幸福 - みる会図書館


検索対象: 論理療法 自己説得のサイコセラピイ
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1. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

第 9 章 絶望的な不幸感 不幸感と不幸な状態 ある一定の規則に従っていれば , いつも幸福でいられる一一そんな規則を提唱 しようとする人は , 結局 , 愚かしいことか不埒なことをいっているにすぎない。 そのことをふまえたうえで , なおわれわれは , けっして絶望的な不幸を ( 実際に ) 感じないですむ技術をお教えできる , とあえてここでいっておきたい。 われわれは矛盾したことをいっているだろうか ? みかけ上はそうかもしれな いけれど , 事実はそうではない。幸福感や , 喜び , 楽しみ , 得意になるなどとい った積極的な感情は , 人が行なった行為の副産物として生じるのであって , 他人 の指示によって生じるものではない。人が , かけがえのないひとりの人間として 何をなし何を楽しみとするかは , 個人の好みに依存している。それは , 他人がけ っしてあらかじめ見通すことのできないものである。ある人は , 田舎を歩くのが 大好きかもしれないし大嫌いかもしれない。伴侶と一緒にべッドにいくことに夢 中であるかもしれないし , それが厭わしいと思う人もいるかもしれない。そうい うわけだから , ある人にとって何が喜びであるかは , われわれには分からない。 もちろんわれわれは , 自分のことならばよく分かるし , 一般にどういうことが 喜ばしいか , についてならば一定の発言もできよう。しかし , ある特定の人が , 何をもって満足とするかについては , その人に実際の経験や試みをくぐらせない ことには予言することはできない。ただ , 仕事に熱中するとか , 何かに熱烈な興 味を抱くとか , そういう一時的なことがらによって , 人が幸福を感じることがあ るということはいいうるだろう。しかしどんな仕事 , あるいはどんなことに熱中 すると幸福に感じるかについては , 率直なところ何もいえない。 われわれは , どうやって人が幸福になるかについてはほとんど何もいえないと しても , 不幸を避けるための方法ということならばお話できる。お分かりいただ けたであろうか ? 何だか矛盾しているように聞こえるかもしれないが , 実際こ

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第 21 章論理療法 この考えが誤っているという根拠は何でしよう。 3. 313 解答例 : 自分が愛した人から自分は愛されなければならない , と考えたら誤 りであるという理由はたくさんあります。 a. 私の愛した人が , 私を愛さねばならないなどという法則は存在しな い ( もっとも愛してくれればすばらしいことにはちがいないが ) 。 b ・もし私がある人から愛されないとしても , 別の人から愛される可能 性は依然としてあるわけで , そういう考え方で自分の幸福になれる道 を探せばよい。 c . もし私の愛した人が , 私を愛してくれなくても , 私には他の交際や 仕事 , 書物などに楽しみを見出すことができる。 d. 私がはげしく愛した人が私を拒絶したとしても , それはたしかに不 幸なことではあるが , けっしてそのゆえに私の生命が終るわけではな e . たとえ私が過去において愛を勝ちえたことがないからといって , そ れが今私が愛を獲得しなければならないことの証明とはならない。 f . 。ねばならない ' 型の絶対的思考は , どれひとっとして根拠はない。 だから , 私が何かを獲得しなければならないとする証明は何ら存在し ていない。それは愛の場合でもまったく同じである。 g. この世には愛の享受を切望しながらも , どうしても得られない人び とがたくさん存在している。しかしかれらも幸福な人生をおくってい る。 h ・私の人生でも , ときには誰からも愛されてはいないが , しかし幸福 ではあったという時期があったものだ。だから , たとえ今は人に愛さ れていなくても幸福になることもできるだろう。 i ・私がはげしく愛した人から拒絶されたということは , 私には何か好 ましくない性質があるということかもしれない。しかしそれは , 私が どうしようもない , 完全な無能者で誰からも愛されるに値しない人間 であるということではない。 .j ・私には好ましくない性質があり , 今まで他人から愛されたことはな いかもしれないが , それでも私は自分を卑下し , 無価値で無能な人で

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カ作ともいうべき本書の第 1 章でエリスと , 、一バー博士は , 本書の読者たちに こういっている。英語ということばには限界があるので読者が早とちりの結論を 出さないように , と。つまり実用価値がないのでずっとむかしに棄ててしまった ものを , 今頃また がむし返していると早とちりしてくれるなと 工リスと′、一′く一、 いうのである。 ェリスとハーパーが " 創造性 " " 幸福 " " 愛 " " 成熟 " " 問題解決 " などというこ とばを使うので ( どのことばも実は「積極的思考法」や「ユートヒ。ア」論者がよ く用いるが ) , 読者はエリスとハーパーがこの種の本をまた 1 冊リストにつけ加 えたと文句をいうのではないかという感じがする。この種の本というのは , 誰で をも金持にし , 幸福にし , 威力的にすると唱いながら , その実 , 情緒的成熟につ いては何も語っていないのである。 しかし , ェリスもハーパーもそんなことは心配しなくてもよい。 この両人は , 独断的人生論氾濫の今日の時代に謙譲の美徳を発揮しているからである。この 2 人は知っている。絶えず幸福であるなどということは月光のように淡いものであ ることを。その証拠に , 本書の幸福を論じた章をこの 2 人は「絶望的な不幸感 ( を拒否せよ ) 」と題している。巷の調子のよすぎる似而非哲学的「啓示書」とは 雲泥の差がある。 この 2 人の卓越した心理学者の仲間たちが口説いて , 2 人の実践している論理 療法を本にさせたのが真相である。本書ができあがる前からこの仲間たちは , の本が人びとを益するところ大であると感じていたにちがいない。もっとも彼ら とて , 重症のケースには長期にわたる伝統的な個人心理療法が好ましいことは , 今でも信じている。しかし率直な自己吟味の能力を有している人びとの何割かに は , 読書療法も役立っと思うようになったのである。 本書は読者のみなさんが今までに読まれた本とはちがっている。すなわち心理 学や精神医学の本によくあるような専門用語をひとつも用いていない。 この本は

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第 21 章論理療法 303 なんかなくてもなんとかして幸福になれる道を探してみせるそ ' と考えるにちが こういう自己観察や評価の結果として , ときには欲求不満や悲しみも感 いない。 じるだろうし , ときにはそれがはなはだしくなる時もあるだろう。 不快な刺激を受けた場合 ( A の段階 ) , その結果として憂うつな気持になる (c の段階 ) のが・人間として ' 。やむをえない ' という事実があるとしても , その感 情が必ずしも・正常で ' ・建全で ' あるとはかぎらない。そんなできごとがある べきでない , あってはならないと頭から信じているために ( つまり信念体系の活 動 , B の段階 ) , そういう感情が生じたのであれば , このことは自分の非論理的 な考えにはうちかちがたく , それを変えるすべはないということを意味するので はない。われわれには非論理的な考えを , 直視し , 深く認識し , それを少なくし ていく力がある。しかし自分でそれを認識していかなければ , 不適切な感情は増 殖しつづけ , いつまでもなくならないだろう。 こで不適切という意味は , たと えば憂うつな感情は往々にして極端な不幸感や怠惰を伴っており , またつぎのよ うな考え方をする原因ともなるからである。すなわち , 自分には状況を変えるカ などありはしない , おそるべき事態たと思いこみ , 本来ならば不快な状況の改善 や自分の思考法を変えていくために使われるべき時間とエネルギーを阻害してし まうのである。 論理療法は , 思考 , 感情 , 行動のいずれにおいても適切なものと不適切なも の , 論理的なものと非論理的なものとを明確に区別していく理論を重視してい る。われわれは , 人間は誰でも生存と , 一定の幸福と , 苦痛の回避を望んでいる という前提から出発する。もしもこういう価値を基本的な価値 ( それは価値とし て選びとったものであり , けっしてそうする必然性があるわけではない ) と認め るならば , その価値の実現を妨げるような思想 , 思いつき , 態度 , 信念つまりも のの考え方は , 非論理的であると分類されよう。同様に , この価値の実現を妨害 するような感情や行動は不適切なものとされよう。また逆に , 論理的な考えは , 生存と幸福という , 自ら選択した人間的価値の達成に役立つだろう。同様に適切 な感情と行動もまた幸福な人生にとって有用なものであろう。自分の基本的な価 値として何を選択するか決定し , その実現を論理的に推進する行為と非論理的に 妨害する行為とを明確に区別し , 不適切な感情や行為をなるべくさけて , 適切な 反応をするように自らを励ましていかねばならない。

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第 10 章 受容欲求 非論理的思考その 1 絶対的要求 不安や憎しみから解放され平静に生活していくうえで障害となるのは , 非合理 的な考え方や非論理的な観念にとらわれることがあるからである。それらのひと つで , われわれが「非論理的思考その 1 」と名づけるものはつぎのとおりであ る。すなわち自分が大切だと思うすべての人びとから愛され , 受容されねばなら ない , 愛されなければ理不尽だと人びとが思いこんでしまうことである。 「しかし , たいていの心理学者の説によれば , 人間は他人に受容されることを 必要としているし , それなくしては幸福には生きていけないといっているのでは ないですか ? 」と早速にお尋ねがあるかもしれない。 そう , たしかにかれらはそういっている。でもそれは違うのである。なるほど 人間は他人の受容を求めているし , もしもそれが全然得られない時には , 幸福を 感じる度合いは少ないだろう。とくに現代社会にあっては , 多少とも他人に受け いれられることがないと , たいていの人は暮していけないだろうと思う。もし も , 誰からも受けいれられることがなかったならば , 人は住居を手に入れたり借 りたりすることも , 食料品を買いいれることも , 服を入手することもできないだ ろう。 そういうことはたしかにあるが , 成人は必ずしも他からの受容を必要とするわ けではない。厳密にいうならば , 必要とする (need) という語の語源は , 中世英 語 nead であり , アングロ・サクソン語の nead, インド・ヨーロ ッ日ロの nal-ltO に由来しており , その意味するところは , 疲れてしだいに衰えるということで ある。ゴート語の naus という用語も類似した用法で , それは死体を意味する。 英語においては , おおむねつぎのような意味である。必要性 , 強制 , 義務 , 生活 や幸福のために必要なもの , など。 ところで , 人は孤独の状態にあっても , それが原因で死んだりはなはだしい不

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第 5 章情緒不安 47 幸な諸条件から目をそむけてしまった場合 , それが自分自身や愛する人たちの究 極の幸福に本当につながるものだろうか ? それは実に疑わしいと思う。 したがって , 否定的な思考や感情の持続は , 多くの場合 , 生命の維持や安全の ために有用なのである。もちろんそうでないものもある。この両者を区別できる ようになって , それなりの対応がとれるようになる必要がある。 いずれにせよ , 持続的な感情が , ふつう , 自覚的 ( あるいは無自覚の ) 思考に 由来しているのであれば , 外部で発生した事実がどうのこうのといって , 直接的 に喜んだり悲しんだりすべきものではないことが分かる。そうではなくて , 外部 の事実についての自分の認識や態度 , あるいはその言語化された表現などによっ て , 自分で幸福を感じたりみじめに思ったりするにすぎないのである。 幾百人の来談者たちとの面接過程で , われわれが再発見したこの原理は , まず はじめにギリシャやローマの哲学者たちの著作のなかにあらわれている。著名な ものとしては , 紀元 1 世紀のストア派の哲学者ェヒ。クテートスの著作『提要』の なかにみられる。“人は外部のものによって直接的に心を乱されることはない それを受けとめる考え方によって心を乱すのである " また , ずっと後年にウィリ アム・シェイクスヒ。アも , この考え方を『ハムレット』のなかに使用している。 “善なるものも悪なるものも存在していない。ただ人がその思いなすところによ って生ずるにすぎない” 離婚への後悔 適切な事例として , ジェラルディンの場合をここでとりあげてみよう。彼女 は , 教養もあり有能な 33 歳の来談者である。私 (R ・ A ・ , ー ) のところに来 た時 , 彼女は離婚の 6 カ月後であった。無責任で頼りない夫との結婚生活はまっ たく不幸であったにもかかわらず , 彼女は離婚しても以前より少しも幸福に思え ないのだった。彼女の夫は大酒飲みで , 他の女性と遊びまわり , 失業ばかりして いた。ところが彼女は私のところにやってきて , 離婚したのはまちがいではなか にいるべきだと思うんです」 「だって離婚て悪いことだと思うんです。人間て一度結婚したら , ずっと一緒 「どうして離婚したのはまちがっていたと思うのですか ? 」 ったかと考えていた。

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第 19 章 受動的な生き方 非論理的思考その 10 受動的態度の非論理性 われわれが担わねばならない責任や生活上の困難な問題から安易に脱出する方 法はまずありえない。それにもかかわらず , 教養ある人びとの大多数が「非論理 的思考その 10 」を信じこんでいる。「その 10 」とは , 何もしなくてよい状態 , あ るいは義務に拘東されずに受動的に。楽しむ ' ことこそ最上の幸福であるとする 考え方である。この考え方はつぎの理由によって非論理的である。 1. 活動の合間の短い期間は別として , 人間は何もしていないときに格別幸福 を感じたりいきいきしているということはまずありえない。休みなく活動してい ればたしかに疲労と緊張にみまわれはするが , 逆にあまり長い間休息を続けると むしろ飽きてきてだらけるものである。読書や観劇やスポーツの観戦などのよう な受動的な娯楽は , 定まった仕事についている場合にこそ楽しみとなり , 緊張を ほぐしてくれるものである。しかし定まった活動をまったく何もしていなかった ら , 人はその状態がいやになり , 倦怠や疎外感を覚えるのがふつうだと思われ る。 2. 知性 , 感覚が高度に優れた人びとほど , いきいきと幸福に暮すには活発な 活動を必要とするようだ。たぶん知性の劣った人びとにあっては , くる日もくる 日も日なたに座りこんで別に職業につかなくても十分に楽しく暮せるようであ る。しかし , 知性が高度に発達した成人においては , 時間の長短はともかく複雑 で面白味もやりがいもあるような職業・仕事をもっていないと満足できず充足感 を味わえないようである。 3. 人間の満足というものは , 外部の事物や人間に深く心を奪われること , あ るいはニナ・フ・ルが " 目的志向 " と名づける概念にきわめて近いところにあると いえそうである。さらに , 強い不安や罪悪感のような好ましくない消極的な感情 が , 病的な自負心や異常性欲などの好ましからざる積極的感情と同様に , 精神の

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第 9 章絶望的な不幸感 117 ものではなく , むしろ理にかなっていると思う。しかし , 恐ろしい , すさまじい 何もかもダメだ , といったファクターを含んだ不幸感は , 常軌を逸しており理に かなってもいないと考えている。人は抑うっ感 , 絶望感を自分の生活のなかで , 自己のかかわった事実 ( A の段階 ) において , そこから直接的に得たのではなく て , 自己の信念体系 ( B の段階 ) において , 自ら作りだしているのである。さら に人は , 必ず自己の観念のなかからある種の選択をしているのである。その選択 についていえば , 現実から遊離して , 当面する事実を恐ろしくもひどいことであ ると絶対的に断定するかわりに , 逆に現実に密着して , そのことがらを不運で , 不快な経験のひとっと評価するほうを選択することもできるのである。したがっ て , 人間というものは , 自己の感情を統制する大きな力を本当は有しているので ある。もっとも , 自分の信念体系が作りあげようとしているものを正確に観察し , それを変更しようと良識的な営みをする気があれば , の話だが。 完全な幸福 以上のように述べたところで , 現実が完全に , 申し分なく , このうえなく幸福 であることなど , たとえ須臾の間といえども , ありえないのだということをいっ ておかなくてはならない。完璧なものとして , 何かを一心不乱に求めることが , 必然的に欲求不満や不幸につながるのは避けがたいことである。人間とは , いか なかんずく , 完全な幸福に なる方法をとっても現実的に完全に到達すること 到達することなどありえない存在なのである。われわれは , 絶えず変化する肉体 的 , 精神的過程の総体としてあるがゆえに , 幾多のいらだち , 苦痛 , 災難 , 倦 緊張状態など , 不快感を発生させるような状況に従属して存在しているので ある。なるほど精神的 , 感情的な悪条件に打ちかっことも可能ではある。それは 本書において示しているところだ。しかし , そのすべてに打ちかてるのではもち ろんない。 たとえば , 持続的な憂うつに対しては , これに対処し克服することがたいてい の場合可能である。落ち着いてそれを観察し , 時間をかけて考え , 自分の思考の どこにその原因があるのかをたどり , ( 意識的 , 無意識的に ) それを生みだし維持 させる思考法に反駁すれば可能ということである。これに対し , 生じては消える ような憂うっ感のほうが対処しにくいものである。それは時おり自分の心をとら

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128 幸を感じることなく生きることができるし , また一方で集団のなかにあって , そ に好かれないからといって悩むことなく暮していくこともできるので のメン / 、一 ある。したがって他人からの受容を必ずしも必要としない人びとも存在するとい える。人によっては他人からの愛情さえいらないという人もあるくらいだ。しか し , 男性であれ女性であれたいていの人は , 愛情さえ不要だという人には反論し て , ある程度は他人から受けいれられることがやはり必要だというたろう。かれ らは , 他人から受けいれられることを欲し , それを願い , 自分たちの追求する方 法で他人から受容されてもっと幸福になろうと考えている。しかし , 欲すること , 願うこと , そうあってほしいと思うこと , それらはただちにそうあらねばならな いということを意味しないし , 必要性を生じさせることにもならない。なるほど われわれは , 自分の熱望がかなえられたらいいなあとは思う。しかし , それはけ っして実際にそうあるべきだということにはならない。 子供および成人にとって本当に必要なものは何かということがあいまいになっ ているために , 人間にとっての必要性という問題に関しては心理学書にも相当の 混乱があらわれている。子供たちが健康に , 幸せに成長していくためには , 援助 とりわけその両親からの援助が必要であることはきわめてはっきりした理由があ るようにみえる。しかし , それは受けいれてもらえず愛されない場合 , 子供たち が必ず衰えるからそうしているのではない。ハロルド・オーランスキー , リリ ウィリアム・シュアル , ローレンス・カスラーなどの社会心理学者たち が示しているように , 必ずしもそうはならないのである。しかし子供たちは実際 問題として , 他人に依存しており , もしも大人が世話をしなければ食料も衣服も 住居も健康の維持も自分ではできない。 また子供たちは , 他人から言葉で責めたてられることに対しても , 身を守るこ とが容易とはいえない。仲間やあるいは保護者が , お前なんか何の値うちもない 人間だと , いつもいっていたら , かれら子供たちは , ' あの人たちがなんと思って いようとかまわない。私には自分の値うちが分かっているのだから ' などと考え ることは容易ではないのである。子供たちは暗示にかかりやすく , かれらについ ての他人の否定的な評価をそのまま受けいれがちであり , それを受けいれること で自分を卑下するような心理に陥ってしまうのである。 しかし大人たちは , なにも子供と同様に反応する必然性はない。周囲の人が世

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124 こともあるかもしれないですよね」 「もちろんそのとおりです。われわれは他人から受けいれられることを求め , 目標の達成を求めているにもかかわらず , 面目を失い追いもとめているものを得 られない危険のなかにつねにあるのです。それは当然ではありませんか ? 」 「でも , もしも私が節食し , それなりに着飾ったりあれこれと気を使って粧い , なおそれでも彼を失ってしまったら , それはとても恐ろしいことになってしまう のではないでしようか ? 」 「いやそうではありません。あなたが , それを恐ろしいことだと決めつけてし まわなければ , それは恐ろしいことにはならないでしよう。もちろんそのことは あなたにとってまことに都合が悪いことであり , あなたは失望し , 友をなくして 悲しくなることはあるでしよう。しかし , それがどうして恐ろしいことなのです か ? あなたはそのことを直接的な原因として死を迎えるでしようか ? 大地が 裂けて , あなたを呑みこむとでもいうのでしようか ? あなたは , もうけっして ポーイフレンドを得られないことになってしまうでしようか ? たとえ , すぐに 他のふさわしい人を得られないとしても , 何か他の楽しいことをする余地もなく なってしまうでしようか ? 」 「分かりませんわ。もしもジョンが去ってしまったら , 私に何ができるかなん て分かりませんわ」 「今あなたのいったことは , あなたの不安を実に正確にあらわしていますね。 ジョンを失うことはとても恐ろしいことだろう。そして , もし彼を失ったらどう していいのか分からないだろう , と。あなたは頑迷に , しかしはっきりと感じて おられますね。こう考えることで , つまり , 不都合を恐怖に転換することによっ て , あなたは , まさにあなたのいう恐怖を作りだしているのですよ。ジョンなし では幸福にはなれないと思いこむことによって , 自分は幸福にはなれない , と決 めつけているというのが事実なのです」 知的て愚かな思考 「私はジョンを失うことをとても恐ろしいことだと思い , 私が自分の容姿をど ういじったところで彼を失うことだってあるかもしれないと思って , わざと彼を ひきとめておくために何かすることをためらっているのでしようか ? 前もって