第 18 章現実拒否 259 作用を然るべき修練によってコントロールすることによって , 自分の運命を変え ていけば , どんなに痛ましいことが起ってもたいていの場合とり乱さなくてすむ であろうし , 他人を変えることにも事態を好転させていくことにさえつながって いくかもしれない。しかし外部のできごとについてとり乱してしまうと , どうし てもそのために時間とエネルギーを使ってしまうから , 自分自身を変革していく 余力は残らなくなってしまうたろう。 6. われわれが生活していくうえで生じてくる問題に対して , 絶対的に正しい 解決あるいは完全な解決というものはほとんどありうべくもないようである。と いうのは , 黒白を完全に判定できるようなことはめったになく , 通常はいろいろ な可能性を残すものたからである。したがって , 完璧な , 絶対的な解決を無理に 求めつづけるかぎり , かたくなな心の構えを作ってしまい , 現実的で満足すべき 譲歩の線を見逃してしまう心配が生じるだろう。つまり , ある時間に放映される TV 番組が絶対的に最良のもので見逃せないと考えれば , チャンネルを切りかえ てそれに合わせ , 結局それ以外のものには目もくれないのと同じことである。 7. 自分の想像で作られた悲劇は , 完全で絶対的に正しい解決をなしえなかっ た時にやってくるものた。実際には , 自分で恣意的にこれが絶対たとでも思い まぬかぎり , そんな解決はあるはずがないのに。たとえば悪い相手と結婚してし まって結局離婚に終るとか , 誤った決定をしてしまったらもう何もかもだめだと 思いこんでしまったら , 自分の誤りに気づいた時からすぐ頭のなかで悲劇が始ま る = と 00 なろう。しし , 同じ誤。行為決定 = 00 、 , それが : 運あり遺憾 なことではあっても , それがけっして破局ではないと考えることカできれば , そ の誤りにもよく耐え , おそらくそのことによって成長の糧を得ることだろう。 8 ・完全主義ーーーといってもほとんど独断でそう思いこんでいるにすぎないが は , 自己破減につながる考え方である。およそ完璧と思われるような人と生 活をともにして , 完全な道程にどれほど近づいたにしても , あるいはものごとの 結果を完璧に予想してことを運んたにしても , けっして 1C0 パーセント完全な結 果をもたらすことなどできはしない。もちろんそれは人間が神のように行動する ことができないからである。ある事象は 100 パーセントの確率で起るわけではな く , 決定がつねに正しいと決まったものでもないからである。たとえ瞬間的に完 璧だと思う時があっても , そのレベルをずっと維持できる確率はゼロに近いだろ
158 まず第 1 に , ものごとを行なうにあたってはそれを完全無欠に成しとげること ではなくて , ともかくもそれをすることに重点を置くことである。もちろんそれ は , ものごとを上手に行なうのが望ましくないから , というのではない。それど ころか , 上手に仕事をすれば物質的にも人の好意などにおいても得るところは多 いだろう。それはそれで結構なことだ。しかし , それはかならずしも必要なこと ではないのである。 だから , 仕事が見事に成就することよりも , 仕事に楽しみを見つけるようにす べきである。そしてこの 2 つは , 両立することも多いのである。テニスが上手に なれば , テニスをすることが楽しくなるということである。しかし , もし上手に やるということにのみ心を奪われてしまうと , 「①私は元来テニスが趣味で , の運動を気に入っており , ②他のテニス仲間よりも私のほうがどれだけ上手か確 かめられるから気に入っている」といっているようなものである。 ①の文は合理的で何の問題もないが , ②はそうではない。何かの活動において 他人より優っていることによって生じる・自我の昻揚 ' は , 誤ったフ。ライドから 生ずるもので , それは自分が他人より優れていなければおさまらない , というよ くない考えに発しているのである。この種の・自我の昻揚 ' は自分のしているこ とがうまくいっている間だけしか続かないもので , 最終的にはものごとを完全に しとげること , 他人に対する絶対的な優越を保つことを要求するところにきてし 論理的に , 真実に自己実現をめざしたいならば , ゲームをすることに楽しみを 見出すように努め , 成功は偶然のたまものであると考えるべきである。自己自身 の業績を改善するように努め , 他人を凌ぐことにばかり心を悩まさないよう工夫 するのである。人はある場合にはたいへんうまくいくこともあるけれども , あら ゆる場合にうまくいくわけはないし , またたとえ自分がなにごとかを完成したと しても , それを完璧に行なうことはありえないのだという事実を受けいれること である。希望は高いところをめざしたほうがよい。ただしそれが非現実的でなけ ればの話である。そして自分のやりたいことに失敗した時には , 失望はしてもよ いが絶望に陥らぬように努めることである。失敗を残念に思っても , そのために 自分をだめな人間だと考えないことである。 目標達成について論理的な考え方ができるようになってくると , 何がなんでも
162 しようか ? 」 「では , 私には自分自身や人類に対して , 自分の生産的エネルギーを利用する 責任があるとはあなたは考えないのですか ? 」 「そうではありません。どちらかといえば , あなた自身に対して , もっと楽し このような治療によって , 優れた天分が本来もっている有用性が人類にとって から受けいれようと思います」 でないことに思いをいたしましよう。人智の及ぶところには限りがあることを心 く運んだ場合には , あなたのいわれたことを思いおこし , 自分があの全能の存在 を思いだそう。もし , 私のやりたいことがどうしても完成できず , すこぶるまず それをやることにしよう。もしも少々無理だと思われるならば , 明日があること んでやろうと思う。今日の自分の研究予定を完成することが可能なことならば , と思う。もう自分を焦熱地獄へ追いやることはやめ , もっと効率的に仕事を楽し 結果を生まない場合でも , それが自己の能うかぎりであったことを受けいれよう うかのように考えるのはやめようと思う。もしも , 私が最善をつくしてなおよい 努力をするつもりであるが , しかし , それに失敗したら , 私が罪人になってしま っくそうとしてきた。もちろん , 今でも自分の企画の完成のために最善の方法で 「私はいつも , それに人生のすべてがかかっているかのように , 自己の最善を 終期の面接の折に , 彼はつぎのように報告している。 するのに完全か絶望かといった二者択一に陥らぬこと , この 2 点に同意した。最 的が達せられるように自分をしむけていくこと , 自分の選んた研究テーマを征服 この治療の過程はきびしく困難なものであった。しかし , 彼は結局 , 治療の目 とっても好ましいと思いませんか ? 」 科学者としての自己が納得するようにと努めるほうが , あなたにとっても社会に です。他人を凌ぐことに気をとられる傾向に陥りがちですが , そうではなくて , を目標にして頑張るかわりに , 自分の能力の限界の少し手前のところで頑張るの か - ーーそのほうが結局はもっと生産性も高くなるのですが。つまり , いつも完全 てそうでしようか ? そうではなく , もっとはるかに賢明なやり方がありません れば楽しみを得る最良の方法であるのならば , それでも結構です。しかしはたし 問題として。しかし完全主義をめざすほうが , 生産性が最大となって長い目でみ く仕事をする責任があります。束の間のことではなく , 自分の人生の長い期間の
第 9 章絶望的な不幸感 117 ものではなく , むしろ理にかなっていると思う。しかし , 恐ろしい , すさまじい 何もかもダメだ , といったファクターを含んだ不幸感は , 常軌を逸しており理に かなってもいないと考えている。人は抑うっ感 , 絶望感を自分の生活のなかで , 自己のかかわった事実 ( A の段階 ) において , そこから直接的に得たのではなく て , 自己の信念体系 ( B の段階 ) において , 自ら作りだしているのである。さら に人は , 必ず自己の観念のなかからある種の選択をしているのである。その選択 についていえば , 現実から遊離して , 当面する事実を恐ろしくもひどいことであ ると絶対的に断定するかわりに , 逆に現実に密着して , そのことがらを不運で , 不快な経験のひとっと評価するほうを選択することもできるのである。したがっ て , 人間というものは , 自己の感情を統制する大きな力を本当は有しているので ある。もっとも , 自分の信念体系が作りあげようとしているものを正確に観察し , それを変更しようと良識的な営みをする気があれば , の話だが。 完全な幸福 以上のように述べたところで , 現実が完全に , 申し分なく , このうえなく幸福 であることなど , たとえ須臾の間といえども , ありえないのだということをいっ ておかなくてはならない。完璧なものとして , 何かを一心不乱に求めることが , 必然的に欲求不満や不幸につながるのは避けがたいことである。人間とは , いか なかんずく , 完全な幸福に なる方法をとっても現実的に完全に到達すること 到達することなどありえない存在なのである。われわれは , 絶えず変化する肉体 的 , 精神的過程の総体としてあるがゆえに , 幾多のいらだち , 苦痛 , 災難 , 倦 緊張状態など , 不快感を発生させるような状況に従属して存在しているので ある。なるほど精神的 , 感情的な悪条件に打ちかっことも可能ではある。それは 本書において示しているところだ。しかし , そのすべてに打ちかてるのではもち ろんない。 たとえば , 持続的な憂うつに対しては , これに対処し克服することがたいてい の場合可能である。落ち着いてそれを観察し , 時間をかけて考え , 自分の思考の どこにその原因があるのかをたどり , ( 意識的 , 無意識的に ) それを生みだし維持 させる思考法に反駁すれば可能ということである。これに対し , 生じては消える ような憂うっ感のほうが対処しにくいものである。それは時おり自分の心をとら
第 18 章現実拒否 269 たろう。またそんな人を知らないはずである。人間は , 本質的に誤りをおかす存 在なのである。それは , 生命というものが基本的に不確定なものであるところか らきている。したがって絶対的な確実性や完全性を求めることは , ( ) 周囲の世界 がきわめて不確実で不完全なものであるから , 必然的に生に対して子供つぼい恐 怖を抱くようになり , ( b ) 意識的にせよ無意識的にせよ , 他人をすべて陵駕したい という衝動に駆られ , 五月の王・五月の女王になることを求め , 究極的には , 他 人に対して絶対的に優れていることを証明しようとするところにいきついてしま うだろう。 / 、ン . ス・ライー、ン / 、 ッハがつぎのようにいっている。つまり , われわ れは確率と偶然の支配する世界に生きているのであるから , 自分が他人より優れ ているからではなくたた存在しているという理由によって自己を受けいれる場合 だけ安心を得られる , と。結局 , 自己を完全に受けいれることによってのみ , 人 は不安と敵意を最も少なくして生きることができるのである。 5. さまざまな障害やつぎつぎと出会う問題に対して完全無欠な解決法が見つ かることはけっしてないのたから , 筋が通っていればある程度妥協的な解決策を 受けいれたほうがよい。当面する問題に対して , 視野を広くして解答を求めてい けば , 実行可能な最良の解答がそれたけ得やすくなるだろう。短気を起して衝動 的に進んでいったりすると , うまくいかないことが多いものである。自分が採用 しようとしている解決策の他に , もっと優れたものがないか慎重に考え , 思いっ くかぎりの他の方法と比較してみること。偏見や先入観にとらわれることのない ように問題をいろいろな角度から客観的に眺める努力をすること。しかし , 最終 的な分析を終えたら , こんどは思いきった前進を図るべきである。その計画はう まくいくかもしれないけれども , うまくいかない場合だってありうることをあら かじめよく承知して , 実験のつもりでやってみることである。たとえ失敗して も , それは不運なことにはちがいないが , けっして破局が訪れるのではない。さ らに , 失敗は人間としての本来的な価値 ( そんなものが仮にあったにしても ) と はまったく無関係である。人間が , 受けいれるべき ( きわめて不確かで不完全 な ) 現実のリアルな姿を学んでいくのは , 行動と失敗のくり返しを通じてなのだ から。 6. 唯一無謬の解決を求める気持を捨てて , いつも複数の案のなかから次善の ものを選択していけるようになれば , のちにおいてまた別の選択をする余地も残
138 またつぎのような問いも受ける。「必死に愛を求めていくよりも , そういう要求 から解放されている愛のあり方のほうが得るところが多いとするなら , 私たちは 他人から認められたい , 受容されたいという希望をすっかり放棄すべぎなのです か ? 」 とんでもない。他人に受容されたいという希望を完全に放棄したり , 完全な献 身のみを良しとしたりすれば , それは他人の尊敬をなんとしても得ようとする強 迫観念と同じぐらい馬鹿げているだろう。それにはつぎの理由があげられよう。 1. 人が , 自分なりの考えを他人に発表したいと思い , 他人がその意見を気に 入ってくれたらうれしいと思うのはまことに健全なことである。もしも他人とコ ニケーションをもっことになんら喜びを感じないとしたら , むしろそのほう が人間としておかしいといえよう。 2. 他人に受容されたいと望むことは , 人間の根源的な願望のひとつである。 もう一度いうが , この欲求を少しも感じない人は非人間的であるとさえいえる。 ヒンズー教の古典である『 , くカヴァッド・ギーター』によれば , 真の強者とは " 名誉や侮辱 , 暑さ寒さ , 苦楽いずれにも無関心な人のことである。彼はいっさ いの執着から離脱している " 。特別な人のなかには , この教えが至高の理想と思 う人もいるかもしれない。しかし , われわれふつうの人間がこの理想を達成でき るとは思えない。苦痛を除去するひとつの方法として , 逆にそれを感じないよう に努めてこれを徹底しついには喜びもまたいっさい感じなくなってしまうとし たら , これは筋が通っているようでもわれわれには承服しがたいところである。 しかし , やってみる気があれば , 極端で非現実的な , 自己敗北的な願望を除去す るためにあらゆる方法をつくされるがよい。 3. もし人が , たとえば品物とかもっと時間が欲しいとか , いろいろな物が欲 しい時には , 実際問題としては親や先生 , 上司などある種の人びとの同意か容認 を得たほうがよいだろう。他人が自分を愛すべきだとする要求を退けたことは賢 明であるが , たとえどんな集団にあったとしても , 他の成員から受容されたいと いう何がしかの願望を保持しているほうが健全であろう。 中庸の道 他人からの愛を過度に要求することは , 自己の真の目的を阻害することにな
260 う。何ものも完全に静止することはなく , 生きているということは変化するとい うことに他ならない。好むと好まざるとにかかわらず , ものごとの真実の姿 , っ まり , われわれは不完全で誤りやすい存在であるということを受けいれることで ある。自分は例外だとでも思うのですか ? 不安と絶望の続く道を選ぶとでもい うのですか ? 母親の濫費への干渉 ローラのケースをとりあげてみよう。ローラはしつくりと結ばれた家庭で育っ た。彼女の父親は , 2 人の姉妹や 2 人の兄弟よりも彼女がお気に入りたけれども 母親のほうは他の兄弟たちのほうを可愛がると彼女は思っていた。彼女が 20 歳の 時父親が亡くなり , 妻に多額の保険金を遺していた。最初の面接の頃 , ローラが いつももちだした彼女の大きな悩みのひとつは , 母親がこの大きな額を管理する 能力があるかどうか心配だということであった。ローラによれば , 母親はそれを 濫費しつづけているというのである。 「いずれにせよ , あなたは母親の保険金の使い方にどうしてそんなにいらだっ ているのですか ? 結局彼女がもっているお金ですね , 他ならぬあなたのお父さ んが彼女にそれを残したわけでしよう。ですから彼女は好きなように使う完全な 権利をもっているわけです一 - ーそうしたければ下水に投げ捨ててもかまわないわ けですよ」 「もちろんそれは分かっています。でも母はですね , お金のことについてはす っかり父親まかせだったのです。今はその父もなくて , 欲深な兄弟たちや親戚に ノーというすべを知らないのです」 「あなたは何か目的があってそのお金をもらいたいのですか ? 」 「いいえ , 私の生活はうまくいっています。良い仕事ももっていますし , そこ で昇進の道も開かれています。それに私の婚約者もすばらしい人で , なかなか良 い家の出なんです。ですから私自身は 1 セントだって母のお金が欲しいわけでは ありません。ほんとうに 1 セントもいらないんです」 「ではどこに問題があるというのです ? お母さんがお金をどう使うかなんか 気にしないで自分の仕事に励んでいればいいじゃないですか ? お母さんがあな たにアド / くイスを幀んでいないのもはっきりしていますし , それに , 仮に彼女が
第 4 章感情の起源 41 を受容する決心をすることができるのである。実際に人は , 自分の感情について 興味と好奇心を抱くことができるのである。自分自身に対して , C なんて恐ろし いことだ / ' というかわりに ) ・それはなんて面白いのたろう ' とか。私のように 本来知的な人間が , あんなに愚かで自減的なことをしてきたなんて / ' などとい うこともできるのである。自分で自分を引きさげていくような感情を作りだす道 を選ぶことも , またそうしたければ , その感情を変化させる道を選ぶことも , い ずれも可能なのである。 人はまた , 自分の適切な ( 自己実現に向うような ) 感情と不適切な ( 自己破減 へ向うような ) 感情とを区別することができる。人は , 自分のしてしまったこと に不快を覚えるという健全な感情と , それらに対して恐れおののいてしまうとい う不健全な感情との相違が理解でぎるはずである。また他人の行為に失望を感じ て , いつまでもあげつらうのと , 他人の行為に立腹しても , そういう自分の気持 は変えうるものだと自分を統御していくことの違いを認識できるはずである。 換言すれば , 論理療法でいうところの思考は , より完全にかっ率直に自己の感 情を観察することを援助するのである。さらに , それらの感情が存在することを 認め , それが適切なものかどうかを決定し , 自分が望むような感情がもてる人に なり , 人生に期待しているものを獲得するのに効果のある感情を選択していくこ とを援助するのである。この高度に論理的な方法は , 逆説的なようだけれども , むしろ感情により深くかかわった方法であり , 論理療法を知る以前よりも , 感情 を重視させていくものである。
160 際に , あなたの研究は別の研究所でも検討され , そこでもあなたの考え方は , 革 新的ですばらしいものだとされたーーそのように話していたと思います。その科 学者たちが , あなたの研究について盲目であるなどと考えられるでしようか ? 」 「ええ , あのデータと私の解釈は , どうやら完璧だったようですね。でも私は とても時間を浪費するのです。もっと上手に私はやれるはずなのに。今朝だって 私は研究室で腰をおろし , ばんやりとして何もでぎませんでした。よくこういう ことがあるのです。また , 私が課題に向かおうとすると , 明晰に正確に思考が働 かないのです。つい先日も , 当地の研究団体の会合のためのレポートを書いてい て , 大学の 3 年生でもやらないようなミスをしているのに気づき , ほんとうなら せいぜい , 1 , 2 時間で仕上げるところを何時間もかかってしまいました」 「あなたは自分にきびしすぎるのではないですか ? 」 「いいえ , 私はそうは思いません。私が一般向けに書こうとしている本のこと を話したのを覚えていますか ? 私は今日でもう 3 週間も , あの本にとりかかる 暇がないのですよ。一方にこんなつまらない仕事を処理しながら , 専門的な論文 も書かなくてはならないわけですよ。アインシュタインやオッペンハイマーだっ たら , 私が手がけているこんな本に書くよりよほど優れた内容をもっとすらすら と書けたでしように」 「そうでしようね。そういわれれば , 物理学の分野でとくに目立った人にくら べて旗色が悪いといえるかもしれません。しかし , 自分を評価するのに , あなた のように完全主義的な基準できびしくやっていく人は , ここ数カ月で聞いたこと もありません。また面接でお会いするたびに , あなたの口からそのことを聞かさ れます。しかしですよ , あなたはわずか 25 歳でむずかしい分野の学位をとりまし た。すばらしい職に就き , 進行中のりつばな研究をいくつも抱え , 専門の論文に も優れて , 啓蒙書の執筆も進行中である。それでも , あなたはオッペンハイマー やアインシュタインの水準に達していないとして自分を責めるのですか ? 」 「私にだって , もっと多くのことがやれても悪いはずはないでしよう ? 」 「いいえ , いったいなぜあなたは , もっとできてもいいはずなどというのです か ? 私の知るかぎり , あなたは十分にやっています。しかし , あなたの問題 は , つまり現在あなたが不幸を感じる主要な原因は , あなたが自分の成果を評価 するに際して完全主義に陥ってしまうことだと思います。あなたはひとりの科学
失われてしまうと考えるだろうか。そんなことは少しもないのである。今や彼 は , 自分の仕事を楽しんでやることを知ったのだから , この若い科学者は , 以前 よりもっと顕著な貢献をしてくれることだろう。彼はけっして生産性を失くした りせず , むしろそれを高めるだろう。彼の失ったものはいったい何だろう ? そ れは , ただ彼の完璧主義とみじめさたけである。 われわれが , 知識の獲得や業績向上の傾向に反対するのでないことは , きわめ て明白である。優秀な脳細胞の持主は , 自分の頭脳を駆使して新しい物 , いまま でにない物 , 優れた芸術作品 , 産業機械などを作りだそうとする強い内的傾向を 有している。どうかいつまでもそうあってほしいものだ。かれらの場合には , 創 造的な努力こそ最大の幸福を生むものなのである。ただし , 一瞬たりとも無駄に できない , とする完全主義的な考え方にとらわれないかぎり。 われわれは , 来談者たちによくこのようにいう。できるだけ高い山に登ろうと するとき , もっともな理由があるだろう。たとえば登山を楽しむこと , けわしい 山頂に挑戦することの喜び , 頂上から見おろすスリルを味わいたいなど。しか し , できるだけ高い山に登ろうとする場合 , その理由が容認できない場合もあ る。下にいる人たちを見おろしてばかにしようという場合である。