からあったそうだが、噺として完成するのは、江戸期であった。 江戸期は窮屈な社会だ「たから、金太郎の自由をうらやましがるところが作者たちにあ ったのにちがいなし そのくせ、作者たちは金太郎を浮世という不自由な社会に就職させるのである。このあ たりは、″仕官〃が大好きだった泰平の江戸期の気分をよく反映している。 いうまでもなく、金太郎は長じて坂田ノ金時 ( 公時 ) になる。金時は、二十一歳のときに しゅてんどう 都の武家の棟梁の源頼光に見出され、その四天王の一人にな「て、三十六歳のとき酒呑童 子退治に加わる。どの人生にもヤマ場があるように、かれにとって生涯の語り草であった。 しかし江戸期の人は、贅沢である。そこでめでたしめでたしにせず、頼光の没後、金太 とする。 郎はふたたび足柄山の自由の境産にもどし、あとは足跡がわからない、 い「たんは浮世のおもしろさと不自由さも味わわせ、晩年はもう一度山林の自由のなか 由にもどすのである。ただし、かれは生涯独身だった。 の 太さて、イメ 1 ジを大昔にさかのばらせる。 縄文の世、どの山や浜にも、金太郎のような人は無数にいて、山ではウサギやイノシシ あしがらやま らいこう 209
「正直こそ仏のモトである」 という意味のことが鎌倉期の民衆宗教家によってつかわれているから、日本語として七 百年以上の古さをもっていることがわかる。 正直は、いわば百姓ことばであった。しかしこのことばが存在したおかげで、明治後、 オネスティということばが入ってきたとき、びったりした対訳語として生かされたのであ ともかノ \ 、一止一旦とい、つことまは、、 月むずかしい儒教の徳目にはなかった。近代以前の中 国・朝鮮といった儒教国で、士大夫が民を治めるとき、かならずしも正直である必要はな かった。このことはアジアの前近代的な政治体質と無縁ではない。 れんちよく こ。、、しかし′私は正 日本でも、江戸期の役人には正直の近似語として廉直が要求されオカ 直者でございます〃というふうなことばは、幕府の老中や若年寄はつかわなかった。″民 直は由らしむべし、知らしむべからず〃 ( 『論語』 ) というのが江戸期のいわば憲法のようなも のであったから、為政者としては民に揉み手して″正直〃というような俗語や俗倫理に従 正 う必要がなかったのである。
世界は歴史の節目をむかえている。 日本もまた、明治以後のーーーあるいは戦後このかたのーーながい少年期を終えて、成熟 期に入ろうとしている。 ただし、成熟にはまだ馴れていない。 なにしろ成熟による内外の変化は、二千年来の私どもの先輩たちが一瞬も経験したこと のないほどのもので、アメリカからは叩かれるし、国内では″日本人は日本のコメを食え〃 たま と農民から言われつづけるし、このため総選挙までが、各党、民の魂なだめだけの呪文を引 となえつづけた。物ぐるいというほかない。 カセット人間 ふしめ じゅもん
正直ということばは、江戸期では商人や職人、あるいは下僕の美徳としてつかわれた。 ″正直者の権助〃とか″正直いちずのお松あん〃とか、″手前ども越後屋は正直たけを商法 にいたしておりますンで〃といったふうにである。 このいわば庶民の徳目が、江戸期の高度な商品経済のなかで大きく成長してゆくのだが、 おそらく西欧でも、商工業やプロテスタンティズムの興隆とともに″正直〃は上昇したの であろう。 いわば正直ということば・論理は、明冶後、欧米思想に接するにおよんで格が大いにあ がった。この事青は、友情ということばに似ている。友情は外来語の対訳として成立した 日本語で、明治後に成立したことばである。 明治二十二年、日本は立憲国家になった。立憲というのは、国家機関や政治家が正直で あることを基礎としている。事実、日露戦争終了までの明治期の為政者の正直度は、相当 な高さだったといってよく、でなければ明治の奇跡とよばれる時代は創りだせなかったに ちがいない。 われわれは旧憲法については国民を成立させてくれた恩がある。また、戦後憲法は個人 を創りだしてくれた。い まの憲法による日本国は個々の自覚の総和の上になりたっている 2 2
大丈夫とは、へんなコト。 ハである。 大丈夫というコト。 ハの先祖は、むろん大相撲の横綱のような体をもち、精神もしつかり した男子のことをいう。 ところが、江戸末期からこんにちの使い方が出てきて、明治期になると、圧倒的に多用 された。 明治期から多用されるようになったというのは、封建時代よりも近代のほうがはるかに 不安にみちているということである。 「このクルマ、大丈夫かね」 「わが社は大丈夫だろうか」 と、毎日、くりかえし問いあっている。 英語の「安全」というのはすこしちがう。たとえば、証券のセールスマンに顧客カ し で「君のすすめる株、大丈夫かね」 丈ときけば、たいていのセ 1 ルスマンは、は、、 大丈夫ですとも、と答える。 「安全かね」 243
父サンといい母サンという。神仏に対してさえ、おそれげもなくお伊勢さん、お稲荷さん、 観音さんであったし、いまもかわらない。 関東・東北や、全国の城下町では、折り目正しくサマを守る場合が多い。江戸期、大名、 旗本の屋敷をよぶのに、江戸のひとびとは、松平様、大岡様、南部様、細川様とよんでい たし、まして神仏に対してサンづけにすることはしなかった。浅草の観音様であり、お薬 せいしようこう 師様、清正公様と、まことに丁寧である。 時代劇などで、家臣が第三者に自分の主君のことをいうのに、 「殿サン」 といえば、締まらない。 ところが、戦国期、京ことばの影響のあった東限ともいうべき 三河 ( 愛知県東部 ) では、主君のことを京風に殿サンとよんでいたらしい 三河出身の牧野氏は、江戸期には越後 ( 新潟県 ) の長岡七万四千石の大名になる。私は ごかちゅう 『峠』という作品を書こうとしていたころ、この地の御家中 ( 藩士 ) ことばを採集した。こ のとき、御家中は三河風に″殿サン〃とよび、土地の農民や商人は土地の風によ「て″殿 サマ〃とよんでいたことを知った。忠誠心のつよさで有名な三河武士も、この点にかぎつ とと かか 128
様奥様というのは、本来、将軍にお目見得する資格をもつ者 ( 大名・旗本 ) の正夫人のこと であった。 様 が、江戸期ですでに崩れていて、京・大坂の町家でさえ鴻池クラスでは奥サンとよび、 サマはつかわない。 中以下の町家の場合は″御家サン〃だった。サンはハンでもい℃ てはチョク ( 安直 ) だったのである。 いまの東京式の丁寧語は、江戸期、山ノ手に住んでいた旗本たちのお屋敷ことばだった。 このため、いまも、東京のしかるべき層は″おとうさま・おかあさま〃というようにサマ を多用する。 サマは、よばれて気分がいも こんにち、ホテルのロビイでよびだされるとき、 「ナニナニさま、 、らっしゃいましたらお電話口まで」 といってくれる。もっとも、同じ人間が病人になって病院の待合室で待っているときは、 ″ナニナニさアん〃でもってひったてられてゆく。 おいえ こうのいけ 129
とあり、使用の事例は明治期に存在する。むろん江戸期にさかのぼるたろう。お侍さん が「そこの、ばばどの」といったり、大工の下職が「どこのばあさんだか知らないが、横 丁に犬がいるから気をつけなよ」などとよびかけたりしたはずである。 こういう日本語のあり方について、 「それは、儒教の影響でしよう。老人を尊敬するという儒教の倫理から出たことばにちが いありません」 という理屈もあるかもしれない。じつは、日本社会は、よくいわれるほどには儒教は入 っていない ( 私はむしろそれを日本歴史の幸いの一つだと思っている ) 。 ラオ 余談だが、中国では、老とか爺という内容は、最高価値におかれる。とくに爺は、清朝 のころ、皇帝に対して、たとえ幼帝であっても、 ホワンイエ 「皇爺」 と尊称した。日本では爺はオイボレとかジジイという語感で、尊敬の度合はほとんどな また儒教国だった韓国でも、老人に対しては、父に準ずるほどに敬意がはらわれる。老
君もその一人だが、頑固な紀州人たちはぞんざい = 一一口葉こそ親しみの表現だと思ってい 君があるとき、上役と酒を飲んでいるときに、私も居合わせた。夜もふけたので、 君が上役のほうへ顔をねじまげ、 「クルマ、よんでンか」 といった。上役がしぶしぶ立ちあがったのをみて、私は両方とも気の毒だとおもった。 江戸期、上質の日本語の習得のために、武士階級は謡曲をならい、大坂の町人階級は浄 瑠璃をならった。 各地の農村では、寺のことばづかいを学んだ。江戸期、人の移動に制約はあったが、寺 の小僧は住職になる修行のために京へゆき本山で学問をする。あわせて行儀とことばづか いを身につけ、村に帰る。それが、丁寧な日本語の普及に役立った。 せんば 〕っ明治・大正の大阪の船場の商家では、お茶やお花の師匠を京都からよんだ。娘たちにこ ととばの修業もさせるためであった。 江戸の旗本屋敷では、さらに厳格だった。
スマート 室町期の乱世にできあがった日本語である。当初は、スマ だじゃく 室町中期の国語辞書である『節用集』には「懦弱」とある。 江戸期に入ると、意味が深刻にな「た。とくに薩摩では、死に値するほどに深ま「た。 当時の薩摩人は、卑怯とよばれれば相手を殺すか、自分が死ぬしかなかった。 西郷は、政府をすて、故郷へ帰るにあたって、後事を大久保に押しつけた。 このとき大久保はたまりかね、言うべからざることばを吐いたのである。 「卑怯でござろう」 この難事を逃げるのか、という意味である。薩人が、薩人にとって、このことばが刃よ りもするどいことを大久保はよく知っている。 西郷は一貫してスマ 1 トだった。また自省心がつよく、かっ聡明な男だったから、内心 大久保のいう意味が理解できたはずであった。 それだけに、心の骨が挫かれた。でなければいよいよ自分を無用の人間だとおもったはち ずである。その後の西郷には、寂家感が深かった。 せきりよう ートでない、 という意味だっ