庭に姿を現わした。 電話は、個人が自由に使うことのできる情報ネットワ ーク装置だ。現代の都市生活では、隣の住人より遠い友 人との人間関係で人々は生きている。人と人とのコミュ ニケーションに、今や電話はなくてはならないメディア といえる。 一方、「フロム」など各種の求人誌の登場が物語っ ているのは、人間と仕事の関係が変質しつつあるという ことではないだろうか。 つまり、一つの会社に就職すればそこが一生の職場、 という考え方が薄れ、仕事との相性がよくなければ、自 分の特性をより生かせる場所へと、気軽に移っていく 人々がいま増えつつある。その大きな理由はペイの問題 かも知れない。しかし、自分を生かせる職場の人間関係 に出会うことも大切な要因なのだ。 「フロム」は、こうした時代の空気を反映して、旧来 の「アルバイト・ニース」のイメージを一新した。 人間関係の情報誌である電話帳。仕事の情報誌である ( 0 は 02 求人誌。人と人を結ぶこの 2 つのパ。フリックなメディア に黄色が使われるようになった。ということは、色の象 徴性という視点から見れば、わたしたちが人と人とのつ ながりの中に「希望ーや「幸福ーを求めはじめていると いえるのではないだろうか。つまり日本人の「幸福観」 というものに変化が起きはじめたのだ。 戦後、日本人が求めつづけてきたのは、まず物質的な 豊かさだった。しかし今、街にも家の中にもあふれるよ うにモノが氾濫し、そのはてに日本人が突きあたったの は、人と人の絆を喪失した淋しい生活だ。 日本の高度成長がかげりはじめた頃に制作された映画 『幸せの黄色いハンカチ』は、その絆の再生を、スクリ ーンいつばいにはためく黄色いハンカチに象徴して共感 を呼んだ。 「タウンページ」をはじめとする″黄色の異変〃は、今 まで以上に精神的幸福を求めはじめた日本人の心の風景 を表わしている、と僕には見える。
シンポジウムを報告した新聞記事は、次のような不気 味な結びで終わっている。 : つくば市の 「 ( 発表した筑波大の ) 大橋講師らは、 鉄筋住宅で、自殺者が出ているが、こうした完全遮音状 態が心理的な不安定、圧迫感の大きな要因の一つになっ ているのではないか、と推測している」 耳に聞こえない超高音といっても無視できないものだ。 それどころか、その聴こえない音によって、脳波は平安 を得ている。ひいては人間の生きる意欲が支えられてい るのかもしれない。 人間の生体が孤立したものではなく、環境との相互作 用の不可視のネットワークの一点であることがよくわか る。 ◎ 波長も視覚を通して脳に影響しているはずだ。都会のコ ンクリー ト住宅は、音たけでなく、光も遮断している。 わば″暗騒 しかも最近は部屋の色も無彩色が多く、い 色〃というべきものも、・ほくたちの暮しから奪われがち 色というものが、いかに心の安らぎに作用するものか、 リのオラン 僕がそのことをしみじみと実感したのは、。、 ジ = リ美術館に入ったときのことだった。 ここにはモネの「睡蓮」の部屋がある。この部屋に一 歩入った瞬間、心のざわめきは消え、安らかな沈黙に浸 ることができる。 広い部屋は長円形で、そのカープした壁面に、「睡蓮ー の大壁画が 4 点、グルリと描かれている。天井いつばい の採光が睡蓮の浮かぶ水面の彩り豊かなタッチをみごと 消 解 に浮かびあがらせている。 を ス 他の印象派の部屋を見ながら、この「睡蓮」の部屋に レ ス入った人々は、モネが再現した色光の無限のヴァリエー で ションに見とれ、誰ともなく話をやめる。そしてほとん 音と脳波の相関関係についてのこの報告は、・ほくに色色 の ど恍惚とした表情で、動作も優雅になり厚い絨毯の上に 彩と脳波の関係について考えさせてくれた。 住座りこんでしまう。 音の周波数が聴覚を通して脳に作用するなら、色彩の ◎ モネの「睡蓮」の部屋で
僕と色彩とのつきあいは、生まれると同時に始まって いる。父親が画家なので、家の中にはどこも絵があふれ ていたのだ。油絵具特有の匂いのなかで僕は遊び、育っ 時には絵を描く父の邪魔をしながら、筆先から色彩が 流れ出し、キャイハスを埋めていく様子を、魔法でも見 るように眺めていたのを憶えている。 、代は美術 中学、高校は美術部の部室に入りびたり 研究所で作品の制作に熱中した。やがて、 8 ミリや リ映画の制作から文章ゃ。ハフォーマンスなどへと、僕の 表現方法は広がり続けた。 しかし常に僕の興味をひき続けたのは、色彩の奥に息 づく人間の心の姿だった。その関心から、色彩の研究へ と踏み入り、シュールレアリスム、精神分析、児童画の あとが、 乃◎あとがき 色彩研究、絵画療法、記号論なども参考にしつつ、ワー クショップで色彩と人間の関係を目撃してきた気がする。 色彩というもう一つの一言葉を知ることによって、いき いきと見えはじめる人間の感情。そして色彩の波長を通 して表われる波打ち続ける生のすばらしさ。この体験は 内に閉じこもりがちだった僕の心の重い扉を外に向って おし開いてくれた。 この本をつくる上で、資料の調査から原稿の整理にい たるまで、共同作業を分けあってくれたのはつれあいの 江崎泰子である。彼女は以前に自分で小さな画廊を開い ていたこともあるほど絵が好きだし、家の中をいつも花 で埋めつくすくらい色彩を愛している。彼女と愉しむ ″色彩ライフれからこの本のテーマが生まれ、また編集
この生態は、生物に備わっている色彩が、生命を維持 するために太陽エネルギーを調整するはたらきと関係し ていることを示している。 白と黒は、光の反射としての色彩の両極に位置してい るといってもいい。 紫外線に対して白をオー。フンだとす るなら、黒はクローズである。 この白と黒のはたらきは、もちろん人間の場合にもあ てはまる。 たとえば人類の皮膚の色の分布を見ると、太陽熱を最 も強烈に浴びる赤道近辺には、皮膚の色の黒い人々が生 活しているし、北半球から北極へと向かう順に、人々の 皮膚も頭髪も白っ。ほくなっていく。 もしも北欧の白い皮膚の人々が素肌で熱帯地方に暮し たら、皮膚は火傷するだろうし、体調もくずれることだ ろう。彼らは、紫外線の熱を吸収してくれる黒いメラニ ン色素によって覆われた黒い肌を持っていないのだ。里 人の黒くひかる美しい皮膚は、デリケートな人間の体を 太陽熱から守っている。 67 ◎白と黒 私たちは、「心を開く」、「心を閉じる」という表現を よく使う。心のはたらきが、生理学的な体のシステムと 相似性をもっているとしたら、人が色としての白を選ん オープン・クローズ だり黒を選んだりする欲求は、心理の開閉システム とも関連があるのではないだろうか。 空白の心、いわば無為の状態を象徴する白。対極にあ って、すべての情念を凝縮したような有為の心を秘めた 黒。明暗いずれにしても究極の色。人の心は常にこの両 極をあわせもってうごめいている。 この白と黒が組みあわされる時、そこにはまた独自の 心が現れる。最近、僕は目がさめるような白と黒の組み あわせを見た。 市川猿之助の十一一月歌舞伎座公演、『二十四時忠臣蔵』。 いよいよ大詰めの討ち入りが始まる時、猿之助演じる与 茂七がまるで手品のような衣装替えをしてみせる。 それまでの着流しの色ものの着物が一瞬にして内側か ◎ 迷いのない心
力を持っていると僕は思う。というのは言葉では人間を 男性と女性、あるいはおとなと子ども、日本人と外国人 という具合に分類して、制度化しがちだ。その分類され た男と女が役割を交換したり、おとなと子どもが立場を 入れかわったりすることはなかなか難しい ところが色彩表現では、昨日ビンクを使っていた人が 今日は緑を選んだりってことがあたりまえに起きる。友 だちが身につけていた黄色が気に入って、明日自分も着 てみようとか : つまり、色を通して他の人の心とひとつになったり、 また赤い心や青い心に変身したりということが自由にで きる。 色に関する限り、人間の心は個々の肉体に閉じこめら れたものではないことが感じられるはずだ。 さまざまの色の波長によって表わされる感情の波が、 心という″場〃に自由に出入りしているのだと僕は思う。 こういう心を開く体験をすることが、その人が世の中 にもどっていった時に、積極的に生きる意欲とか、気持 ちのいい人間関係をつくることにつながるのではないだ ろうか。 ◎ 140 ◎ 日本にも「芸術療法学会」というものがあって、いわ ゆる精神病の人だとか障害をもった人たちのための治療 法として、絵画療法を実践している人たちはいる。精神 科系の病院に所属しているセラ。ヒストの人たちもそうだ。 だが僕のように、 ごく普通の人々が色を愉しみ、生活 の中に生かしていくことも含めた活動をしている人たち は、まだ少ないと思う。 僕の場合、誰もが参加できるワークショップという形 をとっていて、その結果、心のセラ。ヒーになることもあ る。心理的ト丿 ートメントと言った方が近いかも知れな じっさい僕のところに来る人の中にも、色を使った自 己表現をやることで悩みから救われるんじゃないか、自 分の抱えてる問題が解決されるんじゃないか、と期待し てやってくる人もいる。カラ ー・セラビーが特効薬的な ものででもあるかのように思って、まるで宗教にすがる カラー・セラピーって何 ?
小さなエコロジーが・ほくたちを救ってくれているのだ。 このところハイテック・カラーの流行で、ビルの中の オフィスも住居も、無機的な白と黒で配色する傾向があ る。これは都市生活者の、過度な緊張状態を反映してい るし、またストレスを増幅する悪循環を生みだしかねな というのも、音の周波数範囲がせばめられた人工環境 が人間の心理的不安定の要因になるとしたら、色彩環境 についても似た反応が考えられるからた。白・黒という、 色相や彩度が極端に排除された色調の波長だけでは、人 の感情を調整することができない。 白や黒、あるいは赤や紫という極端な色は、瞬発的な 突出したエネルギーを発生させるかもしれない。しかし、 人間は緊張のエネルギーだけでは生ぎていけない。柔軟 なエネルギーを生みたしてくれるような、微妙な中間色 や微妙な段階をもった色彩環境が必要なのだ。 僕の場合、自然環境のデリケートな色調から学んでリ フォームした効果は、予想外に大ぎかったといえる。そ れにささやかなことで、住環境を、単なる消費の場から ◎ 94 自分たちの″色遊び〃の空間に変身させることができる のだ。 欧米では、自分の住居を好きな色のペンキで塗り変え る習慣があるが、最近は日本でも、住宅の色彩への関心 が高まりつつあるようだ。 日本人は戦後、ウサギ小屋と呼ばれようと、ともかく も住空間を確保することに必死だった。だが、個性のな いマンションの空間はもちろん、ステレオタイプの建売 住宅に物足りなさを感じる人々の間に、リフォーム志向 が目立ちはじめている。 その現れの一つだろうか、最近、大手建設会社のリフ オーム部門が出している情報誌も、リフォームの色彩心 理についての提案を求めてきたりする。 住居は、ほかでもない、そこに住む人々のための空間 だ。当然、その住人のライフスタイルや家族構成などに よって、居住条件は異ってくる。壁の色ひとつにしても、 住人が最も気分よく過ごせる色調を、カウンセリングに よって選んでいくということが必要になってくる。日本 の住宅にも、「おしきせ」から「参加」へという時代が 訪れているのではないか。
り村の娘と結婚して、インディオとしての人生を幸福そ 。そんな息子を見て、父親はひとり うに生きている : 森を去っていく。 父親を森の端まで送りとどけた息子は、そこで異様な 光景を目撃する。ブルドーザーが木を次々に切り倒し、 褐色の土が露わになっていく開発現場だ。 は驚いて叫 「あ、世界の皮をはがしている ! 」とトミー ぶ。 インディオにとっては、緑は世界の皮膚なのだ、それ をむいてしまえば、世界は呼吸困難になって死減する。 しかし、これは単なる比喩ではない。実際アマゾンの ジャングルの植物は、地球上の酸素の鬨 % を作りだして いるといわれる。近年の急激な伐採が、生態系のバラン スを崩しはじめていると警告する学者もいるほどだ。 このようなメッセージも含めて、この映画は緑の美し さ、失われつつある緑の重要性について、目を洗うよう な光にみちた映像で訴えかけてくる。 たがこの映画は、単なる自然回帰ものとして見てしま うには、もう少し複雑なメッセージを含んでいる。 3 1 ◎緑 かって人類はエメラルド・フォレストの 僕が思うに、 住人としてスタートした。しかし、やがて彼らは木を降 り、森を出て、この緑の惑星を文化とテクノロジーの地 に改造してきた。そして、自然環境との複雑なかかわり の過程を今も生きつづけている。この映画はその環境と 人間との関係のダイナミズムを描いている。 ーを育てた″森の父〃、つまり酋長はサルを毒矢 で殺す技術を教えたあとに″息子〃にこう語り聞かせる。 「私のように老いた動物は狩るんじゃないよ」、「魚を獲 るジャガーは飢えている。近づかない方がいし : 人間は一つの単純なセオリーで生きるのではない。他 の生きものとの関係性のなかで、自分のセオリーをアレ ンジしていくのだ。そんな風に老酋長は語っているかの よ、つだ。 ある時は自然を殺し、ある時は自然を生かす。自然の 力に対するこのオープンとクローズの・ハランスが、貧弱 な肉体の人間を生きのびさせたのだ。 文明人の血を持ちながらも、インディオとして自然を は、″森の父〃と″文明の父〃 読む力を身につけたトミー との 2 人を愛し、必要な時には助けを求める。
が呼びよせている。 : : : 結局、呼びよせることを一つの ハネにして元気に育っていくというカ 毛利それが医学でいう免疫とか抵抗性の向上に当たる のでしようね。 ・ : 別にばい菌をやつつけるわけじゃな くて、折りあっていく。そうしてはじめて丈夫に育って いけるようになっているんだ。 わたしたちは、ウイルスの大海に漂っているといって しいほど、日々ウイルスと共生しているのだ。消化を助 けてくれるのもウイルスなら、ガンやエイズをひきおこ すのもウイルスではないかといわれている。 毛利さんは医者の立場から、ウイルスとの平和共存が 人間を生かしているという。 もしもウイルスを病原体としてのみ敵視するなら、最 後にはウイルスの温床でもあるこの地球そのものを失く さなくては安心できないことになる。やはり人間は、病 気を必要として「呼んでいるーんじゃないのか。 体が、病気という「ゆれーを知らない、鋼鉄のような 塊りたと考えることの方がむしろ恐ろしい。風邪もひか ず、下痢もせず、失恋の苦しさも、仕事の挫折感も、そ ◎ 44 たえまなく波うつ人間の体。その波に同調するかのよ うに、私たちの色彩感覚は、活動力が低下しはじめると 紫色をキャッチする。 なぜなのだろうか そもそも、わたしたち人間が″色彩〃として感じるも のは、太陽が発する電磁波のほんの一部にすぎない。人 間の目に見える赤から紫までの色は、燗ー繝 ( ナノ メートル ) の波長をもっ色光だ。その波長を越えてしま えば、赤外線または紫外線となって、人間には不可視の ものとなってしまう。 つまり、とてもうまく出来ていることに、人間の視覚 の目盛りは、生命体にとって何らかの必要のあるだろう 燗 5 繝 E の波長のみに同調できるようにきざんである ◎ して回復していく肉体の喜びも知らなければ、わたした ちは心や人間関係のバランスをとることはできないだろ 紫の治癒効果
そのあえぎが、おそらく最近のエスニック・。フームと 関係しているのだ。 エスニック料理、エスニック・ファッション、エスニ ックエ ~ 云、エスニック・ミュージック : 1981 年に刊行された『地球風俗曼陀羅』 ( 神戸新聞 出版センター ) という写真集は、内藤忠行のカメラと浜野 安宏の文章が、むせかえるほどのエスニックな文化を伝 えている。 一行は、グアテマラのサンタマリア・デ・フィススと いう村からはじまって、 ハリ島、ネ。ハール、西チベット とモンゴロイド人種がおもに定住している文化圏を旅し、 さらにインドへと向かう。その剏日近くの写真記録だ。 この写真集の魅力を一言で言うなら、赤の美しさにつ きる。 グアテマラの民族衣装の、空気さえ燃やしそうな紅。 その色の力に負けない生命力に満ちた表情と肉体の張り を、インディオたちは失っていない。 リ島の女たちのしなやかな肉体とぬけるような笑顔 も、体にまとった布のオレンジと響きあっている。 ◎ 124 チベットのラマ僧の服を染めあげている真紅は、人間 の業欲を灼きつくす宗教的エネルギーを象徴しているか のようだ。 聖地べナレスでは、人々は赤い布を体に巻きつけたま ま沐浴し、祈りをささげる。 カメラが写し出した地球上の赤、赤、赤。ページをめ くるたびに飛び込んでくる赤のヴァリエーションが目に まぶしい 赤は、色彩の中でも最も生気に結びついた色だ。 しかし、その赤をあれほどさりげなく巻きつけるだけ の、生気あふれる暮しと肉体を、もはや都会の人間はも っていない ふと目を上げて東京の街を見ると、灰色のアスファル トの道路と、コンクリー トの建物ばかりが広がる。その 中で若者たちは、黒一色のファッションに身を包んでい る。 どうやら私たち日本人も、南太平洋のサモアの酋長ッ ィアビが語った″。ハバ ラギ〃 ( 文明人 ) になりきったよ
△「えっ / 絵を描くの ! ? 」カラーワークショップで意外な自分を再発見。社員研修にて それである程度、その人の気持ちの根っこが明きらか になる段階まできたら、他の人と一緒のやりとりに加わ ってもらう。人と人の出会いやコミュニケーションはの んびりとやっていく。 もともと、・ほくがグルー。フ・カウンセリングをやり始 めたのも、家族形態や人間関係などが壊れて、人間が非 常に孤立しやすくなっているという、現代の状況が背景 にある。そんな中で人はコミュニケーションを求め、同 時に怖れてもいる。 でも。ほくのワークショッ。フには、みんなが自分の心を 見つめたいという動機で来ているから、そのためにお互 い力になり合えるんだということがわかってくると、自 然に自分のことを喋れるようになっていくようだ。 また、 1 人 1 人が色を使って、心に溜っていたものを 分発散させると、お互いの垣根が外れやすいというのか、 自分の中のカラみたいなものがポロンと取れる。 そうやってみんなの気分がオープンになると、時々、 クその場が非常に透明で気持ちのいい空気で満たされるこ とがある。 色彩表現は言葉によって作られている壁を突き抜ける