鼠の手紙を取り出してジェイに渡 した。ジェイはタオルで手を拭いて一一通の手紙にさっと目を通し、それからもう一度ゆっくりと 一一 = ロ葉を追って読んだ。 「ふうん」と彼は感心したように言った。 「ちゃんと生きてたんだわ」 「生きてるさ」と僕は言ってビールを飲んだ。「ところで髭を剃りたいんだけれど剃刀とシェー ビング・クリームを貸してもらえないかな」 「いいとも」とジェイは言ってカウンターの下から携帯用のセットを出してくれた。「洗面所を 使えばいいけど、お湯は出ないよ」 「水でいいさ」と僕は言った。「床に酔払った女の子が寝転んでなきゃいいけどね。髭が剃りに し十′ . ジェイズ ・バーはすっかり変っていた。 昔のジェイズ ・ヾーは国道わきの古ばけたビルの地下にある小さな湿っぱい店だった。夏の夜 にはエアコンの風が細かい霧になるほどだった。長く飲んでいるとシャッまで湿った。 ジェイの本名は長たらしくて発音しにくい中国名だった。ジェイというのは彼が戦後米軍基地 かみそり
244 「時間はどこにも行かない。加算されるだけだよ。我々はその十時間を東京なり札幌なりで好き に使うことができるんだ。十時間あれば映画を四本観て、一一回食事できる。そうだろ ? 「映画も観たくないし、食事もしたくなければ ? 「それは君の問題だよ。時間のせいしゃない」 彼女は唇をかんで、しばらく 747 のすんぐりした機体を眺めていた。僕も一緒にそれを眺め た。 747 はいつも僕に昔近所に住んでいた太った醜いおばさんを思い出させる。はりのない巨 大な乳房とむくんだ足、かさかさした首筋。空港は彼女たちの集会場みたいに見えた。何十人も のそういったおばさんたちが次々にやってきては去っていった。首筋をしゃんとのばして空港ロ ビーを行ったり来たりしているバイロットやスチュワーデスは、彼女たちに影をもぎとられたみ オしに奇妙に平面的にみえた。やフレンドシップの時代にはそんなことはなかったような 気がしたが、本当にそ、つなのかどうかは僕には隸い出せなかった。おそらく 747 が太った醜し おばさんに似ているせいで、ついそんな気がするのだろう。 「ねえ、時間は膨張するの ? 」と彼女は僕に訊ねた。 「いや、時間は膨張しない」と僕は答えた。自分でしゃべったはすなのに、まるで自分の声には 聞こえなかった。僕は咳払いして、運ばれてきたコーヒーを飲んだ。「時間は膨張しない」 「でも実際には時間は増えてるじゃない。あなたも言ったように加算されてるわ」
「人を殺すタイプしゃないよ」 「そう ? 」 「たぶんね」 彼女は笑って煙草を灰皿につつこみ、残っていた紅茶を一口飲み、それから新しい煙草に火を 「二十五まで生きるの」と彼女は言った。「そして死ぬの」 一九七八年七月彼女は一一十六で死んだ。
232 彼は長いあいだ黙っていた。ウェイトレスが灰皿を持ってきてくれた。僕は手まわでビールを 注文した。 「たしかに君の一一 = ロうとおりだよ」と彼は言った。「なんとかやってみるよ。うまくいくかどうか は自信がないけれどわ」 「うまくいくさ。 , ハ年前だって、金もなしコネもなしで、あれだけやれたんしゃないか」 僕はグラスにビールをついで一口飲んでからそう一言った。 「君は俺が君と一緒にいることでどれくらい安心していたかを知らないんだ」と相棒は言った。 「そのうちにまた電話するよ」 「うん」 「長いあいだど、つもありがとう。楽しかったよ」と僕は言った。 「もし用事が終って東京に帰ってきたら、また一緒に組んで仕事をしよう」 「そうだな」 そして僕は電話を切った。 しかし僕が一一度と仕事に戻らないだろうということは僕にも彼にもわかっていた。 に働いていれば、それくらいのことはわかるようになる。 僕はビールの瓶とグラスを持ってテープルに戻り、つづきを飲んだ。 職を失ってしまうと気持はすっきりした。僕は少しすっシンプルになりつつある。僕は街を失 六年も一緒
228 「そんなところです」 男はメモにとった事項を電話ロで読みあげた。きちんとしたメモだった。 「これでいいわ」 「結構です」 「それでは」と男は言った。そして電話が切れた。 あたりはもうすっかり暗くなっていた。僕はズボンのポケットに小銭と煙草とライターをつつ こみ、テニス・シューズをはいて外に出た。そして近所の行きつけのスナックに入ってチキン・ カツレッとロールバンを注文し、それができあがるまでプラザーズ・ジョンソンの新しいレコー ドを聴きながらまたビールを飲んだ。プラサーズ・ジョンソンが終るとレコードはビル・ウィ ザーズに変り、僕はビル・ウイザーズを聴きながらチキン・カツレツを食べた。それからメイ ド・ファーガソンの「スター・ウォーズ」を聴きながらコーヒーを飲んだ。あまり食事をし たような気になれなかった。 コーヒー・カップが下げられるとピンク電話に十円玉を三枚入れ、相棒の家の番号をまわし 。電話には小学生の長男が出た。 「こんにちは」と僕は言った。 「こんばんは」と彼が訂正した。僕は腕時計を見た。彼の方が正しかった。 少しあとで相棒が出た。
「きのうの夜からいたの ? 」僕はやかんを手にしたままそう訊ねてみた。 テープルの上で彼女の髪がはんの儺か縦に揺れた 「すっと待っていたんだね」 彼女はそれには答えなかった。 やかんの湯気と強い日差しのせいで、部屋は蒸しはしめていた。僕は流しの上の窓を閉め、エ アコンのスイッチを入れてから、テープルの上にコーヒー・カップをふたっ並べた 「飲めよ」と僕は言った。僕の声は少しすっ僕の声らしさをとり戻していた。 「飲んだ方がいいよ」 たつぶり三十秒間を置いてから彼女はゆっくりとした均一な動作でテープルから顔を上げ、そ のまま枯れた鉢植えをばんやりとみつめた。細い髪が何本か濡れた頬にからみついていた。か な湿り気が彼女のまわりにオーラのように票っていた。 「気にしないで」と彼女は言った。「泣くつもりなんてなかったのよ」 月 ーのをさしだすと、彼女はそれで音を立てすに鼻をかみ、頬につい 僕がティッシュ わすら 爲た髪を煩わしそ、つに指で払った。 「本当はあなたが帰ってくる前に出ていくつもりだったのよ。顔を合わせたくなかったから」 四「でも気が変ったんだね」
誰かが教えてくれたような気もするし、 彼女の生いたちについて、僕はくわしくは知らない。 べッドの中で彼女自身の口から聞いたような気もする。高校一年生の夏に父親と大喧嘩して家を ( ついでに高校を ) とびだした、たしかそんな話だ。いったい何処に住んでいるのか、何で生計 を立てているのか、誰も知らなかった。 彼女は一日中ロック喫茶の椅子に座って何杯もコーヒーを飲み、際限なく煙草を吸い、本の べージを繰りながらコーヒー代と煙草代 ( 当時の我々にとってはちょっとした金額だ ) を払って 間くれる相手が現われるのを待ち、そして大抵はその相手と寝た。 それが彼女について僕が知っている全てだった。 「少しは賢くなったの ? 」 「少しはね」 そしてその夜、僕ははしめて彼女と寝た。
「そ、フしゃないの。も、フどこにも一打きたくなくなっちゃっただけ。 配しないで」 「ともかくコーヒーを飲みなよ」 僕はラジオの交通情報を聞きながらコーヒーをすすり、はさみで一一通の手紙の封を切った。 通は家具店からの通知で、期間中に家具をお買い上げになると全て一一割引きになると書いてあっ た。もう一通は思い出したくもない相手から来た読みたくもない手紙だった。僕は二通の手紙を まとめて丸め、足もとの屑かごに放りこみ、そして残りもののチーズ・クラッカーをかじった。 彼女は寒さをしのぐような格好で両手でコーヒー・カップを包みこみ、に唇を軽くつけたまま しっと僕を見ていた。 「冷蔵庫にサラダがあるわよ」 「サラダ ? 」僕は頭をあげて彼女を見た。 「トマトといんげん。それしかなかったから。きゅうりは悪くなってたから捨てたわよ」 「うん」 ミリほど残って 僕は冷蔵庫からサラダの入った青い沖縄ガラスの深皿を取り出し、瓶の底に五 いたドレッシングを空になるまでふりかけた。トマトといんげんは影のように冷やりとしてい た。そして味がない。クラッカーにもコーヒーにも味はなかった。おそらく朝の光のせいだ。朝 の光が何もかもを分解してしまうのだ。僕はコーヒーを途中であきらめてポケットからくしやく でももう出て行くから心
115 羊をめぐる冒険ー っ置き、何も一言わすに出ていった。彼女の、つしろでドアがかちやりとしまった。そして何もかも がしんとした。 ケースと灰皿が載って テープルの上には車の中で見たのと同じ銀製のライターとシガレット・ いた。そしてそのひとつひとつに前に見たのと同じ羊の紋章が刻みこんであった。僕はポケット から自分のフィルターっきの煙草を取り出し、銀のライターで火をつけ、高い天井にむけて煙を 吐き出した。それからグレープ・ジュースを飲んだ。 十分後にもう一度ドアが開き、黒いスーツを着た背の高い男が入ってきた。男は「ようこそ」 とも「お待たせしました」とも言わなかった。僕も何も一言わなかった。男は黙って僕の向いに腰 を下ろし、少し首をかしげて僕の顔を品定めするようにしばらく眺めた。たしかに相棒が言った よ、フに、男には表生旧というものかなかった。 ひとしきり時間が過ぎた。