「でも。ハスツールは違うの。彼の頭の中にあるのは < イコール O 、それだけなのよ。証明なんて 何もないのね。でも彼の理論の正しかったことは歴史が証日 月したし、彼は生涯に数え切れないく らいの貴重な発見をしたわ。」 「種痘。」 彼女はワイン・グラスをテープルの上に置き、あきれた顔で僕を見た。 「ねえ、種痘はジェンナーでしょ ? よく大学に入れたわね。 「 : : : 狂大病の抗体、それに減温殺菌、かな。」 「正解。」 彼女は歯を見せすに得意そうに笑ってからグラスのワインを飲み干し、新しく自分で注い 「テレビの討論会ではそういった能力を科学的直感カって呼んでいたの。あなたにはある ? 」 「殆んど無いな。 」田じ、つ ? ・ 「あればいい を の「何かの役には立つかもしれないな。女の子と寝る時に使えるかもしれない。 風 彼女は笑って台所 ! こ行き、シチュー鍋とサラダ・ポールとロールバンを持って戻ってきた。 ) つばいに開けた窓から凉しい風がやっと少しすっ入ってきた。
「少しすつね。 「何故進化するの ? 」 「それにもいろんな意見がある。ただ確実なことは字宙自体が進化してるってことなんだ。そこ に何らかの方向性や意志が介在してるかどうかってことは別にしても宇宙は進化してるし、結局 のところ僕たちはその一部にすぎないんだ。」僕はウイスキー・グラスを置いて煙草に火を点け 「そのエネルギーが何処から来ているのかは誰にもわからない。」 「そう ? 」 「そう。 彼女はグラスの氷を指先でくるくると回しながら白いテープル・クロスをじっと眺めていた。 「ねえ、私が死んで百年もたてば、誰も私の存在なんか覚えてないわね。 「だろうね。」と僕は言った。 を の店を出て、僕たちは不思議なくらい鮮明なタ暮の中を、静かな倉庫街に沿ってゆっくりと歩い た。並んで歩くと、彼女の髪のヘャー・丿 ンスの匂いが微かに感じられる。柳の葉を揺らせる風 Ⅷは、はんの少しだけれど夏の終りを思わせた。しばらく歩いてから、彼女は指が 5 本ついた方の
・エールをかきまわし続けた。 彼女はストローの先でジンジャー 「でも私の家の方がすっと貧乏だったわ。」 「何故わかる ? 」 「匂いよ。金持ちが金持ちを嗅ぎわけられるように、貧乏な人間には貧乏な人間を嗅ぎわけるこ とができるのよ。」 ジェイの持ってきたビールを僕はグラスに注い 「両親は何処に居る ? 」 「話したくないわ。 「どうして ? 」 「立派な人間は自分の家のゴタゴタなんて他人に話したりしないわ。そうでしょ ? 」 「君は立派な人間 ? 秒間、彼女は考えた。 を「そうなりたいとは田 5 ってるわ。かなり真剣にね。誰だってそうでしょ ? 」 の業はそれには答えないことにした。 風 「でも話した方がいい 「何故 ? 」 僕はそう言った。
108 スに小銭を入れて何曲かを選び、カウンターに戻ってビールを飲んだ。 川分ばかりして、ジェイがもう一度僕の前にやってきた。 「わえ、鼠はあんたに何も言わなかった ? 「変だね。 「そう ? ジェイは手にしたグラスを何度も磨きながら考えこんだ。 「きっとあんたに相談したがっているはすだよ。 「何故しない ? 「しづらいのさ。馬鹿にされそうな気がしてね。 「馬鹿になんかしないよ。 「そんな風に見えるのさ。昔からそんな気がしたよ。優しい子なのにね、あんたにはなんていう : 別に悪く言ってるんしゃない。 か、どっかに唐り切ったような部分があるよ。 「わかってるよ。」 「ただね、あたしはあんたよりも年上だし、その分だけいろんな嫌な目にもあってる。だから、 これはなんていうカ :
「全くないと言えば嘘ね。でも他の女の子が首の太いのやすね毛の濃いのを気にするのと同じ程 度よ。」 僕は亠冂いた。 「あなたは何してるの ? 」 「大学に通ってる。東京のね。 「帰省中なのね。 「そう。」 「何を勉強してるの ? 」 「生物学。動物が好きなんだ。 「私も好きよ。」 僕はグラスに残ったビールを飲み干し、フライド・ポテトを幾つかつまんだ。 インドのバガルプールに居た有名な豹は 3 年間に 3 5 0 人ものインド人を食い殺し ナ「ねえ : 「そう ? 」 風 「そして豹退治に呼ばれたイギリス人のジム・コルヴェット大佐はその豹も含めて 8 年間に 12 5 匹の豹と虎を撃ち殺した。それでも動物が好き ?
「第一に、どうせいっかは誰かに話すことになるし、第二に僕ならそのことについて誰にもしゃ べらない 彼女は笑って煙草に火を点け、煙を 3 回吐き出す間、黙ってカウンターの羽目板の木目を眺め ていた。 「お父さんは五年前に脳腫瘍で死んだの。ひどかったわ。丸一一年苦しんでね。私たちはそれでお 金を使い果したのよ。きれいさつばり何もなし。おまけに家族はクタクタになって空中分解。よ くある話よ。そうでしょ ? 」 僕は肯いた。「お母さんは ? 」 「何処かで生きてるわ。年賀状が来るもの。」 「好きじゃないみたいだわ。 「そうわ。」 「兄弟は ? 」 「双子の妹がいるの。それだけ。」 「何処に居る ? 」 「三万光年くらい遠くよ。」 彼女はそ、つ一「ロってしま、つと神経質そ、つに笑い、ジンジャー ・エールのグラスを脇に押しやっ
電話のベルが鳴った。 大粒のタ立が 僕は籐椅子の上で半分眠りながら、開いたままの本をばんやりと眺めていた。 やってきて庭の木々の葉を湿らせ、そして立ち去った。雨が通リ過ぎた後には海の匂いのする つはい南風が吹き始め、べランダに並んだ鉢植の観葉植物の葉を微かに揺らせ、そしてカーテ ンを揺らせた。 「もしもし、、と女が言った。それはまるで安定の悪いテープルに薄いグラスをそっと載せるよ うなしゃべり方だった。「私のことを覚えてる ? 」 僕は少し考える振りをした。 を「レコード の売れ具合はどう ? 」 の 「たいして良くないわ。・ : ・ : 不景気なのね、きっと。誰もレコードなんて聴かないのよ。」 風 彼女は受話器の縁を爪でコッコッと叩いこ。 8
「自分で調べてみりやい、。 「どうやって ? 」 彼女は確かに真剣に腹を立てているようだった。 「誓うよ。」 「信じられないわ。」 「信じるしかないさ。」僕はそう一言った。そして嫌な気持になった。 彼女はそれ以上しゃべるのをあきらめて僕を部屋の外に放り出し、自分も外に出てドアをロッ クした。 僕たちは一一一口もしゃべらすに、 ヘロ、のアスファルト道を車の停めてある空地まで歩いた 僕かフロント・グラスのはこりをティッシュ ーで拭き取っている間、彼女は疑わしそ うに車のまわりをゆっくり歩いて一周してから、ポンネットに白ペンキで大きく描かれた牛の顔 をしばらくじっと眺めた。牛は大きな鼻輪をつけ、ロに白いバラを一輪くわえて笑っていた。ひ どく下卑た笑い方だった。 「あなたが描いたの ? 」 「いや、前の持ち主さ。」
「うん。 もあるだろう ? 」 「さあね ? 」 「俺は御免だわ、そんな小説は。反吐が出る。」 僕は肯いた。 「俺ならもっと全然違った小説を書くね。」 「例えば ? 」 鼠はビール・グラスの縁を指先でいしりまわしながら考えた。 「こんなのはどうだい ? 俺の乗っていた船が太平洋のまん中で沈没するのさ。そこで俺は浮輪 につかまって星を見ながら一人っきりで夜の海を漂っている。静かな、綺麗な夜さ。するとね、 向うの方からこれも浮輪につかまった若い女が泳いでくるんだな。」 「いい女かい ? 」 「そりやね。」 僕はビールを一口飲んで頭を振った。 「なんだか馬鹿げてるよ。」 「まあ聞けよ。それから俺たち二人は隣り合って海に浮かんだまま世間話をするのさ。来し方行 : 信じられるかい ? 何故そんなことまで小説に圭日く ? 他に圭日くべきことは幾らで
彼女は笑って、レコードをマービン・ゲイに替えた。時計は 8 時に近くを指している。 「今日は靴を磨かなくていいの ? 」 「夜中に磨くさ。歯と一緒にわ。」 彼女はテープルに細い両肘をつき、その上に気持良さそうに顎を載せたまま僕の目をのぞきこ むようにしてしゃべった。そしてそれは僕をひどくどぎまぎさせた。僕は煙草に火を点けたり窓 の外を眺める振りをして何度か目をそらせようとしたが、その度に彼女は余計におかしそうに僕 を眺めた 「わえ、信してもいいわよ。」 「何を ? 」 「あなたがこの間、私に何もしなかったことよ。」 「何故そう思う ? 「聞きたい ? 「いや。」と僕は言った。 「そう一言うと思ったわ。」彼女はクスクス笑って僕のグラスにワインを注いで、それから何かを 考えるように暗い窓を眺めた 「時々わ、誰にも迷或 ) をかけないで生きていけたらどんなに素敵だろうって思うわ。できると思