ノ ートフィールドに学んだ。殆んど全部、というべきかも 僕は文章についての多くをデレク・ ートフィールド自身は全ての意味で不毛な作家であった。読めばわか しれない。不幸なことにハ ーは出鱈目であり、テーマは稚拙だった。しかしそれにもかかわ る。文章は読み辛く、ストーリ らす、彼は文章を武器として闘うことができる数少ない非凡な作家の一人でもあった。ヘミング ートフィールドのそ ウェイ、フィッジェラルド、そういった彼の同時代人の作家に伍しても、 の戦闘的な姿勢は決して劣るものではないだろう、と僕は田 5 う。ただ残念なことに彼ハ フィールドには最後まで自分の闘う相手の姿を明確に捉えることはできなかった。結局のとこ ろ、不毛であるということはそういったものなのだ。 8 年と 2 カ月、彼はその不毛な闘いを続けそして死んだ。 1938 年 6 月のある晴れた日曜日 ナの朝、右手にヒットラーの肖像画を抱え、左手に傘をさしたままエンパイア・ステート・ビルの を屋上から飛び下りたのだ。彼が生きていたことと同様、死んだこともたいした話題にはならな のかった。 風 9 僕が絶版になったままのハ ☆ ートフィールドの最初の一冊を偶然手に入れたのは股の間にひどい
154 ☆ 業まアメリカに度っこ。、 何年か後、イー ートフィールドの墓を尋ねるだけの短かい旅だ。墓の場 所は熱心な ( そして唯一の ) ートフィールド研究家であるトマス・マックリュア氏が手紙で教 えてくれた。「ハイヒールの踵くらいの小さな墓です。見落とさないようにね。」と彼は書いてい ニューヨークから巨大な棺桶のようなグレイハウンド・バスに乗り、オハイオ州のその小さな 町に着いたのは朝の 7 時であった。僕以外にその町で下りた客は誰ひとり居なかった。町の外れ の草原を越えたところに墓地はあった。町よりも広い墓地だ。僕の頭上では何羽もの雲雀がぐる フライト・ソング ぐると円を描きながら舞い唄を唄っていた。 たつぶり一時間かけて僕はハ ートフィールドの墓を捜し出した。まわりの草原で摘んだ埃つは い野バラを捧げてから墓にむかって手を合わせ、腰を下ろして煙草を吸った。五月の柔らかな日 ざしの下では、生も死も同しくらい安らかなように感しられた。業は仰司けになって眼を閉し、 何時間も雲雀の唄を聴き続けた。 この小説はそういった場所から始まった。そして何処に迪り着いたのかは僕にもわからない 「宇宙の複雑さに比べれば」とハ ートフィールドは言っている。「この我々の世界などミミズの
もしデレク・ ートフィールドという作家に出会わなければ小説なんて圭日かなかったろう、と まで一一一口、つつもりはな、 けれど、僕の進んだ道が今とはすっかり違ったものになっていたことも 確かだと思う。 ートフィールドのペ 高校生の頃、神戸の古本屋で外国船員の置いていったらしい ックスを何冊かまとめて買ったことがある。一冊が円だった。もしそこが本屋でなければそ ジ れはとても書物とは思えないような代物だった。派手派手しい表紙は殆んど外れかけて、ペー をはオレンジ色に変色している。恐らくは貨物船か駆逐艦の下級船員のべッドの上に乗ったまま太 の平洋を渡り、そして時の遥か彼方から僕の机の上にやってきたわけだ。 フ・ 4 ーールにー、 再び : ( あとがきにかえて )
加彼が一番気に入ってした月説ー 、、、ま「フランダースの大」である。「ねえ、君。絵のために大が死 ぬなんて信じられるかい ? 」と彼は言った。 ある新聞一三ロ者かインタヴューの中でハートフィールドにこう訊ねた。 「あなたの本の主人公ウォルドは火星で一一度死に、金星で一度死んだ。これは矛盾じゃないです ートフィールドはこ、 2 言った。 「君は字宙空間で時がどんな風に流れるのか知っているのかい ? 」 「いや、」と記者は答えた。「でも、そんなことは誰にもわかりやしませんよ。 「誰もが知っていることを小説に書いて、いったい何の意味がある ? 」 ☆ ートフィールドの作品のひとつに「火星の井戸」という彼の作品群の中でも異色な、まるで ・ 0 ↑、力しと一一」っつ 2 は レイ・プラドベリの出現を暗示するような短編がある。すっと昔に読んだっきり、、 忘れてしまったが、大まかな筋だけをここに記す。
ートフィールドについて五ロろ、つ 最後にもう一度デレク・ 乂親は無ロ ートフィールドは 1909 年にオ ( イオ州の小さな町に生まれ、そこに育った。 ( な電信技師であり、母親は星占いとクッキーを焼くのがうまい小太りな女だった。陰気なハ フィールド少年には友だちなど一人もなく、暇をみつけてはコミック・ブックや。 ( ルプ・マがジ ンを読み漁り、母のクッキーを食べるといった具合にして ( イスクールを卒業した。卒業後、彼 は町の郵便局に勤めてはみたが長続きするわけはなく、この頃から彼は自分の進むべき道は小説 宀豕以外にはないと確信するよ、つになった。 彼の五作目の短編が「ウェアード・テールズ」に売れたのは 1930 年で、稿料はドルで をあった。その次の 1 年間、彼は月間 7 万語すっ原稿を書きまくり、翌年そのペースは川万語に上 の 死ぬ前年には万語になっていた。レミントンのタイプライターを半年毎に買いかえた、と 風 う伝説が残っている。 彼の小説の殆んどは冒険小説と屋奇ものであり、その二つをうまく合わせた「冒険児ウォルド」 4 0
155 風の歌を聴け 脳味噌のようなものだ。 そ、つであってはしい、 ☆ 最後になってしまったが、 ートフィールドの記事に関しては前述したマックリュア氏の労作、 「不妊の星々の伝説」 (Thomas McClure; The Legend 0 ( the sterile stars: 1968 ) から幾つか 引用させていただいた。一 感謝する。 一九七九年五月 と僕も願っている。 村上春樹
118 デレク・ ートフィールドは、その厖大な作品の量にもかかわらす人生や夢や愛について直接 語ることの極めて稀な作家であった。比較的シリアス ( シリアスというのは宇宙人や化け物が登 19 3 7 ) の中でハート 場しないという意味でだが ) な半自伝的作品、「虹のまわりを一周半」 ( フィールドは皮肉や悪口や冗談や逆説にまぎらせて、はんの少しだけ言葉短かに本音を披して 僕は車で鼠を家まで送り届けてから、一人でジェイズ・ 「話せたかい ? 」 「話せたよ。 「そりや良かった。 ジェイはそ、つ一言って、僕の別にフライド・ポテトを置いた ーに立ち寄った。
皮膚病を抱えていた中学三年生の夏休みであった。僕にその本をくれた叔父は三年後に腸の癌を 患い、体中をすたすたに切り裂かれ、体の入口と出口にプラスチックのパイプを詰め込まれたま ま苦しみ抜いて死んだ。最後に会った時、彼はまるで狡猾な猿のようにひどく赤茶けて縮んでい ☆ 僕には全部で三人の叔父がいたが、一人は上海の郊外で死んだ。終戦の二日後に自分の埋めた 地雷を踏んだのだ。ただ一人生き残った三人目の叔父は手品師になって全国の温泉地を巡ってい る。 ☆ ートフィールドが良い文章についてこんな風に書いている。 「文章をかくという作業は、とりもなおさす自分と自分をとりまく事物との距離を確認すること である。心要なものは感ではなく、ものさしだ。 ( 「気分が良くて何が悪い ? 僕がものさしを片手に恐る恐るまわりを眺め始めたのは確かケネディー大統領の死んだ年で、 それからもう年にもなる。燔年かけて僕は実にいろいろなものを放り出してきた。まるでエン 19 3 6 年 )
152 ーズは彼の最大のヒット作となり、全部で貶編を数える。その中でウォルドは 3 回死に、 5 千人もの敵を殺し、火星人の女も含めて全部で 375 人の女と交わった。そのうちの幾つかを、 僕たちは翻訳で読むことができる。 ートフィールドは実に多くのものを憎んだ。郵便局、ハイスクール、出版社、人参、女、 大、 : : : 数え上げればキリがない。しかし彼が好んだものは三つしかない。銃と猫と母親の焼い たクッキーである。彼はパラマウントの撮影所との研究所を除けば恐らく全米一の完璧に 近い銃のコレクションを持っていた。高射砲と対戦車砲以外は全てである。中でも彼の自慢の品 は銃把に真珠の飾りをつけた口径のリヴォルヴァーで、それには弾は一発しか装瞋されてはお らす、「俺はいっかこれで俺自身をリヴォルヴするのさ。」というのが彼の口癖だった。 しかし 19 3 8 年に母が死んだ時、彼はニューヨークまででかけてエンパイア・ステート・ビ ルに上り、屋上から飛び下りて蛙のようにペシャンコになって死んだ。 彼の墓碑には遺言に従って、ニーチェの次のような一一一一口葉が引用されている。 「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。
「私はこの部屋にある最も神聖な書物、すなわちアルファベット順電話帳に誓って真実のみを述 べる。人生は空つほである、と。しかし、もちろん救いはある。というのは、そもそもの始まり においては、それはまるつきりの空つはではなかったからだ。私たちは実に苦労に苦労を重ね、 一生懸命努力してそれをすり減らし、空つばにしてしまったのだ。どんな風に苦労し、どんな風 にすり減らしてきたかはいちいちここには書かない。面倒だからだ。どうしても知りたい方はロ マン・ロラン著『ジャン・クリストフ』を読んでいただきたい。そこに全部書かれている。 ートフィールドが「ジャン・クリストフ」をひどく気に入っていた理由は、ただ単にそれが 一人の人間の誕生から死までを実に丹念に順序どおり描いてあるという点と、しかもそれが恐し く長い小説であるという点にあった。小説というものは情報である以上グラフや年表で表現でき るものでなくてはならないというのが彼の持論であったし、その正確さは量に比例すると彼は考 けえていたからだ。 を トルストイの「戦争と平和」については彼は常々批判的であった。もちろん量について問題は のないが、と彼は述べている。そこには宇宙の観念が欠如しており、そのために作品は実にちぐは ぐな印象を私に与える、と。「宇宙の観念」という言葉を彼が使う時、それは大抵「不毛さ、を 意味した。