『兵隊』 トルコは兵隊の多い国である。戦時体制下の国を別にすれば、これくらい兵隊を数多く見 天 かける国はあまりないんじゃなかろうか。それから兵隊だけでなく警官の数も多い。とにか 炎 く制服を着た人間がやたらと多い。基地の数も多いし、町をうろついている兵隊の数も多い 天 そしてトルコでは兵隊と警官の写真を撮るのは厳禁である。だから町の風景を撮ろうと思 雨っても、原則的に言えばまずそこに兵隊と警官がいないことを確かめてからでなくてはなら ない。そうしないと警察なり憲兵隊なりに「ちょっと来い」とひつばられて取り調べを受け、 フィルムをひっこ抜かれることになる。こっちに兵隊や警官を写したというつもりがまった むた くなくても、結果的にその姿が写っていれば、嫌な目にあうことになる。時間も無駄だし、 気分だって悪い。我々もイスタンプールの町で一度そういう目にあった。彼らは真剣なので ある。 まあ他人の国のことだし、それなりの事情もあるのだろうから、旅行者の目で物を見て単
天 船かダフニの港に着く。遠くから見ると、それはどこにでもあるごく普通のギリシャの港 のように見える。でも近づくにつれて、そこには普通ではない点かいくつか散見されるよう 天 になってくる。まずだいいちに男しかいない。女人禁制の地であるから、これは当然といえ 雨ば当然のことなのだが、実際に女がひとりもいない光景を前にすると、やはりそれなりの感 慨というものがある。港のまわりには百人くらいの人間が集まっているが、全員みごとに男 ほうず である。そして、その半数以上が坊主である。だから全体的な光景は非常に黒々としている。 しよいよここからか聖域とい、つわけだ。 それから、夏のギリシャにしてはきわめて異例なことだが、いわゆる観光客らしきものの かつぶく 、。癶口一口田の、、 し中年のドイツ人夫婦もいないし、カナダの国旗を縫いつけた 姿が見あたらなし もちろん旅行者らしき人々はけっこういる ( 彼らは三十 クパッカーもいない お気楽なバッ ほうではないけれど、それにしてもこれはかなりのものだったと思う。道はあくまで険しく、 天候はあくまで厳しく、食事はあくまで粗食であった。 でもとにかく順番を追って行こう。まずはアトスの入り口、ダフニである。 『ダフニからカリエへ』
カラデニズーーートルコ語で文字どおり「黒い海」である。エーゲ海が「白い海」と呼ばれ るのとは対照的に、黒海はあくまで「黒い海」なのだ。 天何故黒い海と呼ばれるのかは、実際に行って見てみればわかる。それはあらゆる意味で黒 い海なのだ。そこには鮮やかに降り注ぐ地中海の陽光はない。僕らが訪れたのはまだ九月の 炎 半ばだったが、 既に秋の光が満ちていた。美しく、くつきり澄んでいるが、サングラスを必 天 要としない静かで穏やかな光だった。 光だけではなく、海そのものも穏やかで静かだった。波もなく、海というよりは巨大な湖 のように見えた。海岸には砂浜と一言えるほどの砂浜はない。あるのは黒い小石を敷きつめた 海岸線である。海岸には水が音もなく、ひたひたと寄せている。遠くを漁船が通り過ぎると、 ふと思い出したように柔らかく海面が揺れる。そしてやがてまたそれはびたりと静まりかえ る。水は透明である。エーゲ海の目を射すような鮮やかな青さはそこにはない。ただ透明な のだ。黒い小石の浜がその透明さの底にたぐりよせられるようにもぐりこみ、水面に映える 光の中にいっともなく消えていく。 120 なせ 『黒海』
『アトスとはどのような世界であるのか』 アトスを旅する前に我々が知っておかなくてはならないことかいくつかある。その中でも いちばん基本的なことーー、それはアトス半島がまるつきり別の世界である、という事実であ 天る。アトスはこちらがわの世界とはまったく違った原則によって機能している世界なのであ る。その原則とはつまりギリシャ正教である。この土地はギリシャ正教の聖地であり、人々 炎 は神に近づくためにここを訪れるのである。だからこそ、この土地はギリシャの国内にあり 天 ながら、宗教的聖地として完全な自治を政府から認められているわけである。 アトスの地を治めてきた法は、どのような世俗の法や憲法よりも古く、そして強い。 東ロ ーマの皇帝がこの地を治め、ついでトルコ人が治め、そしてギリシャ政府が治めた。でもど みじん のような政治体制下にあっても、アトスの宗教的共同体としての体制は微塵もゆるがなかっ た。それがアトスである。 アトス半島には現在のところ二十の修道院が存在し、約二千人の僧がそこで厳しい修行を 積んでいる。彼らは修道院が創設されたビザンティン時代とほとんど変わらない質素な自給 自足の生活をつづけながら、神に近づかんがために日夜祈りつづけている。彼らはとてもシ
天 炎 天 僕が最初にトルコの地に足を踏みいれたのは七年ばかり前の夏のことだった。その時僕が 雨行ったのは、クシャダシだった。エーゲ海に面したトルコの港街である。そこからバスに乗 って、有名なエフェソスの遺跡を見にいった。ひどく暑い日だった。バスにはエアコンがっ していなくて、僕らは汗をかきつづけていた。「我が国は現在石油が足りない。だからバス のエアコンは禁止されている。諸氏もその辺の事情を理解し、よろしく我漫していただきた いとガイドの男が僕らに説明した。まだ石油ショックの余波が続いている時代だった。で も理解はできても、とにかく暑かった。頭がばうっとするくらいだった。遺跡を見たあと海 岸で少し泳いだ。そしてそのまま、トルコでは泊まらずにギリシャに戻ってきた。 112 も、やはりこのあつあつのチャイが不思議に美味いのだ。あまり冷たいものを飲みたいとい 日陰に入ってふっと息をついて、温かいチャイを飲む。 う気にはならない。 チャイはもちろんもともとはただの紅茶であるわけだが、でも不思議にチャイはチャイで あって紅茶ではないのだ。どうしてかはわからない。チャイはチャイの味がして、紅茶は紅 茶の味がするのだ。 『トルコ』
う。明日はなるべく早くアギア・アンナに向けて退散することにしよう。 『アギア・アンナ。ーーさらばアトス』 夕食のあと他にやることもないので、アトスの歴史について書かれた本を出し、べッドに 天寝転んでカフソカリヴィアの成り立ちについて調べてみた。それによると、このカフソカリ ヴィアのスキテは四十のカリヴェ ( 小人数で家族のように暮らす小修道院 ) の集合によって成立 ひとぎら 炎 している。この地に最初に住みついたのはマクシモスという名の隠者だった。この人は人嫌 いおり 天 いというか、かなり本格的に偏屈な隠者であったらしい。最初は海の近くに庵を建ててたっ 雨た一人の隠者生活を楽しんでいたのだが、他の僧がやってきて近くに家を建てはじめると、 修行の邪魔になるからといって自分の住んでいた小屋をさっさと焼き払って、崖の上に上に と移動していったのだそうである。あるいは短気な人だったのかもしれない。引き払うだけ にとどまらず焼き払うというあたりか過激である。とにかくそんなわけで、こういう崖に添 った奇妙な地形の町ができあがったようである。町の成立事情そのものが偏屈なのである。 そしてこの偏屈さが今でもこの町の性格としてしつかり土地にしみついて残っているように 僕には感じられる。
っていいじゃないか 「しかし、異教徒に西瓜を気持ち良く食べさせることを目的として修道院が存在しているわ けではないですからねえ」と O 君が一言う。まあそれもたしかに理屈である。 まんじゅう それからここの修道院にはスーベニア・ショップもある。もちろんなんとか饅頭とか、お 坊さん人形とかいうような修道院グッズを売っているわけではなくて、宗教的な真面目なも のを売っているのだが、それにしてもスーベニア・ショップである。そしてここにはちゃん と電気が通じている。便所には鏡までついている。これまでの修道院には鏡というものがひ 天 外見をいちいち気にしてはいけないという とつもなかったのだ。だから僕は修道院には ような理由でーーー鏡が一切置いてないのだろうと思っていた。でもここにはちゃんとある。 ひげ ほお のぞ 天 ためしに覗いてみると、頬がげそっとこけて、髭がのびている。アトス半島はフィットネス 雨にはうってつけの土地のようである。 ここにはいろいろと由緒ある建物や宝物があるらしいのだが、最初にも断ったように僕は その手のものにはあまり興味がないし、ここの修道院は僕の好みからするといささか大きす これでアト ぎる。適当にぶらぶらと中庭を散歩して、フレスコ画を見るくらいでおしまい。 ス半島に滞在できる三泊を使いはたしてしまった。僕らの心づもりでは半島の南端をぐるり と回るつもりだったのだが、 雨のせいですっかり予定が狂ってしまった。ここから先がいよ いよ秘境だというのに借し、
同じひとつの宗教で、おまけにこんな狭い半島の中なのに、どうしてこれほどの僧衣の差 が存在するのか、僕にはよく理解できない 綺麗・汚いだけではなく、ラーソの色ひとっとってもみんな見事に違っている。淡い灰色 そろ から、濃い紫、真っ黒まで、ありとあらゆる色が、これもグラデーション的に揃っている。 修道院によってそれぞれ色が違うのか、それとも位や役職で違ってくるのか、それも僕には 判じかねる。そして僧侶のあいだにも貧富の差やら、おしゃれな人やおしゃれじゃない人や ら、あるいは武闘派やリべラルやらがいるのだろうか ? でもそんなこといちいち考えても 天 しかたないから、まあそういうものなのだと思ってなんとなく納得して済ませてしまう。 炎 そういうものなのだ。 天 ( でもこれもあとになってわかったことなのだが、彼らは実際にひとりひとり違うのである。 雨彼らはそれぞれの属する場所によって、あるいは生き方によって、まったく異なっているの である。そのようにアトスとは、自分の生き方とやり方を選べる場所なのである。だから彼 らがそれぞれに違う格好をしているのも当然のことなのである ) ダフニの港に下りるとまずパスポート・コントロールのようなところがある。ここでパス ポートを預け、次に首都カリエに行く。カリエにはアトス山の事務局のようなところかあっ て、ここで入国審査があり、審査のあとで滞在許可証を与えられる。この許可証がないとア 、。けっこう厳しいのである。 トスの山を歩きまわることはできなし
指して南下しているわけだ。よりワイルドなエリアを目指して。 『カラカル修道院』 次なる目的地カラカル修道院までは一時間ほどの楽な道のりである。我々は山を下って、 天また海辺に下りる。カラカルの門に到着したのは夕方の五時すぎだった。今日はもうここに 泊まるしかない カラカルではコーヒーとバニラ水が出てくる。バニラ水というのは、グラスの水の中にご 天 ほっとバニラの塊りを入れたものである。バニラが水に溶けて甘くなっている。まず水を飲 雨 み、それからスプーンでバニラをすくって食べる。これはもうとにかくべらほうに甘い。僕 にはとても手がでない。蜂が匂いを嗅ぎつけて飛んできて、グラスの縁にとまってペろペろ と水を舐める。それくらい甘いのだ。 ノニラ水とコーヒーを運んできてくれたのはマシューという名の若い僧侶だった。 我々にヾ 大学の非常勤講師のような眼鏡をかけて、黒々と髭をはやした、いかにも真面目そうな学究 ふ・つば・つ 的風貌の男である。あとで年齢を訊いてみると、二十八ということだった。かなりきちんと した英語を話す。僕らが例によって仏教徒だと言うと、仏教の教理について詳しく知りたが はち
・つそ ( というよりは羊飼いの少年に嘘の道を教えられて ) この村に来てしまったのだ。どうして 彼らがそんなに必死に煙草をほしがるのか、よくわからない。でもとにかく、トルコに行く ならマルポロを持っていかれることを僕は忠告する。 『国道号線の悪夢』 天 国道幻号線はイラク国境の町ジズレから、シリア国境に沿ってまっすぐ西に向かって延び 炎 ている産業道路である。地中海に達して、そこから北に向かう。この道路の目的はイラクか 天 ら輸入した石油をトラックで北部に運ぶことにある。またの名を『ディッカト街道』。そこ ほとん 雨を通行する自動車の殆どが大型の石油輸送車で、後ろに大きく「ディッカト ! ( 注意 ! ) 」と 書いてあるからである。そしてその隣には不気味な骸骨のマークがペイントしてある。 我々が東部アナトリアのほこりだらけの山道をほうほうのていで脱出してやっとたどりつ いた舗装道路が、じつにこの『ディッカト街道』であったのだ。まさに一難去って : : : とい うやつである。トルコ内陸の旅はなかなか楽をさせてくれない 号線は道路自体としてみれば、まともな道路である。舗装もしてあるし、陥没もしてな 、し、殆どまっすぐだし、クルド人の武装ゲリラもいない。ただこの号線のいちばんの門