口 - みる会図書館


検索対象: 風の歌を聴け
133件見つかりました。

1. 風の歌を聴け

「何故牛の絵なんて描いたのかしら ? 「さあね。」と僕は言った。 彼女は二歩後ろに下り、もう一度牛の絵を眺め、それからしゃべり過ぎたことを後海するかの よ、つに口をつぐんで車に乗った。 車の中はひどく暑く、港に着くまで彼女は一言も口をきかすにタオルで流れ落ちる汗を拭き続 けながら、ひっきりなしに煙草を吸った。火を点けて三ロばかり吸うと、フィルターについたロ 紅を点検するようにじっと眺めてからそれを車の灰皿に押し込み、そして次の煙草に火を点け 「ねえ、昨日の夜のことだけど、一体どんな話をしたの ? 」 車を下りる時になって、彼女は突然そう訊ねた。 「いろいろ、さ。」 「ひとつだけでいいわ。教えて。」 り「ケネディーの話。」 の 「ケネディー ? 風 「ジョン・・ケネディ 彼女は頭を振って韶息をついた。

2. 風の歌を聴け

墓にだって意味はある。どんな人間でもいっかは死ぬ、そういうことさ。教えてくれる。でもね、 そいつはあまりに大きすぎた。巨大さってのは時々ね、物事の本質を全く別のものに変えちま う。実際の話、そいつはまるで墓には見えなかった。山さ。濠の水面は蛙と水草でいつばいだし、 柵のまわりは蜘蛛の巣だらけだ。 俺は黙って古墳を眺め、水面を渡る風に耳を澄ませた。その時に俺が感じた気持ちはね、とて も一一一一口葉しや一一一一口、たない。 いや、気持ちなんてものじゃないね。まるですつばりと包みこまれちまう ような感覚さ。つまりね、蝉や蛙や蜘蛛や風、みんなが一体になって字宙を流れていくんだ。 鼠はそう言うと、もう泡の抜けてしまったコーラの最後の一口を飲んだ。 「文章を書くたびにね、俺はその夏の午後と木の生い繁った古墳を思い出すんだ。そしてこう思 う。蝉や蛙や蜘蛛や、そして夏草や風のために何かが書けたらどんなに素敵だろうってね。」 語り終えてしまうと鼠は首の後ろに両手を組んで、黙って空を眺めた。 け「それで、・ : ・ : 何か書いてみたのかい ? 」 を 「いや、一行も書いちゃいないよ。何も書けやしない。」 歌 の「そう ? 「汝らは地の塩なり。」

3. 風の歌を聴け

100 夢を見たのは久し振りだった。あまり久し振りだったので、それが夢だと気づくまでにしばら く時間がかかった。 僕はべッドから起き上がり シャワーで体中の嫌な汗を流してからトーストとリンゴ・ジュ スで朝食を済ませた。煙草とビールのおかげで喉はまるで古綿をつめこまれたような味がする。 ンのコットン・スーツとなるべくきちんと 食器を流しに放り込んでから、僕はオリープ・グリ プレスされたシャツ、それに黒いニット・タイを選び、それを手に抱えたまま応接室のエア・コ ンの前に座った。 テレビのニュース・ショーのアナウンサーは、今日は夏一番の暑さになるでしよう、と得意気 に断一言していた。僕はテレビを消すと隣りにある兄の部屋に入り、厖大な本の山から何冊かを選 び出し、応接室のソファーに寝転んでそれを眺めた。 一一年前、兄は部屋いつばいの本とガール・フレンドを一人残したまま理由も一言わすにアメリカ に行ってしまった。彼女と僕は時折一緒に食事をする。僕たち兄弟は本当によく似ている、と彼 女は一一一一口、つ。 「何処が ? 僕はいて彼女にそう訊ねてみた。 「全部よ。ーと彼女は一一口った。 そのとおりかもしれない。そしてそれは僕たちが十何年間交代で磨き続けた靴のせいだと思

4. 風の歌を聴け

川分ばかり後で、グレープフルーツのような乳房をつけ派手なワンピースを着た歳ばかりの 女が店に入ってきて僕のひとっ隣りに座り、僕がやったのと同しように店の中をぐるりと見まわ り、うんざりする してからギムレットを注文した。彼女は飲み物を一口だけ飲んでから立ち上が 日 ソグを抱えて便所に入った。結局鬨分ばかりの門 くらい長い電話をかけ、それが終るとハンドバ にそれが 3 回続いた。ギムレットを一口、長電話、ハント / ーテンのジェイが僕の前にやってきて、うんざりした顔で、ケツがすりきれるんじゃないか な、と言った。彼は中国人だが、僕よりすっと上手い日本語を話す。 女は三度目の便所から戻ると、あたりを見回してから僕の隣りに滑りこみ、小声で言った。 「ねえ、悪いんだけど、小銭を貸していただけない ? 攵あった。 こ。川円玉が全部で本 僕は肯いてポケットの小銭をあつめ、カウンターの上に並べオ 「ありがとう。助かるわ。これ以上店で両替すると嫌な顔されるのよ。」 「構いませんよ。おかげですいぶん体が軽くなった。 を 彼女はニッコリ肯いて、すばやく小銭をかきあつめると電話の方に消えた。 僕は本を読むのをあきらめ、ジェイに頼んでポータブル・テレビをカウンターに出してもら 風 ビールを飲みながら野球中継を眺めることにした。たいした試合だった。 4 回の表だけで二 人の投手が 2 本のホームランを含めて 6 本のヒットを打たれ、外野手の一人はたまりかねて貧血 や

5. 風の歌を聴け

「テレビのコマーシャルよ。冷たいワインと暖かい心。見たことないの ? 」 「ないね。」 「テレビは見ない ? 」 「少しだけ見る。昔はよく見たけどわ。一番好きなのは名大ラッシ 「動物が好きなのね。」 「うん。」 「私なんて暇さえあれば一日中でも見てるわ。何もかもよ。昨日はわ、生物学者と化学者の討論 会を見たわ。あなたも見た ? 」 彼女はワインを一口飲んで、思い出すように軽く首を振った。 「ねえ、。ハスツールは科学的直感力を持っていたのよ。」 「科学的直感カ ? : つまりね、通常の科学者はこんな風に考えるのよ。 < イコール、イコール o 、故に イコール O 、 a•・、そ、つでしょ ? 」 僕は肯いた。 ね。 ーだったな。もちろん初代の

6. 風の歌を聴け

三人目のガール・フレンドが死んだ半月後、僕はミシュレの「魔女」を読んでいた。優れた本 だ。そこにこんな一節があった。 「ローレンヌ地方のすぐれた裁判官レミーは八百の魔女を焼いたが、この『恐布政治』につい て勝誇っている。彼は言う、『私の正義はあまりにあまねきため、先日捕えられた十六名はひ とが手を下すのを待たす、ます自らくびれてしまったはどである。』」 ( 篠田浩一郎・訳 ) 私の正義はあまりにあまわきため、というところがなんともいえす良い 彼女は煙草をもみ消し、ワインを一口飲んでから感心したようにしばらく僕の顔を眺めた。 「あなたって確かに少し変ってるわ。」

7. 風の歌を聴け

けたらきっと楽になるのだろう、と僕は思った。しかし彼女は泣かなかった。 「わえ、これだけは覚えといて。確かに私は飲みすぎたし、酔払ったわ。だから何か嫌なことが あったとしても、それは私の責任よ。 彼女はそう一一一一口うとヘアプラシの柄で殆んど事務的に何度か手のひらをピシャピシャと叩いた。 僕は黙って話の続きを待った。 「そ、つでしょ ? 」 「だろうね。」 「でもね、意識を失くした女の子と寝るような奴は : : : 最低よ。」 「でも何もしてないぜ。 彼女は感情の高まりを押えるように少し黙った。 「じゃあ、何故私が裸だったの ? 「君が自分で脱いだんだ。 を「信じられないわ。」 の 彼女はプラシをベッドの上に放り投げ、ショルダー 風 ごましたものを詰めこんだ。 「ねえ、本当に何もしなかったってあなたに証明できる ? ッグの中に財布や口紅や頭痛薬やこま

8. 風の歌を聴け

鼠はおそろしく本を読まない。彼がスポーツ新聞とダイレクト・メール以外の活字を読んでい るところにお目にかかったことはない。僕が時折時間瞶しに読んでいる本を、彼はいつもまるで が黽叩きを眺めるように物珍しそうにのぞきこんだ。 「何故本なんて読む ? 」 「何故ビールなんて飲む ? 」 風 僕は酢漬けの鰺と野菜サラダを一口すっ交互に食べながら、鼠の方も見すにそう訊き返した。 鼠はそれについてすっと考え込んでいたが、 5 分ばかり後でロを開いた 「キロだって走れる。」と僕は鼠に言った。 「俺もさ。」と鼠は言った。 しかし実際に僕たちがしなければならなかったのは、公園の補修費を金利つきの三年割賦で市 彳戸に払いこむことだった。

9. 風の歌を聴け

かって誰もがクールに生きたいと考える時代があった。 を高校の終り頃、僕は、いに思うことの半分しか口に出すまいと決心した。理由は忘れたがその思 の いっきを、何年かにわたって僕は実行した。そしてある日、僕は自分が思っていることの半分し 風 か語ることのできない人間になっていることを発見した。 鵬それがクールさとどう関係しているのかは僕にはわからない。しかし年しゅう霜取りをしなけ 「老婆心。」 「そう。」 僕は笑ってビールを飲んだ。 「鼠には僕の方から言い出してみるよ。」 「うん、それかいいよ ジェイは煙草を消して仕事に戻った。僕は席を立って洗面所に入り、手を洗うついでに鏡に顔 を写してみた。そしてうんざりした気分でもう一本ビールを飲んだ。 0 3

10. 風の歌を聴け

もしデレク・ ートフィールドという作家に出会わなければ小説なんて圭日かなかったろう、と まで一一一口、つつもりはな、 けれど、僕の進んだ道が今とはすっかり違ったものになっていたことも 確かだと思う。 ートフィールドのペ 高校生の頃、神戸の古本屋で外国船員の置いていったらしい ックスを何冊かまとめて買ったことがある。一冊が円だった。もしそこが本屋でなければそ ジ れはとても書物とは思えないような代物だった。派手派手しい表紙は殆んど外れかけて、ペー をはオレンジ色に変色している。恐らくは貨物船か駆逐艦の下級船員のべッドの上に乗ったまま太 の平洋を渡り、そして時の遥か彼方から僕の机の上にやってきたわけだ。 フ・ 4 ーールにー、 再び : ( あとがきにかえて )