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検索対象: 論理療法 自己説得のサイコセラピイ
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1. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

146 「いくつかあります。まず自分が生きているということ。第 2 に , 生存を続け ることによって苦痛よりは喜びを味わい , 自分の生を好ましいものにできるだろ うということ。第 3 に , かなりの程度には , 自分の苦痛を軽減し楽しみを増大さ せることができるということ。第 4 に , これが自己受容の要点でもあるが , でき るだけ楽しく苦痛の少ない人生にしようと努める決心をすること。別のいい方を すれば , 人生の主要な目標として短期的 ( 今すぐの ) および長期的 ( 将来の ) 楽し みを選定するということです。成功を求めてはなりません。他人に尊敬されるこ とが目標ではありません。自分の人間としての優秀性を証明するためでもなく , 天国へ入るためでもありません。ただただ楽しくということなのです」 「では , 私はこういう問い方をやめればよいのですね。・私にはどれほど価値 があるのか ? ' ・自分の能力を示すにはどうすればいいか ? ' ・他人に特別な印象 を与えるにはどうすればよいか ? ' ・自分の優越性を不動のものにするには何を ' いらざる苦痛を避け , 人生における真の するべきか ? ' など。そのかわりに 喜びの源泉を自分なりに定め , それを追求していくにはどうすればよいか ' こういうふうに問えばよいわけですね」 「まったくそのとおりです。そして , あなたは現在と未来を楽しむということ をこそ目的とするべきです。たとえその方法が風変りであっても有害でさえなけ れば自分が試行錯誤して見つけていくべきです」 「ということは , 私は楽しい生活をおくり自己自身とともに楽しい生活を受け いれるのがよいとおっしやるわけですね。ただよりいっそう価値ある存在をめざ すのでなく , ひたすらいきいきと生活することで幸福になれると・・ 「そうです。あと望みたいこととしては , あなたは当然完璧な人間ではないの たから , 何かまちがいや不始末をしてしまう時があっても自己を非難したり罰し たりしないことです。自己を受けいれる時に , 自己の愚かしい考え方や感情や認 識や行動も一緒に受けいれてしまうのです。過去の愚かしい行動の経験を , 人生 を楽しみ , 将来もっと論理的に行動する糧として活用するのです。自己の受容に よって他の人びとを受容し , 寛容にもなっていくはずですが , おそらく自己の受 容は , そのこと自体の意味よりはるかに大きな成果を生むと思います」

2. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

第 13 章欲求不満 187 るのです。それが私のねらいなのです。ロバートを失ったことであなたが離別の 哀しみにとらわれるのは意味のあることです。そしてさらに , あなたのどんな行 動が原因で彼が去っていったのかを ( 私の援助を得て ) 厳密かっ客観的に調べよ うとするなら , それはいっそう意味のあることでしよう。しかしあなたが依然と して前の状態のまま , 愛するロバートがもういないなんて信じられないほど恐ろ この世の終りがきたほどの悲劇たと思っているとしたら , 前にあげた 2 つ しい , の事例と同様まったく無意味なことです。たしかにロノく一トはあなたの許から去 りましたが , 今の問題は , 彼のいない人生を楽しくするために , あなたに何がで きるか , です。現実は不公平だと嘆くのはおよしなさい。現実は目の前の事実 以外にはないのです。それを少しでも改善するために , あなたにできることは何 か , 考えてみようではありませんか」 欲求不満の処理 以上のように , マイラ・べイスンが別離にさいして陥った非論理的な偏見を私 がしつこく取りあげては強調していると , こんどは彼女のほうが , 自分を憂うつ にさせてきた原因について自分なりに話しはじめた。彼女は , まもなく新しい興 味の対象や活動 , 新しい仲間を見出すようになった。人生は空虚でなくなったよ うである。人生が本質的に変ったからそうなったのではない。ただ彼女が今まで とは違う解釈を始めたにすぎない。そしてそのことが根本的な変化を生んたので ある。 これらのことについて , 今少し明確に考えておこう。人が実生活で欲求不満を 感じた時一一たとえば不公平なしうちを受けることもあろうし不慮の災難にあう ことは誰にでもありうる一一一そんな時 , 人はどのように対応することができるの だろうか ? 実生活上の問題や不愉快な事件に対処する主要な方法はつぎのとお りである。 1. 欲求不満を感じるような一連の状況に直面した時にまずなすべきことは , こうよく見せたいという愚かしい欲求のせいでデートに行けないのか , どちらか 本当に服装が整わないためなのか , それとも自分を街で一番かっ 分がそう決めこんでいるたけなのかを決定することである。好ましい異性と外出 当面する問題が , 実際に困難な障害を伴っているものか , それとも本質的には自 できないのは ,

3. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

272 昻揚と集中を伴っているため , ときには人を無感動や退屈から救いたすことがあ り , そのゆえにはなはだしい不利益をものともせずに長くとらわれてしまうこと がある。これはわれわれに強い印象を与える。 こういう好ましからざる情念の持 主は , むしろ積極的に活動に携わることが多いから , いつまでも不安や偏執的な 情念を捨てきれない場合が多い。このように見ると , 精神の集中こそ生命活動の すべての形態ーー - たとえそれが心に障害をもつ場合も含めて一一 - ・の共通な性質と 考えてよいようた。 4. ふつう , 愛するという場合の感情つまり , 他を愛する気持は , 愛されるこ とを求めるのと違って , 生命活動が集中を示すひとつの主要な形態であるといえ よう。事実 , 集中的な生命活動の 3 つの主な形態とは , おおむねつぎのようにな る。 ( a ) 愛すること , つまり自分以外の人に心を集中している場合 , ( b ) 創造するこ と , つまり人間ではなく何かのものごとに心を集中している場合 , ( ) 考えること つまり思想やさまざまな考えに心を集中している場合の 3 通りである。感情の働 きが不活発であったり , 受動的であったり , 抑制的なものであると今述べた 3 っ の形態のいずれかに専心することもなく , したがって人間らしい生活からも遠ざ かってしまう。本当に人間らしい生活の仕方とは , 活発に活動し , 人や物を愛 し , 仕事をし , 創造し思考することである。いつまでものらくらと怠け , ものぐ さにしているうちに人は真の人間性を失っていくのである。 5. 自己訓練について述べた章で指摘したとおり , たいていの人は活発に活動 することをはしめのうちはたいそうむずかしく感じ , 椅子に座りこんで無為にす ごしているほうが , ずっと容易だと思うものである。しかし , 最初のうちの辛さ に耐え , あえて活動に打ちこんでいけば , ものぐさな楽しさを続けた場合よりは るかに大きい楽しみが活動のなかから得られるようになるだろうし実りも大きい ことだろう。この試みは , 長く続けさえすれば , 十分に引き合うものなのであ る。 6. 怠惰で受動的な生活をおくりながら , いつも自分に向って・面白いことな んて何もない ' といってばかりいる人たちは , 自分がそれに気づいているかどう かは別にして , 感じなくてよい恐怖 , なかんずく失敗の恐怖から身を守っている わけである。失敗に対して極度の恐れを抱き , やってみればきっと好きになるは ずの活動をすべて遠ざけてしまうのである。およそどんな活動にも手をださずに

4. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

100 止するためにも , たとえ非合理的で自己敗北的であっても , ときには感情的反応 が必要であろう。 2. 人間の趣味や好みは , 往々にして琲論理的 ' で・根拠のない ' ものである が , それが人生に一定の楽しさや面白さを与えているといえよう。たとえば切手 の収集や , 仲間の幸福のために一生懸命献身したり , 1 日に 10 時間も音楽を聞い ていたりしている時 , ある意味では , その人は琲合理的 ' に活動しているとも いえる。しかし多くの人たちは , このような・非論理的 ' な・情緒的 ' な行為から , 大きな害のない楽しみを得ているのである。・純粋な知性 ' ーーもしこんなものが などは , 高度に効率的ではあろうがまったく楽しさ あるとすれば , の話だが を感じさせないものであるだろう。 ' 感動 ' ( これは情動をあらわす古い表現のひ とつであるが ) の働き , それは , 文字通り人の心を動かし , 生命を持続させ , 人 生を楽しめるように人を導いていくがゆえに , そう名づけられたのである。およ そ感情や情緒というものがなかったら , 人間生活は持続するにはちがいないが , それはおそろしく退屈なものとなるだろう。 3. 合理性は , それが極端に発揮された場合には , かえって非効率や自己破壊 をおこすことがある。もしも靴ひもを結ぶたびに , 1 片のパンを食べるたびに 手を止めてこれが本当に・正しい ' ことなのか , あるいはそれをする最上の ' 方 法であるかどうか , と考えこんでいたら , たしかに合理性は追求されるだろうが , それはもはや有益ではなくかえって障害となり , そういう人は高度に論理的には なるだろうが , 必ず不幸に終ることだろう。極度の合理性 , あるいは強迫観念的 につきまとう給理性 ' は , 実は非論理的なのである。なぜなら・本当の ' 論理性 とは , 人間の幸福を助け増進するものだからである。 4. 完全に合理性をもって貫かれた生活は , 冷たくて無情で機械のような , 無 感動な生活にいきつくであろう。それは , 繊細な感覚をもった人びとがとくに美 術 , 文学 , 音楽の世界でだいじに思っている創造性や表現力の土台を , 掘りくず していくであろう。 論理療法に対する不安 論理性の偏重に対するこれらの非難には , 何がしかの正当性がある。しかし , そういう非難には , またとるに足りない面もあって , 極端に非論理的な判断にい

5. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

第 8 章理性と合理性 99 個人主義こそ最も優れた生活スタイルである , とする考えもあるが , 実は洗練さ れた個人主義は , 社会的利益を無視できないのが当然であり , ある程度それに対 する配慮を含むものである。というのは , もしもまったく分 ' の利益のみを 追求し , 行動するにあたって他人の迷惑を顧みず勝手に振舞うとしたら , その傍 若無人な振舞いで迷惑をこうむった人は , 遅かれ早かれたいてい・その人 ' の利 益追求を妨害することになろう。したがって , ・自分自身 ' の利益という概念のう ちに , 一定程度は他人の利益への配慮をも含むほうが望ましいということになる だろう。 同様に , もしも人が主に当面の利益をめざして努力を傾注したなら一一いいか えると , 人が短期的視野で生活を享楽しようとする一般的原理を採用するならば それはほとんど不可避的に , 将来に享受できる多くの楽しみを自ら捨てるこ とになるだろう。・今日に生きよ , 君は明日にも死ぬかもしれないのだから ' とい う考えは , 完全に狂気の考え方であると思う。万一 , そういった人がたまたま翌 日死ぬようなことがあったにしても。しかし , この頃はたいていの人が長生きを して 75 歳や 80 歳にはなる。だから , もしも人が今日のためにのみ生きていたとし たら , その人の明日はみじめなものになることはまちがいない。同時に , もし人 が明日のためにのみ生きるとしたら , 今日という日は心労のため暗いものになっ てしまうだろう。そしてそのあげくに , 結局は最終の目的にも到達できないだろ このように , 合理性という観点からすると , 実にきびしい思考が要求されるこ とが分かる。ある行為を判断するさいに合理性があるかないかによって , その行 為を絶対的に良いとか , 確実である , とかいえないだろう。また , 合理的な行動 と非合理的なそれとの間に , はっきりと線を引くことはむずかしいことがわかる だろう。合理性もあまり極端になると , 論理的なようでいてまったく非論理的で あるということになってしまうだろう。この問題について若干の説明をしておこ 1. すでに指摘したとおり , ある程度の感情的反応は , 人間の生存にとって必 要であるように思われる。たとえば , 誰かがわざと攻撃をしかけてきた時に , た だちにその人に修を負わせ , あるいは殺してしまいたいという気持になる一一一合 理的な反応といえばいえるが , それはあまりにも歪んだ反応であろうーーのを防

6. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

322 ある。 したがって論理療法ではこう考える。 できごとそのもの ( 例。赤面 ) が悩み ( 感情 ) を生むのではなく ( 人はふつう そう思っているが ) , できごとをどう受けとるか , その受けとり方 ( 考え方 , 文 章記述 ) によって悩みは決まるのであると。論理療法では , これを通俗的に AB C 理論といっている。略述すればこうである。 A (Activating event : できごと ) B (Belief system : 考え方 , 受けとり方 , 信条体系 , 文章記述 ) C (Consequence : 結果の意。感情 , 悩み ) A が C を生むのではなく , B が C を生むのである。 A に変化はなくとも B が変 われば C も変わるのである。これが論理療法の骨子である。ただし , B の変化だ けを強調すると環境 (A) に屈服する受身主義に堕してしまう。そこで , A が変 容可能であれば A に働きかけてこれを変えよ , とエリスはいう。たとえば心頭を 減却すれば火もまた涼し , というのは B の変化があれば C ( 涼しい ) が生ずると いうわけである。しかし , アメリカ人のエリスは消せる火は消せというのであ る。すなわち論理療法はかたくなな現象学ではない。 論理療法はその初期においては「 ABC 理論が骨子である」というようにビー アールされていたが今日ではそのあとに D と E が付加されている。 D とは Dispute ( 反論 ) である。イラショナルな考え方 (B) を粉砕する段階のことである。イ ラショナル・ビリーフをラショナル・ビリーフに修正する段階である。それはい かにして可能か。セラヒ。ストの説得療法によるか , 自分自身を逆洗脳 ( 人に洗脳 されたイラショナル・ビリーフを解除すること ) することである。それが成功す ると行動が変容する。これが E である。 Effect ( 効果 ) のあらわれる段階であ る。したがって正確には , 論理療法は ABCDE 理論が骨子であるということに なる。 ラショナル・ビリーフと論理療法の人生哲学 では何をもってラショナル・ビリーフというのか。原理的には , ①事実に基づ くビリーフか , ②論理的必然性のあるビリーフのことであるが , 実際には日常生 活でわれわれに幸福感 ( C ) をもたらしてくれるビリーフのことである。たとえ 「かっこよい」「りつばな」考えであっても日常生活がうつうっとして楽しくな

7. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

第 4 章感情の起源 39 思われます。人が , 飢え , 負傷 , 敗北などに陥った時 , 不快 , 失意 , 後悔 , 困 惑 , いらいら , 欲求不満 , 失望などを感じるからこそ , その危害を逃れ自分の生 を全うしようという気持になるのではないでしようか ? さもなければ , 思いど おりにならない時に不快を覚える人たちに対して , 対等以上に張りあっていくこ となどとてもできないでしよう。 さらにいろいろな感情は人間の健康と幸福をいくぶんなりとも増進させてくれ ます。よい音楽を聞いたり , 美しいタ日を眺めたり , むずかしい仕事を上手にや り終えたりした時の喜びは , ただ生命を維持していくというだけではなく , むし ろこのような感情を失った生活は , 単調で甲斐がないものになってしまうでしょ 感情のコントロール 以上のような次第であるから , 感情をコントロールしようとする人は , 非常に あいまいな目標にとり組んでいるのかもしれない。仮にそういう試みに成功した としても , かえって人間性を損ない , 人生の本質的な意味を奪うかもしれないか らである。 古代の哲学者たちは , 人間が・愚かな ' 感情にとらわれることなく , ・魂 ' の純 粋な状態 , 純粋な知性に到達することを望ましいと考え , 優れた人造人間のよう に行動することを説いた。もしもここにいう・優れた ' 状態に到達したならば , われわれは現代のコンヒ。ューターのように , 一定の問題を上手に解いていくこと はできるだろうが , 楽しみや満足はまったく感じることはできないたろう。いっ たい誰が , ・人間であることを超えた ' 優秀な存在になることを望むだろう ? 質問 : では感情を完全に排除したり , 感情のかわりに知性で代用することは , 少しもよいことだとは思ってはおられない , そういうことでしようか ? 解答 : そのとおりです。どちらかといえば感情を抑制している人 , 無感動な人 びとが , より適正な感情 , より高いレベルの感情を自分のものにしていけるよう 援助したいと思っています。強く心をうたれるような経験をするのはよいことだ と思っています。われわれはただ , 生命の維持と喜びという目的を阻害するよう な , あまりにも否定的で , 自減的な , 誇張された感情にかられることをよくない といっているのです。

8. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

104 活に対しても熱心になり , 毎朝本当に歌を歌いながら会社へ行ったほどです。事 実 , これは今朝のことなのですが , 気がついたら自分がなんと歌を歌っているん ですよ。こんなことはかってなかったことです。そこで私はしばし立ちどまっ て , 自分の歌に耳を傾けてからこういったものです。 ' おやまあ , あのハ の奴がいったことは本当じゃないか / もしも仕事に行く道すがら歌を歌うのも , 論理療法による人間の機械化ということならば , 私はもっともっと論理思考を身 につけたほうがよさそうだ。そして , ナイチンゲールのように歌えるようになり たいもんだ ' 」 論理的生活の意味 この来談者が理解しはじめたように , 人生に対して論理的に接近していくとい うことは , 頑に一方的に論理性を追求することを意味するのではない。論理的で あることの定義は , 今日一般的に用いられているところではつぎのとおりであ る。合理性を示すこと。愚かであったり , 良識を失ったりしないこと。思慮分別 があること。有効的な結果へ導いていくこと。最小の労力と費用で , 不必要な努 力や不快な副次効果を最も少なくして , 希望する結果を生みだすこと。 人間の理性の場合も同様であって , ほどよい情緒的反応 , よい習慣を守ってい く実践などが含まれている。さらにいろいろな要素が含まれているが , そのいず れも能率的で不安のより少ない生活を築くのに役立つものである。論理的思考に 導かれた生活といっても , それが実現することが自己目的なのではない。より幸 福な生活を求め , 自己実現を追求して生活しようと努力する時 , その人の人生は 論理的なものになるのである。論理的に行動していくことによって , 実は楽しく 行動し ( かっ感じ ) ていくことができるのである。 論理性という語を使う時 , われわれはそれが完全主義や絶対主義を含まない ようにしている。たしかにわれわれも自分自身について相当論理的に考えはする が , われわれはなにも一途な論理主義者というわけではない。論理主義というこ とになると , それは感覚よりも理性や知性こそが知識の真の源泉であるという考 え方になる。われわれはそのようには考えていない。われわれも , 現代の科学者 や経験論者の多くと同様 , 知識が思考によって大きく影響され深く関係している ということは了解している。しかしわれわれは , 知識は観察によって基本的に生

9. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

6 なやっかいな状況について話し合おうとはしなかった。彼は腹立たしく思うだけ で現状を変えるようなことは何もしなかったのである。 だがやがて状況が変わった。ボブは『リアリスト』という啓蒙的な雑誌で「会 見記 : 見たままのアルノく一ト・エリス」という記事に偶然出会い , さらに『リア リスト』だけでなく , 専門誌に載っている論理療法に関する主要な論文を探して は読むことによって , ・かって経験したことのない類いの ' 精神状況の変化を覚え るにいたった。彼は突然にひとつの明白な事実を認識したのである。すなわち , いかなる。他人も , 外部の事象もわれわれの心を狂わせることはできず , むしろ , われわれ自身は , それによって精神を損なわれると信じこむために自壊していく のである ' と。 彼の生活を根本から変えたのは , 彼が・不幸に立ちむかうための公式 ' とよぶ 思考法を身につけたからである。論理療法を扱った主要な論文には必ず解説され ている基本原理を , 彼はそのように表現したのである。まもなく彼は両親と話を するようになり , 妻との関係も以前より改善され , 長い間こわがって口にしなか ったようなことも人びとと話し合うようになったのである。 彼は , 自分の思考と行為から信じがたいほど効果的に障害を除去したばかりで なく , 彼はまた , 他人に話しかけるようになり , ちらしを送ったり手紙を書いた りするのをはじめ , さまざまな活動をし , 活動を通じて , 論理的な生活への関心 が、連鎖反応 ' を起すことを期待したのである。彼は , この連鎖を広げていくこ とにより , 国の要人や政治家たちも分別のある思考を回復し , 自分の心を狂わせ るものが外部の事物や人びとであると信じて自壊するというパターンを改めてい けば , やがてこの貴重な歩みは世界の平和にもつながるたろうと信じたのだっ た。彼の判断の正誤はともあれ , 実際問題として彼はものごとを合理的に考える ようになり , 以前よりずっと建設的で平和な生活を現在営んでいることは確かで ある。 これは誰にでもできることなのである。心理学の知識があってもなくても , 新 しい考え方を読んだり聞いたりすることは可能であり , さらにそれを自分の思考 と行動に適用して , 第一歩を力強く踏みたすことも可能である。そうすれば自分 の生活が驚くほど変化することも夢ではない。もっとも誰にでもこれが可能であ るとはいえないし誰もがそうしたいと望むとは限らない。しかし実際やりとげ

10. 論理療法 自己説得のサイコセラピイ

292 10 ・ぶらぶらと何もしないですむものならば , あるいは何の義務にも拘東され ずに。楽しく暮す ' ことができればそれが人間の最大の幸福である , とする考え には反論していくこと。何か熱中できるもの ( あるいは人 ) を見つけるようにし ていくこと。その場合 , そうすることによって他人からの賛同が得られるからと いうのではなく , 自分が本心からやりたいことを選ぶことが大切である。努力目 標を選ぶに際しては , 長期的な展望のある , やりがいのある企画を選んでほし い。勇気をふるって , 冒険に身を投じ , 怠惰と闘い , 率先して活動するような自 己へと自ら方向転換をしていくことである。 以上を要約しよう。それはいわれもなく必要もないのに他人を傷つけることの ないように十分留意しつつ , 一方ではどこまでも素直にありのままの自分自身で あれ , ということにつきる。比較的短期間に , 自分に最大限の充足を与えてくれ るような活動にも , つまりどちらかといえば利己本位の活動にも精をだす一方 で , 自分以外の人びと ( あるいはものごと ) にも積極的にかかわりをもっていか ねばならない。そうすることによって , 自分もまたそこから喜びを享受できるの であるから。心を占める最大の関心事が自己の希望の達成であっても , その自己 利益の追求が良識をそなえたものであればなんら恥しいことではない。本当の利 己主義というものは , 通常 , アルフレッド・アドラーが社会的利益と称した内容 を含んでいるものである。その理由は , ①ある社会集団のなかで生きている以 上 , 自分自身の利益追求といっても , それは当然他の集団構成員に対する一定の 配慮を必然的に含んでいるからである。②自己利益といってもそれが非合理的な 自己中心性に基づいたものでなく合理的なものであるならば , 他人に対する人間 的配慮や援助には一定の喜びを感じるのがふつうたからである。 以上に述べたとおり , これらの原則が健全で知性的な生活をするための最も基 本的な原則であると思われる。 こで健全で知性的な生活とは , 知識と理性に基 づくものであり , 理性の力によってこそ感情の充足も最高度に得ることができる とする主張に基づくものである。それではこれらの原則に従っていれば , 創造的 で幸福な生活が必ず保証されるであろうか ? いや必ずしもそうとはいえない。 それというのは , 本書でもたびたび指摘したように , 人間性そのものから由来す る一定の条件 , 対人関係からくる条件のなかにはわれわれのカではどうすること もできない要素が加わってくるからである。現実の生活では事故や身体の病気も