っていいじゃないか 「しかし、異教徒に西瓜を気持ち良く食べさせることを目的として修道院が存在しているわ けではないですからねえ」と O 君が一言う。まあそれもたしかに理屈である。 まんじゅう それからここの修道院にはスーベニア・ショップもある。もちろんなんとか饅頭とか、お 坊さん人形とかいうような修道院グッズを売っているわけではなくて、宗教的な真面目なも のを売っているのだが、それにしてもスーベニア・ショップである。そしてここにはちゃん と電気が通じている。便所には鏡までついている。これまでの修道院には鏡というものがひ 天 外見をいちいち気にしてはいけないという とつもなかったのだ。だから僕は修道院には ような理由でーーー鏡が一切置いてないのだろうと思っていた。でもここにはちゃんとある。 ひげ ほお のぞ 天 ためしに覗いてみると、頬がげそっとこけて、髭がのびている。アトス半島はフィットネス 雨にはうってつけの土地のようである。 ここにはいろいろと由緒ある建物や宝物があるらしいのだが、最初にも断ったように僕は その手のものにはあまり興味がないし、ここの修道院は僕の好みからするといささか大きす これでアト ぎる。適当にぶらぶらと中庭を散歩して、フレスコ画を見るくらいでおしまい。 ス半島に滞在できる三泊を使いはたしてしまった。僕らの心づもりでは半島の南端をぐるり と回るつもりだったのだが、 雨のせいですっかり予定が狂ってしまった。ここから先がいよ いよ秘境だというのに借し、
たんのう 修道院にもけっこう若い人か多く、彼らは総じて語学にも堪能であった。そういう意味では このアトスの地は、日本で考える既成宗教とはまったく意味あいが違う。この地では宗教は 文字どおり生きているのである。同時代的に息づいているのである。 また、この半島では自然がほとんど手つかずの状態で残っている。観光開発業者の手がま しゅんけん ったく入っていないギリシャ国内唯一の土地と言っていいだろう。地形も峻険である。ここ レ には平地というものがほとんど存在しない。山ばかりだ。半島の南にはアトス山という二〇 そび たんがい ワ〇〇メートルの山が聳えている。海岸線は全部断崖絶壁であり、人を寄せつけぬような厳し さを持っている。どこに行くにも自分の足でいちいち山を越えていかなくてはならない。 ア の半島には交通機関というものがまったくと言ってもいし ) ほど存在しないからだ。 の 襯僕は本でアトスのことを読んで以来、どうしてもこの地を一度訪れてみたかった。そこに どんな人がいて、どんな生活をしているのか、この目で実際に見てみたかったのだ。 ス ア そんなわけで、一九八八年の九月の朝、我々はウラノボリから船に乗ってダフニに向かう ことになった。連れはカメラの松村君と、編集の O 君である。松村君と僕とはそのあと車で トルコを一周することになっている。まずこのアトスが手始めである。 O 君はアトスに入る いろんな手続きが面倒なので、ここまで同行してきた。 結果的に一言、つと、これはけっこ、つハ ードな旅になった。僕はハ ードな旅がけっして嫌いな きら
雨天炎天 まずはウラノボリから船に乗る。 アトス半島に向かう巡礼の旅はそこから始まって、そこで終わることになる。そこから出 もし戻る気があるとすればだがーー戻ることになる。 て、そこに ウラノボリはアトス半島のつけねにある、海辺の小さなリゾート・タウンである。船は朝 の七時四十五分にここの港を出る。一日それ一便だけである。だからなるべくなら前日のう ちにここに着いてホテルに一泊して、ゆっくり朝ごはんを食べて、余裕を持って乗船するの が良策であると言えるかもしれない。その便に乗り遅れると翌朝まで二十四時間このウラノ くぎ ポリの町に釘づけにされるという、かなり深刻な状況に直面することになるからだ ( 我々は 実際に直面した ) 。 ウラノボリからダフニまでは船で約二時間かかる。甲板に寝転んでのんびり日光浴でもし その二時間ほどの航海によって世界ははっきりと、ふたつの ているにはほどよい時間だが、 『さよならリアル・ワールド』
『アトスとはどのような世界であるのか』 アトスを旅する前に我々が知っておかなくてはならないことかいくつかある。その中でも いちばん基本的なことーー、それはアトス半島がまるつきり別の世界である、という事実であ 天る。アトスはこちらがわの世界とはまったく違った原則によって機能している世界なのであ る。その原則とはつまりギリシャ正教である。この土地はギリシャ正教の聖地であり、人々 炎 は神に近づくためにここを訪れるのである。だからこそ、この土地はギリシャの国内にあり 天 ながら、宗教的聖地として完全な自治を政府から認められているわけである。 アトスの地を治めてきた法は、どのような世俗の法や憲法よりも古く、そして強い。 東ロ ーマの皇帝がこの地を治め、ついでトルコ人が治め、そしてギリシャ政府が治めた。でもど みじん のような政治体制下にあっても、アトスの宗教的共同体としての体制は微塵もゆるがなかっ た。それがアトスである。 アトス半島には現在のところ二十の修道院が存在し、約二千人の僧がそこで厳しい修行を 積んでいる。彼らは修道院が創設されたビザンティン時代とほとんど変わらない質素な自給 自足の生活をつづけながら、神に近づかんがために日夜祈りつづけている。彼らはとてもシ
りつけるだろうと我々は計算した。 でも我々はその時点ではよく知らなかったのだ。アトス半島の南東部では天候なんてとて も計算できないのだということを。 どうしてこんなにこの土地の天気が変わりやすいのか、僕にはよくわからない。あるいは アトス山という二〇〇〇メートル級の高い山の存在が、気象を大きく狂わせやすくしている のかもしれない とにかくここでは、今晴れていると思っても、あっという間に山に雲か珈 天かり、あっという間に激しい雨が降り出すのだ。それも半島北部よりは南部、西部よりは東 部のほうか、天候が激変しやすい。そのことを知らないとひどい目にあうことになる。ここ は気象という点ではまったくギリシャ的ではない土地なのだ。 天 でも我々はそんなこと全然知らなかった。どのガイドブックも、アトスの気候のことまで 雨は触れていなかった。だから我々は不注意にも傘さえ持ってこなかったのだ。簡単なレイン コートを持ってきただけだった。僕なんかうつかりして、ウインド、フレーカーしか持ってこ なかった。不注意といえばたしかにそのとおりだ。でも九月の初めのギリシャに傘を持って いくなんて、誰に考えつけるだろう ? アトス以外の地では雨なんて本当に一滴も降ってな いのだ。 とにかくフイロセウに向けて一時間近く歩いたところで、雨がさあざあと降りはじめた。 ズボンも靴も靴下も、なにもかもかぐしょぐしょになってしま、つよ、つなひどい雨だった。山 かさ
でもとにかく南端のカフソカリヴィアのスキテ ( 小修道院 ) まで行って、そこから船に乗 ってダフニに戻ることにする。そうすれば一応半島の南端まではたどりついたことになる。 グランデ・ラヴラから先にはーーーっまりアトス山を迂回した向こ、つにはとい、つことになるか もう正式な修道院はひとつも存在しない。そこにあるのはもっと小さくてタフな、いう なれば修道院現地出張所のようなものである。これらの出張所には何種類かあって、大きい 順にスキテ、ケリョン、カリヴェ、カティスマ、ヘシハステリオンと呼ばれる。修道院には ワそれぞれに定員が決まっていて、人数が定員を越えると、余った僧は修道院を出て、それら の出張所にまわされることになる。一番大きなスキテは修道院の規模を小さくして、もう少 ア し統一性を弱めたような感じのものだが、最後のヘシハステリオンともなると、これはもう の ど・つくっ たれ 完全な隠者の小屋である。彼らは人里離れた荒地や山中や洞窟に小屋を建て、そこで誰に邪 魔されることもなく、宗教的な孤独な生活を送っている。いわば武闘派の、ダイハードな修 ス ト道僧である。そして彼らの多くはこのグランデ・ラヴラの先の半島の南端に住んでいるので ある。だから僕としては、アトスに来たからにはどうしてもそのディープ・サウスまでは行 ってみたかったのだ。 僕らは朝早くグランデ・ラヴラの修道院を出発する。ありがたいことに好天である。雲ひ とつない 。ここから先の道はだんだん、そしてやがて圧倒的に悪くなる。道の大方は人がひ
雨天炎天 いうあたりである。修道院の僧は宗教的な義務の他にいろんな日常的労働を割当てられてい るが、巡礼の接待をするのもそんな労働のひとつで、係の僧がちゃんときまっている。彼ら が訪問者に茶菓を出したり、べッドの支度をしたりしてくれるわけだ。これは無料である。 半島に入る時に一人二千円ほどの金をカリエのオフィスで納めるが、それだけで全部カバー される。 もっともイヴィロンは大きな修道院であり ( 半島の二十の修道院の中で三番めに大きい ) 、 カリエからも近く、そのせいで巡礼も多い。だからここのアルホンダイでは修道院に雇われ た普通のおじさんが僧のかわりに実際的な仕事をしている。もちろん僧も何人かは働いてい るが、あまりに仕事が多くて、彼らの手だけではとてもまかないきれないのだろう。ここの じよ・つさい 修道院も海岸沿いにあって、やはり城塞のような格好をしている。壁は高く、窓は少なく、 とびら 二重になった扉は厚く重い。映画の『薔薇の名前』の修道院を思い出していただければかな り近いと思、つ。 ここのアルホンダイに行くと、例によって、ルクミとウゾーとたつぶりと甘いギリシャ・ コーヒーが出てくる。僕はまたルクミを半分だけ食べる。 アルホンダイ手伝いのおじさんが僕らを部屋に案内してくれる。板ばりの狭い質素な部屋 に、これもまた質素なべッドが六個並んでいる。窓がひとつついていて、ここからは修道院 せいたく の畑と裏の山が見える。オーシャン・ビューだといいのになと思うか、まあ贅沢は言えない
院から選挙で選ばれた僧侶がここに集まって「教会評議会」を構成し、半島全体についての 様々なとりきめをする。この制度は修道院が創設された時代から殆ど変わることなくすっと 続いている。原理としては、とても民主的なのである。 我々はここで無事許可証を受け取る。そしてやっとここから修道院巡りの旅に乗り出すわ けである。少しずつ時間が予定より遅れたせいで、時刻はもう三時になっている。それほど レ 遠くまでは進めないだろう。今夜どこで泊まるかを前もってきちんと決めておかなくてはな ワらない というのは、各修道院は日没と同時に門を閉ざしてしまうし、一度閉ざされた門は レ 朝までは絶対に開かない。千年以上前にそう決められてしまっているのだ。だからいくらど ア んどんと門を叩いても、絶対に開けてはくれない。 もし日没までに修道院の門にたどりつけ の 神ないと、僕らはその辺で野宿をしなくてはならなくなる。この地には修道院以外に泊まれる 場所はひとっとしてないのだ。 ス 今はまだ夏だから、野宿したってかまわない、 と一一一口うこともできる。食料も沢山ではない ア にせよ、飢え死にしないくらいは用意している。でも問題は動物である。このアトスの半島 には狼が出るのだ。少なくとも僕らは最初にそう注意されていた。夜になったら狼が出ると。 それくらい自然が手つかずで保存されているということであるわけだが、いずれにせよ僕と しては狼が出るような土地でわざわざ野宿したいとは思わない。だからきちんと地図を見て、 5 行程と所要時間を明確にしておかなくてはならないわけだ。 おおかみ
幻鐘楼があり、またいくつか雑貨屋がある。ここにもまた大と猫がいる。人影もまばらである。 かはん 鞄や袋のようなものを下げた僧侶が何人かひなたばっこをしているだけだ。僕を見ると、歳 をとった僧侶がやってきて、どこから来なさったかと訊いた。日本だと僕が一言うと、あんた ししえ、違いますと僕が答えると、宗教は何かと訊く。仕方ないから仏 は正教徒かと訊く。 ) 、 「日本には正 教徒だと答える。無宗教なんて答えるとアトス半島から放り出されかねない。 教の教会はあるかね ? と彼は訊く。「ある」と僕が一言うと ( 神田のニコライ教会がそうで ほほえ ある ) 、彼は満足したようににつこり微笑んだ。日本という国もそれほど救いのない国では 天 ないと思ったのだろう。 この会話はアトス半島を旅しているあいだ、十回以上繰り返されたと思う。ほとんど一語 天 一句ちがわずに、そのままの順番で繰り返されたのだ。どこから来た ? 正教徒か ? 日本 雨に正教の教会はあるか ? 要するに、彼らにとっては宗教が、ギリシャ正教が、世界の中心 であり、自己存在の中心であり、思考の領域の中心なのだ。それが彼らにとってのリアル・ ワールドなのだ。彼らの関心はそこに始まって、そこに終わるのだ。彼らは僕らとは全然違 った人々なのだ。 このカリエの町の本部事務局とでも一言うべきオフィスで、我々は滞在許可証をもらう。ア トスの地は二十の修道院の教区に区切られて自治の中の自治とでも一言うべき独立性を保って いるか、ここカリエの町だけは例外で、いわば特別区のような感じで存在している。各修道
ウラノホー テッサ / トス島 。ケ海 ギリシャ。 カリエ ダフニ ギリシャ アトス半島 ーカル修道院 ロセウ修道院 イロン修道院 タウロニキタ修道院 : イオニスウ修道院 / ィー -. △アトス山 . 印 33E アキア・アンナ・ ラ修道院 ープ、、ム小修道院 ノカリウィア小修道院 3 km