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検索対象: 論理療法 自己説得のサイコセラピイ
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1. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

第 6 章神経症的行動 55 とだが自分自身に対して ) 認めることだろう。彼が特定の科目を嫌うのは峭然 ' なことであるが , その背後にはきわめて。不自然 ' な考えが存在している。つま り ' ああ , 私はなんて腰ぬけなのだろう / いつになってもきちんと自立するこ ともできないし , 人望もなければ能力に自信をもてないなんて / ' と考えるとこ ろに問題があるのである。 論理療法の過程で , この人が自分の非論理的な考え方に気づいた時 , そしても っと重要なことだが , こういう恐れの気持こそ問題なのだと気づき , それと闘え るようになった時 , 彼は再び学校に戻り親や友人との関係 , 自分の考え方の偏向 から生じてきた困難な問題と最後までとり組む決心をするのである。かくて , の青年はつぎのように自問することができるようになる。 ・もしも私が , 両親の 強制を拒んだなら , どうしてかれらは私を支配しつづけることができるだろう ? また仮に , 私がかれらの横暴に屈したからといって , なぜそれを恐ろしいことだ と思い , 自分を腰ぬけだと思わねばならないのだろうか ? ' ほどなく , 彼は自分 の恐れに抵抗し , あるいは反抗できるようになっていく。、仮に私が学校で人気 がなかったり , 史上最良の歯科医師と認められないとしても , どうしてそれが恐 怖の原因になりうるだろう ? もちろん不都合なことではあろうけれど , 何も恐 れおののくことはないではないか ' このように , 彼は自分の非論理的な ( 経験的 に確認されないような ) 思いこみに反駁し , 立ちむかい , その真偽を問うことに よって , 自分の愚かしい考えやそれに付随する過剰な情動の興奮ーーーたとえば不 必要な不安や飛躍的な想像などーーーを抑制できるようになるだろう。 ある女性の来談者も , 同様の問題をもっていたが , 彼女のほうは前述の青年よ り , 問題の所在をよく自覚していた。この 22 歳になる婦人は , 自分が本当は教職 につきたいということを自覚していたにもかかわらず自分が教師になれるはずが ないと思いこんで , そのための努力を何らしていなかったということも , 自分で 分かっていた。また , 昨年はかなり奔放なセックスに耽っていたので , そういう 自分に罰を与えるべきだと考えていた。彼女は , 自分の心の奥底にある強い願望 この来談者は , ていた。 に気づいていたに 方の誤りであることを認識していなかった。こっぴどい評価をそのまま受けいれ 自己の低迷状態や安易なセックスの原因が , 自分の無知と考え もかかわらず , すっかり自減的になって神経症的な挙動を続け

2. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

第 5 章情緒不安 45 「あなたにそういうふうにいわれると , そういう気がしてきます。おかしいで すわね。私は , ただ肉体を動かしているだけだと思っていました。考え方や感情 を変えていくための操作ということの意味が少し分かってきたような気がしま す。テニスの場合に , スタンスを考えたり , ストロークや他のあれこれをどうし ようと , 頭を働かせるのもその操作にあたるわけですね。あなたのいわれるとお り , たしかに機械的に動作をしているたけではなくて , 頭を働かせているのはよ く分かりました」 「そうなのです。さて , ーこであなたが私の忠告に従って , テニスの時と同じ 方法を , 心の乱れの原因となっている考え方を変えていくのに適用することがで きれば , あなたの人生 ( というゲーム ) は , テニス ( のゲーム ) の場合と同様 に , すぐに上達していくでしよう」 こまで前進をみたあとは , かってはそうとう頑固だったこの来談者を , 考え 方や感情を変える作業に踏みきらせるのはさほど困難ではなくなった。 思考の選択 話を本題に戻そう。人間の感情を望ましいものとして受けいれるとしても , ま だ重要な問題が残されている。そうなると , 不安や憎悪などのような , 持続的で かっ不適切な感情も , 耐えて受けいれていかねばならないのだろうかという問題 である。 そんなことはほとんどない , といってよいたろう。そうはいってもときには , 持続的で否定的な , しかし適切な感情を抱いている場合があるたろう。たとえ ば , 痛みや不愉快な事実が長く続いて , そのことにかなり長い間わずらわされた り , 不快感を味わわされる場合である。そういう時には , 嬉しかったりしたらか えって適切な反応とはいえなくなってしまう。 ところが否定的な感情が持続していると , 自分の想像によってさらに不快や苦 痛を増幅してしまい , 非常に悪い結果になることが多い。たとえば自分の子供を 亡くした場合 , 何週間か何カ月か相当長い間その死を嘆くのは , これは適切な感 情の反応といえよう。しかし時がたって , やがて何年もたったあとでも , まだ子 供に先立たれた不幸にくよくよしていたり , もっとひどい場合には , またそのこ とに怯えていることがある。・なんて恐ろしいことでしよう / あの子を亡くす

3. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

論理療法について 325 から女房とうまくいかないのだと洞察しても , じゃあどうすれば母定着がとれる のか , と問われると困るのである。「洞察してもなおらないのはあなたが苦しむ ことによって自己懲罰しているのだ」とか「何かなおりたくない原因があるの ェリスは自分の答えに何か満足できないの だ」とか型通りの説明はしながらも , であった。 その頃パプロフの条件づけ解除法 deconditioning からエリスはひとつのヒン トを得た。つまりパプロフの犬に「肉」と「ベルの音」の同時経験を何回か繰返 すとやがては「ベルの音」だけで唾液を出すのであるが , この犬は「ベルの音」 だけでいっこうに「肉」が出ないことを知るとだんだん唾液を出さなくなる。つ まり条件づけが解除されてしまうのである。 ェリスは人間の場合は「肉」という具体的な報酬のかわりに , 養育者や仲間や 社会一般から与えられることばが摂取され , 各個人はこのことばを自分自身にな げかけていることに気づいた。たとえば「ロ答えはよくない」ということばをと ことばが具 り入れるから , 実際に体罰を受けなくても , ロ答えしないのである。 体的な罰の役目をしている。これは精神分析の超自我を学習論理で説明したにす ぎない感じもするが , ェリスはこれをさらに発展させて , ロ答えしても実際には 罰がないことを体験すれば ( ベルが鳴っても肉が出なければ ) 「ロ答えはよくな い」という内心のささやきが消減するのではないか , と考えた。そこで患者の恐 れていることをわざと実行させ , 実際体験を通して実は何もこわくない ( 罰がな い ) ことを知らしめようとした。 ビリーフ さらにエリスの気づいたことは , 患者の有している信条 ( 摂取されたことばに よる条件づけ ) はきわめて非合理なもので , 科学的根拠や現実性をもたない場合 が多いということであった。たとえば「人に好かれないことはよくないことであ る」という定義は神は愛であるというのと同じようにきわめて任意的でかっ個人 信条めいたものである。人に好かれないのがよいかわるいかは各人各様に定義し うることで , これが絶対だという定義の下しようのないものである。つまり好ぎ ずきの問題である。価値観の問題である。そこでエリスは患者のこの価値観をよ り現実的なもの , より実行可能なものに変えるべく相手を説得することを考えた のである。そして本書で述べるように心の悩みの原因となる非合理的な 10 の価値 観・信条 ( ビリーフ ) を指摘するのである。

4. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

リバイズドユディション 再版への序 『論理療法入門』はどちらかといえば , 革新的な本だとわれわれ著者は思ってい る。初版は 1961 年であったが , 当時 , 定評もあり経験も深い心理療法家たちは , 自分の問題との効果的とり組み方といった本を書いていた。ところで本書はその なかの最初の 1 冊である。それはエリック・ , く一ン ( 訳注 : 交流分析の創始者 ) の『人生ゲーム入門』 ( 河出書房新社 ) 出版の数年前のことであった。また『 1 ' ” OK, Y 側 ' OK 』や『自分の親友になる方法』など人口に膾炙した本よりはる か以前のことであった。 もっと以前からわれわれは , 自己分析的な本のプームを予想していた。という のは本書の著者のひとりエリスが 1957 年に『神経症者とっき合うには』を , 1960 年に『愛の方法と愛の科学』を , また 1961 年の『論理療法』出版の直前に , 本書 の著者 2 人で『創造的結婚生活』を著していた。しかし , この『論理療法』以前 の本は , 人間の悩みのある側面にしかふれていなかった。また , 情緒的問題を幅 広くカ / く一しているともいえなかった。しかもそのうえ , これらの本は論理ー情 動療法 (rational-emotive therapy) という新しい治療体系を部分的に提唱して いたにすぎない。ところで論理ー情動療法が出現したのは 1955 年前後である。過 去 15 年の間に , 幾千という読者や幾百という心理療法家が本書のことを「ガイド」 と愛称するようになった。その本書たるや実は以前の著作を御破算にして , 一般 読者大衆のための論理療法の本としては一番権威のある本であるし , また一番び ろく引用される本となってしまった。本書は『心理療法における理性と感情』 ( この本は心理療法の専門家むき ) とならんで , 論理療法の古典となるほどに成 長した。そのことをわれわれはうれしく思っている。 その後年月を経るにつれ , 本書については文字どおり幾千という手紙や口頭挨 拶をもらったが , 何れも本書が重症・軽症の悩める人びとの役に立っことを証言 するものであった。相当数の心理療法家が自分の患者に本書の一読を心理治療の 補助手段としてすすめているらしい。本書の主題や公式が人の著作物に盗用され

5. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

第 10 章受容欲求 141 ね。また , 実際彼が私にかまってくれない時もあったわけで , 私はとても不愉快 になりました。でもつぎのように考えはじめたのです。・たしかに , 現在ただ今 は彼は私をそれほど愛していない。でもだからどうだというのか ? 世の終りが くるとでもいうのか ? あらゆる瞬間に彼の熱愛と献身が本当に必要なのか ? そんなことはないのだ。たしかに私が彼を必要とする時に , いつも彼がかまって くれれば , それはけっこうなことにはちがいない。しかし , 彼がかまってくれな いからといって私が幸福に生きられないことがあろうか ? 大丈夫生きていける のだ / ' 実際やっていけるということが私にも分かったのです。前にいったよう に , 私が彼を必要とする時 , すぐに彼が私に手を差しのべてくれないと , 私は心 底腹をたてました。しかし , 前ほど腹がたたなくなったのです。今後はもっと怒 らないようにしたいと強く思っています」 「つまり , あなたは自分の極端な愛の要求に抵抗して , それをどうにかしよう としているわけですね。いつでもそれと闘っているとはいえないかもしれないけ れど , 少なくとも相当にやれるようになったということですね。あなたはそうや ってやがてそれを無くしてしまうつもり ? 」 「ええ , それは本当に恐ろしい闘いだと思いますが , あえてやってみようと思 っています」と彼女は答えた。 誰でもこういうふうにやれるのである。もしも極端な愛の欲求をもっていると すれば , まず自分の要求が法外なものである事実を認め , それを問題としてとり あげて抵抗し , 理論的にそれと闘うのである。そうすれば最後にはそれは小さく なっていくであろう。割合早く減少することもあるのである。ただ忘れてならな いことは , あくまで自己の本質的な欲求は残るし , 自分としてもそれは残してよ いのだと考えることである。 愛情要求の減少 自己の極端な愛の欲求と闘ってこれを減少させていく方法としては , 他につぎ のようなものがある。 1. 他人が自分にしてほしいと思っていることよりも , 自分が本当にしたい とは何かを , 自分に問うことである。折にふれて自分につぎのように問うのだ。 ' 私があれこれのことをしたりしなかったりするのは , 本当に自分が望んでいる

6. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

300 スキナーがオペラント条件づけとよんでいるものがそれである。すなわち , 好ま しい行動には報酬を与えたり強化を行なったりし , 愚かしい行動をした場合には 罰を ( ただし自己非難ではなく ) 自分で与えていくという方法である。 われわれは以前からずっと , 実習課題の開発に努めてきた。近年になって , の方法の重要性はますます大きくなっていると考え , 活発な活動によって拒絶反 応を緩和していく諸技術を率先して使用してきた。たとえば来談者が非社交的で 他人との交際を恐れている場合 , つぎのような課題を段階に従って実践していく よう指示している。第 1 段階 , とにかく社会的な何かの集会に出席する。第 2 , ひとりでも 2 人でもいいからその集会で他人に話しかけてみる。第 3 , そこで誰 かと知りあいになる。第 4 , その人と集会とは別の機会に会う約東をする。第 5 , その人と定期的に会うように努める。 自己管理 , オペラント条件づけを用いるにさいしては , B ・ F ・スキナー , ディ ビッド・プレマック , ロイド・ホムらによって定立された規則に従って , 行動の 強化・加罰だけでなく , 思考や感情 , 実習課題の遂行なども強化・加罰の対象と しなくてはならない。来談者が自分の非論理的思考に対し , 積極的に立ちむかっ ていくことがまだよくできない場合 , 本格的に反論 , 反対行動ができれば ( 食 物 , 音楽 , セックス , 交際などによって ) それを強化していくようにしむけ , 逆 に非論理的思考に負けてしまったならば ( 掃除 , 長大なレポートなど , かれらが 嫌がるような行動をさせることによって ) 自ら罰を加えるように誘導していくの である。自律的な強化 , あるいは約束をとり決めて行なう強化などは論理療法で はよく用いられる方法である。 自己非難をやめる 『論理療法』の初版にも記したように , 論理療法は , りつばに行動できないと いう理由による自己 ( および他人 ) への批判を排除することに最初からカ点を置 いてきた。それは今日においてもこのうえなく重要である。しかし , この批判と いう用語法には問題があることが分かった。というのは , われわれが・仕事がう まくできないからといって , 自己を非難するのはおやめなさい ' という時 , それ を聞いた人はそれをつぎのように解釈することもできるからである。。仕事がう まくできないからといって自己を非難しないほうがよいのか。とすれば私はけっ

7. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

第 6 章神経症的行動 57 た。彼女は , それからは失敗した時でさえ , 楽しくすごせるようになった。皮肉 なことに ( まあふつうはこういったものだが ) , 無条件に自己を受容することを学 びそれが実行できるようになるにつれ彼女はずっと学業に専念できるようになり ( 彼女は学業が不可欠のこととは考えていなかったが , 依然として望ましいとは 考えていた ) , それがまた良い成績をとる助けともなったのであった。 つぎに私が問題にしたのは , いわゆる不道徳について , である。彼女はたしか に軽はずみであったし , 誤りをおかしたかもしれないが ( 彼女が本当の恋人と考 えていない男性と情事を行なったことによって ) , 必ずしもその過失のゆえに , 彼 女という人間が卑しむべき人間になったわけではない。 このことを理解させて , 自分が人間として堕落してしまったという考えに反駁するように導いた。彼女は 自分が卑しむべき人間であるとしてきびしく自分を責めるのをやめ , つまり努力 を怠る動機を取りさることによって , 教師になるという目標をめざして勉強でき るようになった。 この来談者のケースは , 治療のために来訪する多くの人びとの場合と同様に く洞察その 1 》くその 2 》くその 3 》とわれわれが名づける思考パターンの相 違を例証している。《洞察その 1 》とは , やや古めかしい理解であって , フロ イドによって最初に明確に定式化されたものである。すなわち , 彼あるいは彼女 が何か問題に直面した時に この問題は先行する一定の条件によって惹起された ものたとその当事者が思うことである。われわれがこの章の初めにみた養成期間 中の歯科医は , 職業の問題に直面したわけであるが , 彼はそれがある種の科目へ の嫌悪から生じていると考えていて , けっして , 社会的職業的な失敗への不安か らきているのではないと思っていた。彼は当面する問題の原因となった先行的な 条件を何ら理解しておらず , 論ずるに足る・自己理解 ' を有していなかったわけ である。 修業中の若い教師の場合は , もう少し自己理解が進んでいた。というのは , 彼 女は職業選択における失敗を認識していただけでなく , ①自分が自信を欠いてい ること , ②以前の婚前交渉についてあえて自分を罰しようとしてきたことなどを 自覚していたか , あるいはうすうす気づいていたからである。彼女は自分の無益 な行動の動機を何ほどか知っていたのだから , 彼女は・洞察 ' ーーわれわれのいう 《洞察その 1 》をしていたのである。しかしながら , 彼女の《洞察その 1 》は

8. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

136 く , ふつう外へ向かって探求に没頭することによってこそ , 真の自己を発見する ものである。 禅宗などは , この問題を瞑想によって解決しているがその考えは , 他人の愛を 過度に求めること ( および地上の幸福 ) を断念し , 宇宙との一体感をめざすこと を考えている。宇宙と一体になること ( そして己 ' に執着しないこと , 極端に 愛を求めないこと ) によって , 人はしばしばくつろぎと平安を感じるだろう。し かし , 人生の諸問題に対するこの種の・解決 ' は , もちろん限界をもっている。 というのは ( 1 ) それは一時的なものである。②それは自我 , 個性の放棄の意味合い をもっており不自然である ( 今まで宇宙との一体感を感じたことのある人はいま すか ? ) 。 ( 3 ) それは幻想的な思考に導くことがある。実際には ' その秘密のすべ て ' など誰も手にしたことはないのに , ' 今私にはそのすべての秘密が解けた ' と 思わせる , など。④それはもっと別の明快な問題解決への意欲を失わせる。また , とくに不安を作りたす原因となる恐れや呪縛を断ちきること , 最上の解決策を探 求することへの意欲をそいでしまう。 いいかえれば , いわゆる催眠心理学は , 浴槽のお湯と一緒に赤ん坊を流してし まうやり方のようにみえる。自己自身つまりかけがえのない自己の本質を放棄す ることによって , 自己の直面する問題を解消しようとしている , といえよう。わ れわれが支持するのはそういうものではなくて , もっとその人格と個性に密着し た方法である。自分が人生で本当に欲しい物を発見し , それを得るために最善を っくす方法である。その大筋をいえば , まず , 自分は他人の同意が必要であると などという考え方をできるだけしない か , 他人の好意などは少しも意味がない , ことである。 自己を素直に受けいれ , 関心を外に向けて活動に専念すれば , 今までとは違っ て , そこにかわりの目標を見つけることができるかもしれない。もしも自己の性 向に忠実に従いつつも , 他人から受ける評価に過度の関心を向けることをやめれ ば , 自己中心的な悩みにとらわれる時間がなくなり , その結果外部のことがらに 興味をひかれていくのを感じることもあろうからである。さらに , 外部的な活動 にニネルギーを費し , 自分以外の人や物に関心をもつようになれば , 他人の思惑 をそれほど気にしなくなり , ついには自分自身の価値に気づくことにもなるだろ

9. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

でと同様の誤りをくり返すだけではありませんか」 治療者「いいえけっしてそんなことはありません。あなたは驚くかもしれませ んが , そのように一生懸命やってみれば , ワサビの効いたあなたの忠告がとても 効果のあることが分かります。でも今はあなたにそれほど極端なことを要求する のは控えておきます。さて , ご主人が深刻なまちがいをしたと仮定したとして , 彼を非難しても , それが彼にとってどういう利益となるでしようか ? そうすれ ば , 彼はあなたに対していっそうやさしい気持になるでしようか ? また , あな た自身もいっそう幸福な気持になるでしようか ? 」 スマート夫人「もちろんそういうことはありません」 治療者「そうでしようとも。けっしてないだろうと思います。というのは , あ なたがご主人を咎めればとがめるほど いやご主人に限らず , 何かのことで他 人を咎めたら一・ - ー - 彼は防御の構えをして自分の誤りを認めようとしなくなりま す。とくにあなたに対しては , ついさっきも , あなたが彼を非難した時 , 彼は嫌 味をいい返したでしよう , あれがふつうの成りゆきですよ。非難から身を守るた めに , 相手に非難を返すのがふつうです」 スマート夫人「彼もなかなかやるということは認めねばならないようですね」 治療者「そうです。でもそうしない人など考えられませんね。そしてあなたが さんざん彼を非難したあとではこんどは彼があなたにまともに反論するほど , 彼 は目の前の問題を正視する気にならないのです。あ , 見てておくれ。こんど は失敗したけど , このつぎはやり方を変えてきっとうまくやってみせるよ ' とい うふうにはならないものです。さらに , あなたの非難を彼が認めて , あなたが彼 をこきおろしたとおりに自己批判したとしたら , 彼がたとえ問題を正視したとし ても , 自分にはこの現実的な問題に立ちむかう能力がないのだと考えてしまうで しよう。彼はおそらくこう考えるでしよう。・妻の非難は当っているのだ。ああ 私はなんて馬鹿なことをしてしまったのだろう。心底愚か者という他ない。まっ たく彼女のいうとおりだ。私のような愚か者が , この窮境から脱するにはいった いどうすればよいのだろう ? 彼女のいうのが正しいのだ。私はもう立ちなおる 見込みはないようだ。もう一度やってみたって無駄なことだ。事態をいっそう悪 化させるだけだろう。私には問題を解決する能力がないのたから。いっそ意識を 失って , とにかく恐ろしいことは皆忘れてしまうことが一番よいようだ ' 」

10. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

24 そのために何らかの行為をし , 何かを感じーーなおかっ , 今その問題を解こうと 考えている」と表現できるだろう。しかし , このパズルについてのジョーンズの 関心はもつばらそれを解くことに集中しており , それがまた同時に , 見ることに もなり , 巧みにとり扱いながらそれについての感情をも味わうわけである。 いう次第であるから , われわれは , 彼はパズルについて知覚し , 行動し , 感じて もいるなどと事新たに述べずに , ただ彼はパズルを考えているというのである。 しかし , ジョーンズ ( 他の誰でも同様だが ) が , パズルについて思考作用だけ働 かせるということはほとんどない。もともと人間はそういうふうに作られていな いことを忘れてはならない。 質問 : 4 つの基本的な過程というものがあって , 思考を知覚や感覚から実際は 分離できないというのに , 論理療法においては思考をどうして最も重視するので しようか ? 解答 : その理由はすぐ明らかになるでしよう。最初に指摘しておきたいのは , 今日の人間生活では , 思考よりもむしろ感情のほうが主要な問題としてあらわれ るということです。かっては , 自分たちが生きのこれるように他の動物たちと競 合してかれらよりも上手に見 , 聞き , かっ考えねばなりませんでした。今日で は , 眼鏡やレーダーや航空機や電子計算機などといった知覚 , 行動 , 思考を援助 してくれるものを発明したので , 人間は地上の最高位に君臨し文字通り世界を征 服しようとしています。 ところで人間はただ感情の領域においてのみまだ顕著な進歩をしていないので ある。驚くべき物理的進歩にもかかわらず , 人間は過去の時代よりもさらに感情 的に成熟したとか , 幸福になったとは少しもいえないようである。今日の人びと はある点ではもっと幼稚化し , 情緒も不安定で精神的にも混乱している。 もちろん何がしかの進歩もないわけではない。心理療法や診断法の領域では , 情緒障害についての相当の理解が進んでいる。生化学の分野においても , 薬剤の 使用 , 神経学的探査 , 生物送還法などの諸技術が , 人間がどうして混乱に陥るの か ( およびそういう人が情緒的平衡を回復するためにどういう援助が可能か ) に ついての知識を深めている。 それでもなお , 感情を統制しあるいは変化させ , ほとんど普遍的に存在する混 乱を解消・軽減するという問題は , 依然として未解決の問題として残されてい