『坂の上の雲』は、伊予 ( 愛媛県 ) 松山うまれの三人の人物が主人公だ「た。四作に共通し ているのは、海である。 おかげで私は、四十前後から二十年間、畳の上の航海者として終始した。 古代の日本は、外洋航海の点でおくれていた。空海たちを運んだ第十六次 ( 八〇四年出 さえき 航 ) 遣唐使船だけでなく、遣唐使船一般に、″佐伯〃とか″速鳥〃といったような名がっ じゅごいのげ き、従五位下という貴族なみの官位がさずけられ、官服のように原色でいろどられていた。 しかし、かんじんの船の構造は、外洋に適していなかった。船底がタライみたいに平ら で、船のまわりを戸板で張りめぐらしただけの弱い構造だった。その上、当時の航海者は 東シナ海の季節風を知らず、わざわざ台風シーズンに出航して難破したりした。 るがくしようるがくそう 多くの人が遭難したが、それでもなお、留学生・留学僧を志願する者が多かったのは、 おうせい かんい ゅ日本史をつらぬくばねともいうべき知識欲の旺盛さと敢為というか、あえておこなう心と へ いうものがあったのである。 和 宇 江戸初期、幕府は″海外石をおそれ、国内では帆の多い大船の建造を禁じた。 はやどり 183
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その日付の『産経新聞』の「討論のひろば」に、工藤悦子氏 ( 四十歳 ) が、中学生の娘さ んから、なぜ勉強をせねばならないのか、と質問されて、答えられなかった、という。 私も、小中学生を相手にこのテーマで返答をせよ、といわれれば、どう答えていいかわ からない。ただ、 「いい学校なんかゆかなくていいよ」 とだけは、答えられる。 もっとも、その子が、三十歳ほどの大人に成熟すれば、私もくつきり答えることができ る。北森さんのいう″エンドレス人間〃というか、″カセット人間〃にならないためだ、と いうことである。 人間は、言語で自分と世界をつかまえている。言語を豊富にするためには、教育をうけ た、ほ、つ - がも℃ 。自然科学や人文科学などの概念をふやすことができ、自然と人間世界が、 刻々の劇場のように倦きないものになる。 それに接するには、少年少女期からの蓄積 しい芸術は高度な快感の体系といっていし が要る。蓄積が感受性をするどくさせるのである。そのためには、ほどほどの教育はうけ あ 236
と、北森さんはいう。私も若いころ身辺にそういう人が数人いて、凄惨な思いがした。 四十にして朽ちているのである。 つまりその人の頭のなかのテープは三つか四つしかなく、主として、体験談か自慢ばな 人間とは、それだけのものか。 と当時の私はおもった。 ほとんどの人は、永く生きたようなつもりでいながら、じつは語るに足るほどの体験は 数件ほどもない。短編小説として絞りとれば、三編もできあがらない。 あとは日常の連続で、習慣と条件反射で人は暮らすのである。 古代や中世の人は、とくにそうだった。娯楽のすくなかった江戸期の農村のひとびとも、 四十になれば自分の過去のできごとをくりかえし語って、死んで灰になるまで、語りつづ 人 ちょうろく トけたはずである。もっとも当時はのどかで、「また長六どんの十八番がはじまった」と笑い セながら、きいてくれたかもしれない。 23 )
そんな騒然としたなかで、「風塵抄」が、茶室に入りこんだように、日常不変の、あるい さまっ は不易の、さらには些末な暮らしにのみ即したことを書いているのは気がひける。 同時に、ぜいたくでもある。以下は、そのぜいたくの一つである。 年をとると、話がくどくなる。 「その話、ききましたよ」 と相手がいっても、そんな人は堂に入ったもので、平然としている。 さきに、『産経新聞』の「テ 1 マ投稿」欄に、和歌山県の橋本の公務員北森久雄氏 ( 五十 / ということを書いておられた。べつの言い方をす 二歳 ) が、″エンドレス人間になるまい ればくりかえしの″カセット人間〃という意味のようで、頭の中の数個のテープが、チリ 紙交換の放送のように鳴っている人のことをさしておられるのにちがいない。むろんくり かえしは老化現象である。 「四十歳ですでにエンドレス人間になっている人をよく見かけます」 ふえき 234
沙漠での農業は可能か。 という主題のもとに、永年、多方面から研究し、業績をあげ、げんにいくつかの世界のお 沙漠で、ブドウその他の栽培を成功させてきている。 最近の新聞記事によると、この主題の推進者の一人だった遠山正瑛名誉教授 ( 八十三歳 ) が、アフリカのザンビアの乾燥地にメタセコイア一億二千万本を植え、大森林をつくろう ということをはじめたそうである。 日本人の沙漠好きは、詩的関心からこんな段階にまで入った。 ( 一九九〇〈平成二〉年二月五日 )
たったり、クロマツの林だ「たりして、緑に一変していた。わずかな面積の砂丘が「天然 記念物」として残されてはいるものの、多くは青々とした丘陵群にな「ていた。 この地を研究対象にしてきた鳥取大学は、研究所というほどの大きな機関をもっことな く、「研究施設」とよばれる貧しい規模でもって、じつに大きな業績をあげてきた。砂丘を いきものとして見、無用に拡大させないために、まず砂どめの方法を考案した。 材料はどの国に応用してもすぐさま活用できるような簡単なものばかりで、たとえばソ ダのようなものを一定間隔で挿してゆくだけで大きな効果をあげたりもした。ソダのつぎ はクロマツなどを植え、やがて防砂林に発展させるというものだった。 フ、ラッキョウ、ニンニク 砂地は、本来、ナガイモのような根菜のものや、チ = ーリッ のような球根の植物を育てるのに適いているのである。砂丘は農園化され、これによって 鳥取県の農業は大きく特徴づけられるようになった。 丘むろん海岸砂丘と沙漠とはちがう。鳥取大学では、海岸砂丘を見つめつつ、遠い沙漠を 岸連想した。最初は空想にすぎなかったが、やがて海岸砂丘から飛躍して、沙漠の研究をは じめた。 2 引
海岸砂丘 るそゴ の と世鳥日 感 存うル日よ十 界取本 在い帝本 じ 方 さ日の県に でう国もて世 をま東紀 わ本大のも あ は がに沙海 ると憎た西 れも漠岸似 らでま元ーのゴ す しいず寇歴ビ か砂た で 見沙ら丘も いえにと史沙 な漠みでの ばいいに漠 平 お〃れあは 沙るう深の 安 漠の被刻北 さがばるあ はは害なの れあ小 る の わ、を変草 たる指 れそう化原 ろ の わこけをか ツ 見 れにたあら メ の 。た興 た ら と漠うえつ めど れ つのけたた る の 時面 てイつ チ の 期積 一寺メっ で ン・ な ギ で一も あ る ス 光ら りがヨ 地 で在 ロ あしッ ン・ るてノヾ て 繁児 世 たるほ しう 界 めかど 帝 た にらな すにま 国 行 ちな を てがま た をいし て て 浄なく き る 化くモ た 人 と ″方向がわからなくなって〃とうれしそうに体験談を語ったりした。 一ごロ 229
日本的感性 と立体的な秩序のなかにほうりこんでくれる作品がだいぶ出ているから、一概に光琳スタ イルのみとはいえなくなっている。 しかし伝統に根ざしていえば、日本的感性が世界に貢献できるのは、光琳をふくめた浄 土的なやすらぎの芸術や工芸的なもの、あるいは工業意匠的なものではないかと思うので ある。 たとえば、白木や布を多用して平面演出された室内装飾が、すでに源流の日本から離れ て世界にひろがっていてひとびとに浄らかさと安らぎをあたえているのだが、本家の私ど もは気づかずにいる。これも、多少は世界文化に貢献していることになりはしないか。 ( 一九九〇〈平成二〉年一月八日 ) しらき 227
「これを着て、あの町角を歩きたい」 と、彼女は思う。一面、そういう町角をたくさんもっているというのが、都市の文化の 一つでもある。 人間は高度に生きるの力しし冫 。ゝ、、こきまっている。生涯七、八十年という物理的時間の密度 も質も、高い文化を感じうるかどうかによってちがうものになる。人生の良否をきめるの はカネではなく、感受性かとおもわれる。 さて、創造力ということでは、私どもはどうだろう。 どうも強烈な個性がこの風土では育ちにくいために、たとえば絵でいうとピカソといっ た巨大な個性は生まれにくいようである。私どもの絵画はともすれば光琳 ( 江戸中期 ) ふ 、つになってしま、つ。 性 感むろん、私は光琳が大好きである。しかし光琳の作品ではゴッホやムンクのような人間 本根源の悲しみというものは表現されようもない。 もみじ 光琳においては、美しく様式化される。流れる水も、散る紅葉も、咲くあやめもすべて 22 )