たカだった。 「こんな晴れた日は窓を開けとかなくちゃ , と羊男は言った。それから羊男は部屋をぐるりと半 周して書棚の前に立ち、腕組したまま本の背表紙を眺めた。衣裳の尻の部分には小さな尻尾まで はえていた。後から見ると本物の羊が二本足で立ちあがっているとしか見えなかった。 「友だちを探してるんだ」と僕は言った。 「へえ」と羊男は背中を向けたまま興味なさそうに言った。 「ここにしばらく住んでいたはすなんだよ。つい一週間前までさ」 「知らないねえ」 羊男は暖炉の前に立って棚の上のトランプをばらばらとめくった。 「背中に星の印がついた羊のことも探してるんだ」と僕は言った。 「見たこともないよ」と羊男は言った。 Ⅲしかし羊男が鼠と羊について何かを知っていることは明らかだった。彼は無関心さを意識しす 冒ぎていた。答え方のタイミングが早すぎたし、口調も不自然だった。 僕は作戦を変え、いかにも相手にもう興味をなくしたという風をよそおってあくびをし、机の め を 上の本を取ってべージを繰った。羊男は少しそわそわした感じでソファーに戻った。そして僕が 羊 本を読んでいるのをしばらく黙って眺めていた。 「本を読むのって面白いかね ? と羊男は訊ねた。
と手袋はすつばりと抜け、かさかさとした浅黒い手が現われた。小さいが肉は厚く、親指のつけ ねから甲のまんなかにかけて古いやけどのあとが残っていた。 羊男は手の甲をしっと眺め、それからひっくりかえして手のひらを眺めた。それは鼠がよくや る仕草にそっくりだった。しかし鼠が羊男であるわけはない。身長が二十センチ以上も違うの 「ここにずっといるのかい ? 」と羊男が訊ねた。 「いや、友だちか羊かどちらかがみつかれば出ていくよ。そのために来たんだからわー 「ここの冬はいいよ」と羊男はくりかえした。「白くてきらきらしてるんだ。そしてみんな凍り 羊男は一人でくすくす笑って、大きな鼻腔をふくらませた。口を開けると汚ない歯がのぞい た。前歯が一一本抜け落ちていた。羊男の思考のリズムはどことなく不均一で、それが部屋の空気 をのばしたり縮めたりしているよ、フに感じられた。 「そろそろ帰るよ」と羊男は突然言った。「煙草をどうもありがとう」 僕は黙って肯いた。 「あんたの友だちとその羊が早くみつかるといいね」 「うん」と僕は言った。「それについて何かがわかったら教えてくれるね」 羊男はしばらく居心地悪そうにもじもじしていた。「うん、 しいよ。教えるよ」
「そうだね」と羊男は注意深く言った。「きっとそうなるね」 「もし君が僕の友だちなら、君は僕に嘘をつかない。そうだわ ? 「うん」と羊男は困ったように言った。 「話してくれないかな、友だちとして」 羊男は舌で乾いた唇をなめた。「一言えないんだ。本当に悪いけれど、言えないんだ。言っちゃ いけないことになってるんだ」 「誰に口止めされたんだい ? 羊男は貝のように押し黙った。風が枯木のあいだで音を立てた。 「誰も聞いてないよ」と僕はそっと言った。 羊男はじっと僕の目を見た。「あんたはこの土地のことを何も知らないんだわ ? 「知らないよ」 ここは普通の場所しゃないんだ。それだけは覚えといた方がいいよ」 「いい力し 険 冒「でも君はこのあいだここは良い土地だって言ったぜ」 「おいらにとってはね」と羊男は言った。「おいらにとってはここしか住む場所はないからね。 め を ここを追い出されるとおいらにはもう行き場所がないんだ」 羊 羊男は黙った。彼からそれ以上の一 = ロ葉を引き出すのは不可能であるようにえた。僕は薪のつ まったズックの袋を眺めた。
僕は少しおかしくなったが笑いをこらえた。羊男はどうも嘘をつくのが苦手であるようだっ 羊男は手袋をはめてから立ちあがった。「また来るよ。何日先になるかはわからないけど、ま た来る」それから目が曇った。「迷惑じゃないだろうね ? 」 「まさか」と慌てて僕は首を振った。「是非会いたいよ」 「しや、来るよ」と羊男は言った。そして後手にばたんとドアを閉めた。しつばがひっかかりそ うになったが、 無事だった。 僕がプラインドのすきまから見ていると、羊男は来た時と同じように郵便受けの前に立って、 そのべンキのはげた白い箱をじっと睨んでいた。そしてごそごそと身をよしって羊の衣裳に体を なしませてから、足早に草原を東の森に向けて突っ切っていった。水平につき出た耳がプールの 跳び込み台のように揺れていた。羊男は遠ざかるにつれて白いくすんだ点となり、遂には同しょ うな色あいの白樺の幹のあいだに吸い込まれていった。 冒羊男が消えたあとも、僕はすっと草原と白樺の林を見つめていた。見つめれば見つめるほど羊 男がこの部屋にさっきまで存在していたことに確信が持てなくなった。 め を しかしテープルにはウイスキーの瓶とセプンスターの吸殻が残っていたし、向いのソファーに 羊 は羊の毛が何本か付着していた。僕はランドクルーザーの後部座席でみつけた羊の毛とそれを比 べてみた。同じだった。
羊男は肯いた。 「羊についても同しだよ」 羊男は肯いた。 「でもそれについては何も知らないんだね ? 」 羊男は哀し気に左右に首を振った。作りものの耳がひらひらと揺れた。しかし今回の否定は の否定よりすっと弱かった。 「ここはい ) しところだよ」と羊男は話題を変えた。「景色はきれいだし、空気はうまいしね。 んたもきっと気に入ると思う」 「いいところだよ」と僕も言った。 「冬になるともっと良くなる。あたりには雪しかなくなって、こちこちに凍りついちまうんだ。 動物もみんな寝てるし、人も来ないよ」 「ずっとここにいるのかい ? 険 冒「うん」 僕はそれ以上何も質問しないことにした。羊男は動物と同じなのだ。こちらが近づけば退 / め をし、こちらが退けば近づいてくる。すっとここにいるのなら急ぐことはない。ゆっくり時間をふ けて探り出していけばいいのだ。 羊男は左手で右手にはめた黒い手袋の先を親指から順番にひつばっていった。何度かひつばス
154 「うん」と僕は簡単に答えた。 羊男はそれからもまだぐずぐずしていた。僕はかまわすに本を読みつづけた。 「さっきは大声出して悪かったよ」と羊男は小さな声で言った。「ときどきね、その、羊的な。 のと人間的なものとがぶつかってああなっちゃうんだよ。べつに悪気があったわけしゃない , だ。それにあんただっておいらを責めるようなことを言うから」 「いいさ」と僕は言った。 「あんたがあの女の人ともう会えないことについても気の毒だとは思うよ。でもそれはおいら ( せいしゃないんだ」 「うん」 僕はリュックのポケットからラークを三箱出して羊男に与えた。羊男は少し驚いたようだ一 「ありがとう。この煙草はじめてだよ。でもあんたはいらないのかい ? 「煙草はやめたんだ」と僕は言った。 うなす ) よ」と羊男は真剣に肯いた。 「たしかに体に悪いからね」 「うん、それがいし 羊男は煙草の箱を大事そうに腕についたポケットにしまった。その部分が四角くふくらんだ。 「僕はどうしても友だちに会わなくちゃならないんだ。そのためにすっとすっと遠くからここ、 で来たんだ」
ないのだろう。しかし僕があきらめてべつの質問を考えているうちに彼の目が徐々に違った光・ 帯びていった。 「女はいるかホテルに帰った」と羊男は言った。 「彼女がそう言ったんだね ? 」 「何も一言わないよ。ただいるかホテルに帰ったんだ」 「どうしてそれがわかるんだ ? 羊男は黙った。膝に両手を置き、黙ってテープルの上のグラスを睨んでいた。 「でもいるかホテルに帰ったんだね ? と僕は言った。 「うん、いるかホテルは良いホテルだよ。羊の匂いがする」と羊男は言った。 我々はまた黙った。よく見ると羊男のまとった羊の毛皮はひどく汚れ、毛は油でごわごわとー ていた。 「彼女は出ていく時に伝言か何か言っていかなかった ? 冒「いいや」と羊男は首を振った。「女は何も言ってないし、おいらは何も聞いてない 「君が出ていった方がいいって言ったら、黙って出ていったんだね ? め を 「そうだよ。女が出ていきたがってたから出てった方がいいって言ったんだ」 「彼女は自分で望んでここまで来たんだ 「違うよ ! 、と羊男はどなった。「女の方が出ていきたがってたんだ。でも自分でもとても混「
172 「下の町かい ? 「うん」 「好きじゃないよ。兵隊でいつばいだからね」羊男はもう一度咳をした。「あんたはどこから来 「東京からだよ」 「戦争の話は聞いたかい ? 羊男はそれで僕に対する興味を失ったようだった。我々は草原の入口に着くまで何もしゃべら なかった。 「家に寄っていかないか ? 」と僕は羊男に訊わてみた。 「冬の仕度があるんだ」と彼は言った。「とても忙しい。また今度にするよ」 「僕の友だちに会いたいんだ」と僕は言った。「あと一週間のうちにどうしても彼に会わなきや いけない理由があるんだ」 羊男は哀し気に首を振った。耳がばたばたと揺れた。「悪いけど、前にも言ったように、おい らには何もできないよ」 「もし伝えられたらでいいよ」 「うん」と羊男は言った。
「ギターを弾いてたんだね」と羊男は感心したように言った。「音楽はおいらも好きだよ。楽 は何もできないけどさ 「僕もできないよ。もう十年近く弾いてなかったんだ」 「てもしいから少し弾いてみてくれないかな」 僕は羊男の気を悪くしないために「エアメイル・スペシャル」のメロディーをひととおり ~ き、あとワン・コーラス、アドリプのようなものをやりかけてから小節の数がわからなくなっ やめた。 「うまいよ」と羊男は真剣に賞めてくれた。「楽器が弾けるというのは楽しいんだろうね ? 」 「うまく弾けれはね。でもうまくなるためには耳がよくなくちゃだめだし、耳かいいと自分の ~ いてる音にうんざりしちゃうんだ 「そういうものかな」と羊男は言った。 羊男はプランデーをグラスについでちびちびと飲み、僕は缶ビールのふたをあけてそのまま 「伝言は伝えられなかったよ」と羊男は言った。 め うなず を僕は黙って肯いた。 「それだけを言いに来たんだ」 僕は壁にかかったカレンダーを眺めた。赤いサインべンでしるしをつけた期限の日まであと一
うまで、一人で何かをぶつぶっとつぶやきつづけていた。羊男の鼻は体に比べて大きく、息をす るたびに鼻腔が翼のように左右に広がった。マスクの穴からのぞく二つの目は落ちつかな気に僕 のまわりの空間をきよろきよろとさまよっていた。 グラスを空けてしまうと羊男は少し落ちついたようだった。彼は煙草を消し、マスクの下から 両手の指を入れて目をこすった。 「毛が目に入るんだ」と羊男が言った。 どう一一一一口えばいいのかわからなかったので、僕は黙っていた。 「昨日の午前中にここに来ただろう ? 」と羊男は目をこすりながら言った。「すっと見てたん 羊男は半分溶けた氷の上にとくとくとウイスキーを注ぎ、かきまわさすに一口飲んだ。 「で、午後に女が一人で出てった」 「それも見てたんだね ? 「見てたんじゃなくて、おいらが追い帰したんだ」 「追い帰した ? 「うん、台所のドアから顔を出して、あんた帰った方がいいって言ったんだ」 「どうして ? 」 羊男はすねたように黙り込んだ。どうして、という質問のしかたはおそらく彼にはふさわしく