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検索対象: 風塵抄 (中公文庫)
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1. 風塵抄 (中公文庫)

論や法律概論の塾はなさそうである。しかし社会に需要があればやがてできるにちがいな 師を得なければ、図書館に四、五年通うのもいし 。文科系の大学で教養として学ぶよう なことは、本を読むことで十分である。 もいえ、大学卒の免状がほしいんです」 となると、ハナシの質が一変してしまう。処世もしくは虚栄というロ 門題になる。 しかし、現状は、世をあげての虚栄時代なのである。 当節、入学難易度によって高校や大学を社会的に ( ! ) 秩序づけ、心理的には両親や当人 のアイデンティティ ( この場合は身分証明 ) の代用としている。 江戸期の身分制は遠い昔になったが、それにかわる秩序として、いまは学歴や出身学校 が持ちこまれている。 受験用の勉強は、前記の定義でいう学問ではない。受験用の勉強とは、さまざまなシス 世テムの内容を記憶し、また多種類の。 ( ズルのようなものを、いつでも解ける。 ( ターンとし 験ておぼえこんでしまうことである。 受 このためには、偏執的な努力を必要とする。独創は不必要だし、ときに邪魔にさえなる。

2. 風塵抄 (中公文庫)

それに適合しなかった敗者が、こんにち仮象の″身分制〃の各段階に区分されて、就職 から縁談にまでひびく。滑稽というほかない。 この「仮象」とは哲学用語で、しいて国語解釈すれば「実在するよ】つに見えながら、そ れじたいは実在性をもたぬ形象」ということである。 日本における学歴的な階層性こそ仮象で、議論の上でこそ「学歴なんか問題じゃありま せんよ」と口先でいわれつつも、実社会では大きな実効性をもっているのである。かとい って、南アフリカ共和国の人種隔離制やインドのカースト制のようではないから決して暴 動が起こるということはない。 受験制というのは、社会を仮に秩序づける上でのすばらしい催眠作用をもっているので ある。 「自分が大学 ( あるいは高校 ) にゆけなかったのは不勉強で受験に失敗したから」 とカ 「自分の受験の能力ではその程度の大学しかゆけませんでしたので」 と、スポーツの勝敗のようにたれもが自分を自分でなっとくさせている。 かしよう

3. 風塵抄 (中公文庫)

夏目漱石 ( 一八六七 ~ 一九一六 ) もそういう人であった。 どういうわけか、ちかごろ漱石のことがかしくてたまらない。 嗽石は、少年期にありがちな大ぼら ( 壮志といっていいが ) のなかった人で、ただ漢文 漢詩を好み、その分野の塾に通っていて、子供ながら充足していた。それじや時代に合わ と人がいったのかどうか、大きらいだった英語の塾に転じた。 結局、東京帝大文科大学で英文学をおさめた。在学中『方丈記』を英訳するなど、卓越 した語学力を示し、卒業して英語を教える人になった。 終生、漱石は人生において場ちがいを感じていた。英文学を研究する自分に疑問をもち、 また漢文を通じて感得した″文学〃と英文学とのへだたりの大きさに愚直なほど悩んだ。 一時はノイローゼ気味になった。 文部省から英国留学を命ぜられ、当初辞退し、結局説得されて承知した。″官命だから従 みった〃という旨、『文学論』の序文に書いている。 し 悲 帰国後、東京大学で「英文学形式論」を講義した。当然ながら教授のイスが暗に約束さ 313

4. 風塵抄 (中公文庫)

百科事典の「身長」の項をみると、日本人の成人男子の平均身長は、まことに小さくて ルだったそうである。 明治初期で一五五センチメート 小村寿太郎 ( 明治の名外相 ) は一五〇センチメートルほどで、右の平均より低かった。明 治初年、 1 ヴァード大学法学部に留学したとき、同学の学生だけでなく、大学界隈の町 の人たちまでがこの異国の学生を尊敬したといわれる。 小村は、たれがみても高潔さと、精神の肉質のひきしまった存在感を感じさせる人物だ ひゅうがおび った。日向の飫肥藩で武士として育った。 江戸後期、自分の店の船で千島付近を航海中、ロシア軍艦にとらわれ、カムチャッカに め 送られた高田屋嘉兵衛 ( 一七六九 ~ 一八二七 ) も、セが当時の平均より小さく、しかも頭が の大きくて、ほとんど五等身にちかかった。 碑ふれあ「たロシア人は、たれもが嘉兵衛の見映えのわるさをいわず、その聡明さと勇気、 かそれにたかだかとした正直な人柄に感動した。 嘉兵衛は、死後も、人を動かした。かれとふれあったロシアの海軍少佐が書いた『日本 19 )

5. 風塵抄 (中公文庫)

いまから書くことは、目下、受験というミキサーにかきまわされて挽肉のようになりか けている人たちに、なんの役にも立たない。むしろ有害かもしれない。 世の中にはり「ばな ( ? ) 人がたくさんいる。学校が好きな人たちである。長じて成功 者となり、老いて高校や大学時代の思い出をみごとな随筆にしたり、またしきりに同窓交 こ、ングソ 1 ・ 歓して、その時代を天国のように幻想し、たがい : 、 。ハズルの破片をもちあい 幻想の青春を再構築しあったりする。 若者たちが入学試験で大苦労するのはそういう老後の楽しみのためにある、などとはい わない。 受験の世

6. 風塵抄 (中公文庫)

人はなぜ学校へ行きたがるのか。 「学問したいから」 そのようにきつばりーーー自分をあざむくことなく , ーー一言える人は、さほどに多くはない。 学問をするというのは、かがやくような心構えがいる。まず、子供が一定の好みのもと に物を収集するように、できるだけ多くの知識を記憶せねばならない。 記憶するだけでは、学尸 にはならない。知識群を手がたい方法で分析し、また独自の仮 説をうちたて、あたらしい理論を構築しなければならない。 今後の日本に必要なのはそういう能力群なのである ( その点、明治・大正は学問の上では 恐竜時代ほどのむかしで、西洋の理論や学説を記憶しているだけで多くの場合、学者とされた ) 。 ぜひ、創造の志をもっ若者こそ、学校に行ってもらいたい。たとえ学者にならなくても、 世の中によき活性をあたえてくれる人になるにちがいない。 「教養を身につけたいのです」 というのなら、しいて大学へゆく必要はない。両親に経済力があれば四、五年の余暇を もらい、江戸時代の知識人のすべてがそうしたように、ほうばうの塾へゆくことである。 もっともこんにち、外国語の塾はあっても、漢学塾や日本古典の塾、哲学の塾、経済概

7. 風塵抄 (中公文庫)

ただごとではない。 むろんそれは日本人の公共心うんぬんの問題ではなく、役所の問題である。役所が公衆 便所をたてる以上、建築費を越える営繕と清掃の費用を覚悟してのことでなければならな ちかごろの私立病院のなかには欧米なみにきれいな例が多く、ときに夢のように美しい 病院があるが、そのなかにあって、国公立病院だけが孤立している。 建物を保全したり、年々美しくするという思想 ( 予算上の ) が欠けているのである。 「国立病院だけじゃありません」 と、ごく最近、国立総合大学の学長さんがなげいた。い が汚い、というのである。 ライシャワ 1 さんは、日本の右の病院に三週間いて、ハワイへゆき、アメリカの病院に 移った。 この人は、自分の受難が日米間の感情問題にならないように、庫身の気づかいをした。 まの国立大学の建物・設備全体 こんしん 264

8. 風塵抄 (中公文庫)

たったり、クロマツの林だ「たりして、緑に一変していた。わずかな面積の砂丘が「天然 記念物」として残されてはいるものの、多くは青々とした丘陵群にな「ていた。 この地を研究対象にしてきた鳥取大学は、研究所というほどの大きな機関をもっことな く、「研究施設」とよばれる貧しい規模でもって、じつに大きな業績をあげてきた。砂丘を いきものとして見、無用に拡大させないために、まず砂どめの方法を考案した。 材料はどの国に応用してもすぐさま活用できるような簡単なものばかりで、たとえばソ ダのようなものを一定間隔で挿してゆくだけで大きな効果をあげたりもした。ソダのつぎ はクロマツなどを植え、やがて防砂林に発展させるというものだった。 フ、ラッキョウ、ニンニク 砂地は、本来、ナガイモのような根菜のものや、チ = ーリッ のような球根の植物を育てるのに適いているのである。砂丘は農園化され、これによって 鳥取県の農業は大きく特徴づけられるようになった。 丘むろん海岸砂丘と沙漠とはちがう。鳥取大学では、海岸砂丘を見つめつつ、遠い沙漠を 岸連想した。最初は空想にすぎなかったが、やがて海岸砂丘から飛躍して、沙漠の研究をは じめた。 2 引

9. 風塵抄 (中公文庫)

どこかの奥さんが、 「このデンキガマ大丈夫でしようか」 と、電気屋さんにきく。 べつの奥さんが、学校の先生に 「うちの息子、あの大学に、大丈夫でしようか」 あるいは、中年の管理職が、医者の前で、「ところで私の胃、大丈夫でしようか」 質問はさまざまながら、問われた側は、一様に太鼓判をおす。 「ええ、大丈夫ですとも」 ・ 4 大丈夫でしようか 242

10. 風塵抄 (中公文庫)

どうも私は以下の話が好きなようで、以前もどこかに書いたことがある。嗽石が登場す かれの生家は、牛込 ( いま新宿区 ) 喜久井町一番地で、夏目家は江戸期、代々このあたり の名主だった。 もっとも市街地ながら、嗽石の若いころは、まわりに田ンボが多かった。 ここで、子規が、登場する。伊予の松山から東京に出てきた正岡子規は、大学予備門で、 同級の漱石と親友になった。 都会と田舎 161