札幌から旭川に向かう早朝の列車の中で、僕はビールを飲みながら「十一一滝町の歴史」とい ) 箱入りのぶ厚い本を読んだ。十一一滝町というのは羊博士の牧場のある町である。たいして役に」 著者は昭和十五年・十一一滝町生まれ、 立たないかもしれないが、べつに読んでおいて損はない。 北海道大学文学部を卒業後郷土史家として活躍、とある。活躍しているわりには著書はこの一 だけだった。発行は昭和四十五年五月、もちろん初版である。 冒 る 本によれば、現在の十一一滝町のある土地に最初の開拓民が乗り込んできたのは明治十三年 2 わず を夏であった。彼らは総勢十八名、全員が貧しい津軽の小作農で、財産といえば僅かな農具と亠 羊 ・夜具、それに鍋釜・包丁くらいのものだった。 彼らは札幌の近くにあったアイヌ部落に立ち寄り、なけなしの金をはたいてアイヌの青年を 十ニ滝町の誕生と発展と転落
「我々は氷河時代に巡り会うべきじゃなかったかしら」と札幌に向うバスの中で彼女は言った。 「あなたがマンモスを獲り、私が子供を育てる」 「素敵みたいだな」と僕は言った。 それから彼女は眠り、僕はバスの窓から道路の両側に延々とつづく深い森を眺めていた。 我々は札幌に着くと喫茶店に入ってコーヒーを飲んだ。 「ます基本方針を決めよう」と僕は言った。「手わけしてあたるんだ。つまり僕は写真の風景・ あたってみる。君は羊についてあたってみる。これで時間が節約できる」 「合理的みたいね」 「うまくいけばね」と僕は言った。「とにかく君には北海道にある主だった羊牧場の分布と羊 ( 種類を調べてほしいんだ。図書館か道庁に行けばわかると思う」 冒「図書館は好きよ」と彼女は言った。 の 「良かった」と僕。 ホ 「今からかかるの ? る僕は時計を見た。三時半だった。 「いや、もう遅いから明日にしよう。今日はのんびりして亠 ら泊まる場所を決め、食事をして風呂に入って寝る」 「映画が観たいな」と彼女は言った。
しかし札幌における我々の三日めと四日めも無為のうちに過ぎ去った。我々は八時に起き一 モーニング・サービスを食べ、分かれて一日を過し、夕方になるとタ食をとりながら情報を交 し、ホテルに帰って交して眠った。僕は古いテニス・シューズを捨てて新しいスニーカーを四 、何百人もの人間に写真を見せてまわった。彼女は役所や図書館の資料をもとに緬羊飼育業亠 の長いリストを作りあげ、片端から電話をかけた。しかし収穫はゼロだった。誰も山に見覚え」 一人の老人は なかったし、どの緬羊飼育業者も背中に星印のついた羊のことは知らなかった。 争前に南樺太でこんな山を見た覚えがあるといったが、鼠が樺太まで行ったとは僕には思え かった。樺太から東京まで速達が出せるわけがないのだ。 そして五日めと六日めが過ぎ去り、十月がどっかりと街に腰を下ろした。日差しこそ暖かっ ~ が風は心もち冷たくなり、夕方になると僕は薄い綿のウインド・プレーカーを着こんだ。札幌 ( 街は広く、うんざりするほど直線的だった。僕はそれまで直線だけで構成された街を歩きまわ , ことがどれはど人を磨耗させていくか知らなかったのだ。 まもう
期もな時代だったな。今でもそうだけれど、牧草地を町に貸していたから、夏になるとここは町 ( 羊でいつばいになったんだ。羊だらけだよ。だから俺の夏の記億というといつも羊に結びつい るんだ」 別荘を持っというのがどういうことなのか僕にはよくわからなかった。たぶん一生わからな」 のだろう。 「しかし六〇年代の半ばごろから、家族は殆んどここにはこなくなってしまったんだ。家か もっと近いところにも、つひとっ別荘を持ったせいもあるし、姉が結婚しちゃったせいもあるし、 俺が家族としつくりいかなかったせいもあるし、父親の会社がしばらくごたごたしていたせい あるし、まあなにやかやさ。とにかく、そんな風にしてこの土地は再び見捨てられた。俺が最 にここに来たのは一九六七年だったかな。その時は一人で来たんだよ。一人で一カ月ここで暮 1 鼠はそこで何かを思い出すように少し口をつぐんだ。 「淋しくなかった ? 」と僕は訊ねてみた。 「淋しくなんかないさ。できればすっとここにいたかったよ。でもそうはいかない。だってこ一 は父親の家だからね。父親の世話になりたくなかったんだ」 「今だってそうだろう ? 「そ、フだよ」と鼠は言った。 「だから俺はここにだけは来ないつもりだったんだ。でも札幌の」
の橋をわたって、寒々しい湿地帯を抜け、山に入るゆるやかな坂道を上っていった。タイヤの きあげる砂利がばちばちと乾いた音を立てた。 「東京からいらっしやると、死んだ町みたいに見えるでしよう ? 」と彼は言った。 僕は曖昧な返事をした。 「でも実際に死にかけてるんですよ。鉄道のあるうちはまだ良いけれど、なくなってしまえば亠 当に死んでしまうでしようね。町が死んでしまうというのは、どうも妙なもんです。人間が死 のはわかる。でも町が死ぬというのはね」 「町が死ぬとどうなるんですか ? 「どうなるんでしようね ? 誰にもわからんのです。わからないままにみんな町を逃げ出して」 くんですよ。もし町民が千人を割ったらーー・・・ということも十分あり得ることなんですがーーー我」 の仕事も殪んどなくなってしまいますからね、我々も本当は逃げ出すべきなのかもしれない」 僕は彼に煙草を勧め、羊の紋章入りのデュポンのライターで火をつけてやった。 「札幌に行けば良い仕事があるんですよ。叔父が印刷会社をやっていて、人手が足りないん ( す。学校相手の仕事ですから経営も安定してますしね。本当はそれがいちばん良いんですよ。、 んなところで羊や牛の出荷頭数を調べてるよりね」 「そうですね」と僕は言った。 「でもいざ町を出ようと思うと駄目なんです。わかりますか ? 町というのが本当に死んでし、
案内に雇った。目の暗い、やせた青年で、アイヌ語で「月の満ち欠け」という意味の名前を持 ( ていた。 ( たぶん症の傾向があ「たのではないかと著者は推察している。 ) もっとも道案内にかけては、この青年は見かけよりずっと優秀だった。彼は言葉が殪んど通い ないうえにおそろしく疑り深い十八人の陰気な農民たちを率いて石狩川を北上した。彼はどこ」 行けば肥沃な土地がみつかるかをちゃんと、い得ていたのだ。 四日めに一行はそこに到着した。広々として水利はよく、あたり一面に美しい花が咲き乱れ一 「ここなら良し」と青年は満足気に言った。「獣少なし、土地も肥えとり、鮭もとる」 「いいや」とリーダー格の農民が首を振った。「もっと奧の方がええ」 農民たちはきっともっと奥に行けばもっとよい土地が見つかるとっているんだろう、と青 ~ は考えた。よろしい。それではもっと奧に進も、つではないか。 一行はそれから二日間北に向って歩いた。そして最初の土地はど肥沃ではないにしても洪水 ( 心配のない高台をみつけた。 「どうだ ? 」と青年は訊ねた。「ここも良し。どうだ ? 農民たちは首を振った。 そのような応答を何度か繰りかえしたのち、彼らはとうとう現在の旭川に辿りついた。札幌、 ら七日間、約一四〇キロの旅である。
夕食を済ませたあと、僕は鼠の部屋から「。ハンの焼き方」という本と一緒にコンラッドの小 を借りてきて、居間のソファーに座ってそれを読んだ。三分の一ばかり読んだところで、鼠がー おりがわりに十センチ四方ほどの新聞の切れはしをはさんでおいたところにぶつかった。日付け わからなかったが、色の具合から見てそれが比較的新しい新聞であることはわかった。切りとム れた記事の内容はローカル情報だった。札幌のあるホテルで高齢化社会を考えるシンポジウムが 冒開かれることになっていたり、 旭川の近くで駅伝大会が催されたりしていた。中東危機につい の講演会もあった。そこには鼠の、あるいは僕の興味をひきそうなものは何ひとつなかった。 め を 側は新聞広告だった。僕はあくびをして本を閉し、台所でコーヒーの残りを沸かして飲んだ。 羊 久し振りに新聞を読んで、僕は自分がまるまる一週間世界の流れから取り残されていたことに はしめて気づいた。ラジオもなければテレビもなく、新聞も雑誌もない。今、この瞬間にも東市 かし時計が三時を打っころには殆んどの雪が溶けた。地面はしっとりと湿り、夕方近くの太陽幇 草原をやわらかな光で包みこんでいた。まるで解き放たれたように鳥が鳴き始めた。
こまでが羊の影なのか、それさえもわからないんだ 「あなたがさっきおっしやった打つべき手というのはどんなことなのですか ? 羊博士は首を振った。「私は君にそれを一一一一口うつもりはない」 再び沈黙が部屋を私 0 た。窓の外では激しい雨が降り始めていた。札幌に来て最初の雨だ一 「最後にその写真の土地の場所を教えて下さい」と僕は言った。 「私が九年間暮していた牧場だよ。そこで羊を飼っていた。戦後すぐに米軍に接収され、返遠 , れた時にある金持に牧場つきの別荘地として売った。今でも同し持ち主のはずだ」 「今でも羊を飼っているんですか ? 「わからん。しかしその写真を見るとどうやら今でも飼っているらしいな。ともかく人里離れ ~ 士戸で、見渡す限り人家もない。冬には交通も途絶える。持ち主が使うのは年に一「三カ月く、 . いのものだろう。静かで良いところだがね」 「使われていない時は誰かが管理しているんですか ? 「冬場はたぶん誰もいないだろう。私をのぞけば、あんなところで一冬過したがる人間はまず、 ないからわ。羊の世話は金を払ってふもとにある町営の緬羊飼育場に委託すればいいんだ。屋 の雪は自然に地面に落ちるように設計してあるし、盗難の心配もない。あんな山の中で何かを宀 んでも町に辿りつくまでが大変だよ。なにしろおそろしい量の雪が降るからな」
対して腹を立てていた。 悪魔は腹を立てるとぐしゃぐしやとした緑色のフルーツ・ゼリーのよう な体を震わせて怒った。その怒り方にはどことなく徹笑ましいところがあった。 我々の前方の席では中年の男が霧靃のようなもの哀しいいびきをかきつづけていた。右手の隅 ではヘビー・べッティングが進行していた。後方で誰かが巨大な音のおならをした。中年男のい びきが一瞬止まるくらいの巨大なおならだった。女子高校生の二人づれがくすくす笑った。 僕は反射的にいわしのことを思い出した。いわしのことを思い出したところで、やっと僕は自 分が東京を離れて札幌にいることを思い出した。逆に言えば、誰かのおならの音を聞くまで僕は 自分が東京を遠く離れたことを実感できなかったわけだ。 不思議なものだ。 そんなことを考えているうちに僕は眠ってしまった。夢の中に緑色の悪魔が出てきた。夢の中 の悪魔は少しも微笑ましくはなかった。闇の中で黙って僕をみつめているだけだった。 冒映画が終って場内が明るくなったところで僕も目覚めた。観客は申しあわせたように順番にあ ルくびをした。僕は売店でアイスクリームをふたっ買ってきて彼女と食べた。去年の夏から売れ テ ホ残っていたような固いアイスクリームだった。 る「ずっと寝てたの ? 「うん」と僕は言った。「面白かった ? 「すごく面白かったわよ。最後に町が爆発しちゃうの
はがしてしまわなくてはならないだろう。その手間を考えると他人事ながらうんざりした。人 ( 住まない家は確実に朽ちてい その別荘は疑いもなくあともどりできるポイントを通り過ぎ一 家が古びていくのとは対照的に樹木は休むことなく生長しつづけ、まるで「スイスのロビン〕 ン」に出てくる樹上家屋のように建物をすつほりと包んでいた。長いあいだ枝切りをしていな、 おかげで、樹木は気の向くままに枝を広げていた。 あの山道の険しさを考えてみると、四十年の昔にこれだけの家を建てる資材を羊博士がどの」 うにしてここまで運び上げたのか、僕には見当もっかなかった。おそらく労力と財産の全てを一 こにつぎこんだのだろう。札幌のホテルの二階の暗い部屋にこもっている羊博士のことを思う」 心が痛んだ。報われぬ人生というものがタイプとして存在するとすれば、それは羊博士の人生 ( ことだろう。僕は冷たい雨の中に立って、建物を見上げた。 遠くから見た時と同しように人の気配はまるで感じられなかった。細長く高いダブルハング売 の外側についた木のプラインドには細かい砂ばこりが層になってこびりついていた。雨が砂ば一 りを奇妙な形に固定させ、その上に新しい砂ばこりがたまり、新しい雨がそれをまた固定させ一 玄関のドアには目の高さに十センチ四方のガラス窓がついていたが、窓は内側からカーテン ( さえぎられていた。真鍮のノブのすきまにもたつぶり砂ほこりが入り込んでいて、僕が手を触