ところがこまったことに、そのことに反比例してたぎりたつように商品経済が活発にな ったのである。このため商船が大量に必要になり、いわゆる千石船という特異な江戸時代 型の船が登場した。 それらが日本列島沿岸という荒海を周航しつづけた。この船によって、二世紀半、江戸 時代の経済と文化がどれほど活性化したか、はかりしれない。 「あれ ( 千石船 ) は、危険な船だ」 といった人物がいた。嘉永六年 ( 一八五一一 l) 六月、江戸湾に押しこんできた米国艦隊のペ 丿ー司令長官である。 いわれるまでもなく、江戸時代の船乗りたちにとって千石船の危険さは百も承知の上だ 幕府によって多帆が禁じられているため、一枚の帆を大きく張って面積を大きくせざる をえなかったのである。 このため風圧が一枚の帆にかかり、勢い、方向転換のための梶 ( 舵 ) の面積を大きくせざ るをえない。梶面積が大きいと、水圧で梶がこわれやすい。梶がこわれると、当然難船す っ , 、 0 かじ 184
ようであった。 日本では、中央が地方に対し、どこか威張っている。運転手さんにわる気はないのだが、 つい日本文化の型が出てしまったということだろう。 私は入院患者になったことがない。 ただ、人を見舞ったり、つき添ったりして、医者の″威〃におそれ入ったことはある。 しかし、私が知っている研究医や勤務医は、みなすばらしい人たちで、風評一般のよう ではない。そのなかで、威張りの風評を肯定する人もいる。 「たしかに勤務医の何割かは威張っています。それに対し患者はおびえているんです。こ んなばかなことがあっていいものでしようか」 その人は、わが国の代表的な国立医療機関の長である。さらには、日本の医者の威張り の根っこには江戸時代の″御典医〃と″百姓〃の関係があります、ともその人はいった。 江戸時代、将軍や大名は、民間の医師 ( これは百姓身分だった ) から名医を吸いあげて、 奥御医師や御典医にした。百姓がそれらに診てもらおうと思えばよほどのツテがなければ ならず、しかもいざ診察となると、医師のほうは大名待遇もしくは士分で、患者との身分 おくお 174
についても″お不動さま〃であって、殿とはいわない。 いまでも役所では、市民個人を名ざすとき、えらそうに ( ? ) 殿をつかう。しかし日本一 般の風としては手紙のあてなに様をつかい、殿はつかわない。 つかえば不快がられること をたれもが知っている。 どこの市役所だったか、市民の氏名に殿をやめて様をつかうことにしたそうである。や っと役所も一般なみになりはじめたらしい 以下、敬称の話をしたい。 サンはサマから変化して、手軽になった敬称である。江戸以前から京・大坂で多用され てきた。 様 たとえば、江戸時代の京のひとびとは禁裏様などとはいわず、 と「ゴッサン ( 御所サン ) 」 とよんでいた。大坂の人たちも、秀吉をあれだけ好きなのに、太閤さまといわずに太閤 けいせいあわのなると サンであり、 いまもそうである。両親についても浄瑠璃の『傾城阿波鳴門』にあるように ふう 127
日日新ナリ 又日ニ新ナリ 新ということばが反復 ( リフレイン ) されていて、こころよ、 けんたい この詩句には近代の憂愁や倦怠がなく、湯王が勢いよく顔を一洗して、おれはきのうの おれではないぞ、さらに一洗して、きようはまたうまれかわったぞ、という素朴な明るさ にあふれている。 この話は、『大学』という本に出ている。 そうしん 孔子の遺言の書ともいわれる。門人の曽参が編んだものとされ、江戸時代では基本的な 教養の書であった。 とくに日新ということばが、江戸期の日本人は好きだった。 にしようじ たとえば、会津藩の有名な藩校が日新館であり、また近江仁正寺藩 ( 滋賀県日野町 ) や美 濃苗木藩の藩校も同名である。美濃高須藩の場合、日新堂だった。 電池にかぎりがあるように、生体にも組織にも衰死がある。 ひび また 284
くろてん 帝政ロシアの場合、日本の江戸時代、コサックたちが″走る宝石〃といわれた黒貂を追 つかけてシベリアをうばいつづけ、その土地をことごとく皇帝にささげた。黒貂をフラン スの貴婦人に売って国家経済がうるおう程度の経済規模の時代たったからこそ、当時はそ れでよかったのである。 ともかくも、ソ連も中国も大領土をかかえて大苦労をしている。それも双方、せいぜい 十七世紀以後の大版図なのである。 大版図を一元的に支配するなど、不可能だし、今日的でない。多様化しよう。 そうう 気分がソ連の一部にあるが、そうなれば四分五裂するというおそれがある。か といって一元主義をまもりつづけると、経済が鈍化し、国家が窮迫する。 中国も似たようなくるしみがある。なんだか滑稽で大時代なくるしみのようで、面積的 物小国からみれば、助言の仕様がない。 お ( 一九九一〈平成三〉年五月六日 ) 大 こんにち 30 )
むらさきのうえやくどし 『源氏物語』を持ちだすのもことごとしいが、主人公の妻の紫上が厄年で発病するくだ りがあるところをみると、あの時代から厄年があったらしい 石上堅氏の『日本民俗語大辞典』 ( 桜楓社 ) は、辞典ながら、本のようにして読める。そ の「厄」の項によると、男の厄は本来二十五歳の厄でおわりだったというのである。四十 二歳は厄でなくお祝いをしたものだという。めでたくも四十二まで生きた、ということだ ゝ 0 ろ、つカ めでたくもといえば、江戸時代の旗本や諸藩の家中では、四十代で隠居をした。 あとは息子と交替した。封建の世では人間の能力は、さほどに期待されず、それよりも 四十の関所 かちゅう
父サンといい母サンという。神仏に対してさえ、おそれげもなくお伊勢さん、お稲荷さん、 観音さんであったし、いまもかわらない。 関東・東北や、全国の城下町では、折り目正しくサマを守る場合が多い。江戸期、大名、 旗本の屋敷をよぶのに、江戸のひとびとは、松平様、大岡様、南部様、細川様とよんでい たし、まして神仏に対してサンづけにすることはしなかった。浅草の観音様であり、お薬 せいしようこう 師様、清正公様と、まことに丁寧である。 時代劇などで、家臣が第三者に自分の主君のことをいうのに、 「殿サン」 といえば、締まらない。 ところが、戦国期、京ことばの影響のあった東限ともいうべき 三河 ( 愛知県東部 ) では、主君のことを京風に殿サンとよんでいたらしい 三河出身の牧野氏は、江戸期には越後 ( 新潟県 ) の長岡七万四千石の大名になる。私は ごかちゅう 『峠』という作品を書こうとしていたころ、この地の御家中 ( 藩士 ) ことばを採集した。こ のとき、御家中は三河風に″殿サン〃とよび、土地の農民や商人は土地の風によ「て″殿 サマ〃とよんでいたことを知った。忠誠心のつよさで有名な三河武士も、この点にかぎつ とと かか 128
日本は、もともと姓 ( 苗字 ) の種類が多い。 名の種類のほうも多いのである。江戸時代はさほどでなか「たが、明治後ふえ、戦後も っとふえた。旧社会からの束縛がゆるむごとにふえたことになる。 日本の男の名の場合、ふつう漢字二個を自由に組みあわせれば作れるため、ほとんど無 制限かっ野放図に製造できる。 フランスでは、姓の種類がじつに多い。そのことについてフランス通の友田錫氏にきく 名前を考える せき 131
正直ということばは、江戸期では商人や職人、あるいは下僕の美徳としてつかわれた。 ″正直者の権助〃とか″正直いちずのお松あん〃とか、″手前ども越後屋は正直たけを商法 にいたしておりますンで〃といったふうにである。 このいわば庶民の徳目が、江戸期の高度な商品経済のなかで大きく成長してゆくのだが、 おそらく西欧でも、商工業やプロテスタンティズムの興隆とともに″正直〃は上昇したの であろう。 いわば正直ということば・論理は、明冶後、欧米思想に接するにおよんで格が大いにあ がった。この事青は、友情ということばに似ている。友情は外来語の対訳として成立した 日本語で、明治後に成立したことばである。 明治二十二年、日本は立憲国家になった。立憲というのは、国家機関や政治家が正直で あることを基礎としている。事実、日露戦争終了までの明治期の為政者の正直度は、相当 な高さだったといってよく、でなければ明治の奇跡とよばれる時代は創りだせなかったに ちがいない。 われわれは旧憲法については国民を成立させてくれた恩がある。また、戦後憲法は個人 を創りだしてくれた。い まの憲法による日本国は個々の自覚の総和の上になりたっている 2 2
そんな新幹線の従業員でも、開通のころは伝統の保持者がいて、私が新大阪駅の改札ロ ーーしし力ということを改札掛にきいたところ、かれ を通過したとき、どのフォ 1 ムにゆナま、、ゝ は氷のような表情で、あごをちょっと右にしやくっただけだった。 「むこうですか」 辞を低くしてもう一度きいた。 「うむ」 ともいわず、ふたたびあごをわずかにひいた。ほれぼれするような威張り方だった。 明治初年、国鉄の職員は官員様だった。なにしろ、軍人のようにサーベルを吊っていた そうで、士農工商でいえば士であり、民百姓どもに乗せてやるという態度だった。そうい しゅうえん ″文化ー。、 / カ国鉄の終焉まで一部にのこっていたのである。 ″企業文化〃というのは、その企業が誕生した時代の気分や精神が体質遺伝してゆくもの らし、 たとえば、日本航空は戦後誕生した。おかげで、搭乗しさえすればたれもが紳士・淑女 として遇せられたし、いまもそうである。おなじ客が旧国鉄の改札口を通ると、江戸時代 たみ 172