くりかえす わが国もわが国民も、概していえば実直であることについてのべてきた。実直には多少 とも倫理的成分をふくんでいて、その意味において誇るべく尊ぶべきだということも。 ただ、実直の弱味はときに虚喝にしてやられることである。そのことについても、昭和 前期の軍部の例をあげてふれた。 「お前さんは、実直だねえ」 と、大家さんがいう。 在りよ、つを一一 = ロえは同山椒魚 おおや
集団の利害など二律背反するエネルギーが入っているのである。その当事者は神の代理者 にも悪魔の代理者にもなれる。 ことばからして、おそろしい 英語の辞書をひくと、政治にはいくつかのことばがあるようで、ふつうポリティクスで ある。 もとの言葉はいうまでもなくボリティックで、「賢明な」という意味と、「ずるい」とい う意味をあわせ持っている。 だから、ポリティクス ( 政治 ) という単語はリンカーンの有名な「人民の、人民による、 人民のための政治」というたかだかとした理念をのべる場合には使いにくいらしく、この 場合の政冶は、ガヴァメントになる。もしポリティクスという単語を使えば、せつかくの 名句も「派閥感情の、派閥感情による、派閥感情のための政治」という意味にもなりかね 相 一目よ、 0 国 本 日 近代日本の政治史上の大人物のひとりに伊藤博文 ( 一八四一 ~ 一九〇九 ) がいる。
と、わざわざ大統領が、外国特派員たちをよんで発表する国も、南半球にあった。世界 はまことに同質ではない。 アジアでは、ときに国家の外交行為でも、 ハガジ〃がおこなわれる場合もある。 ハガジ〃とは、朝鮮語である。ヒョウタンの一種で、乾燥させて米や豆を容れる容器に なったり、ヒシャクとしてつかわれたりする。仮面劇のお面も、。ハガジでつくられる。転 じて別の意味にもなる。毛ほどの損害を電柱ほどに誇張して、「一億円出せ」という場合 しにもっかわれるのである。意味は、吹っかける。実直とは、正反対の意味といってい ヒ日 ノカジだな ) 物 ( あの外交は、ヾ。 テレビの視聴者として、感無量の思いで見ていた外交交渉があった。 え 言幸いにも、テレビの画面のなかの日本側の代表者は、ひたすらに″実直〃を通した。 そんな場合、ふつう実直な側は、芝居の白浪物の弁天小僧の場面のおどされる側のお店 よ の手代じみていて、みじめなものである。 在 が、この場合の日本側の外務省の代表者は、実直という古風な実質のなかに、勇気と正 しらなみ たな 101
坂本龍馬は、若いころ、平井収二郎という先輩の郷士の妹加尾さんに簡潔な恋文を書い 兄の収二郎は、にがりきって、 「龍馬は、学問がないキニ」 しまの学問の意味ではない。 と、妹にいった。江戸時代でいう学問とは、、 ど、フがく 道学 ( 朱子学 ) のことだ「た。だから収二郎のいう意味は、″龍馬の思考法は朱子学的 はそく ルールどおりではないから捕捉しがたい。だから相手にするな〃と解してい 0 番桃只 かお 740
/ 学館の『日本国語大辞 泡を食うほうの″入れこむ〃は軍隊方言だから辞書にはない。 典』のその項をひくと、「いれこみ」という名詞は、ま「たく別の意味である。 、つなぎや 大正時代の鰻屋などは、土間から畳敷きにな「ていた。客を、老若男女見さかいなしに 入れる。つまり入れこむ。 「あの店は入れこみでね。話も何もできなかったよ」 当然ながら、熱中するという意味ではない。 「このキノコ、たべれますか」 も、気になる。むろん、正しくは、たべられますか。 さらに入念にいうと、たべることができますか。それを、「たべれますか」といわれる しな い・かに「も口叩一「「・か「 近「あのう、このキップで、お芝居のほうも、観れますか」 の「みれます」 本なにやら浅はかではないか。 日 243
化粧というほどの語感でリべラルをつかった。 昭和八年に『三田文学』に連載されはじめた石坂洋次郎の『若い人』では、リべラリズ ムは負の意味で用いられていて、わかりやすい。進歩的でありつつも「煮え切らない」思 想的態度をさす。 戦後、リべラルは日本ではプラスの意味でつかわれてきた。 ただし、この語は、本質的には旦那衆の側の美徳である。 たとえば、昔の地主で、小作人の立場がよくわかる人を、あの人はリべラルだ、という。 「リべラルな小作人」 とい、つ使い ~ 刀は、ことばとしておかしい 丿ーダムを叫ぶべき 小作人は、リ。ハテイかフー = ロなのである。 日 卑俗な例でいうと、年頃の娘が朝帰りした。父親としては大目玉を食らわすべきだが、 ″リべラルな父親〃を演出する場合、 由「二十をすぎたんだから、自分に責任をもたないとね」 いったりする。 293
河野は、自由という言葉に灼熱したものを感じつつも、その意味が十分にはわからなか ったと正直に述懐している。 以後、日本語では自由という語は、自由という訳一つでやってきた。 ーダムは精神的要素がつよく、リバティは政 しうと、おなじ自由がもっフリ 辞書ふうに、 圧政をはねかえして自由を得るほうの自由は、リバティが 治的なひびきがつよいという。 多くつかわれるそうである。 自由にちなむ語は、もう一つある。 「リべラル」 で、これには訳語さえない。 多分に政治的なことばながら、明治の政界では使われた形跡がない。 むしろ文学の分野でつかわれた。たとえば、森外が『青年』のなかで、「自然主義を お座敷向きにしようとするリべラルな流儀」と書いている。自然主義というのは、当時の 文学形態である。その粗野な露悪趣味を上品に見せかけるという意味で、鵐外はいわばお しやくねっ 292
政治家のロぐせといえば、竹下登元首相の場合は、 しゆくしゆく 「粛々と」 らいさんよう という古風な一言葉を復活させた。あるいは頼山陽の詩からきているのかもしれない。上 むち ちくま 杉謙信の大軍が夜陰千曲川をわたる。全軍無言で、一糸みだれず、ただ鞭の音のみが粛々 にこめられているのであ ときこえる。実行ということの重みが、粛々という擬声語 ( ? ) ついでながら粛々は単に擬声語でなく、うやうやしくかしこむ、という意味も入ってい こわだか 竹下さんは、このことばを、世上の雑音にわずらわされずに必要なことを声高でなくひ たすらにやるという意味につかった。 他の政治家も、ときにつかう。 近英語を日常語としている国連の明石康さんまでが、カンボジアで、国連管理の選挙をや の ったとき、″粛々とやります〃というふうに感染していたのが、なにやらおもしろかった。 語 本これも、政治の世界では、重宝な方言なのかもしれない。 ( 一九九四〈平成六〉年十一月七日 ) 24 )
しかし身につかず、あきらめて山を降りた。その間、わずか十日だったのに、里では十 数年も経っていた。 「壺中の天」 とい、つことばはこの故事からおこった。 自分だけの理想郷というすばらしく肯定的な意味と、きわめて狭小で手前勝手の見解と う否定的な意味とをあわせ持っている。 日本国は、国家そのものが壺中の天になりはてたことがある。 明治・大正の日本は、壺中の天ではなかった。 昭和になって、国ぐるみ壺の中に入った。三権分立の近代憲法をもちながら、昭和初年、 とうすいけん ″三権のほかに統帥権がある〃という解釈がのさばり、あわれな有害憲法になった。統帥 権とは、軍に無限の権能をあたえるものであった。 天ついには、太平洋戦争をひきおこした。 中″統帥権〃の時代は、あの時代だけに限られた限定事象である。そんな条件がない以上 ( 今後もありえない、 ) 二度とあんな時代はやって来ない。 こちゅ、つ さと
ちかごろ、話されている日本語についての感想二、三。 耳にさわるのは、 「入れこむ」 という動詞である。テレビの画面でよく使われる。たとえば、「最近、釣りに入れこん でいます」というふうに、である。熱中する、という意味らしい。おそらく、 「入れあげる」 の誤用かとも思われる。入れあげるは、主として遊廓があ「たころの言葉で、なけなし のカネをその女郎ひとすじにつぎこむことをいう動詞だ「た。 Ⅲ日本語の最近 241