たセックスの回数を計算してみた。しかし結局のところ、それは不正確な数字だったし、不正 な数字にたいした意味があるとは思えなかった。おそらく僕は日記をつけておくべきだったの だ。少くとも手帳にしるしだけでもつけておくべきだったのだ。そうすれば僕は四年間に僕み 行ったセックスの回数を正確に把握できたのだ。僕に必要なものは正確に数字であらわせるリ リティーなのだ。 別れた僕の妻はセックスの正確な記録を所有していた。日記をつけていたわけではない。彼 は初潮のあった年から大学ノートに実に正確な生理の記録をつけていて、そこには参考資料とー てセックスの記録も含まれていた。大学ノートは全部で八冊あり、彼女はそれを大事な手紙や 真と一緒に鍵のかかる引出しにしまいこんでいた。彼女は誰にもそれを見せなか 0 た。彼女 セックスについてどの程度の記事を書いていたのか、僕にはわからない。彼女と別れてしまつわ 今となっては、それは永遠にわからない。 「もし私が死んだら」と彼女はよく言ったものだった。「あのノートは燃やして。石油をたっ " りかけて完全に焼いてから、土に埋めて。一字でも見たら絶対に許さないわよ」 「だって僕は君とずっと寝てるんだぜ。体の隅から隅まで大抵のことは知ってる。今更どうし一 恥かしがるんだ ? 「細胞は一カ月ごとに入れかわるのよ。こうしている今でもね」彼女ははっそりとした手の甲・ 僕の目の前にさし出した。「あなたが知ってると思ってるものの殆んどは私についてのただの「
つからなければ、我々はとても困った立場に追い込まれることになる。どんな困った立場かは僕 にもわからないけれど、連中が我々を困った立場に追い込むと一一 = ロえば、それは本当に困った立場 のことなんだ。連中はプロだからね。たとえ先生が死んだとしても組織は残るし、その組織は日 本国中に下水道みたいに張りめぐらされていて、それが我々を困った立場に追い込もうとしてる んだ。馬鹿馬鹿しい話だとは髞うけれど、そういうことになっちゃったんだ」 「そういうのって、テレビの『インべーダー』みたいじゃないの ? 「馬鹿馬鹿しいという点ではね。とにかく我々は巻き込まれてしまったんだし、我々と僕が一一 = ロう のは僕と君のことなんだ。はしめは僕だけだったけど、途中から君が入りこんできた。これでも 溺れかかってるとは一言えないのかな ? 「あら、こういうのって私好きよ。知らない人と寝だり、耳を出してフラッシュをたかれたり、 人名辞典の校正やったりしているよりはずっといいわよ。生活というのはこういうものよ」 冒「つまり」と僕は言った。「君は溺れかかってはいないし、ロープも来ない ル「そういうことわ。私たちは自分たちの手で羊を探すの。きっと私もあなたもそれほど捨てたも ホのじゃないわよ」 るそ、つかもしれない 我々はホテルに帰って生交した。性交ということばが僕はとても好きだ。それは何かしら限定 四された形の可能性を連想させてくれる。
が、なにしろ交通の便が悪いものですから、そのうちに誰も来なくなって空家同然ですね。だか ら町に貸与してもらっています。本当は買い取って観光牧場にでもすれはいいんでしようが、貧 乏な町ではどうしようもないですわ。ます道路整備が必要ですしね」 「貸与 ? 」 「夏には町の緬羊牧場のものが五十頭はかり羊を連れて山に上ります。牧場としてはなかなか良 い牧場ですし、町営の牧草地だけでは草が足りないものですから。それで九月の後半になって天 候が崩れ始めるとまた羊をつれて帰ってくるんです」 「その羊のいる時期はわかりますか ? 」 「年によって若干の移動はありますが、五月の始めから九月半ばというところですね」 「羊を連れていく人間は何人ですか ? 」 「一人です。この十年ばかり同じ人間がそれをつづけてやっています」 Ⅲ「その人に会ってみたいですね」 冒職員は町営の緬羊飼育場に電話をかけてくれた。 る 「今からいらっしゃれば会えますよ」と彼は言った。「車で送りましよう」 を僕は始めのうちは断ったが、よく聞いてみると車で送ってもらう以外に飼育場に行く方法はな 羊 かった。町にはタクシーもレンタ・カーもなく、歩けば一時間半かかった。 職員の運転してくれる軽自動車は旅館の前を通りすぎて西に向った。そして長いコンクリート
「そのあとのことを話すのはとても辛い」と鼠は言った。 「この辛さはどんな風にしゃべっても君にわかってもらえないんしゃないかと思う」 鼠は空になったふたつめのビール缶を指でヘこませた。 「できれば君の方から質問してくれないか ? 君にももうだいたいのところはわかっているん〕 「質問の順序がばらばらになるけどかまわないか ? 僕は黙って肯いた。 「かまわないよ」 「君はもう死んでるんだろう ? 」 鼠が答えるまでにおそろしいほど長い時間がかかった。ほんの何秒であったのかもしれな が、それは僕にとっておそろしく長い沈黙だった。ロの中がからからに乾い
の橋をわたって、寒々しい湿地帯を抜け、山に入るゆるやかな坂道を上っていった。タイヤの きあげる砂利がばちばちと乾いた音を立てた。 「東京からいらっしやると、死んだ町みたいに見えるでしよう ? 」と彼は言った。 僕は曖昧な返事をした。 「でも実際に死にかけてるんですよ。鉄道のあるうちはまだ良いけれど、なくなってしまえば亠 当に死んでしまうでしようね。町が死んでしまうというのは、どうも妙なもんです。人間が死 のはわかる。でも町が死ぬというのはね」 「町が死ぬとどうなるんですか ? 「どうなるんでしようね ? 誰にもわからんのです。わからないままにみんな町を逃げ出して」 くんですよ。もし町民が千人を割ったらーー・・・ということも十分あり得ることなんですがーーー我」 の仕事も殪んどなくなってしまいますからね、我々も本当は逃げ出すべきなのかもしれない」 僕は彼に煙草を勧め、羊の紋章入りのデュポンのライターで火をつけてやった。 「札幌に行けば良い仕事があるんですよ。叔父が印刷会社をやっていて、人手が足りないん ( す。学校相手の仕事ですから経営も安定してますしね。本当はそれがいちばん良いんですよ。、 んなところで羊や牛の出荷頭数を調べてるよりね」 「そうですね」と僕は言った。 「でもいざ町を出ようと思うと駄目なんです。わかりますか ? 町というのが本当に死んでし、
めんよう 囲「それがそうでもないのよ。緬羊飼育が盛んであれば独自の組合活動もあるし、それなりのきち んとしたルートが役所でも把握できるんだけど、今のような状況では中小の緬羊飼育の実態はま るで把めないの。みんなが猫や大を飼うみたいに勝手に少しずつ羊を飼っているようなものだか らね。一応わかっているだけの緬羊業者の住所は三十ばかり控えてきたけれど、これは四年前の 資料だし、四年のあいだには結構移動があるらしいわ。日本の農業政策は三年ごとに猫の目みた いに変化しているから」 「やれやれ」と僕は一人でビールを飲みながらため息をついた。「どうも手詰りのようだね。 海道には百以上の似たような山があるし、緬羊業者の実態はまるでわからないときてる」 「まだ一日しか経っていないしゃない。全ては始まったばかりよ」 「君の耳はもうメッセージをキャッチしないのかい ? 「メッセージは当分来ないわ」彼女はそう言って魚の煮物をつまみ、味噌汁を飲んだ。「なんと なく自分でもそれがわかるのよ。つまりメッセージがや 0 てくるのは私が何かで迷っている時と か、精神的飢餓感を感じている時に限られていたし、今はそうしゃないから」 「本当に溺れかかってる時にしかロープは来ないってこと ? 「そう。私は今あなたとこうしていることで充ち足りているし、充ち足りている時にはメッセー ジはやって来ないのよ。だから私たちは自分の手で羊をみつけ出すしかないの」 「よくわからないな」と僕は言った。「現実的に我々は追いつめられているんだよ。もし羊がみ つか
「そうだ」と羊博士は言った。「釜山から船で帰った。羊も一緒についてきた」 「羊の目的はいったいなんだったんですか ? 「わからん」と羊博士は吐き出すように言った。「わからんのだ。羊は私にはそれを教えなかっ た。しかし奴には大きな目的があった。それだけは私にもわかった。人間と人間の世界を一変さ せてしまうような巨大な計画だ」 「それを一頭の羊がやろうとしたんですか ? 」 「驚く 羊博士は肯いてロール。ハンの最後のかけらを口につつこむとばたばたと手をはたいた。 ことはない。・ シンギス汗のやったことを考えてみろ」 「それはそうです」と僕は言った。「しかし何故今ごろになって、しかもこの日本を羊が選んだ んでしよ、つ ? 「たぶん私が羊を起こしてしまったんだろう。羊はきっと何百年ものあいだあの洞窟の中で眠っ 冒ていたんだ。それを私が、この私が起こしてしまったんだ」 ル「あなたのせいしゃありませんよ」と僕は言った。 「いや」と羊博士は言った。「私のせいだ。もっと早くそれに気づくべきだったんだ。そうすれ ば私にも打つ手はあったんだ。しかし私は気づくのに時間がかかった。そして私が気づいた時に は羊はもう逃げ出したあとだった」 羊博士は黙り込んで、つららのような白い眉毛を指でこすった。四十一一年という時間の重さが
216 ね」 「はしめからここがわかっていたんですね ? 「あたりまえさ。いったい私をなんだと思ってるんだ」 「質問してもいいですか」 「いいよ」と男は機嫌良さそうに言った。「手短かにね」 「なぜ最初から場所を教えてくれなかったんですか ? 「君に自発的に自由意志でここに来てほしかったからさ。そして彼を穴倉からひつばりだして〔 しかったんだ」 「穴倉 ? 」 「精神的な穴倉だよ。人は羊つきになると一時的な自失状態になるんだ。まあシェル・ショッ ~ のようなもんだね。そこから彼をひつばり出すのが君の役目だったのさ。しかし彼に君を信用 , せるには君が白紙でなくてはならなかった、ということだよ。どうだい、単だろう ? 」 「そうですわ」 「種をあかせばみんな簡単なんだよ。プログラムを組むのが大変なんだ。コンピューターは人 の感情のぶれまでは計算してくれないからね、まあ手仕事だよ。しかし苦労して組んだプログ = ムか思いどおりにはこんでくれれば、これに勝る喜びはない 僕は肩をすくめた。
僕は途中で書店に入って北海道全図と「北海道の山」という本を買い、喫茶店に入ってジン ジャー ・エールを一一本飲みながら読んでみた。北海道には信じられぬほど多くの山があり、その どれもが似たような色と似たような形をしていた。鼠の写真に写った山と本に出ている写真の山 をひとっすつ見比べてみたが、十分ばかりで頭が痛くなった。それにだいいち本の写真にとりあ げられている山の数は北海道の山全体から見ればはんの一部なのだ。それに同しひとつの山でも 見る角度を変えるだけでがらりと印象が違ってしまうこともわかった。「山は生きています」と 筆者はその本の序文に書いていた。「山はそれを見る角度、季節、時刻、あるいは見るものの心 持ちひとつでがらりとその姿を変えてしまうのです。従って我々は常に山の一部分、ほんのひと かけらしか把握してはいないのだという認識を持っことが肝要でありましよう」 やれやれ、と僕は声に出して言った。それからもう一度無駄であることが認識された作業にと りかかり、五時の鐘を聞くと公園のべンチに座って鳩と一緒に玉蜀黍をかしった。 冒彼女の方の情報収集作業の質は僕のよりは少しはましだったが、徒労に終ったという点では同 ルしようなものだった。我々はいるかホテルの裏手にある小料理屋でささやかなタ食をとりながら テ 今日一日のお互いの身の上話を交換しあった。 る「道庁の畜産課では殆んど何もわからなかったわ」と彼女は言った。「つまり羊はもう見放され た動物なのね。羊を飼っても採算があわないのよ。少くとも大量飼育・放牧という形態ではね」 「しゃあ少いぶんだけみつけやすいとも一言える」 とうもろこし
120 僕は黙って肯いた。 「歩けるかな ? 「歩くぶんには問題ないな。要は震動だからね」 管理人はもう一度靴の底で思い切り路面を叩いた。はんのわすか時間がすれて鈍い音がした。 ぞっとするような音だった。「うん、歩くぶんには大丈夫さ」 我々はジープまで引き返した。 「ここからだとあと四キロってとこだな」と管理人は並んで歩きながら言った。「女づれでも 時間半もありや着く。道は一本だし、たいした上りもないしな。最後まで送れなくて悪かった」 「いいですよ。どうもありがとう」 「すっと上にいるのかい ? 「わからないな。明日帰ってくるかもしれないし、一週間かかるかもしれない。なりゆき次第 ( すよ」 彼はまた煙草をくわえたが、今度は火をつける前に咳きこんだ。「あんた気をつけた方がい、 よ。この分しや今年は雪が早そうだからな。雪が積っちまうとここから抜け出せなくなっちま、 「気をつけますよ」と僕は言った。 「玄関の前に郵便受けがあって、鍵がその底にはさんである。誰もいなかったら、それを使う、