102 い。それは私にはとても奇妙に思われますし , あの , けているのではないかと思われますが」 「で , そのことがつまり , 私が冷たい人間であり , もしかしたら少し人情が欠 人生を楽しんたり幸福を感 じたりすることができないだろうとする証拠ですか ? 」 「必ずしもそういうわけではありません。でも , もし私があなたと同じように 冷静に客観的に行動するようになったら , 喜びを見出す能力を失いはしないかと 心配なんですよ」 「いや , それはまったく違います。あなたはいま極度の不安と強迫性心理で , このうえなくみじめに感じているわけですね。一方私はといえば , あなたが述べ たとおりものごとにほとんど動かされない , そしてもしもあなたの説明が正しい のなら , 私は不幸をも感じないことは明らかです。それなのにですよ , あなたは もしも私のように平静になったら , 不思議にも , 不幸になるだろうと恐れていま す。あるいは少なくとも喜びを感じる能力を失うだろうと恐れています。そのと おりですね ? 」 「はい。なんとなくそういう気がします」 「本当は , あなたはそういうふうに信じていますといいたいのだと思います。 しかしまだ質問があります。あなたがそう信ずるに足る証拠は何かありますか ? あなたは , 私のように冷静に行動してみようと , たとえ数日間か数週間でも , や ってみた経験がありますか ? そういう実験をやってみて , あなたの満足のいく いやわれわれにいわせてもらえば不満足なのだと思うのだが一一今よ ように りも不幸な感じ , 悪くなる感じを味わうということが証明されましたか ? 」 「いいえ , そういう経験はありません」 「じゃあ , なぜ実験のつもりでやってみようとしないのです ? 結局あなたは , この実験が失敗したところで , 現在のおなじみの状態へはいつでも戻れるではあ りませんか。ともかく , もっと論理的に行動するように心がけ , もしそのために パンチカード・システムのように味けない人間になりはじめた時には , あなたは いつだってありったけの非論理性を再び自分の生活にもちこむことができるでは ありませんか。仮に論理的思考の実験が , 実際にあなたの心配したとおりに動き だすにしても , なにも妥当性がなくなってまで , 冷たく。論理的 ' に行動するとい う契約をするわけではないのですから。しかし , 私のみるところ , あなたは論理
第 4 章感情の起源 31 の思考ーー一一方的な思いこみ , 偏った判断 , 極端な価値評価などから生じるとい うことである。われわれが通常 , 思考と称しているものはつぎのようなものから 成っている。状況に対する比較的冷静な評価 , その多くの要素の客観的な比較 , さらにこの比較を経て到達した何らかの結論など。 思考の過程をひとつの例によって示してみよう。たとえば , 人は 1 片のパンを 観察し , その一部にカビがはえているのを見て , 以前にそのカビを食べて病気に なったのを思いだし , カビのはえた部分を切りおとしてのこりを食べる , といっ た過程のことである。 しかし感情の働きが妥当性を欠いている場合には , 同じ 1 片のパンを見た時 , 前にカビのはえたパンを食べて吐きそうになったいやな経験がよみがえり , を全部捨ててしまってカッカと腹をたてることだろう。 この例におけるように , 感情が働くという場合でも , 結局パンについてあれこ れ考える時とまったく同様の思考が働いているのである。ただこの場合やや違っ た類いの思考ーーーっまり , 偏見があるので , 判断に妥当性を欠き結局むだなこと をしてしまうという場合と同様に , 前回の不快な経験によってゆがんだ考え方を する , ということである。人が。思考する ' という時 , どちらかといえば人は平 静であるから , 人は利用でぎるかぎり最大限の情報ーーっまり , カビの生えたパ ンは不利益をもたらし , カビの生えていないものがよい結果をもたらす一一一を用 いる。ところが・感情的に反応する ' という時には人は興奮しているので , 部分的 な情報ーーカヒ・のはえたパンは不利な性質をもつ一一のみを利用するようになっ てしまうのである。 思考はけっして感情を排除するものではなく , 感情が思考と両立しないわけで もない。思考する時には , 、感情的になっている ' と感じている時よりも , 過去 の経験に左右されることがより少ないということが理解されよう。したがってそ の場合には情報をより多く利用することが可能であり , ひとつの結論を選択する にさいしてもより柔軟性をもってなしうるのである。 に話を限定しているみたいです。これではまるで前の分類など はじめにあなたは人間の活動を知覚 , 運動 , 思考 , 感情の 4 つに区分したのに , 質問 : あなたはもう少し話の脈絡に注意したほうがよいのではないですか ? なかったみたいですね。 ・思考 ' と、感情 '
264 れませんが」 「まったくそのとおりです。あと忘れてならないのは , お母さんのような人の場 合 , 自分がまちがったことをしていても自分ではまちがっているとは夢にも思わ ないということです。馬鹿なことをしている時にはけっして気づかず , あとにな ってやっと気づくのです。結局 , まちがいを続けあげくのはてに自分でその過ち に気づく以外 , そういう人に悟らせる方法が何かあるでしようか ? 」 「いわれてみればそうですね。自分のまちがいに自分で気づく以外に方法はな さそうですね」 「いや , 実際には完全に道が塞がれているわけでもないのです。他人が誤りを 指摘してくれた時に自分のまちがいに気づくことさえできればいいのですから。 しかし他人の指摘に耳をかさない時は , 愚かな行動を続けて , あとになって気づ く以外にどうしようもないのですよ」 「でも , まずまちがった行為を続け , その後になってはじめてまちがいを自覚 するなんて , 人間はなんという回り道をするのでしようね」 「そうですね。でもそれが人間というものです。まず長い間にわたって愚かし い行為を続け , しかるのちにはじめてその愚かしさを知るというわけです。聖人 君子であればまた違うのでしようが , われわれはとても聖人や君子のようなわけ にはいきますまい。まさに , 人とは・過ちをおかす存在 ' とでもいえましよう か。さらにつけ加えるなら , まちがいをおかすことにはメリットもあるし , われ われはまた互いにその過ちを許しあってもいるわけですよ」 「メリットですって ? 」 「ええ , そうですとも。それは何よりもひとつの体験です。しかも貴重な経験 となるものです。もしも人が用心深いばかりで , 誤るおそれのあることをしなか ったらそういう経験はけっして得られないでしようから。伝記などという読み物 も , もしあなたが望むようにりつばなことばかりしている話なら退屈きわまりな いものでしよう」 「きっと , 住みよい世界をつくっていくためにはそんな犠牲が必要ということ かもしれませんね」 「そうかもしれません。でもさらに重要な問題についてお話しますから聞いて ください。もしも , 人びとの過ちを自覚に導くだけでなく非難したり処罰したり
278 「本当にそうでしようか ? 仮にあなたが水泳を恐がっているとしましよう。 でも浅いフ。ールに何回も入って , けっしておぼれる心配などありえないことが分 かったとしましよう。それでも , もしプールに入ったらそれはきわめて不愉快な 経験をするわけたから , もう二度と水に入るものじゃないーーそう思うでしよう か ? それとも , プールに一度でも入ってみれば , それは実際浅いのだし , おぼれ るわけがないんたと自分にいいきかせていたことを体験によって明らかにする一 ーそういうことにはならないでしようか ? 」 「ええ , 水泳についてならですね , 私にたってそれは危険しゃないってすぐ分 かると思うんですよ。でも , 水泳とその , 私の問題が本当に同じなんでしようか ね ? 水泳なら , たしかに一度飛びこんでしまえばいいんですから・・ 。でも女 性のこととなりますとね , やってみようと思うと何たか私にはよく分からないよ うなこみいったことに , つまり考えることと気持と行動とが絡みあってしまって まあそれを突きぬけていかなければいけないんでしようが」 「そういうことですね。でも水泳の場合だって , 上手に泳げるようになるまで には思考と感情と行動の複雑な関係を体験しなければならないのですよ。水に飛 びこむのは要するに最初のステップにすぎません。それから , 感覚を水に慣らさ なければいけないし , 水を飲まないように腕を上手に動かさねばなりません。さ らに泳ぎながら呼吸する方法をマスターしなくてはならない , などいろいろある でしよう。そのプロセスを考えてみると , 会話や散歩 , 運動やダンスの時とは全 然別の , 多種多様な思考や感情や行動を体験するのです。泳ぎの練習をしている 時 , その動作と感情も他ならぬあなたの動作や感情であるわけです。しばらくす ればあなたはそうすることが好きになるでしよう。何週間か何カ月かたって , 上 手にやれるようになってから好きになれるものもあるでしよう。クロールから始 めたので , 最初の平泳ぎが嫌いたったとしても , 平泳ぎを始めて上手になればそ れが好きになることもあるわけです。そして , 平泳ぎを好きになりまた上達する ことが , あなたの ( ま , 水泳にかかわってという意味でですが ) 性格を形づくっ ていくのです。つまり , 最初は性に合わないと思っていたものが , ごく自然なも も , 私が望んでいるわけでもないのに , タミーとキスする気になるにはいったい 「先生の手にかかると何でもとても簡単なことのように聞こえますけどね。で のになっていったりするのです」
論理療法について 325 から女房とうまくいかないのだと洞察しても , じゃあどうすれば母定着がとれる のか , と問われると困るのである。「洞察してもなおらないのはあなたが苦しむ ことによって自己懲罰しているのだ」とか「何かなおりたくない原因があるの ェリスは自分の答えに何か満足できないの だ」とか型通りの説明はしながらも , であった。 その頃パプロフの条件づけ解除法 deconditioning からエリスはひとつのヒン トを得た。つまりパプロフの犬に「肉」と「ベルの音」の同時経験を何回か繰返 すとやがては「ベルの音」だけで唾液を出すのであるが , この犬は「ベルの音」 だけでいっこうに「肉」が出ないことを知るとだんだん唾液を出さなくなる。つ まり条件づけが解除されてしまうのである。 ェリスは人間の場合は「肉」という具体的な報酬のかわりに , 養育者や仲間や 社会一般から与えられることばが摂取され , 各個人はこのことばを自分自身にな げかけていることに気づいた。たとえば「ロ答えはよくない」ということばをと ことばが具 り入れるから , 実際に体罰を受けなくても , ロ答えしないのである。 体的な罰の役目をしている。これは精神分析の超自我を学習論理で説明したにす ぎない感じもするが , ェリスはこれをさらに発展させて , ロ答えしても実際には 罰がないことを体験すれば ( ベルが鳴っても肉が出なければ ) 「ロ答えはよくな い」という内心のささやきが消減するのではないか , と考えた。そこで患者の恐 れていることをわざと実行させ , 実際体験を通して実は何もこわくない ( 罰がな い ) ことを知らしめようとした。 ビリーフ さらにエリスの気づいたことは , 患者の有している信条 ( 摂取されたことばに よる条件づけ ) はきわめて非合理なもので , 科学的根拠や現実性をもたない場合 が多いということであった。たとえば「人に好かれないことはよくないことであ る」という定義は神は愛であるというのと同じようにきわめて任意的でかっ個人 信条めいたものである。人に好かれないのがよいかわるいかは各人各様に定義し うることで , これが絶対だという定義の下しようのないものである。つまり好ぎ ずきの問題である。価値観の問題である。そこでエリスは患者のこの価値観をよ り現実的なもの , より実行可能なものに変えるべく相手を説得することを考えた のである。そして本書で述べるように心の悩みの原因となる非合理的な 10 の価値 観・信条 ( ビリーフ ) を指摘するのである。
246 かるとおり非論理的なことである。 1 ・もしも過去の経験に , 未だに強く影響されるのを免れないならば , それは 過去の経験を , その範囲をこえて , 不当に一般化する , という論理的な誤りをお かすだろう。つまり , あることが特定の状況の下で妥当であるからといって , そ れがすべての状況の下で , やはり妥当である , ということはほとんどないのであ る。かって子供だった時に , 父親が横暴で , 父親の所業に対して闘わざるをえな かったからといって , すべての人が皆 , その父親のように横暴であるわけもな く , 他人を見れば身を守ろうと反応する必要は少しもないはずである。 あるいは , かって母親の専横に抗して立ちあがるには自分が無力すぎたからと いって , けっしていつまでも無力なままの存在でいなければならないはずもな 2 ・過去のできごとの強い影響のままに自分の心を委ねてしまうと , 問題の解 決に際してもっと違った解決法を探求するのをやめてしまうことにつながる。直 面する困難な問題に対して , 可能な解決法がただひとっしかない , ということは きわめて稀なことである。思考を柔軟に保っていれば , すぐに頭に浮かぶ解決法 よりももっと優れた方法がみつかるまで , 人は探しつづけるものである。ところ が , 過去の経験の過大な影響下にとどまっている場合には , その経験に惑わされ て , きわめて不十分な既有の解決策の枠内でしか思考できないことになりがちで ある。 3. ある場合においてはまことに適切な行動が , 別の場合ではまったく不適切 となることもある。とくに子供にあっては , 両親と意見が分かれた時に , 実にさ まざまの解決策を考えたす。たとえば , 自分のいい分を通そうとして泣き叫ぶ , しやがみ込む , かんしやくを起す , などである。ところがこれらの方法は , 長ず れば効果はなくなる。他の大人たちは , この方法をとっても子供でないかぎり何 の反応も示すはずがないからである。つまり , 過去にいくら効果のあった方法で もそれに固執していると , 現在という時点ではまったく通用しなくなっている , ということに気づかされることが多い 4. もしも過去による影響が著しく残っていると , 精神分析学者が転移効果と よぶ現象をあらわすだろう。つまり , 過去において人びとに抱いていた感情を , 現在そばにいる人たちに転移させてしまう , という実に不適切な反応をすること
第 17 章 偏見の生育歴 非論理的思考その 8 過去重視の非論理性 過去一世紀における最も重要な心理学上の発見は , 精神分析学派および条件反 応を重視する学派 ( あるいは行動主義者たち ) によってもたらされたものである が , それが大多数の人びとにとって有害でしかなかったとは , まことに皮肉なこ とである。心理学上の発見とは , 簡単にいえば , 人間は過去の経験によって現在 の生活のあり方に多大な影響を受ける , という考え方である。この考え方は , 部 分的には鋭いところもあって , 人びとが , 私たちのいう「非論理的思考その 8 」 を形成し , 強化するのに大きな助けとなってしまった。「その 8 」とは , 過去の 経験こそ , 決定的に重要であり , しかも過去において人生に大きな影響を与えた できごとは , 今にいたってもその人の感情や行動を決定するものである , という 考え方である。 私の平均的な勤務状況では , 集団療法のため 1 日に約 20 人と面接をしている。 かれらの大半は程度の差こそあれ , 自分が幼児期に受けた影響や往時に形成され た条件づけのために , 今 , 神経症の徴候をはらんだ行動をとっても当然たと考え ている。たとえば 40 歳ぐらいのある端麗な未亡人は私にこんなふうにいった。 「私は男の人たちと一緒だと , 積極的な行動ができないのです。あなたは私にそ うさせるよう努力してくださいますが , 私には以前 , そんなことをした経験がな いんですもの」また , ある若い奥さんの発言は「夫がまたクビになるくらいな ら , 商売で冒険でもして , 5 万ドルくらい失くさせてみたいものです。今までた ってろくな仕事に就けなかったのだから , これからだって満足のいくような職が 見つかるはずがないんですもの」というものだった。さらに , これは 22 歳の青年 であるが , 容姿も人並以上で教育もあり , 才能にも恵まれているというのに 「もし , 今の女友達が自分を捨てたら , 再び自分は二度と んな告白をしてきた。 好ましい恋人を得ることができないだろう」その理由は , 「私は小さい頃から外
34 うが , もっと説明をより明確にするだろうと思う。感情とは , ①まずある種のカ 強い思考である。しかし既成の認識 , 過去の経験によって強く方向づけられた り , 偏向したりしている。②嫌悪や喜びの感情などの生理的な反応。 ( 3 ) 深い思考 およびその結果として一定の感情を惹起するような事件に出会った時に , 肯定的 にせよ否定的にせよ , それに反応して行動をしようとする性向。 別言すれば , 、感情 ' とは一種の力強く活発な思考 , あるいはかなり偏向した思 考を伴っているのである。一方・思考 ' は , どちらかといえば冷静で , 一方に偏 することのない , 思慮深い判断を含んでいる。たとえば , 2 つのリンゴをくらべ る時 , こちらは固すぎるとか , 傷が少ないとかよい色をしているとか , あれこれ 考えて結局こちらがよいと結論をだすわけである。ところが , もしもわれわれが 傷のあるリンゴについて以前楽しい経験があったりすると ( たとえば万聖節の前 夜祭で , うまくリンゴを口でもぎとってごほうびに魅力的な異性にキスしてもら ったなど ) , あるいは傷のないリンゴについて以前に不快な経験があったりする と ( 食べすぎて病気になったなど ) , われわれは興奮して軽率に偏った見方で つまり感情的に一一 - 傷のあるリンゴのほうがいい , こちらを食べよう , と結論を 下すのである。 以上みたように , 思考と感情とは密接に相互関係をもっているのであるが , 思 考はより冷静で , 活動志向的でない面がある。それに対し , 感情は , 冷静という 性質は含まず , 身体により密接に関連し , 活動志向的であるという特徴をもって 自己への語りかけ 質問 : あなたはどんな感情も直接に思考の結果として生じるのだから , いかな る場合でも思考なしでは感情は存在しないと本当に主張するのですか ? 解答 : いいえ , そうは思ってもいないし , いってもいません。短時間なら思考 を伴わないで感情が存在することはあるかもしれません。たとえば , 誰かがあな たのつま先を踏んづけたら , あなたは瞬間的衝動的に腹をたてるでしよう。ある いはあなたはある音楽の一節を耳にして , すぐあたたかい気持になり心が高ぶる のを感じはじめたりするでしよう。あるいはあなたの親しい友人の訃報を聞いた らあなたは気を動転させるでしよう。このような場合にはあなたは , 必ずしもそ
第 19 章受動的な生き方 273 おきながら , 活動することなど少しも面白いものではないとおおまじめに結論を だすのである。かれらはそういう具合につぎからつぎへと自分の生活のなかに存 在する可能性を切りすてていき , 結局何事にも興味を感じられなくなってしまう こういう無感動 , 無関心でいつも退屈している人びとというのは , つねに のた。 不安や敵意で心を動揺させている人びとにくらべてもある意味ではいっそう不幸 だといえるかもしれない。少し前の節でみたように , たとえ不安や敵意ではあっ ても , 後者は少なくとも何か心を集中させるものをもっているといえるからであ る。 7. 仕事の自信というものも , 活動と本質的な関係があるといえよう。自分が やりたいと思うことについて , それができると思うのは , 自分が過去に同じこと をしたことがある , あるいは似たような経験があってできると分かっているから である。自分の足で歩こうとしたことのない少女が , 自分の歩行能力に自信をも つことはありえないだろうし , それは歩くことに限らず , 水泳にしても自動車の 運転にしても , 一定の力を要する類いの仕事については同様であろう。たからと いって , この事実は , われわれがこの社会にあって事業や仕事における成功をめ ざすはげしい欲求を新たに開発されていくケースを否定するものではけっしてな い。実際われわれは , その奔流のなかにいるのだから。したがってまた , われわ れの自尊心や自信なども , 成功へのあくなき欲求から生じた偽りの自尊心であ り , 偽りの自信でしかないことも多い。 ここで , 私 ( A ・エリス ) が『心理療法における理性と感情』『理性による成長』 のなかで説明しておいた考え方を再録しておこう。 " 仕事においても恋愛におい ても自信が得られるのは , 仕事がうまくいったり , 恋愛に成功した経験を通して である。そのことを考えて楽しくなれるのは , 仕事や恋愛を上手に成功させられ るという自信があり , 成功した場合の報酬をめざして努力してみようという気に こで注意を要するのは , 仕事や恋愛における自信と , 自惚れ なる場合である。 を混同しないことである。後者は現実に根拠をもつものでなく , 心のゆがみの兆 候に他ならないからである " もしも「私は学校で ( あるいは職場で ) りつばにやっていく自信がある」という 場合 , それは経験的に証明できる発言である。つまり学校 ( あるいは職場 ) にお いて , 実際にりつばに業績をあげてそれを証してみせることができるからであ
第 9 章絶望的な不幸感 111 生ずる不健全な憂うつや , 怒りの感情 , この両者は区別しなくてはならない。も しもこの前者の感情のところにとどまるほうをとるならば , 愛着のある物あるい は人を失うことによって失望したり悲しんだりすることがあっても , それは理に かなった自然なことといえよう もっともときには , それは痛烈なものではあ ろうが。しかし , かかる損失によって完全に打ちのめされ憂うつになるほうをと る必然性も実はないのである。つまり , 一連の状況が思いどおりに運ばなくても 理性を保ってその範囲内で , 苦悩し煩悶することもできるし , また同様の状況に おいて , 過度に怒り , 気を動転させ , 理性を失ってしまうという場合もあるとい うことである。 非論理的な抽象概念 喪失感あるいは悲しみの感情というものは自分がこうむった損失に対するいわ ば適切な反応であるといえるのに対して , 驚倒し沈滞してしまうということは必 ずしもふさわしい反応ではない。それはつぎに述べる重大な理由によっている。 1. A の段階 ( 刺激として体験する事実 , できごと ) において , いやなことが 起った場合 , 人は C の段階 ( 行動・感情の決定 ) において , 痛みや悲しみを感じ るが , それは B の段階 ( 信念体系 ) において , 自ら私があの人 ( あるいは物 ) を失ってしまったのは不幸なことだ , とかあるいは不利益である , 困ったことだ ' と自己に語りかけるからに他ならない。これは理にかなったことでもあり , 経験 的にも確かめられる論理的な考え方 ()B : ラショナル・ビリーフ ) であるといえ る。というのは , あれこれの物や人を失うことには , 不利益や不幸が必然的に伴 うものであることは ( 生存と幸福を願うという , 基本的な価値体系にてらしてみ ても ) 理解しうるところだからである。このように , もしも友人とか仕事を失っ た時に , この喪失が原因で何がしかのマイナスをこうむることは明らかである。 したがって , この場合・なんて幸運なことだろう / ' などと事態を総括して幸福 感にひたるのは馬鹿げている。 2. 不安や憂うつにとらわれると , それが軽度のものであれ極端に高まったも のであれ , C の段階は決定的な相違をみせる。それらはいずれにせよ , 非論理的 な考え方 ()B : イラショナル・ビリーフ ) , つまり・私は誰それの人 , あるいは あれこれの物をなくしてしまった。これはなんとひどい , 恐ろしいことだろう '