ある時、彫刻家ジャコメッテイや詩人のアンドレ・ブ 工を リュアールらがビカソのアトリ ルトン、ポール・エ 訪ね、この絵のことが話題になった。な。せモノクローム なのか、と。 その時。ヒカソは次のように語ったと、同行した彫刻家 ー・ムーアが伝えている。 「色彩はある種の救いを意味してしまうからです」 。ヒカソはこの絵からだけは救いを拒絶しようとしたの た、とムーアはっている。 。ヒカソは絵の中で反戦のキャンペーンをはったり、傷 ついた人々に気やすめの救済を与えようとは一切しては いない。「反戦」をプロ。ハガンダするという別の形の暴 力に堕していない。 『ゲルニカ』は力強い絵だ。しかし それ以上に漂っているのは静けさである。 はしめ描かれていたという突きあげられた怒りの拳は、 69 ◎白と黒 ビカソ個人の怒りでもあったはずだ。拳を消すことによ ってビカソは何を消し去ったのだろうか。 「われわれの中に″私〃という感覚が少しでも存在し続 けるかぎり、われわれの中にある暴力性は消えない : ″私〃は生きる目的を求め、目的のある人は暴力を育て ている インドの思想家クリシュナ・ムルティのこの言葉が、 ビカソの心境を最もよくいいあらわしているといえるか もしれない。ビカソは自分の中にある、怒りをもっ″私れ にすら暴力性を嗅ぎとったのだろう。 。ヒカソは愛するスペインが破壊された時、自分の中の ″私〃的な野心や救済心をそぎおとした。つまり色彩を 捨ててキャンバスに向かった。『ゲルニカ』は。ヒカソ ″個人〃の作品ではない。あの絵は人類の破壊性を、人 間自らがありのまま凝視した″目〃なのだ。
。ヒカソ絵画の初期に、「青の時代」と「ローズの時代」 があることはよく知られているが、この″青い自画像〃 は、「青の時代」の幕開けとなった作品の 1 つだ。そし てまた僕に、ビカソの絵はなぜ青からはじまったのだろ うかと、あらためて考えさせた 1 点でもある。 当時ビカソが住んでいたクリシーやモンマルトル周辺 は、娼婦や外国からの流れ者をはじめ、どん底の人生を 生きる人々の多い街であった。よく一言われるように、そ れらの人々の生活に触れた共感も、「青の時代」を生み 出したのかもしれない。しかし、そういった。ヒカソ解釈 は、。ヒカソをあまりにカッコよく美術史の神話の中に閉 じこめてしまわないだろうか。 ビカソが青を求めた理由はなにより。ヒカソ自身の中に あったと僕は思うのだ。 そしてそれを解く鍵が、この『セルフ・ポートレート』 の中にがあるような気がしてならない。 『セルフ・ポートレート 』が描かれる 1 年まえ、四歳の 。ヒカソは多分、人生ではしめての大きな悲しみに襲われ ている 。バルセロナから同じ志をもって共にパリに出た 画家、カルロス・カサへマスの自殺だ。 め◎青 この親友の死は、よほどの打撃だったのだろう。。ヒカ ソは 1 度バルセロナに舞いもどり、直後に、宗教的なイ メージの『招魂』というカサへマスに捧げる絵を、やは り青を主調にして描いている。 避けることのできない人間の死というものと、人生の 早い時期に対峙したビカソは、 1 年後再び。ハリに向かっ たときには、すでに孤独ということの意味を深く見つめ る経験を通過していた。 この経験が彼に青という色を選ばせたのだと僕は思う。 人の心がより深く内面へと向かう時に現われる色、それ が青なのだ。 だからこそ。ヒカソは、孤独な人々の苦悩を鋭く感受し、 その姿を青でキャイハスに定着した。 僕はビカソのその青にとらえられてしまった。 絵にしても音楽にしても、僕の場合、感動するという 状態は、「解る」というよりは「共鳴するーということ に近い。ビカソの青を見た瞬間、僕の心もまた、知らず 知らず青を求めていたことに気づかされた。 ふり返ってみると、僕自身がこの時期、青い色に強、
◎ らめくれたかと思うと、ギザギザ型の白と黒の雁木模様 にハラリと変わる。例の四十七士の白黒装束だ。歌舞伎 の舞台そのものが絢爛たるだけに、このモノクロームへ の意表をついた転換は、観客を緊張へと駆りたて、興奮 させる。 大柄の白と黒のコントラストは、死に向かってなだれ こむ義士たちの心だ。白か黒かーーー。決死の切り込みに よって決着をつけようとする緊迫した心に、他の色が入 りこむ余地はない。赤穂義士の装束と同じデザインのも のを、幕末の新選組の隊員たちも身につけていた。 色彩は移ろう心の表われなのだ。迷いの許されない心 は、白黒で身を包みこむ。 デザインとしてみれば、赤穂義士の装束は、人の心の 極北を象徴して実にすばらし い。だが、迷いのない心は すでにこの世の生を否定し去っているのかもしれない。 美術作品で白と黒といえば、ビカソの『ゲルニカ』を 救いを拒絶する ◎ 68 思い出さないわけこよ、 19 3 7 年当時、ビカソは。ハリで活動していた。故国 スペインのゲルニカ市民が無差別爆撃されたことを知っ た。ヒカソは、怒りの中で、わずか 1 カ月で大作『ゲルニ カ』をモノクロームで仕上げたといわれる。 これまでも、反戦のメッセージをもった絵画は多くの 画家によって描かれてきた。ビカソも『ゲルニカ』で反 戦の意志を表明したと評される。しかし、『ゲルニカ』 は異質だ。というより、単なる反戦の絵ではないと僕は 思う。 下描きの段階では描かれていたという怒りの拳も、完 成の時には姿を消している。当時の。ヒカソの恋人だった 写真家ドラマールによって、その制作の過程が記録され ているのだ。 人間の残忍さと救いようのない苦しみを、そしてそれ をただ凝視しているビカソの静かなまなざしだけを、こ の絵から僕は感じる。『ゲルニカ』には戦争への批判も 攻撃も、直接描かれてはいない。あるのは嘆きと絶叫だ けである。モノクローム画面の中で、人々は叫び、母親 は子どもの死体を抱きしめ、動物たちはうめいている。
できる。その意味で、青は人間にとって基本的な色とい える。 そのせいだろうか。青は他のどの色にも増して、人間 のさまざまな心を現わすことができる不思議な振幅をも っている。 明かるく澄んだ空色から、濃く沈んだ紺に至るまで、 青のヴァリエーションは豊富だ。そしてその変化は、人 間の感情の変化の複雑な過程に密接に結びついているの 抜けるような空色、スカイブルーといえば希望や積極 性と結びつく。またもっと淡い青になれば、ベビー。フル ーという言葉があるように、乳児の衣服を思い出させ、 優しく穏やかな感情を呼びさます。 ちょっと緑みの入った濃い青は、マリンブルーと呼ば れ、深海の色であり、浄化や鎮静の感情とつながりやす いわゆる藍色と称される青のなかにも、浅葱から紺に いたるまで微妙な段階がある。しかし一般に藍色といえ ば紺に近い青を指すことが多く、たとえば昔から作業着 や制服に使われることが多い色だ。藍色そのものの青が、 ◎ 34 心理的には吸いこまれるような集中的な動きを促すから 。こっ一つ 0 ◎ 僕が最近魅きつけられた青は、ビカソの青だ。 ハリのビカソ美術館は、セーヌ川の少し北側、シュマ ン・べールという地下鉄駅の近くにある。この美術館の 第一室に入って、最初に目にとびこんできた作品がある。 画面全体から、底力のある青が波のように豊かな量感で あふれ出てくる。 1 1 年、。ヒカソ歳の時に描かれた『セルフ・ポ 黒っ。ほいコートで身を包んだ黒髪の若いビカソが、キ ャイハスの中から鋭い視線を投げかけている。その背景 は一面に濃い青で埋めつくされている。少し赤みのさし た唇の色がさらに青をひきたてているとはいえ、深みの あるシアン・フルーの美しさと、何かを凝視するような硬 質な表情は、凄みさえ感じさせる。 ピカソはなぜ青からはじめたか
色彩は救いを意味する。 。朝ヾ朝ノに一ツ物第 4 を ャ / 、、朝な、を、、一 0 、き第・朝を を含ア人ゞノ . 薈、 4 ・ . を 色は感情の言葉。いきいきとした心は、豊かな色彩を求める。感情の 自由な発露が人問の生であり、色彩の喪失は、心の死を意味する ビカソ・スペイン放送協会制作『ビカソ、その生涯と作品」 5
誘惑を感じていたのだ。夏用の麻のジャケットも、冬の ズボンやセーターも、買いこむ服は青が多かった。絵を 描いてみても、最初に手にとる色は青い。ハステルだった。 その頃の気分を思い出してみると、たしかに意識は内 側へ内側へとし・ほられていたと言える。 というのも、その半年前に母を亡くしたばかりだった 僕は、そのショックがじわじわと広がり、独りわが身を 抱きしめるような心境にあった。精神の奥の方、日頃は 自分でも感じとりにくい深い層に空洞ができたような感 覚である。 そんな僕に青はあまりにも美しく映った。特に。ヒカソ の前に立ったとき、キャンススの中の豊かな青は、僕の 心を打ち、慰めすら与えてくれた。その時、僕にとって ビカソが現代美術の天才であるとか、キューヴィズムの 巨匠であるといったことは、何の意味もなかった。ただ、 孤独の中から立ち上がった歳の無名の若者と、「青」 の輝きを通して静かに語りあったのだ。 ◎ 36 赤がエ衣ルギーの発散的な表現であるなら、相対的に 青は求心的、あるいは抑制的な表現である。 子どもたちの絵に現れた青と、その時期の子どもの生 活を注意深く見てみよう。人間が青を好むことがどうい う状態の現れであるかを、かいま見ることができる。 赤やオレンジ、黄色など暖色系の色が好きだった 4 歳 の男の子君は、ある時期からそれらの暖色系に加えて、 青いクレョンを多く使うようになった。 僕のカウンセリングルームにやって来た君の母親は、 「最近、人がかわったように乱暴なんですーとしきりに 訴える。 君の自由画帖をさらにめくっていくと、青の量が増 えていくのがはっきりとわかった。赤やオレンジと、青 をあわせて塗りたくり、時には紙がしわになったり、破 れたりしている。半年の間に、黄色や赤の穏やかなタッ チが、次第に青を中心とした荒々しいタッチに変化して ◎ 月を求める心
を闇のべールからひきずり出し、翻弄し、その権威を焼 きつくしていく。 終幕、ホセの刃に倒れるカルメン。横たわる女のドレ スの赤が、今度は大地にしみわたる鮮血に見えてくる。 表情豊かな色彩の妙。 火のように燃えっき、血のように土を染めるカルメン の赤と、それをきわだたせたホセのモノクローム。この 対峙する配色は、実はカルメンの物語の背後から重ねて 刷りこまれたもう一つのすかし絵だ。 そう、この配色は単なる演出上のテクニックではない。 「時々、あなたはなぜいつも舞台で黒い服を着て苦悩に 満ちた表情で踊るのか、と聞かれるが、それは私の生ま れた年によるもので、いわば私は、スペインの死の中に 生まれた、と思っているのです」とガデスは語っている。 ( 1987 「日本公演プログラム」より ) ガデスはスペイン市民戦争が勃発したまさに 19 3 6 年、この世に生をうけた。 21 ◎赤 19 7 5 年に、ガデスはフランコの独裁体制に抗議し て、舞踏活動を停止している。『カルメン』がガデスの 『ゲルニカ』だといわれる理由もここにある。おなじス ペイン出身の画家ビカソは、スペイン市民戦争でゲルニ カ市民を無差別爆撃したフランコに抗議して、一気に大 作『ゲルニカ』を描きあげた。 この作品を。ハリ万博に出展したビカソは、以後、フラ ンコ体制が支配する故国の土を踏むことを拒んた。 よく知られているように、『ゲルニカ』には主に白と 黒の絵具しか使われていない。 スペインの自由を殺した闇の時代に生まれおちたガデ スにとっても、白黒の衣装は彼の人生そのものなのだ。 同時に、カルメンに託した赤は、自由の再生を求める情 熱のシンポルに見えてくる。 可視色彩の中で、もっとも波長の長い赤は、生の昻揚 とともに表われ出る色だ。狂気のように燃えさかり、大 河のように流れ、生成しつづける生の色だ。
『子どもと悪ー絵を描く集団治療』クリスティアーネ・ルツッ野村美紀子訳 『子供服術・こんなもの着たいナ』宮谷史子晶文社 『好みの心理』近江源太郎創拓社 「時間・空間・医療』ラリー・ドッシー栗野康和訳めるくまーる社 品文社 『色彩学』千々岩英彰福村出版 「色彩の本質』ルドルフ・シュタイナー高橋巖訳イザラ書房 『色彩とパーソナリティー』松岡武金子書房 『色彩とフォルム』香川勇長谷川望黎明書房 「色彩で健康づくり」朝日新聞 1984.6.27 付記事朝日新聞社 『色彩の心理ー子どもの絵の心理的記録』久保貞次郎編博文社 『色彩のカー色の深層心理と応用』デボラ・ T ・シャープ福村出版 『色彩の冒険』秋山さと子海野弘ほか共著福武書店 「色名小事典』監修財団法人日本色彩研究所日本色研事業 『児童画の秘密』浅利篤 ( 黎明書房 ) 「スビルノく一グ』筈見有弘講談社現代新書 「図説東洋医学・基礎編』山田光胤代田文彦企画構成はやし浩司 『世界の映画作家①イタリア映画史イギリス映画史』キネマ旬報社 「世界名画の旅』 1 ~ 5 朝日新聞日曜版朝日新聞社 『善悪の彼岸』 ( 映画 ) リリアーナ・カヴァーニ監督 『ソフィア・ローレン』責任編集筈見有弘芳賀書店 『タゴール詩集』山室静訳彌生書房 『竹久夢二写真館ー女』栗田勇新潮社 学研 『地球風俗曼陀羅』構成・文浜野安宏撮影内藤忠行神戸新聞出版センター 『地球大紀行』第 11 集宇宙に掲げたバリアー (NHK 放映 ) 『東洋インキニュース NO. 63 』東洋インキ製造株式会社 『 70 年代アメリカン・シネマ 103 』フィルムアート社 TNumber 189 』文藝春秋 『日本の色』大岡信ほか講談社 『ノルウェイの森』上下村上春樹講談社 『母と子をつなぐ出産術』岡島治夫晶文社 『パパラギー初めて文明を見た南海の酋長ツィアビの演説集』岡崎照夫訳 「比叡山と天台の美術」アサヒグラフ 1986.3.25 増刊号朝日新聞社 「ビカソ』岡本太郎 + 宗左近朝日出版社 『ビカソ , その生涯と作品』スペイン放送協会制作 (NHK 放映 ) 『ヒ。カソ』富永惣ー中山公男監修鶴書房 「ビカソ美術館めぐり』堀田善衛瀬木慎一田沼武能ほか新潮社 「光のはなし』 I & Ⅱ藤島昭相澤益男編著技報堂出版 『ヒッチコックを読む一やつばりサスペンスの神様』フィルムアート社 『暴力からの解放』 J. クリシナムーティ勝又俊明訳たま出版 「本郷菊富士ホテル』近藤富枝中公文庫 ー・ローランサンの扇』監修安藤元雄集英社 「緑守れ、熱い思い」朝日新聞 1987.10.12 付 「無双原理・易』桜沢如一日本 C I 協会 「森の不思議』神山恵三岩波書店 「ユトリロと古きよきパリ」井上輝夫横江文憲熊瀬川紀新潮社 『夢二 , 大震災を描く一時代を見た画家』 1987.8.31 (NHK 放映 ) 「乱』 ( 映画 ) 黒沢明監督 「リンゼイ・ケンプ写真集ーフラワーズ』新書館 立風書房
よマ丿ー・ローランサンの作品た。 リのオランジュリ美術館に、ローランサンの『牝 鹿』という油絵がある。画面の中央に女性が 2 人座し、 そのまわりで 4 匹の牝鹿が戯れている構図。色調はピン ク、グリーン、ブルーの淡い色が溶けあっている。 それにしても、ローランサンの絵に描かれた人物はな んと生気に欠けていることだろうか。現実に呼吸してい る人間たちとはとても思えない。夢の登場人物か、妖精 たちか、あるいは彼岸の霊魂たちであるかのようだ。 ローランサンは、ある時期から現実の彼方だけを夢み、 そのイメージだけを絵の中に描いてきたのではないかと 僕には思える。 初期の『自画像』 ( 19 。 8 年 ) や『アポリネールとその 友人たち』 ( 19 。 9 年 ) などの絵には、強い褐色や緑が 配色され、。ハステルカラーはほとんど見られない。線は くつきりとひかれ人物の存在感もある。『自画像』の目 は、しつかりと見ひらかれている。立体派の芸術運動に 触れ、画塾に通い、芸術家としての意欲にめざめていっ た頃た。 そしてビカソを通しての、アポリネールとの運命的な ◎ 5 。 出逢い 「マリーとアポリネールを結びつけたものは何だったの ーマに生まれた どろう。アポリネールは 18 8 0 年・にロ が、出生届にはマリーと同じく父親の名はなかった。二 人は恋が終ったのちも、彼の死に至るまで文通を続ける ことになるが、このように深い絆で結ばれることになっ た理由は、二人が共有した不幸な出生とも無関係ではな かったのかもしれない。そして。ハリジェンヌのローラン サンにとっては、彼は愛すべき天才独得の、その才ゆえ の激しさと我儘さで、伴侶としてはっきあいきれない一 ローランサンの 面を暴露していったのであろう」 ( 『マリ 扇』、本多美佐子筆「評伝」集英社 ) アポリネールとの別れのあと、ローランサンはドイツ の男爵と結婚し、第一次大戦の勃発と共にマドリー 亡命しこ。 しかし夫婦の仲は冷たく、その間ローランサンは親友 で女性のニコルと愛しあうようになったといわれる。 戦後、 ハリに戻ったローランサンは離婚し、舞台美術 などに活躍しはじめる。しかし、 2 度と生々しい恋に身 を焼くことはなかった。
ています : : : 」 18 8 6 年、ユ トリ口が歳の元旦、法律上の父ミゲ ュトリ口に宛てて書いた手紙の一節だ。 文面ににじむ、藁をも把むような悲痛な気分は、歳 ートブレイクなものだ。 の少年にとってはあまりにハ トリロはアルコール この心の痛みを忘れるために、ユ を友とし、泥酔と喧嘩の中で時をやり過ごした。アルコ ールで心をしびれさせる以外、彼にどのような道があっ たろうか。 心理学者アーサー・ヤノフの次の言葉は、あたかもユ トリロのためにあるようだ。 「アルコール中毒の人間は酒びんから暖みをすいとり、 やがて胸のしこりが消え、ほんの束の間であれ、内面に ぬくもりを感じることを必要としているー ( 『原初からの叫 び』講談社より ) アルコールによる束の間の陶酔。孤独や不安を打ち消 してくれるこの感覚が、ユ トリ口に白い絵を描かせたの だと僕は思う。 「色彩は救いを意味するーと言ったのは。ヒカソだ。その 色彩をユ トリロは白い壁の中に塗りこめてしまったのだ。 61 ◎白 ュトリロの絵と人生は、だが安易な同情など寄せつけ ない豊かさをもっている。それは彼がアルコールに身を 沈めながらも、キャン。ハスの上に自分の心を自由に描き 出していったからだ。 チューリッヒ美術館でユ トリロの少年時代に想いをめ ぐらしながら、僕はふと日本の子どもたちのことを考え 物質的には何一つ手に入らないもののない日本の子ど もたち。しかし、その″中流〃生活をひきつぐために、 朝から夜まで学校や学習塾という集団生活に閉じこめら れている。ますます画一化が進む教育政策のなかで、子 どもたちは、自分の心でものごとを考え、表現する術を 失いかけてさえいる。 息のつまるような日本の子どもたちのことを思うと、 ポヘミアンの町モンマルトルで育った少年ュト 何と自由な子どもであったことか。 リの町を歩きまわ 人恋しさゆえに、学校をさ・ほり、 っただろうし、ワインを手にしただろう。しかし、同時 に、絵を描く喜びを知り、自分の心を自分の手で表現す すべ