僕は手のひらで彼女の髪を撫でた。 「好きになれそうな気がしたの。はんの一瞬だけどね。 「ああ。 「彼女の顔を覚えてる ? 」 僕は三人の女の子の顔を思い出そうとしてみたが、不思議なことに誰一人としてはっきり思い 出すことができなかった。 「いや。 , と僕は言った。 「不思議ね。何故かしら ? 」 「多分その方が楽だからさ。」 彼女は横顔を僕の裸の胸につけたまま、黙って何度も肯いた。 「ねえ、もしどうしてもやりたいんなら、何か別の : 「いや、気にしなくていい。」 を「本当 ? 」 の 風 彼女は僕の背中に回した腕の力をもう一度強めた。僕はみぞおちのあたりに彼女の乳房を感し た。たまらなくビールが飲みたかった。 : 誰か好きになったことある ? 」
それは火星の地表に無数に掘られた底なしの井戸に潜った青年の話である。井戸は恐らく何万 年の昔に火星人によって掘られたものであることは確かだったが、不思議なことにそれらは全部 が全部、丁寧に水脈を外して掘られていた。いったい何のために彼らがそんなものを掘ったのか は誰にもわからなかった。実際のところ火星人はその井戸以外に何ひとっ残さなかった。文字も 住居も食器も鉄も墓もロケットも街も自動販売機も、貝殻さえもなかった。井戸だけである。そ れを文明と呼ぶべきかどうかは地球人の学者の判断に苦しむところではあったが、確かにその井 戸は実にうまく作られていたし、何万年もの歳月を経た後も煉瓦ひとっ崩れてはいなかった。 もちろん何人かの冒険家や調査隊が井戸に潜った。ロープを携えたものたちはそのあまりの井 戸の深さと横穴の長さ故に引き返さねばならなかったし、ロープを持たぬものは誰一人として戻 らなかった。 ある日、宇宙を彷徨う一人の青年が井戸に潜った。彼は字宙の広大さに倦み、人知れぬ死を望 けんでいたのだ。下に降りるにつれ、井戸は少しすっ心地よく感しられるようになり、奇妙な力が を優しく彼の体を包み始めた。 1 キロメートルばかり下降してから彼は適当な横穴をみつけてそこ のに潜りこみ、その曲がりくねった道をあてもなくひたすらに歩き続けた。どれはどの時間歩い のかはわからなかった。時計が止まってしまっていたからだ。一一時間かも知れぬし、二日間かも 盟しれなかった。空腹感や疲労感はまるでなかったし、先刻感じた不思議な力は依然として彼の体
138 「何が ? 」 「何もかもよ。あなたは布くないの ? 「布くなんかないさ。」 彼女は黙った。それは僕の答えの存在感を手のひらの上で確かめてみるといったような沈黙 「私とセックスしたい ? 「うん。」 「御免なさい。今日は駄目なの。」 僕は彼女を抱いたまま黙って肯いた。 「手術したはかりなのよ。」 「子供 ? 「そう。」 彼女は僕の背中に回した手の力を緩め、指先で肩の後に小さな円を何度か描いた。 「不思議ね。何も覚えてないわ。」 「そう ? 「相手の男のことよ。すっかり忘れちゃったわ。顔も思い出せないのよ。」
ジェイがやってきて、僕たちの前に新しいビールを 2 本置いていった。 「許せなかったらどうする ? 「枕でも抱いて寝ちまうよ。」 鼠は困ったように首を振った。 「不思議だね。俺にはよくわからない 鼠はそう言った。 僕は鼠のグラスにビールを注いでやったが、彼はまだ体を縮めたまましばらく考え込んでい 「この前、最後に本を読んだのは去年の夏だったよ。」鼠がそう一一一口った。「題も作者も忘れた。何 故読んだのかも忘れた。とにかくわ、女が書いた小説さ。主人公は有名なファッション・デザイ ナーで歳ばかりの女なんだが、なにしろ自分が不治の病に冒されてると信しこんでるわけさ。」 「どんな病気 ? 」 ・ : それでね、彼女は海岸の避 を「忘れたわ。癌かなにかさ。それ以外に不治の病があるかい ? 暑地にやってきて最初から最後までオナニーするんだ。風呂場だとか、林の中だとか、べッ 風 上だとか、海の中だとか実にいろんな場所でさ。 「海の中 ? 」
「少しすつね。 「何故進化するの ? 」 「それにもいろんな意見がある。ただ確実なことは字宙自体が進化してるってことなんだ。そこ に何らかの方向性や意志が介在してるかどうかってことは別にしても宇宙は進化してるし、結局 のところ僕たちはその一部にすぎないんだ。」僕はウイスキー・グラスを置いて煙草に火を点け 「そのエネルギーが何処から来ているのかは誰にもわからない。」 「そう ? 」 「そう。 彼女はグラスの氷を指先でくるくると回しながら白いテープル・クロスをじっと眺めていた。 「ねえ、私が死んで百年もたてば、誰も私の存在なんか覚えてないわね。 「だろうね。」と僕は言った。 を の店を出て、僕たちは不思議なくらい鮮明なタ暮の中を、静かな倉庫街に沿ってゆっくりと歩い た。並んで歩くと、彼女の髪のヘャー・丿 ンスの匂いが微かに感じられる。柳の葉を揺らせる風 Ⅷは、はんの少しだけれど夏の終りを思わせた。しばらく歩いてから、彼女は指が 5 本ついた方の
街について話す。僕が生まれ、育ち、そして初めて女の子と寝た街である。 前は海、後ろは山、隣りには巨大な港街がある。ほんの小さな街だ。港からの帰り、国道を車 で飛ばす時には煙草は吸わないことにしている。マッチをすり終るころには車はもう街を通りす ぎているからだ。 人口は 7 万と少し。この数字は 5 年後にも殆んど変わることはあるまい。その大抵は庭のつい た一一階建ての家に住み、自動車を所有し、少なからざる家は自動車を 2 台所有している。 この数字は僕の好い加減な想像ではなく、市役所の統計課が年度末にきちんと発表したもので けある。二階建ての家というところが良い を鼠は三階建ての家に住んでおり、屋上には温室までついている。斜面をくりぬいた地下はガ のレージになっていて、父親のべンツと鼠のトライアンフ E-* Ⅲが仲良く並んでいる。不思議なこ とに、鼠の家で最も家庭らしい雰囲気を備えているのがこのガレージであった。小型飛行機なら すつばりと入ってしまいそうなはど広いガレージには型が古くなってしまったり飽きられたりし 8
鼠はそれには答えなかったが、不満足そうに何度か首を振った。「でも、とにかく俺たちはツ イてる。」 「そうだな 鼠はテニス・シューズの踵で煙草をもみ消し、吸殻を猿の檻に向って指ではしいた。 「ねえ、俺たち一一人でチームを組まないか ? きっと何もかも上手くいくぜ。」 「手始めに何をする ? 」 「ビールを飲もう。 僕たちは近くの自動販売機で缶ビールを半ダースばかり買って海まで歩き、砂浜に寝ころんで それを全部飲んでしまうと海を眺めた。素晴しく良い天気だった。 「俺のことは鼠って呼んでくれ。」と彼が言った。 「何故そんな名前がついたんだ ? 」 「忘れたね。随分昔のことさ。初めのうちはそう呼ばれると嫌な気もしたがね、今じゃなんとも 何にだって饋れちまうもんさ。」 僕たちはビールの空缶を全部海に向って放り投げてしまうと、堤防にもたれ頭の上からダッフ ル・コートをかぶって一時間ばかり眠った。目が覚めた時、一種異様なばかりの生命力が僕の体 中にみなぎっていた。不思議な気分だった。
歳を少し過ぎたばかりの頃からすっと、僕はそういった生き方を取ろうと努めてきた。おか げで他人から何度となく手痛い打撃を受け、欺かれ、誤解され、また同時に多くの不思議な体験 もした。様々な人間がやってきて僕に吾り、 カけ、まるで橋をわたるように音を立てて僕の上を通 り過ぎ、そして二度と戻ってはこなかった。僕はその間じっと口を閉ざし、何も語らなかった。 そんな風にして僕は代最後の年を迎えた。 今、業は五ろ、つと思、つ。 もちろん問題は何ひとっ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じと いうことになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己 療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。 しかし、正直に語ることはひどくむすかしい。僕が正直になろうとすればするはど、正確な一言 葉は闇の奧深くへと沈みこんでい 弁解するつもりはない。、 少くともここに五られていることは現在の僕におけるベストだ。 つけ 加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。、つまく いけばすっと先に、何年 か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、 と。そしてその時、象 は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。