飲ん - みる会図書館


検索対象: 羊をめぐる冒険 下
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1. 羊をめぐる冒険 下

こ。誰もいなかった。沈黙だけが油のように部屋の隅々にしみこんでいた。部屋の広さによっ 沈黙の響きかたが少しすっ違っているだけだった。 僕は一人ばっちで、生まれてこのかたこれほど一人ばっちになったことはなかったような気お した。この二日ばかりではじめて強烈に煙草が吸いたくなったが、もちろん煙草はなかった。 そのかわりに僕は氷なしでウイスキーを飲んだ。もしこんな風に一冬を過すとしたら、僕はマ ルコール中毒になってしまうかもしれない。もっとも家の中にはアルコール中毒になれるほど ( 量の酒はなかった。ウイスキーが三本とプランデーが一本、それに缶ビールが十二ケース、そわ だけだ。たぶん鼠も僕と同しことを考えていたのだろう。 僕の相棒はまだ酒を飲みつづけているだろうか ? うまく会社を整理し、望みどおりまたもレ こぶん彼はそうするだろう。そして僕なしでもそれわ の小さな翻訳事務所に戻れただろうか ? オ りに上手くやっていくだろう。どちらにしても我々はそういう時期にさしかかっていたのだ。 我は , ハ年かけてまた振り出しに戻ったわけだ。 昼すぎに雪はやんだ。降りはじめた時と同じような唐突なやみ方だった。素厚い雲が粘土のレ うにところどころでちぎれ、そこから差し込む陽光が壮大な光の柱となって草原のあちこちを 動した。素晴しい眺めだった。 外に出てみると、地面にはばらばらとした固い雪が小さな砂糖菓子のように一面に散らばっ いた。彼らはそれぞれにしつかり身を固めて、溶け去ることを拒否しているみたいに見えた。

2. 羊をめぐる冒険 下

「いるかホテルってすてきな名前よ」とガール・フレンドが言った。 「ど、つもありがと、フございます」とフロント係はにつこりした。「ところでこのよ、フに長期滞宀 していただきましたのも何かのご縁ということで、お礼のしるしにワインなどをさしあげたいー 思うのですが ? 「嬉しいわ」と彼女は言った。 「どうもありがとう」と僕は言った。 彼は奥の部屋にひっこむと、しばらくしてから冷えた白ワインとグラスを三つもってやって、 「まあ乾杯ということで、仕事中ですが私もしるしだけ」 「どうぞどうぞ」と我々は言った。 そして我々はワインを飲んだ。それほど高級なものではないけれど、さつばりとした気持の凸 い味のワインだった。グラスも葡萄のがらのすかしが入ったなかなか粋なものだった。 「「白鯨』が好きなんですね ? と僕は訊ねてみた。 「ええ、それで小さい頃から船乗りになろうと思っていたんです」 「それで今はホテルを経営しているのね ? ーと彼女が訊ねた。 「このとおり指を失くしてしまいましたもので」と男は言った。「実は貨物船の積荷を下ろし一 いる、フちにウインチにまきこまれちゃったんです」

3. 羊をめぐる冒険 下

僕はポケットに両手をつつこみ、居間の窓際に立ったままじっとそんな風景を眺めていた。 てが僕とは無関係に繰り広げられている。僕の存在とは無関係にーー誰の存在とも無関係に 全ては流れていくのだ。雪は降り、雪は溶ける。 雪の溶けたり崩れたりする音を聞きながら、僕は家の掃除をした。雪のおかげで体がすっか " なまっていたし、形式的には僕は他人の家に勝手にあがりこんでいるわけだから、掃除くらい 1 たっていし 。それにもともと料理や掃除は嫌いな方ではないのだ。 しかし広い家をきちんと掃除するのは思っていたよりすっと辛い労働だった。十キロのラン一 ングの方がまだ楽だ。僕は隅々にはたきをかけてから大型の電気掃除機でほこりを吸いとり、 の床を軽く水拭きしてから床にかがみこんでワックスをかけた。半分ばかりで息が切れた。し し煙草をやめたおかげで悪くない息の切れ方だった。喉にひっかかるような嫌な感しがない。 は台所で冷たい葡萄ジュースを飲んで一息ついてから、昼前に一気に残りを片づけた。プライ】 ドを全部開け放っと、ワックスのおかげで部屋全体がキラキラと輝いて見えた。しいしっとい 冒とした大地の匂いとワックスの匂いが気持よく溶けあっていた。 ワックスがけに使った六枚の雑巾を洗って外に干してから、鍋に湯を沸かしてス。ハゲティー め を茹でた。たらことバターをたつぶりと白ワインと醤油。久し振りに気持の良いのんびりとした 羊 食だった。近くの林でアカゲラの鳴く声が聞こえた。 スパゲティーをたいらげて食器を洗い、掃除のつづきをした。浴槽と洗面台を洗い、便器を

4. 羊をめぐる冒険 下

夕食を済ませたあと、僕は鼠の部屋から「。ハンの焼き方」という本と一緒にコンラッドの小 を借りてきて、居間のソファーに座ってそれを読んだ。三分の一ばかり読んだところで、鼠がー おりがわりに十センチ四方ほどの新聞の切れはしをはさんでおいたところにぶつかった。日付け わからなかったが、色の具合から見てそれが比較的新しい新聞であることはわかった。切りとム れた記事の内容はローカル情報だった。札幌のあるホテルで高齢化社会を考えるシンポジウムが 冒開かれることになっていたり、 旭川の近くで駅伝大会が催されたりしていた。中東危機につい の講演会もあった。そこには鼠の、あるいは僕の興味をひきそうなものは何ひとつなかった。 め を 側は新聞広告だった。僕はあくびをして本を閉し、台所でコーヒーの残りを沸かして飲んだ。 羊 久し振りに新聞を読んで、僕は自分がまるまる一週間世界の流れから取り残されていたことに はしめて気づいた。ラジオもなければテレビもなく、新聞も雑誌もない。今、この瞬間にも東市 かし時計が三時を打っころには殆んどの雪が溶けた。地面はしっとりと湿り、夕方近くの太陽幇 草原をやわらかな光で包みこんでいた。まるで解き放たれたように鳥が鳴き始めた。

5. 羊をめぐる冒険 下

イヌの青年だけがそれを知「ていた。彼は男たちに命じて畑のあちこちに火をかせた。洗いざ らいの家具に洗いざらいの石油をかけて火をつけた。そして女たちには鍋をもたせ、すりこぎで , 刀いつよ、卩、 ーしロカせた。彼は ( あとで誰もが認めたように ) やれるだけのことはやったのだ。しか し全ては無駄だった。何十万といういなごは畑に降りて作物を思う存分食い荒した。あとには何 ひとっ残らなかった。 いなごが去ってしまうと青年は畑につつぶして泣いた。農民たちは誰も泣かなかった。彼らは 死んだいなごをひとまとめにして焼き、焼き終るとすぐに開墾のつづきにかかった 人々はまた川魚とせんまいと蕗を食べて冬を越した。そして春が来ると三人の子供が生まれ、 人々は畑に作物を植えた。夏に再びいなごがやってきた。そして作物を根こそぎにした。アイヌ の青年は今度は泣かなかった。 いなごの来襲は三年めにやっとやんだ。長雨がいなごの卵を腐敗させたのだ。しかし同時に雨 Ⅲが長すぎたおかげで作物が被害を受けた。次の年にはこがね虫が異常発生し、その次の年の夏は 冒ひどく分えた。 る を僕はそこまで読んでしまうと本を閉じてもう一本缶ビールを飲み、 ッグの中からいくら弁当 を出して食べた。 彼女は向いの席で腕を組んで眠っていた。窓から射し込む秋の朝の太陽が彼女の膝に薄い光の

6. 羊をめぐる冒険 下

悪いから、夏はともかく、一度雪が積ってしまうと、まるで使いものにならない。占領軍も道路 を整備してレーダー基地か何かに使うつもりらしかったんだが、結局手間と費用を考えてやめた んだ。もちろん町も貧乏だから、道路をいしることなんてできない。道路を整備したって何の役 にも立つわけしゃないからわ。そんなわけでこの土地は見捨てられた土地になったんだ」 「羊博士はここに帰りたがらなかったのかい ? 「羊博士はすっと記億の中に住んでいるのさ。あの人はどこにも帰りたがらないよ」 「そ、フかもしれない」と僕は言った。 「もっとビールを飲めよ」と鼠は言った。 いらない と僕は言った。ストープを消しているおかげで体の芯まで凍えてしまいそうだっ 鼠はふたをあけて、一人でビールを飲んだ。 「父親はすっかりこの土地が気に入って、自分で幾らか道もなおしたし、家にも手を入れた。す いぶん金がかかったと思うよ。しかしそのおかげで車さえあれば少くとも夏場はまともな生活が 冒送れるようになった。暖房装置やら水洗便所やらシャワーやら電話やら非常用の自家発電装置や らね。まったく羊博士がここでどんな風に暮していたのか、俺には見当もっかないよ」 め 鼠はげつぶともため息ともっかない音をたてた。 羊 「一九五五年から一九六三年ごろまで、我々は夏になるとここに来たもんだよ。両親と姉と俺 と、それから雑用をやってくれる女の子とわ。考えてみれば、あれは俺の人生ではいちばんまと

7. 羊をめぐる冒険 下

「焼いた海老」と彼女が言った。 「ふうん」と羊博士はうなった。それからスープを飲み、クルトンをこりこりと齧った。「悪い が食事をしながら話をさせてもらう。腹が減ってるんだ」 「どうぞどうぞ」と我々は言った。 羊博士はスープを飲み、我々はコーヒーをすすった。羊博士はしっとスープの皿をのぞきこみ ながらスープを飲んだ。 「その写真の土地がどこだか御存じですか ? ーと僕は訊ねた。 「知ってるよ。よく知ってる」 「教えていただけますか ? 」 「まあ待て」と羊博士は言った。そして空になったスープ皿をわきにどけた。「物事には順番と いうものがある。ます一九三六年の話をしよう。最初に私が話す。それから君が話す」 うなす 僕は肯いた。 「簡単に説明すると」と羊博士が言った。「羊が私の中に入ったのは一九三五年の夏のことだ。 どうくっ 私は満蒙国境近くで放牧の調査中に道に迷い、偶然目についた洞窟にもぐりこんで一夜を過し しいか、と訊ねた。かまわん、と私は言った。そ た。夢の中に羊が現われて、私の中に入っても、 の時は自分ではたいしたことのようには髞えなかったんだ。なにしろこれは夢だとちゃんとわ かっていたしな」老人はクックッと笑いながらサラダを食べた。「それはこれまでに見たことの

8. 羊をめぐる冒険 下

174 僕は夕方にパンとサラダとハム・エッグを食べ、食後に桃の缶詰を食べた。 翌朝僕は米を炊き、鮭の缶詰とわかめとマッシュルームを使ってピラフを作った。 昼には令凍してあったチーズ・ケーキを食べ、濃いミルク・ティーを飲んだ。 三時にはヘイゼルナツツ・アイスクリームにコアントロをかけて食べた。 夕方には骨つきの鶏肉をオープンで焼き、キャンベルのスープを飲んだ。 九日目の昼下がりに書棚の本を眺めていて、僕は一冊の古い本がごく最近に読まれたらしいこ 僕は再び太りつつある。

9. 羊をめぐる冒険 下

まつわりつくような嫌な雪だった。僕は途中でランニングをあきらめて家に戻り、風呂を沸かし た。風呂が沸くまでずっとストープの前に座っていたが、体は暖まらなかった。湿っほい分気が 体の芯にまでたつぶり浸み込んでいた。手袋をとっても指先を曲げることはできす、耳は今にも ちぎれそうなはどひりひりと痛んだ。体しゅうが質の悪い紙のようにざらついていた。 熱い風呂に三十分入って、プランデーを入れた紅茶を飲んだところで体はやっとまともになっ たが、時折やってくる断続的な悪寒は一一時間もつづいた。これが山の冬なのだ。 雪はそのまま夕方まで降りつづき、草原は一面の白に覆われた。夜の闇があたりを包むころに 雪はやみ、再び深い沈黙が霧のようにやってきた。僕には防ぎようのない沈黙だった。僕はプ レーヤーをオート・リ ピートにしてビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマスーを二十 , ハ回 聴い もちろん積雪は恒久的なものではなかった。羊男の予言したように、大地が凍りつくまでには まだ少し間がある。翌日はからりと晴れわたり、久々の太陽の光がゆっくりと時間をかけて雪を 溶かしてい「た。草原の雪はまばらになり、残「た雪が陽光をしく反射していた。駒形屋根に 積った雪が大きな塊りとなって斜面を滑り、音を立てて地面に落ちて砕けた。雪溶け水がしすく となって窓の外を落ちていた。何もかもがくつきりと輝いていた。かしの木の葉の一枚一枚の先 端には小さな水滴がしがみつくように光っていた。

10. 羊をめぐる冒険 下

138 雨はもうやんでしまったらしく、ガラス越しに夜の鳥の声が聞こえた。石油ストープの炎だけ が部屋の白い壁に奇妙に間のびした淡い影を作り出していた。僕はソファーから立ちあがってフ ロア・スタンドのスイッチを点け、台所に行って令たい水をグラスに二杯飲んだ。ガス台の上に はクリーム・シチューの入った鍋がのっていた。鍋にはまだ微かな温もりが残っていた。灰皿に まガール・フレンドの吸ったはつか煙草の吸殻が二本押しつぶされたような形で立っていた。 僕は本能的に彼女が既にこの家を去ってしまったことを感じとった。彼女はもうここにはいな いのだ。 僕は調理台に両手をついて頭の中を整理してみた。 彼女はもうここにはない、それは確かだった。理屈や推理ではなく、現実にいないのだ。が ートを出ていってしまってから彼女に巡 らんとした家の空気が僕にそれを教えていた。妻がアパ り会うまでの二カ月あまり、いやというほど味わったあの空気だ。 僕は念のために二階に上り三つの部屋を順番に調べ、クローゼットの扉まで開けてみた。彼女 ングとダウン・ジャケットも消えていた。 土間の登山靴 の姿はなかった。彼女のショルダー もなくなっていた。まちがいなく彼女は行ってしまったのだ。彼女が書き置きを残していきそう な場所をひとつひとつあたってみたが、書き置きはなかった。時間から見て彼女は既に山を下り てしまっているだろう。 彼女が消えてしまったという事実が僕にはうまく呑み込めなかった。起きたはかりで頭がまだ